CD 輸入盤

ハンス・クナッパーツブッシュ レジェンダリー・オーケストラ・コレクション(10CD)

基本情報

ジャンル
:
カタログNo
:
SC830
組み枚数
:
10
レーベル
:
:
Europe
フォーマット
:
CD
その他
:
輸入盤

商品説明


ハンス・クナッパーツブッシュ
レジェンダリー・オーケストラ・コレクション(10CD)


スクリベンダムの注目シリーズ
往年のドイツの指揮者、ハンス・クナッパーツブッシュのボックス・シリーズが、イギリスのヒストリカル系レーベル、スクリベンダムから登場 (第1弾ウィーン・フィル、 第2弾、ベルリン・フィル、 第3弾、ミュンヘン・フィル、 第4弾国立歌劇場管弦楽団)。

個性的デザイン
ヒストリカル系ボックスは地味なデザインが多い中、精悍でちょっと怖カッコイイ(?)クナッパーツブッシュの姿と競いあうかのような派手な色彩の背景は印象的。 しかもその絵柄が、正面だけでなく、天面・底面・側面にも登場してとても賑やかで、実際にブルックナーの初版や、金管の増員増強など、強烈なサウンドを好んでいたクナッパーツブッシュにはふさわしいといえるかもしれません。

シリーズ第5弾は巨大演奏の宝庫
このボックスには、クナが第2次大戦後、さまざまなオーケストラを指揮した音源から、代表的なものがCD10枚分集められています。約8割がドイツ、残りの約2割がスイス、イギリス、フランスとなっており、ドイツのオーケストラとの演奏には数多くの巨大な演奏が含まれています。

スイス、イギリス、フランスのオーケストラ
トーンハレ管、スイス・ロマンド管、ロンドン・フィルが1947年と1948年、パリ音楽院管が1956年のデッカ録音。
クナは戦前・戦中の12年間、バイエルン国立歌劇場音楽総監督の解任や監視など国家社会主義政府によって少なからぬストレス状態に置かれていました。
敗戦と共にそのストレスは無くなり、バイエルン国立歌劇場音楽総監督にも返り咲きましたが、今度はアメリカ占領軍政府が圧力団体と化し、新人ショルティをバイエルン国立歌劇場音楽総監督に据えるためにクナを解任、さらに指揮活動も禁じるなど、クナはまたしてもストレス状態に置かれることになります。
1946年末になってようやく不当な禁止措置が解けたクナのもとに、いち早くレコーディング契約の申し入れをしてきたのは、デッカ・レコードのスイスでの販売元「ムジークフェアトリープ」をチューリヒで経営する一方、デッカの大株主でもあった正統派ユダヤ教徒のモーリス・ローゼンガルテン。その目利きぶりから、デッカ社長エドワード・ルイスの信頼も厚く、アーティスト契約を任されることも多かった人物です。
ちなみにルイス社長は元株式仲買人で、レコード事業を立ち上げた直後に遭遇した世界大恐慌も巧みに乗り切り、家庭内音楽需要の高まった戦時中には売上を大幅に拡大。戦後の勢いの良い国際展開に繋げてもいます。下の画像の左がルイス社長、右がローゼンガルテン。


1947年、クナの自宅のあったミュンヘンは、まだまだ連合国軍の爆撃による瓦礫だらけでしたが、永世中立国スイスは、同じく連合国軍に爆撃されながらも、国境付近中心に70回ほどの攻撃ということで被害規模がドイツより遥かに小さかったため既に復旧済みで、夏に訪れたクナを待っていたのは、2つの絶景パノラマ都市での仕事でした。
まず、ローゼンガルテンの地元チューリヒの歌劇場に客演して「トリスタンとイゾルデ」公演を指揮したクナは、チューリヒの放送スタジオでワーグナーの「ローエングリン」第1幕前奏曲などを録音。オケは歌劇場で指揮したチューリヒ・トーンハレ管弦楽団。
約2週間後には、ジュネーヴの放送スタジオで、スイス・ロマンド管弦楽団を指揮してブラームス第2番と、「マイスタージンガー」前奏曲を録音。


こうして、戦後間もない時期のスイスのオケを相手に、なんとか得意演目を披露したクナの前に開けていたのは、そのパノラマ風景のような希望に満ちた未来だったのかもしれません。
戦後2年目にしてようやく心の平和を得たクナは、やがて、音楽の細部まで味わい尽くすようなゆったりしたテンポをとることが多くなって行きます。
ちなみに、チューリヒはローゼンガルテンの地元ということもあってか、クナはこの後もオペラの客演やほかのオケとのツアー先に組み込み、1948、1949、1951、1952、1954、1955、1956、1958年と毎年のように訪問する一方で、ジュネーヴにはなぜか行きませんでした。

ドイツのオーケストラ
セット収録音源の約8割を占めるのはドイツのオーケストラとの聴きやすい放送録音とライヴ録音で、1951年から1963年にかけて、北ドイツ放送響、ケルン放送響、ヘッセン放送響、南ドイツ放送響、ブレーメン・フィルを指揮した演奏を聴くことができます。
クナの特色でもある自在な音楽づくりは、戦後、好むようになった遅いテンポと組み合わされることで、より解釈の面白さが際立つようにもなっています。特に、胃の手術をした1961年以降にときおりみられる極端に遅いテンポによる演奏では、拡大された造形の中で示される諸要素の移ろいが感銘深いことこのうえなしです。

 収録情報

CD 1

●ブルックナー:交響曲第3番ニ短調 (初版)

北ドイツ放送交響楽団
1962年1月15日

CD 2

●ワーグナー「ジークフリート牧歌」
●ワーグナー「トリスタンとイゾルデ」前奏曲と愛の死
●ワーグナー「マイスタージンガー」第3幕前奏曲
●ワーグナー「マイスタージンガー」第1幕前奏曲


北ドイツ放送交響楽団
クリスタ・ルートヴィヒ(メゾソプラノ)
1963年3月24日

CD 3

●ベートーヴェン「コリオラン序曲」Op.62
●ベートーヴェン:交響曲第8番ヘ長調 op.93

北ドイツ放送交響楽団
1960年3月14日
●R.シュトラウス:「ドン・ファン」op. 20
●R.シュトラウス:「死と変容」op.24


パリ音楽院管弦楽団
1956年5月

CD 4

●ブラームス:交響曲第3番ヘ長調 op.90
●ブラームス:「ハイドンの主題による変奏曲」Op.56a


南ドイツ放送交響楽団
1963年11月

CD 5

●ワーグナー「ローエングリン」第1幕前奏曲

チューリッヒ・トーンハレ管弦楽団
1947年6月18日
●ワーグナー「マイスタージンガー」第1幕前奏曲
●ブラームス:交響曲第2番ニ長調 op.73


スイス・ロマンド管弦楽団
1947年6月30日〜7月1日

CD 6

●ベートーヴェン:交響曲第3番変ホ長調 Op.55「英雄」

ブレーメン・フィルハーモニー管弦楽団
1951年5月9日

CD 7

●ベートーヴェン:交響曲第2番ニ長調 Op.36
●ブラームス:交響曲第4番ホ短調 Op.98


ブレーメン・フィルハーモニー管弦楽団
1952年12月12日

CD 8

●ブラームス:交響曲第4番ホ短調 Op.98
●ワーグナー「ジークフリート牧歌」


ケルン放送交響楽団
1953年5月
●ウェーバー「オイリアンテ」序曲

ケルンWDR交響楽団
1962年5月14日

CD 9

●ブルックナー:交響曲第7番ホ長調 (初版)

ケルンWDR交響楽団
1963年5月10日

CD 10

●ハイドン:交響曲第88番ト長調 Hob.I:88
●ベートーヴェン:交響曲第5番ハ短調 op.67


ヘッセン放送交響楽団
1962年3月20日
●ワーグナー「リエンツィ」序曲
●ワーグナー「マイスタージンガー」第1幕前奏曲


ロンドン・フィルハーモニー管弦楽団
1947年12月31日〜1948年1月3日

 各種リンク

【商品関連】
●ブレーメン・フィルハーモニー管弦楽団
●ケルン放送交響楽団、ケルンWDR交響楽団
●北ドイツ放送交響楽団
●ヘッセン放送交響楽団
●南ドイツ放送交響楽団
●チューリッヒ・トーンハレ管弦楽団
●スイス・ロマンド管弦楽団
●ロンドン・フィルハーモニー管弦楽団
●パリ音楽院管弦楽団

【クナッパーツブッシュ関連】
●クナとブルックナー
●ケルン音楽院、ブラームス直伝のシュタインバッハの秘伝
●クナは作曲家クルト・ワイルの生みの親?
●クナのリハーサル嫌いのきっかけは恩師ローゼのわがまま放題
●クナ出世のきっかけは、ブルーノ・ワルター音楽総監督の辞意表明
●クナ、トーマス・マン攻撃に利用される?
●「アラベラ」初演トラブル
●バイエルン国立歌劇場音楽総監督就任要請を拒否
●クナッパーツブッシュ家

【年表】
188818891890189118921893189418951896189718981899190019011902190319041905190619071908190919101911191219131914191519161917191819191920192119221923192419251926192719281929193019311932193319341935193619371938193919401941194219431944194519461947194819491950195119521953195419551956195719581959196019611962196319641965


 ブレーメン・フィルハーモニー管弦楽団

1951年と1952年客演時のライヴ録音。元気な頃なので、ベートーヴェン第2番(約36分)、第3番「英雄」(約55分)、ブラームス第4番(約40分)のすべてで、アゴーギク満載のクナ節が楽しめます。当時のオケの名前は実際にはブレーメン・フィルハーモニー州立管弦楽団ですが、慣習に従って、ブレーメン・フィルハーモニー管弦楽団としておきます。響きの良さで知られるグロッケ(約1400席・1928年)での演奏なので音質もたいへん良好です。

【歴史】
ハンブルク近郊に位置する北ドイツの中規模都市ブレーメンは、連合国軍の173回に及ぶ空爆で市内の建物の62%が破壊されています。戦後は、イギリス占領軍政府のゾーンにありながら、米軍の物資輸送の都合でアメリカ占領軍政府が飛び地として統治したという地域。
1820年創設という200年を超える長い歴史を持つこのオーケストラは、ブラームスとも関わりがあります。民営ながら市の助成金も得て長く活動していましたが、第1次大戦後のハイパーインフレには耐えられず、以後は市営のブレーメン市立管弦楽団となり、国家社会主義時代には、ブレーメン国立管弦楽団、第2次大戦後はブレーメン・フィルハーモニーと名を変えています。

【名称変遷等】
1820 Bremer Concert-Orchester
ブレーメン・コンサート管弦楽団。民営。

1920s Bremer Städtisches Orchester
ブレーメン市立管弦楽団。市営。

1933 Bremer Staatsorchester
ブレーメン国立管弦楽団。国営。

1945 Bremer Philharmonisches Staatsorchester
ブレーメン・フィルハーモニー州立管弦楽団。州営。

2002 BremerPhilharmoniker
ブレーメン・フィルハーモニー。市&州営。


 ケルン放送交響楽団

1953年のブラームス第4番(約41分)とジークフリート牧歌(約20分)、1962年のオイリアンテ序曲(約10分)、1963年のブルックナー第7番(約66分)を収録。
ブラームス第4番はブレーメン盤と5か月違いですが、当時のクナの心境の反映なのか、少し遅くなっており、抒情的な部分の魅力が際立っています。

【歴史】
1947年にイギリス占領軍政府により、北西ドイツ放送協会のケルン放送局のオーケストラとして設立。ケルン放送交響楽団の初期の楽員には、ポピュラー系オーケストラ「ケルン放送管弦楽団」の前身組織から来た人もいたので、そちらの系統を辿ると創設時期は1926年といえないこともないのですが、ジャンルが異なるので、ここでは1947年としておきます。
結成から9年後の1956年には、北西ドイツ放送協会が北ドイツ放送協会(NDR)と西ドイツ放送協会(WDR)に分割されたため、名称がWDR交響楽団(ケルンWDR交響楽団)に変更。
本拠地としたホールは、1951年以降が、放送局ビルに設営されたクラウス・フォン・ビスマルク・ザール(650席・1951年)で、1986年以降は、ケルンのフィルハーモニー(約2,000席・1986年)。

【名称変遷等】
1947 Kölner Rundfunk-Sinfonie-Orchester
ケルン放送交響楽団。北西ドイツ放送協会のケルン放送局に所属。

1956 WDR Sinfonieorchester
ケルンWDR交響楽団、WDR交響楽団、等の邦訳。北西ドイツ放送が分割されたため改名。


 北ドイツ放送交響楽団

1960年のベートーヴェン第8番(約28分)とコリオラン(約10分)、1962年のブルックナー第3番(約61分)に、1963年のワーグナー・コンサートを聴くことができます。最晩年クナッパーツブッシュの巨大な演奏。

【歴史】
1945年、イギリス占領軍政府の依頼で、ハンス・シュミット=イッセルシュテットがオーケストラ創設の任に就きます。シュミット=イッセルシュテットは、妻がユダヤ系だったため、国家社会主義政権の反ユダヤ政策によりダルムシュタットの劇場を解雇。その後しばらく仕事が見つからず、やっと雇えてもらったのがハインリヒ45世の巡業演劇の仕事で、そこでもハインリヒ45世がナチ党員になると解雇されるという状態だったため、しかたなく、1935年に離婚。

すぐにハンブルク国立歌劇場の第1楽長に就任することができ、翌年、妻と4歳の息子(のちの有名プロデューサー、エリック・スミス)らをイギリスに送っています。その後、S=イッセルシュテットは実績を積み、1943年にはベルリン・ドイツ歌劇場(のちのベルリン・ドイツ・オペラ)の音楽総監督に就任、翌年には政府の「天才リスト」に選ばれるという活躍ぶりでした。

戦後、イギリス占領軍政府の依頼を受けたシュミット=イッセルシュテットは、さっそく音楽家も数多く収容されているシュレスヴィヒ・ホルシュタインの俘虜収容所を訪れ、ハンブルクのオーディションについて告知。ほどなく解放された音楽家が集まって、1945年8月にはハンブルクのムジークハレで、メニューインのソロと共に最初の演奏会を実施。翌月には「NWDR(北西ドイツ放送)」が組織されたため、「NWDR交響楽団(北西ドイツ放送交響楽団)」として演奏を開始しています。以後の改名などは下記の通りです。本拠地はムジークハレ(約2,000席・1908年)。

【名称変遷等】
1945 NWDR-Sinfonieorchester
北西ドイツ放送交響楽団、NWDR交響楽団、等の邦訳。イギリス占領軍政府によって設立。北西ドイツ放送に所属。

1956 NDR Sinfonieorchester
北ドイツ放送交響楽団、ハンブルクNDR交響楽団、NDR交響楽団、等の邦訳。北西ドイツ放送が北ドイツ放送と西ドイツ放送に分割されたため改名。

2017 NDR Elbphilharmonie Orchester
DRエルプ・フィルハーモニー管弦楽団。新しく建設したエルベ川沿いの本拠地ホールの名前に合わせて改名。


 ヘッセン放送交響楽団

1962年のベートーヴェン第5番(約40分)とハイドン第88番(約22分)を収録。ベートーヴェン第5番は、その遅さゆえにオケの反応の変化もわかって面白く、曲が進むにつれ次第に演奏に熱が入り、細部も生き生きと躍動して、やがて滔々と流れる大河のような太い音の奔流を形成してお見事。一方、ハイドンでは自在をきわめたテンポ感覚と端正な表情付けが聴きものです。

【歴史】
このオーケストラは、1924年に放送用の楽団としてフランクフルトで活動を開始。といってもその放送局は公営ではなく、民間によりハイパーインフレをうまく利用して資本金100兆マルク(後に60,000レンテンマルクに交換)で設立された「南西ドイツ・ラジオ・クラブ」が運営していたものです。
その放送局の音楽番組で演奏していたのが、1922年にラインホルト・メルテンとヒンデミットによってフランクフルトで設立された「音楽共同体(Gemeinschaft für Musik)」に所属する音楽家たちで、室内オーケストラ規模のアンサンブルをメルテンが指揮していました。
その後、「南西ドイツ・ラジオ・クラブ」は規模を拡大して「南西ドイツ放送」と名を変え、1929年には、「音楽共同体」所属の音楽家たちなどにより、常設オーケストラ「フランクフルト放送交響楽団」を設立しています。
ちなみにここでの「南西ドイツ放送(SWD: Südwestdeutsche Rundfunk)」は、のちにハンス・ロスバウトと関わる「南西ドイツ放送(SWF: Südwestfunk)」とは無関係です。両者の名前は元のドイツ語では明確に異なりますが、日本語では後者を長年にわたって、「南西ドイツ放送」と意訳(?)してきたため紛らわしくなっています。逐語訳では後者は単に「南西無線」「南西放送」「南西ラジオ」といったものになり、それではわかりにくいことも確かなのですが。
ということで、ややこしいですが、黎明期のフランクフルト放送交響楽団は、当時の放送組織である「南西ドイツ放送」の番組で演奏するためのオーケストラだったということになります。
なお、この楽団は戦争の影響もあって何度も名前が変更されているので、以下にまとめておきます。

【名称変遷等】
1929 Frankfurter Rundfunk-Symphonie-Orchester
フランクフルト放送交響楽団。民間放送局「南西ドイツ放送」の楽団として発足。

1934 Orchester des Reichssenders Frankfurt
フランクフルト帝国放送管弦楽団。民間放送局の国有化に伴う変更。

1945 Oberhessische Symphonie-Orchester
オーバーヘッセン交響楽団。終戦による一時的な変更。

1945 Symphonieorchesters von Radio Frankfurt
フランクフルト放送交響楽団。アメリカ占領軍政府による放送開始に伴う変更。

1950 Sinfonie-Orchester des Hessischen Rundfunks
ヘッセン放送交響楽団。アメリカ占領軍政府による統治終了に伴う変更。

1971 Radio Sinfonieorchester Frankfurt
フランクフルト放送交響楽団。演奏会やツアーの増加に伴う変更。

2005 hr-Sinfonieorchester
hr交響楽団。放送組織改組による変更。

2015 Frankfurt Radio Symphony
フランクフルト放送交響楽団。海外向け名称の追加。


 南ドイツ放送交響楽団

1963年のブラームス第3番(約42分)と、ハイドン変奏曲(約23分)を収録。後年のチェリビダッケも真っ青の遅いテンポですが、勘所の解釈は若い頃から一貫したものでもあり、解釈の仕組みをじっくり味わうことのできる面白さもあります。ちなみにクナは戦前、前身のシュトゥットガルト・フィル時代に何度か客演しているようです。

【歴史】
南ドイツ放送交響楽団(シュトゥットガルト放送交響楽団)の前身は、1924年5月に開業した民間放送局「南ドイツ放送株式会社」で主に演奏するために1924年9月に創設された「シュトゥットガルト・フィルハーモニー管弦楽団(Philharmonisches Orchester Stuttgart)」でした。このオーケストラは、1933年の国家社会主義政権成立と共におこなわれた全国放送局の国有化と再編により、「シュトゥットガルト帝国放送管弦楽団」と「ヴュルテンベルク=ホーエンツォレルン大管区管弦楽団」の2つに分割。
戦後、前者が「シュトゥットガルト放送交響楽団」となり、後者が「シュトゥットガルト・フィルハーモニー(Stuttgarter Philharmoniker)」となっています。
なお、この楽団は戦争の影響もあって何度も名前(と組織)が変更されているので、以下にまとめておきます。

【名称変遷等】
1924 Philharmonisches Orchester Stuttgart
シュトゥットガルト・フィルハーモニー管弦楽団。民間放送局で演奏するために創設。

1933 Orchester des Reichssenders Stuttgart
シュトゥットガルト帝国放送管弦楽団。全国放送局の再編により2分割。

1946 Sinfonieorchester von Radio Stuttgart
シュトゥットガルト放送交響楽団。アメリカ占領軍政府の設立したシュトゥットガルト放送で活動開始。

1949 Sinfonieorchester des Süddeutschen Rundfunks
南ドイツ放送交響楽団。放送局の名称変更と共にオケ名も変更。

1959 Südfunk-Sinfonieorchester
南ドイツ放送交響楽団。放送局名の短縮によって正式名称は大幅に短縮。逐語訳では南部放送交響楽団となりますが、わかりにくいので邦訳は変更無しが多いようです。

1975 Radio-Sinfonieorchester Stuttgart
シュトゥットガルト放送交響楽団。地名に変更。

1998 Radio-Sinfonieorchester Stuttgart des SWR
シュトゥットガルトSWR放送交響楽団。放送局名追加。

2016 SWR Symphonieorchester
SWR交響楽団。バーデン=バーデン・フライブルクSWR交響楽団を吸収合併再編。


 チューリッヒ・トーンハレ管弦楽団

クナは1947年6月、ローゼンガルテンの地元チューリヒの歌劇場に客演して「トリスタンとイゾルデ」公演を指揮した際に、チューリヒの放送スタジオでワーグナーの「ローエングリン」第1幕前奏曲とアリアなどSP盤5面分を録音。オケは歌劇場で指揮したチューリヒ・トーンハレ管弦楽団でした。

【歴史】
チューリヒ・トーンハレ管弦楽団は、1868年にチューリヒで設立された「トーンハレ協会」によって編成されたオーケストラ。当初はメンバーの大半がチューリヒ歌劇場(1834年創設)の楽員で、そのため歌劇場での仕事も兼ねることとなり、楽員数を増やしてからも半数は歌劇場兼務という状況が継続。
1985年に両者のオーケストラが分離されるまで、実に116年間に渡ってその体制が維持されていました。

そうした兼任体制は、楽員の行き来が演奏会と歌劇場のあいだで頻繁に発生することから、場合によっては、この楽員がいない、あの楽員がいない、といった指揮者の不満にも繋がりかねません。1961年から1962年にかけて、大がかりな新聞報道までされた「クレンペラー/フィデリオ事件」はその代表例で、あるリハーサルで、重要なホルンの首席奏者ほか、有力な楽員がいないことに気づいたクレンペラーが、毒づきまくり、怒った楽員たちが演奏を拒否、最終的に支配人ヘルベルト・グラーフの辞任や、クレンペラーに同調したクーベリックがガラ・コンサートとそれ以降の公演もすべてキャンセルする事態にまで発展しています。ちなみに楽員の演奏拒否により支払われなかったクレンペラーへの出演料は、1965年にケンペがトーンハレ管弦楽団の音楽監督になった時に仲裁して解決していました。

 スイス・ロマンド管弦楽団

チューリヒ・トーンハレ管弦楽団とデッカに録音した約2週間後には、ジュネーヴの放送スタジオで、スイス・ロマンド管弦楽団を指揮してブラームス第2番(SP盤5枚組)と、「マイスタージンガー」前奏曲(SP盤1枚)のセッションを開始。

【歴史】
スイス・ロマンド管弦楽団は、1918年にアンセルメとパトロンらによって48名の楽員で創設。バロックから近現代まで幅広い作品の演奏で話題を提供します。
しかし1929年の世界大恐慌の影響で財政が悪化、1932年にジュネーヴ放送と契約して資金提供を受けることになったほか、1934年にはジュネーヴ大劇場で、オペラとバレエが上演される際に演奏することで契約。ジュネーヴ放送からの資金提供は1935年に中止されてしまい、一時運営困難な状況に陥りますが、1938年にローザンヌ放送のオーケストラと合併することで、楽員数も増え、演奏の放送も開始。さらにアンセルメは夏場の収入源を確保するために、ルツェルン市長と交渉して「ルツェルン音楽祭」開催に向けて努力するなど、楽団発展の為に力を尽くしますが、最大の功績は、デッカと契約したことでした。1947年に始まるその膨大な活動は、300以上の録音という形で実を結んでおり、スイス・ロマンド管弦楽団の名を世界に広めることに貢献しました。

