CD 輸入盤

ピエール・モントゥーの芸術〜ライヴ&放送録音集(40CD)

基本情報

ジャンル
:
カタログNo
:
ARTIS022
組み枚数
:
40
レーベル
:
:
Korea
フォーマット
:
CD
その他
:
輸入盤

商品説明


ピエール・モントゥーの芸術(40CD)
ライヴ録音&放送録音集


トスカニーニも驚いたというバトン・テクニックにより、オーケストラ・ビルダーとしても手腕を発揮したフランスの指揮者、ピエール・モントゥー[1875-1964]のライヴ録音と放送録音を集めた40枚組ボックスが韓国のARTISから登場。
 モントゥーと特に縁の深かったサンフランシスコ交響楽団とボストン交響楽団を中心に、フランス国立放送管弦楽団、ロンドン交響楽団、コンセルトヘボウ管弦楽団とのライヴ録音を収めた内容となっています。
 モントゥーは実演ではかなり情熱的な演奏を聴かせることも多かったようで、得意のブラームスやベートーヴェン、ベルリオーズでの迫力には時に凄いものがありますし、また、フランス音楽でも生き生きとした表情が示されており、聴いていて心地よい抑揚やリズムはまさにモントゥーならでは。

【カジノの生んだ指揮者】
モントゥーは、もともとヴァイオリン奏者・ヴィオラ奏者として活動しており、指揮者としての能力は、ヴァカンス・シーズンのカジノで、臨時編成オーケストラを相手にコンサートやオペラで場数を踏んで身につけています。
 11歳年下のポール・パレー[1886-1979]と同じく、カジノが生んだ指揮者ということになりますが、どちらも優れたオーケストラ・ビルダーで、過度な感情移入をおこなわない点も共通しており、しかも二人とも健康で長生きし、亡くなる直前まで現役だった点も同じです。
 臨時編成オーケストラの演奏を短時間でまとめあげるには、効率の良いリハーサルと、意思伝達手段としての的確な指揮技術が必要とされます。リハーサル効率化の大前提になるのは、まず楽員との共通テキストである楽譜を何よりも尊重するというもので、私的な感情移入や楽譜改変をおこなわないことで、演奏困難個所などの問題点をあぶり出すのも容易になり、課題克服のための手段を講じることも十分に可能となります。
 また、指揮者側の記憶力が優秀であれば、「解釈」がその都度違ったものになるといった楽員が迷惑する話も無くなるため、同一時間での成果達成の度合いも大幅に上がってきます。
 驚異的な記憶力の持ち主といわれたモントゥーは、この点でかなり有利ですし、また、常日頃から楽譜順守の重要さについても語っていたことから、リハーサルの効率化については非常に高いレヴェルが確保されていたことがうかがえます。
 また、意思の伝達手段になるバトン・テクニックについても、かのトスカニーニを驚かせたといいますし、変拍子の多いストラヴィンスキー作品の指揮でも作曲者を感心させたということなので、十分に高度なものであったことがうかがえます。何しろ指揮の学校までつくってしまったほどですし。
 こうしたモントゥーの基本方針は、作品本来の姿を徹底的に追求して仕上げることにもつながるため、フランス物でもドイツ物でもロシア物でも、常に高水準な演奏が実現されているのが特徴ともなっていきました。その姿勢はアメリカでもイギリスでも一貫していたので、楽譜への忠実度が求められる近代や現代の作品での信頼度は特に高くなり、豊富な実績へと結びついていきます。


【ロシア・バレエ団】
モントゥーはリズム感の良さでも知られており、かのガーシュウィンからもその鋭敏なリズムが称えられていましたが、それにはモントゥーが少年時代にパリの有名なミュージック・ホールの楽団で、クラシックからジャズにいたるさまざまなタイプの音楽を数多く演奏したことが役に立っていたということです。
 そうしたリズム感が特に有効だったのがバレエ音楽の分野。1911年のある日、モントゥーが、ロシア・バレエ団で助手として『ペトルーシュカ』の下稽古をつけていた際、立ち会いにきたストラヴィンスキーが、その指揮ぶりをたいへん気に入り、初演指揮者をモントゥーに変更するようディアギレフに要請。これが契機となって、モントゥーはロシア・バレエ団の首席指揮者となり、やがて『春の祭典』で一躍その名を知られることとなるのです。
 『春の祭典』を指揮するのは当時は大変だったようで、メンゲルベルクがコンセルトヘボウ管弦楽団の共同指揮者にモントゥーを選んだのも『春の祭典』をうまく指揮できるというのが理由のひとつでしたし、ストラヴィンスキー本人も指揮には手こずっていたようです。

【コンセール・ベルリオーズ】
1911年、避暑地ディエップのカジノで、一流楽員を集めて自分のオーケストラ「コンセール・ベルリオーズ」を設立してコンサートを開催し、ほどなく「コンセール・モントゥー」に改称。
 1914年、前年に騒ぎになっていた『春の祭典』を、バレエ無しのオーケストラ・コンサートでとりあげて成功しています。

【メトロポリタン歌劇場】
1917年、ロシア・バレエ団の5か月に及ぶ北米ツアー終了後、メトロポリタン歌劇場の支配人からメトでフランス・オペラ(とロシア・オペラ)の指揮をするよう求められて承諾。『カルメン』『ファウスト』『サムソンとデリラ』『タイス』『マルーフ』『金鶏』などを指揮。歌手陣もカルーソー、マルティネッリ、ファーラー、ガドツキら有名どころが揃っていました。
それから35年、フリーランスになったモントゥーにメトロポリタン歌劇場は再びフランス・オペラを中心とした演目を指揮するよう要請、モントゥーは3年間で『ファウスト』『ペレアスとメリザンド』『マノン』『オルフェオとエウリディーチェ』『ホフマン物語』を指揮して実績をあげ、『椿姫』の指揮についてモントゥーから打診するものの、断られたため関係を断絶します。ほどなくモントゥーはローマ歌劇場で『椿姫』をRCA Victorにセッション録音していました。


【ボストン交響楽団】
1918年、ボストン交響楽団のドイツ人音楽監督カール・ムック[1859-1940]が『星条旗』の演奏を拒否したことが原因で当局から睨まれ、さらにラジオを持っていたことでスパイとして逮捕されてしまったほか、同じくドイツ人の楽員18人もドイツ人ということでボストン交響楽団を解雇されてしまいます。  モントゥーのもとをボストン交響楽団のマネージャーが訪れますが、モントゥーにはメトロポリタン歌劇場の契約期間がまだ長く残っていたため、まず秋のシーズン開幕から11月まで指揮を担当。
 モントゥーは大量解雇でひどい状態になっていたボストン交響楽団を再建すべく努力しますが、スペイン風邪収束の後、さらに毒性を増していたインフルエンザの大流行により、ボストンでは劇場や教育機関、公的機関などが無期限閉鎖を余儀なくされてしまいます(このインフルエンザでのボストンの死者は4,794人)。
 1919年には音楽監督に就任しますが、ボストン交響楽団の楽員たちが、オフシーズンの夏季に収入が大幅に減ることなどから、音楽家ユニオンへの加盟をめぐって二分、経営陣によるコンサートマスターの解雇により楽団内の人間関係は険悪なものとなり、楽員32人の大量退職という事態に陥ります。
 一時は55人規模まで縮小したオーケストラでしたが、モントゥーは人材を集めて再建、ニューヨークへの演奏旅行でも『春の祭典』で成功を収めます。
 しかし、ボストンの議員から私生活を問題視されたことが原因で、楽団経営陣は音楽監督をクーセヴィツキーに交代させることをモントゥーに通告、1924年にはモントゥーはヨーロッパへ戻ることとなります。
 モントゥーが手塩にかけたボストン交響楽団はこうしてクーセヴィツキーの手に渡ることになり、しかもクーセヴィツキーの在任期間が25年間という異例の長さだったこともあり、その間、モントゥーはボストン交響楽団を指揮することができませんでした。
 クーセヴィツキー退任の年である1949年には、新音楽監督のミュンシュ、クーセヴィツキーと共に会ったりもしていますが(下の画像)、モントゥーがミュンシュに招かれてボストン交響楽団の指揮台に復帰するのは、1951年2月のことで、成功を収めたことで、秋のヨーロッパ・ツアーにも同行することとなり、以後、最晩年まで、オーケストラとの親密な関係は継続することになります。


 このセットでは、下記の演奏を聴くことができます。
Disc1
● R.シュトラウス:交響詩『英雄の生涯』
● R.シュトラウス:交響詩『ティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら』
Disc5
● ワーグナー:『パルジファル』〜第1幕前奏曲
● ドビュッシー:交響的断章『聖セバスチャンの殉教』〜「ゆりの園」
● ドビュッシー:交響的断章『聖セバスチャンの殉教』〜「法悦の舞曲と第1幕の終曲」
● ワーグナー:『神々の黄昏』〜第1幕「夜明けとジークフリートのラインへの旅」
● ワーグナー:『神々の黄昏』〜第3幕「ジークフリートの葬送行進曲」
● ドビュッシー:『映像』
● ドビュッシー:『遊戯』
Disc30
● プロコフィエフ:交響曲第1番 Op.25『古典』
● R.シュトラウス:交響詩『死と浄化』Op.24
● ベートーヴェン(ワインガルトナー編):『大フーガ』Op.133
● ドビュッシー:交響的断章『聖セバスチャンの殉教』
Disc31
● グリンカ:『ルスランとリュドミラ』序曲
● チャイコフスキー:交響曲第4番 Op.36
● ミヨー:『エウメニデス』〜第3幕 前奏曲
● ドビュッシー:『夜想曲』
Disc32
● ラヴェル:『ラ・ヴァルス』
● ワーグナー:『トリスタンとイゾルデ』〜「イゾルデの愛の死」
● ブラームス:『大学祝典序曲』Op.80
● ストラヴィンスキー:『ペトルーシュカ』
Disc33
● ワーグナー:『パルジファル』〜第1幕前奏曲
● ワーグナー:『パルジファル』〜第1幕「幼子のあなたが」
● ワーグナー:『ローエングリン』〜第1幕前奏曲
● ワーグナー:『ローエングリン』〜第1幕「物悲しい日に、私は一人寂しく」
● ワーグナー:『リエンツィ』序曲
● ワーグナー:『さまよえるオランダ人』〜序曲
● ワーグナー:『さまよえるオランダ人』〜第2幕「海原に船を見かけましたか」
● ワーグナー:『ジークフリート』〜第2幕「森のささやき」
● ワーグナー:『タンホイザー』〜第2幕「おごそかなこの広間よ」
● ワーグナー:『ワルキューレ』〜第3幕前奏曲「ワルキューレの騎行」
Disc34
● ブラームス:『悲劇的序曲』Op. 81
● ヒンデミット:『気高い幻想』組曲
● R.シュトラウス:『ドン・キホーテ』Op.35
Disc35
● ドビュッシー:『牧神の午後への前奏曲』
● ダンディ:『フランスの山人の歌による交響曲』Op.25
● チャイコフスキー:交響曲第5番 Op.64
Disc36
● リムスキー=コルサコフ:『金鶏』〜第3幕「婚礼の行列」
● バッハ(レスピーギ編):パッサカリアとフーガ BWV 582
● ブラームス(トムソン編):11のコラール前奏曲 Op.122
● R.シュトラウス:交響詩『ドン・ファン』Op.20
Disc37
● メンデルスゾーン:交響曲第4番 Op.90『イタリア』
● シューマン:『マンフレッド』Op.115〜序曲
● シューマン:『序奏とアレグロ・アパッショナート』Op.92
Disc38
● ベートーヴェン:『フィデリオ』〜序曲
● ベートーヴェン:交響曲第6番 Op.68『田園』
● ベートーヴェン:交響曲第5番 Op.67『運命』


