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The Art of Oskar Fried (12CD)

Item Details

Genre
:
Catalogue Number
:
SC839
Number of Discs
:
12
Label
:
Format
:
CD
Other
:
Import

Product Description


オスカー・フリートの芸術(12CD)
ベルリン国立歌劇場管弦楽団、他


ヒストリカル物に強いイギリスのスクリベンダム・レーベルから、オスカー・フリートのボックスが登場。マーラーと親しく、クレンペラーに敬愛されたその強烈な個性は、古い録音からも十分に伝わってきます。

フリートの生きた時代
1882年、11歳のときからホルン吹きとしてフリートが居合わせた現場は、多くの作曲家が存命で彼らの前で演奏がおこなわれていた世界に属していました。マーラーやビューローの極端な演奏から保守派とワーグナー派の対立、反ユダヤ主義の勃興、戦争がもたらすマネーの大変動、レコードの登場から、社会主義とコンサートの関わりなどまさに激動の時代でした。

兄弟で指揮者
フリートの兄リヒャルトも指揮者ですが、7歳年長だったおかげで、家業破綻の際にも16歳だったので働きながらベルリン王立アカデミーでの学業を継続。その後はドイツの歌劇場システムで音楽家生活を送っています。一方、フリートの方は家業破綻の際にはまだ9歳だったので、名門ギムナジウムを中退させられ無料の町の楽士養成所(シュタットファイフェライ)に入れられるという、野良システムのような音楽家生活のスタートでした。
  結果的には兄リヒャルトは顔写真も見当たらない無名のカペルマイスターのまま、ドイツ政府によって1944年に絶滅収容所に送致。フリートの方は荒波の中で強烈な個性に育って国際的に活躍するものの、1938年にモスクワで指揮台から転落してパーキンソン病を発症。体が硬化して仕事ができず年金暮らしとなり、1941年に家族に見守られながら亡くなっています。



 収録情報

CD1
◆ R.シュトラウス:「アルプス交響曲」 Op.64
  ベルリン国立歌劇場管弦楽団
  録音:1925年、ベルリン(この曲の世界初録音)

◆ グリーグ:「ペール・ギュント」組曲第1番、第2番
  ベルリン・シャルロッテンブルク歌劇場管弦楽団(ベルリン・ドイツ・オペラ管弦楽団)
  録音:1928年、ベルリン、音楽アカデミー

CD2
◆ リムスキー=コルサコフ:交響組曲「シェヘラザード」Op.35
  ヘンリー・ホルスト(ヴァイオリン)
  ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
  録音:1928年、ベルリン、音楽アカデミー

◆ チャイコフスキー:「くるみ割り人形」組曲 Op.71a
  ロイヤル・フィルハーモニー管弦楽団
  録音:1929年2月5、6日

◆ ドリーブ:「シルヴィア」組曲
  ブリティッシュ交響楽団
  録音:1930年、ロンドン、ウェストミンスター、セントラル・ホール

CD3
◆ ベートーヴェン:交響曲第2番ニ長調 Op.36
  ベルリン国立歌劇場管弦楽団
  録音:1925年10、11月、ベルリン(アコースティック録音)

◆ ベートーヴェン:交響曲第3番変ホ長調 Op.55「英雄」
  ベルリン国立歌劇場管弦楽団
  録音:1924年7月、ベルリン(アコースティック録音、この曲の世界初録音)

CD4
◆ ベートーヴェン:交響曲第9番ニ短調 Op.125「合唱」
  ロッテ・レオナルト(ソプラノ)
  イェニー・ゾンネンベルク(コントラルト)
  オイゲン・トランスキー(テノール)
  ヴィルヘルム・グットマン(バス)
  ブルーノ・キッテル合唱団
  ベルリン国立歌劇場管弦楽団
  録音:1927年、ベルリン

CD5
◆ ストラヴィンスキー:「火の鳥」組曲(1919年版)
  ベルリン国立歌劇場管弦楽団
  録音:1925年、ベルリン(アコースティック録音)

◆ ブルックナー:交響曲第7番ホ長調
  ベルリン国立歌劇場管弦楽団
  録音:1924年11月(アコースティック録音、この曲の世界初録音)

CD6、CD7
◆ マーラー:交響曲第2番ハ短調「復活」
  ゲルトルート・ビンダーナーゲル(ソプラノ)
  エミー・ライスナー(コントラルト)
  ベルリン大聖堂合唱団
  シュターツカペレ・ベルリン
  録音:1923年か1924年(アコースティック録音、この曲の世界初録音)

◆ リスト:交響詩「レ・プレリュード」
  ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
  録音:1928年、ベルリン、音楽アカデミー

◆ マーラー:「大地の歌」〜第3楽章「美について」
  アストラ・デスモンド(コントラルト)
  BBC交響楽団
  録音:1936年2月1日、クイーンズ・ホール、ロンドン(BBCアセテート、最後の8小節が欠落)

CD8
◆ チャイコフスキー:「くるみ割り人形」組曲 Op.71a
  ベルリン国立歌劇場管弦楽団
  録音:1927年

◆ チャイコフスキー:交響曲第6番ロ短調 Op.74「悲愴」
  ロイヤル・フィルハーモニー管弦楽団
  録音:1929年2月1、4、5日、ロンドン、ウェストミンスター、セントラル・ホール

CD9
◆ ベルリオーズ:「幻想交響曲」 Op.14
  ソ連国立交響楽団
  録音:1937年、モスクワ(ラジオ放送より)

◆ モーツァルト:交響曲第40番ト短調 K.550
  全ソ連放送委員会管弦楽団(モスクワ放送交響楽団)
  録音:1937年、モスクワ(ラジオ放送より)

CD10
◆ ブラームス:交響曲第1番ハ短調 Op.68
  ベルリン国立歌劇場管弦楽団
  録音:1923年か1924年、ベルリン(アコースティック録音)

◆ リスト:ハンガリー狂詩曲第2番
  ヴォックス交響楽団
  録音:1923年(アコースティック録音)

◆ ウェーバー(ベルリオーズ編):「舞踏への招待」
  ヴォックス交響楽団
  録音:1923年(アコースティック録音)

◆ グノー:「ファウスト」〜ワルツ
  ベルリン国立歌劇場管弦楽団
  録音:1924年(アコースティック録音)

◆ リスト:交響詩「マゼッパ」
  ベルリン国立歌劇場管弦楽団
  録音:1925年(アコースティック録音)

CD11
◆ スッペ:「詩人と農夫」序曲
  ベルリン国立歌劇場管弦楽団
  録音:1927年

◆ トマ:「ミニョン」序曲
  ベルリン国立歌劇場管弦楽団
  録音:1927年

◆ ウェーバー:「オイリアンテ」序曲
  ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
  録音:1928年10月6〜11日、ベルリン、音楽アカデミー

◆ ウェーバー:「オベロン」序曲
  ベルリン国立歌劇場管弦楽団
  録音:1924年、ベルリン(アコースティック録音)

◆ ロッシーニ:「泥棒かささぎ」序曲
  ベルリン市立歌劇場管弦楽団(ベルリン・ドイツ・オペラ管弦楽団)
  録音:1928年、ベルリン、シャルロッテンブルク

◆ フリート:「ヘンゼルとグレーテル」のモチーフによる幻想曲
  ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
  録音:1928年10月6、11日、ベルリン、音楽アカデミー

◆ ストラヴィンスキー:「火の鳥」組曲(1919年版)
  ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
  録音:1927年、ベルリン

CD12
◆ サン=サーンス:「死の舞踏」Op.40
  ヨーゼフ・ヴォルフシュタール(ヴァイオリン)
  ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
  録音:1928年10月6〜11日、ベルリン、音楽アカデミー

◆ グノー:「ファウスト」〜ワルツ
  ベルリン・シャルロッテンブルク歌劇場管弦楽団(ベルリン・ドイツ・オペラ管弦楽団)
  録音:1928年、ベルリン

◆ ウェーバー:「魔弾の射手」〜「狩人の合唱」
  ベルリン国立歌劇場合唱団
  ベルリン国立歌劇場管弦楽団
  録音:1927年、ベルリン

◆ ワーグナー:「タンホイザー」第3幕〜「客人たちの入場」
  ベルリン国立歌劇場合唱団
  ベルリン国立歌劇場管弦楽団
  録音:1927年、ベルリン

◆ ワーグナー:「タンホイザー」第3幕〜「巡礼の合唱」
  ベルリン国立歌劇場合唱団
  ベルリン国立歌劇場管弦楽団
  録音:1927年、ベルリン

◆ ワーグナー:「さまよえるオランダ人」第2幕〜「糸紡ぎの合唱」
  ベルリン国立歌劇場合唱団
  ベルリン国立歌劇場管弦楽団
  録音:1927年、ベルリン

◆ ワーグナー:「ローエングリン」第3幕〜「結婚行進曲」
  ベルリン国立歌劇場合唱団
  ベルリン国立歌劇場管弦楽団
  録音:1927年、ベルリン

◆ ワーグナー:「ファウスト」序曲 Op.59
  ベルリン国立歌劇場管弦楽団
  録音:1928年、ベルリン

◆ オッフェンバック:「ホフマン物語」〜「舟歌」
  ベルリン・シャルロッテンブルク歌劇場管弦楽団(ベルリン・ドイツ・オペラ管弦楽団)
  録音:1928年、ベルリン

◆ マスカーニ:「カヴァレリア・ルスティカーナ」〜「復活祭の合唱」
  ベルリン国立歌劇場合唱団
  ベルリン国立歌劇場管弦楽団
  録音:1927年、ベルリン

◆ リスト:交響詩「マゼッパ」
  ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
  録音:1928年、ベルリン、音楽アカデミー

◆ ベートーヴェン:「シュテファン王」序曲 Op.117
  ベルリン国立歌劇場管弦楽団
  録音:1925年、ベルリン(アコースティック録音)

◆ ビゼー:「カルメン」〜第1幕への前奏曲
  ベルリン国立歌劇場管弦楽団
  録音:1928年

◆ モーツァルト:「アイネ・クライネ・ナハトムジーク」〜「ロンド」
  ベルリン国立歌劇場管弦楽団
  録音:1928年、ベルリン




 目次

1871 ベルリンで誕生

1877 ベルリンの名門ギムナジウム

1880 ベルリン近郊のノヴァヴェス

シュタットファイフェライでの殺人関与&少年院エピソードの真偽について

1882 放浪楽士時代

1886 初のロシア帝国ツアー

1891 フランクフルト

1891 フランクフルトのホッホ音楽院でイヴァン・クノアに師事

1891 フランクフルトでフンパーディンクの個人レッスン

1894 デュッセルドルフ

1895 ミュンヘン

1896 パリ

1898 ベルリン近郊のヴェルダー

1902 ベルリン近郊のニコラスゼー

1904 自作「酔歌」がベルリン・フィルで初演

1904 ベルリンのシュテルン合唱協会の指揮者

1906 マーラーの推薦をムゼウム協会が拒否

1908 ブリュートナー管弦楽団の常任指揮者

1938 パーキンソン病と3年後の死

兄リヒャルト

フリート年表
1912  1871  1872  1873  1874  1875  1876  1877  1878  1879  1880  1881  1882  1883  1884  1885  1886  1887  1888  1889  1890  1891  1892  1893  1894  1895  1896  1897  1898  1899  1900  1901  1902  1903  1904  1905  1906  1907  1908  1909  1910  1911  1912  1913  1914  1915  1916  1917  1918  1919  1920  1921  1922  1923  1924  1925  1926  1927  1928  1929  1930  1931  1932  1933  1934  1935  1936  1937  1938  1939  1940  1941 

参照資料

年表付き商品説明ページ一覧





 1871 ベルリンで誕生

ドイツ統一

1871年1月18日、ドイツ統一。占領地フランスのヴェルサイユ宮殿の鏡の間でドイツ皇帝ヴィルヘルム1世の戴冠式。10日後には、同じ場所で「普仏戦争」の休戦協定が署名。半世紀後、第1次大戦でドイツに勝利したフランス(連合国)は、ドイツにとって屈辱的なヴェルサイユ条約を同じく鏡の間で締結して報復。


巨額賠償金バブル

1871年5月10日のフランクフルト講和条約締結により普仏戦争終結。フランスはアルザスとロレーヌの領土割譲に加え莫大な賠償金を準備。3年期限の賠償金額は約50億フラン(=純金1,450トン=約45億マルク=現在価値で約14兆円)で、支払いが終わる1873年9月までドイツ軍がフランス東部に駐留。賠償金の50〜60%ほどがドイツの金融市場に恩恵をもたらして市場経済を過熱させ、1873年にバブルが崩壊するまでの2年間にドイツでは928の株式会社が新たに設立され、投資先もオーストリアやロシアにまで及ぶようになります。


ヨアヒムもバブル?

好景気は音楽の分野にも及び、皇帝ヴィルヘルム1世からベルリン王立音楽アカデミーの創立学長に任命されていたヴァイオリニストのヨーゼフ・ヨアヒムは、1871年にベルリンのベートーヴェンシュトラーセに別荘「ヴィラ・ヨアヒム」を建設してもいました。この保守派の代表的人物と目されるヨアヒムは、フリートの兄リヒャルトの師でもあり、また、幼いフリートのヴァイオリン演奏を聴いて激励した人物でもあります。


好景気のベルリンで誕生

オスカー・フリートは、ドイツ統一の約7か月後、1871年8月10日にベルリン(当時人口約83万人)のユダヤ人商家に誕生。ベルリンは当時、普墺戦争[1866]、普仏戦争[1870-1871]の勝利のおかげで好景気。フリートの生家にも経済的な余裕があったようで、兄リヒャルトをベルリン王立音楽アカデミーに、弟オスカーを名門「フリードリヒヴェルダー・ギムナジウム」に入学させています。


音楽に囲まれた家庭環境

父ジェローム・フリートは、楽器は演奏しなかったものの大の音楽愛好家で、フリートはその鑑賞力を称えていました。母テレーゼ(旧姓:ゴルト)はピアノを弾き、幼いフリートにピアノを手ほどき。7歳年長の兄リヒャルト[1864-1944]はヨーゼフ・ヨアヒム[1831-1907]に師事しており、フリートにヴァイオリンを指導。フリート家は2人兄弟でした。


株式市場大暴落

1873年5月、株式市場で大暴落。まずウィーン証券取引所がバブル崩壊し、ウィーン(当時人口約90万人)の様々な銀行が破綻、事業用貸付資金規模も縮小して経済活動が停滞。5か月後の10月にはドイツの銀行も破綻し始め、証券取引所、投資会社も崩壊。ドイツの優良企業444社の時価総額は、1872年12月から1874年12月にかけて約20億マルク下落。
  こうした投資損失に加え、金融やマスコミ(出版業界)にユダヤ人が多かったことから反ユダヤ主義にも繋がり、やがてウィーン市長のカール・ルエーガー[1844-1910]のような極端な反ユダヤ主義政治家が登場するようにもなります。


社会主義者鎮圧法

1878年10月21日、社会主義者鎮圧法発効。ビスマルク首相が新聞プロパガンダにより、皇帝ヴィルヘルム1世暗殺未遂事件を社会主義者の仕業とし、選挙で野党に勝つためにつくった法律。野党には左派が多く、左派の支持者にはユダヤ人も多かったため、鎮圧法は与党プロパガンダ的な性格を帯びて反ユダヤ的な影響も拡大。


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 1877 ベルリンの名門ギムナジウム

不運なオスカー

フリートは1877年にベルリンの「フリードリヒヴェルダー・ギムナジウム」に入学していますが、バブル崩壊や社会主義鎮圧法の影響もあってか家庭の金銭事情が悪化したため、9歳だった1880年、4年生新学期を目前に中退させられています。すでに単独で就労可能な年齢に達していて、働きながらベルリン王立アカデミーでの勉強を続けることができた兄リヒャルトとは明暗が分かれてしまいます。


ギムナジウムを諦めたフリートを先輩ジンメルが出世させる

フリートが入学する前の年、1876年の同校卒業生には、哲学者・社会学者のゲオルク・ジンメル[1858-1918]がいました。
  ジンメルは、ベルリン大学私講師時代の1902年に、まだ無名のフリートのために「酔歌」の創作に協力。歌詞としてニーチェの「ツァラトゥストラ」からのテキストを短縮してフリートに提供。完成後はニーチェの妹エリーザベトに連絡して許諾も得、1904年のワーグナー協会とベルリン・フィルによる初演を実現させ、成功に導いてフリートの名を一躍有名にしています。
フリートに助けられたクレンペラーがジンメルに弟子入り

その10年後の1914年、ジンメルはシュトラースブルクのカイザー・ヴィルヘルム大学の教授に就任。同年にプフィッツナーの代理としてシュトラースブルク市立劇場の音楽監督に就任したクレンペラーはフリートの影響なのか、かねてよりジンメルの思想に感銘を受けており「弟子入り」を申し入れています。そしてクレンペラーがジンメルとシュトラースブルクで交流する中で知り合った若き哲学者エルンスト・ブロッホ[1885-1977]は、その後半世紀の友ともなっています。
学業を継続した兄リヒャルトは劇場システムで活動

そしてその時期のシュトラースブルク市立劇場で第2楽長と市立管弦楽団(現ストラスブール・フィル)の首席指揮者を兼務していたのがフリートの兄リヒャルト・フリートでもありました。クレンペラーはオスカー・フリートとの縁がもとで成功を掴んでいたので、これは非常に面白いめぐり合わせです。