 ロンドン・フィルハーモニー管弦楽団

スイス録音の5か月後の1947年12月、クナはデッカ本社のあるロンドンに渡り、クラウスの「死と変容」録音の11日後にあたる大晦日から1月3日にかけてロンドン・フィルとキングズウェイ・ホールでワーグナー管弦楽曲集(SP盤14面)を録音。少し後にはフルトヴェングラー、エーリヒ・クライバーらもロンドン・フィルとデッカに録音をおこなうなど、戦時中の苦難に打ち勝ったロンドン・フィルには活気がありました。

【歴史】
1931年9月、世界大恐慌の影響で発生したポンド危機により、イギリスは金本位制から離脱。ポンドも切り下げ、管理通貨制度に移行。
1932年2月、世界恐慌対策の一環として、イギリスは自由貿易を否定し、保護関税法を制定。国内産業の保護と輸出増加を狙い、すべての輸入に関して10%の関税を適用。さらに政策金利も2%に引き下げて資金調達条件を緩和し、国内経済の刺激に注力。オーケストラやオペラにとってもチャンスの到来となります。

1932年10月、指揮者のビーチャムは、大資産家のサミュエル・コートールド[1876-1947]から資金提供を受け、さらにコートールドが後援する指揮者サージェント[1895-1967]の協力を得て、ロンドン・フィルを創設。楽員は、メンゲルベルク退任で揺れていたロンドン響から優秀な奏者17人を引き抜いたほか、前年に解散していたロイヤル・フィルハーモニック協会管弦楽団の楽員を中心に、固定給契約という支払い条件で、計106人の楽員を短期間で集めることに成功。これは世界恐慌のもたらした景気低迷により、場合によっては「リハーサル無し」など、契約期間が短縮し報酬低下傾向にあった当時のイギリスのオーケストラ奏者の流動的な個別契約環境が背景にあったからと考えられます。
ビーチャムはさらに、オケの演奏機会を増やして収益力を向上させるため、オペラの仕事もロンドン・フィルに任せるよう、コヴェントガーデン・オペラの首脳陣に交渉。それまでコヴェントガーデン・オペラで演奏していた音楽家たちとの契約を打ち切らせ、ロンドン・フィルと契約させています。実際にはおそらく5月の『マイスタージンガー』から新規契約楽員がビーチャムの公演時に演奏し、バルビローリの公演時にはそれまでに契約のあった楽員たちがリハーサル無しという低ギャラ条件で演奏させられていたものと考えられます。ビーチャムの策士ぶり、バルビローリのお人好しぶりがうかがわれる話ではあります。
ちなみにビーチャムは、第2次大戦が始まってしばらくすると、オーケストラの運営から手を引いて海外に逃れ、ドイツの敗戦が決定的になる1944年までアメリカやオーストラリアで過ごしています。
1939年に自主運営組織となったロンドン・フィルは、しばらく首席指揮者を置かず、多くの客演指揮者を迎えて運営。公演場所も地方にまで拡大し、軌道に乗った矢先の1941年5月、本拠地クィーンズ・ホールが爆撃されて大多数の楽器が焼失。活動できなくなってしまいます。しかし、BBCが全国リスナーにアピールしてくれたおかげで、多くの市民から寄付や楽器が届き、ほどなく演奏を再開。
その後、1948年になってロンドン・フィルは、9年ぶりに首席指揮者を迎えることになります。相手は1946年の客演で相性が良かったベイヌムで、何度も交渉してようやく実現に漕ぎつけたというものですが、2年後にはベイヌムが心臓病の悪化により辞任、ボールトが引き継いでいます。


 パリ音楽院管弦楽団

ロンドン録音から8年を経た1956年には、クナはパリ音楽院管弦楽団と、「ドン・ファン」「死と変容」を録音しています。クナは終戦から7年目の1952年にパリ音楽院管弦楽団を初めて指揮しており、以後、1957年まで毎年指揮。1955年にはパリ・オペラ座にも登場し、1960年まで毎年指揮。
デッカへの録音が、カルチエ・ラタンのメゾン・ド・ラ・ミュチュアリテでおこなわれたのは1956年5月7日と8日で、11日にはパリ・オペラ座で「トリスタンとイゾルデ」を指揮するというスケジュールでした。
ちなみにクナは、第2次大戦中にベルリン・フィルとのツアーで何度もパリを訪問していたほか、1958年にはウィーン・フィルともパリを訪れるなど、パリで人気があったことは確かなようで、1959年にはレジオン・ドヌール勲章を授与、その際の感謝の言葉はフランス語でした。

【歴史】
パリ音楽院管弦楽団は、通常のフルタイム・オーケストラではなく、楽員は基本的に兼業で、1960年代には首席指揮者制度も廃止。公演数も年間30〜40回前後だったものがさらに20回ほどまで減少。

当時のフランスのオーケストラやオペラの運営状況は、リハーサルと本番で人が違うことが日常化しているところが多いなど、その様子はフランス国内でも「病気」にたとえられていたほど。モントゥーやクレンペラーもそのことを嘆いていましたが、リハーサル嫌いのクナはあまり気にしていなかった可能性があります。

文化行政も重視したシャルル・ドゴール[1890-1970]政権下の1960年代、文化大臣アンドレ・マルロー[1901-1976]により文化省の音楽・オペラ部門の監督に任命された作曲家マルセル・ランドスキ[1915-1999]は、全国規模で改革をおこなうことを決定。最初に手を付けたのが、改革の中核ともなる「フルタイム楽員による常設国営オーケストラ」を、パリで創設するというものでした。

パリ音楽院管弦楽団の改組などの計画は、実際には1963年頃から検討されていましたが話がなかなか進まず、1966年春頃にシャルル・ミュンシュ[1891-1968]とランドスキ、マルローが会談し、ミュンシュが新設オーケストラの指揮を引き受けない場合はカラヤンに話を持って行くと詰め寄ることで具体化。ほどなくオーディションによりパリ管弦楽団メンバーを決定しますが、フルタイムが基準ということで、副業参加希望者は除外となり、そのためパリ音楽院管弦楽団の楽員は3分の1ほどしか採用されませんでした。

すでに70代なかばという年齢ながら、仕事中毒のミュンシュは、フランス国立放送管弦楽団の音楽監督だけでなく、世界各地への膨大な客演もこなして年間公演回数は200を超えていたので、周囲の人間からもパリ管弦楽団の音楽監督兼務は危険と忠告されていました。しかし、ミュンシュは「できることをやるつもり」と言って仕事に打ち込み、翌年、パリ管弦楽団とのアメリカ・ツアー中に心臓発作で死去。そして政府は本当にカラヤンに話を持って行き、カラヤンは1971年まで音楽顧問という形で引き受けています。


 クナとブルックナー

大きかったレーヴェの存在
クナはブルックナーの楽譜について、ブルックナー本人の意思で出版され、作曲者と遺族が多少なりとも著作権報酬を得ることができた「初版」にこだわり続けました。理由のひとつとして、色々と危なっかしいブルックナーの人生をもっとも献身的に支えたフェルディナント・レーヴェの存在が大きかったことが考えられます。
 レーヴェは20世紀初頭のウィーン交響楽団とミュンヘン・フィルにブルックナー・カルトの伝統を築き上げた人物であるだけでなく、オーケストラ運営にも秀でており、ウィーン交響楽団では多彩なレパートリーを駆使した「労働者コンサート」も開催して人気を集めていました。


 それが客演指揮者たちのソ連への招待に繋がったりもしていたので、若きクナも、クレメンス・クラウスらと同じようにレーヴェと交流してブルックナーやマーラーにも取り組み、やがてレニングラード・フィルに客演という道もたどっています。本拠地ドイツがハイパーインフレでかき回される中、ウィーンでの経験の蓄積には大きなものがあったとも考えられます。
 ウィーンで嘲笑されていたブルックナーの音楽を、あの手この手で世に広めることに成功したレーヴェら弟子たちの功績は非常に大きかったことは確かです。クレンペラーのように、第5番の初版で1933年にウィーン・フィルで大成功を収めたのち、国際ブルックナー協会から原典版の使用を持ちかけられ、少し不安を感じながらも1936年に再びウィーン・フィルでとりあげたときには聴衆にも批評家にも受けが悪かったというようなケースもあったほどなので、現実的な問題として初版には、すでに「実績」のある楽譜という側面もありました(もっとも、クレンペラーの場合はその後はずっと原典版を使用していましたが)。


ブルックナー協会のナチ化、新会長はフルトヴェングラー
 また、ブルックナーの死から31年目の1927年、作品の著作権切れとともに設立された国際ブルックナー協会は、オーストリア国立図書館の音楽部門の管理者ロベルト・ハース[1886-1960](1933年から党員)、ウィーン市立図書館の収蔵品管理者アルフレート・オーレル[1889-1967](1938年に申請して1940年から党員)が編集主幹で、戦後の活躍で知られるレオポルト・ノーヴァク[1904-1991]も、ウィーン大学に身を置きながら、1937年からハースの補佐をしていたという事実がありました。
 さらに、国際ブルックナー協会初代(1927-1938),及び第3代(1946-1954)会長のマックス・アウアー[1880-1962]が、伝記でブルックナーを神格化したり、ヒトラーによるレーゲンスブルクの「ヴァルハラ神殿」へのブルックナーの胸像設置を称えたりしていたこともクナは気に入らなかった可能性があります。
 そして、1939年からナチスが国際ブルックナー協会を全面的にサポートすることが決まると、名前を「ドイツ・ブルックナー協会」に変更、ゲッベルスはアウアーを会長から外し、フルトヴェングラーを新会長としています。もっとも、フルトヴェングラーは、就任に際して、レーヴェら弟子たちの功績も称えており、また、自身も戦時中はあまり原典版を使用しないなど、不本意な会長就任であることを仄めかしていた面もあります。
ちなみに第9番はナチと無関係な時期の原典版で、第1・4・5・6番も、ハースが党員ではあったものの全面支援体制にはなっておらず、ナチ化されてからの原典版は第7番と第8番のみということになります。

アカデミー学長兼ミュンヘン・フィル音楽監督ハウゼッガーの存在
 ちなみに、ミュンヘン・フィル音楽監督のハウゼッガーは、ヒトラー礼賛ということもあって当初からブルックナー協会と関係が深く、原典版紹介にも熱心で、1932年4月にはブルックナー第9番の初版(レーヴェ版)を前半に、原典版(オーレル版)を後半に置く形で初演するという、レーヴェ叩きのようなことも実施済みでした(レーヴェは7年前に死去)。
 そのハウゼッガーが、ミュンヘン・アカデミー学長という立場を利用すれば、部下のクナに原典版を使うよう勧めることもできたはずで、実際、クナは1932年12月にミュンヘン・フィルに客演した際には、ハウゼッガーが作曲した「鍛冶屋ヴィーラント」と「自然交響曲」なる作品を指揮させられていますし、翌1933年4月にはトーマス・マン攻撃に担ぎ出されてもいます。また、その半年後の10月には、ブルックナー協会主催のフェスティヴァルにも出演させられ、序曲ト短調と交響曲第4番のスケルツォ楽章という協会版を指揮してもいました。その際、交響曲第4番全曲については、協会版がまだということもあり、いつもの初版を用いて演奏していましたが、以後、クナはブルックナー協会とは距離を置き、亡くなるまで初版を用いています。 


 ケルン音楽院、ブラームス直伝のシュタインバッハの秘伝

院長のシュタインバッハは守備範囲の広い音楽家
クナが入学したケルン音楽院院長のフリッツ・シュタインバッハ[1855-1916]は、市の運営する歌劇場のオーケストラであるギュルツェニヒ管弦楽団の首席指揮者を兼務しており、音楽院では指揮と作曲を指導。
 シュタインバッハはケルンの前に、マイニンゲンで働いており、そこでブラームス[1833-1897]、ハンス・フォン・ビューロー[1830-1894]、リヒャルト・シュトラウス[1864-1949]らと交流。

ブラームスの推薦でマイニンゲン管弦楽団首席指揮者に就任
若いシュトラウスがミュンヘン宮廷歌劇場(バイエルン国立歌劇場)の第3指揮者に決まってマイニンゲン宮廷楽団を退任すると、後任として、ブラームスがシュタインバッハを首席指揮者に推薦、以後、17年間に渡ってシュタインバッハは、ザクセン=マイニンゲン公ゲオルク2世のもと、マイニンゲンの音楽生活を盛り立てることになります。
 シュタインバッハはマイニンゲンの前には、マインツ市立劇場の第2指揮者としてオペラに取り組む一方、フランクフルトのホッホ音楽院では作曲を教えるなど、その守備範囲は幅広く、マイニンゲンでも宮廷楽団の指揮者だけでなく、エレン公爵夫人(元女優でピアニスト)の支援で合唱団を設立して、マタイ受難曲なども上演。

恩人ブラームスの指揮の記録をとり続けたシュタインバッハ
ブラームスはマイニンゲン宮廷楽団を気に入っており、通算15年間に渡って客演していましたが、その際、シュタインバッハは、楽譜に記載の無い指示がブラームスから発せられた場合は記録をとっており、それが、ブラームス自身の考えを示すものとして遺され、やがて出版されることとなります。
 後年、クナが、ブラームス作品の演奏の際にシュタインバッハの真似をしていると冗談めかして語ったのは、その資料や、シュタインバッハの実演のことを指していたのではないかと考えられます。つまり、出版譜に書いていない変則技であっても、ブラームスが自分でおこなった指示がベースになっていると言いたかったのではないかと。

ブラームスの街マイニンゲンを目指して奮闘
 シュタインバッハはまた、バイロイトが「ワーグナーの街」として有名になったことに倣い、マイニンゲンを「ブラームスの街」にしようと計画、ブラームスの名を冠したホールと音楽院を一緒にした施設を、マイニンゲン中心部のエングリッシャーガルテンに建設すべく、マイニンゲンの名を広めるための宣伝活動に奔走、音楽祭を3回開催したほか、マイニンゲン宮廷楽団を率いて、スイス、オランダ、デンマーク、イギリス、ボヘミア、ロシアの85都市で297回に及ぶコンサートを開催するという大規模なツアーなども実施。
 マイニンゲンにはすでに劇場が複数あり、またゲオルク2世の関心の対象は主に演劇だったことなどから計画は残念ながら頓挫してしまいますが、有名な彫刻家アドルフ・フォン・ヒルデブラント[1847-1921]による「ブラームス記念碑」だけは1899年に完成、マイニンゲン楽友協会の名で寄贈されています。

ケルン市の要請でギュルツェニヒ管の首席指揮者とケルン音楽院院長に就任
その4年後の1903年、ギュルツェニヒ管弦楽団首席指揮者とケルン音楽院院長を兼務していたフランツ・ヴュルナー[1832-1902]が死去したため、同楽団に客演もしていたシュタインバッハが後継者としてケルン市から招かれることになります。
 ちなみにヴュルナーは、1884年にブラームスの推薦によって、ギュルツェニヒ管弦楽団の首席指揮者とケルン音楽院院長に就任し、1888年には、ギュルツェニヒ管弦楽団の運営母体をケルン市とすることに尽力した人物で、ブラームスの仲間でもありました。

ブラームスの街ケルンを目指して奮闘
 シュタインバッハはここでもブラームス作品を数多く取り上げ、今度は、「ブラームスの街」ケルンを目指して努力するなど、筋金入りの「ブラームス派」としての存在感が次第に増大。フルトヴェングラーもシュタインバッハの指揮について、「ブラームス・カルトの完成形」と絶賛。
 シュタインバッハはまた、イギリスやアメリカを含む海外のオーケストラにも客演などしていたことから、トスカニーニやエードリアン・ボールトといったドイツ以外の指揮者からも、そのブラームスの指揮ぶりが称えられていました。
 シュタインバッハの教えた学生には、クナッパーツブッシュ、フリッツ・ブッシュのほか、バイロイトの常連でナチ党員のカール・エルメンドルフ[1891-1962]、強制収容所で亡くなったユダヤ系作曲家のエルヴィン・シュルホフ[1894-1942]などがいました。クナとブッシュには、あまり良い思い出が無かったようですが、シュタインバッハの職責を考えると非常に多忙だった可能性があり、さらに敵視していたワーグナーを信奉する面倒な(?)学生には、なるべく関わりたくなかったのかもしれません。


ケルン歌劇場音楽監督オットー・ローゼ
そのシュタインバッハと共にケルン音楽院で指揮と作曲の指導をおこなっていたオットー・ローゼ[1859-1925]は、ケルン歌劇場の音楽監督を1904年から1911年にかけて務めており、歌劇場オーケストラのコンサート時の団体であるケルン・ギュルツェニヒ管弦楽団の指揮もしていました。
 ローゼはのちにライプツィヒ市立歌劇場の音楽監督に就任しますが、その際に、元教え子であるクナを第1指揮者として招き、リハーサルをあまりさせなかったことで、結果的にクナの個性を強化しています。


ピアノ教授はクララ・シューマンの弟子
クナはこの両者から指揮と作曲の教えを受けたほか、ピアノをラザロ・ウツィエッリ[1861-1943]に師事。ウツィエッリは生地フィレンツェで学んだのち、ベルリンでエルンスト・ルドルフに、フランクフルトのホッホ音楽院でクララ・シューマンとヨアヒム・ラフに師事。ルドルフはネイガウスの父グスタフの師でもありました。また、ネイガウスとクナは同じ1888年3月に生まれています。


 ケルンはエルバーフェルトの南西約20キロに位置。ちなみに若きクナが抱いているダックスフントの名前は「ムッキー」。そのままの意味だと「筋肉」ですが、もしかして大先輩で親交のあったパルジファル指揮者カール・ムックに掛けているのでしょうか。 


 クナは作曲家クルト・ワイルの生みの親?

鶏口牛後、張り切るクナがまたもやリハーサル受難
1919年10月、ライプツィヒ歌劇場音楽総監督ローゼによるリハーサル無しという仕打ちに耐えかねて、デッサウ・フリードリヒ劇場に移ったクナは、ここで心機一転、きちんとしたリハーサルをおこなって公演を仕上げることを目指します。しかし、頼みの綱でもあるコレペティートアが、ベルリン音楽院から故郷デッサウに戻ってきたばかりのクルト・ワイル19歳ということで、頼りないこと夥しく、実際に重大なミスもやらかして、クナを怒らせてしまいます。

クナ爆発、ワイル退職
怒った時の口汚い下品さと抑制の無さには定評のあるクナですが、すでに31歳かそこらでその境地に達していたのか、クルト・ワイル少年は耐えきれずに11月末に退職。

適材適所でワイルの能力がフルに発揮
12月、無職となったワイルがベルリンのエージェントに連絡をとったところ、リューデンシャイトの小劇場がカペルマイスターを探していることを知ってすぐに契約。ただちにリューデンシャイトで働き始めることとなり、到着後間もなく「マルタ」を上演。
客席数500の小劇場ということで、オーケストラの楽員も25人しかおらず、19歳のワイルはスコアの情報をなるべく漏らさぬように小編成に書き換える作業もおこなうなど大活躍。その頭の回転の速さのおかげで、レパートリーはオペレッタからワーグナーまで拡大。しばらくは市長の家の家具付きの部屋が与えられるなど厚遇され、報酬も月額400マルクに上昇。
 しかし公演の成功と共にスケジュールも過密になり、週に数回の指揮が常態化、ひどいときは、日曜の昼に「こうもり」、夜に「カヴァレリア・ルスティカーナ」、月曜の昼に「ジプシー男爵」、夜に新作オペレッタの初演といった具合で、これでスコアの部分編曲、歌手のコーチ、リハーサル、指揮をこなすことは、ワイルの劇場的な能力を急激に高めはしたものの、ストレスも最大化されて身が持たず、半年後の1920年5月、スッペの「10人の乙女と男不在」(下の画像。前列中央左がワイル)を最後に辞任することになります。

作曲家クルト・ワイル誕生
小劇場の魅力を熟知したワイルは、その後、ベルリンでブゾーニのもとで改めて勉強。人脈も広がってロッテ・レーニャと結婚し、放送の仕事などを経て、やがてブレヒトと出会い、1928年に「三文オペラ」が誕生。ワイマール共和政下のベルリンでは、左派勢力の勢いが継続中で、「三文オペラ」も2年間で400回上演されるほどの大ヒットとなり、国家社会主義政権誕生までの5年間で、ヨーロッパ全土で1万回(!)を超える上演数を記録しています。
 ということで、一世を風靡した作曲家、クルト・ワイル誕生のきっかけをつくったのが、もしかしたらクナの罵詈雑言だったのかもしれません。
 後年、ワイルは、「リューデンシャイトで私は、劇場こそが自分の領域であることにようやく気がつきました。」と語っていますし、デッサウ時代のワイルは伝統的な傾向の作品しか書いていませんでした。 


  クナのリハーサル嫌いのきっかけは恩師ローゼのわがまま放題

恩師オットー・ローゼの豹変
大のリハーサル嫌いとして知られたクナも、若い頃は当たり前ですがきちんとリハーサルをおこなう指揮者でした。しかし、恩師オットー・ローゼの推薦のおかげで契約することができた大劇場であるライプツィヒ歌劇場時代に、その恩師ローゼが、音楽総監督の権限をフル活用してまさかの自己中心型運営に陥ってしまいます。

リハーサル無しを強制されたクナ
その結果、クナが担当する演目では、リハーサル無し、もしくはごく短時間のリハーサルという状況が続き、何度ローゼに交渉してもダメということで、仕方なく、若きクナは、誰にでも見やすくわかりやすく、時には心理的な効果も狙った指揮をするようになったと考えられます。
 クナの指揮は、デビューしたての頃には動作が大き過ぎて派手で見苦しいなどと言われていたものですが、この「ローゼ事件」がきっかけで、晩年にも通じるような合理的でしかも誰にでもわかるアイデアも盛り込んだ見事な指揮方法へと変化を遂げていったのだとすると、わがままローゼにも感謝しなければいけないのかもしれません。

経済混乱下ではリハーサル無しは楽員も大喜び
その後、13年間続いたバイエルン国立歌劇場時代には、ハイパーインフレや世界大恐慌の荒波も経験、生活のため副業せざるを得ない楽員や歌手の数がどんどん増えてくると、リハーサルは最低限にした方が喜ばれましたし、実際のところ、レパートリー・システムの歌劇場では複数演目が繰り返し上演されており、指揮者も楽員も「知っている演目」がほとんどという状態で、しかもまだ演奏の精密さなどはあまり求められておらず、加えてクナの腕前も上がって、本当に短時間のリハーサルや、ゼロ・リハーサルで実際の上演ができるようになっていました。

舌禍解任からは客演のみ→優秀な指揮技術が大きく貢献
そのバイエルン国立歌劇場を舌禍で解任されてからの戦前・戦時の9年間は、客演生活で相手はベルリン・フィルにウィーン・フィル、ウィーン響、ウィーン国立歌劇場など、常に多くの指揮者の多彩な影響にも晒されている多忙な楽員や歌手たちということで、そうした点ではニュートラルな音楽家たちともいえるため、本番指揮のみ、もしくは勘所だけの短時間のリハーサルくらいで勝負するクナの作戦でも十分にやっていけることは明らかでした。
 また、ベルリン・フィルもウィーン・フィルも、ツアーを頻繁におこなっていましたが、限られた演目を日々繰り返すツアーは、本番が実質的に次回のリハーサルになっているようなものですし、時にはゲネプロを公開して料金も取って疑似本番扱いすることもあったりで、作品の演奏頻度に比例して演奏水準も向上するという経験則も見事にクリアされていました。

経済的にもメリットの大きかったオーケストラ・ツアー
さらに外貨で出演料が支払われたり、交換レート次第ではマルクを現地で両替して、資産になるものを購入し、インフレの過度の進行や通貨切り下げに備えるということも可能になるので、音楽家にとっては当時のツアーはとても魅力的だったようです。
 そうした環境を利用して、現金を宝飾品に替えていたのがクレメンス・クラウスですが、金額が大き過ぎて問題になり、ツアーから外されてしまったため、後任となったのがクナでした。
 ちなみにクラウスの宝飾品収集については、もっぱら根拠のない「悪口」として語られることが多いようですが、実際には、イギリスのアイダ&ルイース姉妹に依頼して始まったユダヤ人救出作戦に、イギリス政府側の条件で宝飾品が不可欠だったことでおこなわれていたものと考えられます。
 こうしてクラウスからツアーを引き継いだクナにとっては、ツアーはリハーサルがいらないというだけでなく、ナチ党員とその関係者だらけの大都市を離れて、地方都市や外国で快適に過ごすことのできる仕事だったということで、本来の目的のプロパガンダなどということはまったく気にせず行動していたと思われます。