【コンセルトヘボウ管弦楽団】
1924年、メンゲルベルクの代役として公演を成功させると『春の祭典』が依頼され、さらに大きな成功を収めます。メンゲルベルクは、自身が一か月研究しても指揮できなかった『春の祭典』を、鮮やかに仕上げてしまったモントゥーの力量に感嘆、コンセルトヘボウ管弦楽団の共同指揮者になるよう提案し、その第1指揮者に任命します(第2指揮者はメンゲルベルク)。この変則的な役職は、メンゲルベルクが1922年からニューヨーク・フィルの音楽監督を兼務して多忙だったことによるとも思われますが、モントゥーとメンゲルベルクは対照的な芸風ながらお互いを尊重、指揮者としての立場もあくまで平等という形での運営でした。
 アムステルダムでの10年間は非常に充実したもので、コンセルトヘボウ管弦楽団と毎年50〜60公演を演奏したほか、1931年には若きベイヌム[1901-1959]を次席指揮者に推薦して育成しています。
 コンセルトヘボウ管弦楽団との関係はモントゥー渡米後も継続し、最晩年まで折にふれ客演して見事な演奏を聴かせていました。
 このセットでは、下記の演奏を聴くことができます。
Disc15
● ワーグナー:『ジークフリート牧歌』
Disc39
● ブラームス:交響曲第3番 Op.90
● ストラヴィンスキー『ペトルーシュカ』(1911年版)


【パリ交響楽団】
1928年に投資家や銀行など民間資金によって設立されたパリ交響楽団は、コルトー、アンセルメ、フレスティエの3人が指揮して活動していましたが、なかなかうまくいかず、困ったコルトーが友人のモントゥーに手紙で依頼するものの、モントゥーはコンセルトヘボウ管弦楽団の指揮や、ほかのオーケストラへの客演で忙しかったため断ります。しかし、コルトーは諦めず、オランダまで出向いて懇願、モントゥーも折れて指揮を承諾、オーケストラを鍛えなおし、1929年4月から演奏会をおこない、『春の祭典』で成功を収めたほか、プロコフィエフの交響曲第3番の初演でも話題となります。
 なお、5月には早くも『春の祭典』をHMVにレコーディングしていますが、同時期にストラヴィンスキー本人がワルター・ストララム管弦楽団を指揮して『春の祭典』を仏Columbiaにレコーディングしており、完成度の高さに差がついてしまったこともあってストラヴィンスキーは立腹、しばらくのあいだ両者の関係は冷え込んでしまいます。
 好調なパリ交響楽団でしたが、1930年には「世界大恐慌」が運営体制を直撃。資金援助の中枢でもあった2つの銀行が倒産し、ほかの投資家や資産家たちも援助不能状態に陥ります。ココ・シャネルはしばらく援助を続けましたが、それも年内には終わってしまい、途方に暮れたモントゥーは、楽団の組織形態を「協会」方式に移行し、演奏会を自己資金で開催、利益を基金に積み上げ、年度末に楽員に分配する形をとることにします。しかし補助金なしのオーケストラ演奏会の運営は実際には非常に難しく、諸経費相殺後の利益は微々たるものになってしまったため、モントゥーの報酬も、その多くを基金に供出せざるをえない状態が続きます。
 それでも1932年のヨーロッパ・ツアーを成功させ、さらに1936年には指揮の学校「エコール・モントゥー」を設立することで、パリ交響楽団の楽員たちに演奏の場を提供、彼らの窮状を救うための策ともしていました。


【サンフランシスコ交響楽団】
1934年、クレンペラーの招きでロサンジェルス・フィルに5週間客演。演奏会は成功を収め、モントゥーと面識のあったアームスビー女史(上の画像)からサンフランシスコ交響楽団の立て直しについて打診され、悩んだ末に承諾。1936年には音楽監督に就任しています。
 1911年に結成されたサンフランシスコ交響楽団は、1926年に一度破産しており、その後、石油会社や公的資金の援助も受けながら運営を続けていましたが、折からの大恐慌の影響により財政はさらに悪化、1934年と1935年のシーズンはまるごとキャンセルという状況にまで追い込まれていました。
 そのため楽員の多くは、賃金の良いハリウッドのスタジオでも仕事をしていたために人数の確保が難しい状況にあり、さらに、音楽家ユニオンが地域の加盟音楽家を保護する目的で、他の地域からの音楽家の移籍についてはきびしく制限していたために、外部からの人員確保も6人ほどに留まるという状況で、モントゥーによるオーケストラの立て直しは困難を強いられることになります。
 しかしモントゥーは楽員たちを巧みに指導してオーケストラを良い状態に持っていき、スタンダード石油の放送番組「スタンダード・アワー」への出演により資金を安定的に確保、コンサートも定期的に開催し、RCAへのレコーディングも開始するなど大いに奮闘、1952年に77歳で退任するまで実績を積み上げていきます。
 このセットでは、下記の演奏を聴くことができます。


Disc3
● ベートーヴェン:交響曲第5番 Op.67『運命』
● ベートーヴェン:『プロメテウスの創造物』Op. 43〜アダージョ
● ベートーヴェン:序曲『献堂式』Op.124
● ベートーヴェン:『エグモント』Op.84〜序曲
● ベートーヴェン:『フィデリオ』Op.72〜序曲
● ベートーヴェン:『レオノーレ』序曲第3番 Op.72b
Disc4
● R.シュトラウス:『ドン・ファン』Op.20
● R.シュトラウス:『死と浄化』Op.24
● R.シュトラウス:『ティル・オイレンシュピーゲルの愉快な悪戯』Op. 28
● R.シュトラウス:『ばらの騎士』組曲 Op.59
Disc6
● ワーグナー:『パルジファル』〜前奏曲と聖金曜日の音楽
● ワーグナー:『ニュルンベルクのマイスタージンガー』〜第1幕前奏曲
● ワーグナー:『ニュルンベルクのマイスタージンガー』〜第3幕前奏曲と「徒弟たちの踊りと親方たちの入場」
● ワーグナー:『さまよえるオランダ人』序曲
● ワーグナー:『トリスタンとイゾルデ』前奏曲と愛の死
Disc15
● ワーグナー:『ワルキューレ』〜第3幕「ヴォータンの告別と魔の炎の音楽」
● ワーグナー:『ジークフリート』〜第2幕「森のささやき」
● ワーグナー:『神々の黄昏』〜第1幕「ジークフリートのラインへの旅」
● ワーグナー:『タンホイザー』〜序曲
● ワーグナー:『リエンツィ』〜序曲
Disc16
● リスト:交響詩『レ・プレリュード』S97/R414
● リスト:ハンガリー狂詩曲第2番
● グレトリー:バレエ音楽『セファールとプロクリ』
● ニコライ:『ウィンザーの陽気な女房たち』〜序曲
● マスネ:序曲『フェードル』
● ファリャ:『三角帽子』組曲第2番
● ロッシーニ:『ウィリアム・テル』〜序曲
Disc17
● ベルリオーズ:序曲『ローマの謝肉祭』Op.9
● ベルリオーズ:『トロイ人』〜前奏曲
● ベルリオーズ:『キリストの幼時』〜第2部「序曲」、第3部「若いイスマエル人の演奏する2本のフルートとハープのためのの三重奏」
● ベルリオーズ:『ファウストの劫罰』〜「鬼火のメヌエット」、「妖精の踊り」、「ラコッツィー行進曲」
● ベルリオーズ:劇的交響曲『ロメオとジュリエット』Op.17〜「争い」、「騒動」、「ロメオひとり」、「キャピュレット家の舞踏会のロメオ」、「愛の情景」
● ベルリオーズ:序曲『海賊』Op.21
Disc18
● モーツァルト:交響曲第35番 K.385『ハフナー』
● モーツァルト:交響曲第41番 K.551『ジュピター』
● モーツァルト:『ドン・ジョヴァンニ』K.527〜序曲
● モーツァルト:『魔笛』K.620〜序曲
● モーツァルト:『後宮からの誘拐』K.384〜序曲
● レスピーギ:『ローマの噴水』P.106
Disc19
● シューマン:交響曲第4番 Op.120
● ハイドン:交響曲第88番 Hob.I:88
● ウォルトン:『ファサード』組曲第1番
● グルック:『アウリスのイフィゲニア』〜序曲
● アルファーノ:『復活』〜「恵みの神」
● シベリウス:『ポホヨラの娘』Op.49
● チャドウィック:交響的スケッチ
Disc20
● ラフマニノフ:交響曲第2番 Op.27
● リムスキー=コルサコフ:『クリスマス・イヴ』
● リムスキー=コルサコフ:序曲『ロシアの復活祭』Op.36
● リムスキー=コルサコフ:『スペイン奇想曲』Op.34
● ボロディン:『イーゴリ公』〜「だったん人の踊り」
● グラズノフ:『バレエの情景』Op.52
Disc21
● ブラームス:交響曲第1番 Op.68〜第2楽章
● ブラームス:『悲劇的序曲』Op. 81
● ロッシーニ:『アルジェのイタリア女』〜序曲
● トマ:『ミニョン』〜序曲
● デュカス:『魔法使いの弟子』
● メシアン:『キリストの昇天』
● シベリウス:『悲しいワルツ』Op.44
● ウェーバー:『オイリアンテ』〜序曲
● スーザ:『星条旗よ永遠なれ』
Disc22
● メンデルスゾーン:交響曲第4番 Op.90『イタリア』
● メンデルスゾーン:序曲『フィンガルの洞窟』Op.26
● メンデルスゾーン:序曲『ルイ・ブラス』Op. 95
● チャイコフスキー:幻想序曲『ロメオとジュリエット』