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 1880 ベルリン近郊のノヴァヴェス

集団住み込みで楽器演奏技術を習得

学費が払えずギムナジウムを中退した9歳のフリートには、あたり前ですがまだ何の職能もなく、すでにヴァイオリニストで成年(16歳)に達していた兄リヒャルトと違って、実社会で働きながら学業を継続することができません。
  そのためフリートは、住み込みで楽器演奏や音楽に関することを無料で学びながら、各所での生演奏で報酬も得られるというベルリン近郊の入植地ノヴァヴェス(当時人口約7,000人)にある楽士養成所「シュタットファイフェライ」に入ることになります。ノヴァヴェスはポツダム(当時人口約48,000人)に隣接する入植・開発地域で、1926年にはエレクトローラ・レコードが設立されたところです。

農作業や雑用と共に楽器を練習

「シュタットファイフェライ」は、「シュタットファイファー(町の笛吹き)」と呼ばれる町の楽士の養成所。9歳から14歳くらいの30人の子供を宿舎に住み込ませ、敷地の農場で食糧確保のための各種農作業のほか、食事準備や日常生活の雑用をこなしたうえで音楽を勉強して楽器を練習します。

本番演奏で得られた報酬からの搾取

ある程度上達すると、指導員は見習い少年たちをポツダムやベルリンに連れて行き、さまざまな行事や結婚式、見本市のほか、飲食店でも音楽を提供、場合によっては深夜の酒場にも対応して演奏報酬を獲得させます。そして経営者はその子供に対して、宿舎滞在費と食費を要求することで利益を得るという仕組みです。そのため子供の手元にはお金はあまり残らず、演奏要員として数年間滞在させることが可能でした。

マルチプレーヤーを目指す修業

「シュタットファイフェライ」ではまず大太鼓を習い、続いてヴァイオリン、コントラバス、クラリネット、ホルン、トランペット、トロンボーン、ボンバルドン(チューバの前身)などが教えこまれますが、裕福に育った華奢なフリートは連日の重労働に耐えられず、大太鼓とホルンを学び終わった11歳の時に辞めてしまいます。下の画像は「シュタットファイファー」と同じく、かつてドイツに存在した子供も働くアンサンブル形態「ポザウネンコール」です。


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 シュタットファイフェライでの殺人関与&少年院エピソードの真偽について

情報源

フリートはモスクワ時代に指揮者のニコライ・アノーソフ[1900-1962](ロジェストヴェンスキー[1931-2018]の父)に対して数々のエピソードを披露しており、その中にシュタットファイフェライ時代に、指導員の横暴に耐えかねて仲間たちとその男を殴り殺し、少年院に入れられたというものがあります。その話はそれまでに出版されていたフリートの3冊の伝記(ベッカー、シュテファン、ライヒテントリットの著作)には記載されていなかったものでもあります。
行動としての信憑性

フリートの語った内容は、シュタットファイフェライの指導員が、子供たちに深夜まで演奏を続けさせるために、シュナップスやビールをたくさん飲ませたり葉巻を吸わせたりしていたことに耐えられなくなって暴行に及んだというものです。
  しかし体重が軽く(血液量が少ない)、内臓の処理能力も低い子供が高濃度のシュナップスをたくさん飲めば酩酊して演奏などとてもできませんし、演奏報酬に見合わない高価な葉巻を子供に吸わせるのも不合理です。
法律と施設の問題

そして何より、その時代のドイツには少年院(少年刑務所)は存在していないのです。1871年の帝国刑法に明記されてはいるものの、実際に施設が用意されて運用が開始されるのは1912年のことです。それまでは少年犯罪者は、大人と同じ刑務所に入れられ過酷な経験をしていたので、フリートがアノーソフにした話は作り話ということになります。もともとフリートには、マーラーの「復活」は自分が初演したなどと面白おかしくホラを吹く大言壮語的な傾向もありましたし。


ホラ話の要因

ではなぜそんな物騒な作り話をしたのかとなりますが、当時のソ連の社会状況や、フリートの主な職場がモスクワ放送交響楽団だったことを考えると、下記のような要因が挙げられそうです。

  ● 大粛清の時代には元ブルジョワや元富農ということだけでも目を付けられ告発されたりしていたので、自分は貧しい生まれで少年院にも入れられていたと話すことで、あらぬ嫌疑がかけられないようにするという予防策。

  ● 1937年からモスクワ放送交響楽団の音楽監督を務めることになったゴロワノフが、ユダヤ人指揮者パゾフスキーのおかげで解任被害に遭っていたことに加え、ユダヤ人が牛耳っていた労働組合が、スターリンに対して「ゴロワノフは粗暴な反ユダヤ主義者なので叙勲を取り消して欲しい」などと要請してスターリンを困らせるなどしていたため、自分はそうしたエリートのユダヤ人とは違うと印象付けたかった可能性があります。アノーソフはゴロワノフと非常に親しい人物でしたし。
なぜアノーソフが簡単に信用してしまったのか

ソヴィエトからソ連初期にかけては、1918年にレーニンが成立させた「家族法」と内戦のおかげで、「自由恋愛」と「生み捨て」が常態化。浮浪児の数が500万人にも達しており、列車まるごと強盗から大量殺人まで異常な数の少年犯罪が発生していました。1900年生まれのアノーソフにとっては、少年犯罪など特に珍しいものでもなかったのでしょう。
アノーソフとフリートは共に回り道をしてきた指揮者

アノーソフ自身はロシア帝国時代の銀行支店長の息子で自宅で音楽のレッスンを受けるブルジョワの生まれでした。しかし国がソヴィエト体制になった1918年には農業大学に入学し、その後、赤軍に志願して第1砲兵学校に入学。1921年の海軍兵士による「クロンシュタットの反乱」の鎮圧にも士官候補生として参加しており、内戦が終わると、フランス語、英語、ドイツ語に堪能だったため外務省に勤務。しかし音楽への情熱が勝るようになり、1920年代なかばに「スタニスラフスキー・オペラ・スタジオ」のピアニスト兼伴奏者としてゴロワノフ音楽監督のもとで働くようになります。指揮者としての初仕事は1930年、30歳の時で、同じく紆余曲折を経て33歳で指揮者になったフリートとは共鳴するものがあったかもしれません。


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 1882 放浪楽士時代

ベルリン近郊での楽士生活

11歳で「シュタットファイフェライ」を辞めたフリートは、まだ単独活動はできないので、ベルリン近郊の庭やバーで演奏する小さな楽団に参加してホルンとパーカッションを演奏する生活を数年間送っています。
放浪楽士

やがてフリートは、ホルンの腕前を生かしてより良い収入を得るべく、ドイツ各地とドイツの東の隣国を旅する小さな楽団や、巡業オーケストラに参加して稼ぐようになります。
最晩年のリストの前でセレナーデ演奏

フリートの回想によると、仲間の楽士ら20人と一緒に、最晩年のフランツ・リスト[1811-1886]のワイマール(当時人口約2万人)の家の前でセレナーデを演奏し、その際、リスト本人が出てきて喜び、涙を浮かべながら楽士たちの成功を祈ってくれたのだそうです。
  リストは1881年7月2日、ワイマールの家の階段で転倒して肋骨を2本折り(肺もダメージを受けて胸膜炎を誘発)、右大腿部が裂け、さらに足首が腫れるという重傷を負い、それがもとで体力が低下した状態で最後の5年間を過ごしています。しかしそれでも弟子たちのために、ワイマールでのマスタークラスは亡くなる約1か月前まで繰り返し実施していました。素晴らしい人格者ぶりです。
  フリートはこのときの感激を忘れることなく、生涯に渡ってリストの作品を指揮し続けることになります。


サーカス

放浪楽士時代の有名なエピソードとして、サーカスに雇われ、楽器演奏だけでなく、道化師役や、犬の訓練、馬の世話までさせられたというものがあります。零細運営のサーカスであれば各種業務の兼務は日常の光景とはいえ、楽士にまかせるのは珍しいと思われます。もしかすると「シュタットファイフェライ」の農場で家畜の世話もさせられ、その経験が生きたのかもしれません。


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 1886 初のロシア帝国ツアー

グラウハウのフリーメーソン音楽委員会委員長がオケを編成

ライプツィヒ(当時人口約25万人)の南60kmほどのところにある都市グラウハウ(当時人口約2万人)の教会で、1857年からカントル兼オルガニストとして活動する作曲家、ダニエル・ラインホルト・フィンスターブッシュ[1825-1902]が、自分が指揮する合唱団のロシア帝国ツアーを伴奏オーケストラ付きの豪華なものにすることを計画。
  フィンスターブッシュは1860年からグラウハウのフリーメーソン・ロッジで音楽委員会の委員長を務めている名士でもあり、こうした物入りの際にはそれが役立ったものとも考えられます。


未成年フリートを16歳として申請し出国

オーケストラは臨時編成で対応することとなり、安価に雇用できる少年ホルン奏者のフリートにも声がかかります。しかしフリートがまだ未成年だったため、フィンスターブッシュはフリートの年齢を16歳ということにして申請、無事に最初の目的地、ロシア帝国領のリバウ(現ラトヴィア、リエパーヤ)に到着、その後、サンクトペテルブルク(当時の人口約100万人)までまわっています。フリートはバルトの文化や美しい大都会サンクトペテルブルクに魅了され、以後、ロシア帝国を繰り返し訪れることになります。


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 1886 ベルリン、コンツェルトハウスの楽団での演奏

ホルン奏者としてベルリンで活動

フリートはロシア帝国ツアーから戻ると、一時期、ベルリンのコンツェルトハウスで演奏する楽団にホルン奏者として参加しています。その楽団は元々はベルリン・フィルの前身ともいえる団体であったことから、後年、フリートは「私は経験豊かな音楽家として戻り、ベルリン・フィル第1ホルン奏者の代わりを務めることができました。」と述べていますが、その楽団の楽員がまとめて脱退してベルリン・フィルをつくったのは1882年のことで、フリートが参加したのはその4年後なのでこの話は不正確に思えます。
  しかし脱退してベルリン・フィルに参加した第1ホルン奏者の代わりを務めることのできるまともな奏者が4年間見つからなかったということなのであれば、あながちホラ話とばかりも言い切れないことになります。コンツェルトハウスの楽団の事情はややこしいので以下に簡単にまとめておきます。


ベルリンに存在したもうひとつのコンツェルトハウス

19世紀後半、ベルリンのライプツィヒ通り46番地には民間建築による「コンツェルトハウス(Concerthaus)」という名の建物がありました。約1,200席のコンサートホールと同じ空間にレストランなどがあるその建物は、「クアハウス」と呼ばれる保養地仕様の施設で、リラックスした客の前で音楽家が演奏する形態で運営され人気を博していましたが、楽団が去ると有力なテナントも見つからず1899年に取り壊されています。現在の「コンツェルトハウス(Konzerthaus)」がまだ演劇用の王立劇場「シャウシュピールハウス」だった時代の話です。


ベンヤミン・ビルゼ

コンツェルトハウスの知名度が上がったのはビルゼのおかげで、そのため建物が「コンツェルトハウス・ビルゼ」と呼ばれることも多かったようです。
  ヨハン・エルンスト ベンヤミン・ビルゼ[1816-1902]はドイツ東部のリークニッツ(現ポーランド、レグニツァ)の生まれ。オスカー・フリートと同じく「シュタットファイファー(町の楽士)」養成所で音楽教育を受け、ホルン、トランペット、ハープ、ヴァイオリンの演奏を5年間に渡って学び、さらにウィーンでヨーゼフ・ベームにヴァイオリンを師事してJ.シュトラウス1世の楽団で演奏してもいました。
  1842年、人口約42万人のウィーンから人口約12,000人のリークニッツに戻ったビルゼは、まず市の行事の音楽を演奏していたシュタットファイファーらによるごく小さな楽団の水準を引き上げる改革に取り組みます。ビルゼ自身の報酬も含めて非常に限られた予算の中、楽団の規模を拡大し、市の行事の演奏だけでなく、時には自腹を切って夏のツアーも実施。
  改革開始から5年後の1947年にはベルリンで演奏会を開き、ベートーヴェンの交響曲第2番が陰影豊かな演奏と高い評価を獲得。ビルゼ作曲「嵐の行進ギャロップ」は4回もアンコールを要求され、その結果、プロイセン王のフリードリヒ・ヴィルヘルム4世[1795-1861]からサンスーシ宮殿に招かれ、そこでも「嵐の行進ギャロップ」を繰り返し演奏して評判となります。その結果、数か月でサンクトペテルブルクからシカゴ、ノルウェー、オーストラリアなどでも演奏されるようになり、楽譜は30回以上増刷、演奏会場でのピアノ編曲譜販売の好調にも繋がりました。
  以後、ツアー時の楽団の高評価は長く続きましたが、1865年に市議会がツアーをできないよう画策したため、ビルゼはリークニッツ市との契約を解消し、楽団の運営を自分でおこなうことになります。
  そして2年後の1867年にはパリ万博に出演。5月28日から9月10日まで3か月以上もほぼ毎日演奏をおこない、友人のJ.シュトラウス2世も数多く指揮して皇帝ナポレオン3世からも称賛されるなど人気を博していました。
  名声を得たビルゼはベルリンに拠点を移し、1867年12月21日にコンツェルトハウスで始まったのがビルゼ楽団の演奏会シリーズです。聴衆にはニーチェやワーグナー、ビューロー、チャイコフスキー、パデレスフキーなどの有名人もいました。


ビルゼが鍛えたオーケストラ

ビルゼ楽団はシーズン中(秋から翌春にかけての約7か月間)は、月曜から土曜まで、曜日ごとにテーマを決めて毎日リハーサルとコンサートをおこない、軽音楽系の作品から合唱作品、ハイドン、モーツァルト、グルック、ベートーヴェンから同時代のチャイコフスキーやワーグナー作品まで演奏し、ワーグナー自身も客演指揮をするなど、クアハウス仕様ホールの演奏会とは思えぬ高水準な内容で高い評価を得ています。
  背景には、オフ・シーズン(約5か月間)に多い野外演奏に対応するため金管楽器が重視されたバランスになっていたことや、それを活用するための選曲やビルゼ自身の作曲にも金管楽器を巧みに使用したものが多かったことがありますが、これはまさにのちのベルリン・フィルのサウンドを特徴づけるものでもありました。


ビューロー指揮マイニンゲン管弦楽団の衝撃

1882年1月、ハンス・フォン・ビューロー指揮マイニンゲン管弦楽団とブラームスがベルリンで連続演奏会を開き、ブラームスのピアノ協奏曲第1番ではブラームスが指揮してビューローが弾き、第2番ではビューローが指揮してブラームスが弾くというセンセーショナルな組み合わせに加え、ベートーヴェン、メンデルスゾーンなども自由に大胆に演奏してベルリン楽壇に衝撃を与えています。
  当時のベルリンの有名団体による管弦楽演奏会は、以下のような状況で、シンフォニーや本格的なコンチェルトを自由自在に操るようなアーティスティックな演奏会はおこなわれていませんでした。

  ◆ 宮廷歌劇場管弦楽団による演奏会 → 楽譜通りの生真面目な演奏で不人気
  ◆ ビルゼ楽団による演奏会 → 演奏は巧いが飲食もできる出会いの場として人気

ちなみにビューローはニキシュよりもさらに人気があり、ニキシュのボストン響音楽監督年俸1万ドルに対し、ビューローの北米客演報酬は6週間滞在で1万3千ドル、しかもマネジメントも1万2千ドルの利益を獲得するという売れっぷりでした。


59名中54名が脱退してベルリン・フィルに

ビューローの衝撃はビルゼ楽団の楽員にも少なからぬ影響を与えたようで、2か月後の3月、オフ・シーズン(夏)に開催予定のポーランド・ツアーの契約内容をめぐってビルゼともめた際、楽員たちは妥協せずに独立を決意。新聞広告まで出して自分たちの窮状を訴え、ビルゼ楽団全楽員59名のうち54名が脱退し、新規に団員8人を加えて62名で新たな活動をおこなうことになります。
  ちなみに彼らは脱退後、自分たちの演奏会をおこなう際、しばらくの間は、「元ビルゼ楽団」、もしくは「前ビルゼ楽団」というビルゼ由来の名前を使用して集客しやすいようにしていましたが、1882年10月にビルゼが抗議の新聞広告を出したため名前を変更。新しい演奏会場として使用することが決まった屋内ローラースケート場にすでに「フィルハーモニー」と名付けていたことから「ベルリン・フィルハーモニー」と決定しています。下の画像はフィルハーモニーが62年後に爆撃された後の姿です。


すぐに再編成して活動を開始したビルゼ楽団

1882年3月に楽員の約92%が脱退したビルゼ楽団ですが、新たに楽員の募集をおこなったところ、ドイツ以外も含めて約1,000名もの応募があり、改めて楽団の評価が高かったことと、シーズン中の待遇については十分なものであったことが確認されました。
  ビルゼ楽団は半年後の9月なかばには活動を再開し、12月には通算3,000回記念コンサートも実施。その後、ビルゼは1885年4月30日までの3年間で566回指揮をし、ビルゼ楽団演奏会通算3,566回指揮という記録をもって69歳で引退し美しい故郷リークニッツに戻っています(かつて市議会に酷い目に遭ったビルゼはリークニッツのフリーメーソン会員になっていました)。


ハイニッケの活躍、フリートの参加

引退したビルゼの後任として楽団運営を任されたのは、1833年ザクセン生まれの宮廷音楽監督ヘルマン・マンスフェルトで、元宮廷楽団員のヘルマン・ハイニッケ[1863-1949]をコンサートマスターに据えて共に働きますが、1885年10月1日から1886年4月20日までの1シーズンで退任しています。
  1886年10月1日からは、1837年バイエルン生まれの指揮者カール・マイダーが引き継ぎ、このとき楽団の名前も「マイダー楽団」に変更。マイダーは前年までリヴァプール・フィルを指揮するなど主にイギリスで長く活動。


