CD 輸入盤

レジェンダリー・ピアニスト〜サムイル・フェインベルクの芸術(9CD)

基本情報

ジャンル
:
カタログNo
:
AN203
組み枚数
:
9
レーベル
:
:
International
フォーマット
:
CD
その他
:
輸入盤

商品説明


サムイル・フェインベルクの芸術(9CD)

ヒストリカル・レーベル「アルス・ノヴァ(Ars Nova)」から、ロシアの大御所ピアニスト、サムイル・フェインベルクのセットが登場。多彩な表現力を駆使した「平均律クラヴィーア曲集」全曲録音をはじめ、魅力的な録音が多いにも関わらず現役盤が少ないので、ロシア・ピアノ好きには注目のリリースです。

 モスクワ音楽院ピアノ学部、第4の流派をつくりあげたフェインベルク

 モスクワ音楽院ピアノ学部の流派は4つあると言われ、以下の4人が、それぞれの始祖として知られています。

●イグムノフ[1873-1948] モスクワ音楽院在籍期間:1899-1948(49年間)
●ゴリデンヴェイゼル[1875-1961] モスクワ音楽院在籍期間:1906-1961(55年間)
●ネイガウス[1888-1964] モスクワ音楽院在籍期間:1922-1964(39年間)
●フェインベルク[1890-1962] モスクワ音楽院在籍期間:1922-1962(40年間)

 フェインベルクは28番教室で、同世代のネイガウスは29番教室と隣同士でしたが、2人は対照的な存在でもありました。
 ネイガウスは1933年の重度のジフテリア罹患以降、右手の2本の指に麻痺が残り、以後はそれをカバーしながら演奏するという状態だったため、音楽を植物や何かにたとえる話が主体となって、その「お話」が却って人気が出ることにも繋がっていました。
 一方、フェインベルクは日頃から「芸術とスキルは切り離せない」と語っており、実際に晩年まで技巧があまり落ちなかったため、作品解釈をその都度徹底的におこない、バッハではしばしばノンレガート奏法を用いたり、装飾音の運用や、過度なまでの繊細さにも配慮するなど、さまざまな表現を自らの演奏で示すことが可能でした。
 ちなみにフェインベルクは、14歳でモスクワのフィルハーモニー協会付属学園に入学し、ゴリデンヴェイゼルの指導を受けるようになっていたので、通算57年間の付き合いだったことになります。ゴリデンヴェイゼルは、フェインベルクと初対面の日の日記に、その天才ぶりに驚いたことを記しています。


 超絶記憶力の持ち主、フェインベルク

頭脳明晰で知られたフェインベルクは、超人的な記憶力の持ち主でもあり、膨大な数の作品を、教室でも演奏会場でもすぐに弾くことができる状態になっていたほか、ワーグナーが大好きで、「パルジファル」「トリスタンとイゾルデ」「マイスタージンガー」などのピアノ版ヴォーカル・スコアをすべて記憶しており、弾きながら一人で何役も歌ってしまうという離れ業も披露していました。もしかするとトスカニーニと同じく「映像記憶」の天才だったのかもしれません。


 演奏家フェインベルク

演奏家としてのフェインベルクは、バッハの平均律クラヴィーア曲集をロシアで最初に全曲演奏してレコーディングもおこなったことでも知られており、ベートーヴェンの32曲のソナタについても好んで演奏、さらに作曲者本人からも高く評価されていたスクリャービンの作品も得意としていました。


 作曲家フェインベルク

本格的な作曲家でもあるフェインベルクは、スクリャービンの流れを汲む12のピアノ・ソナタや3つのピアノ協奏曲のほか、モダニズムから社会主義リアリズムに至るまでけっこうな量の作品も出版しています。


 著述家フェインベルク

 また、フェインベルクは、著述家としても有名で、大著「芸術としてのピアニズム」と、「音楽形式の宿命」によって高い評価も獲得しています。
 本業が教育者だったため、遺された音源は少ないですが、幸いなことに、他の都市に較べて録音機材と技術に恵まれていたモスクワで収録されているため、古いものでも聴きやすいのが朗報です。


 フェインベルクのモスクワ音楽院教授就任(1922)と主任教授任命(1936)の背景

1922年秋、フェインベルクのほか、ゲンリヒ・ネイガウス[1888-1964]と、彼の叔父フェリクス・ブルーメンフェリド[1863-1931]などがモスクワ音楽院教授に就任。
 直前の6月には、レーニンが反政府知識人の大量追放を指令し、数万人を強制収容所などに送致していたので、ロシア帝国時代の知識人を1人でも多く国の力として残したかったルナチャルスキー大臣も懸命でした。
 この年は正式に「ソ連」が国家として成立した年ということで、1917年から初代教育人民委員(≒文部大臣)の任に就いていたアナトリー・ルナチャルスキー[1875-1933]は多くの施策に手を付けており、モスクワ音楽院の人事刷新もそのひとつだったと考えられます。


 まずモスクワ音楽院では、ロシア帝国時代から16年間に渡って院長を務めていた作曲家のイッポリトフ=イワノフを解任し、代わってピアノ科教授のゴリデンヴェイゼルが院長に就任。、、  しかし、1929年にスターリンによってルナチャルスキーが大臣職を解任され、アンドレイ・ブブノフ[1884-1938]が後任になると、ボレスワフ・プシビシェフスキ[1892-1937]という人物がモスクワ音楽院院長に就任して事情が変わってきます。
 プシビシェフスキの父は、画家ムンクの友人で、絵の中に彼等の三角関係が描かれていることでも知られるポーランド人劇作家で詩人のスタニスワフ・プシビシェフスキ[1868-1927]。
 ボレスワフは、父がベルリンでマルタ・フェルダーともうけた3人の婚外子のうちの第1子。1896年、ボレスワフが4歳の時に母マルタが死去し、その3年前の1893年にムンクの絵「マドンナ」でおなじみのノルウェー女性ピアニストのダグニーと結婚して子供をもうけていた父スタニスワフが疑われて逮捕されるものの、死因が一酸化炭素中毒ということで自殺と断定され釈放。3人の子供は父方の祖母に引き取られています。
 その3年後の1899年、父スタニスワフはすでにダグニーと別居しており、ワルシャワで劇作家の妻ヤドヴィガに請われて不倫同棲を開始、同時に画家のアニエラとも不倫して子供をもうけるなどお盛んでしたが、ダグニーの方もスタニスワフとの間にできた2人の子供をノルウェーの両親に預けて複数の相手と交際するなどし、1901年、33歳のときに愛人による無理心中(拳銃)で殺されています。
 祖母のおかげでこうした荒れた環境とは無縁に育ったボレスワフは、ワルシャワ音楽院に進学。卒業すると間もなく第1次大戦が開戦し、プロイセン国籍のままだったボレスワフは、ロシア南部オルスクの収容所に送られて4年間を過ごし、戦後、元オルスク市長の娘と同地で結婚。
 翌1919年にはポーランド・ソビエト戦争が始まったため、ソビエト側でいたかったボレスワフは、1920年、モスクワに移って共産党に入党。教育関係の部署で働いて頭角をあらわし、やがて教育人民委員会の音楽部門責任者に就任。ほどなく、ルナチャルスキー大臣の解任を受けて、モスクワ音楽院の院長に任命されています。
 新院長ボレスワフ・プシビシェフスキは政府に従って改革に乗り出し、「ロシア・プロレタリア音楽家同盟」(ソ連作曲家同盟の前身)の方針に基づき、モスクワ音楽院のプロレタリア化に着手。新規入学者は労働者と農民の子のみとし、学校の名前も「フェリクス・コン高等音楽学校」と改名(フェリクス・コン[1864-1941]は、ポーランド出身ユダヤ人で、教育人民委員会の博物館部門のベテラン責任者でボレスワフにとっての恩人)。
 しかし、ボレスワフが従った「ロシア・プロレタリア音楽家同盟」と、モスクワ音楽院の多くの教授陣との関係は元々あまり良いとは言えない状態で、カリキュラムが変更され、音楽と関係の無い社会や経済の教育などが増やされると、辞任する者まであらわれ、また、生徒たちの演奏水準もどんどん落ちて行ったので、モスクワ音楽院プロレタリア化計画はやがて中止となり、プシビシェフスキも1932年2月に解任されています。
 翌1933年、プシビシェフスキは同性愛で告発。バルト海運河建設現場での長期重労働が課せられ、3年後に戻った時には、スターリン/エジョフによる「大粛清」が始まっていました。「大粛清」の目玉でもあった「ポーランド作戦」も開始されていて、ポーランド人の名前を持つプシビシェフスキは、翌1937年、スパイ行為とテロ行為の容疑で逮捕され、まもなく処刑されています(虚偽の罪状だったので1956年に名誉回復)。


