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Review List of MISPRISIONER 

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  • 2 people agree with this review
     2012/04/05

    期待を裏切らない名盤である。そもそもボーンマス響は、アンドルー・リットンとの《マンフレッド》を含むチャイコフスキーの交響曲全集が隠れた名盤で、ベルグルンド時代やバルシャイ時代にはショスタコーヴィチの交響曲を積極的に録音するなど、ロシア=ソヴィエト音楽の演奏を得意としていた団体であって、ウクライナ出身のカラビツを音楽監督に迎え入れたのも偶然ではないと思う。尤も、BBC響がロジェストヴェンスキーを、ロンドン・フィルがロストロポーヴィチを、ロイヤル・フィルがアシュケナージを、ロンドン響がゲルギエフを受け入れたように、英国のオーケストラはもともとロシア人指揮者好き、ロシア音楽好きではあるが、その伝統(?)が、ロイヤル・リヴァプール・フィルとペトレンコ、ロンドン・フィルとV・ユロフスキ、そしてボーンマス響とカラビツのような名コンビを生み、本盤のような見事な名盤を生む要因であったことは事実である。■20世紀はユダヤ系・ハンガリー系指揮者の時代だったが、21世紀はスラヴ系指揮者の時代といえよう(その意味で、クライツベルクが急逝したのは大きな痛手だ)。■そこで本盤だが、アバド/シカゴ響、ヤンソンス/オスロ・フィル的な都会的な洗練さと共に、スヴェトラーノフ的な大胆さと泥臭さを兼ね備え、新しロシア音楽像を提示した意欲的な一枚に仕上がっている。■《ウクライナ》交響曲は、これまで聴いたことがないような重厚なテクスチャが全面に出されており、端正な造形の中にチャイコフスキーの音楽に対する強い感興が示されている。これはこれで、普通なら十分アルバムの「取り」として十分な内容を持っているが、本盤では恐ろしいことに、前座に過ぎないのである。■中プロの《禿山の一夜》は、アバド/ロンドン響も用いたいわゆる「原典版」による演奏で、《春の祭典》の何十年も前に書かれたロシア・バーバリズムの局地。カラビツの演奏は、アバド旧盤程良い意味でギスギスした響きはしていないが、録音の良さも考慮すれば、間違えなく同曲のトップ・チョイスである。■アルバムの「トリ」は《展覧会の絵》で、この曲の演奏も実に堂に入ったものとなっている。何といっても低音域の充実度は、英国の中堅楽団とは思えない程だ。特に、最後の二曲の、着実な中にも豪華さがあり、クライマックスでテンポを緩めて楽想を克明に描く解釈は、すこぶる劇的でスケールが大きい。尚、この演奏は、チェリビダッケ/ミュンヘン・フィル[EMI]同様、終曲で二発のバスドラムが一拍遅れて入る初期版スコアが用いられている。

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     2012/04/05

    ディストリビューターのカタログにそれしか書かれていないからだろうが、本盤はヘンドリク・アンドリーセン(1892-1981)の4つの全ての交響曲と、交響的練習曲、(管弦楽のための)《リチェルカーレ》、《クープランの主題による変奏曲》、《ヨハン・クーナウの主題による変奏曲とフーガ》が収められており、もう少し何とかならなかったものか。本盤に聴くアンドリーセンの音楽は、早くから教育者として後進の指導に当っていた作曲者らしく、極めてアカデミックで古典主義的なものだが、それだけに同時代の他のオランダの作曲家の作品よりは聴きやすいし、表出力も強い。戦後の音楽界は、「前衛でなければ音楽ではならぬ」といったある種の強迫観念がはびこっていたが、前衛の時代が終わった今、彼の音楽にとっては、そのの表現手段と時代とのギャップが、より少なくなったといえる。本盤に聴くアンドリーセンの音楽のスタイルは、筆者には、時代の要請と合致しているように思える。特に《リチェルカーレ》は、10分程の小品だが、映画音楽――サスペンス的な――っぽい部分もあって、非常に面白く聴けた。また、本盤は全てオランダ放送フィルが演奏しているが、指揮者はオッテルローやフルネといった巨匠から、デ・ワールト、ズヴェーデンといった中堅どころまでが登場しており、演奏のクオリティは極めて高い。ただ、交響曲第1番だけは、1947年の録音にも拘わらず音質は信じられない程プアで録音レベルも低く、もっと他に録音はなかったものかと思う。