【NBC交響楽団】
1937年夏、指揮を教えるため南仏レ・ボー=ド=プロヴァンス滞在中に、NBC交響楽団の代理人が訪ねてきてモントゥーにNBC交響楽団の指揮を依頼。NBC交響楽団はトスカニーニのために新たにつくられたオーケストラで、すでに他の指揮者によって3週間練習をしていたもののうまくいかず、トスカニーニ本人の希望で、モントゥーにオーケストラの創設演奏会の準備と指揮を任せたいという話でした。
 モントゥーは承諾してNBC交響楽団を訓練してまとめあげ、創設コンサートを無事に開催して、トスカニーニに引き継ぎます。


【ロンドン交響楽団】
モントゥーはフリーランスになってからロンドン交響楽団を何度か指揮して成功しており、1961年には請われて首席指揮者に就任しています。しかも86歳の高齢にも関わらず、契約期間は25年(!)ということで、楽団側の期待度の高さにも凄いものがあったようです。
 歳をとっても元気だったモントゥーは期待に応え、ロンドン交響楽団とのコンサートやレコーディングに熱心に取り組み、その間、コンセルトヘボウ管弦楽団やボストン交響楽団、北ドイツ放送交響楽団などとの仕事もこなし、さらに1963年には、日本を含むワールド・ツアーまで敢行する忙しさでした。
 しかし、その疲れもあってか、ボールトから王立フィルハーモニー協会のゴールド・メダルを授与される際、指揮台から降りるときに転倒して気絶。以後、気を失うことが多くなります。
 翌年4月のロンドン公演では、リハーサルのあと、発電所の重大な事故により、ロンドンが大停電に見舞われたため、89歳のモントゥーは、ホテルの6階の部屋まで階段で登ることを余儀なくされます。部屋になんとか到着したモントゥーは、疲労のせいか仰向けに転倒しテーブルの角に頭をぶつけて気絶、1時間ほどして意識を回復したモントゥーは、朝1番の飛行機でアメリカの自宅に帰宅することとなり、自宅療養2か月の後に脳血栓のため亡くなっています。
 このセットでは、下記の演奏を聴くことができます。
Disc40
● チャイコフスキー:交響曲第5番 Op.64
● チャイコフスキー:幻想序曲『ロメオとジュリエット』


【フランス国立放送管弦楽団】
フランス国立放送管弦楽団(現在の名称はフランス国立管弦楽団)は、1934年にフランス政府によって設立され、初代音楽監督デジレ=エミール・アンゲルブレシュト[1880-1965]のもと実力をつけたオーケストラ。アンゲルブレシュトは1934年から1946年までの12年間と、1951年から1958年の7年間の計19年に渡って音楽監督を務めていました。
 モントゥーの5歳年下の友人であるアンゲルブレシュトは、若いころにモントゥーのオーケストラ「コンセール・ベルリオーズ」で何度も指揮させてもらっており、それが指揮者になるのに大きな経験になったと語っていました。
 モントゥーはフリーランスになってからアンゲルブレシュト時代のフランス国立放送管弦楽団に何度も客演しており、このセットでは、下記の演奏を聴くことができます。
Disc7
● ストラヴィンスキー:『春の祭典』
● ベートーヴェン:交響曲第8番 Op.93
Disc8
● ベートーヴェン:交響曲第9番 Op.125『合唱』
Disc9
● ヒンデミット:組曲『気高い幻想』
● クープラン:『スルタン妃』
● ドビュッシー:『映像』
Disc10
● ベートーヴェン:交響曲第7番 Op.92
● ラヴェル:『シェエラザード』
Disc11
● ベートーヴェン:交響曲第2番 Op.36
● レスピーギ:『ローマの松』P.141
● R.シュトラウス:『死と浄化』Op. 24
Disc12
● ストラヴィンスキー:『ペトルーシュカ』[1911年版]
● ドビュッシー:『遊戯』
● ワーグナー:『さまよえるオランダ人』〜序曲
Disc13
● チャイコフスキー:交響曲第5番 Op.64
● プロコフィエフ:交響曲第1番 Op.25『古典』
● リムスキー=コルサコフ:『金鶏』組曲〜「結婚行進曲」
Disc14
● フランク:交響曲ニ短調 M.48
● エルガー:創作主題による変奏曲『エニグマ』Op.36


【モントゥー年表】
1875年(0歳)
●4月4日、パリ9区に誕生。フルネームはピエール・バンジャマン・モントゥー。母クレマンス・ブリザック[1842-1927]はマルセイユ音楽院出身のピアノ教師でした。

1881年(6歳)
●ヴァイオリンのレッスンを開始。パドルー管弦楽団のヴァイオリン奏者で従兄のフェリックス・ブロッホから教えを受けます。

1883年(8歳)
●聖ユージェーヌ教会の聖歌隊でボーイ・ソプラノを担当。
●指揮者ジュール・ダンベに教えを受け、パリ音楽院入学に向けて準備。

1884年(9歳)
●パリ音楽院に入学。ヴァイオリン予備科でジュール・ガルサンに5年間師事、和声とソルフェージュをアルベール・ラヴィニャックに5年間師事、その後、ヴァイオリン上級科でジャン・ピエール・モーランとアンリ・ベルトリエに、室内楽をバンジャマン・ゴダールに、対位法とフーガをシャルル・ルヌヴーに学んでいます。

1886年(11歳)
●指揮者になることを決意。

1887年(12歳)
●初めての指揮。パリで開かれるチャリティー舞踏会のための作品公募にポルカを作曲して応募、作品が認められ、さらに指揮する機会も与えられました。

1889年(14歳)
●ロートレックやマネの絵でも知られるフランスのミュージック・ホール「フォリー・ベルジェール」の楽団で演奏(1891年まで)。モントゥーは後年、ガーシュウィンからそのリズム感を称えられた際、「フォリーでの2年間がずいぶん役に立っています。そこではいろいろなダンスやアクロバットが演じられ、それらの伴奏にはリズムが最も大切で、極度の正確さが求められましたから。それは若音楽家にとって良い訓練でした。」と語っています。
●パリ音楽院でヴァイオリン上級科に移り、ジャン・ピエール・モーランに師事。

1890年(15歳)
●パリ音楽院生などによる室内オーケストラを率いてフランス国内ツアー。12歳の友人、アルフレッド・コルトーも同行。
●パリ音楽院でヴァイオリンの勉強を続ける一方で、ヴィオラを独学で勉強。弦楽四重奏にのめりこみます。
●パリ音楽院で室内楽をバンジャマン・ゴダールに師事。

1892年(17歳)
●友人のリュシアン・カペーの誘いにより、ヴィオラ奏者としてジェローソ四重奏団に参加(1911年まで)。各地でコンサートをおこない、ウィーンではブラームスの前で本人の作品を演奏、「フランス人は私の音楽を適切に演奏します。ドイツ人はあまりにも重く演奏します。私の音楽を理解するためにはフランス人が必要です。」と評され、生涯続くモントゥーのブラームスへの偏愛のきっかけとなりました。

1893年(18歳)
●コンセール・コロンヌ管弦楽団の首席ヴィオラ奏者として、エドゥアール・コロンヌやアルトゥール・ニキシュ、フェリックス・ワインガルトナー、フェリックス・モットル、そしてハンス・リヒターといった指揮者たちのもとで演奏、さまざまなスタイルの作品に通じるようになります。特にベルリオーズと交流があり、『ファウストの劫罰』を200回以上も指揮したというコロンヌや、モントゥーの演奏を気に入りバイロイトに誘ったハンス・リヒター、チャイコフスキーで見事な演奏を聴かせたニキシュの影響は大きかったようで、後年のモントゥーのベルリオーズやワーグナー、チャイコフスキーへの偏愛にも繋がっていると考えられます。
●パリ音楽院の学生で、モントゥーとベートーベンのヴァイオリン・ソナタ全曲リサイタルなどもおこなっていた同年齢のピアニスト、ヴィクトリア・バリエール[1875-1945]と結婚。
 モントゥー家は熱心なユダヤ教徒ではなかったものの、父ギュスターヴ[1834-1924]の先祖はスペインから南仏に移り住んで来たユダヤ教教徒で中にはラビもおり、一方のバリエール家はローマ・カトリックということで、2人とも家族の反対を押し切っての結婚でした。

1894年(19歳)
●パリ音楽院ヴァイオリン上級科の教授、ジャン・ピエール・モーランが死去、後任のアンリ・ベルトリエに引き続き師事。
●パリ音楽院で対位法とフーガをシャルル・ルヌヴーに師事。

1895年(20歳)
●サン=サーンス本人との共演で、七重奏曲、『動物の謝肉祭』を演奏。
●サン=サーンスのオラトリオ『リラと竪琴』初演のさい、リハーサルでオルガン担当者の演奏ミスが多発、指揮のサン=サーンスがオルガンを弾くことになり、モントゥーが代わりに指揮を引き受けて初見で無事に初演。

1896年(21歳)
●パリ音楽院を卒業。ジャック・ティボーら4人と共にヴァイオリンのプルミエ・プリを獲得。4人中、モントゥーは3位、ティボーは4位でした。
●徴兵により第132歩兵連隊に配属。通常3年間の役務を、一流校卒業生優遇規定により、10か月間に短縮。連隊の大佐にヴァイオリンのレッスンをおこなったり、将校たちのパーティーで演奏するなど、音楽活動もおこなえました。