 プシビシェフスキの後任は、教育学の専門家であるスタニスラフ・シャツキー[1878-1934]で、ゴリデンヴェイゼルと協力してモスクワ音楽院付属中央音楽学校に幼児部門も設けるなどしましたが、任期2年目の1934年10月に56歳で急死。
 後任はすぐには見つからなかったため、翌1935年から、ネイガウスがピアノ科教授と兼務で院長を引き受け、これをシャツキーの妻で、1932年からモスクワ音楽院の音楽教育部門の責任者を務めていたヴァレンチーナ・シャツカヤ[1882-1978]がサポート。
 その間、1936年にはフェインベルクがピアノ科主任教授に任命。1937年からはシャツカヤが院長となり、ネイガウスは教授活動に専念。そして1939年には再びゴリデンヴェイゼルが院長となり、1941年には開戦による音楽院の疎開という大仕事もこなしていますが、1942年には「ソ連作曲家同盟」の支部である「モスクワ作曲家同盟」の議長を務めたシェバリーンが院長に就任しています。
 こうした一連の流れで見えてくるのは、結果はともかく、政府の方針に従った「共産党員」のプシビシェフスキが失脚し、政府に少し批判的だったにも関わらずネイガウスが重用されたという事実で、これによりネイガウスの「軽口」が増えてしまい、1941年の逮捕に繋がったとも考えられます。


年表
1890年
(0歳)

●5月26日、サムイル・エヴゲニエヴィチ・フェインベルク、ロシア帝国ウクライナ地方の港湾都市オデッサで、エヴゲーニ・イリイチ・フェインベルクとアンナ・アキモヴナ・フェインベルク(旧姓ラビノヴィチ)の第2子として誕生(第1子は1888年生まれの長女ベラ、第3子は1896年生まれの次男レオニード)。父はオデッサ大学で法律を学び、母はフランス語、ドイツ語に通じた人物で、共にユダヤ系。

1891年(0〜1歳)

◆ロシア帝国で飢饉発生。

1892年(1〜2歳)

◆ロシア帝国で飢饉発生。

1893年(2〜3歳)


1894年(3〜4歳)

●フェインベルク家、モスクワに転居。姉ベラのために購入したピアノが、サムイルを刺激し、姉ベラと共にソフィア・アブラモヴナ・グレヴィチにピアノを習うようになります。

1895年(4〜5歳)

●フェインベルクに絶対音感が備わっていることを、教師のソフィア・アブラモヴナ・グレヴィチが確認。

1896年(5〜6歳)


1897年(6〜7歳)

◆ロシア帝国で飢饉発生。

1898年(7〜8歳)

◆ロシア帝国で飢饉発生。

1899年(8〜9歳)


1900年(9〜10歳)

●フェインベルク、両親からもピアノの能力を認められ、アレクサンドル・フェドロヴィチ・イェンセンに師事するようになります。イェンセンは、バッハやハイドン、モーツァルト、ベートーヴェンなどドイツ・オーストリアのレパートリーを中心に指導。やがてフェインベルクは、即興演奏にも実力を発揮、長時間に及ぶ演奏を繰り返すうち、作曲にも興味を持つようになります。

1901年(10〜11歳)

◆ロシア帝国で飢饉発生。
●フェインベルク、初めて作曲。

1902年(11〜12歳)


1903年(12〜13歳)


1904年(13〜14歳)

●フェインベルク、モスクワのフィルハーモニー協会付属学園に入学。師のイェンセンの紹介で、高名なピアノ教師、ゴリデンヴェイゼルの指導を受けるようになります。ゴリデンヴェイゼルは日記に、フェインベルクの天才ぶりに驚いたことを記しています。
 アレクサンドル・ボリソヴィチ・ゴリデンヴェイゼル[1875-1961]は、のちにモスクワ音楽院の教授となり、ニコラーエワやベルマンの師として知られるようになりますが、この頃はまだ若く、ロシア帝国第2の都市モスクワで、フィルハーモニー協会所属のピアニストとして活動する一方、同協会付属学園の教師としても働いていました。



1905年(14〜15歳)

◆1月、ロシア帝国首都サンクトペテルブルクで「血の日曜日事件」発生。ロシア第一革命へ発展。


◆ロシア帝国で飢饉発生。

1906年(15〜16歳)

◆ロシア帝国で飢饉、農村部中心に人口の約22%が飢餓状態に。

1907年(16〜17歳)

◆ロシア帝国で飢饉発生。

1908年(17〜18歳)

◆ロシア帝国で飢饉発生。

1909年(18〜19歳)


1910年(19〜20歳)


1911年(20〜21歳)

◆ロシア帝国で飢饉発生。
●フェインベルク、モスクワ音楽院を卒業。卒業試験では、バッハの平均律のほか、ラフマニノフのピアノ協奏曲第3番 など演奏。


1912年(21〜22歳)


1913年(22〜23歳)

◆ロシア帝国で飢饉発生。
●フェインベルク、ベルリンとウィーンに旅行し、シュナーベル、ラモンド、ゴドフスキーらと交流。最も会いたかったブゾーニはイタリアにいて不在でした。

1914年(23〜24歳)

◆7月28日、ロシア帝国、オーストリア=ハンガリー帝国に対して動員開始。
◆8月1日、ドイツ帝国、ロシア帝国に対して宣戦布告。ロシア帝国では反ドイツ感情が勃興。ドイツ語の地名を変更したほか、多くのドイツ人が追放されます。
◆8月6日、オーストリア=ハンガリー帝国、ロシア帝国に対して宣戦布告。
◆ロシア皇帝アレクサンドル2世、約20万人のドイツ人をウクライナ北西部から追放。
◆10月、ドイツの巡洋戦艦に率いられたオスマン帝国海軍が、ウクライナのオデッサとセバストポリを砲撃。
◆ロシア帝国政府、禁酒令布告(1924年まで)。

●フェインベルク、バッハの平均律全曲を初めてロシアで演奏。
●フェインベルク、徴兵によりロシア帝国陸軍兵役。ピアニストとして慰問演奏ににより陸軍に配属。

1915年(24〜25歳)

●フェインベルク、腸チフスに罹患し、療養のうえ除隊。
●フェインベルク、ピアノ・ソナタ第1番 Op.1を作曲。

1916年(25〜26歳)