ウィーン国立歌劇場はもともと精密なリハーサルが困難
オーケストラ・ツアーとは別な意味でリハーサルに関して特殊な環境だったのが、バイエルン国立歌劇場と同じく、多数の演目を分散上演する「レパートリー・システム」を採用していたウィーン国立歌劇場でした。
 しかも、ウィーンの場合はさらに規模が大きく、オーケストラの楽員が頻繁に入れ替わる都合上、リハーサルと本番で楽員が違うパートがいくつもでる可能性があるため、もともと精密なリハーサルは難しいともいえますが、そうは言っても同じ演目の繰り返し上演が非常に多いので、考えようによってはツアーと同じく、演奏頻度が確保されているので、助手がどこまでやってくれるかという問題もあるとはいえ、演奏水準が維持しやすいとも言えそうです。
 ちなみにエーリヒ・クライバーは、戦後、ウィーン国立歌劇場に客演した際、自分が指揮する公演では、複数回のリハーサルも本番もすべて同じ楽員にするよう要求し、以後、2度と呼ばれなくなり、それが次期ウィーン国立歌劇場音楽総監督の選考対象から外れる要因になったという事件もありました。
 もっとも、次期音楽総監督は、任命権者である教育文化大臣エルンスト・コルプがクレメンス・クラウスを任命していたにも関わらず、大富豪マウトナー=マルクホーフが金の力で首相を動かしてベームに変更させていたので、クライバーにも最初から可能性は無かったわけですが。

バイロイトでは最低限のリハーサルを実施
「演奏頻度」の確保しやすいオーケストラ・ツアーや、ウィーン国立歌劇場と事情が少し異なるのが、戦後になってからクナが出演するようになったバイロイト音楽祭でした。
 バイロイトのオーケストラと合唱団は臨時編成で、歌手陣も夏だけの集合体ということなので、さすがのクナも最低限のリハーサルはおこなっています。クナは95回ほどバイロイトで指揮しており、多くのライヴ録音が遺されてもいますが、どの録音も水準が高いのはそうした事情によるものと思われます。 


 クナ出世のきっかけは、ブルーノ・ワルター音楽総監督の辞意表明

唐突な辞意表明
1922年3月、ブルーノ・ワルターは、バイエルン国立歌劇場(州立歌劇場)音楽総監督を、同年10月に辞任する意向を表明。辞任の理由は正式には明らかにされていませんが、後年、本人によって「ひとつには自分の責務を完遂したと感じたからであり、また個人的な考えもあってのことだった。」と説明されています。実際、すでにやり尽くしたと考えていたのか、ワルターの外部への客演は増える一方で、ミュンヘン不在が多くなり、第1指揮者ロベルト・ヘーガー[1886-1978]、第4指揮者カール・ベーム[1894-1981]らの指揮機会が増え、聴衆の不満も溜まっていました。
 しかしこの辞意表明がきっかけとなって、周辺が慌ただしく動き始め、やがて人口約5万人の小都市デッサウの音楽総監督に過ぎなかったクナが、人口約67万人のミュンヘンの音楽総監督に就任するという、当初は1年契約とはいえ、通常ではちょっと考えられないほどの大出世が実現することになるのです。
 ということで、この辞意表明こそが、クナの人生に重大な転機をもたらしたと考えて良さそうです。

 ワルター辞任の理由として伝えられている5つの説は以下のようなものです。

反ユダヤ主義に耐えられなくなった説
第1次大戦後、ユダヤ人共産主義者らを中心に1919年4月に成立した「バイエルン・レーテ共和国」は、1か月ほどで政府軍6万人がミュンヘンに攻め入ったことで消滅。以後、ミュンヘンでは、それまで控えめだった「トゥーレ協会」や「ドイツ労働者党」の反ユダヤ主義的言論が強まるなどして右傾化が進み、1920年2月にはナチ党も成立。
 しかし、ナチ党機関紙で反ユダヤ主義運動の急先鋒「フェルキッシャー・ベオバハター」(元は肉屋ギルド業界紙)も、まだ週1回の発行で部数も8,000部に過ぎませんでしたし、オモテだったトラブルがあったわけではないので、これについては、ワルター自身は明確に否定しています。
 とはいえ、次第に高まる右傾化の波は、2人の娘がいる家族持ちのワルターにとっては、不快であった可能性は非常に高いと思います。

ニキシュの後任役職を狙って辞めた説
1月23日に亡くなったアルトゥール・ニキシュの後任として、ベルリン・フィルとゲヴァントハウス管弦楽団の首席指揮者のポジションを狙ったとも言われています。しかし、当時は第1次大戦後の不況の時代でもあったので、就任条件としては、漠然とした「人気」ではなく、チケット売上がどのくらい見込めるかとか、行政から補助金をとれるのかどうかといった条件が重要になったとも考えられます。
 そうなると、かつてプロイセンに敵対していたバイエルンとオーストリアで重責を担っていたワルターには勝ち目が薄く、結局、どちらのポジションもフルトヴェングラーが手にすることとなります。
 その後、フルトヴェングラーが多忙で手が回らなくなり、1928年にゲヴァントハウス管弦楽団を辞すると、ワルターは1925年に就任していたベルリン市立歌劇場(現ベルリン・ドイツ・オペラ)の音楽総監督をわざわざ辞して、ゲヴァントハウス管弦楽団のカペルマイスターに就任しています。ゲヴァントハウス管弦楽団の母体であるライプツィヒ歌劇場の当時の音楽総監督が、ユダヤ系のグスタフ・ブレッヒャーというのも呼び水になったのかもしれません。
 このことから考えると、ニキシュの後任狙いというのが、ワルター辞任の要因のひとつであった可能性は十分にあると思われます。ワルター自身、「ニキシュの後継となることは私にとって決定的に重要なことです。」と述べていたこともありましたし。

カール・ムック陰謀説
カール・ムックは、第1次大戦中、アメリカで、ミッチェル・パーマー司法長官(民主党)の命令により、多くのドイツ人と同じくスパイ容疑で逮捕されて財産を盗まれ、ほぼ1年半も収容所で過ごしたという悲惨なエピソードで有名。現在に置き換えると約150万ドルもの資産を盗まれてしまったカール・ムックは、戦後、失意のうちにドイツに帰国(パーマー長官はドイツ人迫害を終えると、ロシアからの移民に対して共産主義疑惑をかける迫害に乗り出し、財産強奪の上、国外追放という雑な手口で利益を上げています)。
 帰国後、追い打ちをかけるようにボストン・ポスト紙が、ムックの女性問題についてあることないこと連載するという暴挙に出ますが、背後にはムック逮捕を正当化したかったパーマー長官の存在がありました。
 釈放されヨーロッパに戻ったムックをまず受け入れてくれたのは中立国オランダのコンセルトヘボウ管弦楽団。1919年10月に2回指揮したのち、1921年には1月から3月にかけて38回も指揮、しかし4月には、34年間一緒だったアニタ夫人の死という不幸に襲われて活動をいったん休止。
 翌1922年にはハンブルク楽友協会(現ハンブルク・フィル)の首席指揮者に任命され、1933年5月、ハンブルク歌劇場との統合を嫌って引退するまで指揮。その間、1924年に再開したバイロイトには毎回登場して「パルジファル」を指揮したほか、1925年にはウィーン・フィルとザルツブルク音楽祭にも出演、コンセルトヘボウ管弦楽団にも1926年まで客演しています。
 そのムックが久々にオペラを指揮したのが1921年のバイエルン国立歌劇場の夏の音楽祭でした。ムックは1892年から1912年にかけてベルリン宮廷歌劇場で音楽総監督を務めており、その間、1900年のシーズンにワルターと働いていたことをネタに頼ってきたとも、演劇畑の支配人ツァイスの手配とも言われていますが、ともかくムックはバイエルンへの客演を深く感謝し、自分がワルターの仕事を邪魔するようなことは決してないと示したと伝えられています。
 ということで、その後の反ユダヤ主義へののめりこみなどはあったにしても、バイエルンでのムック陰謀説は虚偽と考えて良さそうです。

クナ陰謀説
ミュンヘンの一部市民などのあいだで流れていたとされるクナ関係者らによる陰謀説。34歳のクナの知名度や、火事で焼けてしまった小都市の兼業劇場の音楽総監督という当時の立場を考えると難しそうです。恩師でライプツィヒ歌劇場音楽総監督のオットー・ローゼとはすでに不仲になっていましたし、学生時代に知己を得ていた元支配人でその後再びバイエルンの支配人となるクレメンス・フォン・フランケンシュタインは、ワルター引き留め派の筆頭でもあったので、この陰謀説には無理があると思われます。

デリア・ラインハルト渡米追随説
これは、ワルターが当時仕事上で非常に親しかったソプラノ歌手のデリア・ラインハルト[1892-1974]が1923年1月からメトロポリタン歌劇場に移るという理由。
ワルターは第1次大戦中の1916年に、当時24歳のデリアを王立ミュンヘン宮廷劇場(バイエルン国立歌劇場)に引き抜いて数多く共演して成果を上げていました。その彼女が、同じくミュンヘンで歌っていたシュッツェンドルフ[1883-1937]と結婚し、共に1923年1月にメトロポリタン歌劇場に移ることが決定。
 1922年10月に音楽総監督を辞任したワルターも初めてのアメリカ・ツアーの為に1923年1月に船でニューヨークに向かいますが、不思議なのは、1921年からミュンヘンでワルターのもとでコレペティートアを務めていた若い指揮者のジョルジュ・セバスチャン[1903-1989]も1923年からメトロポリタン歌劇場に移って副指揮者の職を得ていたこと。ワルター唯一の弟子とも言われるセバスチャンですが、それが原因なのかは不明ですが、デリアとシュッツェンドルフは離婚、シュッツェンドルフは1929年にグレーテ・シュナイト[1895-1977]と再婚し、1935年までニューヨークに居住。
 一方、デリアは1924年にベルリン国立歌劇場に移籍し、セバスチャンも1924年にドイツに戻り、ほどなくデリアと結婚し、ハンブルク歌劇場、ライプツィヒ歌劇場で指揮。
アメリカ・ツアーを終え、ヨーロッパ各地に客演していたワルターは1925年にベルリン市立歌劇場音楽総監督に就任し、1927年にセバスチャンを第1指揮者に迎えています。しかし、1929年にワルターがゲヴァントハウス管弦楽団のカペルマイスターに就任すると、翌1930年にはセバスチャンはソ連のルナチャルスキー文化大臣の招聘によりモスクワ放送局の音楽監督に就任、「ボリス・ゴドゥノフ」オリジナル版初演などおこなって1937年まで滞在し、その後渡米してサンフランシスコ歌劇場などで指揮。1947年にヨーロッパに戻っています。
 デリアの方は第2次大戦中はドイツに留まり、1948年に渡米。1945年に妻を亡くしていたワルターとデリアの交際は本格的なものとなり、1962年にワルターが亡くなるまで共に暮らし、その後、デリアはスイスに移り画家として生活しています。ちなみにデリアの師はヘトヴィヒ・シャコー[1868-1921]で、一時クレンペラーと親しくしていたマリア・シャコー[1905-1996]の母親でした。
かなりややこしいことになっていますが、初めてアメリカに行くことを決意したワルターの情熱的な動きを見ると、辞意表明の最大の要因は、デリアのことではないかと思えてきます。
 また、結果的に、ワルターもデリアもセバスチャンも、ハイパー・インフレで多くの中産階級の人々の財産が紙くずと化していた1923年のドイツを離れ、その間に外貨を稼いで帰国するという強運の持ち主でもあったようです。もっとも、国際人ワルターの場合は、リヒャルト・シュトラウスがイギリスの銀行に預けた全財産が、第1次大戦の宣戦布告によってすべて没収されたことを知っていたので、資産の大半は永世中立国スイスに置いていたと思われます。
 また、ドイツの中央銀行が紙幣乱発や国債の大量現金化をおこなった背景には、ドイツ政府による経済政策だけでなく、中央銀行に対して権限を持っていた連合国賠償委員会の力も大きく働いており、その背後には爆益を狙ったウォール街の存在があったため、一部のドイツ人のあいだでは反ユダヤ感情がさらに高まることにも繋がっています。

結論的推測
以上5つの説を勘案すると、
ドイツ国内の景気が好転せずインフレが強力に進行する中、ワルターへの客演要請増大でミュンヘン不在が多くなり、聴衆の不満も溜まっていたところに、
「デリア説」「ニキシュ後継説」「反ユダヤ主義説」
という3つの問題が浮上したため、ワルターは辞任を考えざるを得なくなったのではないかと思われます。  


 クナ、トーマス・マン攻撃に利用される?

「ワーグナーの街ミュンヘンの抗議」という新聞記事
1933年4月、発行部数が約13万部の新聞「ミュンヘン最新報」にトーマス・マンを攻撃する記事「リヒャルト・ワーグナーの街ミュンヘンの抗議」が掲載。2月から実施されていたトーマス・マンのワーグナー没後50周年記念講演「リヒャルト・ワーグナーの苦悩と偉大」を批判(といっても言葉尻の攻撃)するという趣旨のもので、抗議文の後に、ミュンヘン市長カール・フィーラー、大管区指導者アドルフ・ワーグナー、バイエルン州教育文化大臣ハンス・シェム、ナチ党全国出版指導者マックス・アマンといったナチ党高官や、リヒャルト・シュトラウス、プフィッツナー、フランケンシュタイン国立歌劇場支配人、バウクナー国立劇場監督、ハウゼッガー、クナのほか、ミュンヘンの音楽アカデミーと美術アカデミー、バイエルン国立歌劇場のメンバーなど45名の名前が掲載。署名募集の手紙についてはクナが書いています。
 新聞記事は匿名掲載ですが、抗議文はプフィッツナーによれば、クナが書いたものらしく、オリジナルの締めくくりは、ワーグナーをチンボラソ山、トーマス・マンをノッカーベルクにたとえたものだったということです。
 チンボラソ山は、地球の中心からの距離が世界最長の山で、宇宙に最も近い山。一方、ノッカーベルクは、山(ベルク)は山でもミュンヘンの楽しいビアガーデンということで、比較の対象にもならないという意味合いのブラック・ジョークだったのでしょうか。プフィッツナーはこれをカットしてしまい、ジョークっぽさを排除してしまいます。

実は2度目だった「ワーグナーの街ミュンヘンの抗議」
「ワーグナーの街ミュンヘン」というキャッチフレーズを使って、音楽以外の分野がワーグナーを扱ったことに対して抗議するのは実はこれが2度目で、最初はこの事件の6年前の1927年10月のことでした。
 サイレント映画「マイスター」にワーグナーと似た筋書きが使用されたことに怒り、映画のような低俗なものにワーグナーを使うとは何ごとだというような幼稚な抗議を新聞に載せたことでドイツの他の地域やウィーンの新聞などから嘲笑されてしまったというかなり恥ずかしい事件。映画監督がユダヤ系ということもあったのか、熱烈な反ユダヤ主義者のプフィッツナーと、バイエルン国立歌劇場支配人のフランケンシュタイン、ミュンヘン・フィル音楽監督のハウゼッガーの3人が連名で、トーマス・マン攻撃と同じく「ミュンヘン最新報」で抗議していました。クナはすでにバイエルン国立歌劇場音楽総監督でしたが、さすがに馬鹿馬鹿しいと思ったのか、事件には関わっていません。
 そのとき映画に抗議した3人は、トーマス・マンの時にも署名しているので、流れとしては、3人は前回のように笑いものになる危険を冒したくなかったため、クナに不正確な伝聞情報だけ与えて怒らせてオモテに立て、利用したのではないかと思えてきます。多くの情報を握っていたのがプフィッツナーという事実もあるので、クナはプフィッツナーの策略に引っかかってしまったというのが実際のところではないかとも考えられます。なにしろクナはガードが甘いので。


日和見新聞(?) 「ミュンヘン最新報」
ちなみに1927年と1933年両方の抗議記事を載せた「ミュンヘン最新報」は、ワーグナー存命の時にはワーグナー批判を展開していた新聞でしたし、ワーグナー自身、ミュンヘンにはほとんど住んでいませんでした。
 その3人以外にクナに接近していたのが、出版部数11万部ほどの新聞「ミュンヒナー・ツァイトゥング」出版局長のヴィルヘルム・ロイポルトと編集長のアドルフ・シートです。「ミュンヒナー・ツァイトゥング」の株主にはユダヤ人も多かったのですが、3か月前の国家社会主義政権誕生と共に反ユダヤ的な編集方針に変更しており、2年後の1935年にニュルンベルク法が制定される頃にはユダヤ人株主の所有率も約17%となり、その株も新聞グループのトップであるヴォルフガング・フックが引き取っています。

トーマス・マンと国家社会主義政権の力関係
トーマス・マンはドイツ人ですが、妻のカティア・プリングスハイムがユダヤ系ドイツ人ということもあって、1930年頃から反ナチ的な講演活動をおこなっており、1933年1月30日に国家社会主義政権が誕生するとドイツ・アカデミーも脱退。3週間後には予定通りに講演旅行に出発しスイスにいましたが、直後の2月27日にはベルリンの国会議事堂放火事件が起きるなどドイツの治安悪化を不安視しスイス滞在を延長。その後、パスポートの期限が切れたため、トーマス・マンは内務省に手紙を書いて交渉、ドイツ離脱税を支払い、反政府的な活動をしない条件で、出版社からドイツ国内の売上印税を海外送金する許可を得ています。しかし、トーマス・マンの政府批判は止まらず、国際連盟やチューリッヒ新聞でも批判を展開、それでもドイツ政府は出版禁止処分もおこなわず静観していましたが、1936年12月にトーマス・マンがチェコ国籍を取得したことで、態度を硬化、国籍を剥奪し、ドイツ国内の口座や不動産、蔵書などの財産も差し押さえ、翌年1月にはゲッベルスが新聞雑誌の出版元に対して、トーマス・マンについて一切触れないよう厳命。トーマス・マンはその後もスイスに滞在しますが、1941年初頭に渡米、ホワイトハウスから招かれ、ロサンジェルスには邸宅も建設、1944年には市民権も取得しますが、1952年にはスイスに転居、1955年に80歳で亡くなっています。

数少ない味方のひとりブレッヒャーとその不運な死
なお、こうしたドイツの文化人たちとナチの高官が一体となった攻撃に対して、反対意見を表明する文化人も少数ながら存在し、中にはクナのかつての上司であったグスタフ・ブレッヒャーの名もあり、知人らの署名に衝撃を受けていたトーマス・マンは彼に深く感謝していました。
 以下、ブレッヒャーの悲惨な最後について簡単に触れておきますが、登場するブルーノ・ワルターはトーマス・マンの大親友であり、クレンペラーもトーマス・マンの長編小説「ファウストゥス博士」に実名で登場するほどの友人で、また、ブレッヒャーが初演してスキャンダルとなった「マハゴニー市の興亡」と「銀の湖」は、かつてクナのもとで働いていたクルト・ワイルの作品という具合に、偶然とはいえ、その人間関係の繋がり方には驚かされます。
 ブレッヒャーはユダヤ系で、R.シュトラウスに紹介されマーラーのもとでウィーン宮廷歌劇場で指揮をしたこともある人物。マーラーの紹介でハンブルク歌劇場の音楽監督になると業績を引き上げ、ブゾーニの「嫁選び」を世界初演、同じくマーラーの紹介で入ってきた若きクレンペラーにも影響を与え、その後、ケルン、フランクフルトを経てライプツィヒ歌劇場の音楽総監督に就任。クレネクの「ジョニーは演奏する」や「オレステスの生活」、ワイル「マハゴニー市の興亡」「銀の湖」の世界初演などモダンな路線で物議を醸し、1933年3月にライプツィヒ歌劇場を解雇。同じくライプツィヒ歌劇場で弾くオケでもあるゲヴァントハウス管弦楽団もブルーノ・ワルターを解雇。翌1934年2月には、ソ連で仕事をしていたワルターの弟子ジョルジュ・セバスチャンから招かれ、ブレッヒャーはレニングラードの新設放送オケを任されますが、かつてモスクワに客演経験があり語学に強いブレッヒャーのはずが、精神的な問題もあってかロシア語になじもうとせず(鬱病?)、結局レニングラード・フィルを4回指揮しただけでドイツに帰ります。帰国後間もなく、ワルターからウィーン国立歌劇場用に「カルメン」のドイツ語台本の作成依頼が届きますが、ほかに仕事が無いため、チェコに移って国籍を取得するものの、ほどなく国家社会主義政権によってチェコが占領・解体されたため、今度はベルギーに転居。しかし移り住んで間もなく、ドイツ軍がベルギーに侵攻して占領。他にもドイツ政府から通算7年に渡って無数の妨害を受けたことで、将来を悲観し1940年に自殺したとされています。 


 「アラベラ」初演トラブル

ヒット期待作「アラベラ」はザクセン国立歌劇場が初演契約
1933年7月、「アラベラ」初演トラブル。R.シュトラウスが第2の「ばらの騎士」ともいうべきヒット作のポジションを狙って書いた優雅な内容のオペラ「アラベラ」は、初演を巡るいざこざでも知られています。ウィーンが舞台となっている「アラベラ」ですが、初演は、ドレスデンのザクセン国立劇場でおこなわれる契約でした。
 これはザクセン国立劇場が、エルンスト・フォン・シューフ[1846-1914]の指揮で「火の危機」「サロメ」「エレクトラ」「ばらの騎士」の4作品、フリッツ・ブッシュ[1890-1951]の指揮で「インテルメッツォ」「エジプトのヘレナ」の2作品と、すでに6つのシュトラウス作品を初演していたという実績に鑑みたものでした。

音楽総監督フリッツ・ブッシュ罷免劇
しかし、指揮者のブッシュに対し、1933年3月7日、「リゴレット」上演に際して騒動が起きて指揮できなくなり、ナチ党員で部下の指揮者、クルト・シュトリーグラー[1886-1958]と交代、劇場側から罷免処分が下されており、7月の「アラベラ」も指揮することができなくなります。
 当時、ブッシュはベルリンなどへの客演が増えてきており、ドレスデンを留守にしがちだったことを理由に、劇場内の歌手や楽員、職員の署名まで集めたうえでおこなわれた措置でもありました。背景には、ブッシュの弟でヴァイオリニストのアドルフの妻がユダヤ系で、同じくユダヤ系のルドルフ・ゼルキンとは公私に渡る家族同様の関係もあったということで(のちにアドルフの娘と結婚)、反ユダヤ主義者から嫌がらせを受けていたことや、10年を超える任期のあいだ、契約更新の際にブッシュの報酬と休暇が共に増やされ、世界大恐慌の深刻な不況下で文化予算削減に動いていたナチ党議員たちとそうした金銭を巡って対立していたこともあったようです。

シュトラウスの要請で劇場がクラウスに初演指揮を要請
シュトラウスもこの罷免劇には怒ったようでしたが、初演は指揮者との個人契約ではなく劇場組織と契約しておこなうものなので、シュトラウスは劇場側に対して、自作上演の実績が最大のクレメンス・クラウスの指揮で初演をおこなうように要請し、さらにクラウスは自身が総監督を務めるウィーン国立歌劇場の歌手チームをドレスデンに連れて行くことを条件として承諾され、7月に初演を含めて6公演がおこなわれることとなります。

フリッツ・ブッシュの勘違い(?)でクナ大迷惑
しかしブッシュは、自分が指揮できなくなった以上、初演は、同じドイツのバイエルン国立歌劇場で、クナ[1888-1965]がおこなうべきだとR.シュトラウスに進言した旨をクナ本人に手紙で知らせ、そのわけのわからない奇妙な話を鵜呑みにしてしまった純朴なクナは、ドレスデンでの初演が中止となって、バイエルン国立歌劇場に初演話が舞い込んでくると思い込んでしまっていたため、「アラベラ」が予定通りドレスデンで上演という情報を知ると激怒、シュトラウスに対して絶縁状のような手紙を書いてしまいます(ほどなく謝罪し11月にはミュンヘンで上演)。