1899年(24歳)
●長男ジャン=ポール・モントゥー[1899-1954]誕生。

1900年(25歳)
●滅多に取り上げられることのなかったベルリオーズの『イタリアのハロルド』でヴィオラ独奏を担当。指揮はフェリックス・モットル、オーケストラはコンセール・コロンヌ管弦楽団。

1902年(27歳)
●オペラ・コミーク座のヴィオラ奏者となり、ドビュッシーの『ペレアスとメリザンド』初演に参加。指揮はアンドレ・メサジェ。
●夏シーズンに開催されるノルマンディー海岸の避暑地ディエップのカジノのオペラとオーケストラで、ヴァイオリン奏者と指揮者を兼務。オーケストラはフランス国内で募集をかけて優秀な奏者を集めたもので、聴衆は主にパリとロンドンから訪れていました。そのため演目も豪華で、モントゥーは『ファウスト』『アイーダ』『ボエーム』『カルメン』『マノン』『ノートルダムの軽業師』『椿姫』『カヴァレリア・ルスティカーナ』『道化師』『リゴレット』『トスカ』『タイス』『サムソンとデリラ』『ミレイユ』『フィリーヌ』などを指揮しています(1907年まで在任)。

1903年(28歳)
●初のレコーディングはヴィオラ奏者としての演奏で、曲目はマイヤーベーア『ユグノー教徒』からの「シロテンよりもなお白く」の編曲でした。シリンダー録音。

1906年(31歳)
●コンセール・コロンヌ管弦楽団を指揮してプロ指揮者デビュー。

1907年(32歳)
●コンセール・コロンヌ管弦楽団を指揮してシリンダー録音。

1909年(34歳)
●妻ヴィクトリアのコンサート・ツアーでの不在が多かったことなどから夫婦仲が悪化し離婚。

1910年(35歳)
●元教え子で15歳年下のジェルメーヌ・ベネディクトゥス[1890-1967]と結婚。

1911年(36歳)
●ディアギレフの運営するロシア・バレエ団の首席指揮者に就任。チェレプニンの指揮で初演が予定されていた『ペトルーシュカ』で、モントゥーが下稽古をつけていた際、当時29歳のストラヴィンスキーがたいへん気に入り、ディアギレフに要請して初演指揮者をモントゥーに変更、さらに、ディアギレフの依頼で、ディアギレフの作曲の師でもあるリムスキー=コルサコフの『シェエラザード』を指揮したところ、ディアギレフ自身も感激、これにより、『ペトルーシュカ』、『シェエラザード』に、『ばらの精』の指揮をまかされることとなります。そして秋からのヨーロッパ・ツアーに際して、ディアギレフはモントゥーを首席指揮者に任命します。
●コロンヌ管弦楽団を退団。委員会ともめたすえ17年分の年金基金を没収されます。
●避暑地ディエップで「コンセール・ベルリオーズ」を設立し、一流楽員を集めてコンサートを開催。のちに「コンセール・モントゥー」に改称。

1912年(37歳)
●夏、ディアギレフから連絡があり、ストラヴィンスキーが途方もない曲を書いたので聴きに来てほしいということで、ストラヴィンスキー自身によるピアノでの汗だくの試演に立ち会います。当初、作品の強烈さに途方に暮れたモントゥーでしたが、ストラヴィンスキーと共にピアノに向かってスコアを研究、その後ひと冬かけて勉強して作品の内容を消化します。

1913年(38歳)
●3月から5月まで2か月かけて『春の祭典』のオーケストラ・リハーサル。ストラヴィンスキー立ち合いのもと、まず弦・木管・金管の各セクションごとに練習、途中、ストラヴィンスキーの細かなリクエストにも応えながら全体の合奏に持っていく方向で、計17回に及ぶリハーサルで最後にバレエを舞台に上げて仕上げ、本番に臨みます。
●5月、『春の祭典』初演。舞台上の奇抜な演出のバレエ上演をめぐって客席で騒ぎが起き、やがて各所で小競り合いとなり、暴力行為に及ぶ者もあらわれたため憲兵隊まで出動する騒ぎに。パリでは計5回上演され毎回同じような騒ぎとなりましたが、続いてロンドンで数回おこなわれたバレエ上演では特に騒ぎは起きませんでした。

1914年(39歳)
●避暑地ディエップでのモントゥーによる演奏会企画「コンセール・モントゥー」で、バレエ無しのオーケストラ・コンサートにより『春の祭典』をとりあげ成功。
●ストラヴィンスキーのオペラ『うぐいすの歌』をガルニエ宮で初演。
●第一次世界大戦開戦により徴兵され、第35歩兵連隊に配属。ヴェルダン、ソワソン、アルゴンヌに配され、不潔な塹壕でネズミやノミに悩まされながらも、ときにはトロンボーンやクラリネット、ドラムなどから成る小さなアンサンブルを仲間と編成して楽しみ、なんとか乗り切ります。

1916年(41歳)
●ディアギレフが5か月に及ぶ北米ツアーに指揮者として同行させるため、モントゥーの前線任務の解除をフランスの戦時局に要請し、モントゥーは2年2か月に及ぶ任務から解放されます。前線から輸送トラックの待ち合わせ場所までは50キロ近くもありましたが、モントゥーは重い兵装に加えてヴァイオリン・ケースと楽譜の束を抱えながら徒歩で移動することとなりました。
●9月、ディアギレフのロシア・バレエ団は、ボルドーの港から古い客船に乗って出航。前年5月にイギリスの豪華客船ルシタニア号が、ドイツのUボートに撃沈され約1200人の民間人が殺されていたので、船旅は灯りを抑えた暗く不安なものとなりましたが、8日後には無事ニューヨークに到着。
●投資家で音楽や芸術の後援者でもあったオットー・カーン[1867-1934]が出迎え。カーンはメトロポリタン歌劇場とニューヨーク・シティ交響楽団の有力な支援者でもありました。
●ロシア・バレエ団北米ツアー最初の演目は、フランスの交戦国であるドイツの作曲家、R.シュトラウスによる『ティル・オイレンシュピーゲルの愉快な悪戯』だったため、直前まで対ドイツの軍務につき、膨大な死者を出したヴェルダンの激戦も経験していたモントゥーは指揮を拒否。ちなみにアメリカがドイツに宣戦布告して第1次世界大戦に参戦するのは翌1917年の4月のことで、当時は英仏だけでなくドイツとも盛んに貿易をおこなって大きな利益をあげていました。

1917年(42歳)
●2月、ロシア・バレエ団北米ツアー終了。
●オットー・カーンの紹介でメトロポリタン歌劇場の支配人、ジュリオ・ガッティ=カサッツァ[1869-1949]と会い、メトでフランス・オペラ(とロシア・オペラ)の指揮をするよう求められます。モントゥーはフランスの戦時局で働いている友人のアルフレッド・コルトーに電報を打って状況を説明、アメリカ滞在の可否について打診、最終的に「除隊」扱いとなって軍務を終了、アメリカに継続的に滞在できることになります。
●投資家オットー・カーンの紹介でニューヨーク・シティ交響楽団(1923年にニューヨーク・フィルに吸収)を指揮。批評家は、モントゥーを「バレエ指揮者」と決めつけて、それを理由に彼のオーケストラ演奏会を酷評。
●秋、メトロポリタン歌劇場のフランス・オペラ部門の指揮者に就任。翌シーズンにかけて『カルメン』『ファウスト』『サムソンとデリラ』『タイス』『マルーフ』『金鶏』などを指揮。歌手陣もカルーソー、マルティネッリ、ファーラー、ガドツキら有名どころが揃っていました。
●有力音楽雑誌の批評家が、モントゥーを「交響曲とバレエの指揮者」と決めつけてそれを理由に彼のオペラ上演を攻撃。オットー・カーンが、その有力音楽雑誌に500ドルの広告を出すと批評家による攻撃はすぐに収束。
●メトでは、金をくれれば公演でのブーイングをしないようにするというグループの関係者まで登場。モントゥーはこの申し出を拒否します。
●メト支配人ガッティ=カサッツァが、夫人のソプラノ歌手フランシス・アルダ[1883-1952]のためにフランス・オペラの『マルーフ』のアメリカ初演を企図。しかしアルダが自分の歌う王女役に目立つアリアが無いことに不満を漏らして騒ぎを起こし、上演が危ぶまれたため、モントゥーは作曲者のラボーに交渉、『マルーフ』の中からアリアに使えそうな旋律素材などを提案した結果、アンリ・ラボー[1873-1949]はアリアの追加作曲に応じ、12月19日、米国初演に漕ぎつけます。

1918年(43歳)
●ボストン交響楽団のドイツ人音楽監督カール・ムック[1859-1940]が『星条旗』の演奏を拒否したことが原因で当局から睨まれ、さらにラジオを持っていたことでスパイとして逮捕されてしまったほか、同じくドイツ人の楽員18人もドイツ人ということでボストン交響楽団を解雇されてしまいます。第1次世界大戦が終わった後も、アメリカ楽壇はそうした反ドイツ主義を拡大、それまでクラシック楽壇で長く続いた「親ドイツ」から、「親フランス」へと一気に転じて行きます。
●モントゥーのもとを次期音楽監督を探していたボストン交響楽団のマネージャーが訪れますが、モントゥーにはメトロポリタン歌劇場の契約期間がまだ長く残っていました。そこでモントゥーは、前年に関わっていたフランスの作曲家のアンリ・ラボーを推薦、話はすぐにまとまり、ラボーは音楽監督としてボストン交響楽団と契約。
●ラボーはパリ・オペラ座の指揮者の契約が11月まであったため、秋のシーズン開幕から11月まではモントゥーが指揮を担当することが決定。
●モントゥーは大量解雇でひどい状態になっていたボストン交響楽団を再建すべく努力しますが、スペイン風邪収束の後、さらに毒性を増していたインフルエンザの大流行により、ボストンでは劇場や教育機関、公的機関などが、9月25日に無期限閉鎖を余儀なくされてしまいます。ちなみにこのインフルエンザでのボストンの死者は4,794人に達し、ピッツバーグ、フィラデルフィアと共に全米で最も被害の大きかった都市となっています。