●フェインベルク、ピアノ・ソナタ第2番 Op.2を作曲。

1917年(26〜27歳)

◆2月、皇帝アレクサンドル2世、ヴォルガ入植地の解体とドイツ人追放を決定。
◆3月、ペトログラードでの国際婦人デーの女性デモをきっかけとして2月革命(ユリウス暦では2月)勃発。ロシア臨時政府樹立。


◆7月、ペトログラードで7月蜂起。50万人のデモがロシア臨時政府により鎮圧。
◆7月、キエフ蜂起。ポルボートク衆の叛乱。ウクライナ軍人による蜂起。ロシア帝国軍が敗北。
◆11月、11月革命(ユリウス暦では10月革命)勃発。レーニンが最高指導者を務めるボリシェヴィキ政権樹立。第1次世界大戦と並行して、ロシア内戦(第1期)が勃発。


◆11月、「ボリシェヴィキ」政権により、すべての土地は人民の所有(=政府所有)とする法が制定。教会の土地・財産も没収。
◆11月、「ウクライナ人民共和国」の建国がキエフで宣言。
◆12月、レーニンにより「チェーカー」(≒秘密警察)設立。100人足らずの小組織でスタートするものの、ロシア帝国秘密警察「オフラーナ」のメンバーも含めるなどして急拡大を遂げ、やがて28万人規模にまで成長。
◆12月、チェーカー初代議長にポーランド人のジェルジンスキーが就任。「組織化された恐怖」をモットーに、聖職者、自由主義者、資産家に関しては、街頭でも手あたり次第に射殺。
◆12月、ソヴィエト、ロシア国内の全銀行の国有化。
◆12月、赤軍がウクライナに侵攻。傀儡政権をハリコフに樹立。
◆オデッサ、戦略上の要衝の地ということで、ドイツ・オーストリア軍に占領されたのち、イギリス・フランス軍に占領。続いてデニキン将軍率いる白衛義勇軍にも占領。
●フェインベルク、ピアノ・ソナタ第3番 Op.3を作曲。
●フェインベルク、ピアノのための幻想曲第1番 Op.5を作曲。
●フェインベルク、「音楽形式の宿命」を執筆。

1918年(27〜28歳)

◆1月、レーニンにより憲法制定議会閉鎖。選挙でボリシェヴィキが第1党になれなかったため、武力による独裁体制に移行。
◆1月、キエフ蜂起。共産主義者による蜂起。
◆2月、赤軍がウクライナ人民共和国の首都キエフを占領。
◆2月、ドイツ、オーストリアとウクライナの同盟軍が、ウクライナ解放に向けて作戦を開始。
◆3月、ドイツ、オーストリアとウクライナの同盟軍が、キエフを解放。ドイツ、オーストリアはウクライナから膨大な食糧を持ち去ります。
◆3月、ブレスト=リトフスク条約により、第一次世界大戦の東部戦線での戦闘が終結し、「ロシア内戦(第1期)」も休戦。
◆3月、「ボリシェヴィキ」は「共産党」に改名。共産党以外の政党活動を禁じて、共産党の一党独裁制に移行。
◆3月、レーニン、首都をペトログラードからモスクワに変更。政府機能を移転。
◆4月、スコロパドシキー将軍の政権がキエフで発足し、「ウクライナ国」が成立。
◆5月、レーニンにより食糧独裁令発令。武装した労働者食糧徴発隊組織により農民たちからの作物の収奪が開始、内戦に繋がって行きます。
◆5月、グルジアがロシア帝国からの独立を宣言。「グルジア民主共和国」が成立したため、ドイツ軍、オスマン帝国軍、イギリス軍が押し寄せます。
◆6月、ソヴィエト、資本主義業態の停止命令。
◆7月、ソヴィエト、余剰農産物の国庫納入命令。農民暴動のほか、生産調整が行われるようになり逆効果に。
◆7月、ロシア・ソヴィエト社会主義共和国憲法制定。
◆7月、ロシア皇帝ニコライ2世[1868-1917]処刑。一家7人と従僕ら計11人がレーニンの命令によりエカチェリンブルクで殺害。
◆8月 、シベリア出兵。ソ連軍約60万人に対し、日本軍約7万人、チェコ軍約5万人、アメリカ軍約8千人、カナダ軍約4千人、イタリア軍約2千4百人、イギリス軍約千5百人、フランス軍約千4百人


◆8月、トロツキーによる脱走兵銃殺命令。
◆8月、レーニン暗殺未遂事件発生。社会革命党の女性党員による銃撃。
◆12月、スコロパドシキー政権が倒され、「ウクライナ人民共和国」に戻されます。
◆12月、赤軍がウクライナに侵攻。
◆ロシア臨時政府により、ロシア正教会の財産を政府のものにすることを決定、宗教教育も禁止となります。
◆連合国がロシアとの貿易を停止(1920年11月まで)。
◆ソヴィエト、「家族法」制定。内戦(と第1次大戦)で減少する一方の人口を補うため、結婚・離婚の手続きを簡略化。結婚と同じく離婚も増え、モスクワではこの年のうちに約7,000組の夫婦が離婚。自由恋愛的な婚姻が普及し、1920年代なかばには結婚回数は平均4回となり、やがて結婚を経ない同棲が普及するにつれ、子供の養育放棄も社会問題化。戦争やヴォルガ飢饉で親を失った子供に加えて、膨大な数の養育放棄児童が浮浪児化し、1920年代なかばにはその数は700万人を突破。少年集団による凶悪犯罪が激増し、女性浮浪者も急増するなど収拾がつかなくなったため、1936年のスターリン憲法制定までに家族法は廃止。離婚件数を減らすために手続きの手数料を高額化し、養育を放棄した者には高額な罰金刑を適用、同性愛も禁じるなど、伝統的な家庭の形を復活させる方向に転換しています。

1919年

◆2月、「ポーランド・ボリシェヴィキ戦争」勃発。ポーランド・ソヴィエト戦争とも言われますが、当時はソヴィエトがまだ成立していないため、ポーランドでは「ポーランド・ボリシェヴィキ戦争」と呼んでいます。フランスがルノー戦車など支援。
◆2月、赤軍、キエフを占領。
◆3月、「ロシア内戦(第2期)」勃発。
◆5月、ソヴィエト、紙幣発行の制限廃止。紙幣の種類は1〜1,000ルーブル。
◆5月、首長グリゴリエフ率いるコサックにより、エリザヴェトグラードなどでユダヤ人大虐殺(ポグロム)。グリゴリエフは2か月後に、アナーキストのネストル・マフノらに殺害されています。
◆夏、白軍がエリザヴェトグラードを占領。
◆8月31日、ウクライナ軍がキエフを解放。
◆11月、ウクライナ軍の一部が白軍に寝返り、ウクライナ執政内閣がポジーリャ地方に避難。
◆11月、「ロシア内戦(第2期)」、ユダヤ系で赤軍創始者でもあるトロツキー率いる赤軍が白軍を撃退。
◆11月、ソヴィエト紙幣の種類に、5,000ルーブルと10,000ルーブルが追加。
◆12月、ウクライナ執政内閣が、白軍、赤軍、ポーランド軍に包囲。ウクライナ軍がゲリラ戦に転校し、ソヴィエトへの抵抗を開始。
●フェインベルク、ピアノ・ソナタ第4番 Op.6を作曲。

1919年(28〜29歳)

●フェインベルク、モスクワ郊外のソコリニキ林業学校のコンサートで、レーニンの前で演奏。
●フェインベルク、ブロークの詩による3つの歌曲 Op.7を作曲。
●フェインベルク、ブロークの詩による2つの歌曲 Op.14を作曲。