フリッツ・ブッシュ、ゲーリングにいろいろとお願い
一方、ブッシュの方は罷免直後、ベルリンで何度かドイツ航空大臣兼プロイセン自由州首相のヘルマン・ゲーリングと会合を持ち、さらにゲッベルスの部下のハンス・ヒンケルに直接交渉して、ドイツ政府の組織したオペラ団体のナチ党プロパガンダ・ツアーに同行する許可を得ます。年末まで続いたこの大規模なラテン・アメリカ・ツアーの後は、ゲーリングの後ろ盾でベルリンで活躍できることを期待していたものの、フルトヴェングラーとの契約は結局変更できずじまい。
 フルトヴェングラー退任を前提にゲーリングが特別に用意した「枢密顧問官」という高報酬な「称号」が単にフルトヴェングラーの数多い役職に追加されただけという形になり、仕方なくブッシュは、1934年にイギリスの夏の個人運営音楽祭「グラインドボーン・フェスティヴァル」の監督に就任します。しかし、同音楽祭が夏季限定で報酬も限られていたため、秋になると前年のラテン・アメリカ・ツアーで高評価を得ていたアルゼンチンに渡り、テアトロ・コロンの音楽監督に就任、1936年にはアルゼンチン国籍も取得。以後、ブッシュは南北アメリカとイギリス、北欧で指揮活動を展開することになります。
 戦後、クナが、フルトヴェングラーの「枢密顧問官」という称号について皮肉たっぷりなことを述べた背景には、フリッツ・ブッシュのもたらしたこのドタバタ騒ぎが影響していたのかもしれません。 


 バイエルン国立歌劇場音楽総監督就任要請を拒否

客演で多忙のケンペ、バイエルン州教育文化省により音楽総監督契約を解消
1954年5月、バイエルン国立歌劇場音楽総監督、ルドルフ・ケンペが、任期途中で契約を解消。ケンペは前年秋にバイエルン国立歌劇場がコヴェントガーデンでおこなった引っ越し公演(オケ除外)を大成功に導いており、その際、コヴェントガーデン王立歌劇場支配人のウェブスター卿がケンペを気に入り、音楽監督に任命することを決定、しかし、ケンペはバイエルン国立歌劇場の音楽総監督在任中で、しかもウィーン国立歌劇場にも1951年から頻繁に客演しており、さらにこの1954年のシーズンからはメトロポリタン歌劇場でワーグナーとリヒャルト・シュトラウス作品を大量に指揮する契約が舞い込んできたという状態だったので、ウェブスター卿の申し出を辞退しています。
こうした状況を不安視したバイエルン州教育文化省は、ケンペと調整の上、任期途中ではありましたが契約を解消することを決定。
 以後、ケンペは、オペラについては客演に徹し、コヴェントガーデン王立歌劇場にもこの1954/1955年のシーズンから「ばらの騎士」や「ニーベルングの指環」で登場、以後、約20年に渡って出演していたので、単に歌劇場監督の仕事がイヤだったということだと考えられます。


クナ、2度の解任を理由に音楽総監督就任要請を拒否
ほどなく、クナのもとに、バイエルン国立歌劇場音楽総監督に就任して欲しいという連絡。クナは、1936年に国家社会主義政権からドイツ公使館在オランダ職員相手の発言に問題があったとして解任され、1945年にはアメリカ占領軍政府からナチ協力者として解任された過去があるという理由で要請を拒否。
 これにより、1956年のフェレンツ・フリッチャイ就任まで音楽総監督のポジションは空位となりますが、クナは結局、膨大な事務仕事を回避しながら、得意演目での出演回数を飛躍的に増大させるという好結果を導いてもいます。
 なにしろ主力劇場のナツィオナルテアター(約2,100席)は爆撃で破壊されて再建工事待ちのため、1,081席しかないプリンツレゲンテンテアター(摂政劇場)をメインの劇場として使わざるを得ず、収益性の低さが問題視されていたので、上演回数の確保(と座席チケットの消化)は重要でした。
 ちなみにクナが出演していたバイロイト祝祭劇場は約2,000席、パリ・オペラ座が約2,000席、ウィーン国立歌劇場が約2,300席、ミラノ・スカラ座が約2,030席、ライプツィヒ歌劇場が1,189席、ベルリン国立歌劇場が約1,400席といった状況です。
その他の有名どころでは、メトロポリタン歌劇場が約4,000席、サンフランシスコ歌劇場が3,563席、コヴェントガーデン王立歌劇場が2,256席といった具合なので、主力劇場が破壊されたバイエルンの置かれた状況の困難さが窺えます。
 なお、クナが就任を拒否した背景には、もしかすると、支配人のルドルフ・ハルトマン[1900-1988]が、クレメンス・クラウスと長年に渡って細かな作業を緊密にこなすという仕事をしてきた人物で、そのクラウスが5月16日にメキシコシティで急死したから自分に話が来たのではないかと考えて断った可能性もあります。クナは細かな作業には興味はありませんでしたし、前年に自分がバイロイトをキャンセルした時の代役がクラウスということもあったので。
下の画像は、左からクラウス、オルフ、ハルトマン、クーグラー(合唱指揮者)の打ち合わせ風景。


 クナッパーツブッシュ家

クナは、オランダとベルギーに近いドイツ西部、ルール地方のエルバーフェルトで酒造業を営む裕福な家庭の出身。古くは地名でもあったというその長い名前は、オランダでも見られたりします。
 1834年、曾祖父ヨーハン・ハインリヒ・クナッパーツブッシュ[1782-1862]が、エルバーフェルトの自分の農地に隣接し、賃借契約していた地所「アム・シャフシュタール」、約437,000平方メートルを、5,400プロイセン・ターラーで購入(1プロイセン・ターラーは現在価値で数千円から1万円ほどとされているのでかなりの金額)。
 曾祖父ヨーハンは、購入した地所「シャフシュタール」で、農業の副業として、穀物蒸留所「グスト・クナッパーツブッシュ」を25年間に渡って運営していましたが、76歳になった1859年に、息子のフリードリヒ・ヴィルヘルム・クナッパーツブッシュ[1816-1890]に事業を譲渡。


1859年、クナの祖父にあたるフリードリヒは、農作業を賃借人に任せ、自分は穀物蒸留所に専念することとし、1863年に新しい設備を建設するなどして事業を拡大。通算21年間の運営を成功させています。


1880年、クナの父グスタフは、フリードリヒが64歳になった年に事業を継承。グスタフは、蒸留酒コルンやスピリッツなど数多くの酒類の製造販売をおこなって成功。1885年9月には母ユリアーネと結婚し、ヴァルター、ハンス、マルガレーテの3人を授かって、裕福な環境で育てますが、1905年に55歳で急死。「グスト・クナッパーツブッシュ」が最も栄えた25年間でした。
 1905年、母ユリアーネ、夫の死後に運営に当たり、1909年には新たな技術者を雇うなどして事業を切り盛り。第1次大戦中に操業停止に追い込まれますが、戦後に再開するまでの15年間を無事に乗り越えています。
 1920年、第1次大戦が終わって2年目の年には、兄のヴァルター・グスタフが事業を引き継ぎ、第2次大戦中の操業停止を経て、1951年に、その息子のコンラート[1930- ?](クナの甥)に事業を継承するまで31年間に渡って運営。ヴァルターは、地元の名士で、1956年9月には、西ドイツ政府より「ドイツ連邦共和国功労勲章 一等功労十字章」を授与されています。本業の「グスト・クナッパーツブッシュ」の社長業の傍ら、ヴッパータールの地方裁判所で、25年間に渡って名誉商業裁判官を務めていたことが評価されたものです。
1951年、コンラートの代では、30種類のスピリッツの製造・販売に加え、医療用の消毒アルコール、工業用の洗浄アルコール、凍結防止剤の製造・配送なども手掛けるようになります。
その後、事業はクナッパーツブッシュ家から離れ、2001年にミヒャエル・フライタークに売却。2011年には電話帳からその名前が消えています。 

 年表
 1888年 0歳


●3月12日、ハンス・アルフレート・クナッパーツブッシュ誕生。父はグスタフ[1850-1905]、母はヘルミーネ・ユリアーネ・ベルタ・ヴィーゲント(旧姓)[1857-1913]。兄弟は、ハンスのほかに、2歳年長の兄ヴァルター・グスタフ[1886-1965]と、4歳年少の妹マルガレーテ・エミーリエ・ユーリエ[1891-1945]という3人構成。生家はエルバーフェルトのライニッシェ・シュトラーセに1886年に新築されたばかりの家屋。
クナは幼少の頃にヴァイオリンとピアノのレッスンを始め、やがてコルネットの演奏も学んでいます。後年、クナの指揮した演奏で、トランペットが個性的な音を響かせることが多いのは幼少期の影響があるかもしれません。


生地エルバーフェルトは、オランダとベルギーに近い、ドイツ西部、ルール地方の都市。クナが生まれた頃の人口は約12万人で、25年後に地元のブラウゼンヴェルト劇場で働きだした頃の人口は約17万人と、約42%も人が増えていますが、第1次大戦中には人口が約25%減少。 エルバーフェルトの人口が戦前水準に戻った1929年、周辺のバルメン、クローネンベルク、ロンスドルフ、フォーヴィンケルと合併して「バルメン=エルバーフェルト」となり、12月には、ドイツ社会民主党の議員オスカー・ホフマンが、新名称として、バルメンがカール・マルクスの盟友フリードリヒ・エンゲルスの生地であることを記念した「エンゲルスシュタット」を提案するものの却下されたため、エンゲルスの著書「ヴッパータールからの手紙」に因む「ヴッパータール」を動議にかけ、市議会と住民調査により決定、ドイツ国務省に新名称「ヴッパータール」を申請、翌年に承認されています。
ちなみに「グスト・クナッパーツブッシュ」が創業したころのエルバーフェルトの人口は約3万人で、風景ものどかでした。


◆ドイツ帝国、三皇帝の年。3月9日にヴィルヘルム1世崩御。跡を継いだ息子のフリードリヒ3世も6月15日に崩御すると、その息子で29歳のヴィルヘルム2世が即位。 
 1889年 0-1歳

 1890年 1-2歳

●クナの祖父フリードリヒ・ヴィルヘルム・クナッパーツブッシュ[1816-1890]、死去。家業の「グスト・クナッパーツブッシュ」は、息子のグスタフ(クナの父)が継承。
◆ロシア帝国におけるドイツ資本が7億9000万ルーブルに達し、ロシアにおける国別投資でドイツが首位に。作曲家メンデルスゾーンの父(とその兄)の銀行でもあったメンデルスゾーン銀行は、ロシア皇室のメインバンクとして、ロシア国債、鉄道などに巨額の出資をおこない。やがてドイツ最大の民間銀行となり、世界大恐慌もうまく乗り切りますが、1938年、ドイツ政府によって資産が奪われ、ドイツ銀行に引き渡されています。
◆3月、ドイツ帝国首相ビスマルク辞任。ビスマルクは社主義者を徹底的に嫌っており、「社会主義者鎮圧法」制定をめぐって皇帝ヴィルヘルム2世と対立。ビスマルクは親ユダヤ、皇帝は反ユダヤでした。
◆ビスマルク体制の一環として1887年に締結された独露再保障条約の更新を、ビスマルク失脚後のドイツ側が拒否。これが1894年の露仏同盟に繋がってしまいます。 
 1891年 2-3歳

 1892年 3-4歳

 1893年 4-5歳

 1894年 5-6歳

◆ドイツ女性協会同盟設立。男女同権を求めて活動。 
 1895年 6-7歳

●3月、クナッパーツブッシュ家、近くのカーテンベルガー・シュトラーセに建てた新居に引っ越し。 
 1896年 7-8歳

●エレン・ゼルマ・エリーザベト・ノイハウス[1896-1987]、エルバーフェルトに誕生。父カール・ノイハウス[1871-1920]と母クララ・フリーダ(旧姓ヴィッヒェルハウス)[1876-1947]もエルバーフェルトの出身で、家業は工場経営。 
 1897年 8-9歳

 1898年 9-10歳

●2月28日、マリオン・フォン・ライプツィヒ[1898-1984]、ダルムシュタットに誕生。1926年にクナと結婚。 
 1899年 10-11歳

 1900年 11-12歳

●クナ、地元エルバーフェルトのコンサートホール「カジノ」で、児童オーケストラを指揮。 


 1901年 12-13歳

◆3月1日、ヴッパータール空中鉄道開業。世界初のモノレール。 


 1902年 13-14歳

◆ドイツ女性参政権協会設立。女性の参政権を求めて活動。 
 1903年 14-15歳

 1904年 15-16歳

 1905年 16-17歳

●12月22日、クナの父グスタフ、死去。家業の「グスト・クナッパーツブッシュ」は、未亡人となった母ユリアーネが運営にあたります。 
 1906年 17-18歳

 1907年 18-19歳

 1908年 19-20歳

●夏、クナ、無給のアシスタントとしてバイロイト音楽祭に参加。ジークフリート・ワーグナーやハンス・リヒターなど多くのワーグナー関係者のもとで経験を蓄積。バイロイトはエルバーフェルトの南西約350キロに位置。
この年の指揮者は下の画像の4人。左からミヒャエル・バリング、ハンス・リヒター、カール・ムック、ジークフリート・ワーグナー。


●秋、クナ、ボン大学に入学。ヴィルヘルム・ヴィルマンス[1842-1911]、アロイス・シュルテ[1857-1941]、レオンハルト・ヴォルフ[1848-1934]教授らによる中世史、経済史、音楽史などの講義を、1911年春までに計18回聴講。ボンはエルバーフェルトの南約50キロに位置。


●クナ、ケルン音楽院に入学。当時のケルン音楽院は、市の助成もあって、開設当初、僅か17名だった学生数が、半世紀ほどで800名を超える規模にまで拡大、場合によっては、学生を教室に収容しきれないほどの状態となっていました。 
 1909年 20-21歳

●クナ、ボン大学に在学。ヴィルマンス、シュルテ、ヴォルフ教授らによる中世史、歴史的文法、音楽史などの講義を聴講。
●夏、クナ、無給のアシスタントとしてバイロイト音楽祭に参加。
この年の指揮者は下の画像の4人。左からミヒャエル・バリング、カール・ムック、ジークフリート・ワーグナー。


●クナ、ケルン音楽院に在学。 
 1910年 21-22歳

●クナ、ケルン音楽院を修了。
●クナ、ボン大学に在学。ヴィルマンス、シュルテ、ヴォルフ教授らによる文語の歴史、憲制史、歴史、楽式論などの講義を聴講。
●クナ、ミュールハイム・アン・デア・ルールの劇場の指揮者として契約。その後、劇場の財務状況が深刻化し、4月に閉鎖。ミュールハイム・アン・デア・ルールはエルバーフェルトの隣町で、石炭採掘を中心に栄えていたルール地方の当時人口10万人ほどの都市。 


 1911年 22-23歳

●クナ、ボン大学に在学。ヴィルマンス、シュルテ、ヴォルフ教授らによる講義を聴講。
●1月、クナ、ミュールハイム。「セヴィリアの理髪師」
●2月、クナ、ミュールハイム。「フィデリオ」「道化師」「ウィンザーの陽気な女房たち」「ウンディーネ」「カルメン」
●3月、クナ、ミュールハイム。「密猟者」「イル・トロヴァトーレ」「ロンジュモーの郵便屋」
●4月、クナ、ミュールハイム。「マルタ」「ユダヤ人の女」
●夏、クナ、無給のアシスタントとしてバイロイト音楽祭に参加。
この年の指揮者は下の画像の4人。左からミヒャエル・バリング、ハンス・リヒター、カール・ムック、ジークフリート・ワーグナー。


●秋頃、クナ、ケルン歌劇場と契約。ケルン音楽院の恩師、オットー・ローゼが夏までカペルマイスターを務めていたので、推薦があった可能性が高いです。ローゼの後任として秋からカペルマイスターに就任したのはグスタフ・ブレッヒャー[1879-1940]で、クナはブレッヒャーのもとで1年ほど働くことになります。
しかし、ケルンの人口は50万人を超えており。ケルン歌劇場も1,800の座席を備えたオペラ専門の劇場だったので、ほかにも何名も指揮者がおり、小劇場から来たクナが実際に本番の指揮をしていたかどうかは判っていません。 


 1912年 23-24歳

●クナ、ケルン歌劇場の指揮者として在籍。
●夏、クナ、無給のアシスタントとしてバイロイト音楽祭に参加。
この年の指揮者は下の画像の4人。左からミヒャエル・バリング、ハンス・リヒター、カール・ムック、ジークフリート・ワーグナー。


●秋、クナ、ボーフムの劇場の指揮者として契約。ボーフムはエルバーフェルトの隣町で、石炭採掘を中心に栄えていたルール地方の都市。
この劇場は開発業者のクレメンス・エルレマンによって、都市開発の一環として1908年に建設されたものですが、一般的なイベント用ホールとしても使えるように平土間部分の大きい設計となっていました。そのため、舞台が見えにくく、音響もひどかったことから人気が出ず、2,000席の客席がガラガラという状態が続いたため、1909年にいったん劇場を閉鎖、資金を集め、この1912年に改修工事にかかりますが、やがてエルレマンは破産、1914年初頭に、ボーフム市が市立劇場として事業を引き継ぎ、1915年には、アール・ヌーヴォー風の劇場から古典的なスタイルの劇場に建てかえています。
クナが在籍していたとされる1912年から1913年は、最初の大規模工事の時期にあたり、オペラも演劇も上演できなかったと思われるので、代替ホールで上演したのか、それとも契約していただけなのかよくわかっていません。ちなみに劇場専属のオーケストラが創設されたのは1919年のことでした。 


 1913年 24-25歳

●クナ、ミュンヘン大学に学位請求論文「ワーグナーのパルジファルにおけるクンドリーの本質」を提出。
●クナ、地元エルバーフェルトにある「ブラウゼンヴェルト劇場」の無給の第2指揮者として契約。総監督は演劇分野の監督のアルトゥール・フォン・ゲルラッハ[1876-1925]、第1指揮者は、バイロイトでフェリックス・モットルのもとで修業したことのあるワーグナー指揮者エルンスト・クノッホ[1875-1959]。
ブラウゼンヴェルト劇場はクナの生まれた1888年開場の民営劇場。隣の建物は、前年に完成したばかりの市営の近代的な大型入浴施設。この土地は、1829年から1879年まで稼働していた大規模な食肉処理場の跡地ということで、エルバーフェルト市では、ヴッパー川に面した土地を劇場に無償貸与したほか、建設費70万マルクのうち、市が15万マルクを補助してもいました。
こけら落としはゲーテの「タウリスのイフィゲニア」、2日目にベートーヴェン「フィデリオ」を上演という具合に、ドイツ・オーストリアに多い、演劇が優位にある劇場です。
ブラウゼンヴェルト劇場は第1次大戦中に資金繰りに窮し、1917年からはエルバーフェルト市が事業を継承して「エルバーフェルト市立劇場」となりますが、戦後の財政難のため、1919年には隣接するバルメン市のバルメン歌劇場と運営組織を統合、オペラはバルメンのみで上演することが決定し、20年後の1939年にエルバーフェルト市立劇場は閉鎖、1943年には隣接する市営浴場ともども爆撃で破壊され消失。1960年にはブラウゼンヴェルトという地名も無くなっています。


●9月、クナ、マイヤール「村の竜騎兵(隠者の小さな鐘)」でブラウゼンヴェルト劇場デビュー。
主演のソプラノ歌手、ケーテ・イェニッケ[1889-1967]と年内に婚約。しかし、クナが、結婚したら歌手を辞めて家にいて欲しいと懇願したことから、歌手を続けたかったケーテは、婚約指輪と金の腕輪を返却。クナは大いに悲しんだということです。
ケーテはその後、1920年に作曲家でピアニスト、教師、評論家のエドムント・ヨーゼフ・ニック[1891-1974]と結婚してドイツでキャリアを継続し、第2次大戦中もドイツにいました。
ケーテ・イェニッケはドイツ帝国東部のブレスラウの出身。クレンペラーの出身地でもあるブレスラウは、ドイツ帝国でベルリン、ハンブルク、ミュンヘン、ライプツィヒに次ぐ5番目の都市。ケーテの父は弁護士で、ブレスラウの副市長も務め、小説家でもあったカール・フリードリヒ・ヴィルヘルム・イェニッケ[1849-1903]でドイツ人。母ユリア・ベッティーナ・アッシュ[1857?1932]は、市会議員と家具職人のあいだに生まれたユダヤ系。兄ヴォルフガング・アルベルト・イェニッケ[1881-1968]は、ドイツ帝国、ワイマール共和国、ナチス・ドイツ、西ドイツと4代に渡る国家で活躍し、戦後は4度受勲した政治家。
なお、ケーテの結婚相手、エドムント・ヨーゼフ・ニックは、第2次大戦直後、クナと出会うことになり、ナチ疑惑の払拭に向けて尽力することになります。
●9月、クナ、ブラウゼンヴェルト劇場。「マルタ」
●12月、クナ、ブラウゼンヴェルト劇場。「射撃手」
●クナの母ユリアーネ、死去。 
 1914年 25-26歳

●1月、クナ、ブラウゼンヴェルト劇場で「パルジファル」を指揮。
1914年のドイツ・オペラ界には、バイロイトでの独占上演権の失効により『パルジファル』のプチ・ブームが到来していました。
ブラウゼンヴェルト劇場でも「パルジファル」を9回ほど公演予定に組み込み、第1指揮者のエルンスト・クノッホがすべて指揮する予定でしたが、7公演を指揮した段階で何らかのトラブルによりクノッホが辞任。残りの2公演を急遽、第2指揮者のクナが指揮することとなりました。
ワーグナー指揮者でもあったクノッホは、カールスルーエ音楽院で、ワーグナー指揮者のフェリックス・モットルに師事したのち、カールスルーエ宮廷劇場でコレペティートアとして同じくモットルのもとで3年間修業。1901年から1907年までシュトラースブルク歌劇場の指揮者を務め、その間、1904年と1906年のバイロイト音楽祭にモットルやリヒター、ムックらの助手として参加、1907年から1909年までエッセン市立劇場、1909年から1912年までケルン歌劇場、1912年に総勢163名からなる巡業オペラ「トーマス・クィンラン・グランド・オペラ・カンパニー」のワーグナー指揮者としてワールド・ツアーに参加。「トリスタンとイゾルデ」のオーストラリア初演をおこなうなど活躍。
1913年にはブラウゼンヴェルト劇場第1指揮者に就任し、翌年に辞任。当時まだ中立国だったアメリカに39歳で渡航。ニューヨーク、シカゴ、クリーヴランドで指揮し、1938年からはニューヨークを拠点にオペラの指導者として活動。ドラマティック・ソプラノ歌手ヘレン・トローベル[1899-1972]のコーチも務め、やがて83歳でニューヨークで死去。


ちなみに隣町のバルメン歌劇場では、若きカペルマイスター、オットー・クレンペラーが『パルジファル』を23回指揮していました。


●クナ、ブラウゼンヴェルト劇場第1指揮者に昇格。


●2月、クナ、ブラウゼンヴェルト劇場、「パルジファル」「マイスタージンガー」
●2-5月、クナ、ブラウゼンヴェルト劇場のプロダクションと共に、ロッテルダム大劇場でワーグナー作品を指揮。これは、ブラウゼンヴェルト劇場が引っ越し公演をおこなったものです。「ローエングリン」「マイスタージンガー」「パルジファル」
●5月、クナ、ロッテルダムのワーグナー音楽祭に参加。エルバーフェルト劇場の面々を引き連れた引っ越し公演で、オケは現地調達のコンセルトヘボウ管弦楽団。当時の歌劇場引っ越し公演は、オーケストラは引っ越さないのが一般的でした。