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     2012/04/02

    ナクソスがどういう基準でブルーレイ・オーディオ(BDA)でリリースする録音を選んでいるかは不明だが、この作品はCDではなく、BDAで聴くことをお勧めする。まず、この未知の作曲家の作品に対して、聴くべきか迷っている人は多いと思うが、2009年の作品ながら、ウルトラ前衛主義的な音楽ではなく、ここ数十年に生まれた合唱曲の中では、かなり聴きやすい部類に属している。流石にオルフの《カルミナ・ブラーナ》やヤナーチェクの《グラゴル・ミサ》のような聴き易さではないが、ブリテンの《戦争レクイエム》よりは聴きやすいはずだ。また、ベリオの《シンフォニア》やツィマーマンの一連の楽曲のような難しさを思い描いている人には、そこまで前衛的ではないと言い切ることはできる。音も豊富で、ネオ・ロマンティシズムともいえる肌理を持っており、シェーンベルクの《グレの歌》やツェムリンスキーの《叙情交響曲》を、う少し現代的なハーモニーや不協和音で彩ったというようなイメージでいてもらえるといい。シマノフスキの合唱付き交響曲が聴ける人なら、この作品も楽しめるはずだ。■ナクソスによる、今まで全く知らなかった現代音楽作曲家によるアルバムには、失望させられることも多かったが(アラ・パヴロワの交響曲とか、本当に酷かった・・・)、この作品は大当たりだ。インバルとフランス国立放送フィルの演奏は、「これぞ決定盤」というには時期尚早だとしても、この未知の作品を初めて聴く人に、楽曲の魅力を十分に伝える強度と説得力を持っている。録音は、低域から高域までマイクが実に良く捉えており、CDでも弦・管・打・独唱・合唱、そして実音と間接音のバランスと解像度、定位が水準を超えているのはよく解る。しかし、BDAで聴くと、音場の空気感がガラリと変わり、音そのものの鮮度、前後方向の奥行きと左右へのサウンドの広がりが格段に向上する。久々に大満足の買い物であった。

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     2012/04/02

    オーディオCDでは2枚で分売されていたものが、ブルーレイ・オーディオでは1枚となり、価格がほぼ据え置きでディスク入れ替えの手間なく聴きとおせるのが良い。もちろん、音はCDとは信じられないほどに良くなっているので、「もうCD2枚買っちゃったんだよね」という人にも、ブルーレイ再生の環境があるのなら、自信を持って買い足しをお勧めしたい(CDを持ってる人は、作品と演奏の質の高さはご存知のはずだから、買い足しには躊躇せず賛成してくれると思うのだが・・・)。

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     2012/03/31

    正直、これは、お世辞にも星5つを与えられるような演奏ではない。それは、バランスが整ってるとか整っていないとかの問題ではない。確かに、この曲は、ともすれば無用に劇的な解釈で演奏されることも多く、なかにはテンシュテット盤のように成功した演奏も少なくない。この演奏に於けるゲルギエフの解釈は、端然として虚飾の無い純音楽的な姿勢で一貫しており、作品に秘められた叙情を開放しているようにも思える。ロンドン響のアンサンブルも緻密で、決然と演奏されていいて、ちょっと聴くと淡白な表情の中に、ジョン・ブル気質とでもいえる粘着性が秘められていて、表情には独自の入念さがある。しかし、である。ゲルギエフの指揮は、作品の構造的な面にはあまり配慮されておらず、幾分音楽が安易な叙情に流れがちになる。全体的にはまずまずの出来ということが言えるが(故に☆は4つ)、この演奏に全面的に共感できる域には達していないのも事実で、造形的にもう一歩踏み込んだ彫琢が欲しいところである。尚、SACDならCDより音が良いと思い込んでいる人がいるが(SACDのレビューにその旨書いている)、録音のサウンドの質は、主にプリ・プロダクション(どのようなホールでどのような機材をどうセッティングして収録したか)とポスト・プロダクション(どのエンジニアがどれだけ時間を掛けてマスタリングしたか)の兼ね合いによって決定されていくものであって、SACDだからCDより音が良いと簡単には言えないのである。まして、DSDで録音されたものであれば、CDであっても従来より十分に質の高いサウンドを期待することができ、入念に作りこまれたCDであれば、作り込みの足りないSACDの音質を凌駕することは可能なのである。殊にLSO Liveは、バービカンの劣悪な音響の下にプロダクトされており、プリ・プロダクションの段階で大きなハンディを追っていることを、忘れてはならない。

