CD 輸入盤

ベンノ・モイセイヴィチ/ライヴ録音集1946〜1961(3CD)

基本情報

ジャンル
:
カタログNo
:
SBT31509
組み枚数
:
3
レーベル
:
:
Europe
フォーマット
:
CD
その他
:
輸入盤

商品説明


モイセイヴィチ/ライヴ録音集1946〜1961(3CD)
世界初出!
20世紀のピアニストの再評価の機運が高まる中、
最重要なピアニストのひとり、モイセイヴィチの戦後の活動をまとめた録音集の登場。
無口で知られたピアニストの肉声が聞けるインタビュー付き!


20世紀のピアニストの潮流を俯瞰しようとする時代に続き、昨今では、個々のピアニストを深く探求しようとする機運が高まっています。そんな中、モイセイヴィチは避けて通れない最重要なピアニストであることは間違いありません。非常に無口で物静かであったと伝えられていますが、ピアニストとしての活動は多忙を極め、特にツアー活動を精力的に行っています。しかしながら、現存するライヴ録音は非常に少なく、残されているものはどれも大変貴重です。このリリースでも、1950年代の録音のテープの一部は、ピアノ音楽の愛好家であった一般庶民が音楽学者に託し、保存されていたものがソースとして使われています。ウクライナ生まれのモイセイヴィチですが、戦時中は英国での慰問演奏などにも大いに貢献し、チャーチル一族とも親交があり、イギリス国内での人気は大変なものだったそうです。テープの由来も、こうした人気を裏付けるものです。
 そうした人気もあり、モイセイヴィチは度々ラジオやテレビのインタビュー番組に出演していますが、ディスク3はそれらで現存するものを集めています。無口で真面目ながらも、愉快な質問を切り抜ける様に加え、ショパンのバラード第3番のライヴ録音も含まれ、偉大なピアニストの人となりまでを今に伝える貴重な録音遺産です。(TESTAMENT)

【収録情報】
Disc1 [80:34]
1. ベートーヴェン:ピアノ・ソナタ第21番ハ長調 op.53『ワルトシュタイン』
2. ベートーヴェン:アンダンテ・ファヴォリ ヘ長調 WoO57
3. シューマン:クライスレリアーナ op.16
4. ムソルグスキー:展覧会の絵

 録音時期:1958年8月18日(1,2)、1961年6月26日(3,4)

Disc2 [59:21]
1. ベートーヴェン:ピアノ協奏曲第5番変ホ長調 op.73『皇帝』
2. ラフマニノフ:パガニーニの主題による狂詩曲 op.43

 ヨーゼフ・クリップス指揮、ニューヨーク・スタジアム交響楽団(1)
 サー・エードリアン・ボールト指揮、BBC交響楽団(2)
 録音時期:1961年7月19日(1)、1946年9月14日(2)

Disc3 [79:56]
1. モイセイヴィチのインタビュー
2. ショパン:バラード第3番変イ長調 op.47

 録音時期:1950年代末〜60年代初頭(1)1958年9月11日(2)

 ベンノ・モイセイヴィチ(ピアノ)