◆6月28日、サラエヴォ事件発生。フランツ・フェルディナント大公と妻のゾフィーが、ボスニア系セルビア人プリンツィプらにより殺害。
●6-7月、クナ、アムステルダムのワーグナー記念公演に参加。「ジークフリートと「トリスタンとイゾルデ」を指揮。
◆7月28日、オーストリアはセルビアに宣戦布告。第1次世界大戦開戦。
◆7月、為替レート:1ドル=4.2マルク。
◆8月1日、ドイツがロシアに宣戦布告。
◆8月3日、ドイツがフランスに宣戦布告。
◆8月4日、イギリスがドイツに宣戦布告。
●8月、クナ、演奏会デビュー。エルバーフェルトの「ヨハニスベルク・シュタットハレ」で開催された、カール・ゲミュント指揮エルバーフェルト市立管弦楽団の慈善演奏会に参加したもので、クナは「マイスタージンガー」第1幕前奏曲、「レオノーレ」序曲第3番の2曲を指揮。 
 1915年 26-27歳

●クナ、エルバーフェルトのブラウゼンヴェルト劇場第1指揮者。
●クナ、兵役。ベルリンのアウグスタ女王近衛歩兵第4連隊の予備大隊の所属となります。 


 1916年 27-28歳

●クナ、エルバーフェルトのブラウゼンヴェルト劇場第1指揮者。
●クナ、兵役。母方の遠い親戚である大尉の口添えで、予備大隊の軍楽隊への配属となって前線への出征は回避。兵舎外での生活も許可されています。
第1次大戦では、前線に送られた場合、塹壕戦や毒ガス戦で死に至るケースが多く、助かった場合でも深刻な後遺症が残ることが間々あったため、クナは幸運でした。
◆1月、ドイツ軍、新型のツェッペリン飛行船を導入してロンドンを空爆。以後、年内に22回のツェッペリン飛行船による空爆をおこなって、計125トンの爆弾を投下、死者293人、負傷者691人という被害を与えますが、悪天候に弱く、迎撃された場合にほぼ無防備、さらに爆撃命中精度も低いということもあって、翌年5月以降は主役はゴータ重爆撃機に引き継がれていきます。
◆2月、ヴェルダンの戦い。北フランスのヴェルダンで展開されたドイツとフランスの戦闘。フランス軍死傷者377,000-542,000人、ドイツ軍死傷者336,000-434,000人と推測される凄惨な戦いで、フランスでは徴兵が厳しかったため多くの音楽家も参戦していました。
●5月、クナ、ブラウゼンヴェルト劇場ロッテルダム公演(オケはアーネム管弦楽協会)。「ワルキューレ」。
◆6-9月、第1次世界大戦最大規模の戦いとなったガリツィアでの戦闘で、ドイツ&オーストリア軍が、ブルシロフ将軍率いるロシア帝国軍に惨敗。ロシア帝国軍死傷者約50万人、オーストリア=ハンガリー帝国軍死傷者約108万人、ドイツ帝国軍死傷者約35万人。
◆8月、イタリア、ドイツに宣戦布告。ドイツに膨大な死傷者が出ていたのを好機と捉えての参戦。
●8月、クナ、ウィーン宮廷歌劇場で指揮するためにウィーンまで行きますが、総監督のハンス・グレゴール[1886-1945]は指揮させませんでした。クナを派遣したベルリンのマネジメントとグレゴールの関係に問題が生じていたのかもしれません。
ベルリン側の関係者には、ゲオルク・フォン・ヒュルゼン=ヘーゼラー伯爵[1858-1922]がいました。ヒュルゼン=ヘーゼラー伯爵は、ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世と親しく、全王立劇場の支配人として、リヒャルト・シュトラウスなど劇場人が働きやすいように尽力しており、その一環として、すでに劇場人だったクナを支援していた可能性があります。 


 1917年 28-29歳

●クナ、エルバーフェルト市立劇場第1指揮者。この年からブラウゼンヴェルト劇場の事業をエルバーフェルト市が継承。
●クナ、兵役。
◆2月、ドイツ海軍、無制限潜水艦作戦を再開。民間船も含めて無差別に多数の船舶を撃沈。
●3月、クナ、エルバーフェルト市立劇場ロッテルダム公演。「ジークフリート」を指揮。
◆5-6月、ドイツ空軍、翼長約24メートルのゴータ重爆撃機による昼間爆撃開始。飛行船に較べて命中精度が大幅に向上、小学校でも多くの犠牲者を出すなどした結果、ドイツでは爆撃クルーに勲章を授与。
◆6月、ドイツ軍、ツェッペリン飛行船6機を爆撃に向かわせ、火薬庫などの爆撃に成功するものの、悪天候とイギリス空軍の反撃により大きな被害を受けます。


◆7-8月、イギリス軍の防空体制が強化され、ゴータ重爆撃機編隊への被害が増大。
◆9月、ドイツ空軍、ゴータ重爆撃機による夜間爆撃を開始。
◆9月28日、ドイツ空軍、翼長約42メートルの巨大爆撃機「ツェッペリン・シュターケンR.VI」を夜間爆撃に投入。以降、計11回の爆撃で28トンの爆弾を投下。


●10月、クナ、エルバーフェルト市立劇場ロッテルダム公演(オケはユトレヒト市立管弦楽団)。「トリスタンとイゾルデ」。3月と10月の公演は、中立国が相手の友好促進文化事業ということで、エルバーフェルト市はドイツ帝国外務省からの支援を得ています。 


 1918年 29-30歳

●1月、クナ、アムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団に客演。
●クナ、兵役終了。
◆3月、ドイツ空軍、ゴータ重爆撃機による最後の爆撃。38機で出撃し13機の損失。約9か月間の爆撃で、61機を失い、約93トンの爆弾を投下しています。
◆3月、ドイツ軍の列車砲「パリ砲」でパリへの砲撃を開始(8月まで)。パリから114キロ離れた地点から発射し、成層圏まで達する長距離砲撃で被害は限定的でしたが、フランチェスカッティののちの妻ヨランドの実家のすぐ近くの建物に着弾してパニックを引き起こしてもいました。


◆3月、アメリカで超強力なインフルエンザが発生。6月にはボストンで5,000人近い死者が出るなど大流行が始まり、折からのアメリカ外征軍のヨーロッパへの膨大な数の兵士派遣と共に感染が拡大、5月から6月にかけてヨーロッパ各地で多くの犠牲を出し、第1次世界大戦終結を早める要因ともなります。
なお、このインフルエンザは世界大戦下で感染爆発したため、報道統制の無かった中立国スペインでの被害報道が目立ってしまい、結果として「スペインかぜ」と名付けられてしまいますが、実際に感染拡大に大きな役割を果たしたのはスペインではなく、発生元のアメリカでした。


●5月、クナ、ライプツィヒ市立歌劇場の音楽監督オットー・ローゼに招かれて客演。ローゼはケルン音楽院時代のクナの恩師でもありました。公演は成功だったようで、ローゼのもと、同劇場の第1指揮者として働くことが決まります。


●5月、クナ、エルバーフェルト市立ブラウゼンヴェルト劇場で退任公演「マイスタージンガー」を指揮。
●5月29日、クナ、エレン・ゼルマ・エリーザベト・ノイハウス[1896-1987]と結婚。
●クナ、ライプツィヒ市立歌劇場の第1指揮者に就任。年俸6,000マルクという契約で、音楽監督オットー・ローゼの部下でした。ライプツィヒは当時、人口約60万人の大都市で、市立劇場では、新劇場をオペラ専門、旧劇場を演劇専門として運営。
●6月、クナ、ライプツィヒ市立歌劇場。「ジークフリート」
●7月、クナ、ライプツィヒ市立歌劇場。「フィデリオ」「魔笛」「タンホイザー」
●8月、クナ、ジフテリアに罹患。3か月の治療。
◆秋、スペインかぜ(アメリカ発の超強力インフルエンザ)、第2波。
◆11月、ドイツで「ドイツ革命」勃発。兵士と労働者による評議会組織「レーテ(ソヴィエト)」に扇動されたキール軍港での水兵の反乱に端を発し、ハンブルク、ブレーメン、ミュンヘンなど北から南までドイツ各地で反乱が広まる中、皇帝ヴィルヘルム2世はオランダに亡命、47年間に及んだ「帝政」(通称:ドイツ帝国)が崩壊、「ヴァイマル共和政」(通称:ヴァイマル共和国)に移行することとなります。


臨時政府は議会第一党だったドイツ社会民主党と、そこから派生したドイツ独立社会民主党による「人民代表委員会」であり、初代首相はドイツ社会民主党党首のフリードリヒ・エーベルトでした。もっともエーベルトは実際には君主制支持者だったということですが、議会第一党のドイツ社会民主党党首ということで首相になっています。


◆11月、ドイツ、オーストリアは降伏、連合国との休戦協定を締結。
●11月、クナ、ライプツィヒ市立歌劇場。「王の子供たち」「カルメン」「フィデリオ」
◆12月1日、フランス軍、アメリカ軍、イギリス軍などによる「ラインラント占領」開始。ケルン、コブレンツ、マインツなどで1930年6月30日まで、11年7カ月に渡って継続。フランス軍の駐留規模は多い時で約25万人という膨大なものでした。アメリカ軍も当初は約25万人規模でしたが、すぐに約2万人規模にまで縮小しています。
●12月、クナ、ライプツィヒ市立歌劇場。「王の子供たち」「カルメン」「マイスタージンガー」「オリヴェーラの牡牛」 
 1919年 30-31歳

◆1月、共産主義者グループ「スパルタクス団」がベルリンで蜂起するものの、ドイツ社会民主党党首のエーベルト首相が「ドイツ義勇軍(Freikorps)」などを動員して鎮圧、元ドイツ社会民主党員でもあった共産主義者ローザ・ルクセンブルクらを虐殺しています。収監されていたローザ・ルクセンブルクは、前年のヴィルヘルム皇帝廃位と同じタイミングで釈放され、この蜂起に加わっていました。


●1月、クナ、ライプツィヒ市立歌劇場。「低地」「サバの女王」。「王の子供たち」「カルメン」「タンホイザー」「トリスタンとイゾルデ」「ジークフリート」
●2月、クナ、ライプツィヒ市立歌劇場。「低地」「タンホイザー」「ローエングリン」「オリヴェーラの牡牛」
●3月、クナ、デッサウに客演。チャイコフスキー「悲愴」、他
●3月、クナ、デッサウ・フリードリヒ劇場。「マイスタージンガー」
●4月、クナ、ライプツィヒ市立歌劇場。「オリヴェーラの牡牛」「カルメン」「フィデリオ」「ラインの黄金」「ワルキューレ」「ジークフリート」「神々の黄昏」
●4月、クナ、ライプツィヒ市立歌劇場との契約を解除。
◆4月、バイエルン州政府が共産主義者たちに倒され、「バイエルン・レーテ共和国」が成立。「レーテ」はドイツ語でソヴィエトの意味。


◆5月、「バイエルン・レーテ共和国」崩壊。ヴァイマル共和国軍やドイツ義勇軍によってミュンヘンが陥落。短期間のうちに共産主義者たちによるミュンヘン市民の虐殺もおこなわれていたため、以後、ミュンヘンの右傾化が進むことになります。


●5月、クナ、ライプツィヒ市立歌劇場。「フィデリオ」「マイスタージンガー」
◆5月、為替レート:1ドル=13.5マルク。
●5月24日、クナの娘、アニタ・クララ・ユーリエ・クナッパーツブッシュ[1919-1938]、誕生。のちに脳腫瘍のため19歳で死去。
●6月、クナ、ライプツィヒ市立歌劇場。「ジークフリート」「ローエングリン」
●6月、ライプツィヒ市立歌劇場第1指揮者を辞任。
●10月、クナ、デッサウ・フリードリヒ劇場の音楽監督に就任。「タンホイザー」を指揮。


●10-11月、クナ、ワイルを攻撃。デッサウ・フリードリヒ劇場のコレペティートアは、7月に採用されていたデッサウ生まれのクルト・ワイルでした。ワイルはベルリン音楽院帰りでプロイセン賞を受賞していた19歳のユダヤ系ドイツ人で、クナはワイルの仕事のミスが許せず、口汚く侮辱するなどした結果、ワイルは耐えきれずに11月末に退職。
◆12月、為替レート:1ドル=46.8マルク。 
 1920年 31-32歳

◆1月、為替レート:1ドル=64.8マルク。
●3月、クナ、デッサウ・フリードリヒ劇場。「ばらの騎士」。
◆3月、カップ一揆勃発。国防軍35万人を11万5千人に縮小し、義勇軍25万人を3月31日までに解散するというヴェルサイユ条約に従った政府決定に反発したヴァルター・フォン・リュトヴィッツ将軍が、義勇軍であるエアハルト海兵旅団をベルリンに向けて進軍させ、エーベルト大統領は軍に鎮圧するよう命じるものの軍は動かず、政府はシュトゥットガルトに緊急避難し、ベルリンの官庁街はエアハルト海兵旅団らによって占拠、ドイツ祖国党ヴォルフガング・カップらは、ヴァイマル共和政議会及びプロイセン州政府の解散を宣言し、新政府樹立を宣言します。しかし左派の扇動による大規模なゼネストが本格化して一揆はあえなく終了することとなります。
なお、このとき海兵旅団を率いるヘルマン・エアハルトは、ベルリンでユダヤ人虐殺をおこなおうとしますが、ヴォルフガング・カップによって制止されています。


◆3月、ルール赤軍蜂起。カップ一揆をつぶした大規模なゼネストに刺激され、ドイツの工業地帯ルール地方で、左派の労働者兵士5万人ほどで組織された「ルール赤軍」が蜂起、「ヴァイマル共和国軍」と戦闘状態になり、1か月ほどで鎮圧されています。ルール地方は3年後、フランス・ベルギー軍によって占領。


●クナの義父、カール・ノイハウス、49歳で死去。
●クナの最初の婚約者、ケーテ・イェニッケが、作曲家でピアニスト、教師のエドムント・ヨーゼフ・ニック[1891-1974]と結婚。
◆6月、為替レート:1ドル=39.1マルク。
●8月、クナ、デッサウ・フリードリヒ劇場。音楽総監督に就任。


●9月、クナ、デッサウ・フリードリヒ劇場。「マルタ」。
●11月、クナ、デッサウ劇場管。マグデブルク公演。「悲愴」、ベートーヴェン第5番
●12月、クナ、デッサウ劇場管。ベートーヴェン第9番 
 1921年 32-33歳

●1月、クナ、デッサウ劇場管。ケーテン公演。ベートーヴェン・コンサート
●2月、クナ、デッサウ劇場管。ベートーヴェン第9番、メンデルスゾーン、モーツァルト、ウェーバー、他
●3月、クナ、デッサウ劇場管。ケーテン公演。
●4月、クナ、デッサウ劇場管。ベートーヴェン第9番
●4月、クナ、公演前に客席に向かって、批判的な記事を書いた評論家に呼び掛けて劇場から出て行くよう要求し、不在とわかると、今度はその評論家を侮辱し、その後、批評のあり方について長々と演説。これにより地元3紙の怒りを買い、以後の記事不掲載が通告され、クナは劇場運営陣ともひと悶着。少なからぬ数の聴衆の反感も買い、解決まで2週間ほどかかっています。


◆7月、為替レート:1ドル=76.7マルク。
●10月、クナ、運営陣に対して、自分の仕事の評価の低さについて抗議。
●11月、クナ、デッサウ・フリードリヒ劇場。「死の都」 
 1922年 33-34歳

●1月25日、デッサウ・フリードリヒ劇場がほぼ全焼。原因は暖房システムの欠陥。当日のデッサウは非常に寒く、消防ホースが破裂するなど消火活動は困難を極め、延焼を心配する人など見物人も数千人に達するという状況で、近くの学校の屋上まで人々で溢れかえっていました。
火災発生は日中ということで、役者がリハーサルをしていましたが無事に避難。しかし2階の監督室にはマイヤー総監督と、当時有名だったメゾソプラノ歌手のリリー・ハーキング[1880-1922]が残されており、火事に気付いたマイヤー総監督はすぐにドアを開けて階段に向かい、彼女に後に続くように言うものの、火の回りが早く、リリー・ハーキングは階段の途中で倒れてそのまま焼け死んでしまいます。この火事では、ほかに若い美容師のエルンスト・キルカムも逃げ遅れて死亡。
当日の夜、デッサウ・フリードリヒ劇場では「こうもり」が上演される予定でしたが、クナや歌手、楽員、上演スタッフたちは劇場には到着しておらず、難を逃れています。
亡くなったリリー・ハーキングはクナと同郷で8年先輩。夫のワイマール劇場監督との間に9歳の娘ウルスラ[1912-1974]がおり、彼女はのちに有名な女優となります。
なお、劇場が使えなくなったため、かつて劇場として使用したこともある宮廷馬場が代替劇場として決定、1年間の改修工事の末にデッサウ・フリードリヒ劇場は活動を再開します。もっとも、その頃にはクナはすでに辞任していました。 


●3月、クナ、デッサウ劇場管。チボリ公演。
●3月、ブルーノ・ワルター、バイエルン国立歌劇場(州立歌劇場)音楽総監督を、同年10月に辞任する意向を表明。辞任の理由は正式には明らかにされていませんが、後年、本人によって「―つには自分の責務を完遂したと感じたからであり、また個人的な考えもあってのことだった。」と説明されています。実際、すでにやり尽くしたと考えていたのか、ワルターの外部への客演は増える一方で、ミュンヘン不在が多くなり、第1指揮者ロベルト・ヘーガー[1886-1978]、第4指揮者カール・ベーム[1894-1981]らの指揮機会が増え、聴衆の不満も溜まっていました。
●3月、ワルターの辞任に反対する音楽関係者や愛好者2,523名の署名を集めた請願書がまとめられ、「ミュンヘン新聞」と「ミュンヘン最新情報」に抜粋掲載。リストには、クレメンス・フォン・フランケンシュタイン、トーマス・マン、ハンス・プフィッツナー、エミール・プレトリウスらの名がありました。
●3月、クナに、バイエルン国立歌劇場から客演の要請。
●5月、クナ、バイエルン国立管に客演。ベートーヴェン第2番、ブラームス第3番。音楽アカデミーの本拠地、オデオンで演奏。


●5月、クナ、バイエルン国立歌劇場に初登場。メインの国民劇場(ナツィオナルテアター)で、「マイスタージンガー」「魔笛」「ワルキューレ」を指揮。


◆6月、為替レート:1ドル=320.0マルク。
◆7月、為替レート:1ドル=493.2マルク。
●9月、クナ、デッサウ、クリスタルパラストザールで告別演奏会。ワーグナー作品、チャイコフスキー「悲愴」
●10月、クナ、デッサウ・フリードリヒ劇場音楽総監督を辞任。
●10月、ワルター、バイエルン国立歌劇場音楽総監督を辞任。10月2日にプフィッツナー「ドイツ精神について」、10月3日に「フィデリオ」。
●10月、クナ、バイエルン国立歌劇場音楽総監督に就任。契約期間はとりあえず1年間ということで、以後、状況を見て更新ということでした。引き継ぎは10月4日におこなわれ、10月5日には「トリスタンとイゾルデ」を指揮。10月9日に音楽アカデミー・コンサートでブラームスほかを演奏。


●12月、クナ、国民劇場。「死の都」ミュンヘン初演。作曲者がユダヤ系ということでナチ党員が妨害しますが、クナはそれを押し切って上演。前年11月にデッサウで上演して成功した演目でした。 
 1923年 34-35歳

●1月、クナ、摂政劇場。「パルジファル」。プリンツレゲンテンテアター(摂政劇場)は、バイエルン王国が1901年に建設したミュンヘンのサブの劇場。同じくバイエルン王国が建設したバイロイト祝祭劇場を模したため音響も優秀ですが、ミュンヘンのメインのナツィオナルテアター(国民劇場)が約2,100席あったので、席数は約1,000席に抑えられています。


◆1月、為替レート:1ドル=7,525マルク。
◆1月11日、ルール地方占領。
◆1月、ドイツ政府は、ルール地方の抵抗運動を支援するため、1日4千万マルクの補助金支出(紙幣増刷)を決定。
◆1月、為替レート:1ドル=17,972マルク。
●3月、クナ、VSO。「英雄」、ブラームス第3番。初のムジークフェラインザールでの演奏。以後、クナはウィーン響とたびたび共演。レーヴェやクラウスに刺激されたのか、レパートリーもブルックナー、マーラーなど急拡大していきます。


●4月、クナ、MPO、ブッシュ。ブラームス・コンサート
●5月、クナ、バイエルン国立管。モーツァルト・コンサート
●5月、クナ、国民劇場。「魔笛」
●6月、クナ、摂政劇場。「パルジファル」
◆7月、為替レート:1ドル=353,412マルク。
◆8月、ドイツ中央銀行の紙幣増刷金額が1日46兆マルクを突破。それでもインフレ速度の加速には追い付けず、地方自治体や大企業では、千マルク紙幣に億の赤スタンプを押して流通させるなど独自策を決行。
◆8月、為替レート:1ドル=約462万マルク。
●8-9月、クナ、摂政劇場。「マイスタージンガー」「パルジファル」「トリスタンとイゾルデ」「タンホイザー」「ラインの黄金」「ワルキューレ」「ジークフリート」「神々の黄昏」
◆9月、為替レート:1ドル=約1億マルク。
◆10月、為替レート:1ドル=約252億6千万マルク。
●10月、クナ、VSO。ベートーヴェン第9番
◆11月、為替レート:1ドル=約4兆2千億マルク。
◆11月、レンテンマルク発行。マルク(ライヒスマルク)との交換レートは、1レンテンマルク=1兆マルク。
●11月、クナ、バイエルン国立歌劇場。「ジュリアス・シーザー」
●11月、クナ、バイエルン国立管。オデオン。ブルックナー第4番 
 1924年 35-36歳

●1月、クナ、摂政劇場。「パルジファル」
●1月、クナ、VSO。「ジュピター」、ベートーヴェン第7番、他
●3-4月、クナ、バイエルン国立管。ベートーヴェン第4番、第9番、他
●4月、クナ、VSO。「ティルー」、マーラー第4番、他
●4月、クナ、摂政劇場。「パルジファル」
●8-9月、クナ、摂政劇場。「マイスタージンガー」「ラインの黄金」「ワルキューレ」「ジークフリート」「神々の黄昏」「トリスタンとイゾルデ」「パルジファル」
●10月、クナ、バイエルン国立歌劇場。プフィッツナー「愛の園のばら」
●10月、クナ、バイエルン国立管。オデオン。ブルックナー第8番
●11月、クナ、国民劇場。ブラウンフェルス「緑ズボンのドン・ギル」 
 1925年 36-37歳

●1月、クナ、摂政劇場。「パルジファル」
●4月、クナ、バイエルン国立歌劇場。「パルジファル」、フランケンシュタイン「リー・タイ・ペー, 皇帝詩人」
●8-9月、クナ、摂政劇場。「マイスタージンガー」「ラインの黄金」「ワルキューレ」「ジークフリート」「神々の黄昏」「トリスタンとイゾルデ」「パルジファル」
●11月、クナ、国民劇場。「マイスタージンガー」、ノルテ「フランソワ・ヴィヨン」
●クナ、最初の妻、エレンと離婚。 
 1926年 37-38歳

●1月、クナ、バイエルン国立歌劇場。「パルジファル」、サリヴァン「ミカド」
●2月、クナ、VSO。「ひとつの喜劇」序曲、「さすらう若人の歌」「ツァラトゥストラはかく語りき」「リエンツィ」序曲
●3月、クナ、バイエルン国立管。オデオン。ブルックナー第4番
●4月、クナ、摂政劇場。「パルジファル」
●5月、クナ、バイエルン国立歌劇場。「インテルメッツォ」
●5月、クナ、火事で使えなくなった劇場の代わりに宮廷馬場を1年かけて改修して再開していたデッサウ・フリードリヒ劇場に客演。「マイスタージンガー」を指揮。当時の音楽総監督は、ギュンター・ヴァントの師で、バイロイトでもおなじみのフランツ・フォン・ヘスリン[1885-1946]。