1919年(44歳)
●ボストン交響楽団の音楽監督に就任。前年11月にボストン入りした音楽監督のアンリ・ラボーは、フォーレがパリ音楽院院長を引退することが決まると、夏にはフランスに戻って次期パリ音楽院院長の地位を獲得すべく準備する道を選択したため、ごくわずかな期間の滞在となりました。ちなみにラボーはのちにナチに協力しますが、うまく立ち回ったため、罪に問われることはありませんでした。
●ボストン交響楽団の楽員たちが、オフシーズンの夏季に収入が大幅に減ることなどから、音楽家ユニオンへの加盟をめぐって二分、楽団内の人間関係は険悪なものとなります。
●コンサートマスターで音楽家ユニオン加盟者のフレデリック・フラドキン[1892-1963]とモントゥーの対立が深刻になり、コンサート会場でもフラドキンがモントゥーに対して無礼な行為に及ぶなどしたため、経営陣によりフラドキンは解雇、すると翌日にはユニオン加盟者などの楽員36人が演奏拒否、うち32人は楽団側からの呼びかけにも応じず、ニューヨークのナショナル交響楽団(のちにニューヨーク・フィルに吸収)やデトロイト交響楽団に移るなど深刻な労使問題を抱えることとなります。なお4人の復帰者の中にはのちのボストン・ポップス指揮者アーサー・フィードラー[1894-1979]もいました。その後20年以上の時を経た1942年12月、ボストン交響楽団は音楽家ユニオンに加盟します。
●チャドウィック[1854-1931]の『死の天使』を初演。

1920年(45歳)
●楽員大幅欠員状態のため55人の中規模編成で『新世界』『ローエングリン』前奏曲などによるツアーを実施。
●パリに出かけてコンサートマスターを募集。ポーランド生まれでヨアヒムとアウアーに師事、北欧で活動していたリチャード・バージン[1892-1981]を採用。バージンはその後41年間に渡ってボストン交響楽団のコンサートマスターとして活躍します。
●のちにフルート奏者、指揮者となる息子、クロード[1920-2013]が誕生。

1921年(46歳)
●コンセール・コロンヌ管弦楽団に客演。
●チャドウィックの『主題、変奏曲とフーガ』『メルポメネ』を初演したほか、R.シュトラウスの町人貴族や、ファリャの『三角帽子』などの同時代音楽も積極的にとりあげます。

1922年(47歳)
●伝統的作品のほか、シマノフスキの交響曲第2番、オネゲル『勝利のオラース』、ストラヴィンスキー『プルチネッラ』などの同時代作品も指揮。

1923年(48歳)
●ブリスの『カラー・シンフォニー』、グーセンスのスケルツォ、トゥリーナの幻想舞曲、ケクランの3つのコラールなど米国初演。

1924年(49歳)
●ボストン交響楽団のニューヨーク公演で『春の祭典』をニューヨーク初演。客席にいた15歳のエリオット・カーター[1908-2012]に衝撃を与えます。
●ボストン・ピープルズ・ユニオン・コーラスの一員としてボストン交響楽団と共演した際に知り合った19歳年下のドリス・ホジキンス[1894-1984]と交際。ボストンの議員がこのことについて問題視。
●ボストン交響楽団経営陣は、議員から問題提起されたこの件に対応するためか、長くとも5年で音楽監督を交代させるというルールをつくり、それを理由にモントゥーの後任選びを開始。
●ボストン交響楽団経営陣は、関係者からパリの「コンセール・クーセヴィツキー」の評判を聞き、エージェントを派遣してクーセヴィツキー[1874-1951]に音楽監督への就任を要請、快諾したクーセヴィツキーは、ほどなく妻のナターリアと共にアメリカに渡ります。
●ボストン交響楽団事務局により、次期音楽監督クーセヴィツキーの宣伝広告が早々に開始され、モントゥーにとっては不本意な状況が続くことになります。
●ボストン交響楽団音楽監督を退任し、ドリス・ホジキンスおよび彼女の2人の連れ子、ナンシー[1917-2013]とドナルドと共にベルギーのワーテルローに移り住みます。ナンシーはのちにダンサーとなって継父モントゥーと共演。なお、2人目の妻ジェルメーヌと実の娘のデニース、4歳の実の息子のクロードとは別居状態が継続、ジェルメーヌは1928年に離婚に応じ、モントゥーはすぐにドリスと3度目の結婚をしています。
●パリでロシア・バレエ団を指揮。演目はストラヴィンスキーの『結婚』と一連のロシア物。
●メンゲルベルクの代役としてコンセルトヘボウ管弦楽団を指揮。ブラームスの4番ほかのプログラムで、これが成功すると、今度は『春の祭典』が依頼されます。オランダ初演にあたるこの演奏会は12回に及ぶリハーサルを経ておこなわれ、大きな成功をもたらしました。
●ウィレム・メンゲルベルク[1871-1951]は、自身が一か月研究しても指揮できなかった『春の祭典』を、鮮やかに仕上げてしまったモントゥーの力量に感嘆、コンセルトヘボウ管弦楽団の共同指揮者になるよう提案し、その第1指揮者に任命(1934年まで)します(第2指揮者はメンゲルベルク)。この変則的な役職は、メンゲルベルクが1922年からニューヨーク・フィルの音楽監督を兼務して多忙だったことによるとも思われますが、モントゥーとメンゲルベルクは対照的な芸風ながらお互いを尊重、指揮者としての立場もあくまで平等という形での運営でした。
 ボストン響の欠員問題を解決して演奏水準を大幅に引き上げながらも、私生活の問題によって経営陣からなかば追い出された形のモントゥーにとって、ヨーロッパ有数のオーケストラとの契約は大きな喜びとなりました。
 アムステルダムでの10年間は非常に充実したもので、コンセルトヘボウ管弦楽団と毎年50〜60公演を演奏したほか、1931年には若きベイヌム[1901-1959]を次席指揮者に推薦して育成、さらに同地で『ペレアスとメリザンド』『ホフマン物語』『カルメン』『オーリードのイフィジェニー』『ファルスタッフ』などのオペラも上演。しかも『ファルスタッフ』については、主催者が当初トスカニーニを招いたものの、トスカニーニが、モントゥーこそが『ファルスタッフ』にとって最高の指揮者であると称えて指揮の依頼を辞退したというエピソードまでありました。
●父ギュスターヴ死去。

1927年(52歳)
●母クレマンス死去。

1928年(53歳)
●フィラデルフィア管弦楽団に客演。『春の祭典』で賛否両論を巻き起こすものの、翌年4月まで滞在します。
●ジェルメーヌとの離婚が成立したため、同棲4年目のドリス・ホジキンスと結婚。

1929年(54歳)
●コルトーから、前年に設立されたパリ交響楽団の指揮を手紙で依頼されますが、コンセルトヘボウ管弦楽団の指揮や他のオーケストラへの客演で忙しかったモントゥーは依頼を断ります。しかし、コルトーは諦めず、オランダまでやってきて説得、モントゥーも折れて、指揮を承諾、4月に最初の演奏会をおこなっています。
 パリ交響楽団は、音楽愛好家の資産家や投資家から成るグループの援助によって設立された民間資本によるオーケストラで、600人のオーディションを経てパリ音楽院出身の若手音楽家を中心に80名で結成。最初の演奏会は1928年10月29日にシャンゼリゼ劇場でルイ・フレスティエ[1892-1976]の指揮により実施。以後、エルネスト・アンセルメ[1883-1969]とアルフレッド・コルトー[1877-1962]を含めた3人体制で演奏会がおこなわれますが、なかなか成功を収めることができず、モントゥーに指揮を要請する運びとなったというものです。
 資金は、シンガー・ミシン創立者の娘で、ポリニャック公爵夫人の孫エドモン・ド・ポリニャックの妻でもあったウィナレッタ・シンガー[1865-1943]や、銀行家のメナール兄弟、ココ・シャネル[1883-1971]らによって集められていました。
●パリ交響楽団の指揮が年間4〜5か月になるということから、モントゥーは、期間中はパリ郊外の住居に移り住むことにしました。その古い屋敷は、プールとバラ園、果樹園、菜園付きの大きなもので、モントゥーはここでパリの音楽家たちを大勢招き、凝った食事でもてなして称賛されていました。
●音楽監督に就任したモントゥーは、『春の祭典』で成功を収めたほか、プロコフィエフの交響曲第3番の初演でも話題となります。
●5月にパリ交響楽団とサル・プレイエルで『春の祭典』をHMVにレコーディング。同時期にストラヴィンスキー本人がコンセール・ワルター・ストララム管弦楽団を指揮してシャンゼリゼ劇場で『春の祭典』を仏Columbiaにレコーディングしており、仕上がりの違いなどもあってストラヴィンスキーは立腹、しばらくのあいだ両者の関係は冷え込みます。

1930年(55歳)
●「世界大恐慌」がパリ交響楽団の運営資金体制を直撃。金本位制のアメリカとフランスでの失策が引き起こしたともいわれる「世界大恐慌」には、1930年時点でのアメリカの金準備の世界シェア約38%、フランスの約20%という、2国だけで世界の6割近いシェアのもたらした国際的な資金の極端な移動が背景にありました。といっても、その5年前の1925年時点ではアメリカの金準備シェアは約44%で、5年間で6%減少していたことになり、フランスは1925年には約8%だったので、実に2.5倍に膨らんだことになります。
 これによりパリ交響楽団の資金援助の中枢でもあった2つの銀行が倒産し、ほかの投資家や資産家たちも援助不能状態に陥ります。ココ・シャネルはしばらく援助を続けましたが、それも年内には終わってしまいました。
 途方に暮れたモントゥーは、楽団の組織形態を「協会」方式に移行し、演奏会を自己資金で開催し、利益を基金に積み上げ、年度末に楽員に分配する形をとることにします。
 しかし補助金なしのオーケストラ演奏会の運営は実際には非常に難しく、諸経費相殺後の利益は微々たるものになってしまったため、モントゥーの報酬も、その多くを基金に供出せざるをえない状態が続きます。

1931年(56歳)
●サンフランシスコ交響楽団を初めて指揮。1911年に結成されたサンフランシスコ交響楽団は、1926年に一度破産しており、その後、石油会社や公的資金の援助も受けながら運営を続けていましたが、折からの大恐慌の影響により財政はさらに悪化、1934年と1935年のシーズンはまるごとキャンセルという状況にまで追い込まれてしまいます。