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     2012/03/31

    最後までゲルギエフのマーラーシリーズを聴いてきた全体的な印象は、「ゲルギエフにマーラーは不向き」ということ。それまでのマーラー演奏像を覆してくれた演奏には、インバル、レヴァイン、ギーレン、マーツァル、最近ではジンマンの秀逸な全集あるが、ゲルギエフとロンドン響の演奏には、どこか共感し難いアウラが存在している。ゲルギエフのマーラー演奏は、あまり細かいところに拘泥(こうでい)せず、流れを大きく捉えて淡々と進行していく姿勢や、多くの箇所で室内楽的な質を獲得しているのは良いのだが、そうした解釈が、内的緊張と劇的構成に欠けた肥大した荒っぽいオーケストラによって台無しにされているのは、ひとえに指揮者の責任が大きいといえよう。これはいつものことだが、それはゲルギエフが、楽曲に対する自らの「本能的な理解」に信を置きすぎた結果だ。私には、ゲルギエフが、マーラーのスコアを本当に直感的に把握できるまで録音を待つべきだったと結論せざるを得ない。そう、ジンマンやチョン・ミョンフンのように・・・。また、NHKホールに匹敵するバービカンの劣悪な音響が、演奏自体の評価を下げる悪いスパイスになっているのもいつものことだ。SACDになって、それがより鮮明に表に出る結果となってしまったのは皮肉だが、ロンドン響は本拠地をバービカンに置いている限り、世界的なオーケストラにはなれないだろう。特にティンパニの下品な打音は、鳴りの悪いホール故の”あがき”であり、オーケストラの音の、ゲルギエフのマーラー解釈との方向性の不一致を助長する最大の要因となっていることはもっと重大に受け止めて欲しいところだ。

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     2012/03/31

    昨年の初夏、いつものようにプロムスのプログラムを英国にいる友人に頼んでいたが、「今年のプロムは凄いことになるぞ」と言われ、プログラムの到着を期待して待っていたら、なんとブライアンの《古典》が取り上げられるとあるではないか。本当にやるのか?と意味も無く訝しんでいたら、無事中継もされ、とにかくブライアンの交響曲演奏史に新たなページが加わったことは嬉しかった。しかし、何故この作品はこうまでゲテモノ扱いされるのだろう?1時間半を優に超える演奏時間、8管編成+変則パートのオーケストラに大規模の混声合唱+児童合唱が加わるという巨大な編成は確かに異様だが、マーラーの《千人》やシェーンベルクの《グレの歌》は普通に演奏されているし、ワーグナーの《リング》以下、R・シュトラウスの一連の楽劇やメシアンの《アッシジの聖フランチェスコ》、プロコフィエフの《戦争と平和》など、オペラには遥かに演奏時間が長く大規模な作品は少なくない。まあ、かつてはブルックナーやマーラーの交響曲も「長い」「理解不能」と言われていた時期もあった訳だし(ベートーヴェンの《英雄》も初演時には同じように言われた)、長くて退屈、理解できない(したくない)という意味では、《ゲロンティウスの夢》や《神の国》など、エルガーの一連のオラトリオや、フォーレの《レクイエム》、ブラームスの《ドイツ・レクイエム》だって、正直、そういう曲だと思う。だから私は、そういった作品の中で、この曲だけがそんなに特殊とは思えない。ギネス云々の所為で変に有名になってしまったブライアンより、ボートン(オペラ《不滅の時》はどんなに理解しようとも理解不能)やバントック(カンタータ?《オマール・ハイヤーム》は、理解不能のまま丸々3時間置いて行かれる)の方が奇々怪々な作曲家だと思うし、ダイソンの《カンタベリーの巡礼》なんて、90分の作品だが、正直ブライアンの《古典》よりも退屈で意味不明な音楽だと思う。ということで、本盤の演奏だが、技術的には既発盤中ピカイチの質をもっているが、スコアを見ながら聴くと、流石に譜面を音にするのに精一杯の箇所も散見される。そして、何といっても、ロイヤル・アルバート・ホールの劣悪な音響が、この演奏の価値を貶めていることは確かだ。左右への広がりはあるものの、距離感が遠すぎて、ほとんどの部分か間接音ばかりで構成される音響構造の中、オーケストラの解像度は不明晰、合唱は何を歌っているか全くわからずで(オルガンが入ってくると状況はさらに悪化する)、多くのリスナーには、どこを聞いていいか分からないときもあるのではないだろうか。ボールト盤が良好な形で復活した今、純粋に作品を楽しむだけなら、本盤はその期待にはあまり応えてはくれないと思う。