●8-9月、クナ、摂政劇場。「魔笛」「ドン・ジョヴァンニ」「フィガロの結婚」「後宮からの誘拐」「マイスタージンガー」「ラインの黄金」「ワルキューレ」「ジークフリート」「神々の黄昏」「パルジファル」
●9月、クナ、2代目の妻、マリオン・フォン・ライプツィヒ[1898-1984]と結婚。ダルムシュタット生まれのマリオンの先祖はドイツの地主貴族、いわゆるユンカーで、先祖が富農だったクナとは相性も良かったのか、その後、クナが亡くなるまで約40年間に渡って良好な関係を維持しています。ちなみに子供はいませんでした。
●10月、クナ、国民劇場。「トリスタンとイゾルデ」
●11月、クナ、レニングラード・フィルに客演。 
 1927年 38-39歳

●1月、クナ、レニングラード・フィルに客演。
●1月、クナ、バイエルン国立管。オデオン。ブルックナー第5番
●1月、クナ、摂政劇場。「パルジファル」
●3月、クナ、ゲヴァントハウス管。「ジュピター」、ベートーヴェン第2番、他
●3月、クナ、BPO。マクデブルク公演。
●4月、クナ、バイエルン国立歌劇場。「パルジファル」、ヴォルフ・フェラーリ「空模様」


●5月、クナ、デッサウ・フリードリヒ劇場。ベートーヴェン第9番。
◆7月、ウィーンで暴動発生。左翼勢が民衆デモを巻き込んで警察署や裁判所を襲撃して戦闘状態となり、89人が殺害(デモ参加者85名、警官4名)されたのち収束。


●7-8月、クナ、摂政劇場、キュヴィリエ劇場。「魔笛」「ドン・ジョヴァンニ」「フィガロの結婚」「後宮からの誘拐」「マイスタージンガー」「パルジファル」「ラインの黄金」「ワルキューレ」「ジークフリート」「神々の黄昏」「トリスタンとイゾルデ」。この年のモーツァルト上演には560席しかない低収益のキュヴィリエ劇場を敢えて使用。
●11月、クナ、国民劇場。プッチーニの遺作「トゥーランドット」ミュンヘン初演。
●11-12月、クナ、バイエルン国立管。「春の祭典」、カゼッラ:パルティータ、ヒンデミット:管弦楽のための協奏曲、他 
 1928年 39-40歳

●1月、クナ、摂政劇場。「パルジファル」
●1月、クナ、バイエルン国立管。オデオン。ブルックナー第7番
●1月、クナ、BPO。マクデブルク公演。
●2月、クナ、シュターツカペレ・ベルリン。「加速度」「ドナウの精」「人生の歓び」「ウィーンの森の物語」「こうもり」序曲、録音(ODEON)。
●4月、クナ、摂政劇場。「パルジファル」
●6月、クナ、国民劇場。「マイスタージンガー」
●7-8月、クナ、摂政劇場、「マイスタージンガー」「パルジファル」「トリスタンとイゾルデ」「ラインの黄金」「ワルキューレ」「ジークフリート」「神々の黄昏」
●9月、クナ、シュターツカペレ・ベルリン。「驚愕」「ティル」「7つのヴェールの踊り」「インテルメッツォ」より「ワルツ」、録音(ODEON)。
●10月、クナ、国民劇場。「エジプトのヘレナ」ミュンヘン初演。
●11月、クナ、バイエルン国立管。「パシフィック231」、ミュンヘン初演
●クナ、BPO。ワーグナー管弦楽曲集、録音(POLYDOR)。
●クナ、バイエルン国立管。「ウィリアム・テル」序曲、「魔弾の射手」序曲、録音(HOMOCORD)。 
 1929年 40-41歳

●1月、クナ、音楽アカデミー・コンサート。ベートーヴェン交響曲第9番
●2月、クナ、「ミュンヘン最新報」紙のオスカー・フォン・パンダー[1883-1968]の第九の批評に腹を立て、音楽アカデミー理事会に対し、退任すると通告。困った理事会は新聞社と話し合い、今後、「ミュンヘン最新報」紙は、音楽アカデミーのコンサート評を載せないことを約束させます。


●2月、音楽アカデミー・コンサートの定期会員集会と称する会合が開かれ、悪い批評を断固拒否するという声明を発表。会合にはナチ党の組織「ドイツ文化闘争同盟」代表のアルフレート・ローゼンベルクも出席し、クナ支持を表明。
●2月、クナ、バイエルン国立管、フォイアマン。「ベックリンの絵画による組曲」、ドヴォルザーク:チェロ協奏曲、「ローマの謝肉祭」
●3月、クナ、国民劇場。「バグパイプ吹きシュヴァンダ」ミュンヘン初演。
●3-4月、クナ、摂政劇場。「パルジファル」
●6月、国際ブルックナー協会ミュンヘン支部設立総会に、クナが評者として出席。
◆7月29日、ルール地方のバルメン、エルバーフェルト、ロンスドルフ、フォーヴィンケル、クローネンベルクが、ライン地方・ヴェストファーレン工業地帯の自治体再編に関する法律により合併、「バルメン=エルバーフェルト」が誕生。
●7-8月、クナ、摂政劇場、「マイスタージンガー」「パルジファル」「ラインの黄金」「ワルキューレ」「ジークフリート」「神々の黄昏」
●8月、クナ、VPO、タリアフェロ。ザルツブルク音楽祭初出演。「英雄」「スペインの庭の夜」「アイネ・クライネ」、フランケンシュタイン「舞踏組曲」。ザルツブルク祝祭劇場。


●9月、クナ、国民劇場。「マイスタージンガー」
◆10月24日、ウォール街株価大暴落。シカゴ市場、バッファローの市場は閉鎖。やがて損失確定組は、善後策として、各国への投資や預金などの資金を回収、結果的に、銀行や企業の相次ぐ破綻へと繋がって行きます。
●10-11月、クナ、シュターツカペレ・ベルリン。モーツァルト第39番、ベートーヴェン第7番、録音(PARLOPHONE)。
◆12月、トーマス・マン、ノーベル文学賞受賞。
●12月、クナ、国民劇場。アルバート・コーツ「サミュエル・ペピーズ」初演。
◆12月、ドイツ社会民主党の議員オスカー・ホフマンが、「バルメン=エルバーフェルト」の新名称として、この地がカール・マルクスの盟友フリードリヒ・エンゲルスの生地(バルメン)であることを記念した「エンゲルスシュタット」が提案されるものの却下されたため、エンゲルスの著書「ヴッパータールからの手紙」に因む「ヴッパータール」を動議にかけ、市議会と住民調査により決定、ドイツ国務省に新名称「ヴッパータール」を申請。 
 1930年 41-42歳

●クナ、転居。ミュンヘン市ボーゲンハウゼン地区のマリア-テレジア-シュトラーセ25。ドッペルヴィラの1階。
◆1月、ドイツ国務省より、「バルメン=エルバーフェルト」の新名称「ヴッパータール」が承認。
●1月頃、クナ、レニングラード・フィルに客演。
●2月、クナの第九を批判してトラブルになっていた批評家オスカー・フォン・パンダーが、名誉棄損で音楽アカデミー理事3人を提訴していた裁判が結審。名誉棄損は敗訴となるものの、フルトヴェングラー、カール・ムック、ヴァルタースハウゼンは、パンダーの批評は不当とは言えないと証言。結果的にパンダーの評が認められてしまいます。
●3月、クナ、BPO。マクデブルク公演。
●3月、クナ、バイエルン国立管。オデオン。ブルックナー第8番
●7-8月、クナ、摂政劇場、「マイスタージンガー」「パルジファル」「さまよえるオランダ人」「ラインの黄金」「ワルキューレ」「ジークフリート」「神々の黄昏」「ばらの騎士」
●8月、クナ、VPO、バラー。ベートーヴェン第2番、「皇帝」「ジュピター」
●11月、クナ、バイエルン国立管。バルトーク:組曲第1番、ミュンヘン初演 
 1931年 42-43歳

●1月、クナ、ハーグ芸術科学館。「サロメ」。オケはハーグ・レジデンティ管弦楽団。
●2月、クナ、国民劇場。ワインベルガー「愛しき声」初演
●2月、クナ、バイエルン国立管。オデオン。ブルックナー第4番
●4月、クナ、摂政劇場。「パルジファル」
●4月、クナ、国民劇場。「サロメ」
●6月、クナ、キュヴィリエ劇場。「イドメネオ」
●7-8月、クナ、摂政劇場、「イドメネオ」「マイスタージンガー」「パルジファル」「トリスタンとイゾルデ」「ラインの黄金」「ワルキューレ」「ジークフリート」「神々の黄昏」
●11月、クナ、国民劇場。プフィッツナー「ヘルツ」初演
●11月、クナ、MPO。ブルックナー第8番
◆「世界大恐慌」の影響で経済が疲弊していたドイツとオーストリアが2国間の関税同盟を結んで、少しでも経済を活性化しようとしたことに対し、フランス政府は反発、国際連盟や国際司法裁判所に提訴、両国の関税同盟成立を阻止。結果的にドイツによるオーストリア併合への期待をオーストリア国民にもたせることになります。 
 1932年 43-44歳

●1月、クナ、VSO、ヴューラー。ワインベルガー「愛しき声」序曲、ハイドン交響曲ハ短調、ベートーヴェン:ピアノ協奏曲第4番、「英雄の生涯」
●3月、クナ、ヴッパータール市立管弦楽団。ヨハニスベルク・シュタットハレ。
●7-8月、クナ、摂政劇場、「マイスタージンガー」「パルジファル」「トリスタンとイゾルデ」「ラインの黄金」「ワルキューレ」「ジークフリート」「神々の黄昏」
●10月、クナ、MPO。ハウゼッガー「鍛冶屋ヴィーラント」「自然交響曲」
●12月、クナ、バイエルン国立管。オデオン。ブルックナー第8番 
 1933年 44-45歳

◆1月30日、ヒンデンブルク大統領がヒトラーを首相に任命。「ドイツ国(Deutsches Reich)」の体制は、14年間続いた「ヴァイマル共和政」(通称:ヴァイマル共和国)から「国家社会主義ドイツ労働者党独裁体制」(通称:ナチス・ドイツ)に移行(1945年まで)。
●1-2月、クナ、バイエルン国立歌劇場。「マイスタージンガー」「小鳥売り」
●2月、トーマス・マンがワーグナー没後50周年を記念してミュンヘン大学で、「リヒャルト・ワーグナーの苦悩と偉大」を講演。
◆2月20日、 ヒトラーとゲーリングがドイツ経済界首脳陣と会合、大恐慌で経済の悪化する中、300万ライヒスマルクの政治献金を獲得。
◆2月27日、ベルリンの国会議事堂が放火され炎上。これを受けて、「国民と国家の保護のための大統領令」と「ドイツ国民への裏切りと反逆的策動に対する大統領令」が発令され、犯人がオランダ共産党員だったことから、ドイツ共産党・社会民主党も活動禁止措置。


◆3月5日、ドイツ総選挙でナチ党が43.9%を獲得。
◆3月、ドイツの国民啓蒙・宣伝省大臣にヨーゼフ・ゲッベルスが就任。プロパガンダのほか、新聞・雑誌・放送・音楽・映画・演劇・文学・絵画・観光・旅行などの「管理・検閲」を実施。当初の予算は1,400万ライヒスマルクでしたが、1944年には13倍以上の1億8700万ライヒスマルクにまで規模を拡大、下部組織に「帝国文化院」も設置して各分野への統制をおこなっていました。
◆3月23日、ドイツで全権委任法が成立。
◆3月、オーストリア、キリスト教社会党のドルフース首相が、警察を動員して議会を閉鎖。緊急令により独裁的な運営を開始。
●3月、クナ、バイエルン国立管。オデオン。ブルックナー第7番
◆4月7日、世界恐慌の影響で約600万人に急増していた失業者の就業対策の目玉として「職業官吏再建法」が施行。公務員から非アーリア人を追放する法律で、ドイツの全公務員、および新政権により新たに「国有化」された膨大な数の企業・団体の職員が対象。同時に国外に出るユダヤ人の財産を奪って国庫に収める政策も実施され、公共事業財源などに利用されます。
◆4月19日、ナチ党、新規の入党希望者の制限を開始。1月末の内閣成立、3月の総選挙という人気過熱イベントを経て、4月7日には、失業対策の目玉ともいわれる「職業官吏再建法」が施行され、爆発的な数の失業者が、求職目的、あるいは待遇向上目的で入党手続きに殺到したため、新規の入党希望者の制限を実施。以後、1939年5月10日に新規入党制限が完全に撤廃されるまでの6年間は、再入党や縁故のほか、数回の例外期間を除いて新規入党を基本的に受け付けませんでした。
●4月、発行部数が約13万部の新聞「ミュンヘン最新報」にトーマス・マンを攻撃する記事「リヒャルト・ワーグナーの街ミュンヘンの抗議」が掲載。
●4月、クナ、バイエルン国立歌劇場。ワーグナー没後50周年記念演奏会で「マイスタージンガー」を指揮。客席には突撃隊・親衛隊の隊員のほか、突撃隊幕僚長レーム、帝国地方長官エップ、大管区指導者アドルフ・ワーグナーといった要人が多数列席。第3幕最終場ではドイツ国歌が斉唱されるなど、ナチ色の非常に濃い上演となっていました(ヒトラーは欠席)。
●4月、クナ、シュターツカペレ・ベルリン。ハイドン第100番、モーツァルト:ドイツ舞曲K.509、ロルツィング「ウンディーネ」序曲、「ルスランとリュドミラ」序曲、モーツァルト:ドイツ舞曲K.600、「マゼッパ」「わが家で」「クス・ワルツ」、録音(PARLOPHONE)。
●4月、クナ、摂政劇場。「パルジファル」
●4月、クナ、国民劇場。「ローエングリン」。総統誕生日記念公演。
●4月、クナ、国民劇場。「マイスタージンガー」。ナチ高官多数列席。
◆5月10日、ドイツ学生協会の主宰で、大規模な「焚書」が実施。以後、6月末までに大量の「非ドイツ的」な書物を焼却。ドイツの34の大学都市で、学生たちによって実施された「非ドイツ的精神への抵抗」は成功し、新聞や放送を通じて全ドイツ国民に向けて成果を報道。なお、ナチは、教員・役人・劇場人などの公務員のほか、学生など若年層に特に人気がありました。
●5月、ヴィルヘルム・バックハウス[1884-1969]がヒトラーの前で演奏。バックハウスは当時すでに国際的に活躍。1930年には世界恐慌下のドイツをあとにしてスイス国民となっていましたが、たびたびドイツに戻って演奏、1936年にはヒトラーより名誉教授の称号を授与。
◆5月26日、ドイツで共産主義者の財産没収に関する法律が成立。
◆5月26日、ドルフース政権、オーストリア共産党を非合法政党と認定し活動禁止措置。
◆6月19日、ドルフース政権、オーストリア・ナチ党を非合法政党と認定し活動禁止措置。これによりオーストリア・ファシズム政権による独裁体制が確立し、ローマ・カトリックを国教として認定。
◆6-7月、ドイツで社会民主党活動禁止措置。続いてドイツ国家人民党・ドイツ国家党・中央党・バイエルン人民党・ドイツ人民党が自主解散。
◆7月14日、ドイツで政党新設禁止法が成立。
●7-8月、クナ、摂政劇場、「マイスタージンガー」「パルジファル」「トリスタンとイゾルデ」「ラインの黄金」「ワルキューレ」「ジークフリート」「神々の黄昏」
●10月、クナ、バイエルン国立管。オデオン。国際ブルックナー協会主催、ブルックナー・フェスティヴァル。ブルックナー序曲ト短調、交響曲第4番原典版のスケルツォ、交響曲第4番
●11月、クナ、国民劇場。「アラベラ」。ミュンヘン初演。
●12月、クナ、シュターツカペレ・ドレスデン。ブラームス第4番、ベートーヴェン第3番。
●12月、クナ、MPO。「英雄」、他。親衛隊主催コンサートで指揮。ヒムラーも列席。 
 1934年 45-46歳

●1-2月、クナ、リセウ大劇場。「トリスタンとイゾルデ」「タンホイザー」「パルジファル」
●2月、クナ、リセウ大劇場管。「英雄」「アイネ・クライネ・ナハトムジーク」「タンホイザー」序曲、「さまよえるオランダ人」序曲、「ジークフリートのラインへの旅」「マイスタージンガー」第1幕前奏曲
◆隣国オーストリアの実質賃金は1929年に較べて44%も減少、失業率も1928年の8.3%に対し、1934年は38.5%と凄まじい景気の悪化ぶりで、政治・社会も大きく混乱。
◆2月、ウィーンで内戦が勃発。オーストリア・ファシズム政権と、オーストリア社会民主党の支援する「防衛同盟」戦闘員が衝突、4日間で2,000人前後の死傷者が出て戒厳令も布告。
●3月、クナ、国民劇場。「西部の娘」。
●4月、クナ、摂政劇場。「パルジファル」
◆7月、ドルフース首相が、敵対するオーストリア・ナチスのメンバーにより殺害。オーストリア・ナチスは、クーデターにより政権奪取を果たすべくオーストリア各地で暴動を引き起こすものの、隣国イタリアのムッソリーニ率いるイタリア・ファシズム政権が国境線まで軍隊を進めたためオーストリア・ファシズム政権はなんとか事態を鎮圧。以後、1936年に政権がドイツに屈服するまで、オーストリア・ナチスは地下活動を展開。
当時のオーストリアは、ドルフース首相のオーストリア・ファシズム政権と支持者たち(護国団など)、オーストリア社会民主党の支援する全国で8万人規模とも言われる活動員とその支持者たち(共和国保護同盟など)、オーストリア・ナチ党員とその支持者たちという三者によるみつどもえの闘争という状態で、国中で小競り合いが多発していました。


●7-8月、クナ、摂政劇場、「魔笛」「ドン・ジョヴァンニ」「フィガロの結婚」「後宮からの誘拐」「マイスタージンガー」「パルジファル」「トリスタンとイゾルデ」「ラインの黄金」「ワルキューレ」「ジークフリート」「神々の黄昏」
●9月、オスカー・ヴァレック[1890-1976]がバイエルン国立歌劇場支配人に就任。元俳優で演出家という演劇畑の人物ですが、1932年にナチ党員となり親衛隊にも入隊していたので、政府内で優遇されていました。
●10月、クナ、国民劇場。「ワルキューレ」。ナチ歓喜力行団主催。
●11月頃、ミュンヘンに世界最大のオペラハウスを建設する計画が始動。計画の一環として、ベルリン、ミュンヘン、ドレスデンなどの大劇場の人材の配置転換についても検討され始めます。
●11月、クナ、VPO。ブルックナー第4番、「悲愴」
●12月、クナ、ハーグ芸術科学館。「フィガロの結婚」。オケはハーグ・レジデンティ管弦楽団。終演後の在ハーグ、ドイツ公使館員との雑談での発言が問題視され、公使館員はベルリンの国民啓蒙・宣伝省に報告。


●12月、クナ、翌年2月にウィーン国立歌劇場に客演する許可を求める手紙を国民啓蒙・宣伝省に送った際、担当者がバイエルン当局にクナについて問い合わせる事態に発展。その場は収められたものの、疑義が生じたため国民啓蒙・宣伝省とバイエルン当局は、ハーグに詳細を問い合わせ。詳細が伝わり事態が深刻化。
●12月、クナ、国民劇場。「ジークフリート」
●12月、クナ、国民劇場。ヴェルディ「マクベス」。ミュンヘン初演。
●12月、クナ、バイエルン国立管。オデオン。ブルックナー第5番 
 1935年 46-47歳

◆3月、ドイツ、徴兵制復活(再軍備宣言)。3年後のオーストリア併合後は、オーストリア人も対象となります。
●4月、クナ、摂政劇場。「パルジファル」
●6月10日、クナ、「トリスタンとイゾルデ」ミュンヘン初演70周年記念公演の指揮者から外され、フルトヴェングラーが指揮。ヒトラー、アドルフ・ワーグナーらも列席。翌々日の公演評では絶賛され、クナがしばらく放置していたオーケストラの間違った演奏部分も、フルトヴェングラーは正しく修正していたとも書かれています。
●6月、クナ、「マイスタージンガー」でウィーン国立歌劇場に初めて客演。


●7-8月、クナ、摂政劇場、「マイスタージンガー」「パルジファル」「トリスタンとイゾルデ」「ラインの黄金」「ワルキューレ」「ジークフリート」「神々の黄昏」
●8月、ザルツブルク音楽祭の記者会見にワルター、トーマス・マン、トスカニーニが登場。


●10月、クナ、国民劇場。「タンホイザー」
●10月、クナ、南ドイツ放送の放送管弦楽団に客演。
●10月、クナ、ウィーン国立歌劇場。「ばらの騎士」。
●10月、クナ、バイエルン国立管。アドルフ・ザントベルガー:ノットゥルノ第3番、「皇帝」
●11月、クナ、政府批判発言については自分が潔白であることと、バイエルン国立歌劇場の運営状態が悪化した要因には、支配人オスカー・ヴァレック[1890-1976]が、自分に対して収支報告などの書類を開示してくれなかったことも影響しているなどと記した上申書を国民啓蒙・宣伝省に提出。
●10月、クナ、バイエルン国立管。モーツァルト・コンサート
●11月、クナ、バイエルン国立管。ワルツとマーチのコンサート
●11月、クナ、国民劇場。「ワルキューレ」 
 1936年 47-48歳

●1月、バイエルン大管区指導者アドルフ・ワーグナーが、クナに対して、ミュンヘンでの指揮活動禁止を通告。
◆2月、仏ソ相互援助条約を締結。ヒトラーはロカルノ条約違反と批判し、自衛のためという理由で、翌月、国境沿いの非武装地帯に軍を進めます。
●2月、クナ、バイエルン国立歌劇場音楽総監督を「定年退職扱い」で解任。
これはすぐに年金が出るという措置でもありますが、音楽総監督の年俸約32,900マルク(月額平均では約2,742マルク)に加えて、ミュンヘン・フィルへの「客演報酬」が失われるということでもあり、さらに、今後の事態の進展具合によっては、ミュンヘン以外のオーケストラや劇場での指揮も禁じられる可能性があったため、クナは窮地に追い込まれることになります。
ちなみに、年金額は月額582マルク(年額約7,000マルク)ということで、家族3人の生活費と離婚した妻への慰謝料を賄うには十分な額とは言えませんでした。
●2月、クナ、すでに契約済みだったバルセロナへの客演許可を求める手紙を、国民啓蒙・宣伝省に送付。
●2月、クナ、国民啓蒙・宣伝省から返答が無いため、改めて、契約済みのバルセロナ、ウィーン、ロンドンへの客演許可を求める手紙を、国民啓蒙・宣伝省に送付。
●2月、国民啓蒙・宣伝省から客演許可はできないと返信。
●3月、クナ、なんとか客演許可を得るため、反ユダヤ的な言葉なども織り込んだ嘆願の手紙を送付。
●3月、国民啓蒙・宣伝省から、客演を許可する返信。バルセロナの後は、ウィーン、ストックホルムも許可されます。


◆3月、ドイツ、ラインラントへ進駐。
●4月、クナ、ウィーン国立歌劇場。「ばらの騎士」「ニーベルングの指環」。公演は成功を収め、管理監督で次期総監督のエルヴィン・ケルバー[1891-1943]は、年俸10万シリングで第1指揮者に迎えたいとクナに連絡。
ケルバーは、クレメンス・クラウスがその能力を見込んでザルツブルクからウィーン国立歌劇場に管理監督として引き抜いていた人物で、1年8か月で退任したワインガルトナーの後任として、総監督を4年務めています。逮捕されたワルターの娘ロッテを国外に逃がしたり、ユダヤ系のクリップスをベオグラードの歌劇場に紹介したり人道的な人物でもありましたが、1943年、ザルツブルクでリハーサル中に心臓発作で亡くなっています。