1932年(57歳)
●パリ交響楽団とヨーロッパ・ツアーを行い、オランダとドイツで成功を収めます。第1次世界大戦以来、フランスのオーケストラはドイツを訪れていなかったこともあってか、ハンブルク、ケルン、ベルリンでの公演はどれも喝采を受けましたが、特にベルリンでの聴衆の熱狂には凄いものがあり、終演後、ステージに大勢が駆け寄り、感きわまって叫ぶ者や、泣きながらハンカチを振るものまで、ホールの中は17分に渡って興奮の坩堝と化していたといいます。モントゥー自身もこのときの演奏が素晴らしかったと述懐、1930年6月にセッション録音したパリ交響楽団との演奏を生涯好んで聴いていたのも、そうした特別な思い出があるからなのかもしれません。
●指揮の学校「エコール・モントゥー」をパリで設立。これはパリ交響楽団の楽員たちに演奏の場を提供することにも繋がり、彼らの窮状を救うための策ともなりました。

1934年(59歳)
●オットー・クレンペラー[1885-1973]の招きでロサンジェルス・フィルに客演。滞在期間は5週間に及び、演奏会は成功を収めます。
●サンフランシスコ交響楽団の立て直しについて打診され、悩んだ末に承諾。この話は、モントゥーと面識のあったレオノーラ・ウッド・アームスビー[1874-1962]によってもたらされたもので、彼女に対してサンフランシスコ在住の著名なヴァイオリニスト、ミッシャ・エルマン[1891-1967]がモントゥーを強く推していたことが背景にありました。
●「エコール・モントゥー」で、シャルル・ブリュック[1911-1995]を教えます。ブリュックはサンフランシスコでモントゥーの弟子として活動。

1936年(61歳)
●サンフランシスコ交響楽団の音楽監督に就任。当時のサンフランシスコ交響楽団は深刻な財政難が続いており、楽員の多くは、賃金の良いハリウッドのスタジオでも仕事をしていたために人数の確保が難しい状況にありました。また、音楽家ユニオンが、地域の加盟音楽家を保護するために、他の地域からの音楽家の移籍についてはきびしく制限していたために、外部からの人員確保は6人ほどに留まるという状況で、モントゥーによるオーケストラの立て直しは困難を強いられることになります。
●サンフランシスコ交響楽団のシーズンオフを利用し、南仏レ・ボー=ド=プロヴァンスで、「エコール・モントゥー」を開催して指揮を教え、パリ交響楽団の楽員たちにも演奏の場を提供します。

1937年(62歳)
●南仏レ・ボー=ド=プロヴァンス滞在中に、NBC交響楽団の代理人が訪ねてきてモントゥーにNBC交響楽団の指揮を依頼。NBC交響楽団はトスカニーニのために新たにつくられたオーケストラで、すでに他の指揮者によって3週間練習をしていましたがうまくいかず、トスカニーニ本人の希望で、モントゥーにオーケストラの創設演奏会の準備と指揮を任せたいという話でした。ちなみにNBCは、RCA(Radio Corporation of America)傘下の組織。
●NBC交響楽団の創設コンサートを指揮。
●RCAへのレコーディングを開始。

1942年(67歳)
●アメリカの市民権を取得。

1943年(68歳)
●「ピエール・モントゥー・スクール」を開校。

1945年(70歳)
●最初の妻ヴィクトリア死去。

1949年(74歳)
●8月、セルゲイ・クーセヴィツキー[1874-1951]がボストン交響楽団音楽監督を辞任。

1950年(75歳)
●10〜11月、コンセルトヘボウ管弦楽団に客演。

1951年(76歳)
●2月、音楽監督ミュンシュの招きでボストン交響楽団に客演。
●6月、クーセヴィツキー死去。

1952年(77歳)
●サンフランシスコ交響楽団音楽監督を退任。フリーランスとなって客演活動に力を入れます。
●ボストン交響楽団のヨーロッパ・ツアーに同行。
●12月、RCA Victorに初のステレオ録音。ボストン交響楽団のメンバーとの演奏。

1953年(78歳)
●11月、NBC交響楽団に客演。
●12月、メトロポリタン歌劇場に客演。グノー『ファウスト』を指揮。

1954年(79歳)
●1月、メトロポリタン歌劇場に客演。ドビュッシー『ペレアスとメリザンド』を指揮。
●2月、ボストン交響楽団に客演。
●12月、メトロポリタン歌劇場に客演。マスネ『マノン』を指揮。

1955年(80歳)
●2月、メトロポリタン歌劇場に客演。グノー『ファウスト』を指揮。
●4月、メトロポリタン歌劇場に客演。グルック『オルフェオとエウリディーチェ』を指揮。
●4〜6月、パリ・オペラ・コミーク座でマスネ『マノン』をEMIにセッション録音。
●11月、ニューヨーク・フィルに客演。
●12月、メトロポリタン歌劇場に客演。オッフェンバック『ホフマン物語』を指揮。

1956年(81歳)
●2月、メトロポリタン歌劇場に客演。グノー『ファウスト』を指揮。
●メトロポリタン歌劇場にヴェルディ『椿姫』の指揮についてモントゥーから打診するものの、断られたため関係を断絶。
●6月、ローマ歌劇場で『椿姫』をRCA Victorにセッション録音。
●7月、ボストン交響楽団に客演。

1957年(82歳)
●6月、ローマ歌劇場で『オルフェオとエウリディーチェ』をRCA Victorにセッション録音。メトでのレパートリーでもありました。

1958年(83歳)
●1月、ボストン交響楽団に客演。
●6月、ロンドン交響楽団に客演。
●「モントゥー・スクール」で、デイヴィッド・ジンマン[1936- ]を教えます(1962年まで)。

1959年(84歳)
●2〜3月、ニューヨーク・フィルに客演。
●10月、ロンドン交響楽団に客演。

1960年(85歳)
●4月、ウィーン・フィルに客演。
●5月、ロンドン交響楽団に客演。
●7〜8月、ボストン交響楽団に客演。
●10月、ハンブルクで北ドイツ放送交響楽団とセッション録音。


1961年(86歳)
●ロンドン交響楽団の首席指揮者に就任。契約期間は25年ということで話題になります。●デイヴィッド・ジンマンが助手になります(1964年まで)。

1962年(87歳)
●コンセルトヘボウ管弦楽団の「ベートーヴェン=ブラームス音楽祭」で指揮。
●ウィーンでコンセルトヘボウ管弦楽団と幻想交響曲を演奏して大成功。
●ロンドン交響楽団とベートーヴェンの交響曲第9番とベルリオーズの『ロメオとジュリエット』を演奏し、セッション録音も実施。
●ローマ聖チェチーリア・アカデミー会員に選出。

1963年(88歳)
●4月、ロンドン交響楽団とともに来日して大阪国際フェスティバルで演奏。弟子のネヴィル・マリナー[1924-2016]も帯同。
●5月、ロンドン交響楽団とウィーンで公演。
●5月、ロンドン交響楽団と『春の祭典』初演50周年記念演奏会開催。ストラヴィンスキーも登場。
●英国の王立フィルハーモニー協会から表彰。エードリアン・ボールト[1889-1983]からゴールド・メダルを授与される際、指揮台から降りる際に転倒して気絶。
●11月、ロンドン交響楽団とセッション録音。
●12月、ボストン交響楽団に客演。

1964年(89歳)
●2月、ハンブルクで北ドイツ放送交響楽団とセッション録音。
●2月、ロンドン交響楽団とラヴェル作品をセッション録音したのち、ウェールズなどに演奏旅行。
●3月、イスラエル・フィルに客演。
●3月、ローマ聖チェチーリア管弦楽団に客演。2回目の演奏会の後半、『亡き王女のためのパヴァーヌ』を指揮している最中に指揮台から客席の床まで転落してしまいますが、応急措置ののち復帰、『亡き王女のためのパヴァーヌ』と『海』を無事に指揮してコンサートを終えると聴衆も大喝采、翌日の新聞でもその毅然とした勇気が称えられていました。
●4月、ミラノ・イタリア放送交響楽団に客演。ワーグナー『さまよえるオランダ人』序曲、ブラームス:二重協奏曲、ベルリオーズ『幻想交響曲』というプログラムで、結果的にこれが生涯最後のコンサート本番となりました。
●演奏会の翌日、ミラノのホテルの浴室で仰向けに転倒して頭部を強打。気を失いますが応急処置により回復。その翌々日、ロンドンに向かうためホテルのフロントで手続きをしている際に再び意識を失い、応急処置で回復。
●ロンドンに到着するものの、大事をとってその夜のロンドン交響楽団の演奏会はキャンセル。しかし4日後にはロンドン交響楽団とのリハーサルに臨み、『新世界より』などでいつもの手腕を発揮、楽員を喜ばせていました。
●その夜、発電所の重大な事故により、ロンドンは大停電に見舞われ、リハーサルを終えた89歳のモントゥーは、ホテルの6階の部屋まで階段で登ることを余儀なくされます。
●ホテルの部屋になんとか到着したモントゥーは、疲労のせいか再び仰向けに転倒し、今度はテーブルの角に頭をぶつけて気を失います。1時間ほどして意識を回復したモントゥーは、朝1番の飛行機でアメリカに帰るという妻ドリスの提案をおとなしく受け入れ、4月24日、メイン州ハンコックの自宅に到着。
●5月から6月にかけて、モントゥーは軽い発作を3度起こしたものの、音楽などについてはよく喋っていました。
●6月最後の週に、脳血栓の重い症状に襲われ、叫び声をあげたのち気絶、数日間の眠りの後、一瞬意識を回復して再び意識を失い、7月1日の朝4時半に亡くなります。(HMV)


【収録情報】

Disc1
● R.シュトラウス:交響詩『英雄の生涯』
ボストン交響楽団
録音:1962/7

● R.シュトラウス:交響詩『ティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら』
ボストン交響楽団
録音:1959/7