1920年(29〜30歳)

◆4月、ヴランゲリ将軍が白軍の全権を掌握。翌月にはロシア軍と名を改めてクリミア半島を拠点に赤軍と戦闘。「ロシア内戦(第3期)」勃発。
◆ポーランド軍により、キエフ占領。
◆8月、タンボフの反乱開始。翌年6月まで。
◆10月、「ポーランド・ボリシェヴィキ戦争」、ボリシェヴィキ側の要請で停戦。ポーランドの勝利で終結し、翌年3月に講和条約締結。
◆11月、ヴランゲリ将軍が敗北、ユーゴスラヴィアに亡命。「ロシア内戦(第3期)」終結。
◆内戦は深刻な飢餓も引き起こし、全死者数は800万人とも言われています。内戦後の耕地面積は内戦前の62パーセント、生産量は37パーセント、金属製農機具生産量は13パーセントに減少。耕作馬の頭数は350万頭から240万頭に減少、牛は580万から370万に減少。さらに輸送手段である機関車の稼働率も半分以下になっていました。
 為替レートも、米ドル「1ドル=2ルーブル」から、「1ドル=1,200ルーブル」となり600分の1の価値に下落、超ルーブル安となり、輸出競争力が急上昇し、国外からの投資も集めやすくなり、そうした金融環境が、翌年のレーニンによる資本主義的な新経済政策(ネップ)策定に繋がったものとも考えらえます。
◆11月、ソヴィエト、10人以上の雇用のある工場などをすべて国有化。
●フェインベルク、ピアノのための4つの前奏曲 Op.8を作曲。
●フェインベルク、モスクワでバッハの平均律全曲とベートーヴェンのピアノ・ソナタ全曲演奏会を開催。

1921年(30〜31歳)

◆2月、ソヴィエト、農民の蜂起が100万人以上の規模で発生。
◆2月、グルジアに赤軍侵攻。
◆3月、「グルジア・ソヴィエト社会主義共和国」成立。
◆3月、「ポーランド・ソヴィエト戦争」、ポーランドの勝利により終結。講和条約が結ばれ、ポーランドはリトアニア中部とウクライナ西部を併合。ほかはソヴィエト領。
◆ペトログラードのパンの配給が3分の1に減少。多くの労働者がストライキに参加。
◆3月、ソヴィエトで新経済政策(ネップ)施行。余剰作物などの資本主義的運用により、経済が活性化。
◆春、ヴォルガ飢饉。ウクライナのヴォルガ・ドイツ人の入植地域で翌年にかけて栄養失調などが原因で農村中心にチフスやコレラが流行、数百万規模の犠牲者が出て、モスクワなど都市部にもホームレスや浮浪児が集まるようにもなります。
◆4月、タンボフの反乱激化。アントーノフ率いる数万人の農民たちを、レーニンの指示により5万人規模の赤軍とチェーカーが、毒ガスなどを用いて6月までに殲滅。
◆7月、ソヴィエト、紙幣の種類に、25,000ルーブル、50,000ルーブルと100,000ルーブルが追加。
◆11月、第1回通貨切り下げ実施。旧紙幣10,000ルーブル=1922年度紙幣1ルーブルという基準。
◆ソヴィエトで戦時共産主義の一環として物々交換が進み、通貨の価値が低下、インフレが急速に進行。
●フェインベルク、ピアノ・ソナタ第5番 Op.10を作曲。
●フェインベルク、ピアノのための幻想曲第2番 Op.9を作曲。

1922年(31〜32歳)

◆3月、レーニンが「聖職者全員銃殺」を指令。まず翌年にかけて、主教28人、司祭2,691人、修道士1,962人、修道女3,447人のほか、信徒も多数を処刑。財産を没収し、飢饉対策にも使用しました。


◆5月、レーニンによる「知識人追放指令」。秘密警察(GPU)の分類により、反政府的とされた知識人を追放。この場合の「知識人」は、哲学者、文学者、法律家、経済学者、組合活動家などが対象となります。
 レーニンは、音楽、演劇、映画、美術などの「芸術家」は、プロパガンダに結び付くことから積極的に活動を支援し、「科学者」「建築家」なども、人数が不足していたことから優遇していましたが、いわゆる「知識人」については、反共産主義や反政府的活動に繋がりやすいという判断から監視・弾圧をおこなっていました。
◆5月26日、レーニン、最初の脳梗塞発作。5か月間の入院中に回復するものの簡単な計算なども困難な状態に。その間、スターリンは、カーメネフ、ジノヴィエフとのトロイカ体制を確立、有力幹部トロツキーに対抗します(のちにカーメネフ、ジノヴィエフは粛清、トロツキーは国外追放のうえ暗殺)。
◆6月、レーニンが反政府知識人の大量追放を指令し、数万人を強制収容所などに送致。
●モスクワ音楽院院長にゴリデンヴェイゼルが就任。前任のイッポリトフ=イワノフは、ロシア帝国時代から16年間在任していたので、この年に正式にソ連成立ということで、1917年から初代教育人民委員(≒文部大臣)の任に就いていたアナトリー・ルナチャルスキー[1875-1933]のもと、教授陣も含めて前向きな人事刷新という運びになったと考えられます。背景にはロシア帝国時代の知識人を、なるべく抹殺しないで取り込みたかったというルナチャルスキーのソビエト文化への考え方がありました。


 しかし、1929年にスターリンによってルナチャルスキーが大臣職を解任され、アンドレイ・ブブノフ[1884-1938]が後任になると、ボレスワフ・プシビシェフスキ[1892-1937]という人物がモスクワ音楽院院長に就任して事情が変わってきます。
 プシビシェフスキの父は、画家ムンクの友人で、絵の中に彼等の三角関係が描かれていることでも知られるポーランド人劇作家で詩人のスタニスワフ・プシビシェフスキ[1868-1927]。
 ボレスワフは、父がベルリンでマルタ・フェルダーともうけた3人の婚外子のうちの第1子。1896年、ボレスワフが4歳の時に母マルタが死去し、その3年前の1893年にムンクの絵「マドンナ」でおなじみのノルウェー女性ピアニストのダグニーと結婚して子供をもうけていた父スタニスワフが疑われて逮捕されるものの、死因が一酸化炭素中毒ということで自殺と断定され釈放。3人の子供は父方の祖母に引き取られています。
 その3年後の1899年、父スタニスワフはすでにダグニーと別居しており、ワルシャワで劇作家の妻ヤドヴィガに請われて不倫同棲を開始、同時に画家のアニエラとも不倫して子供をもうけるなどお盛んでしたが、ダグニーの方もスタニスワフとの間にできた2人の子供をノルウェーの両親に預けて複数の相手と交際するなどし、1901年、33歳のときに愛人による無理心中(拳銃)で殺されています。
 祖母のおかげでこうした荒れた環境とは無縁に育ったボレスワフは、ワルシャワ音楽院に進学。卒業すると間もなく第1次大戦が開戦し、プロイセン国籍のままだったボレスワフは、ロシア南部オルスクの収容所に送られて4年間を過ごし、戦後、元オルスク市長の娘と同地で結婚。
 翌1919年にはポーランド・ソビエト戦争が始まったため、ソビエト側でいたかったボレスワフは、1920年、モスクワに移って共産党に入党。教育関係の部署で働いて頭角をあらわし、やがて教育人民委員会の音楽部門責任者に就任。ほどなく、ルナチャルスキー大臣の解任を受けて、モスクワ音楽院の院長に任命されています。
 新院長ボレスワフ・プシビシェフスキは政府に従って改革に乗り出し、「ロシア・プロレタリア音楽家同盟」(ソ連作曲家同盟の前身)の方針に基づき、モスクワ音楽院のプロレタリア化に着手。新規入学者は労働者と農民の子のみとし、学校の名前も「フェリクス・コン高等音楽学校」と改名(フェリクス・コン[1864-1941]は、ポーランド出身ユダヤ人で、教育人民委員会の博物館部門のベテラン責任者でボレスワフにとっての恩人)。
 しかし、ボレスワフが従った「ロシア・プロレタリア音楽家同盟」と、モスクワ音楽院の多くの教授陣との関係は元々あまり良いとは言えない状態で、カリキュラムが変更され、音楽と関係の無い社会や経済の教育などが増やされると、辞任する者まであらわれ、また、生徒たちの演奏水準もどんどん落ちて行ったので、モスクワ音楽院プロレタリア化計画はやがて中止となり、プシビシェフスキも1932年2月に解任されています。
 翌1933年、プシビシェフスキは同性愛で告発。バルト海運河建設現場での長期重労働が課せられ、3年後に戻った時には、スターリン/エジョフによる「大粛清」が始まっていました。「大粛清」の目玉でもあった「ポーランド作戦」も開始されていて、ポーランド人の名前を持つプシビシェフスキは、翌1937年、スパイ行為とテロ行為の容疑で逮捕され、まもなく処刑されています(虚偽の罪状だったので1956年に名誉回復)。