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     2012/03/30

    ここ数年間にリリースされたI・フィッシャーとブダペスト祝祭管の録音の中で最も優れた一枚。ここで取り上げられた作品の演奏はどれも素晴らしいものだが、特に《春の祭典》は、T・フィッシャー盤、ダーリントン盤、リットン盤など、ドゥダメル盤以降、ここ1年でリリースされた同曲新盤の中で、SACDの本盤の方が音質的にはアドヴァンテージがあるものの、チョン・ミュンフン盤と双璧の名演と位置づけられる(個人的な好みとしては、チョン盤に軍配を上げたいが)。スコアに対する客観的な姿勢を強めてるように聴こえながら、その音楽のなかに遥かに余裕のある動きや流れを感じさせる。オーケストラの響きそのものも、このところ、シャープな感覚を保ちながら、さらに潤いを増してきており、フィッシャーはそれを巧みにコントロールしながらオーケストレーションの細部を明快に活かすと共に、幻想的、あるいはロマンティックな味わいを深めている。《春の祭典》の演奏と、それをどう評価するかで難しいのは、シャープさとデモーニッシュさとのバランスさであるが、この演奏はブーレーズの明晰さとゲルギエフのデモーニッシュさとが絶妙にブレンドされていて、失望させられる瞬間が前打音一つ分もない。多くの演奏で無視されることの多い、最後の部分のクレッシェンドもごく自然に実行されていて、フィッシャーのオーケストラ・ドライヴの巧さを象徴している。《火の鳥》は、これまでの録音では殆ど聞き取ることのできなかったピアノの音が絶妙なバランスで聞き取れることが象徴しているように、《春の祭典》以上に細部まで気配りがなされ、魅力的な音楽性を感じさせる演奏・録音に仕上がっている。中でも「カシチェイの凶悪な踊り」では充実した力感と緊張感が作り出されており、この音楽に初めて接した時の興奮が蘇ってくる。正にセッション録音ならではの内容の名盤で、録音の明晰さは、ブックレットに収載されている録音時のスナップ写真のマイクの林立を見れば、納得である。