マイダーは楽団を引き継ぐと、コンサートマスターのハイニッケに副指揮者も兼務させ、ドイツだけでなくイギリスのコンサートもまかせたりしていましたが、4年後の1890年3月、ハイニッケはマイダーと揉めて楽団を脱退。翌月にはオーストラリアのアデレードにヴァイオリン教師の仕事を得てロンドン経由で旅立ってしまいます。ハイニッケは現地でオーケストラを設立し、指揮者としても活動、1949年に85歳で亡くなるまでアデレード楽壇に教育者、ヴァイオリニスト、指揮者、ピアノ販売など様々な形で貢献していました。
  フリートが楽団に最初に参加したのはこのハイニッケとマイダーの時代で、以後、ホルンの腕を買われて何度も呼ばれてツアーにも参加。ちなみにハイニッケは、ベルリンに来る前はフランクフルトのパルメンガルテン管弦楽団でコンサートマスターを務めていたので、マイダー楽団をフランクフルトに繋ぐ役割を果たした可能性もあります。


ニキシュの客演

1885年にビルゼが去った後も、ハイニッケとマイダーの尽力でなんとか評判を保っていた楽団ですが、1888年のニキシュの客演はちょっとした騒ぎにもなったようです。当時ライプツィヒ市立劇場の第1楽長を務めていたアルトゥール・ニキシュ[1855-1922]は、翌年にはボストン響音楽監督就任も決まっていた人気指揮者。ライプツィヒの第2楽長でライバルのマーラー[1860-1911]は、この年にハンガリー王立歌劇場音楽監督に就任が決まり、5年後の1893年にはその後任としてニキシュが音楽監督に就任するという競争ぶりでした。
  ニキシュは4回のコンサートのために徹底したリハーサルを暗譜で実施、マイダー楽団がふだんと大きく異なる演奏をおこなったとして話題となり、17歳のフリートに何らかの影響を与えた可能性もあります。


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 1891 フランクフルト

マイダー夫人の払い渋り

1891年のマイダー楽団は、12月にフランクフルト(当時人口約19万人)でモーツァルト没後100周年記念公演のほか、ウェーバー・コンサート、ベートーヴェン・コンサートと追加公演をおこなっています。会場は1879年に開業した立派な証券取引所のホールです。
  フリートのもとに出演要請が来たのは公演2か月前の1891年10月のことで、ベルリンからフランクフルトに向かうことになりますが、お金が足りなかったため交通費と当面の生活費を金庫番のマイダー夫人に前借を申し入れています。夫人はあの手この手で減額し、その後フリートは家賃の支払いができず貸主から締め出されるという経験もしていました。


ホルン奏者として活動

フリートはマイダー楽団のフランクフルト公演が終わった後もフランクフルトに滞在し、同地の巨大な植物園「パルメンガルテン」のゲゼルシャフツハウスを本拠とする楽団「パルメンガルテン・コンツェルト管弦楽団」で演奏したり、「フランクフルト歌劇場管弦楽団」のホルン奏者を務めたりして稼いで過ごしています。


フランクフルト歌劇場管弦楽団はオペラだけでなくコンサートでも演奏し、その際の名前は「ムゼウム管弦楽団」。フリートが到着した1891年10月時点では保守派のオットー・デッソフがフランクフルト歌劇場第1楽長とムゼウム管弦楽団首席指揮者を兼務していましたが1892年10月に57歳で急死。デッソフはブラームスの交響曲第1番の初演指揮者でもあります。


ムゼウム管弦楽団首席指揮者の後任は、グスタフ・コーゲル[1849-1921]。コーゲルは順調に働いていましたが、ワーグナー派だったため、1901年に新聞「フランクフルター・ツァイトゥング」で書き始めた批評家ヘルマン・ゲールマン[1861-1916]から徹底攻撃されるようになり、耐えきれずに1903年に辞任。後任のハウゼッガーもワーグナー派だったため同じく執拗な批評攻撃を受けて3年で辞任に追い込まれています。


フランクフルト歌劇場第1楽長の後任は、前年にブルノ歌劇場指揮者陣の一員になったばかりの無名の若手、ルートヴィヒ・ロッテンベルク[1864-1932]に決定。ワーグナー派のフンパーディンクが、すでに有名指揮者だったR.シュトラウスから自分にやらせて欲しいと頼まれて何とかしようとしたものの、フランクフルトはホッホ音楽院が保守派の牙城ということで、歌劇場と「フランクフルター・ツァイトゥング」にも影響が及び、ブラームスとビューローの推薦を得た新人ロッテンベルクの前にあえなく敗退。また、フンパーディンク自身も1897年にはホッホ音楽院と「フランクフルター・ツァイトゥング」を辞めてボッパルトに転居しています。


指揮者デビュー・エピソードの真偽について

晩年のフリートがアノーソフに話した内容では、ある日、フリートがパルメンガルテン管弦楽団の演奏会に参加する際、「魔弾の射手」序曲で始まるコンサートで、指揮者が急病で出演できなくなったため、フリートが急遽代役として指揮して、それが指揮者デビューだったということです。
  コンサートはあくまで興行なので、普通に考えて、すでに20歳の新参のエキストラ楽員が指揮を代行するメリットはオケ側にも客側にも無いため不思議な話です(子供だったら話題性はありますが)。しかも当時のフリートは作曲家志望で勉強しており、指揮者になるつもりはまだなかったようなので。
  デビュー話に発展した可能性があるのは、フリートが1891年12月19日にフランクフルトでおこなわれたマイダー楽団の「ウェーバー・コンサート」で演奏していたという事実です。もしかしたら直近の経験をもとに指揮者の代役に対して「魔弾の射手」序曲のホルンで何か提案していたのかもしれず、それが指揮者デビューという話に膨らんだのかもしれません。


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 1891 フランクフルトのホッホ音楽院でイヴァン・クノアに師事

ホッホ音楽院の無料講座でも指導

イヴァン・クノア[1853-1916]は、プロイセンのメーヴェ(現ポーランド、グニエフ)に誕生し、4歳のときに家族とロシアに移住。その後、14歳でライプツィヒに転居してライプツィヒ音楽院で学んだ後、1874年からロシア帝国のハリコフで音楽教師として働きロシア人と結婚、1883年にドイツに戻り、ホッホ音楽院に就職。同音楽院は当時、前年に初代院長ラフが亡くなったことで保守派強硬路線のショルツ院長が、ワーグナー派強硬路線職員を弾圧。辞めたワーグナー派職員がラフ音楽院を設立するという嵐のさなかでした。
  クノアは1886年には無料の講座でも教え始め、1908年に院長になるとオーケストラ部門も設立したほか、貧しい学生の支援組織も設立し、1916年、63歳で死去。作曲家としてウクライナやロシアを題材とした音楽を書き、友人チャイコフスキーの伝記を執筆するなどロシアと縁が深く、その作品はブラームスからも評価されていました。教え子は、プフィッツナー、フリート、クレンペラー、トッホ、ブラウンフェルス、エルネスト・ブロッホ、パーシー・グレインジャー、シリル・スコット、ロジャー・クイルター、ヘンリー・バルフォア・ガーディナー(エリオットの大叔父)等多数。
  下の画像は1888年まで使用していたホッホ音楽院の建物(故ホッホ博士の住居)です。


ホッホ音楽院は、1888年には学生数の増加に伴って新校舎を建設して移転していたので、フリートがクノアに理論を教わったのは新校舎の方となります。


ロシアと縁の深いクノア

クノアのフリートへの実際の指導の様子は伝わっていませんが、クノアは1883年からホッホ音楽院で働き、1886年から無料講座でも教え、まず作曲を担当し、1888年からは理論を指導していたので、金欠フリートもそこに参加していたと考えられます。
  また、少年時代のロシア・ツアーでロシアに関心をもっていたフリートに対して、本格的なロシアに関する情報を知らせていた可能性も高そうです。
  なにしろクノアはフンパーディンクの頼りになる同僚で、1893年の秋には「ヘンゼルとグレーテル」初演準備用のピアノ譜の作成に、教え子のハンス・プフィッツナー[1869-1949]、カール・フリートベルク[1872-1955]を中心に、フリートにも協力させるなど音楽院以外での交流もあったので。


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 1891 フランクフルトでフンパーディンクの個人レッスン

出会いエピソードの真偽について

フリートとフンパーディンクの出会い話としては、1892年にフリートが自宅でホルンの練習をしていた時に隣人がうるさいと怒鳴り込んできて、その隣人がフンパーディンクだったというエピソードが有名です。
  しかし、ベルリンからの交通費も無く演奏報酬の前借りまでしていた貧乏なフリートの住居が、当時すでにホッホ音楽院で教えながら新聞「フランクフルター・ツァイトゥング」でオペラの記事も書いていたフンパーディンクの隣であったとは考えにくく、情報の出どころもアノーソフへの晩年の話であることから、面白おかしく語った冗談であると思われます。
  実際の出会いは、ホッホ音楽院の無料講座で理論を学んだクノアからの紹介と考えた方が合理的です。フンパーディンクの知名度はまだ低いものでしたし。


レッスンの実状

おそらく低料金でフンパーディンクから作曲の個人レッスンを受け始めた20歳のフリートですが、開始間もなくの時期は、家賃が払えず部屋から締め出されてレッスンを受けることができなくなったと手紙を書いたりする不安定ぶりで、フンパーディンクは一時はフリートを自宅に住ませたこともあったようです。
  また、フンパーディンクの方も、音楽院と新聞社の仕事に加え、「ヘンゼルとグレーテル」の作曲や、恋人との交際で忙しかったため、実際の作曲レッスンの回数はかなり少なかったと思われます。
  フンパーディンクは「ヘンゼルとグレーテル」完成後の1892年5月18日には恋人ヘートヴィヒ・タクサー[1862-1916]と結婚していますし、さらに、フリートは「ヘンゼルとグレーテル」の初演が近づくと、練習用のピアノ編曲譜作成の手伝いまでさせられ、レッスンどころではなくなり、結局、1891年秋から1894年春までの3年間のフランクフルト時代にフリートが書いた作品は、1892年に書き始めて翌1893年にフランクフルトのピンベルク社から出版された「3つの歌 Op.1」だけでした。
相次ぐ妊娠と出産、育児

フンパーディンク家では、結婚直後に妻ヘートヴィヒが妊娠し、1893年4月29日には第1子ヴォルフラム[1893-1916]が誕生。産後の育児のさなか、再び妊娠し1894年に第2子エーディト[1894-1990]が誕生。続いて1896年に第3子イルムガルト[1896-1991]、1898年に第4子オルガ[1898-1899]、1901年に第5子ゼンタ[1901-1991]が誕生しています。下の画像は数年後のものです。


「ヘンゼルとグレーテル」のドタバタ

1893年12月4日にミュンヘンの宮廷劇場でヘルマン・レーヴィの指揮で予定されていた初演はグレーテル役の急病で中止。急遽、リヒャルト・シュトラウスの指揮で1893年12月23日にワイマールの宮廷劇場で初演をおこなうことになりますが、ヘンゼル役のパウリーネ(のちのシュトラウスの妻)が不調で歌手の入れ替え騒ぎが起き、さらに前奏曲の楽譜が届いていなかったため、いきなり第1幕で始まるなど波乱含み。しかし上演は成功だったため、年が明けると「ヘンゼルとグレーテル巡業団」が結成されて各地をまわり50近い劇場で上演をおこなったことで、主要劇場での上演も開始、ほどなくベルリンでワインガルトナー指揮による上演が皇帝ヴィルヘルム2世に称賛され、ロンドンでの上演も開始されるなど1894年はフンパーディンクにとって非常に忙しい年でした。
フランクフルトとの別れ

フリートが1894年の夏にフランクフルトを後にしたのは、子煩悩なフンパーディンクの家庭環境が大変なことになっていたことと、オペラ「ヘンゼルとグレーテル」のヒットで多忙となり、レッスンする暇が無くなってしまったからでしょう。
  しかし、こうしたカオスな状況は、普通のレッスンでの教師と生徒の関係を超える結びつきにも繋がったようで、フランクフルトを去ったフリートは、まず「ヘンゼルとグレーテル」に基づく幻想曲を書き上げ、その後もしばらくは「ヘンゼルとグレーテル」の上演状況をつぶさに報告するなどフンパーディンクへの献身が続いていました。


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 1894 デュッセルドルフ

兄リヒャルトのいる街

1894年夏、フリートは、兄リヒャルトの住む街、デュッセルドルフ(当時人口約18万人)に転居。デュッセルドルフ市の音楽総監督はユリウス・ブーツ[1851-1920]で、1875年に完成した1,260席のデュッセルドルフ市立劇場の音楽監督も務め、兄リヒャルトと年長のヨーゼフ・ゲルリヒがその下で楽長として働いていました。フリートは兄の上司のブーツと会っていましたが、ブーツはフリートに近くのケルンで働く同年輩のフレデリック・シュトック[1872-1942]を紹介するなどしてたようです。


フレデリック・シュトック(ストック)

シュトックはケルン音楽院でフンパーディンクに学び、メンゲルベルクの同級生だったという人物。1890年に卒業するとギュルツェニヒ管弦楽団のヴァイオリン奏者として働いていましたが、1895年に楽員探しに来ていたセオドア・トーマス[1835-1905]のオーディションを受けて合格しシカゴ交響楽団のヴィオラ奏者になることが決定。トーマスはシカゴ響の創設者で初代音楽監督のドイツ生まれのアメリカ人。実際に仕事を始めるとシュトックが指揮者向きであると判断して1899年に副指揮者に任命。1905年にトーマスが亡くなると理事会はシュトックを後任とし、同年、シュトックはフリートの「アダージョとスケルツォ Op.2」のアメリカ初演をおこなっています。


「ヘンゼルとグレーテル」による幻想曲

デュッセルドルフに転居したフリートがまず取り組んだのが、「ヘンゼルとグレーテル」による幻想曲の作曲で、1894年8月から9月にかけて作業し、フンパーディンクの紹介で翌年にマインツのショット社から出版されています。得意のホルンで始まる充実したオーケストラ曲です。


絵画も勉強

フリートのデュッセルドルフ滞在は1年ほどでした。最初は作曲に没頭し、その後音楽家たちと交流。やがてなぜか絵画も習ったりしています。
  デュッセルドルフはベルリンやフランクフルトと違って劇場や娯楽施設が少なく、働き口が無かったのか、演奏家としての仕事はしておらず、兄リヒャルトを頼ったか、あるいはフランクフルト時代に楽員としての稼ぎを貯めるなどしていた可能性があります。

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 1895 ミュンヘン

ルートヴィヒ・トゥイレ

1895年、24歳のフリートはミュンヘン(当時人口約43万人)に転居。リヒャルト・シュトラウスの友人で王立音楽院で作曲と理論の教授を務めるルートヴィヒ・トゥイレ[1861-1907]から個人レッスンを何度か受けています。トゥイレは作家で詩人のビアバウムと親しく、そのテキストを使用して作曲もおこなっていました。


ヘルマン・レーヴィ

貧乏なフリートに手を差し伸べてくれたのは、ミュンヘンの王立歌劇場総監督を24年間も務めていたヘルマン・レーヴィ[1839-1900]でした。レーヴィは経済的支援だけでなく、知り合いのビアバウムに対しておとぎ話「恍惚の姫君」をテキストとして提供するよう説得。これにより、フリートは7つの歌曲を作曲し、オペラも多くの部分を書いていたと考えられています。


まさかの略奪婚

1896年3月、オペラ創作過程の打ち合わせで、オットー・ユリウス・ビアバウム[1865-1910]は、妻でアマチュア詩人のグスティ(アウグステ・ラートゲーバー)[1872-1926]の具合が悪いので自宅のあるエッパンのエングラー城まで来て欲しいとフリートに連絡。ビアバウムとグスティは1892年にロンドンで結婚していました。


フリートはチロルの山城や自然の中でグスティに接するうちに恋仲となり、そのまま2人で逃げ出してしまいます。


結婚してまだ4年目のビアバウムは当然ながら怒り、のちにはオペラの話も無しになり、裁判でフリートの権利も剥奪されることになります。また、離婚にもしばらくは応じず、同意したのは3年後の1899年のことでした。離婚が成立するとフリートはすぐにグスティと結婚し、その後、モニカとエメレンティアという2人の娘が誕生しています。


なお、ビアバウムの方も、翌1900年にはミュンヘンのボヘミアンたちの間で人気のあったフィレンツェ人の若いモデル、ジェンマ・プルネッティ=ロッティ[1877-1925]と交際し始め1901年に再婚。彼女に捧げた詩集「愛の迷路」は、こうしたドタバタ劇もあってか、当時最も売れた恋愛詩集となっていました。


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 1896 パリ

賭けの対象としてのパリ生活

フリートはオペラ「恍惚の姫君」の出版社からの作曲報酬が1万マルク以上もあったことで前金もそれなりに貰っており、その金でなんとかミュンヘンで働かずに生活していました。
  しかしある日、友人のフランク・ヴェーデキント[1864-1918](「ルル」2部作の作者)とアルベルト・ランゲン[1869-1909](風刺雑誌「ジンプリツィシムス」の創始者)が、フリートがパリ(当時人口約260万人)でちゃんと生活していけるかどうかという賭けを思いつき、それに乗った形でフリートは彼らから金銭を受け取って、1896年の暮れからパリでの気楽な生活を開始します。
  フリートはヘルマン・レーヴィやトゥイレを通じてミュンヘン文壇と関わりますが、彼らにはフリートのハチャメチャさが大受けだったようで人脈も拡大していきます。


マイヤー=グレーフェ宅を拠点に生活

フランス語が喋れないのにパリ暮らしを始めたフリートのことを知った作家で美術評論家のユリウス・マイヤー=グレーフェ[1867-1935]が支援を申し出て、宿泊や、食事の世話をしてくれることになります。マイヤー=グレーフェはビアバウムの友人でしたが、ビアバウムは体面もあるのか、フリートの不倫については周囲に知らせていなかったようです。こうしてパリでの安定滞在が可能になったことでヴェーデキントの目論見は外れます。