Disc2
● フランク:交響曲ニ短調 M.48
サンフランシスコ交響楽団
録音:1946/4/7

● フランク(ピエルネ編):前奏曲、コラールとフーガ M.21
サンフランシスコ交響楽団
録音:1944/12/3

● フランク:『プシュケ』M.47〜第1部、第3部
サンフランシスコ交響楽団
録音:1944/12/3

● フランク:『贖罪』M.52
サンフランシスコ交響楽団
録音:1952/4/13

Disc3
● ベートーヴェン:交響曲第5番 Op.67『運命』
サンフランシスコ交響楽団
録音:1947/02/16 & 1950/12/10

● ベートーヴェン:『プロメテウスの創造物』Op. 43〜アダージョ
サンフランシスコ交響楽団
録音:1944/12/17

● ベートーヴェン:序曲『献堂式』Op.124
サンフランシスコ交響楽団
録音:1949/12/4

● ベートーヴェン:『エグモント』Op.84〜序曲
サンフランシスコ交響楽団
録音:1944/12/23

● ベートーヴェン:『フィデリオ』Op.72〜序曲
サンフランシスコ交響楽団
録音:1944/1/16

● ベートーヴェン:『レオノーレ』序曲第3番 Op.72b
サンフランシスコ交響楽団
録音:1952/3/30

Disc4
● R.シュトラウス:『ドン・ファン』Op.20
サンフランシスコ交響楽団
録音:1949/1/29

● R.シュトラウス:『死と浄化』Op.24
サンフランシスコ交響楽団
録音:1952/4/13

● R.シュトラウス:『ティル・オイレンシュピーゲルの愉快な悪戯』Op. 28
サンフランシスコ交響楽団
録音:1952/3/30

● R.シュトラウス:『ばらの騎士』組曲 Op.59
サンフランシスコ交響楽団
録音:1951/3/25

Disc5
● ワーグナー:『パルジファル』〜第1幕前奏曲
ボストン交響楽団
録音:1951/12/1

● ドビュッシー:交響的断章『聖セバスチャンの殉教』〜「ゆりの園」
ボストン交響楽団
録音:1951/12/1

● ドビュッシー:交響的断章『聖セバスチャンの殉教』〜「法悦の舞曲と第1幕の終曲」
ボストン交響楽団
録音:1951/12/1

● ワーグナー:『神々の黄昏』〜第1幕「夜明けとジークフリートのラインへの旅」
ボストン交響楽団
録音:1951/12/1

● ワーグナー:『神々の黄昏』〜第3幕「ジークフリートの葬送行進曲」
ボストン交響楽団
録音:1951/12/1

● ドビュッシー:『映像』
ボストン交響楽団
録音:1951/12/1

● ドビュッシー:『遊戯』
ボストン交響楽団
録音:1951/12/1

Disc6
● ワーグナー:『パルジファル』〜前奏曲と聖金曜日の音楽
サンフランシスコ交響楽団
録音:1950/4/9

● ワーグナー:『ニュルンベルクのマイスタージンガー』〜第1幕前奏曲
サンフランシスコ交響楽団
録音:1947/11/16

● ワーグナー:『ニュルンベルクのマイスタージンガー』〜第3幕前奏曲と「徒弟たちの踊りと親方たちの入場」
サンフランシスコ交響楽団
録音:1950/4/23

● ワーグナー:『さまよえるオランダ人』序曲
サンフランシスコ交響楽団
録音:1951/2/11

● ワーグナー:『トリスタンとイゾルデ』前奏曲と愛の死
サンフランシスコ交響楽団
録音:1952/4/6

Disc7
● ストラヴィンスキー:『春の祭典』
フランス国立放送管弦楽団
録音:1955/06/17

● ベートーヴェン:交響曲第8番 Op.93
フランス国立放送管弦楽団
録音:1955/06/17

Disc8
● ベートーヴェン:交響曲第9番 Op.125『合唱』
マリア・シュターダー(ソプラノ)
エレーヌ・ブヴィエ(アルト)
リベロ・デ・ルカ(テノール)
ヨーゼフ・グラインドル(バス)
フランス国立放送合唱団
フランス国立放送管弦楽団
録音:1958/11/06 & 08

Disc9
● ヒンデミット:組曲『気高い幻想』
フランス国立放送管弦楽団
録音:1958/11/08

● クープラン:『スルタン妃』
フランス国立放送管弦楽団
録音:1958/11/8

● ドビュッシー:『映像』
フランス国立放送管弦楽団
録音:1956/5/3

Disc10
● ベートーヴェン:交響曲第7番 Op.92
フランス国立放送管弦楽団
録音:1952/6/13

● ラヴェル:『シェエラザード』
ジェルメーヌ・モワサン(ソプラノ)
フランス国立放送管弦楽団
録音:1952/6/13

Disc11
● ベートーヴェン:交響曲第2番 Op.36
フランス国立放送管弦楽団
録音:1956/05/03

● レスピーギ:『ローマの松』P.141
フランス国立放送管弦楽団
録音:1956/5/3

● R.シュトラウス:『死と浄化』Op. 24
フランス国立放送管弦楽団
録音:1956/5/3

Disc12
● ストラヴィンスキー:『ペトルーシュカ』[1911年版]
フランス国立放送管弦楽団
録音:1958/05/08

● ドビュッシー:『遊戯』
フランス国立放送管弦楽団
録音:1955/6/9

● ワーグナー:『さまよえるオランダ人』〜序曲
フランス国立放送管弦楽団
録音:1955/6/9

Disc13
● チャイコフスキー:交響曲第5番 Op.64
フランス国立放送管弦楽団
録音:1958/5/8

● プロコフィエフ:交響曲第1番 Op.25『古典』
フランス国立放送管弦楽団
録音:1958/05/08

● リムスキー=コルサコフ:『金鶏』組曲〜「結婚行進曲」
フランス国立放送管弦楽団
録音:1958/05/08

Disc14
● フランク:交響曲ニ短調 M.48
フランス国立放送管弦楽団
録音:1958/9/24

● エルガー:創作主題による変奏曲『エニグマ』Op.36
フランス国立放送管弦楽団
録音:1958/9/24

Disc15
● ワーグナー:『ワルキューレ』〜第3幕「ヴォータンの告別と魔の炎の音楽」
サンフランシスコ交響楽団
録音:1947/1/19

● ワーグナー:『ジークフリート』〜第2幕「森のささやき」
サンフランシスコ交響楽団
録音:1947/1/19

● ワーグナー:『神々の黄昏』〜第1幕「ジークフリートのラインへの旅」
サンフランシスコ交響楽団
録音:1951/3/4

● ワーグナー:『タンホイザー』〜序曲
サンフランシスコ交響楽団
録音:1951/4/22

● ワーグナー:『リエンツィ』〜序曲
サンフランシスコ交響楽団
録音:1950/2/5

● ワーグナー:『ジークフリート牧歌』
コンセルトヘボウ管弦楽団
録音:1953/3/13

Disc16
● リスト:交響詩『レ・プレリュード』S97/R414
サンフランシスコ交響楽団
録音:1950/4/16

● リスト:ハンガリー狂詩曲第2番
サンフランシスコ交響楽団
録音:1949/3/13

● グレトリー:バレエ音楽『セファールとプロクリ』
サンフランシスコ交響楽団
録音:1947/2/16

● ニコライ:『ウィンザーの陽気な女房たち』〜序曲
サンフランシスコ交響楽団
録音:1950/12/31

● マスネ:序曲『フェードル』
サンフランシスコ交響楽団
録音:1950/3/12

● ファリャ:『三角帽子』組曲第2番
サンフランシスコ交響楽団
録音:1946/2/24

● ロッシーニ:『ウィリアム・テル』〜序曲
サンフランシスコ交響楽団
録音:1952/3/2

Disc17
● ベルリオーズ:序曲『ローマの謝肉祭』Op.9
サンフランシスコ交響楽団
録音:1946/12/8

● ベルリオーズ:『トロイ人』〜前奏曲
サンフランシスコ交響楽団
録音:1945/11/18

● ベルリオーズ:『キリストの幼時』〜第2部「序曲」、第3部「若いイスマエル人の演奏する2本のフルートとハープのためのの三重奏」
サンフランシスコ交響楽団
録音:1948/03/28 & 1947/12/21

● ベルリオーズ:『ファウストの劫罰』〜「鬼火のメヌエット」、「妖精の踊り」、「ラコッツィー行進曲」
サンフランシスコ交響楽団
録音:1944/11/26

● ベルリオーズ:劇的交響曲『ロメオとジュリエット』Op.17〜「争い」、「騒動」、「ロメオひとり」、「キャピュレット家の舞踏会のロメオ」、「愛の情景」
サンフランシスコ交響楽団
録音:1944/11/26