 プシビシェフスキの後任は、教育学の専門家であるスタニスラフ・シャツキー[1878-1934]で、ゴリデンヴェイゼルと協力してモスクワ音楽院付属中央音楽学校に幼児部門も設けるなどしましたが、任期2年目の1934年10月に56歳で急死。
 後任はすぐには見つからなかったため、翌1935年から、ネイガウスがピアノ科教授と兼務で院長を引き受け、これをシャツキーの妻で、1932年からモスクワ音楽院の音楽教育部門の責任者を務めていたヴァレンチーナ・シャツカヤ[1882-1978]がサポート。
 その間、1936年にはフェインベルクがピアノ科主任教授に任命。1937年からはシャツカヤが院長となり、ネイガウスは教授活動に専念。そして1939年には再びゴリデンヴェイゼルが院長となり、1941年には開戦による音楽院の疎開という大仕事もこなしていますが、1942年には「ソ連作曲家同盟」の支部である「モスクワ作曲家同盟」の議長を務めたシェバリーンが院長に就任しています。
 こうした一連の流れで見えてくるのは、結果はともかく、政府の方針に従った「共産党員」のプシビシェフスキが失脚し、政府に少し批判的だったにも関わらずネイガウスが重用されたという事実で、これによりネイガウスの「軽口」が増えてしまい、1941年の逮捕に繋がったとも考えられます。

●10月、フェインベルク、モスクワ音楽院の教授に就任。以後、1962年に亡くなるまで40年間在任。ゲンリヒ・ネイガウス[1888-1964]と叔父のフェリクス・ブルーメンフェリド[1863-1931]も同じく教授に就任。


◆10月、第2回通貨切り下げ実施。1922年度紙幣100ルーブル=1923年度紙幣1ルーブルという基準。第1回通貨切り下げに当てはめると、100万分の1になった計算。
◆12月、ソヴィエト社会主義共和国連邦成立宣言。
◆12月16日、レーニン、2度目の脳梗塞発作。右手の麻痺はあるものの仕事は口述で遂行。
●モスクワ放送局、ラジオ放送開始。3月に完成した高さ150mの鉄塔から電波を送信。


●フェインベルク、ピアノのための組曲第1番 Op.11を作曲。
●フェインベルク、ヴァイオリンとピアノのためのアレグロとスケルツォ Op.12を作曲。
●フェインベルク、ピアノのための3つの前奏曲 Op.15を作曲。

1923年(32〜33歳)

◆3月10日、レーニン、3度目の脳梗塞発作。回復せず10か月後に死去。その間、スターリンが実権掌握。
◆11月、ドイツでハイパーインフレ対策として臨時通貨レンテンマルク発行開始。1兆分の1という交換比率で、ハイパーインフレを乗り切ります。
◆11〜12月、紙幣の種類に、10,000ルーブルと15,000ルーブルが追加。
●フェインベルク、ピアノ・ソナタ第6番 Op.13を作曲。
●フェインベルク、2つのチュバシのメロディ Op.24aを作曲。

1924年(33〜34歳)

◆1月、ソ連最高指導者、レーニン死去により、スターリンが就任。
◆2月、ソ連政府、通貨改革実施。旧紙幣50,000ルーブル=1924年度紙幣1ルーブルという基準。ソ連建国後の切り下げは、これで500億分の1になった計算。
◆8月、ソ連政府、酒類販売を許可。10年間の禁止期間中に、モルヒネやコカインなど麻薬中毒患者が増えすぎたため。一方でアルコール中毒患者も増加するものの、麻薬中毒よりは社会的影響が少ないという判断。
◆ソ連政府、麻薬販売を違法とし、違反者には懲役10年の刑。これにより麻薬使用者が激減。
◆ペトログラード、レニングラードに改名。
◆1月、レーニン死去、スターリンが最高指導者に。
◆1月、ソ連憲法制定。
◆2月、紙幣の種類に、25,000ルーブルが追加。

1925年(34〜35歳)

●3月、フェインベルク、プロコフィエフのピアノ協奏曲第3番 をソ連初演。
●9月、フェインベルク、ヴェネツィアのISCM(国際現代音楽協会)フェスティヴァルに出演。ウィーンのウニヴェアザール社とも接点ができ、自作の出版を契約。
●10月、フェインベルク、ウィーンでリサイタル開催。自作のほか、プロコフィエフ、ミャスコフスキーらの作品も披露。
●11月、フェインベルク、パリに旅行。
●フェインベルク、ピアノのための子守歌 Op.19aを作曲。

1926年(35〜36歳)

●フェインベルク、プーシキンとレールモントフの詩による2つの歌曲 Op.4を作曲。

1927年(36〜37歳)

●フェインベルク、ベルリンとミュンヘンでラジオの生放送で演奏。
●フェインベルク、ベルリン、ミュンヘン、フランクフルト、ハンブルク、ライプツィヒなどでコンサート。ハンブルクではプロコフィエフのピアノ協奏曲第3番 のドイツ初演も実施。

1928年(37〜38歳)

●フェインベルク、ピアノ・ソナタ第7番 Op.21を作曲(1925年に着手)。

1929年(38〜39歳)

●フェインベルク、ドイツとオーストリアに演奏旅行。

1930年(39〜40歳)

●フェインベルク、ピアノ協奏曲第1番 Op.20を作曲。

1931年(40〜41歳)

◆12月、スターリンにより、高さ103メートルという世界最大の正教会建造物である「救世主ハリストス大聖堂」が爆破(ハリストス=キリスト)。教会への弾圧はロシア革命初期の1917年から始まっていますが、それでも1930年にはまだ3万の教会がありました。しかし憲法改正後の1931年からは、閉鎖や爆破、強制収容所への転用などが本格化し、1939年には実際に使用されているソ連の教会は数百ほどにまで減少しています。


1932年(41〜42歳)