夜遊び生活と舌禍

フリートはマイヤー=グレーフェ宅を拠点に羽を伸ばし、1897年5月にニキシュ指揮ベルリン・フィルがパリ公演をおこなった際には終演後に楽員たちをフリートの好んでいた夜の街に連れて行って喜ばれたりしていました。
  しかし、なにごともやり過ぎてしまうのがフリートの特質なのか、そうした遊びも度を越し、やがて何日ものあいだ行方不明になってしまいます。そして1897年7月、たまたま、恋人の見舞いに病院を訪れていた作家のオスカー・A・H・シュミッツが、病床に放置されているフリートを見かけて助かることになるのですが、フリートは重度の感染症に罹っており、回復には時間を要しました。
  また、パリ暮らしが終わるきっかけとなったのがドレフュス事件をめぐるもめごとで、フリートは得意の不快な軽口でマイヤー=グレーフェを怒らせてしまい、それが原因で1898年春、パリを去ることになります。


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 1898 ベルリン近郊のヴェルダー

犬のブリーダー

1898年春にパリを後にしたフリートは、ベルリン(当時人口約180万人)に向かい、近郊のサンスーシ宮殿から数キロの湖畔の町、ヴェルダー・アン・デア・ハーフェルに移り住みます。そして恋人グスティを迎え、生活のために犬のブリーダーを開始。


結婚

1899年、ビアバウムがグスティと離婚したため、フリートはグスティ(アウグステ・ラートゲーバー)[1872-1926]と結婚。


作曲活動再開

フリートはしばらく遠ざかっていた作曲を開始。大ヒット曲となる「酔歌」は、1902年5月に書き始められています。歌詞はニーチェの「ツァラトゥストラ」第4部からのテキストを、フリートのギムナジウムの先輩である哲学者ゲオルク・ジンメルが適宜カットしたもので、使用にあたっては、ニーチェの妹エリーザベトが快諾。
  ニーチェの妹エリーザベトは1885年に反ユダヤ主義者と結婚。1887年にパラグアイで小さなアーリア人コロニーの建設を開始するものの、2年後の1889年に夫が負債を抱えて自殺。エリーザベトは4年後の1893年にコロニーを去ってドイツに戻り、1930年にナチ信者になるまでの37年間は反ユダヤ主義者ではなかったため、ユダヤ人ジンメル(とフリート)の申し出にも快く応じています。ちなみにニーチェ・テキスト使用の先行作であるマーラーの交響曲第3番はニーチェの存命中に書かれていました。



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 1902 ベルリン近郊のニコラスゼー

新たに建設された別荘地

1901年にベルリン南西部に設立された別荘地、ニコラスゼーは、文字通りニコラス湖の湖畔の地。芸術家に人気の出てきたこの地にフリートは1902年後半に転居。


クリントヴォルト=シャルヴェンカ音楽院

作曲技術をより高めるため、フリートはクリントヴォルト=シャルヴェンカ音楽院(1893年設立)のフィリップ・シャルヴェンカ[1850-1924]のもとで、対位法を中心にレッスンを受けています。


クラスにはフランクフルトのホッホ音楽院から転学してきた18歳のオットー・クレンペラー[1885-1973]も居ました。クレンペラーはフリートと同じくフランクフルトでクノアにも師事しており、以後、フリートは合唱指揮者時代には、助手とピアノ伴奏をクレンペラーに任せ、マーラーの交響曲第2番を指揮した際には舞台裏バンダの指揮を、交響曲第6番のときにはチェレスタを、マックス・ラインハルトの「天国と地獄」では合唱指揮を任せています。「天国と地獄」ではフリートが主演女優と喧嘩して降りたため、クレンペラーが残りの50数回に及ぶ公演を指揮して高く評価され、これがクレンペラーの指揮者への道を切り開くことになります。


「酔歌」など続々作曲

シャルヴェンカの指導で作曲技術を磨き上げたフリートは、「酔歌」などオーケストラを使う作品を3曲、歌曲を16曲、女声合唱曲を4曲のほか、ピアノ曲などをこの時期に集中的に作曲。

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 1904 自作「酔歌」がベルリン・フィルで初演

ワーグナー協会とベルリン・フィル

1904年4月15日、ベルリン・ポツダム・ワーグナー協会のコンサートで初演。指揮はカール・ムック、オーケストラはベルリン・フィル。大成功を収めます。


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 1904 ベルリンのシュテルン合唱協会の指揮者

合唱作曲家から合唱指揮者へ

ベルリンのシュテルン音楽院の付属合唱団であるシュテルン合唱協会の指揮者として契約。といっても名誉職のようなもので報酬はごく僅かでしたが、フリートも指揮未経験だったので喜んで引き受けます。助手兼ピアノ伴奏者は、クリントヴォルト=シャルヴェンカ音楽院のフィリップ・シャルヴェンカのクラスで一緒だったクレンペラー。フリートはクレンペラーと共にひと冬かけて、リストの「聖エリーザベトの伝説」を仕上げ、本番で成功を収めて指揮者として知名度を上げます。



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 1906 マーラーの推薦をムゼウム協会が拒否

税公金運営と民間資金運営

1906年8月、マーラーがフランクフルトのムゼウム協会に対して、空席となっていた首席指揮者のポストにフリートを推薦するものの協会は拒否。
  ムゼウム管弦楽団楽員の実体は、フランクフルト歌劇場管弦楽団員で市の職員。フランクフルト歌劇場は人口が約48,000人だった18世紀の終わりに設立され当初は1,000席でしたが、市の人口が13万人を超えたため、市は1880年に2,010席の豪華な歌劇場を建設して運営を開始。


  いっぽう、コンサートの方は、フランクフルト市民が1808年に創設した「フランクフルト・ムゼウム協会(音楽、美術、文学などの振興のための組織)」が運営し、主に1,800席のザールバウの大ホールで開催。
  フランクフルト歌劇場管弦楽団とムゼウム管弦楽団が、実際には同じ団体ということで、オットー・デッソフ(保守派)のように1人の指揮者が兼務する分には問題ありませんでしたが、歌劇場の楽長とコンサートの首席指揮者という立場の違う2人がオーケストラを共有することになると、時には楽員の争奪をめぐる争いが起きたりもします。


保守派の牙城、フランクフルト

ホッホ博士が遺言で1878年につくらせた「ホッホ音楽院」は、初代院長ヨアヒム・ラフが1882年に亡くなると、保守派(=ブラームス派)が実権を握り、ワーグナー派の強硬路線職員を追放。
  保守派の牙城となった音楽院は市との関係もあったことから、指揮者にも保守派を求めるようになり、1892年に急死したデッソフの歌劇場の後任はブラームスとビューローの推薦で無名で保守派のロッテンベルクが着任。
  しかしムゼウム管弦楽団のデッソフの後任は、デッソフ存命中に首席指揮者を引き継いでいたコーゲルで、ワーグナー派といっても穏健路線だったこともあってか、9年間は無事でしたが、1901年に「フランクフルター・ツァイトゥング」紙に過激なヘルマン・ゲールマン[1861-1916]が入社すると、批評攻撃がおこなわれるようになり、耐えきれずに1903年に辞任。その後任のハウゼッガーもワーグナー派で、同じく徹底的な批評攻撃で辞任に追い込まれています。


保守派の忖度

マーラーは推薦拒否の理由を反ユダヤ主義と捉えていたようですが、実際の要因は、まだ経験不足で知名度の低いフリートのフランクフルトでのチケット販売力が未知数であることと、フランクフルトが保守派の牙城となっていたからと考えられます。歌劇場拡大年の1880年から1892年までの12年間、歌劇場の楽長とムゼウム管の首席指揮者を兼務して安定運営をおこなったオットー・デッソフは保守派のユダヤ人ですし、ブラームスとビューローが推薦した後任の歌劇場楽長ロッテンベルクも保守派のユダヤ人。一方ムゼウム管首席指揮者の後任は、2人続けてワーグナー派のドイツ人で、ユダヤ人批評家に攻撃されて2人とも辞任しています。
  フランクフルトの保守派の象徴的存在ともなっていたホッホ音楽院のクララ・シューマンは1896年に亡くなっていましたが、ワーグナー派が分離して1883年に設立したラフ音楽院はまだ存続していましたし(1923年に閉鎖)、まだまだ保守派擁護には実利的な要素も絡んでいたということでしょう。


メンゲルベルクの就任

ちなみにマーラーの推薦が断られた翌年の2月にはメンゲルベルクが客演に招かれて成功し、ムゼウム協会側から首席指揮者就任を要請。メンゲルベルクは熱烈な反ユダヤ主義者のコジマ・ワーグナーと喧嘩していたこともあり、新聞からは4年ほど攻撃されなかったものの、1911年にゲールマンの後任としてパウル・ベッカーが着任すると批評攻撃が開始。


ムゼウム協会の抵抗

しかし、今回はムゼウム協会、ツェツィーリア協会(合唱団)の両運営組織も泣き寝入りせず、フランクフルター・ツァイトゥング紙への無料チケット配布を停止し、広告出稿も停止という手段を講じて対抗、新聞社側も同じユダヤ系リベラル紙などと連携してメンゲルベルク攻撃を激化させますが、結局のところ、音楽批評はチケット売上には影響が無いことが判明し、オケと合唱団の運営組織はそのままの状態を維持継続。メンゲルベルクが退任する1920年まで批評攻撃は9年間続きましたが、特に問題はなかったようです。

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 1908 ブリュートナー管弦楽団の常任指揮者

常任指揮者に就任

フリートはシーズン中に24回おこなわれる日曜日のシンフォニー・コンサートの指揮を任されます。
  楽員には若き日のヘルマン・シェルヘンも居り、フリートのベートーヴェン7番終楽章が、鞭打つような踏みつけるような演奏で楽員たちは内心では反発していたもののその激しい気性のリハーサルには抵抗できなかったとも述懐しています。
着任数か月で辞退

しかし怒りっぽいフリートの性格は、運営陣となにかの衝突に繋がったようで、1909年1月には早くも常任としての指揮を辞退。その後も客演は継続し、シェーンベルクの「ペレアスとメリザンド」のドイツ初演や、マーラーの交響曲第7番の演奏など、高評価の演奏を何度もおこなっています。
ピアノ・メーカーのホールのオーケストラ

「ブリュートナー管弦楽団」は、1907年にピアノ・メーカーのブリュートナー社が、ベルリンのティーアガルテンの「クリントヴォルト=シャルヴェンカザール」近くに建設した1,200席の「ブリュートナー=ザール」を本拠地とするオーケストラで、創業者のユリウス・ブリュートナー[1824-1910]の支援により設立。母体はその数年前にベルリンで結成されていた「モーツァルト管弦楽団」で、当初は「ブリュートナー=ザール管弦楽団」として結成され、翌年に「ブリュートナー管弦楽団」と短縮改名。
ベルリン交響楽団

結成から18年後の1925年にはブリュートナー社からの支援が打ち切られて「ベルリン交響楽団」と改名。新たに発足したベルリン交響楽団から請われてフリートが再び首席指揮者に就任しますがまたしても翌年に辞任しています。
  なお、ブリュートナー社はホールの「ブリュートナー=ザール」からも手を引き、1927年に「バッハザール」と改名しています。
  「ベルリン交響楽団」はベルリン・フィルと同じくベルリン市から補助金を受け取って運営されていましたが、1929年の世界大恐慌の影響がドイツにも波及するようになるとベルリン市の財政も悪化。
  複数のクラシック団体への補助金捻出が困難になったベルリン市は、1932年にベルリン・フィルや放送オケに楽員を吸収させることでベルリン交響楽団を解散させています。


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 1938 パーキンソン病と3年後の死

指揮台から転落

1938年、モスクワ音楽院大ホールでのリハーサル中に指揮台から転落。脳震盪を起こし、その後、パーキンソン病となり、筋肉の固縮によって全身硬化が進行。仕事ができなくなります。ちなみに仲間のクレンペラーは1933年にゲヴァントハウスでのリハーサル中に同じく指揮台から転落して脳震盪を起こし、6年後に脳腫瘍の手術を受けていました。


生活の困窮

フリートが仕事ができないことに加え、妻のエレナ・イヴァノヴナ(旧姓:グリンカ)もフリートの病状の進行に伴い、介護のためにピアニストの仕事をあまりすることができなくなり生活が困窮。フリートは楽譜などの個人資産を売却しながら生活することになります。
作曲家の家

1940年1月、モスクワの共同アパート「作曲家の家」の9階に転居。病床のフリートと、妻エレナ、およびエレナの16歳の息子(前夫との子)の3人が、14uの部屋を仕切って暮らす生活でしたが、家賃は無料でした。さすがに狭すぎるため、8月、妻エレナが部屋数を増やして欲しいなどと処遇改善を求めるものの、党員ではないため拒否されます。
サモスードの温情

1940年4月、ボリショイ劇場音楽監督でユダヤ系指揮者のサムイル・サモスード[1884-1964]がフリートの窮状を救うために運動を開始。プラウダなども動いてくれます。サモスードはショスタコーヴィチのオペラ「鼻」と「ムツェンスク郡のマクベス夫人」の初演指揮者で、1942年にはレニングラード交響曲を初演。


年金の支給

1940年5月、人民委員会議の評議会は、フリートに対し、毎月400ルーブルの年金と3,000ルーブルの一時金を支給することを決定。ちなみに1940年度のソ連国民の平均月収は月額約338ルーブルなので、ほぼ2割増しという計算になります。




1941年7月5日、3年に渡る療養の末にモスクワで死去。直接の死因、埋葬場所などは不明。
ドキュメントの不備について

フリートの死の17日後にドイツ軍のモスクワ無差別爆撃が始まり、3か月後の10月にはモスクワ市民がクイビシェフに疎開で大移動という混乱があったため、ドキュメントの紛失に繋がっていると考えられます。この疎開は長期に及んでいますが、ドイツ軍による各地でのユダヤ人虐殺情報が広まると、モスクワに残ったアパートの管理人の中には、自分が巻き込まれることを恐れるあまり、居住者がユダヤ人だとわかるドキュメントをすべて処分してしまう者もいたので仕方のない面もあります(ピアニストのヤーコフ・フリエールも疎開から戻ってドキュメントなどの廃棄に驚いていました)。


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 兄リヒャルト・フリート [1864-1944]

ベルリン王立アカデミー

幼いフリートのヴァイオリンの師でもあった兄リヒャルトは、ヨーゼフ・ヨアヒムが楽長と教授を兼務するベルリン王立アカデミーでヴァイオリンなどを学んでいます。


デュッセルドルフ市立劇場

兄リヒャルトの指揮者としての最初の職場は、デュッセルドルフ市立劇場。ヨーゼフ・ゲルリッヒのもとで楽長として働いていました。


ダムロッシュ・オペラ・カンパニー

マーラーの後任としてハンブルク歌劇場の音楽監督を務めていたオットー・ローゼ[1858-1925]の知己を得、ローゼが先に参加していたアメリカの巡業オペラ「ダムロッシュ・オペラ・カンパニー」で指揮するために1896年12月3日にニューヨーク港に到着(上から3行目が兄リヒャルト)。1899年のシンシナティ公演まで2年半ほど指揮しています。


シュトラースブルク市立劇場

シュトラースブルク市立劇場の音楽監督(第1楽長)就任が決まったためにドイツに1897年に戻っていたオットー・ローゼは、1899年に兄リヒャルトを右腕の第2楽長として招き、同劇場のコンサート時のオーケストラであるシュトラースブルク市立管弦楽団(現ストラスブール・フィル)の首席指揮者も任せています。兄リヒャルトは、ローゼの後、プフィッツナー[1869-1949]や、クレンペラー[1885-1973]、セル[1897-1970]の時代も第2楽長兼市立管弦楽団首席指揮者として、ドイツが敗れる1918年まで19年間働き、年俸も6,000マルクに達していました(楽員平均の約6倍水準)。


なお、1910年9月から1911年3月まで若きフルトヴェングラーが同劇場の第3楽長を務めており、兄リヒャルトの代役指揮をおこなったりもしています。


フライブルク市立劇場

第1次大戦でドイツが敗れるとシュトラースブルクがフランス領ストラスブールになったため、兄リヒャルトは、60kmほど南にあるフライブルク(フライブルク・イム・ブライスガウ)に移り、市立劇場の楽長となっています。


フライブルクにもナチズム到達

フライブルクといえば、ヒトラーの全権委任法成立から約2週間後の1933年4月7日に発効した「職業官吏再建法」により、4月21日に反ユダヤ主義哲学者のハイデッガー[1889-1976]がフライブルク大学の学長に選ばれていたこともで有名です(喜んだハイデッガーは10日後の5月1日に22名の仲間の教授たちと共にナチ党に入党)。もっとも住民はユダヤ人経営店舗での不買運動にもあまり協力しなかったようです。


フライブルクに住み続けた兄リヒャルト

それから数年のうちにイギリスやアメリカ、スイスなど先進諸国がユダヤ人受け入れ拒否に移行する中、兄リヒャルトは出国タイミングを逃したのかフライブルクでそのまま過ごし第2次大戦中の1940年にも記録上滞在。


ユダヤ人一掃「ワーグナー=ビュルケル作戦」

しかし、同年10月にはフライブルクなどバーデン地区のユダヤ人約7,500人が「ワーグナー=ビュルケル作戦」の一環として南仏ピレネーのグール(ギュルス)強制収容所に追放。同収容所では翌11月から1942年8月までの1年10か月ほどの間に約2,000人のユダヤ人が解放され、海路でフランスから出国していますが、収容所の食糧事情と衛生状態が劣悪だったために1,100人以上のユダヤ人が同収容所で死去。1942年8月にはアウシュヴィッツとソビボルの絶滅収容所があるポーランドへの移送が開始され、2年後の1944年8月に連合軍によりグール強制収容所が解放。兄リヒャルトは80歳の誕生日の1週間前、1944年9月6日に死亡が記録されていますが場所は不明です。