 録音方式:モノラル(ライヴ)
【モイセイヴィチ】
「ベンノ・モイセイヴィチ[1890-1963]がオデッサの王立音楽学校でドミトリ・クリモフによる最初のピアノ・レッスンを受けたのは7歳の時のことであった。わずか2年後、アントン・ルビンシテイン賞を受賞。15歳になるまでに、モイセイヴィチはすでに優秀なピアニストであった。ロンドンの王立音楽院では誰も彼に教えることはできないと明言され、テオドール・レシェティツキ[1830-1915]に師事するためウィーンを訪れる。1908年、リーディングでの公式デビューの14か月後、モイセイヴィチはロンドンのベヒシュタイン・ホール(現在のウィグモア・ホール)でデビューを果たす。
モイセイヴィチのアメリカ・デビューは、1919年、ニューヨークのカーネギー・ホールでのことである。すぐにアメリカでも絶大な人気を獲得する。1926〜27年シーズン中、ピアニストであり作家でもあるアブラム・チャジンズは友人であるヨーゼフ・ホフマンにこう言ったと伝えられている。「私は君の後継者を見つけた!」これに対しホフマンは「ああ、君はモイセイヴィチを聴いてきたのだね? ロマン派の伝統を受け継いだ、天性のピアニストだ。」と答えたと言う。モイセイヴィチは第二次世界大戦の前に英国の市民権を得て、二度とロシアには戻らなかった。その英国で非常に人気の高いピアニストであった。生涯、コンスタントにツアーをこなし、アメリカには最低でも20回は訪れている。極東は3回、南米は4回、オーストリアとニュージーランドには6回のツアー記録がある。第二次大戦中には、南アフリカにもツアーで訪れるなど、精力的な活動を続け、チャーチル夫人のロシア基金援助のためにも貢献し、イギリス国内ではなんと800回にものぼるコンサートをこなした。
レシェティツキの優秀な弟子として、20世紀最高のピアニストとして、モイセイヴィチは音質の美しさ、正確無比なテクニック、そして慎み深いステージ・マナーと人格を備えていた。19世紀のロシア音楽を得意としつつ、ショパン、シューマン、ラフマニノフのスペシャリストとしても知られていた。モイセイヴィチはラフマニノフに心酔しており、この作曲家の親友でもあった。
長い演奏キャリアにおいて、モイセイヴィチは100回近くもロンドンでのプロムスに参加している。最初の出演は1914年のことで、1908年に出版されたエルネスト・シェリングの幻想組曲にソリストとして参加した。セルゲイ・ラフマニノフは1934年にパガニーニの主題による狂詩曲を書いた。翌年には友人でもあったモイセイヴィチはヘンリー・ウッドと共にプロムスでこの曲を演奏している。この作品は瞬く間に名声を得たため、モイセイヴィチはその後6年にわたり同曲を乞われて演奏し続けることとなる。
モイセイヴィチは戦時中の貢献が認められ、1946年にはCBE賞を受賞した。戦争が終わったからといって、彼の仕事量もタイトなツアー・スケジュールも軽減されることはなかった。1946年9月ひと月の間にイギリス国内で7回のコンサートを行い、うちひとつはBBCライヴ放送(10日)でのショパンであり、このリサイタルを挟むコンサートでもすべて異なる協奏曲作品〜ベートーヴェンの第3番(1日)を王立ウィンドソール劇場で、『皇帝』(6日)とパガニーニの主題による狂詩曲(13日)をアルバート・ホールで、といった具合であった。それから、カール・ランクルとチャイコフスキーのピアノ協奏曲第1番を演奏するためにブラックプールに移り、セントラル・ホールでシューマンの協奏曲を演奏するためにロンドンに戻り、その2日後にはエディンバラでラフマニノフの協奏曲第2番のコンサートを行った。1週間経たないうちにトーキーでラフマニノフの第3番を演奏している。この盤に収録されているのは9月14日のプロムスを放送したもので、ほんの数点しか残っていない貴重なモイセイヴィチのライヴ演奏のうちのひとつである。この演奏では、非常にコンディションが良く、繊細な表現力をもってスリリングな演奏を聴くことができる。第5変奏でのダイナミクスの変化、第7変奏での明確な内声部、第10変奏でのディレス・イレの引用部でのオクターヴ下の強調、第12変奏直前でのオクターヴ音の追加とエコー効果。第15変奏では、しばしばピアニストは顔面蒼白となるが、モイセイヴィチは易々とそれでいて能弁に弾ききっており、すべての音符をまとめ上げるために過度にアクセントをつけて強くテンポを刻む必要性から解放されている。第19変奏の終わりのところでの右手の少々大げさなアクションも、聴衆を楽しませるためであろう。ソリストと指揮者の信頼関係も厚く〜モイセイヴィチとボールトは戦時中にボールトの手兵BBC交響楽団と数多くの共演を行っている〜これ以前には、1936年3月にも同曲を放送している。