◆ソ連で国内パスポート制、導入。
◆ウクライナ国境封鎖。
◆大飢饉発生。翌1933年にかけて、ウクライナで約350万人、カザフスタンで約130万人、ヴォルガとコーカサス北部で約40万人、その他のソ連地域で約100万人が飢餓などで死亡。
●フェインベルク、ピアノのためのユモレスク Op.19を作曲。

1933年(42〜43歳)


1934年(43〜44歳)

●フェインベルク、ピアノ・ソナタ第8番 Op.21aを作曲(1933年に着手)。
●フェインベルク、ウィーンで開催された国際現代音楽コンクールに審査員として招かれて参加。

1935年(44〜45歳)

◆ソ連政府、ルーブルの為替をフランス・フラン基準とし、1ルーブル=3フランと決定。

1936年(45〜46歳)

●フェインベルク、ピアノのための組曲第2番 Op.25を作曲。
●フェインベルク、モスクワ音楽院ピアノ科主任教授に任命。


1937年(46〜47歳)

◆ニコライ・エジョフ[1895-1940]率いるNKVD(内務人民委員部兼秘密警察)による「大粛清」の開始。1936年9月に内務人民委員に就任したエジョフ長官の方針は、ソ連で政敵の排除に多用されてきた「スパイ嫌疑」を最大限利用するものでした(ある人物がスパイではないことを証明するのは不可能に近いため)。
エジョフ長官は、スパイを捕えるためには無実の人間をいくら犠牲にしても構わないというようなことを実際に発言していましたし、「自白」に追い込む「拷問」も、前長官のゲンリフ・ヤゴーダ[1891-1938]の時代をはるかに上回る残虐さで徹底、多くの政府関係者と軍関係者を手早く処刑し、さらにそこに国民による爆発的な数の「密告」も加わって、数百万人とも言われる膨大な犠牲者を生み出すことになります。自分にとって都合の悪い人物を、魔法使いや魔女だとして密告する「魔女狩り」の20世紀版です。
◆エジョフ率いるNKVD(内務人民委員部兼秘密警察)のおこなった「ポーランド作戦」により、ソ連在住のポーランド人約63万6千人のうち約14万4千人が逮捕、すぐにそのうちの約11万1千人が処刑され、数十万人がポーランドに強制送還、その後、逮捕の効率が下がったため、電話帳を見てポーランド風な名前の者を逮捕・処刑するというデタラメな作戦も展開、計約31万人が殺害されています。当時、電話のある家には財産もあることが多かったので、金品を盗むことができるというNKVD(内務人民委員部兼秘密警察)側の大きなメリットも被害の拡大に繋がったものと考えられます。


◆ソ連政府、通貨の基準を仏フランから米ドルに変更(フランスの金本位制離脱の為)。対米ドル相場は1米ドル=5.3ルーブルと決定。
◆ロシア正教会の聖職者、85,300人が処刑。
●フェインベルク、ソ連政府より労働赤旗勲章を授与。
●フェインベルク、ソ連政府よりRSFSR「名誉記章勲章」を授与。
●11月、フェインベルクの作曲の師、ジリャーエフが逮捕。内戦中にトゥハチェフスキー元帥の部下だったことによるもの。翌1938年1月に銃殺。


1938年(47〜48歳)

●6月、フェインベルク、ブリュッセルで開催されたイザイ国際コンクールに審査員として参加。優勝者はギレリスでした。


1939年(48〜49歳)

◆ロシア正教会の聖職者、900人が処刑。
◆8月、独ソ不可侵条約締結。
◆9月、ドイツ軍、赤軍、ポーランド侵攻。
◆10月、ポーランド分割。
◆10月、赤軍、フィンランド侵攻。
◆10月、ソ連、国際連盟から除名。
●フェインベルク、ピアノ・ソナタ第9番 Op.29を作曲。

1940年(49〜50歳)

◆ロシア正教会の聖職者、1,100人が処刑。

1941年(50〜51歳)

◆6月、ドイツ軍が不可侵条約を破ってソ連に侵攻。「バルバロッサ作戦」開始。
◆6月、イタリアとルーマニアがソ連へ宣戦布告。
◆7月、フィンランドとハンガリーがソ連へ宣戦布告。
◆7月、ドイツ軍によるモスクワへの空爆開始。
◆9月、ドイツ軍によるレニングラード包囲戦が開始。
●10月、フェインベルク、グルジアのトビリシでコンサート。モスクワからの演劇と音楽の疎開大部隊が列車で移動し、各地で公演をおこなうというものでした。
◆10月、モスクワ攻防戦(翌年1月まで)。政府機能をクイビシェフに疎開(1944年まで)。多くの政府関係者や学校関係者、文化関連機関関係者が疎開するものの、市民の多くは残されていたため、ユージナなどは疎開せずに活動。
◆「ユダヤ反ファシスト委員会」設立。アメリカの投資家たちから莫大な資金を調達。その資金をソ連政府は戦費として使用します。
◆11月、赤の広場で軍事パレード実施。これは約410万人のモスクワ市民のうち、疎開できていたのが、主に政府関係者や学校関係者、文化関連機関関係者だったことから、残された市民が近づくドイツ軍への恐怖から暴動などを起こさないよう安心感を与えるためで、同じ理由からロシア正教への弾圧をやめ、ほどなく復活させることを約束してもいました。


◆11月、ドイツ軍、モスクワから8キロの地点まで侵攻。赤軍必死の抵抗。
◆11月29日、ジューコフ将軍による大攻勢が開始。兵力は極東に展開していた赤軍40個師団、約75万人の精鋭部隊で、すでにモスクワへの移動を完了していました。


1942年(51〜52歳)

◆夏、スターリングラード攻防戦開始。翌年2月までに兵士約48万人死亡、約65万人が負傷。役人など政府関係者の疎開しか認めず一般市民の疎開は禁じられたため、民間人死者も約4万人という大きな数になっています。またドイツなど枢軸国側兵士の死傷者は約150万人とソ連側を大きく上回るものとなっており、計約267万人の死傷者が発生したことになります。

1943年(52〜53歳)

◆1月、赤軍、モスクワ攻防戦に勝利。


◆ロシア正教会問題評議会が設立。
◆9月、スターリンとロシア正教会の首脳たちがクレムリンで会見を開き、教会宥和政策を発表。これにより、総主教制の復活、神学校や神学大学の再開、教会機関誌「モスクワ総主教庁ジャーナル」も復刊されることとなり、「戦闘的無神論者同盟」の解散も決定。

1944年(53〜54歳)

◆1月、赤軍、レニングラードを解放。
●フェインベルク、ピアノ・ソナタ第10番 Op.30を作曲(1940年に着手)。
●フェインベルク、ピアノ協奏曲第2番 Op.36を作曲。

1945年(54〜55歳)

◆8月、ソ連、日本に対して宣戦布告。「日ソ中立条約」は破棄。9月5日まで戦闘を継続。
◆12月、NKVDのトップ交替。クルグロフがベリヤの後任として内務人民委員に就任。クルグロフはベリヤの部下として、エジョフ派の大量粛清や、チェチェン、イングーシ人の弾圧、ウクライナ民族主義運動活動家の粛清もおこなっていた人物。
●フェインベルク、モスクワでバッハとベートーヴェンのコンサートを繰り返し演奏。

1946年(55〜56歳)

◆ソ連で飢饉発生。
●フェインベルク、自作のピアノ協奏曲第2番 をアノーソフ指揮で初演し、スターリン賞2等を受賞。
●フェインベルク、ソ連政府より労働赤旗勲章を授与。

1947年(56〜57歳)