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 年表

黒文字=音楽関連、グレー文字=社会関連
 1871年/明治4年 (0歳)

◆ 1月18日、ドイツ統一。占領地フランスのヴェルサイユ宮殿の鏡の間でドイツ皇帝ヴィルヘルム1世の戴冠式。10日後には、同じ場所で「普仏戦争」の休戦協定が署名。半世紀後、第1次大戦でドイツに勝利したフランス(連合国)は、ドイツにとって屈辱的なヴェルサイユ条約を同じく鏡の間で締結して報復。


◆ 3月28日、メンゲルベルクがオランダのユトレヒトでカトリック改宗ドイツ移民の家庭に誕生。父は宗教美術の彫刻家、建築家、画家。生家のファサードは、父の友人のゴシック建築家アルフレート・テーペがデザイン。メンゲルベルクは16人兄弟の第4子。
◆ 5月10日、フランクフルト講和条約締結により普仏戦争終結。フランスはアルザスとロレーヌの領土割譲に加え莫大な賠償金を準備。3年期限の賠償金額は約50億フラン(=純金1,450トン=約45億マルク)で、支払いが終わる1873年9月までドイツ軍がフランス東部に駐留。賠償金の50〜60%ほどがドイツの金融市場に恩恵をもたらして市場経済を過熱させ、1873年にバブルが崩壊するまでの2年間にドイツでは928の株式会社が新たに設立され、投資先もオーストリアやロシアにまで及ぶようになります。


◆ 8月10日、フリート、ベルリンの裕福なユダヤ人商家に誕生。父はジェローム・フリート、母はテレーゼ(旧姓:ゴルト)。父は音楽愛好家で、母はピアノを弾き、7歳年長の兄リヒャルト[1864-1944]はヨーゼフ・ヨアヒム[1831-1907]に師事した職業音楽家という家庭。フリートは2人兄弟の第2子。ベルリンの人口は826,815人でした。

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 1872年/明治5年 (0〜1歳)


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 1873年/明治6年 (1〜2歳)


◆ 5月、株式市場暴落。ウィーン証券取引所がバブル崩壊し、ウィーンの様々な銀行が破綻、事業用貸付資金規模も縮小。10月にはドイツの銀行も破綻し始め、証券取引所、株、投機会社も崩壊。ドイツの優良企業444社の時価総額は、1872年12月から1874年12月にかけて約20億マルク下落。こうした投資損失に加え、金融やマスコミにユダヤ人が多かったことから反ユダヤ主義に繋がり、ウィーン市長のカール・ルエーガー[1844-1910]のような極端な政治家が登場してもいます。


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 1874年/明治7年 (2〜3歳)


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 1875年/明治8年 (3〜4歳)


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 1876年/明治9年 (4〜5歳)


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 1877年/明治10年 (5〜6歳)

◆ ベルリンのフリードリヒヴェルダー・ギムナジウムに入学。


◆ ホッホ音楽院がフランクフルトで開校。市長経験もある父を持ち多額の遺産を相続した音楽好きのヨーゼフ・ホッホ[1815-1874]弁護士は、28歳の時に自分の遺産を教育に使うことに決めた篤志家。実際に42歳で正式な遺言を作成し、59歳で亡くなると遺産からの100万マルク(100万ゴルトマルク=金358kg相当。1グラム1万円とすると約35億8千万円)で音楽院財団を設立させる遺言が執行。ビューローの親友でもある作曲家ヨアヒム・ラフが初代院長に任命。ラフはワーグナー派でしたが、人事では保守派のクララ・シューマンらや、ワーグナー派の人材を半々に招いてバランスの良い教育を実施。


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 1878年/明治11年 (6〜7歳)

◆ フリードリヒヴェルダー・ギムナジウム在学。


◆ 兄リヒャルト[1864-1944]からヴァイオリンの指導を受けていたフリートは、兄の師であるヨーゼフ・ヨアヒム[1831-1907]の前でピエール・ロードのヴァイオリン協奏曲第7番を弾いて褒められ、今後も真剣に音楽に打ち込むよう助言されます。


◆ 10月21日、社会主義者鎮圧法発効。ビスマルク首相が新聞プロパガンダにより、皇帝ヴィルヘルム1世暗殺未遂事件を社会主義者の仕業とし、選挙で野党に勝つためにつくった法律。野党には左派が多く、左派の支持者にはユダヤ人も多かったため、鎮圧法は与党プロパガンダ的な性格を帯びて影響を拡大。


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 1879年/明治12年 (7〜8歳)

◆ フリードリヒヴェルダー・ギムナジウム在学。


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 1880年/明治13年 (8〜9歳)

◆ フリードリヒヴェルダー・ギムナジウムを中退。父の商売がうまくいかなくなったことにより、家庭の金銭事情が悪化したため。


◆ ベルリン近郊の入植地ノヴァヴェスのシュタットファイフェライで修業開始。

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 1881年/明治14年 (9〜10歳)

◆ シュタットファイフェライで修業。

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 1882年/明治15年 (10〜11歳)

◆ シュタットファイフェライを退所。
◆ 放浪楽士として各地で演奏。
◆ ホッホ音楽院が分裂・保守化。6月にヨアヒム・ラフ院長が亡くなると、ホッホ音楽院の教職員たちの間には争いが絶えないようになります。

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 1883年/明治16年 (11〜12歳)

◆ 放浪楽士として各地で演奏。
◆ 夏、マーラーがバイロイトで「パルジファル」を鑑賞。


◆ ホッホ音楽院の保守派強硬路線ショルツ院長がかつてのビューローの弟子など3人を退職に追い込み、さらに3人を解雇するなどしてワーグナー派を一掃、クララ・シューマンとその仲間たちの存在の大きさもあって、ホッホ音楽院を反ワーグナーの一大拠点、保守の牙城とすることに成功。
◆ ラフ音楽院が設立。ホッホ音楽院を追放された教職員たちは、恩人の名を冠して「ラフ音楽院」を自分たちで設立しますが資金難に苦しみます。ビューローは元弟子などの惨状を知って、「ラフ記念基金」を設立すべく同地で支援コンサートを開催しますが、それが気に入らなかったショルツ院長やクララ・シューマンは、人々がコンサートに行かないよう妨害工作をおこなったりするものの、影響はほとんどなく公演は成功して運営資金が集まります。また、ビューローはラフ音楽院のマスタークラスにも出演し、自身の報酬を「ラフ記念基金」に寄付、元弟子たちの音楽院を喜んで支援してもいました。ビューローは1870年にはワーグナーと決別して、実際には保守派側に立っていたので、亡き友人ラフやかつての弟子たちへの配慮・支援は、ビューローの人柄をよく表してもいます。

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 1884年/明治17年 (12〜13歳)

◆ 放浪楽士として各地で演奏。

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 1885年/明治18年 (13〜14歳)

◆ 放浪楽士として各地で演奏。

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 1886年/明治19年 (14〜15歳)

◆ 放浪楽士として各地で演奏。
◆ ロシア帝国ツアー。フィンスターブッシュの編成した楽団に参加。フィンスターブッシュがフリートの年齢を16歳と偽って出国。
◆ マイダー楽団で演奏。

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 1887年/明治20年 (15〜16歳)

◆ マイダー楽団で演奏。
◆ 11月13日、マーラーがライプツィヒ市立劇場で「タンホイザー」を指揮。コジマ・ワーグナーの立会いのもと。

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 1888年/明治21年 (16〜17歳)

◆ マイダー楽団で演奏。
◆ 6月15日、ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世即位。

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 1889年/明治22年 (17〜18歳)

◆ マイダー楽団で演奏。

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 1890年/明治23年 (18〜19歳)

◆ マイダー楽団で演奏。
◆ 皇帝ヴィルヘルム2世の反対により、ビスマルクの社会主義者鎮圧法が廃止。
◆ 3月、ビスマルク辞任。保守党が選挙に敗れたため、ドイツ帝国(ドイツ国)建国以来19年間在任した首相を辞めています。

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 1891年/明治24年 (19〜20歳)

◆ 10月、フランクフルト滞在開始。3年間の滞在中、マイダー楽団のほか、フランクフルト歌劇場管弦楽団(ムゼウム管弦楽団)と、パルメンガルテン管弦楽団でも演奏。
◆ 12月、マイダー楽団で演奏。

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 1892年/明治25年 (20〜21歳)

◆ フランクフルトのホーホ音楽院の無料講座でクノアから理論を指導。


◆ フンパーディンクから作曲の個人指導。


◆ 5月、フンパーディンク、結婚。

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 1893年/明治26年 (21〜22歳)

◆ フランクフルトのホーホ音楽院の無料講座でクノアから理論を指導。


◆ フンパーディンクから作曲の個人指導。


◆ 「3つの歌曲 Op.1」完成、出版。
◆ クノアの要請で「ヘンゼルとグレーテル」ピアノ譜の作成に協力。
◆ 12月、「ヘンゼルとグレーテル」初演。

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 1894年/明治27年 (22〜23歳)

◆ フランクフルトのホーホ音楽院の無料講座でクノアから理論を指導。


◆ フンパーディンクから作曲の個人指導。


◆ 「ヘンゼルとグレーテル巡業団」が結成されて各地をまわり50近い劇場で上演。
◆ 夏、デュッセルドルフ滞在開始。


◆ 「ヘンゼルとグレーテル」のモティーフによる管弦楽幻想曲 作曲。
◆ 絵画も勉強

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 1895年/明治28年 (23〜24歳)

◆ 夏、デュッセルドルフ滞在終了。


◆ ミュンヘン滞在開始。


◆ ルートヴィヒ・トゥイレから作曲の個人レッスン。


◆ ヘルマン・レーヴィが経済的支援だけでなく、知り合いの詩人・作家のビアバウムに対しておとぎ話「恍惚の姫君」をテキストとして提供するよう説得。


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 1896年/明治29年 (24〜25歳)

◆ 3月、オペラ創作の打ち合わせで、ビアバウムの自宅のある南チロル(エッパン)のエングラー城を訪ね、ビアバウムの妻グスティと恋仲となり、そのまま2人で逃げ出してしまいます。


◆ ミュンヘンに戻り、オペラ作曲報酬の前払い金などで生活。


◆ 年末、パリ滞在開始。作家のヴェーデキントと雑誌発行者のランゲンの賭けに乗り、彼らから金銭を受け取って気楽な生活を開始。


◆ 作家で美術評論家のマイヤー=グレーフェが支援を申し出て、フリートを宿泊させ、食事も提供。


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 1897年/明治30年 (25〜26歳)

◆ パリ滞在。


◆ 4月3日、ブラームス死去。
◆ 4月8日、マーラーがウィーン宮廷歌劇場の楽長に就任することが発表。
◆ 5月、ニキシュ指揮ベルリン・フィルがパリ公演をおこなった際、楽員たちを夜の街に引率。
◆ 熱烈な反ユダヤ主義者で、反資本主義、反自由主義、反マジャル主義を掲げてウィーン市民に人気を博したカール・ルエーガー[1844-1910]が市長に就任。実際にはルエーガーは1895年10月にウィーン市長に選出されていましたが、その強烈な反ユダヤ主義を恐れたフランツ・ヨーゼフ皇帝が承認を拒否。その後の選出に際しても皇帝は拒否で一貫していましたが、1897年4月8日、2年間で5度目の選出となった人気ぶりにローマ教皇のレオ13世[1810-1903]も黙っていられなくなり、個人的にフランツ・ヨーゼフ皇帝にとりなして、なんとか承認させています。これによりルエーガー側も暴力的な反ユダヤ主義運動は認めないことにしますが、マスコミなどを使った反ユダヤ主義キャンペーンでユダヤ人を迫害することはOKとしてウィーンでの人気を維持し、1910年に亡くなった際には、数十万人のウィーン市民が葬列に参加するほどの異例の人気ぶりで(当時人口約203万人)、ヒトラーのヒーローにもなっていました。


◆ 7月、パリの外出先で重度の感染症(結核?)に罹患して倒れ、何日ものあいだ行方不明に。
◆ 10月18日、マーラーがウィーン宮廷歌劇場の監督に任命。

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 1898年/明治31年 (26〜27歳)

◆ パリ滞在。


◆ 春、ドレフュス事件をめぐるもめごとで、マイヤー=グレーフェ宅から出てパリ生活終了。


◆ 春、ベルリン近郊のヴェルダーに転居。


◆ 犬のブリーダーを開始。


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 1899年/明治32年 (27〜28歳)

◆ 最初の結婚。相手はアマチュア詩人のアウグステ(グスティ)・ラートゲーバー[1872-1926]。この結婚から、モニカとエメレンティアという2人の娘が誕生。


◆ 犬のブリーダー。


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 1900年/明治33年 (28〜29歳)

◆ 犬のブリーダー。


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 1901年/明治34年 (29〜30歳)

◆ 犬のブリーダー。


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 1902年/明治35年 (30〜31歳)

◆ 犬のブリーダー。


◆ 3月9日、マーラーとアルマが結婚。


◆ 5月、「酔歌」作曲開始。
◆ ベルリン近郊のニコラスゼーに転居。

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 1903年/明治36年 (31〜32歳)

◆ クリントヴォルト=シャルヴェンカ音楽院でシャルヴェンカに対位法など師事。クラスにはホッホ音楽院から転学してきた18歳のオットー・クレンペラー[1885-1973]も在籍。


◆ 4月、シェーンベルクとツェムリンスキーが「ウィーン作曲家協会」を設立。

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 1904年/明治37年 (32〜33歳)

◆ 5月、妻グスティ、流産して重篤な状態になりますが回復。
◆ 8月、バイロイト祝祭劇場でオペラ鑑賞。
◆ ベルリンのシュテルン合唱協会の指揮者として契約。助手とピアノ伴奏はクレンペラー。

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 1905年/明治38年 (33〜34歳)

◆ シュテルン合唱協会。リストのオラトリオ「聖エリーザベトの伝説」で成功。


◆ ベルリンの演奏会主催団体「ノイエン・コンツェルテ」から招待。ベルリン・フィルの演奏会なども扱う団体。「聖エリーザベトの伝説」の成功による契約。

◆ 3月、ウィーン楽友協会合唱団が「酔歌」をオーストリア初演。指揮はシャルク。


◆ 9月、ウィーンでマーラーから呼び出されて最初の出会い。その後、宮廷歌劇場でモーツァルト、トリスタン、フィデリオを鑑賞。
◆ 11月18日、ベルリンでマーラー交響曲第2番「復活」を指揮。マーラーの提案により実現したもので、マーラーはリハーサルに参加してアドバイスしたほか、本番も客席で鑑賞しその成果を称賛。舞台裏アンサンブルの指揮はクレンペラー。


◆ マックス・ラインハルトからホフマンスタールの戯曲「オイディプスとスフィンクス」のための劇中音楽の作曲依頼。翌1906年2月に初演。批評では血なまぐさいエキゾチックな旋律の哀歌は、場面のインパクトを高めたと高評価。


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 1906年/明治39年 (34〜35歳)

◆ 1月、クレンペラーにラインハルト演出のオッフェンバック「天国と地獄」の合唱指揮を依頼。
◆ 2月、シュテルン合唱協会。「酔歌」、ディーリアス「アパラチア」、他
◆ 5月、ベルリン、シフバウアーダム劇場。オッフェンバック「天国と地獄」。有名演出家、マックス・ラインハルト[1873-1943]によるプロダクションを準備。クレンペラーは合唱指揮者として参加。フリートの指揮による初日は大成功を収めますが、2回目の上演でフリートは主演女優のティラ・デュリュー[1880-1971]と喧嘩をして、3回目以降の指揮をキャンセル。


困ったラインハルトは合唱指揮をしていたクレンペラーに指揮を依頼し、以後、シーズン終了まで50数回に及ぶロングラン公演の代役を無事に務めています。


◆ 5月、マーラーに招かれ、エッセンでの交響曲第6番初演にリハーサルからアルマ、メンゲルベルク、ブーツ、ガブリロヴィチらと出席。マーラーは春にフリート宛てに楽譜を送付済みでした。
◆ 8月、マーラーがフランクフルトのムゼウム協会に対して、空席となっていた首席指揮者のポストにフリートを推薦するものの協会は拒否。
◆ 8月、マーラーと交響曲第6番ベルリン初演について相談。
◆ 10月8日、ベルリン・フィル。マーラー交響曲第6番。ベルリン初演。リハーサルからマーラーが同席。


◆ ロシア帝国で指揮ツアー。モスクワ、キエフ、オデッサ、サンクトペテルブルクのオーケストラに客演。
◆ 11月10日、サンクトペテルブルク公演。マーラー交響曲第2番「復活」と自作のカンタータ「浄夜」をサンクトペテルブルク初演。オーケストラはチェレメーチェフ伯爵の私設団体で合唱は宮廷歌劇場コーラス。リムスキー=コルサコフ[1844-1908]陣営はマーラー作品について、天才的な要素がまったく含まれておらずリヒャルト・シュトラウスよりもはるかに悪いなどと酷評。


◆ アルフレート・グットマンがオスカー・フリートに関する本を出版。
◆ フーゴー・ライヒテントリットがオスカー・フリートに関する本を出版。

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 1907年/明治40年 (35〜36歳)