●クナ、ウィーン国立歌劇場との第1指揮者契約の件と、再度の客演について、国民啓蒙・宣伝省に求めるものの却下。
●6月、ヒトラーが、クナはウィーンに客演しないよう指示。
◆7月、独墺協定締結。オーストリア・ナチスへの恩赦と政治への参加が決定。
●7月、国民啓蒙・宣伝省のゲッベルス大臣が、クナの客演契約については許可。
◆7月、スペイン内戦勃発。共産主義に抵抗する反乱軍の蜂起によりスペイン内戦が勃発。スペイン陸軍の将軍たちによるクーデターが端緒。共産主義を推進する政府軍側と、共産主義に抵抗する反乱軍陣営の戦いですが、諸外国が参加して戦闘規模が拡大、両陣営の兵士と民間人合わせて50万人近いとも言われる犠牲者が出てスペイン国内が荒廃。
●9-10月、クナ、ウィーン国立歌劇場。「タンホイザー」「ばらの騎士」「エレクトラ」「ローエングリン」「マイスタージンガー」
●12月、クナ、ウィーン国立歌劇場。「ローエングリン」 
 1937年 48-49歳

◆ゲッベルスにより「批評禁止令」布告。
●1月、クナ、コヴェントガーデン王立歌劇場に客演。「サロメ」


●2月、クナ、ウィーン国立歌劇場。「神々の黄昏」
●3月、クナ、VSO、ジャクソン。「ルスランとリュドミラ」序曲、ラフマニノフ:ピアノ協奏曲第2番、「アルプス交響曲」
●3月、クナ、VPO。ブラームス第3番、ザードル:舞踏交響曲、ベートーヴェン第1番
●3月、クナ、VPO。「マタイ受難曲」。ウィーン・コンツェルトハウス。


●6月、クナ、ウィーン国立歌劇場。「ラインの黄金」「ワルキューレ」「ジークフリート」「神々の黄昏」「ばらの騎士」。
●7-8月、クナ、VPO。ベートーヴェン第4番、第7番、第9番。
●8月、クナ、VPO。「エレクトラ」「ばらの騎士」
●11月、クナ、ウィーン国立歌劇場。「パルジファル」「ばらの騎士」「タンホイザー」。
●12月、クナ、フランドル・オペラ。ガラ・コンサートに出演。 
 1938年 49-50歳

●1月、クナ、ドレスデン・フィル。「エグモント」序曲、ベートーヴェン第8番、第2番
●3月、クナ、ウィーン国立歌劇場。「ローエングリン」「ワルキューレ」「トリスタンとイゾルデ」「フィデリオ」
◆ドイツがオーストリアを併合(アンシュルス)。当時のドイツは、失業率が劇的に改善し、国民の貯蓄額も急伸、公債も大規模に運営されて景気も過熱気味となる一方、アメリカなどへの莫大な負債も抱える債務国でもありました。オーストリア併合の理由も、国境線拡大に加え、オーストリアの保有していた金資産や外貨、鉱物資源、そして何よりもユダヤ人の財産などが目当てだったとされています。実際、ドイツが手にしたオーストリアの金・外貨・財産は14億ライヒスマルクに達し、これはドイツのライヒスバンクの資産7,600万ライヒスマルクの実に18倍以上という凄いものでした。
しかし、景気回復の途上だった人口約650万人のオーストリアの一般市民の生活水準はまだ満足な状態には無く、約60万人も失業者がおり、自国経済の改善に期待する市民の思いは、併合に関して4月10日に行われた国民投票の結果にも反映、賛成99.75%という数字にも表れていました。
併合後は、1925年にクローネから変更されたばかりのオーストリア通貨シリングを廃止してライヒスマルクを導入。ライヒスバンクは当初、オーストリア経済の実態に即して「2シリング=1ライヒスマルク」という交換レートを想定していたものの、市民感情にも配慮し、「1.5シリング=1ライヒスマルク」という交換レートを設定して、民間組織の国有化など経済再建を進めます。
併合は自主運営組織であるウィーン・フィルも直撃。自主的な団体運営を認めなかった政府の方針により、ウィーン・フィルが国有化されるというプランも示されたため、楽団側は、フルトヴェングラーを通じ、国民啓蒙・宣伝省音楽局長で指揮者のハインツ・ドレーヴェス[1903-1980]の助力を仰ぎ、「ウィーン・フィルハーモニー公認協会」とすることで難を逃れます。
また、併合に伴う反ユダヤ法の制定は、大恐慌の深刻な不況以後、トスカニーニやワルターのおかげで黒字だったウィーン・フィルの財政も直撃、国際的な人気指揮者の客演が見込めなくなることで経営危機が想定されたため、フルトヴェングラーとベルリン公演などをおこなって政府に存在感をアピール。プロパガンダ・ツアーなどにも協力して楽団を維持します。
一方、ウィーン・フィル楽員の所属する母体組織、ウィーン国立歌劇場では、1934年までクラウスのもとで楽長を務めていた指揮者、カール・アルヴィン[1891-1945]と、ヨーゼフ・クリップス[1902-1974]がユダヤ系のため解雇。大物ブルーノ・ワルター[1876-1962]も財産を没収されて国を離れることとなり、また、ウィーン・フィルをはじめとするウィーン国立歌劇場のユダヤ系楽員や歌手、職員の多くも解雇され、専業監督のエルヴィン・ケルバー[1891-1943]総監督のもと、当面、クナのほかはほぼ無名の指揮者たちという布陣で、オペラ上演を継続することになります。


●3月、クナ、VPO。「リュートのための古代の舞曲とアリア」第2番、モーツァルト第29番、「レオノーレ」序曲第3番、ベートーヴェン第2番、ブランデンブルク協奏曲第3番、ブルックナー第8番。ムジークフェライン。


●4月、クナ、VPO。「マタイ受難曲」
●5月、クナ、ウィーン国立歌劇場。「魔笛」
●5月、クナ、VPO。プフィッツナー:管弦楽のためのスケルツォ、「ジュピター」「家庭交響曲」
●6月、クナ、VPO。モーツァルト:ディヴェルティメントK.287、R.シュトラウス:管楽器のためのセレナード、ハイドン:ドイツ国歌、「ホルスト・ヴェッセルの歌」
●6月2日、クナの娘、アニタ・クララ・ユーリエ・クナッパーツブッシュ[1919-1938]、脳腫瘍のため19歳で死去。ヴッパータールに埋葬。
●7月、クナ、VPO。「タンホイザー」序曲、「未完成」「ドン・ファン」、ベートーヴェン第7番、「オベロン」序曲、モーツァルト:3つのドイツ舞曲K.605、「ウィンザーの陽気な女房たち」序曲、ベートーヴェン第8番、「ティル」「アイネ・クライネ・ナハトムジーク」「マイスタージンガー」第1幕前奏曲、「皇帝円舞曲」「ピツィカート・ポルカ」
●7-8月、クナ、VPO。ブラームス第3番、ベートーヴェン第3番、第9番、「フィガロの結婚」「フィデリオ」「タンホイザー」
●9月、クナ、ウィーン国立歌劇場。「魔笛」「ワルキューレ」「神々の黄昏」「村の竜騎兵(隠者の小さな鐘)」「ラインの黄金」「サロメ」「こうもり」
●10月、クナ、ウィーン国立歌劇場。「低地」「王様の子供たち」「サロメ」
◆11月7日、パリでユダヤ人によるドイツ外交官暗殺事件発生。
◆11月9日、「水晶の夜」事件発生。ドイツ各地でユダヤ人への一連の弾圧行為へと発展。
●12月、クナ、BPO、レーン。「エグモント」序曲、ベートーヴェン:ヴァイオリン協奏曲、「英雄」
●12月、クナ、ベルギー国立管。シューベルト:イタリア風序曲、ヘンデル:ハープ協奏曲、モーツァルト:ハープ協奏曲K.299、ブラームス第3番
◆12月、メンデルスゾーン銀行、ドイツ政府に資産を奪われドイツ銀行に引き渡されて閉鎖。作曲家メンデルスゾーンの父(とその兄)の銀行でもあったメンデルスゾーン銀行は、ロシア皇室のメインバンクとして、ロシア国債、鉄道などに巨額の出資をおこない。やがてドイツ最大の民間銀行となり、世界大恐慌もうまく乗り切った銀行でした。親族の女性2人はゲシュタポに逮捕され自殺。 
 1939年 50-51歳

●2月、クナ、VPO。ベートーヴェン第4番、「新世界より」、他
●4月、クナ、BPO。ブラームス第3番、他
●4月、クナ、ウィーン国立歌劇場。「パルジファル」
●5月、クナ、VPO。「アイネ・クライネ」「ティル」、ベートーヴェン第7番
●7-8月、クナ、VPO。ベートーヴェン第9番、「魔弾の射手」「フィガロの結婚」
◆9月1日、ドイツがポーランドに侵攻。第2次大戦開戦。
◆9月3日、イギリスとフランスがドイツに宣戦布告。
◆9月17日、ソ連がポーランドに侵攻。
●10月、クナ、VSO、ヴューラー。バッハ:管弦楽組曲第3番、バッハ:カンタータ第50番、「皇帝」
●11月、クナ、VSO。ブルックナー第4番
●11月、クナ、VPO。シューベルト第6番、イェルガー:コラールの主題による交響的変奏曲、ベートーヴェン第5番、ブルックナー第4番、ブラームス第4番
●11月、クナ、BPO、シュナイダーハン。「マイスタージンガー」第1幕前奏曲、「ばらの騎士」より、ベートーヴェン第2番、モーツァルト:ヴァイオリン協奏曲K.219、「家庭交響曲」
●11月、クナ、ウィーン国立歌劇場。「オテロ」
●12月、クナ、VPO。占領地ポーランド、クラクフでの演奏会。ベートーヴェン第2番、ブルックナー第4番、「ウィンザーの陽気な女房たち」序曲、「ロザムンデ」よりバレエ音楽、モーツァルト:3つのドイツ舞曲 K.605、「こうもり」序曲、「人生を歓べ」「ピツィカート・ポルカ」「ドナウの精」 
 1940年 51-52歳

●1月、クナ、ヴッパータール市立歌劇場(バルメン)。「ワルキューレ」
●1月、クナ、VSO。ベートーヴェン第2番、ブラームス第2番
●2月、クナ、BPO、シュトループ。フランケンシュタイン:管弦楽のための舞踏組曲、プフィッツナー:ヴァイオリン協奏曲、チャイコフスキー響曲第5番
●2月、クナ、VPO。バッハ:ブランデンブルク協奏曲第3番、ブルックナー第7番
●2月、クナ、ウィーン国立歌劇場。「タンホイザー」
●2月、クナ、VPO。ツアー(エッセン、ヴッパータール、デュッセルドルフ、マイエン、デュースブルク、ルートヴィヒスハーフェン・アム・ライン、クレーフェルト、ウィーン)
●3月、クナ、VPO。ブラームス第3番、他
●3月、クナ、ウィーン国立歌劇場。「アイーダ」「パルジファル」
●3月、クナ、BPO、ケンプ。レスピーギ「リュートのための古代舞曲とアリア」第2番、モーツァルト:ピアノ協奏曲第20番、「悲愴」
●4月、クナ、ウィーン国立歌劇場。「エレクトラ」
●4月、クナ、ベルリン国立歌劇場。「ラインの黄金」「ワルキューレ」「ジークフリート」「神々の黄昏」。当時のベルリン国立歌劇場支配人はハインツ・ティーティエン[1881-1967]で、1925年から1945年まで20年に渡ってベルリンの国立歌劇場組織で権勢を誇り、1933年から1944年までの11年間はバイロイトをナチ化して牛耳ってもいました。ティーティエンは当初カラヤンを不正な新聞評で盛り立てますが、フルトヴェングラーの抗議が激しくなると、カラヤンの音楽総監督職はそのままにオペラの指揮を禁じ、1941年からフルトヴェングラーを客演させています。これにより、成功を収めたクナの「指環」客演も1940年5月と11月で終了。


●4月、クナ、BPO。総統誕生日記念演奏会。ベートーヴェン第9番
●4月、クナ、BPO。「アイネ・クライネ」、ブルックナー第7番
◆4月、ドイツ軍が不可侵条約を破ってデンマークに侵攻。国王は午前6時に降伏を決定。占領統治は3年後の1943年8月に開始されます。
◆5月、チャーチルがイギリスの首相に就任。市街地空爆など民間人攻撃を推進し、最終的にドイツの民間人約41万人を殺害、500万人分以上の住居を破壊しています。
◆5月、イギリス空軍、ドイツ西部のメンヒェングラートバッハ空爆。両国の間で最初の空爆はイギリス側が実施。
●5月、クナ、ウィーン国立歌劇場。「ラインの黄金」「ワルキューレ」「さまよえるオランダ人」「神々の黄昏」
●5月、クナ、VPO。ブラームス第3番、他
●5月、クナ、VPO。「ジュピター」、プフィッツナー:管弦楽のためのスケルツォ、「アイネ・クライネ」「ジークフリートのラインへの旅」「タンホイザー」より
●5月、クナ、VPO。「ドンナ・ディアナ」序曲、モーツァルト:3つのドイツ舞曲K.605、「未完成」、ベートーヴェン第7番
◆6月、フランス、ドイツと46日間戦ったのち休戦協定を締結。大枠で見るとフランス北部がドイツの占領統治、南部が「ヴィシー政権」による統治で、例外が長年の係争地であるエルザス=ロートリンゲン(アルザス=ロレーヌ)地方となります。 同地方はドイツに割譲という形になったため、1938年に併合したオーストリアと同様、ドイツ政府による統治とし、他のドイツ・オーストリア地域と同じく「大管区」に組み込まれ、徴兵なども実施されることとなります(エルザス=ロートリンゲン地域からの徴兵数は約10万人)。
◆6月14日、ドイツ軍、パリに無血入城。


●6月、クナ、ベルリン国立歌劇場。「ワルキューレ」
●7月、クナ、VPO。ザウアー、ヴェルディ:レクイエム、「レオノーレ」序曲第3番、ブルックナー第7番、レスピーギ「リュートのための古代の舞曲とアリア」第2番、シューマン:ピアノ協奏曲、ベートーヴェン曲第7番、「美しきガラテア」序曲、「ウィーンの森の物語」「浮気心」「バーデン娘」「エジプト行進曲」「オペラ舞踏会」序曲、「宮廷舞踏会の踊り」「常動曲」「ピツィカート・ポルカ」「ウィーン娘」「ラデツキー行進曲」「ファウスト」序曲、「ジークフリート牧歌」、ヴェーゼンドンクの歌より3つの歌曲、「トリスタンとイゾルデ」前奏曲と愛の死、「ジークフリートのラインへの旅」「タンホイザー」序曲
◆8月25日-9月4日、イギリス空軍、ベルリン空爆。
◆9月7日、ドイツ空軍、ロンドン空爆(死者約300人)。
●9月、クナ、BPO。ツアー(オランダ、ベルギー)。ワーグナー、他
●10月、クナ、VPO。ブルックナー第8番
●10月、クナ、VPO。占領地ツアー(オランダ)
●10月、クナ、BPO、シュナイダーハン。バウスネルン「私の子供の頃の国」初演、ベートーヴェン:ヴァイオリン協奏曲、ブラームス第3番
●11月、クナ、VPO。ミュンヘン一揆の死者追悼のためのコンサート。すべてワーグナー作品
◆11月、イギリス空軍がミュンヘンを初めて爆撃。
◆11月14日、ドイツ空軍、コヴェントリー空爆(死者568人)。
●11月、クナ、ベルリン国立歌劇場。「ラインの黄金」「ワルキューレ」「ジークフリート」「神々の黄昏」
●12月、クナ、VPO。「マゼッパ」「モルダウ」「家庭交響曲」 
 1941年 52-53歳

●クナ、転居。ミュンヘン市ボーゲンハウゼン地区のマウアーキルヒャー・シュトラーセ76の家。
●1月、クナ、BPO、ブラウン、ナイ。ヴィンクラー「収穫祭」序曲、ラフマニノフ:ピアノ協奏曲第2番、ブルックナー第4番、「モルダウ」「前奏曲」「ウィンザーの陽気な女房たち」序曲、「町人貴族」組曲、モーツァルト:ピアノ協奏曲第21番、「新世界より」
●1月、クナ、VPO。モーツァルト第29番、「ジュピター」、他
●1月、クナ、ウィーン国立歌劇場。「ばらの騎士」「サロメ」
●1月、クナ、VSO。ヴェルディ:レクイエム
●2月、クナ、VPO。ドイツ・ツアー。7公演中、慈善公演1回、歓喜力行団公演2回
●3月、クナ、ウィーン国立歌劇場。「マイスタージンガー」「ローエングリン」「ワルキューレ」
●3月、クナ、VPO。ドイツ=オストマルク(オーストリア)合併記念コンサート。ベートーヴェン第9番
◆3月27日、ドイツ国防会議により法令布告。闇取引および買い溜めに関する取り締まりを強化。最高刑は死刑。
◆3月29日、ドイツ財務省が法人税増税について発表。前年度利益が3万ライヒスマルクを超えた場合、利益の25-30%を徴税。
●4月、クナ、BPO、カーロイ。帝国音楽院副総裁グレーナー「民衆の歌による変奏曲」、チャイコフスキー:ピアノ協奏曲第1番、ベートーヴェン第7番
●4月、クナ、ウィーン国立歌劇場。「ローエングリン」
●4月9日、ベルリン国立歌劇場破壊。イギリス空軍によるベルリン爆撃。
●5月、クナ、BPO。スカンジナヴィア・ツアー(スウェーデン、フィンランド、ノルウェー、デンマーク)
◆6月、独ソ戦開戦。
●6月、クナ、ウィーン国立歌劇場。「ワルキューレ」「魔弾の射手」「ジークフリート」「神々の黄昏」
●8月、クナ、VPO。ベートーヴェン第9番、「ばらの騎士」「ドン・ジョヴァンニ」
●9月、クナ、BPO。ツアー(ポーランド、スロヴァキア、クロアチア)
●10月、クナ、VPO。フランツ・シャルク没後10周年記念演奏会。ベートーヴェン第8番、ブルックナー第9番
●10月、クナ、ウィーン国立歌劇場。「ジークフリート」
●10月、クナ、VPO。「英雄」、ベートーヴェン第5番
●10月、クナ、BPO。「ティル」「驚愕」「ウィンザーの陽気な女房たち」序曲、「春の声」「バーデン娘」「ジークフリート牧歌」「英雄」
●11月、クナ、BPO、レーン。グレーナー「ウィーン交響曲」初演、ブラームス:ヴァイオリン協奏曲、「ツァラトゥストラはかく語りき」
●11-12月、クナ、ウィーン国立歌劇場。「エレクトラ」「魔笛」
●11-12月、クナ、VPO。モーツァルト第39番、第40番、「ジュピター」、プフィッツナー:小交響曲、ドヴォルザーク:交響的変奏曲、ブラームス第4番、他 
 1942年 53-54歳

●1月、クナ、シュターツカペレ・ドレスデン、マイナルディ。ドヴォルザーク:交響的変奏曲、マリピエロ:チェロ協奏曲、シューマン:チェロ協奏曲、ブラームス第3番
●1月、クナ、BPO、エルトマン。ドヴォルザーク:交響的変奏曲、「皇帝」、ブラームス第1番
●1月、クナ、VPO、ローレンツ。「ローマ語り」「ジークフリートのラインへの旅」「葬送行進曲」、録音(Electrola)
●2月、クナ、VPO、「ローマの謝肉祭」「驚愕」「子供の遊び」小組曲、「ツァラトゥストラはかく語りき」
●2月、クナ、BPO。プフィッツナー「ドイツ精神について」
●3月、クナ、BPO。ブラームス第3番、リスト「前奏曲」、録音(Electrola)
●3月、クナ、ヴッパータール市立歌劇場(バルメン)。「ラインの黄金」「ワルキューレ」「ジークフリート」「神々の黄昏」。ベルリン、ミュンヘン、ドレスデン、ウィーンの選抜メンバーによる演奏。翌年の再演から間もなく爆撃で破壊。 


●3月、クナ、ベルリン市立歌劇場管。「パルジファル」第1幕前奏曲、第3幕前奏曲、放送用録音
●4月、クナ、BPO。「驚愕」「ティル」「ウィリアム・テル」序曲、「ウィーンの森の物語」「ピツィカート・ポルカ」「浮気心」「バーデン娘」「ウィンザーの陽気な女房たち」序曲、「アイネ・クライネ」「2つのピエモンテ舞曲」「舞踏への勧誘」「騎士パズマン」チャルダーシュ、「ウィーンの森の物語」「トリッチ・トラッチ・ポルカ」「こうもり」序曲
●4月、クナ、VPO、ザウアー。「ハイドン変奏曲」、シューマン:ピアノ協奏曲、「未完成」
●5月、クナ、ブリュッセル放送管。「イドメネオ」序曲、協奏交響曲 K.364、「アイネ・クライネ」「ジュピター」
◆イギリス空軍、リューベック空爆により民間人約320人を殺害。
◆5月30-31日、イギリス空軍、ケルン空爆により民間人約480人を殺害。
●9月、クナ、BPO。ツアー(ポーランド、スロヴァキア、ルーマニア、ブルガリア、セルヴィア、クロアチア、ハンガリー)。25日間に及ぶ大規模なツアー。
●10月、クナ、BPO、ケンプ。「パレストリーナ」第1幕前奏曲、ブラームス:ピアノ協奏曲第1番、ベートーヴェン第5番
●10月、クナ、BPO。国民啓蒙・宣伝省の文化事業で演奏
●11月、クナ、シュターツカペレ・ドレスデン。バッハ:ブランデンブルク協奏曲第3番、ブラームス第4番、他
●11月、クナ、ウィーン国立歌劇場。「パルジファル」
●12月、クナ、VPO。「ドン・キホーテ」、モーツァルト:協奏交響曲、ブラームス第2番
●12月、クナ、BPO。ベルガー「オイゲン王子の伝説」、ブラームス第4番、他
●12月、クナ、BPO。「舞踏への勧誘」、録音(Electrola)
●12月、クナ、VSO。ブルックナー第8番
●12月、クナ、ヴッパータール市立歌劇場(バルメン)。「タンホイザー」 
 1943年 54-55歳

●1月、クナ、BPO。「コリオラン」序曲、ベートーヴェン第8番、第2番、「売られた花嫁」序曲、「町人貴族」組曲抜粋、「軍隊」「舞踏への勧誘」「皇帝円舞曲」「ピツィカート・ポルカ」「トリッチ・トラッチ・ポルカ」
◆1月、総動員令。16歳から65歳の男性、17歳から45歳の女性が対象。
●1月、クナ、政府より戦時勲功十字章を授与。エリー・ナイ、カール・ベームと共に。
●2月、クナ、VPO。ハイドン88番、「パレストリーナ」第1幕前奏曲、ブルックナー第3番、「アイネ・クライネ」、ベルガー「オイゲン王子の伝説」「前奏曲」、ベートーヴェン第2番
●2月、クナ、VSO。プフィッツナー「ドイツ精神について」
●3月、クナ、VPO。親衛隊(SS)主催公演。「アイネ・クライネ」、ベルガー「オイゲン王子の伝説」「前奏曲」、ベートーヴェン第2番
●3月、クナ、ヴッパータール市立歌劇場(バルメン)。「ラインの黄金」「ワルキューレ」「ジークフリート」「神々の黄昏」。ベルリン、ミュンヘン、ドレスデン、ウィーンの選抜メンバーによる演奏。2月のイギリス空軍の爆撃では劇場は無事でしたが、5月の爆撃で破壊。