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     2012/03/30

    正直、この演奏は全くいただけない。録音の悪さもそれに追い打ちをかけている。なぜ、ベルリン・フィルがEMIからCDを出すことに固執するのか理解不能。ロンドン響やロイヤル・コンセルトヘボウ管のように、早く自主レーベル一本に絞って欲しいものだ。それはともかく、このディスク、ストラヴィンスキーの交響曲を知らない人たちには好評なようだが、ブーレーズ盤でもそうだったように、作品の魅力と演奏の良さを取り違えてしまっている。これらの作品の録音を出来る限り聴いてきた私にとって、この演奏は特に優れた面があるわけでも、特に(ポジティヴな面で)個性的であるわけでもなく、トップチョイスのC・デイヴィス/バイエルン放送響盤[PHILIPS]には遠く及ばないばかりか、平凡過ぎて、音符を音にするだけで精一杯のようにしか聞こえない。特に《三楽章の交響曲》では、1小節ごとに拍子が変わる《春の祭典》以上に難解なリズム変化にベルリン・フィルが上手く対応出来ておらず、シンコペーテッドな魅力が全くといっていいほど再現出来ていない。ヴァルトビューネでガーシュウィンを取り上げたときもそうで、ベルリン・フィルのグルーヴ感の悪さ、リズムのノリの悪さは、このような作品を演奏する上に於いては致命的とも言える。要するに、ここにあるのは作品とオーケストラとの相性の問題で、作品とオーケストラとの間に親和性を生み出せなかったラトルの責任は重大である。

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     2012/03/30

    カルロス・カルマーは、ノーマルなクラシック音楽ファンにとってはほとんど無名に近いと思うが、現在、アメリカを中心に活動している50代中盤の中堅指揮者で、録音の数は1ダース近くになる。彼の録音の最新作であり初のSACDとなる本盤は、その中でも群を抜いた内容を有しており、近・現代の管弦楽作品ファン必携の一枚といえる。特にブリテンの《シンフォニア・ダ・レクイエム》とヴォーン=ウィリアムズの交響曲第4番は、同曲盤の中でもトップクラスの演奏で、オレゴン響の力感に満ちたなマッシヴなサウンドは、作品に相応しい。細部までとても精緻な表現を行き渡らせ、なかなか濃密な表情をもっているし、色彩鮮やかだが、そうした効果がこれみよがしにならないのがいい。このような優れた録音が、ライヴ収録というのも驚きで、演奏はもちろん、音質・音響的にもそのハンディは全く感じられない(ちなみに、オレゴン響の本拠地アーレン・シュニッツァ・ホールは、東京文化会館的な、どこにでもありそうな中堅ホール)。中でもヴォーン=ウィリアムズの交響曲は、若きバーンスタインを彷彿とさせる、シャープで切れ味の良いエッジの効いた演奏で、もしかするとこの曲の録音のファースト・チョイスになるかもしれない。

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     2012/03/30

    ロチェスター・フィルといえば、かつてイーストマン・ロチェスター管の名称でマーキュリー・レーベルに行なった録音を愛聴したものだが、本盤のサウンドが間接音の少ないデッドな音響で、マーキュリーのソノリティを彷彿とさせるのが面白い。演奏は、《ロンドン》交響曲もセレナードも、極めて正攻法なアプローチで、私的な思い入れを排し、作品それ自体に語らせて誠実にまとめられている。とはいえ、作品のロマン的情緒は過不足なく魅力的に表現されていて、特に交響曲では、曲の劇的な雰囲気を巧みに描き出した音楽性豊かな演奏で、高く評価できる。しかし、ボールト(EMI)やバルビローリ、ヒコックスの録音と比べて聴くと、やはり表現が一面的だという印象は免れ得ない。ハルモニア・ムンディの録音全体にもいえることだが、最初にも述べたように、録音的にもSACD(DSD録音)のメリットが感じられず、今ひとつパンチに掛けるディスクといわざるを得ず、星は4つとした。なお、レーベル取り扱い業者の能書きでシーマンがロチェスター・フィルの音楽監督を30年務めたとあるが、これは13年の間違い。どうやら、”thirty years”と”thirteen years”を取り違えたようだ。

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     2012/03/17

    発売以来、不当に無視されてきたブロムシュテットのR・シュトラウスがやっと復活。マーラーの《復活》やセッションズの交響曲など、ブロムシュテットのサンフランシスコ時代の録音は、なにかと無視されているものが多いが、この《英雄の生涯》は特に優れた演奏・録音で、ブロムシュテットのファンはもちろん、ブロムシュテットの評価が低い音楽ファンにとっても必聴のアイテムだ。筆者は小澤征爾/ベルリン・フィルのサントリーホール・ライヴを聴いて以来、同曲に惚れ込み、聴ける限りの録音を聴いてきた。この演奏は、それらの中でも群を抜いており、ことあるごとにこの演奏を勧めてきたが、流通経路から外れている所為でなかなかその素晴らしさが伝わらず、長年受苦じたる想いでいた。なるべく多くの管弦楽ファンに接して欲しい名盤中の名盤であることを、改めて宣言させて戴きたい。