◆ 1月、ウィーンのマスコミが反ユダヤ主義的反マーラー・キャンペーンを開始。
◆ サンクトペテルブルク公演。リムスキー・コルサコフのオペラ「クリスマス・イヴ」の抜粋を、モスクワからアントニーナ・ネジダーノヴァが来て歌い、作曲者も同席。ネジダーノヴァは、ラフマニノフが「ヴォカリーズ」を献呈したことでも知られるボリショイ劇場の有名ソプラノで、のちにゴロワノフと結婚しています。
◆ 4月、ウィーンのマスコミが反ユダヤ主義的反マーラー・キャンペーンを再開。
◆ 6月、マーラーがメトロポリタン歌劇場と契約。


◆ 8月、ワインガルトナーがマーラーの後任になると発表。ワインガルトナーはかつてはワーグナー派でしたが保守派に転向して成功。


◆ 10月、「ベルリン楽友協会」が設立され、フリートが会長に選出。同時代音楽を中心に紹介するコンサート主催団体で、まずベルリン・フィルとベルリン教師合唱団を起用してシーズンに4回の演奏会を開催することなどを決定。
◆ 10月11日、ベルリン楽友協会。ニコデ:「グローリア!」初演。上演困難な巨大編成かつ長大な作品のためにフリートと作曲者のジャン・ルイ・ニコデ[1853-1919]は何度も打ち合わせをおこない、また、出資者へのプロモーションのために4月8日には第4楽章を演奏してもいました。


◆ 音楽評論家のパウル・ベッカーがオスカー・フリートに関する本を出版。ベッカーは4年後の1911年10月には、「フランクフルター・ツァイトゥング」紙に保守派の評論家として執筆するようになり、長期に渡ってメンゲルベルクとムゼウム協会への攻撃をおこなうようになります。
  この年の8月、反マーラー・キャンペーンによってウィーン宮廷歌劇場退職を決めたマーラーの後任として発表されたワインガルトナーは、かつてはブラームスをけなすほどの熱烈なワーグナー派でしたが、保守派に転向して成功。
  ちなみに1912年には、「ベルリン楽友協会」の保守化に伴い、フリートが会長を辞め、代わりに保守派のシュタインバッハが就任するという具合に、世の流れは保守に傾いていました。


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 1908年/明治41年 (36〜37歳)

◆ 1月1日、マーラーがメトロポリタン歌劇場で「トリスタンとイゾルデ」を指揮してニューヨーク・デビュー。
◆ ブリュートナー管弦楽団の常任指揮者に就任。フリートの担当はシーズン中に24回おこなわれる日曜日のシンフォニー・コンサートの指揮。


◆ 11〜12月、マーラーがニューヨーク交響楽団を3回指揮。

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 1909年/明治42年 (37〜38歳)

◆ 1月18日、ベルリン・フィル。スクリャービン交響曲第3番「神聖な詩」、モーツァルト、ワーグナーを指揮。フリートは直前にスクリャービンと交流し、スクリャービンは演奏会にも出席。


◆ 1月、ブリュートナー管弦楽団の常任指揮者を辞退。その後も客演は継続。


◆ 2月、マーラーからフリートに、ニューヨークとボストンの仕事で迷っているなどと書いた手紙が送られ、プロモーターにフリートのことを推挙したことも書かれていました。
◆ 夏、フリートはマーラーやブレッヒャーと共に休暇を過ごします。
◆ 11月25日、サンクトペテルブルク宮廷管弦楽団(その後、ペトログラード国立交響楽団、レニングラード・フィル、サンクトペテルブルク・フィルと改名)に客演。ベートーヴェン:レオノーレ3番、交響曲第9番「合唱」、ピアノ協奏曲第5番「皇帝」。レオニード・クロイツァー、ネジダーノヴァ、他


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 1910年/明治43年 (38〜39歳)

◆ 1月13日、サンクトペテルブルク、I.R.M.O.コンサート。


◆ 5月29日、長女モニカ誕生。
◆ 6月、マーラーの交響曲第8番初演準備をフリートとワルターらが助手として手伝い。クレンペラーも同席。
◆ 9月12日、マーラーの指揮により交響曲第8番をミュンヘンで初演。
◆ 10月31日、ブリュートナー管弦楽団。シェーンベルク「ペレアスとメリザンド」ドイツ初演。作曲者はリハーサルから列席して細部まで完璧なフリートの準備に驚嘆し、本番も大成功。1905年にシェーンベルクの指揮によってウィーンでおこなわれた初演では、作曲者を精神病院に入れろなどと書かれますが、当時のウィーンは、ローマ教皇レオ13世のおかげで市長に就任できたルエーガーの反ユダヤ主義が人気を博していたので、作品の内容というよりもウィーンの風潮に迎合した忖度評論だったと思われます。2年後の1907年にはマーラーも評論家らによるマスコミ・キャンペーンでウィーン宮廷歌劇場を追い出されていますし。


◆ 11月10日、サンクトペテルブルク宮廷管弦楽団。ベルリオーズ:「幻想交響曲」、シューマン:「マンフレッド」。


◆ 11月、キエフで5公演。
◆ 12月8日、サンクトペテルブルク宮廷管弦楽団の指揮がキャンセル。フリートがベートーヴェン交響曲第9番の追加リハーサルを要求した際、オーケストラ側が宮廷行事により応じることができないとしたため、フリートは怒りを表明。宮廷だけでなく皇帝ニコライ2世まで侮辱する内容だったことで、オーケストラ側はフリートとの共演を中止せざるを得なくなり、ちょうどサンクトペテルブルクに滞在していたメンゲルベルクに代役を依頼。また、翌年2月に予定されていた2度のコンサートでのフリートの出演もキャンセルしています。


会場はミハイロフスカヤ通りの貴族集会ホールで、コンサートはクーセヴィツキーが企画したベートーヴェン・シリーズ興行に含まれるものでした。貴族集会は7年後の1917年の革命によって解散し、同ホールはペトログラードのフィルハーモニー協会が使用するようになります。また、次にフリートがサンクトペテルブルク(ペトログラード)に招かれて指揮をするのは、革命から5年後、ロシア内戦が終結した1922年のことで、ソ連が正式に成立宣言する17日前のことでした。


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 1911年/明治44年 (39〜40歳)

◆ 1月9日、ベルリン・フィル。プフィッツナーのオペラ「愛の花園のばら」第1幕を演奏会形式で上演。保守的で反ユダヤ主義者、のちにはナチ信者になるプフィッツナーは進歩的なブゾーニのサークルやユダヤ人作曲家を嫌っており、1918年には、ブゾーニの著書「新音楽美学構想」を批判する目的で「未来主義者の脅威」を出版。1920年にはユダヤ人攻撃論「音楽的不能の新美学。腐敗の徴候」も出版。1937年にはフリートのことも邪悪なユダヤ人と言っています。


◆ ベルリンのニコラスゼー福音教区で洗礼。


◆ 3月、マーラーの後任を探していたニューヨーク・フィルが、メンゲルベルクに対して、年俸62,500ギルダーで契約を申し出るものの、メンゲルベルクは1回1,250ギルダーで、年間計19回の公演を指揮するという対案を提示。しかしそれでは単価が高過ぎるし回数が少なすぎるということでニューヨーク・フィルはメンゲルベルクを断念。
◆ 4月、ニューヨーク・フィルはマーラーの後任を、マーラーと同じくボヘミア出身のジョセフ・ストランスキー(チェコ語ではヨゼフ・ストラーンスキー)[1872-1936]に決定。下馬評ではオスカー・フリートやグスタフ・ブレッヒャー、ブルーノ・ワルターといったマーラーの身内的存在の名が挙がっていましたが、ニューヨーク・フィル運営陣はマーラーの意向は考慮せず、指揮できる回数とレパートリーの広さ、及び報酬のバランスで選んだと考えられます。
  フリートはR.シュトラウス宛に愚痴の手紙を書いていますが、経営の苦しかったニューヨーク・フィルにはストランスキーが最適な人材だったようです。ストランスキーは広大なレパートリーの持ち主でアメリカ現代作品にも強く、レパートリーが偏向する第1次大戦中もすべて1人でこなしたことから楽団運営に大きく貢献し12年間も在任。


もっとも、1921年にはメンゲルベルクが、エドガー・ヴァレーズの元現代音楽オケであるニューヨークのナショナル交響楽団に常任指揮者として就任したことで大きく潮目が変わっています。
  ナショナル響の大富豪役員、アドルフ・ルウィソーン[1849-1938]、クラレンス・マッキー[1874-1938]、オットー・カーン[1867-1934]らが、ニューヨーク・フィルの役員に就任したことで、ナショナル交響楽団がニューヨーク・フィルに吸収合併されることが決定。新しくなったニューヨーク・フィルでは、ナショナル響の楽員が約70%、ニューヨーク・フィルの楽員が約30%という状態になり、さらに米国音楽家ユニオンが外国籍の楽員の所属を認めなくなったこともあって、ほどなく元のニューヨーク・フィルの楽員はほぼいなくなってしまいます


◆ 5月18日、マーラーが敗血症により50歳でウィーンで死去。


◆ 9月、ベルリン・フィル。マーラー追悼コンサート。交響曲第2番、亡き子を偲ぶ歌、他。
◆ 10月、ブリュートナー管弦楽団。マーラー:交響曲第7番「夜の歌」
◆ 10月26日、ブゾーニ:「トゥーランドット」組曲(追加版初演)、ピアノ協奏曲(作曲者独奏)、悲歌的子守歌、他


◆ 12月、ラインハルト演出のブゾーニ「トゥーランドット」の指揮を、責任者のラインハルトがフリートに任せたため、自分に指揮をやらせて欲しいと申し入れていたシェーンベルクが激怒。なにか鬱憤でもあったのか、ラインハルトや「トゥーランドット」の悪口に加え、フリートがマーラーを騙していたなどとウソまで書いた子供のような手紙をツェムリンスキーに送付。その後、シェーンベルクはヴェーベルンも巻き込んでフリートのことを悪く言うようになり、フリートと親しかったクレンペラーもたまにとばっちりを受けるようになります。


◆ パウル・シュテファンがオスカー・フリートに関する本を出版。

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 1912年/明治45年(〜7月30日)大正元年(7月30日〜) (40〜41歳)

◆ 「ベルリン楽友協会」の会長を退任。新シーズンから売上確保のためにポピュラー・コンサートも導入することになったため。フリートの後任はブラームスの使徒で保守派のフリッツ・シュタインバッハ。
◆ ベルリン・フィル。ディーリアス:交響詩「生命の踊り」、ムソルグスキー「はげ山の一夜」、他。ディーリアスは世界初演。フリートに献呈。


◆ 10月18日、ベルリン・フィル。ブルックナー:交響曲第7番、マーラー:大地の歌。


◆ 12月、パリ、バレエ・リュス公演。ストラヴィンスキー「ペトルーシュカ」、他。


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 1913年/大正2年 (41〜42歳)

◆ 1月3日、ベルリン・フィル。ブゾーニ:「嫁選び」組曲、ブラームス:ピアノ協奏曲第2番。「嫁選び」の語りは1906年に「天国と地獄」で喧嘩していたデュリュー。ブラームスは若きバックハウスとの共演。


◆ 2月4日、ベルリン・フィル。マーラー:交響曲第9番。
◆ ミラノ・スカラ座。ベルリオーズ:幻想交響曲、他。
◆ 5月、パリで大混乱となったバレエ・リュスによる「春の祭典」世界初演をゲネプロから鑑賞。終演後、ディアギレフ、ニジンスキー、バクスト、コクトーらとタクシーに乗車。


◆ 6月22日、シャトレ座。グレの歌の「山鳩の歌」」、他。

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 1914年/大正3年 (42〜43歳)

◆ 春、オスカー・メスター監督の記録映画「指揮者たち」に出演。3人の指揮者が登場し、フリートが「幻想交響曲」全曲、ワインガルトナー[1863-1942]が「エグモント」と「レオノーレ」序曲、エルンスト・フォン・シューフ[1846-1914]が、「魔弾の射手」と「オベロン」、「タンホイザー」序曲。最も若いフリートが主役のような扱いですが、指揮姿のカリスマ的な迫力によるものでしょう。


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 1915年/大正4年 (43〜44歳)

◆ 12月、ウィーンのシュテファン・ツヴァイク宅を訪問。「移民たち」以来友人となっていたツヴァイクはフリートのあけすけな振る舞いを面白がっていました。


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 1916年/大正5年 (44〜45歳)

◆ 1月16日、ベルリン・フィル。シベリウス:交響曲第4番、ドイツ初演。


◆ 10月28日、ベルリン・フィル。戦時扶助特別コンサート。ワーグナー作品とドン・ファン。
◆ 年末、コペンハーゲンで「こうもり」など指揮。

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 1917年/大正6年 (45〜46歳)

◆ 1月、チューリヒ。マックス・ラインハルト&ドイツ劇場との公演。シェイクスピアの「真夏の夜の夢」で、フリートはメンデルスゾーンの音楽を指揮。
◆ 5〜6月、ドレスデン・フィルのドイツ・スイス・ツアーに参加。リヒャルト・シュトラウ、エトヴィン・リントナーとフリートの3人体制でのツアー。

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 1918年/大正7年 (46〜47歳)

◆ 1月、ベルン、バーゼル、チューリヒでマーラーの交響曲第2番、ベルリオーズの葬送と勝利の大交響曲。
◆ 3月5日、モスクワ遷都。1712年以来206年ぶりにサンクトペテルブルク/ペトログラードからモスクワに復帰。
◆ 8月30日、レーニン暗殺未遂事件。
◆ 秋、キエフ公演。
◆ ベルリン。マーラー:大地の歌を演奏。会場は休暇中、あるいは出征前の軍人で埋まり、2週間で6回の追加公演が実施。
◆ 11月、ドイツで「ドイツ革命」勃発。兵士と労働者による評議会組織「レーテ(ソヴィエト)」に扇動されたキール軍港での水兵の反乱に端を発し、ハンブルク、ブレーメン、ミュンヘンなど北から南までドイツ各地で反乱が拡大。臨時政府は議会第一党だったドイツ社会民主党と、そこから派生したドイツ独立社会民主党による「人民代表委員会」であり、初代首相はドイツ社会民主党党首のフリードリヒ・エーベルトでした。もっともエーベルトは実際には君主制支持者だったということですが、議会第一党のドイツ社会民主党党首ということで首相になっています。
◆ 11月、ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世[1859-1941]がオランダに亡命し、47年間に及んだ「帝政」(通称:ドイツ帝国)が崩壊し、「ヴァイマル共和政」(通称:ヴァイマル共和国)に移行。連合国側はオランダ政府に、戦争犯罪人としてヴィルヘルム2世の引き渡しを要求しますが、オランダ政府とウィルヘルミナ女王[1880-1962]は、避難者保護権を根拠として要求を拒否。ユトレヒト近郊のドールン村で23年間の余生を過ごさせています。ちなみにウィルヘルミナ女王の母エンマ[1858-1934]はドイツ貴族。ヴィルヘルム2世の祖母はイギリスのヴィクトリア女王[1819-1901]。
◆ 12月26日、ベルリン。ベートーヴェン交響曲第9番。

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 1919年/大正8年 (47〜48歳)

◆ 2月、ドイツ帝国財務省設立。26の州税務署、約1,000の税務署、および約200の主要税関事務所が同時に業務を開始。エルツベルガー改革。
◆ 4月19日、ウィーン演奏協会管弦楽団。マーラー:交響曲第9番。
◆ 5月、ウィーン演奏協会管弦楽団とウィーン・トーンキュンストラー管弦楽団が合併してウィーン交響楽団に。
◆ 5月9日、ウィーン交響楽団。マーラー:交響曲第9番。
◆ 5月16日、ウィーン・トーンキュンストラー管弦楽団、エリー・ナイ。ウェーバー:オイリアンテ序曲、リスト(ブゾーニ編):スペイン狂詩曲、ベルリオーズ:幻想交響曲
◆ 6月24日、ウィーン交響楽団。ベートーヴェン:交響曲第9番
◆ 7月1、3、5日、ウィーン交響楽団。フリート:刈入れの歌、マーラー:交響曲第2番。
◆ 8月、ヴァイマル憲法公布。
◆ 9月20日、ウィーン交響楽団。マーラー:交響曲第9番
◆ 10月11日、ウィーン交響楽団。マーラー:交響曲第6番
◆ 11月12日、ウィーン交響楽団。リスト:マゼッパ、メンデルスゾーン:最初のヴァルプルギスの夜(革命記念 労働者シンフォニー・コンサート)

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 1920年/大正9年 (48〜49歳)

◆ 1月30日、ウィーン交響楽団。マーラー:子供の魔法の角笛〜番兵の夜の歌、リュッケルト歌曲集〜美しさゆえに愛するのなら、真夜中に、子供の魔法の角笛〜レヴェルゲ、交響曲第5番
◆ 3月19、23、29日、4月6日、ウィーン交響楽団。マーラー:大地の歌
◆ 9月24日、ウィーン交響楽団。マーラー:交響曲第2番
◆ 9月28日、ウィーン交響楽団。マーラー:交響曲第1番、第4番
◆ 9月30日、10月3日、ウィーン交響楽団。マーラー:交響曲第3番
◆ 10月7日、ウィーン交響楽団。マーラー:交響曲第6番
◆ 10月11日、ウィーン交響楽団。マーラー:亡き子を偲ぶ歌、交響曲第7番
◆ 10月14、15日、ウィーン交響楽団。マーラー:大地の歌
◆ 10月17日、ウィーン交響楽団。マーラー:交響曲第2番
◆ 10月17日、ウィーン交響楽団。マーラー:交響曲第9番
◆ 10月22日、ウィーン交響楽団。ラヴェル:スペイン狂詩曲、シェエラザード、2つのヘブライの歌、ダフニスとクロエ第2組曲
◆ 12月7日、ウィーン交響楽団。マーラー:嘆きの歌

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 1921年/大正10年 (49〜50歳)