● ベルリオーズ:序曲『海賊』Op.21
サンフランシスコ交響楽団
録音:1952/3/9

Disc18
● モーツァルト:交響曲第35番 K.385『ハフナー』
サンフランシスコ交響楽団
録音:1946/3/24

● モーツァルト:交響曲第41番 K.551『ジュピター』
サンフランシスコ交響楽団
録音:1948/3/21

● モーツァルト:『ドン・ジョヴァンニ』K.527〜序曲
サンフランシスコ交響楽団
録音:1950/2/5

● モーツァルト:『魔笛』K.620〜序曲
サンフランシスコ交響楽団
録音:1952/2/3

● モーツァルト:『後宮からの誘拐』K.384〜序曲
サンフランシスコ交響楽団
録音:1945/4/21

● レスピーギ:『ローマの噴水』P.106
サンフランシスコ交響楽団
録音:1946/3/24

Disc19
● シューマン:交響曲第4番 Op.120
サンフランシスコ交響楽団
録音:1952/3/9

● ハイドン:交響曲第88番 Hob.I:88
サンフランシスコ交響楽団
録音:1945/1/2

● ウォルトン:『ファサード』組曲第1番
サンフランシスコ交響楽団
録音:1950/2/26

● グルック:『アウリスのイフィゲニア』〜序曲
サンフランシスコ交響楽団
録音:1945/1/2

● アルファーノ:『復活』〜「恵みの神」
サンフランシスコ交響楽団
録音:1952/3/9

● シベリウス:『ポホヨラの娘』Op.49
サンフランシスコ交響楽団
録音:1952/3/9

● チャドウィック:交響的スケッチ
サンフランシスコ交響楽団
録音:1952/3/9

Disc20
● ラフマニノフ:交響曲第2番 Op.27
サンフランシスコ交響楽団
録音:1941/2/27

● リムスキー=コルサコフ:『クリスマス・イヴ』
サンフランシスコ交響楽団
録音:1943/12/19

● リムスキー=コルサコフ:序曲『ロシアの復活祭』Op.36
サンフランシスコ交響楽団
録音:1952/4/13

● リムスキー=コルサコフ:『スペイン奇想曲』Op.34
サンフランシスコ交響楽団
録音:1952/3/2

● ボロディン:『イーゴリ公』〜「だったん人の踊り」
サンフランシスコ交響楽団
録音:1951/12/23

● グラズノフ:『バレエの情景』Op.52
サンフランシスコ交響楽団
録音:1943/12/12

Disc21
● ブラームス:交響曲第1番 Op.68〜第2楽章
サンフランシスコ交響楽団
録音:1951/12/23

● ブラームス:『悲劇的序曲』Op. 81
サンフランシスコ交響楽団
録音:1949/3/13

● ロッシーニ:『アルジェのイタリア女』〜序曲
サンフランシスコ交響楽団
録音:1952/4/6

● トマ:『ミニョン』〜序曲
サンフランシスコ交響楽団
録音:1949/2/20

● デュカス:『魔法使いの弟子』
サンフランシスコ交響楽団
録音:1949/2/6

● メシアン:『キリストの昇天』
サンフランシスコ交響楽団
録音:1952/2/3

● シベリウス:『悲しいワルツ』Op.44
サンフランシスコ交響楽団
録音:1948/3/28

● ウェーバー:『オイリアンテ』〜序曲
サンフランシスコ交響楽団
録音:1950/1/29

● スーザ:『星条旗よ永遠なれ』
サンフランシスコ交響楽団
録音:1948/3/7

Disc22
● メンデルスゾーン:交響曲第4番 Op.90『イタリア』
サンフランシスコ交響楽団
録音:1947/2/23

● メンデルスゾーン:序曲『フィンガルの洞窟』Op.26
サンフランシスコ交響楽団
録音:1949/1/9

● メンデルスゾーン:序曲『ルイ・ブラス』Op. 95
サンフランシスコ交響楽団
録音:1949/3/27

● チャイコフスキー:幻想序曲『ロメオとジュリエット』
サンフランシスコ交響楽団
録音:1950/3/12

Disc23
● シューマン:交響曲第3番 Op.97『ライン』
ボストン交響楽団
録音:1955/1/28

● ストラヴィンスキー:『ペトルーシュカ』
ボストン交響楽団
録音:1957/1/18

● エルガー:創作主題による変奏曲『エニグマ』Op.36
ボストン交響楽団
録音:1957/1/18



Disc24
● ストラヴィンスキー:『春の祭典』
ボストン交響楽団
録音:1957/4/13

● シューベルト:交響曲第9番 D.944『グレート』
ボストン交響楽団
録音:1956/2/24

Disc25
● ブラームス(ヘルツ編):16のワルツ Op.39(抜粋)
サンフランシスコ交響楽団
録音:1949/3/27

● ベートーヴェン:バレエ音楽『プロメテウスの創造物』Op.43(抜粋)
ボストン交響楽団
録音:1958/8/9

● ベートーヴェン:『レオノーレ』序曲第3番 Op.72b
ボストン交響楽団
録音:1958/8/9

● メンデルスゾーン:序曲『フィンガルの洞窟』Op.26
ボストン交響楽団
録音:1957/4/13

● ダンディ:交響変奏曲『イスタール』Op.42
ボストン交響楽団
録音:1956/2/17

Disc26
● シューベルト:交響曲第9番 D.944『グレート』
ボストン交響楽団
録音:1956/11/9

● ハイドン:交響曲第94番 Hob.I:94『驚愕』
ボストン交響楽団
録音:1956/2/24

Disc27
● チャイコフスキー:交響曲第4番 Op.36
ボストン交響楽団
録音:1958/01/03, Stereo

● ストラヴィンスキー:『ペトルーシュカ』
ボストン交響楽団
録音:1958/01/03, Stereo

Disc28
● チャイコフスキー:交響曲第5番 Op.64
ボストン交響楽団
録音:1957/4/12

● チャイコフスキー:『ハムレット』Op.67
ボストン交響楽団
録音:1955/2/4

● チャイコフスキー:組曲第4番 Op.61『モーツァルティアーナ』〜IV.主題と変奏
ボストン交響楽団
録音:1955/2/4

Disc29
● チャイコフスキー:交響曲第6番 Op.74『悲愴』
ボストン交響楽団
録音:1955/2/4

● チャイコフスキー:協奏幻想曲 Op.56
ヴェラ・フランチェスキ(ピアノ)
ボストン交響楽団
録音:1955/2/4

Disc30
● プロコフィエフ:交響曲第1番 Op.25『古典』
ボストン交響楽団
録音:1958/01/03, Stereo

● R.シュトラウス:交響詩『死と浄化』Op.24
ボストン交響楽団
録音:1958/1/10

● ベートーヴェン(ワインガルトナー編):『大フーガ』Op.133
ボストン交響楽団
録音:1958/1/10

● ドビュッシー:交響的断章『聖セバスチャンの殉教』
ボストン交響楽団
録音:1958/1/10

Disc31
● グリンカ:『ルスランとリュドミラ』序曲
ボストン交響楽団
録音:1958/7/25

● チャイコフスキー:交響曲第4番 Op.36
ボストン交響楽団
録音:1958/7/25

● ミヨー:『エウメニデス』〜第3幕 前奏曲
ボストン交響楽団
録音:1958/7/25

● ドビュッシー:『夜想曲』
ボストン交響楽団
録音:1958/7/25

Disc32
● ラヴェル:『ラ・ヴァルス』
ボストン交響楽団
録音:1958/7/25

● ワーグナー:『トリスタンとイゾルデ』〜「イゾルデの愛の死」
ボストン交響楽団
録音:1959/8/1

● ブラームス:『大学祝典序曲』Op.80
ボストン交響楽団
録音:1958/7/20

● ストラヴィンスキー:『ペトルーシュカ』
ボストン交響楽団
録音:1958/7/20

Disc33
● ワーグナー:『パルジファル』〜第1幕前奏曲
ボストン交響楽団
録音:1958/8/3

● ワーグナー:『パルジファル』〜第1幕「幼子のあなたが」
マーガレット・ハーショウ(ソプラノ)
ボストン交響楽団
録音:1958/8/3

● ワーグナー:『ローエングリン』〜第1幕前奏曲
ボストン交響楽団
録音:1958/8/3

● ワーグナー:『ローエングリン』〜第1幕「物悲しい日に、私は一人寂しく」
マーガレット・ハーショウ(ソプラノ)
ボストン交響楽団
録音:1958/8/3

● ワーグナー:『リエンツィ』序曲
ボストン交響楽団
録音:1958/8/3

● ワーグナー:『さまよえるオランダ人』〜序曲
ボストン交響楽団
録音:1958/8/3

● ワーグナー:『さまよえるオランダ人』〜第2幕「海原に船を見かけましたか」
マーガレット・ハーショウ(ソプラノ)
ボストン交響楽団
録音:1958/8/3

● ワーグナー:『ジークフリート』〜第2幕「森のささやき」
ボストン交響楽団
録音:1958/8/3

● ワーグナー:『タンホイザー』〜第2幕「おごそかなこの広間よ」
マーガレット・ハーショウ(ソプラノ)
ボストン交響楽団
録音:1958/8/3

● ワーグナー:『ワルキューレ』〜第3幕前奏曲「ワルキューレの騎行」
ボストン交響楽団
録音:1958/8/3

Disc34
● ブラームス:『悲劇的序曲』Op. 81
ボストン交響楽団
録音:1959/1/23

● ヒンデミット:『気高い幻想』組曲
ボストン交響楽団
録音:1959/1/23

● R.シュトラウス:『ドン・キホーテ』Op.35
ボストン交響楽団
録音:1959/1/23

Disc35
● ドビュッシー:『牧神の午後への前奏曲』
ボストン交響楽団
録音:1959/7/19

● ダンディ:『フランスの山人の歌による交響曲』Op.25
ニコル・アンリオ=シュヴァイツァー(ピアノ)
ボストン交響楽団
録音:1959/7/19

● チャイコフスキー:交響曲第5番 Op.64
ボストン交響楽団
録音:1959/7/19

Disc36
● リムスキー=コルサコフ:『金鶏』〜第3幕「婚礼の行列」
ボストン交響楽団
録音:1959/7/19

● バッハ(レスピーギ編):パッサカリアとフーガ BWV 582
ボストン交響楽団
録音:1959/7/24

● ブラームス(トムソン編):11のコラール前奏曲 Op.122
ボストン交響楽団
録音:1959/7/24

● R.シュトラウス:交響詩『ドン・ファン』Op.20
ボストン交響楽団
録音:1959/7/24

Disc37
● メンデルスゾーン:交響曲第4番 Op.90『イタリア』
ボストン交響楽団
録音:1959/8/1

● シューマン:『マンフレッド』Op.115〜序曲
ボストン交響楽団
録音:1959/8/1

● シューマン:『序奏とアレグロ・アパッショナート』Op.92
ボストン交響楽団
録音:1959/8/1

Disc38
● ベートーヴェン:『フィデリオ』〜序曲
ボストン交響楽団
録音:1959/8/8

● ベートーヴェン:交響曲第6番 Op.68『田園』
ボストン交響楽団
録音:1959/8/8

● ベートーヴェン:交響曲第5番 Op.67『運命』
ボストン交響楽団
録音:1959/8/8

Disc39
● ブラームス:交響曲第3番 Op.90
コンセルトヘボウ管弦楽団
録音:1960/10/30

● ストラヴィンスキー『ペトルーシュカ』(1911年版)
コンセルトヘボウ管弦楽団
録音:1960/10/30

Disc40
● チャイコフスキー:交響曲第5番 Op.64
ロンドン交響楽団
録音:1963/5/31

● チャイコフスキー:幻想序曲『ロメオとジュリエット』
ロンドン交響楽団
録音:1963/5/31


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投稿日:2017/10/26 (木)

これは商品のレビューではなく、商品説明のレビューです。 なんというモントゥー愛。 クラシック愛好家ならモントゥーのCDの1枚や2枚は持ってるはず。 永遠の青年音楽家モントゥーのエピソードの1つや2つは知ってるはず。 さすれば熟読せざるをえんでしょう。 おもしろすぎます。 以後、何度も読み返すことになりそうです。

閑山 さん | 京都府 | 不明

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