ルイソン・スタジアムは1915年、運動競技のために建設され、ポピュラー・ミュージックでもクラシック音楽でもコンサートに使われていた。8000人収容の野外劇場なので、アコースティックのクラシック・コンサートには少々不適切と言わざるを得ない。モイセイヴィチはこのスタジアムに1958年に初めて出演した。1961年の夏、ベートーヴェン・フェスティヴァルの3つのコンサートがこのスタジアムで開催された。ヨーゼフ・クリップス指揮のスタジアム交響楽団によるコンサートであったが、この交響楽団は実質的にニューヨーク・フィルハーモニー管弦楽団である。7月18日のコンサート初日、交響曲第7番とマイケル・レビンがソリストを務めヴァイオリン協奏曲が演奏された。翌日、モイセイヴィチによる『皇帝』が交響曲第4番と第5番の間に演奏され、最終日に第3番と第9番の交響曲が演奏された。ニューヨーク・タイムズ紙のアラン・リッチはコンサート評を現在では聞きなれた文脈で始めている。「交響楽団とその聴衆の現在と未来に悲観的な憶測がある。しかしながら、偉大な音楽家たちの手に偉大な音楽が保持されているという事実は、未だ強力な切り札なのだ。」確かに、このコンサートは9500人のもの聴衆を巨大なスタジアムに集めたのだ。リッチはこう続けている。「演奏は間違いなく超絶的であったが、それは英雄的というよりは、詩的で思慮深いものであったと言うべきであろう。」この時71歳のピアニストは、確かに幾分スケール・ダウンしていたが、生涯の演奏経験から得られた知恵をもってうまく体力を温存し、その結果、より透明性の高いスタイルに昇華させている。この後、モイセイヴィチは同様な大型スタジアム、ハリウッド・ボールでの演奏のため西海岸を訪れ、同じく成功させている。
1940年から50年にかけて頻繁に行われたにも関わらず、モイセイヴィチのソロ演奏のBBC放送音源はほとんど残っていない。1951年の秋に行われた4回で行われたシューマンのシリーズもその一環だった。この盤で初登場となるテープはパーシー・グレインジャーを研究しているジョン・バードにより保存されていたものである。彼は、1960年代半ばにバーミンガム北部のブラウンヒルズで、あるバス運転士からこのテープを受け取ったのだそうだ。この運転士もまたモイセイヴィチや他のピアニスト(イグナーツ・フリードマンやアルフレッド・コルトー)の芸術に情熱と愛情を持っていた。
1958年に放送された『ワルトシュタイン』と元々このソナタの緩徐楽章として書かれた『アンダンテ・ファヴォリ』の2曲は、モイセイヴィチのベートーヴェン解釈の特徴をすべて含んでいると言っていい。丸い音色、誠実な表現、粗野な部分が微塵もなく明確に構造が提示される。お気に入りだったシューマンの『クライスレリアーナ』では、完璧な技巧に基づきつつも、作曲家の感情の移ろいの波と戯れるかのような演奏が聴ける。
しばしば、モイセイヴィチは非常に内向的な性格だったと評される。しかしそれは、口数の少ない上品さというべきものであり、自意識過剰の内気さとは異質なものである。多くの報道機関にインタビューを残しているし、ラジオでのライヴ・インタビューを嫌悪するようなこともなかった。WKCRは元々、コロンビア大学の学生によるラジオ局で、1941年にニューヨーク界隈で放送が開始された。番組編成はクラシック音楽と大学の講義が中心だった。インタビュアーは誰だか判らないのだが、非常に学識に富んでいてモイセイヴィチをスタジオに迎えることを心から喜んでいる。最もシリアスな音楽家、ヤッシャ・ハイフェッツがヴァイオリン以外の楽器を練習する愉快な話題では、モイセイヴィチ持前の冷静沈着さが試された。しかしながら、彼は疑心暗鬼も笑い声も抑制し、平静を保ち、見事にこの難局を乗り切っている。ラフマニノフのパガニーニ狂詩曲を演奏する際へのアドヴァイスではピアニストでもある作曲家が陥り易い欠点を明らかにしつつ、2人の親しい関係性にも言及している。
モイセイヴィチが残した唯一のテレビ・インタビューを切り盛りしているのはジョン・フリーマン(2014年12
月に99歳で死去)である。1963年のこのインタビューは、モイセイヴィチの死の2か月前のもので「プロファイル・イン・ミュージック」という番組の一部である。フリードマンは「フェイス・トゥ・フェイス(1959〜1962)」という当時の有名人との緊張感溢れるインタビューがメインの番組のプロデュースで有名であった。インタビューでは回答する側の顔が大写しにされ、フリードマンの顔は一切出ないといった手法が好んで使われた。音楽と演劇の評論家であるフィリップ・ホープ=ウォレス[1911-1979]がやや覇気なく「ミスター・モイシーヴィチ」と語り掛けているし、最初の質問はリハーサルがあったようだが、それでもなお番組自体は興味深い緊張感溢れるインタビューに仕上がっている。
ジャック・ペインは1930年代、有名なダンス・バンドのリーダーであり、サヴェージ・クラブの特別会員でもあった。1950年代半ばにはラジオからテレビへと活躍の場を移し、口達者で演出上手な手腕で長いキャリアを誇った。テレビ放送の音声部分だけが残っているのだが、ショパンのバラード変イ長調のソロ・ライヴとモイセイヴィチの感動的なチャーチル家への貢献についての証言を今に伝えている。」
c 2015 Jonathan Summers(TESTAMENT)

ユーザーレビュー

総合評価

☆
☆
☆
☆
☆

0.0

★
★
★
★
★
 
0
★
★
★
★
☆
 
0
★
★
★
☆
☆
 
0
★
★
☆
☆
☆
 
0
★
☆
☆
☆
☆
 
0

ピアノ作品集に関連するトピックス

器楽曲 に関連する商品情報

おすすめの商品