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     2012/03/10

    クーベリックが1944年から48年にかけてチェコ・フィルと行なった録音集。
    ドヴォルザークやマルティヌーの録音は知られているものだが、これまで、クーベリックのショスタコーヴィチ録音は、コンセルトヘボウ管との、1950年のレニングラード交響曲のライヴ録音が商品化されているだけに過ぎず、スプラフォンによると、交響曲第9番のこの音源は、今回が初商品化であるとのこと。録音は1945年12月のライヴ録音で、ムラヴィンスキーが初演して1ヶ月も経過していない時期のもの。この楽曲の、今までパッケージ商品として発売された最も早い録音は、1946年7月の、クーセヴィツキー指揮ボストン響のアメリカ初演のライヴ録音だが、その記録を半年以上も更新したことになる。初出音源は、他にもマルティヌーの《リディツェのへの追悼》、ドビアスの《スターリングラード・カンタータ》があり(これらは、いずれも初演の実況録音と思われる)、それらも興味が尽きないレパートリーだ。
    本盤は、「偉大なチェコの指揮者たち」と題されており、今のところクーベリック以外の指揮者の録音はアナウンスされていないが、ノイマンやアンチェル、スメターチェクやターリヒなどの珍しい録音が商品化されることを期待して止まない。

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     2012/03/05

    シュターツカペレ・ベルリンの何処をどうすればこういう響きが出てくるのか不思議だが、70年代のカラヤン/ベルリン・フィルの最盛期や、バーンスタイン/ウィーン・フィルの同曲演奏を彷彿とさせる、重厚・濃密で分厚いサウンドが展開している。人気の高い、サヴァリッシュやドホナーニのオーセンティックな演奏とは、対極の演奏だ。私見では、もし、晩年のテンシュテットがシューマンをやったら、こういう感じになったのではないか? と思われる(80年前後の録音よりも深化した形で)。本ディスクは、個人的にはめっぽう気に入っている演奏で、リリースされてすぐ第1番の冒頭を聴いた瞬間から惚れ込んでしまった。ところが、”BBC Music Magagine”のディスクレビューでは、前代未聞の☆1つを叩き出していた。だから、このレビュー欄でも賛否分かれるのは、そういう経験から言ってよく理解できる。要は、好みの問題に集約される。では、「好み」とは何であろうか? それは、「刷り込み」の産物に他ならない。「刷り込み」とは、灰色雁の雛が、卵から羽化して最初に見た、動き、かつ音声を発するものを、親だと認識して後を付いていく習性から来ている。灰色雁の雛は、本当の親でなくても、条件に合いさえすれ、他の種類の鳥でも、あまつさえ生物でなくても親と思い込んで(刷り込まれて)、後を付いていく。この現象は、かなり長期間に渡って雛の行動様式に影響を与え、成鳥になるまで最初に親だと思い込んだ「モノ」を親と認識し続けたという報告もある。これは、なにも灰色雁に限ったことではなく、人間の行動様式にも、ある程度「刷り込み」現象が深い影響を与えることが分かっている。しかし、人間の認識力は灰色雁の雛ほど単純ではなく、「刷り込み」が起こるためにはもう少し高度な条件が必要になるようだ。その条件とは、それを受け入れる気になるかどうかだ。最初に出会った「それ」を受け入れる気になった瞬間、「刷り込み」が起こる。行動経済学では、この現象を「アンカリング」(Anchoring)といい、人間の判断過程が、ある特定の情報や部分的な特徴に引っ張られることによって、最終的な判断もその特定の情報などに引っ張られて偏ったものとなることを指す。その時から、ある幅の特徴を受け入れながらも、まるでゴムひもで引き戻されるように、いつも原点に戻ってアンカーを参照することになる。つまりは、「第一印象を受け入れることでアンカリング(刷り込み)された、ある特定の特徴に引っ張られた『偏った判断』」が「好み」の正体に他ならない。