◆ソ連政府、通貨改革実施。旧紙幣10ルーブル=新紙幣1ルーブルという10分の1の切り下げですが、給与・年金については等価交換、預金については変動型の優遇措置を実施。
◆9月、コミンフォルム設立。スターリンに次ぐ存在でもあったアンドレイ・ジダーノフ[1896-1948]がスターリンの名のもとに組織したもので、ヨーロッパ各国の共産党との交流・調整を目的とし、アメリカのマーシャル・プランに対抗します。
◆ソ連で飢饉発生。
◆12月、ソ連で通貨切り下げ実施。現金交換比率10分の1になるものの、賃金、年金などは1対1の交換比率で、国家小売価格も引き下げ。為替レートはそのままとし、輸出優先体制とします。
●フェインベルク、ピアノのための「物語」と「行列」 Op.33を作曲(1946年に着手)。
●フェインベルク、ピアノ協奏曲第3番 Op.44を作曲。

1948年(57〜58歳)

◆2月、ジダーノフ批判。西側コスモポリタニズムを批判し、文化全般についても社会主義リアリズムを重視した方針で統制することをコミンフォルム設立者のジダーノフが宣言。もともとプロレタリア芸術から発展した社会主義リアリズム芸術は、反コスモポリタニズムの視点から反ユダヤ的な方向にも展開しやすく、文学、演劇、音楽、美術、映画などに大きな影響力を持つこととなります。スターリンの死と共に迫害は収まるものの、正式に統制が解除されたのは1958年5月のことでした。ちなみにジダーノフは宣言の半年後、モスクワで52歳で急死しています。
◆4月、ソ連作曲家同盟第1回総会開催。スターリンとジダーノフにより、34歳のフレンニコフ[1913-2007]が書記長に選出。以後、フレンニコフは43年間に渡ってその地位を守り続けました。

1949年(58〜59歳)

◆ソ連政府、反ユダヤ・キャンペーン開始。新聞・雑誌などが大規模に参加。イディッシュ語の文学や演劇に関わる作家や詩人、演出家、俳優などの多くが逮捕、1952年に処刑。ロシア人であってもコスモポリタン的な人物は同じく逮捕・処刑。
◆イスラエルが国連に加盟。59番目の加盟国でした(日本は1956年、オーストリアは1955年、東西ドイツは1973年に加盟)。

1950年(59〜60歳)

◆3月、ソ連政府、通貨の基準をドルから金に変更。対米ドル相場は1米ドル=4ルーブルに決定。

1951年(60〜61歳)

●6月、フェインベルク、心筋梗塞の発作。療養が必要となり、しばらくするとレコーディングはできたものの、コンサートは1953年まで開けませんでした。

1952年(61〜62歳)


1953年(62〜63歳)

◆3月、スターリン死去。


◆3月、ウクライナ人、フルシチョフが最高指導者に。
◆6月、ベルリンで反ソ連暴動発生。ソ連軍が鎮圧するものの、この年だけで東ドイツから西ドイツへの流入は30万人を超えます。
◆7月、ジューコフ元帥が戦車部隊2個師団を率いてモスクワに入り、国家保安省本部を占拠、ベリヤとカガノーヴィチを逮捕。
◆9月、ソ連最高指導者、マレンコフからフルシチョフに交代。
◆12月、ベリヤ処刑(フルシチョフによる粛清)。
●フェインベルク、コンサート活動を再開。

1954年(63〜64歳)

◆3月、ソ連国家保安委員会(KGB)発足。初代議長はセーロフ。
●フェインベルク、ピアノ・ソナタ第11番 Op.40を作曲(1952年に着手)。

1955年(64〜65歳)

●フェインベルク、執筆活動に本腰を入れ、大著「芸術としてのピアニズム」に取り組みます(1965年に出版)。

1956年(65〜66歳)

◆2月、フルシチョフによる反スターリン演説。
●4月、フェインベルク、最後のコンサート。心臓病悪化のため、通常のコンサートはこれが最後でした。レコーディングについては亡くなる直前までおこなっています。


◆6月、ポーランドのポズナニで反ソ暴動発生。ソ連軍が鎮圧。
◆10月、ハンガリーで反ソ暴動(ハンガリー動乱)。ソ連軍が鎮圧。

1957年(66〜67歳)

◆6月、反党グループ事件発生。反フルシチョフの最高幹部保守派らによるフルシチョフ解任に向けての政治運動。幹部会11人のうち7名が賛成してフルシチョフ解任動議が可決するものの、フルシチョフは中央委員会でなければ解任はできないと時間を稼いで抵抗、ジューコフ国防大臣とセーロフKGB議長の協力を得て、中央委員会を開催し、反対派を抑えることに成功、反対派幹部を政権から追放していました(ジューコフも11月に解任)。
◆6月、ウラル核惨事発生。ウラル山中の原爆用プルトニウム製造工場で、高レベル放射性廃棄物が爆発、周辺住民45万人が被ばく。カラチャイ湖はのちに埋め立て。

1958年(67〜68歳)

◆6月、フルシチョフ、ブルガーニン首相を解任し、第1書記と首相を兼務。
◆12月、ソ連国家保安委員会(KGB)議長にシェレーピンが就任。前年にマレンコフらによるフルシチョフ解任計画をつぶして彼らを追放。フルシチョフに重用されKGB議長就任するものの、末期には寝返ってフルシチョフ解任に向けて活動していました。

1959年(68〜69歳)


1960年(69〜70歳)

●フェインベルク、70歳記念のコンサートを開催。


1961年(70〜71歳)

◆ソ連政府、対米ドル相場を1米ドル=0.9ルーブルに決定。
◆4月、元軍人で前大統領アイゼンハワーのキューバ対策を手ぬるいと批判していた好戦的なケネディ大統領が、キューバ爆撃を指示、上陸作戦まで実施するもののあえなく失敗。
●4月、1938年に銃殺されたフェインベルクの作曲の師、ジリャーエフの名誉回復。
◆5月、モスクワで大規模な軍事パレード。


◆7月、フルシチョフにより東西ベルリンの境界閉鎖が決定。翌月、ホーネッカーの指揮でベルリンの壁建設開始。
●11月、恩師ゴリデンヴェイゼル、86歳で死去。。
◆ソ連国家保安委員会(KGB)議長にセミチャストヌイが就任。

1962年(71〜72歳)

●フェインベルク、ピアノ・ソナタ第12番 Op.48を作曲。
●フェインベルク、ピアノのための子供のアルバム(12曲)を作曲。
◆10月、キューバ危機。
●10月22日、フェインベルク、モスクワで死去。
●10月、フェインベルク、ゴロヴィンスコエ墓地に埋葬。


収録情報

CD1〜4
J.S.バッハ
・平均律クラヴィーア第1巻
前奏曲とフーガ第1番 ハ長調 BWV 846
前奏曲とフーガ第2番 ハ短調 BWV 847
前奏曲とフーガ第3番 嬰ハ長調 BWV 848
前奏曲とフーガ第4番 嬰ハ短調 BWV 849
前奏曲とフーガ第5番 ニ長調 BWV 850
前奏曲とフーガ第6番 ニ短調 BWV 851
前奏曲とフーガ第7番 変ホ長調 BWV 852
前奏曲とフーガ第8番 変ホ短調 BWV 853
前奏曲とフーガ第9番 ホ長調 BWV 854
前奏曲とフーガ第10番 ホ短調 BWV 855
前奏曲とフーガ第11番 ヘ長調 BWV 856
前奏曲とフーガ第12番 ヘ短調 BWV 857
前奏曲とフーガ第13番 嬰へ長調 BWV 858
前奏曲とフーガ第14番 嬰へ短調 BWV 859
前奏曲とフーガ第15番 ト長調 BWV 860
前奏曲とフーガ第16番 ト短調 BWV 861
前奏曲とフーガ第17番 変イ長調 BWV 862
前奏曲とフーガ第18番 嬰ト短調 BWV 863
前奏曲とフーガ第19番 イ長調 BWV 864
前奏曲とフーガ第20番 イ短調 BWV 865
前奏曲とフーガ第21番 変ロ長調 BWV 866
前奏曲とフーガ第22番 変ロ短調 BWV 867
前奏曲とフーガ第23番 ロ長調 BWV 868
前奏曲とフーガ第24番 ロ短調 BWV 869