◆ 11月、ソヴィエト政府、1万分の1の通貨切り下げを実施。
◆ 12月29日、ウィーン交響楽団。マーラー:大地の歌

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 1922年/大正11年 (50〜51歳)

◆ 5月、レーニン、脳梗塞発作。一時的に会話ができなくなり、右半身が麻痺するものの7月にはほぼ回復し、10月にモスクワに復帰。


◆ 9月24日、ウィーン交響楽団。マーラー:交響曲第3番
◆ 9月25日、ウィーン交響楽団。マーラー:交響曲第2番
◆ 10月、ソヴィエト政府、100分の1の通貨切り下げを実施。
◆ 10月、「シベリア干渉戦争」終結。ソヴィエトの勝利。
◆ 11月、「ロシア内戦」終結。ソヴィエトの勝利。
◆ 12月、ボリショイ劇場。ベートーヴェン・コンサート。フリートの名誉を称えるモスクワ晩餐会も開催。
◆ 12月13日、ペトログラード・フィル。ベルリオーズ:「幻想交響曲」、ワーグナー:「トリスタンとイゾルデ」より、R.シュトラウス:「ティル・オイレンシュピーゲルの愉快な悪戯」。


◆ 12月16日、レーニン、2度目の脳梗塞発作。右手の麻痺はあるものの仕事は口述で遂行。
◆ 12月30日、ソヴィエト社会主義共和国連邦成立宣言。

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 1923年/大正12年 (51〜52歳)

◆ 2月、ボリショイ劇場コンサート。ベートーヴェン交響曲第3番、他。
◆ 3月10日、レーニン、3度目の脳梗塞発作。
◆ ドイツのルール工業地帯をフランスが占領。労働者ストライキなどによりハイパーインフレ発生。


◆ 夏、ドイツ国防軍とソ連の赤軍の首脳が、両国の軍事協力体制確立に向けて会談を繰り返し、ハンス・フォン・ゼークト将軍は、活動の禁じられたドイツ軍需産業がソ連国内で開発・生産できるよう要請。
◆ 10月、ボリショイ劇場コンサート。ベートーヴェン交響曲第3番、他。
◆ 11月23、25日、ペトログラード・フィル。リスト:「ファウスト交響曲」、ベルリオーズ:「ローマの謝肉祭」、「ファウストの劫罰」〜3曲、R.シュトラウス:「ドン・ファン」、リスト:「マゼッパ」、ワーグナー:「マイスタージンガー」第1幕前奏曲、「神々の黄昏」〜「ジークフリートのラインへの旅と葬送行進曲」、「タンホイザー」序曲。


◆ ドイツ・グラモフォン(当時はDeutschen Grammophon)と契約。現在では世界最大のクラシック・レーベルとして知られる「ドイツ・グラモフォン(Deutsche Grammophon)」の歴史は、1898年までさかのぼることができます。
  1898年、イギリスのグラモフォン(HMV)はドイツのハノーファーに工場をつくり、同地を拠点として事業を本格化するのですが、その英グラモフォンが設立されたのは前年の1897年のことでした。
  英グラモフォンは、ハノーファー出まれの生地屋、エミール・ベルリナー[1851-1929]が普仏戦争の徴兵回避のために19歳でアメリカに渡って技術を学び、やがて円盤型蓄音機を開発してアメリカで興した円盤型蓄音機の製造・販売会社「ベルリナー・グラモフォン」が欧州進出するために設立された会社です。
  つまり流れとしては、ベルリナー・グラモフォン → 英グラモフォン → ドイツ・グラモフォン ということになります。
  有限会社「ドイツ・グラモフォン」としてスタートしたこのハノーファー工場は、アメリカから運搬された14台のプレス機によって操業を開始、当初はイギリスからの音源のプレスが主な業務でしたが、1902年になるとスレザークやカストラートのモレスキなどの録音をおこなうようになります。翌1903年には同じドイツのゾノフォンを吸収合併して規模を拡大、1907年には指揮者でもあるブルーノ・ザイドラー=ヴィンクラーがエンジニアとして入社し、さまざまな工夫を凝らして録音技術の向上に成功、本格的なオーケストラ録音に乗り出します。
  1913年には有名な二キシュの「運命」を録音して話題となりますが、翌年には第1次大戦が開戦しますが英国資本で活動を継続し、1915年に始まったシュルスヌスの一連の録音や、1917年のリヒャルト・シュトラウス自身による「町人貴族」などが話題となります。
  しかし、英国資本だったことで、ドイツ・グラモフォンは1918年に敵国資産としてドイツ政府に接収され、ライプツィヒの「ポリフォン・ヴェルケ(Polyphon Werke)」の傘下となり、国内向けは「ドイツ・グラモフォン(Deutschen Grammophon)」のまま、海外向けは「ポリドール(Polydor)」の名を使うようになります。
  第1次大戦がドイツの敗戦で終わるとドイツ・グラモフォンは活動を再開しますが、HMV音源が使用できなくなっていたことで、結果として自社録音の活性化につながり、1920年にはケンプと契約し、1923年にはフリートとも契約。
  そしてフリートはここでも薄運で、ドイツはほどなくハイパーインフレで大変なことになってしまいます。それでもマーラーの「復活」は中止できない大型プロジェクトということで、翌1924年には「アコースティック録音」の異常な苦労の末に無事に完成し、SP盤11枚組の重量約2.5kgの巨大ボックスが発売されています。
  そして再びフリートの薄運ぶり印象付けるかのように、翌1925年にはマイクロフォンを使って簡単にレコーディングできる「電気録音」が開始されることになるのです。


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 1924年/大正13年 (52〜53歳)

◆ ドイツ・グラモフォン録音。マーラー:交響曲第2番。1923年か1924年におこなわれたマーラー作品の世界初録音。集音管(ホーン、喇叭)の前で演奏して直接ディスクに刻むアコースティック方式の録音としては異例の選曲。集音管で拾える音は三十数名分くらいまでで、しかも周波数帯域も限られているため、実際の収録にあたっては工夫が必要だったようです。下の画像はリヒャルト・シュトラウスがアコースティック録音をおこなったときの写真です。


◆ 1月21日、レーニン死去。
◆ 1月22日、スターリンが最高指導者に選出。
◆ 1月26日、ペトログラード市がレニングラード市に改名。
◆ 3月、ソ連政府、通貨改革実施。旧紙幣50,000ルーブル=1924年度紙幣1ルーブルという基準。ソヴィエト以後の切り下げは、これで500億分の1になった計算。
◆ 3月2〜17日、レニングラード・フィル。ベートーヴェン・シリーズ10公演/交響曲全曲、ピアノ協奏曲第4番(ユージナ)、第5番(フェインベルク)、ヴァイオリン協奏曲(ブリンダー)、「コリオラン」、「ああ、不実な者よ」。ブラームス:交響曲第1番、ヴァイオリン協奏曲(ブリンダー)、シューマン:「マンフレッド」序曲、ベルリオーズ:「幻想交響曲」、「ファウストの劫罰」〜3曲、リスト:「メフィスト・ワルツ第2番」、「ハンガリー狂詩曲第1番」。


◆ 3〜4月、キエフ&ハリコフ・ツアー。
◆ 4月20日、ボリショイ劇場。R=コルサコフ:「シェエラザード」、モーツァルト:「ドン・ジョヴァンニ」序曲、R.シュトラウス:「ドン・ファン」。

◆ ドイツ・グラモフォンからフリートのマーラー:交響曲第2番が発売。SP盤11枚組で重量約2.5kgという巨大なセット。


◆ 8月、ソ連政府、酒類販売を許可。10年間の酒類販売禁止期間中に、モルヒネやコカインなど麻薬中毒患者が増えすぎたため。一方でアルコール中毒患者も増加するものの、麻薬中毒よりは社会的影響が少ないという判断。
◆ ソ連政府、麻薬販売を違法とし、違反者には懲役10年の刑。これにより麻薬使用者が激減。
◆ 9月23日、レニングラードで洪水発生。強い西風の影響でバルト海の波とネヴァ川の流れが衝突。正午頃から水位上昇が始まって午後7時頃には380cmほど通常水位より上昇、その後急速に水位が下がったものの深夜まで1メートルほど水位の高い状態が継続。道路はレンガ敷のため200万平方メートルに渡ってダメージ状態となり、19か所の橋が破壊、120台の路面電車が被害を受け、40隻の船が沈没または漂着、1万5千世帯以上が家を失い、漏電による火災の発生で工場の損害も巨額で、レニングラードの物的被害は1億3千万ルーヴルと推定。


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 1925年/大正14年 (53〜54歳)

◆ 3月21、22日、ウィーン交響楽団。フリート:刈り入れの歌、マーラー:大地の歌
◆ 新たに発足したベルリン交響楽団の首席指揮者に就任。1907年に設立された「ブリュートナー管弦楽団(Blüthner-Orchester)」が改名したもので、本拠地はベルリン中心部(第2次大戦後は西ベルリン側)のティーアガルテンにあるクリントヴォルト=シャルヴェンカ音楽院近くのブリュートナーザール(1927年にバッハザールと改名)を引き続き使用。フリートは1908年から1909年までブリュートナー管弦楽団の常任指揮者でしたが辞任し、その後は客演で指揮していました。
◆ 8月、ザルツブルク音楽祭。市立劇場(下の画像)で国際パントマイム協会の4本立てバレエ=パントマイム公演の音楽を指揮。演出は音楽祭創設者のひとりでフリートとは旧知の間柄のマックス・ラインハルト、振付はエルンスト・マトライ。
  モーツァルトの生地で夏に開かれるザルツブルク音楽祭は、1920年に開始された当初は「モーツァルト音楽祭」を前身とする小規模なものでした。最初の年は広場での「演劇(イェーダーマン)」のみで、翌1921年に「演劇」「バレエ」と小規模な演奏会等を実施、そして3年目の1922年にR.シュトラウス/シャルク双頭体制のウィーン国立歌劇場が「オペラ」と「管弦楽演奏会」で参加しますが、音楽祭の知名度不足で集客が悪く大幅な赤字となり、翌1923年は「演劇」のみ上演。さらに1924年には資金難で音楽祭は休止となり、この1925年にようやく体制を整えて「オペラ」「バレエ」「演劇」「管弦楽演奏会」「室内楽演奏会」の4本立てで再開。指揮はムック、シャルク、ワルター、フリートでした。
  なお、この年にはザルツブルク宮廷の厩舎だった物件を改築した1,324席の「祝祭劇場」が開場し、メイン会場が約700席の「市立劇場(現ザルツブルク州立劇場)」と、約800席の「モーツァルテウム大ホール」に加えて3つとなり収益性が一気に増大。ちなみにその「祝祭劇場」は、1960年に2,179席の「祝祭新劇場(1963年に祝祭大劇場と改名)」が開場すると大ホールでありながら「祝祭小劇場」と改名され、46年後、モーツァルト・イヤーの2006年には1,495席に改築して「モーツァルトの劇場」と改名されています。また、1926年には約1,400席の野外劇場「フェルゼンライトシューレ」が演劇用に使われ始め、第2次大戦後は音楽にも使用されるようになります。


◆ 12月、ベルリン交響楽団。ホロヴィッツのドイツ・デビュー公演でチャイコフスキーのピアノ協奏曲第1番を指揮。


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 1926年/大正15年(〜12月26日)昭和元年(12月26日〜) (54〜55歳)

◆ 1月13〜26日、レニングラード・フィル。スクリャービン:交響曲第3番「神聖な詩」ベルリオーズ:「幻想交響曲」、ドビュッシー:「牧神の午後への前奏曲」、プロコフィエフ:「3つのオレンジへの恋」〜行進曲、ヴェーバー:「オベロン」序曲、R.シュトラウス:「死と変容」、「英雄の生涯」、「アルプス交響曲」。アルプス交響曲はソ連初演。


◆ 5月、ベルリン交響楽団。ヴェーベルン:パッサカリア、クレネク:ヴァイオリン協奏曲、他。
◆ 10月、ベルリン交響楽団。マックス・シュトループ[1900-1966]らとの共演でエルンスト・フォン・ドホナーニ[1877-1960]のツィクルスを開催。


◆ 10月、妻グスティ、結核により54歳で死去。


◆ ベルリン交響楽団の首席指揮者を辞任。後任はエミール・ボーンケ。
◆ ドイツ国防軍とソ連の協力は続き、ドイツ企業によるソ連の工場の買収・近代化も進み、造船所、航空、大砲、手榴弾、小銃の工場、化学兵器工場、その他の重要な施設を引き継ぎ、早期の利益化を期待しながら、開発拠点として新たな兵器を手掛けることも望んでいました。一方、ソ連は、軍需生産を安価に増やし、ドイツの技術にアクセスし、何百人もの新しい技術者を養成することを望んでおり、ドイツ国防軍の非正規財源もこうした計画に補助金として注ぎ込まれます。しかし両国ともに戦後の経済疲弊が深刻で、成果の出ない企業も多く、モスクワ郊外に大規模な工場を建てたユンカース社の社長がその苦境を漏らしてしまったことで、イギリスのガーディアン紙で報じられ、軍とソ連の協力体制を知らなかったドイツ政界に大きな打撃を与え混乱を招くことになります。

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 1927年/昭和2年 (55〜56歳)

◆ 5月、パリ・オペラ座。ストラヴィンスキー:春の祭典、ベートーヴェン交響曲第9番
◆ 10月、ミラノ・スカラ座。ブルックナー:交響曲第7番、R.シュトラウス:アルプス交響曲、ラヴェル:ダフニスとクロエ第2組曲。トスカニーニと交流。


◆ 11月、ロイヤル・フィルハーモニック協会。シュナーベルらと共演。


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 1928年/昭和3年 (56〜57歳)

◆ 3月、ラヴェルと共にニューヨーク港に到着。3月7日に、ラヴェルの53歳の誕生日パーティーをメゾソプラノ歌手のエヴァ・ゴーティエのアパートで開催。フリートのほか、ガーシュウィン、作曲家のライデ=テデスコらも参加。


◆ 3月16、18日、ニューヨーク交響楽団。ブラームス交響曲第1番、ストラヴィンスキー「火の鳥」組曲、ラヴェル「ダフニスとクロエ」組曲第2番。ニューヨーク交響楽団は3月20日付でニューヨーク・フィルに吸収合併。


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 1929年/昭和4年 (57〜58歳)

◆ 1月、パリ交響楽団。リスト:ピアノ協奏曲第1番、コダーイ「ハーリ・ヤーノシュ」組曲、チャイコフスキー交響曲第6番「悲愴」。独奏はクラウディオ・アラウ[1903-1991]。パリ交響楽団は1928年に投資家や銀行など民間資金によって設立されたオーケストラ。


◆ ドイツの失業者数約200万人

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 1930年/昭和5年 (58〜59歳)

◆ 4月、ロイヤル・フィルハーモニック協会。ホルスト:2つのヴァイオリンのための二重協奏曲世界初演。


◆ 4月、BBC交響楽団。ランドフスカらと共演。


◆ ドイツの失業者数約400万人

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 1931年/昭和6年 (59〜60歳)

◆ 5月、ウィーン・フィル。マーラー交響曲第4番。ウィーン宮廷歌劇場監督時代のマーラーに見出されたソプラノ歌手ベルタ・キウリナ[1882-1933]と共演。


◆ バルトーク:2つのラプソディ。ベルリン初演。
◆ 12月19、29日、レニングラード・フィル。シューベルト:「未完成」、ベルリオーズ:「幻想交響曲」、ハイドン:交響曲第26番、モーツァルト:交響曲第39番、ベートーヴェン:交響曲第7番。


◆ モスクワでベートーヴェン・シリーズ

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 1932年/昭和7年 (60〜61歳)

◆ 1〜2月、ボリショイ劇場モスクワでベートーヴェン・シリーズ
◆ 11月16〜23日、レニングラード・フィル。ベルリオーズ:「リア王」序曲、「幻想交響曲」、ラヴェル:「ダフニスとクロエ」組曲、「ラ・ヴァルス」、シューマン:チェロ協奏曲、R.シュトラウス:「英雄の生涯」、ベートーヴェン:「コリオラン」、ヘンデル:オルガン協奏曲ニ短調、マーラー:交響曲第1番「巨人」。


◆ ドイツの失業者数約600万人

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 1933年/昭和8年 (61〜62歳)

◆ 1月30日、ヒンデンブルク大統領がヒトラーを首相に任命。14年間続いた「ヴァイマル共和政」から「国家社会主義ドイツ労働者党独裁体制」に移行。
◆ 2月20日、 ヒトラーとゲーリングがドイツ経済界首脳陣と会合、大恐慌の影響下ながら300万マルクの政治献金を獲得。背景には「第一次五カ年計画」[1928-1933]によるソ連工業生産の飛躍的増大に伴い、鉄鋼業界などドイツからソ連への輸出が莫大な金額になっていたことがあります。


◆ 2月27日、ベルリンの国会議事堂が放火され炎上。犯人がオランダ共産党員だったことから、ドイツ共産党・社会民主党も活動禁止措置。


◆ 3月、オーストリア、キリスト教社会党のドルフース首相が、警察を動員して議会を閉鎖。緊急令により独裁的な政権運営を開始。

◆ 4月19日、ナチ党、新規の入党希望者の制限を開始。1月末の内閣成立、3月の総選挙という人気過熱イベントを経て、4月7日には、失業対策の目玉ともいわれる「職業官吏再建法」(反ユダヤ法)が施行され、爆発的な数の失業者が、求職目的、あるいは待遇向上目的で入党手続きに殺到したため、新規の入党希望者の制限を実施。以後、1939年5月10日に新規入党制限が完全に撤廃されるまでの6年間は、再入党や縁故のほか、数回の例外期間を除いて新規入党を基本的に受け付けませんでした。