そしてこのアンカリングは、かなり長期に渡って人の趣向や価値判断に影響を与える。そう考えると、「名盤」や「名録音」と云われるディスクが権威を持っている(絶対的な価値を持っている)のは、最初にそれに接する機会が多いからだ。まして、既に「素晴らしいもの」というお墨付きが社会的に与えられている訳でもあり、ハーディング(=群集化。他人が前にとった行動をもとに、ものごとの善し悪しを判断し、それに倣って行動すこと。これは自分の過去の行動にも当てはまる)も手伝って、すんなりと価値観がアンカリングされてしまうという寸法だ。どこかでたまたま遭遇し、趣向や好みに影響を与えたアンカーが、そのずっと後まで離れずに残るのだから、第一印象というのは思っている以上にやっかいなものであり、重要なものである。私の場合には、シューマンの交響曲演奏に於いては、バーンスタイン(ニューヨーク・フィル盤及びウィーン・フィル盤)やテンシュテット/ベルリン・フィル盤、ショルティ盤がアンカーだったおかげで、本盤もすんなりと受け入れる事ができた。しかし、アンカリングには「マイナスをプラスに変える」アンカリングも存在する。つまり、最初のアンカリングとは対極的な特徴をもっていることで「嫌い」だったものが「好き」に変わる新たなアンカリング現象である。そもそもアンカリングとは、「ある特定の特徴に引っ張られた『偏った判断』」が「好み」を左右するものだ。とするならば、例えば車の選定基準がスピードから燃費になったように、好みを左右している「特定の特徴」から離れた判断基準を用意して、そこに着目するようにすればよい訳だ。まあ、そこまでして嫌いな演奏を好きにならなければいけない法はないのだけれど、最初の「良くない(或いはどうでもいい)」アンカーによって好みが刷り込まれてしまったために、本当はより多くの満足を与えてくれるものを見す見す逃してしまうのは賢明とはいえないし、癪だ。恣意的なアンカリングに従って自分の好みの幅を狭めてしまうか、自分の好みがどういうアンカーに支配されているか意識的になって、「特定の特徴」から離れた判断基準を用意して趣向の幅を広げるかは、その人次第だ。ぶっちゃけ、この演奏を嫌いだという人は、単にバレンボイムが嫌いなだけなんだとは思うけど・・・(笑)

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     2012/02/25

    小澤の《英雄の生涯》といったら、カラヤンの代役として、86年10月のベルリン・フィルの来日公演に出演した際の演奏が伝説的な名演として知られている。当然、この映像にも期待したが、ベルリン・フィルの表現力を的確にコントロールした、極めて手厚い演奏と比べると、これは、その域には達していないのが残念だ(ただし、BPOの演奏は、目立つミスも多い)。しかし、これはこれで意欲的かつ鮮烈な演奏で、クライバーもかくやと思わせる、十分優れた内容となっている。演奏内容のみなら、十分☆5つ評価に値するのだが、ネガティヴ・ファクターが2つある。まずは画質面に関して。ノイズ的なものは一切認められないながらも、甘々のSDクオリティで、演奏者の楽譜の音符まで鮮明に映し出されるHDクオリティに慣れた目には、お世辞にも「極めて良好」と言える代物ではない。例えば、先日発売された、これより少し古い、80年代後半に収録されたテンシュテット指揮ロンドン・フィルのマラ5(ICA CLASSICS)と比べても、クオリティは数段落ちる。音質面も、SNは割と良好だが、左右への広がりや奥行き感はそう大きくない。簡単に言えば、N響アワーでお馴染みのNHKホールのようなソノリティだ。しかし、解像度は過不足なく、全体的なサウンドは低音域が厚い重厚なバランスで、力強い推進力を感じさせる音作りなのは、プログラム(特にシュトラウス作品)とのマッチング善し。画質・音質面を無視して演奏のみなら☆5つ評価だが、評価の総合点としては、☆4つが妥当だろうと思う。

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