・平均律クラヴィーア第2巻
前奏曲とフーガ第1番 ハ長調 BWV 870
前奏曲とフーガ第2番 ハ短調 BWV 871
前奏曲とフーガ第3番 嬰ハ長調 BWV 872
前奏曲とフーガ第4番 嬰ハ短調 BWV 873
前奏曲とフーガ第5番 ニ長調 BWV 874
前奏曲とフーガ第6番 ニ短調 BWV 875
前奏曲とフーガ第7番 変ホ長調 BWV 876
前奏曲とフーガ第8番 変ホ短調 BWV 877
前奏曲とフーガ第9番 ホ長調 BWV 878
前奏曲とフーガ第10番 ホ短調 BWV 879
前奏曲とフーガ第11番 ヘ長調 BWV 880
前奏曲とフーガ第12番 ヘ短調 BWV 881
前奏曲とフーガ第13番 嬰へ長調 BWV 882
前奏曲とフーガ第14番 ヘ短調 BWV 883
前奏曲とフーガ第15番 ト長調短調 BWV 884
前奏曲とフーガ第16番 ト短調 BWV 885
前奏曲とフーガ第17番 変イ長調 BWV 886
前奏曲とフーガ第18番 嬰ト短調 BWV 887
前奏曲とフーガ第19番 イ長調 BWV 888
前奏曲とフーガ第20番 イ短調 BWV 889
前奏曲とフーガ第21番 変ロ長調 BWV 890
前奏曲とフーガ第22番 変ロ短調 BWV 891
前奏曲とフーガ第23番 ロ長調 BWV 892
前奏曲とフーガ第24番 ロ短調 BWV 893

録音:1958-1961年

CD5
J.S.バッハ
・1 オルガン・ソナタ第5番 ハ長調 BWV 529 〜ラルゴ (編曲. S.フェインベルク)
・2 コラール前奏曲「いと高きにある神にのみ栄光あれ」 BWV 662
・3 コラール前奏曲「ただ神の摂理に任す者」 BWV 647
・4 コラール前奏曲「いと高きにある神にのみ栄光あれ 」 BWV 663
・5 トッカータニ長調 BWV 912 (編曲. S.フェインベルク)
・6 半音階的幻想曲とフーガ ニ短調 BWV 903 (編曲. S.フェインベルク)
・7 前奏曲とフーガ ホ短調 BWV 548 (編曲. S.フェインベルク)
・8 イタリア風アリアと変奏曲 BWV 989 (編曲. S.フェインベルク)
・9 幻想曲とフーガ イ短調 BWV 904 (編曲. S.フェインベルク)
・10コラール前奏曲「いと高きにある神にのみ栄光あれ」 BWV 711

録音:1962年(1-4) Stereo, 1961年(5,9), 1962年(6,7), 1952年(10)

CD6
モーツァルト
・ピアノ・ソナタ第4番 変ホ長調 KV 282
録音:1953年

・ピアノ・ソナタ第18番 ニ長調 KV 576
録音:1952年

・幻想曲とフーガ ハ長調 KV 394
・12の変奏曲 変ロ長調 KV 500
録音:1951年

スクリャービン
・マズルカ集 Op.3
第1番 ロ短調
第2番 嬰ヘ短調
第3番 ト短調
第4番 ホ長調
第5番 嬰ニ短調
第6番 嬰ハ短調
第7番 ホ短調

録音:1950年代

CD7
ベートーヴェン
・ピアノ・ソナタ第4番 変ホ長調 Op.7
録音:1961年

・ピアノ・ソナタ第11番 変ロ長調 Op.22
録音:1960年

・ピアノ・ソナタ第30番 ホ長調 Op.109
録音:1963年

CD8
リスト
・6つのコンソレーション S. 172
・メフィスト・ワルツ第1番 , S.514

シューマン
・森の情景 (Forest Scenes) Op.82

ショパン
・前奏曲集 Op.28
第1番 ハ長調 Agitato
第3番 ト長調 Vivace
第5番 ニ長調 Allegro molto
第8番 嬰ヘ短調 Molto agitato
第10番 嬰ハ短調 Allegro molto
第11番 ロ長調 Vivace
第12番 嬰ト短調Presto

・バラード 第4番 へ短調, Op.52

録音:1950年代

CD9
シューマン
・子供のためのアルバム Op.68
VI. The poor orphan
VII. Hunting song
VIII. The wild rider
IX. Folk song
X. The happy farmer, returning from work
XI. Sicilienne
XII. Knecht Ruprecht
XIII. May, sweet may
XVI. First sorrow
XVII. The little morning wanderer
XVIII. The reaper's song
XIX. Little romance
XXIII. The Horseman
XXIV. Harvest song
XXV. Echoes from the theatre
XXIX. The stranger
XXX. Sehr langsam
XXXII. Sheherazade
XXXV. Mignon
XXXVI. Italian mariners' song
XXXVII. Sailors' song
XXXVIII. Wintertime I
XXXIX. Wintertime II

・ユーモレスク 変ロ長調 Op.20
・アレグロ ロ短調 Op.8

録音:1950年代

サムイル・フェインベルク(ピアノ)




商品説明:年表シリーズ

指揮者
アルヘンタ
オッテルロー
ガウク
カラヤン
クイケン
クーセヴィツキー
クチャル
クナッパーツブッシュ&ウィーン・フィル
クナッパーツブッシュ&ベルリン・フィル
クラウス
クレツキ
クレンペラー
ゴロワノフ
サヴァリッシュ
シューリヒト
スラトキン(父)
ターリヒ
チェリビダッケ
トスカニーニ
ドラゴン
ドラティ
バルビローリ
バーンスタイン
パレー
フェネル
フルトヴェングラー
ベイヌム
メルツェンドルファー
モントゥー
ライトナー
ラインスドルフ
レーグナー
ロスバウト

鍵盤楽器
ヴァレンティ
ヴェデルニコフ
カークパトリック
カサドシュ
グリンベルク
シュナーベル
ソフロニツキー
タマルキナ
タリアフェロ
ティッサン=ヴァランタン
デムス
ナイ
ニコラーエワ
ネイガウス父子
ノヴァエス
ハスキル
フェインベルク
ユージナ
ランドフスカ
ロン

弦楽器
カサド
コーガン
シュタルケル
スポールディング
バルヒェット
フランチェスカッティ
ヤニグロ
リッチ

室内アンサンブル
グリラー弦楽四重奏団
シェッファー四重奏団
シュナイダー四重奏団
パスカル弦楽四重奏団
パスキエ・トリオ
ハリウッド弦楽四重奏団
バルヒェット四重奏団
ブダペスト弦楽四重奏団
伝説のフランスの弦楽四重奏団
レナー弦楽四重奏団

作曲家
アンダーソン
ベートーヴェン
ヘンツェ
坂本龍一

シリーズ
テスタメント国内盤

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総合評価

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