◆ 5月10日、「ドイツ学生協会」の主宰で、大規模な「焚書」が実施。以後、6月末までにドイツの34の大学都市で、学生たちが率先して大量の「非ドイツ的」な書物を焼却。新聞や放送を通じて全ドイツ国民に向けて成果を報道。ナチは、教員・役人・劇場人などの公務員のほか、学生など若年層に特に人気がありました。

◆ 12月23日、レニングラード・フィル。シューベルト:「未完成」、ベートーヴェン:交響曲第9番「合唱」。


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 1934年/昭和9年 (62〜63歳)

◆ イギリス委任統治領パレスチナに滞在。テル・アヴィヴのオヘル・シェム劇場で、ベートーヴェン交響曲第5番など指揮。パレスチナ管弦楽団(イスラエル・フィル)の最初の演奏会は1936年12月26日なので、この急造オーケストラによる演奏会はそれより約3年も先行していたことになります。


◆ 3月28、31日、レニングラード・フィル。ベルリオーズ:「幻想交響曲」、「レリオ」、ヴェーバー:「オベロン」序曲、リスト:「死の舞踏」、マーラー:「大地の歌」。
◆ 4月3日、レニングラード・フィル。ベートーヴェン:交響曲第1番、第9番「合唱」。


◆ 11月、ドイツからソ連に移住。グルジアの首都トビリシに居住し、トビリシ歌劇場でオペラを指揮。


◆ モスクワの全ソ連放送委員会管弦楽団(西側呼称:モスクワ放送交響楽団)などを指揮。

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 1935年/昭和10年 (63〜64歳)

◆ 1月、BBC交響楽団。マーラー:交響曲第9番。
◆ 3〜4月、イギリス委任統治領パレスチナに滞在。ハイファ、テルアヴィヴ、エルサレムで指揮。


◆ 6月26日、モスクワ。アマチュア芸術オリンピック。300人編成のオーケストラを指揮。
◆ 9月、レニングラード・フィルとバクーにツアー。
◆ 11月16、17日、レニングラード・フィル。リスト:「ファウスト交響曲」、ピアノ協奏曲第2番、「村の居酒屋の踊り」、「夜の行列」、「死の舞踏」。


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 1936年/昭和11年 (64〜65歳)

◆ 2月、ロンドン公演。
◆ 2月17日、ウィーン交響楽団。モーツァルト:ピアノ協奏曲第23番、マーラー:大地の歌。モーツァルトでソロを弾いたユリエッテ・アラーニ[1906-1945]は、8年後、ドイツ政府によりアウシュヴィッツに送られています。下の画像は作曲家でもあったアラーニと微分音で知られる作曲家アロイス・ハーバ[1893-1973]が談笑しているところです。


◆ 8月、ニコライ・エジョフ[1895-1940]率いるNKVD(内務人民委員部兼秘密警察)による「大粛清」の開始。多くの政府関係者と軍関係者を手早く処刑し、さらにそこに疑心暗鬼になった国民同士による爆発的な「告発」も加わって、膨大な数の逮捕者を生み、強制労働や遠隔地配属処分とされたほか、2年間で60万人以上の犠牲者を生み出すことになります。
◆ モスクワで130名編成のコンサート・オーケストラ、「ソ連国立交響楽団」が設立。モスクワ放送交響楽団の楽員とモスクワ音楽院卒業生によって結成され、アレクサンドル・ガウクが音楽監督に就任。
  各団体のロシア語からの日本語訳は以下の通りです。

  【ソ連国立交響楽団】
  1936-1991: 国立アカデミー交響楽団
  1991-2005: ロシア国立アカデミー交響楽団
  2005-現在: E.F.スヴェトラーノフ記念ロシア国立アカデミー交響楽団

  【モスクワ放送交響楽団】
  1930-1953: 全ソ連放送委員会管弦楽団
  1953-1966: 全ソ連放送交響楽団
  1966-1974: 全ソ連放送大交響楽団
  1974-1979: 全ソ連ラジオ・テレビ放送交響楽団
  1979-1991: 全ソ連ラジオ・テレビ放送大交響楽団
  1993-現在: P.I.チャイコフスキー記念国立アカデミー大交響楽団

ソ連国立交響楽団は基本部分の名称はずっと同じで、ソ連時代の55年間は「国立アカデミー交響楽団」で一貫し、ソ連が崩壊した1991年にはロシアの名を冠して「ロシア国立アカデミー交響楽団」と変更。2005年には「E.F.スヴェトラーノフ記念ロシア国立アカデミー交響楽団」と改名。スヴェトラーノフの死から3年後の改名ですが、これはスヴェトラーノフを海外滞在が多過ぎるとして2000年に解任していた文化大臣のシュヴィドコイが大臣を退任した翌年というタイミングでもあります。ソ連国立交響楽団は基本部分の名前は一貫しているので誤訳問題はあまり無さそうですが、結成当時は、全ソ連放送委員会管弦楽団の楽員がメンバーになっていたことから、紹介記事などでは紛らわしくなっている場合もあるようです。
  一方、2023年で創立93年のモスクワ放送交響楽団では、1966〜1974年の8年間、1979〜1991年の12年間、1993年以降の30年間の計50年間に渡って「大交響楽団」の呼称を使用しており、そのまま読むと「ボリショイ交響楽団」なので、勘違いに繋がった可能性があります。
◆ 10月5日、ソ連国立交響楽団の最初のコンサートがモスク音楽院大ホールで開催。ガウク指揮「インターナショナル」に続き、エーリヒ・クライバーがベートーヴェンの交響曲第1番と第3番などを指揮。
◆ 10月29日、11月5〜6日、ソ連国立交響楽団のコンサートをオットー・クレンペラーが指揮。ベートーヴェン、ブラームス、ワーグナー、ドビュッシーの作品を演奏。クレンペラーは5月にもソ連を訪れており、レニングラードでショスタコーヴィチから新作の交響曲第4番をピアノで聴かされていました。
◆ 11月、スターリン憲法制定。官僚制を強化。

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 1937年/昭和12年 (65〜66歳)

◆ 8月22日、大粛清を指揮中のエジョフ内務人民委員が「外国人について」を通達。これによりソ連に在留中の海外国籍者は、ソ連市民権を受け入れるか、国外退去するか選択しなければならなくなり、従わない場合は逮捕・国外追放処分となります。前年8月に始まった「大粛清」がまだ継続しており、市民権を取得すると容易に告発→逮捕の対象となるため、たとえそれがライバルからの虚偽告発であっても強制労働や遠隔地配属、最悪の場合は死刑になる可能性があることからほとんどの外国人は国外退去を選択。


◆ 66歳のオスカー・フリートと24歳のクルト・ザンデルリングはソ連市民権を取得。外国人指揮者で残ったのは彼らだけでした。


◆ ソ連国立交響楽団(国立アカデミー交響楽団)。ベルリオーズ:「幻想交響曲」、他。
◆ 11月、スヴェルドロフスク国立フィルハーモニー管弦楽団。十月革命20周年記念演奏会。ベートーヴェン:交響曲第1番、第9番「合唱」。

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 1938年/昭和13年 (66〜67歳)

◆ モスクワ音楽院大ホールでのリハーサル中に指揮台から転落。脳震盪を起こし、その後、パーキンソン病となり、筋肉の固縮によって全身硬化が進行。仕事ができなくなり、楽譜などの個人資産も売却。


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 1939年/昭和14年 (67〜68歳)

◆ パーキンソン病、闘病生活。

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 1940年/昭和15年 (68〜69歳)

◆ 1月、モスクワの共同アパート「作曲家の家」の9階に転居。病床のフリートと、妻でピアニストのエレナ・イヴァノヴナ(旧姓:グリンカ)、およびエレナの16歳の息子(前夫との子)の3人が、14uの部屋を仕切って暮らす生活。
◆ 4月、ボリショイ劇場音楽監督でユダヤ系指揮者のサムイル・サモスード[1884-1964]がフリートの窮状を救うために運動を開始。


◆ 5月、人民委員会議の評議会は、フリートに対し、毎月400ルーブルの年金と3,000ルーブルの一時金を支給することを決定。ちなみに1940年度のソ連国民の平均月収は月額約338ルーブルなので、ほぼ2割増しという計算になります。


◆ 8月、妻エレナが住居などの処遇改善を求めるものの、党員ではないため拒否されます。

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 1941年/昭和16年 (69〜70歳)

◆ モスクワの共同アパート「作曲家の家」の9階で、病身での年金生活。
◆ 6月22日、ドイツ政府が不可侵条約を破り、ソ連領土への軍事侵攻を開始。前年12月に侵攻計画(および占領地からの食料調達&移住計画)を立て始めていたドイツは、すでにソ連国境付近に約550万の兵と戦車3,712両、軍用機4,950機、野砲等4万7,260門などから成る大部隊を配備済みで、以後、3年10か月で約2,660万人のソ連国民を殺害することになります。


◆ 7月5日、長期にわたる療養の末にモスクワで死去。直接の死因、埋葬場所などは不明。


ドキュメントの不備は、17日後にドイツ軍の無差別爆撃が始まり、3か月後の10月にはモスクワ市民がクイビシェフに疎開で大移動という混乱が影響していると考えられます。モスクワではドイツ軍の攻撃に備える作業が前月から始まっており、ボリショイ劇場の前でも巨大な防空気球が準備されたりしていましたが、それでも追いつかないほどの執拗な無差別爆撃がおこなわれることになります。


◆ 7月22日、ドイツ軍が初めてモスクワを空爆。5時間に渡って約4万5千発の焼夷弾と約100トンの高性能爆弾(SC1000等)が、220機の爆撃機(ハインケル社のHe-111、ドルニエ社のDo-17、Do-217、ユンカース社のJu-88等)により無差別爆撃。多くの建物・施設を破壊・焼失させ、疎開前の多くの民間人等も殺害。以後、1943年夏までの2年間に121回のモスクワ無差別爆撃を実施。下の画像は高射砲と、撃墜されたドルニエ Do-17。


◆ 8月28日、赤軍とドイツ軍の「キエフの戦い」がおこなわれる中、ソ連政府は「ヴォルガ・ドイツ人ソヴィエト社会主義自治共和国」の解体を宣言。同自治共和国の国籍を持つ「ヴォルガ・ドイツ人」たちをシベリアや中央アジアに追放。指揮者のアレクサンドル・ガウクも「ヴォルガ・ドイツ人」だったため、ソ連国立交響楽団の音楽監督を解任されていますが、教え子でグルジア出身の指揮者メリク=パシャエフ[1905-1964]の紹介により、グルジアの首都トビリシでの教育と指揮者の仕事を獲得。1943年にはモスクワ復帰を果たしています。

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 参照資料

"Von Mahler bis Moskau: Der Dirigent und Komponist Oskar Fried" (Alexander Gurdon)
"Oskar Fried: Sein Werden Und Schaffen" (Paul Bekker)
"Oskar Fried: Das Werden Eines Kuenstlers" (Paul Stefan)
"Oskar Fried: In Monographien moderner Musiker" (Hugo Leichtentritt)
"Литературное наследие. Переписка. Воспоминания" (Н.П.Аносов)
"Otto Klemperer His Life and Times" (Peter Heyworth)
"Conductor Willem Mengelberg, 1871-1951: Acclaimed and Accused" (Frits Zwart)
"Andere machten Geschichte, ich machte Musik: Die Lebensgeschichte des Dirigenten Kurt Sanderling in Gesprächen und Dokumenten" (Ulrich Rudolf-Monin)
"Shostakovich: His Life and Times" (M. V. Lukyanova)
"Music and Musical Life in Soviet Russia 1917-1970" (Boris Schwarz)
"Busoni as Pianist" (Grigory Kogan)
"Handbuch Deutsche Musiker 1933-1945" (Fred K. Prieberg)
"Gustav Mahler und die Wiener Oper" (Franz Wilhaue)
"Verzeiht, ich kann nicht hohe Worte machen: Briefe von Otto Klemperer 1906-1973" (Antony Beaumont)
"J. P. E. Hartmann og hans kreds" (Inger Sørensen)
"Die Dresdner Stadtmusik, Militärmusikkorps und Zivilkapellen im 19.Jahrhundert" (Anneliese Zänsler)
"Verdrängte Musik Berliner Komponisten im Exil" (Habakuk Traber und Elmar Weingarten)
"Prokofiev: From Russia to the West 1891—1935" (Davis Nice)
"1871, Berlin Paris. Reichshauptstadt und Hauptstadt der Welt" (Pierre-Paul Sagave)
"Klemperer on music: shavings from a musician's workbench" (Otto Klemperer)
"Classics for the masses: shaping Soviet musical identity, 1917-1953" (Pauline Fairclough)
"East Meets West: The Russian Trumpet Tradition from the Time ..." (Edward H. Tarr)
"Das Deutsche Sängerwesen in Südaustralien vor Ausbruch des Ersten" (Meike Tiemeyer-Schütte)
"Conducting the Brahms Symphonies: From Brahms to Boult" (Christopher Dyment)
"Hans Von Bülow: A Life and Times" (Alan Walker)
"Richard Strauss und die Sächsische Staatskapelle: Tagungsband" (Wolfgang Mende)
"Ravel: Man and Musician" (Arbie Orenstein)
"H. Balfour Gardiner" (Stephen Lloyd)
"ベルリン・フィル あるオーケストラの自伝" (ヘルベルト・ヘフナー)
"エリーザベト・ニーチェ" (ベン・マッキンタイアー)
"新グローヴ・オペラ事典" (スタンリー・セイディ)
"二十世紀思想渉猟" (生松敬三) などの書籍のほか、各国の新聞、会報、公文書、論文、ウェブサイト等。

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 年表付き商品説明ページ一覧

【バロック作曲家(生年順)】

カッツァーティ [1616-1678]
ルイ・クープラン [1626-1661]

ダンドリュー [1682-1738]スタンリー [1713-1786]
【古典派&ロマン派作曲家(生年順)】

モンジュルー [1764-1836] (ピアノ系)
ベートーヴェン [1770-1827]
ジャダン [1776-1800] (ピアノ系)
リース [1784-1838]

【近現代作曲家(生年順)】

レーバイ [1880-1953] (ギター系)
ショスタコーヴィチ [1906-1975]
ラングレー [1907-1991] (オルガン系)
アンダーソン [1908-1975]
デュアルテ [1919-2004] (ギター系)
ヘンツェ [1926-2012]
坂本龍一 [1952-2023]
【指揮者(ドイツ・オーストリア)】

アーベントロート (ベートーヴェンシューマンブルックナーブラームスモーツァルトチャイコハイドン)
エッシェンバッハ
カラヤン
クナッパーツブッシュ (ウィーン・フィルベルリン・フィルミュンヘン・フィル国立歌劇場管レジェンダリー)
クラウス
クリップス
クレンペラー (VOX&ライヴザルツブルク・ライヴVENIASボックス
サヴァリッシュ
シューリヒト
スイトナー (ドヴォルザークレジェンダリー)
フリート
フルトヴェングラー
ベーム
メルツェンドルファー
ライトナー
ラインスドルフ
レーグナー (ブルックナーマーラーヨーロッパドイツ)
ロスバウト
【指揮者(ロシア・ソ連)】

ガウク
クーセヴィツキー
ゴロワノフ
ペトレンコ
マルケヴィチ
【指揮者(アメリカ)】

クーチャー(クチャル)
スラトキン(父)
ドラゴン
バーンスタイン
フェネル
【指揮者(オランダ)】

オッテルロー
クイケン
ベイヌム
メンゲルベルク
【指揮者(フランス)】

パレー
モントゥー
【指揮者(ハンガリー)】

セル
ドラティ
【指揮者(スペイン)】

アルヘンタ
【指揮者(スイス)】

アンセルメ
【指揮者(ポーランド)】

クレツキ
【指揮者(チェコ)】

ターリヒ
【指揮者(ルーマニア)】

チェリビダッケ
【指揮者(イタリア)】

トスカニーニ
【指揮者(イギリス)】

バルビローリ
【指揮者(ギリシャ)】

ミトロプーロス
【鍵盤楽器奏者(楽器別・生国別)】

【ピアノ(ロシア・ソ連)】

ヴェデルニコフ
グリンベルク
ソフロニツキー
タマルキナ
ニコラーエワ
ネイガウス父子
フェインベルク
フリエール
モイセイヴィチ
ユージナ
【ピアノ(フランス)】

カサドシュ
ティッサン=ヴァランタン
ハスキル
ロン
【ピアノ(ドイツ・オーストリア)】

キルシュネライト
シュナーベル
デムス
ナイ
【ピアノ(南米)】

タリアフェロ
ノヴァエス
【チェンバロ】

ヴァレンティ
カークパトリック
ランドフスカ
【弦楽器奏者(楽器別・五十音順)】

【ヴァイオリン】

オイストラフ
コーガン
スポールディング
バルヒェット
フランチェスカッティ
ヘムシング
リッチ
レビン
【チェロ】

カサド
シュタルケル
デュ・プレ
ヤニグロ
ロストロポーヴィチ
【管楽器奏者】

【クラリネット】

マンツ

【ファゴット】

デルヴォー(ダルティガロング)
【オーボエ】

モワネ
【歌手】

ド・ビーク (メゾソプラノ)
【室内アンサンブル(編成別・五十音順)】

【三重奏団】

パスキエ・トリオ
【ピアノ四重奏団】

フォーレ四重奏団
【弦楽四重奏団】

グリラー弦楽四重奏団
シェッファー四重奏団
シュナイダー四重奏団
ズスケ四重奏団
パスカル弦楽四重奏団
ハリウッド弦楽四重奏団
バルヒェット四重奏団
ブダペスト弦楽四重奏団
フランスの伝説の弦楽四重奏団
レナー弦楽四重奏団

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