●3月、クナ、BPO、ビュルクナー。「ドン・ファン」、モーツァルト:クラリネット協奏曲、「グレート」
●3月、クナ、BPO。「英雄」、録音(Electrola)
●3月、クナ、VPO、、ウィーン楽友協会合唱団、ウィーン国立歌劇場合唱団。ヴェルディ:レクイエム
●4月、クナ、BPO。総統誕生日記念コンサート。R.シュトラウス「祝典前奏曲」、ベートーヴェン第9番
◆5月、ヴッパータール爆撃。ほとんどの劇場が破壊。ヴッパータールの爆撃犠牲者は約6,500人。
◆5月16-17日、イギリス空軍、ドイツのダムを空爆する洪水作戦を展開し、約1,300人を殺害。
●5-6月、クナ、BPO。ツアー(フランス、スペイン、ポルトガル)。一か月以上に及ぶ大規模ツアー。
●6月、クナ、VPO。ハイドン第88番、「パレストリーナ」第1幕前奏曲、ブルックナー第3番
●6月、クナ、ウィーン国立歌劇場。「神々の黄昏」
◆7月27-28日、連合国軍、ハンブルク空爆により民間人約41,000人を殺害。
◆8月、連合国軍、ベルリン空爆開始。翌年3月までに民間人約9,400人を殺害。
●8-9月、クナ、BPO。ツアー(ベルギー、フランス)。18日間に及ぶツアー。
●9月、クナ、BPO。凄惨な爆撃を受けた故郷の人々のため、破壊を免れたヴッパータール=エルバーフェルト・シュタットハレでコンサートを開催。


●10月、クナ、BPO、諏訪根自子。ヘンデル:コンチェルト・グロッソop.6-5、ブラームス:ヴァイオリン協奏曲、シューマン第4番
●10月、クナ、BPO、諏訪根自子。ヘンデル:コンチェルト・グロッソop.6-5、ブラームス:ヴァイオリン協奏曲、シューマン第4番。歓喜力行団主催公演。


◆10月、バイエルン国立歌劇場のメイン劇場、ナツィオナルテアターがイギリス空軍の爆撃で破壊。


◆11月1日、モスクワ宣言。3回モスクワ会議でのソ連・アメリカ・イギリスの外相らにより取り決められた内容で、オーストリアについては、ヒトラーの侵略政策の犠牲となった最初の国であるとされる一方、ドイツへの戦争協力にも言及し、今後、オーストリアそのものがドイツからの解放にどのくらい関与したかで戦争責任の追及が変わってくるなどと指摘。以後、オーストリア国内でのレジスタンスは数を増すこととなり、1944年の終わりには、臨時オーストリア国民委員会も結成して抵抗運動を本格化していました。
●12月、クナ、ウィーン国立歌劇場。「ワルキューレ」「ジークフリート」
●12月、クナ、VPO、ボスコフスキー。「シュテファン王」序曲、モーツァルト:ヴァイオリン協奏曲 K.218、フランツ・シュミット第2番
●12月、クナ、BPO、レンツ。「オイリアンテ」序曲、ハイドン:オーボエ協奏曲、ブラームス第2番 
 1944年 55-56歳

●クナ、友好国ポルトガル政府より、戦時の演奏活動に対して「剣の聖ヤコブの騎士団」コマンダー勲章を授与されます。
●1月、クナ、VPO。「バグダッドの理髪師」序曲、「イタリア風セレナード」、ブルックナー第4番
●1月、クナ、BPO、プーヘルト。ベルテン:大オーケストラのための「イントラーダ」初演、シューマン:ピアノ協奏曲、ベートーヴェン第4番
●1月、ベルリン、フィルハーモニーザールが爆撃により破壊。


◆2月、イギリス空軍、ボンへの空爆開始。ボンは小さな文教都市で軍事施設はありませんでしたが、連合国軍による民間人大虐殺戦略の一環として、1945年2月までに計72回爆撃、約6,400人を殺害、旧市街の建物約70%を破壊する成果を上げていました。
●2月、クナ、ライヒス=ブルックナー管弦楽団。ハイドン第88番、ブルックナー第4番
●2月、クナ、BPO、レーン。ヘンデル:コンチェルト・グロッソ Op.6-5、バッハ:管弦楽組曲第3番、モーツァルト:ヴァイオリン協奏曲 K.294a、「ジュピター」。会場はベルリン大聖堂。
●2月、クナ、VSO。「ハイドン変奏曲」「運命の歌」、ブラームス第4番
●3月、クナ、BPO、ブルックナー第8番、ヘンデル:コンチェルト・グロッソ Op.6-5、ブルックナー第4番。会場はベルリン大聖堂。
●3月、クナ、BPO、ブラームス第2番。ドイツ帝国放送で放送用に収録。
●3-4月、クナ、BPO。ツアー(ノルウェー)。7日間のツアー。
●4月、クナ、BPO。総統誕生日記念コンサート。ヘンデル:コンチェルト・グロッソ Op.6-5、「英雄」
◆4月、ウィーン近郊にアメリカ軍が空爆を開始(ナポリから飛来)。当時ウィーンには約800門の高射砲が設置されており、アメリカ軍爆撃機の損害も大きかったため、本格的な破壊には時間を要しました。


◆4月、連合国軍、ベルギーとフランスの交通機関へ空爆開始。11月までにベルギーとフランスの民間人など約15,000人を殺害。
●4-6月、クナ、BPO。ツアー(ベルギー、フランス)。1か月半に及ぶツアー。
●4月、ベルリン大聖堂が爆撃により破壊。
◆7月、ミュンヘンをアメリカ空軍が大規模に爆撃。市街地も無差別攻撃。


◆8月、パリ解放。


◆9月1日、国家総力戦総監となったゲッベルスの国家総力戦の一環として(徴兵目的もあって)、全ドイツの劇場が閉鎖(一部例外あり)。
◆9月11-12日、連合国軍、ダルムシュタット空爆により約12,300人を殺害。
●9月、クナ、BPO。ブルックナー第4番、第3番。バーデン=バーデンでの演奏。
◆9月25日、総統命令により、民兵組織「国民突撃隊」の編成が開始。対象者は16歳から60歳の一般市民。約600万人の組織を目指したものの、兵器や軍服の極端な不足や、様々な理由による拒否などにより計画にはまったく満たない状態で、戦果の方も限定的でした。
◆10月18日、連合国軍、ドイツに対して24時間体制で空爆を開始。 
 1945年 56-57歳

●クナ、転居。ミュンヘン市レーエル地区ヴィーデンマイヤー・シュトラーセの家。
◆2月13-14日、連合国軍、ドレスデン空爆により3万人から15万人を殺害。
◆2月23-24日、連合国軍、プフォルツハイム空爆により2万人以上を殺害。
◆3月、ウィーン国立歌劇場がアメリカ軍の爆撃により破壊。すでに1944年7月から使用していませんでしたが、戦後は1945年5月1日に上演活動が再開したため、1955年11月のウィーン国立歌劇場再建までは、アン・デア・ウィーン劇場とフォルクスオーパーを使用することになります。


◆4月16日、赤軍のジューコフ元帥によりベルリン砲撃開始。ベルリンの戦いは3週間続き、ドイツ側死者約32万人、ソ連側死者約8万人という激戦となります。
◆4月、東部国境から進攻してきたソ連軍によってウィーンが陥落。下の右画像のソ連軍戦車は、アメリカからレンドリース法(武器貸与法)によって4,000輌を超える数が供与されていたM4A2シャーマン戦車。左画像は、終戦直前まで戦っていた武装親衛隊とティーガーI型戦車。どちらも楽友協会のすぐ近くの光景です。レンドリース法は枢軸国と戦う国を支援するという名目こそあったものの、実際には世界大恐慌でダメージを受けたアメリカ経済を復興させるための「経済政策」でした。


◆4月27日、オーストリア暫定政府が誕生しますが、この政府はソ連の傀儡政権と見なされて、米英仏は承認を拒否、1945年から1955年までの10年間、ソ連と米英仏の4か国による分割統治がおこなわれることとなります。
◆ソ連のオーストリア支援は他国を圧し、1945年の食糧支援が132,600トンと米英仏の合計と同等だったほか、電気やガス、住宅設備などの重要な生活インフラの整備に加え、文化の復興も支援、ウィーン国立歌劇場の公演をアン・デア・ウィーン劇場で早期に再開できるようにもしていました。こうした経緯もあってか、ウィーン市の議会は1945年から現在に至るまで70年以上に渡って社民党(旧称:社会党)が政権を担っています。
◆4月30日、ヒトラー自殺。ヒトラーはデーニッツ元帥を後継に指名していたため。同日、臨時政府「フレンスブルク政府」が発足。デーニッツが大統領に就任して降伏のための準備を進めます。また、1月からデーニッツの指示で実施中の海軍による市民と兵士の搬送作戦も5月中旬まで継続され約200万人を救出。
◆5月9日、ドイツ降伏。2週間後、デーニッツ逮捕により臨時政府解散。
●5月、クナ、非ナチ化裁判。
◆7月31日、アメリカ軍、イギリス軍、フランス軍がウィーン入り。ウィーンでの4分割統治がおこなわれることとなります。
●8-9月、クナ、バイエルン国立管。メンデルスゾーン「静かな海と穏やかな航海」序曲、シューマン第4番、ブラームス第4番、ワーグナー、スメタナ、チャイコフスキー、ウェーバー、ブラームス、ベートーヴェン、ハイドン、他 
 1946年 57-58歳

◆1月、アメリカ占領軍政府を中心に非ナチ化裁判が開始(1949年まで)。10万人以上のドイツ人が裁判にかけられ、音楽界でもナチ関連疑惑のあった人物が続々と法廷に送られることになったため、連合国軍側の作成したブラックリストに載っていなかった(=知名度が高くない)音楽家たちや、外国人、ユダヤ人たちには大きなチャンスが訪れることになります。
なお、この各国占領軍政府によって実施された非ナチ化裁判については、アメリカだけが熱心で、ソ連やイギリスの占領軍政府はあまりおこなわないなど、国によって温度差が大きかったのですが、その後のアメリカ人音楽家やユダヤ人音楽家のドイツでの躍進ぶりを考えると、最初からそれが目的だったとも考えられます。
実際、外国人が入り込めないような公的機関などについては、非ナチ化の追求はほとんど実施されなかったようですし、弁護士の約90%が元ナチ党員ということもあって裁きようがないため処罰を免れた約800万人以上の元ナチ党員や党友が普通に生活、占領統治下ながら、行政機構も戦時中からほぼそのまま継続していたため、役人はほとんどが元ナチ党員で、たとえば性的マイノリティの作曲家・指揮者のヘンツェが、西側にも関わらず自殺未遂寸前まで追い込まれたりもしていました。1957年の調査でも、西ドイツ司法省上級職員の元ナチ党員率が約77%、裁判長で約70%となっています。
ちなみに、ソ連はまず占領地行政の抜本的な変更を最優先し、行政機関の主要な役職は共産主義者に総入れ替えしていました。
また、フランスは、まず約4年間占領下にあった「自国民の非ナチ化」が喫緊の課題ということで、全教師の4分の3を入れ替えたり、ヴィシー政権で要職にあったコルトーを厳しく断罪したりしています。
◆1月、イギリス占領軍政府は、管轄地域の非ナチ化をドイツに委ねます。しかし自治体の整備もままならない状態だったので、音楽家など、凶悪な戦争犯罪とは無縁の職種については追及無し、もしくは後回しでうやむやにされたため、アメリカ管轄地域からイギリス管轄地域に移る人が続出し(オイゲン・ヨッフムなど)、イギリスの方針はアメリカから非難されることになります。イギリスも戦後間もなくの時期は、重度の戦争犯罪人訴追には熱心でしたが、その後、英独双方の経済復興を優先させています。
●12月、クナの活動停止処分、解除。 
 1947年 58-59歳

●1月、クナ、バンベルク響。「ロザムンデ」序曲、交響曲第5番、「グレート」。裁判が終了し、正式に復帰。
●2月、クナ、シュターツカペレ・ベルリン。「ロザムンデ」序曲、交響曲第5番、「グレート」
●4月、クナ、MPO。コングレス・ザール。ブラームス第3番、第2番
●4-5月、クナ、ウィーン国立歌劇場(アン・デア・ウィーン劇場)。「サロメ」「ワルキューレ」「フィデリオ」「ばらの騎士」「タンホイザー」「トリスタンとイゾルデ」
●4-5月、クナ、VPO、ヌヴー、ボスコフスキー。ブラームス第1-3番、「ハイドン変奏曲」、ヴァイオリン協奏曲、ブルックナー第8番、「ジークフリート牧歌」、ベートーヴェン:ヴァイオリン協奏曲、ハイドン第94番
●6月、クナ、チューリッヒ歌劇場。「トリスタンとイゾルデ」
●6月、クナ、トーンハレ管。「ローエングリン」第1幕前奏曲、「ザックスのモノローグ」、他、録音(DECCA)
●6-7月、クナ、スイス・ロマンド管。ブラームス第2番、「マイスタージンガー」第1幕前奏曲、録音(DECCA)
●8月、クナ、VPO。シューベルト第5番、ベートーヴェン第7番
●10月、クナ、VSO。「アイネ・クライネ」「レオノーレ」3番、他
●10月、クナ、VPO。「バグダッドの理髪師」序曲、モーツァルト:協奏交響曲(管楽器のための)、「新世界より」
●10月、クナ、ウィーン国立歌劇場。「魔弾の射手」「さまよえるオランダ人」
●11月、クナ、VSO。ハイドン第88番、ブルックナー第7番、リスト「前奏曲」、モーツァルト:ヴァイオリン協奏曲第5番、チャイコフスキー第5番。 ●12月31日、クナ、LPO。ワーグナー管弦楽曲集をDECCAに録音。翌月3日に終了。
 
 1948年 59-60歳

●1月、クナ、LPO。「リエンツィ」序曲、「ローエングリン」第3幕前奏曲、「タンホイザー」序曲とヴェヌスベルクの音楽、「マイスタージンガー」第3幕前奏曲、徒弟たちの踊り、マイスターの入場、フィナーレ、大晦日から3日まで録音(DECCA)
●3-4月、クナ、MPO。ハイドン第88番、ブルックナー第7番、「オベロン」序曲、ベートーヴェン第4番、「グレート」
●4月、クナ、摂政劇場。「ワルキューレ」
●4月、クナ、VSO。ハイドン第94番、フランツ・シュミット:ベートーヴェンの主題による変奏曲、ブラームス第4番
●4月、クナ、VPO。ヘンデル:コンチェルト・グロッソOp.6-5、「未完成」、ベートーヴェン第4番
●4-5月、クナ、ウィーン国立歌劇場(アン・デア・ウィーン劇場)。「ローエングリン」「魔弾の射手」。「ローエングリン」2日目は演出が気に食わないので無断欠勤。プロハスカが代理。
●8月、クナ、VPO。シューベルト「未完成」、ブルックナー第4番
●9月、クナ、バンベルク響。バイロイト。ブラームス第3番、ベートーヴェン第5番。チャリティ・コンサート。
●9月、クナ、MPO。「エグモント」序曲、ベートーヴェン第1番、第5番、「ハイドン変奏曲」「ジークフリート牧歌」、ブルックナー第3番
●9月、クナ、摂政劇場。「フィデリオ」
●9月、クナ、チューリッヒ歌劇場。「マイスタージンガー」「エレクトラ」
●12月、クナ、MPO。ブルックナー第8番、「マイスタージンガー」第1幕前奏曲、ザックスのモノローグ、ベートーヴェン第7番
●12月、クナ、摂政劇場。「トリスタンとイゾルデ」 
 1949年 60-61歳

●2-4月、ウィーン国立歌劇場(アン・デア・ウィーン劇場)。「ワルキューレ」「フィデリオ」「トリスタンとイゾルデ」「さまよえるオランダ人」
●2-4月、VSO、シュナイダーハン、マイナルディ、ゼーフリート。ブラームス第3番、ベートーヴェン第7番、ヴェルディ:レクイエム。ウール:大管弦楽のための4つの狂詩曲、ブラームス:二重協奏曲、チャイコフスキー第5番、「ジークフリート牧歌」、ドヴォルザーク:チェロ協奏曲、「町人貴族」組曲、R.シュトラウス/歌曲集、「ツァラトゥストラはかく語りき」
●3-4月、VPO。モーツァルト:3つのドイツ舞曲、「ティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら」「未完成」「ウィンザーの陽気な女房たち」序曲、「くるみ割り人形」組曲、「ドン・キホーテ」、シューマン第4番、ブルックナー第3番
●4月、クナ、VSO、「マタイ受難曲」
●5月、クナ、MPO。シュナイダーハン。ベートーヴェン:ヴァイオリン協奏曲、「くるみ割り人形」組曲、チャイコフスキー第5番
●5月、クナ、MPO。バイロイト。「献堂式」序曲、「ジークフリートのラインへの旅と葬送行進曲」「トリスタンとイゾルデ」第1幕前奏曲、「マイスタージンガー」第3幕前奏曲、「マイスタージンガー」第1幕前奏曲。


●6月、クナ、チューリッヒ歌劇場。「マイスタージンガー」。約1,200席の劇場。
●6月、クナ、トーンハレ管。「殿堂のアリア」「万能の聖母マリア様」「マイスター、今晩は」「思い出すわ、私にも娘時代があった」「今日か、明日か、それともあさってか」、録音(DECCA)
●8月、クナ、VPO。シューベルト「未完成」、ブルックナー第4番
●8月、クナ、VPO。「ジークフリート牧歌」、ブルックナー第7番」
◆9月、アデナウアーが西ドイツ首相に選出。
●9月、クナ、MPO。コングレスザール。ブラームス第4番、「新世界より」
◆9月、西ドイツでの占領軍政府統治が終了し、連合国高等弁務官による施策が開始。個人の要素が強くなり、財界関連でかなり際どいものがありました。
●10月、クナ、摂政劇場。「ワルキューレ」「トリスタンとイゾルデ」
●11月、クナ、ミラノ・スカラ座管。ブルックナー第7番
●12月、クナ、MPO。ブルックナー第8番 
 1950年 61-62歳

●1月、クナ、摂政劇場。「マイスタージンガー」
●1-2月、クナ、BPO。「未完成」、ブルックナー第9番、「ウィンザーの陽気な女房たち」序曲、「驚愕」「くるみ割り人形」組曲、「こうもり」序曲、「ピツィカート・ポルカ」「バーデン娘」、
●2月、クナ、ベルリン国立歌劇場。「ばらの騎士」
●2月、クナ、シュターツカペレ・ベルリン。ブラームス第3番、「悲愴」
●2月、クナ、摂政劇場。「マイスタージンガー」
●3月、クナ、BPO。ツアー(ビーレフェルト、ゲルゼンキルヒェン、レックリングハウゼン、デュッセルドルフ、メンヒェングラドバッハ)。
●4月、クナ、VPO。「バグダッドの理髪師」序曲、ザルムホーファー:交響曲ハ長調、「新世界より」
●4月、クナ、ウィーン国立歌劇場(アン・デア・ウィーン劇場)。「タンホイザー」
●4-5月、クナ、VSO。ブルックナー第8番、ベートーヴェン第9番
●5月、クナ、VPO。ベルガー「バラード」、ドヴォルザーク「交響的変奏曲」、フランツ・シュミット第2番
●5-6月、クナ、ウィーン国立歌劇場(アン・デア・ウィーン劇場)。「マイスタージンガー」「サロメ」
●6月、クナ、VPO。「ジークフリートの独白」「パルジファル」第1幕「場面転換の音楽」、第2幕「花の乙女たちの音楽」、録音(DECCA)
●7月、クナ、摂政劇場。「ばらの騎士」「マイスタージンガー」「トリスタンとイゾルデ」
●8月、クナ、VPO。ベルガー:「ロンディーノ・ジョコーソ」、R.シュトラウス「町人貴族」、ブルックナー第3番


●9月、クナ、VPO。「マイスタージンガー」第2幕、他、録音(DECCA)
●9月、クナ、BPO。プフィッツナー「管弦楽のためのスケルツォ」、ドヴォルザーク「交響的変奏曲」、ベートーヴェン第7番
●秋、クナ、ストックホルム王立歌劇場。「ラインの黄金」「ワルキューレ」「ジークフリート」「神々の黄昏」「ばらの騎士」。約1,300席の劇場。
●10月、クナ、MPO。ブラームス第3番、「英雄」
●11月、クナ、BPO、カーゾン。「ハイドン変奏曲」、ブラームス第3番、ピアノ協奏曲第1番
●11月、クナ、摂政劇場。「さまよえるオランダ人」「ばらの騎士」「マイスタージンガー」
●12月、クナ、摂政劇場。「さまよえるオランダ人」 
 1951年 62-63歳

●1月、クナ、BPO。ブルックナー第8番
●1月、クナ、摂政劇場。「マイスタージンガー」「サロメ」「さまよえるオランダ人」
●2月、クナ、摂政劇場。「ジークフリート」
●2月、クナ、MPO。ブルックナー第8番
●3月、クナ、ローマ歌劇場。「タンホイザー」
◆3月15日、西ドイツ外務省、ボンで発足。職員の3分の2は元ナチ党員。初代外務大臣は反ナチのアデナウアー首相が兼務。アデナウアーは元ケルン市長で、反ユダヤ的なとり巻きの多かったアーベントロートと、ユダヤ人クレンペラーが対立した際、クレンペラーを上役にすることでうまくまとめたりもしていた人物。
●4月、クナ、摂政劇場。「フィデリオ」「ワルキューレ」
●4月、クナ、MPO。ツアー(ベルン、バーゼル、ジュネーヴ、チューリヒ)。ブラームス第3番、「英雄」
●4月、クナ、VPO、プフィッツナー「管弦楽のためのスケルツォ」、フランツ・シュミット「軽騎兵の歌による変奏曲」、ブルックナー第3番
●5月、クナ、ブレーメン・フィル、ブラームス第3番、「英雄」
●5月、クナ、摂政劇場。「ばらの騎士」「ジークフリート」「さまよえるオランダ人」
●5月、クナ、BPO、ヘラー。「町人貴族」組曲、レスピーギ「コンチェルト・グレゴリアーノ」、シューマン第4番
●6月、クナ、摂政劇場。「サロメ」「ばらの騎士」「さまよえるオランダ人」


●7-8月、クナ、バイロイト。「パルジファル」「ラインの黄金」「ワルキューレ」「ジークフリート」「神々の黄昏」


●8月、クナ、ヴィーラント・ワーグナーに対し、1952年にはバイロイト音楽祭に出演しないという手紙を送付。
●9月、クナ、VPO。「マイスタージンガー」第1幕、第3幕、録音(DECCA)
●9月、クナ、VPO。ブラームス第3番、ブルックナー第9番
●10月、クナ、摂政劇場。「タンホイザー」「さまよえるオランダ人」「マイスタージンガー」
●11月、クナ、摂政劇場。「さまよえるオランダ人」
●12月、クナ、ヴィーラント・ワーグナーと和解。1952年のバイロイト音楽祭で「パルジファル」「マイスタージンガー」を指揮することを約束。
●12月、クナ、MPO。「町人貴族」組曲、「家庭交響曲」
●12月、クナ、摂政劇場。「サロメ」「神々の黄昏」「フィデリオ」 
 1952年 63-64歳

●1月、クナ、摂政劇場。「マイスタージンガー」「神々の黄昏」「フィデリオ」
●1月、クナ、BPO。「舞踏への勧誘」「こうもり」序曲、「ウィーンの森の物語」「千一夜物語」間奏曲、、「エジプト行進曲」「シェーンブルンの人々」「オーストリアの村つばめ」「アンネン・ポルカ」「バーデン娘」
●1月、クナ、ベルリン国立歌劇場。「ばらの騎士」「マイスタージンガー」
●1月、クナ、BPO、フルニエ。ボルデマン「ラ・ダンツァ」交響的序曲、ベートーヴェン第8番、シューマン:チェロ協奏曲、「トリスタンとイゾルデ」前奏曲と愛の死
●2月、クナ、ローマ歌劇場。「エレクトラ」
●2月、クナ、パリ音楽院管、チッコリーニ。「リエンツィ」序曲、ベートーヴェン:ピアノ協奏曲第4番、ブラームス第2番
●3月、クナ、ナポリ・サン・カルロ劇場。「ラインの黄金」「ワルキューレ」
●4月、クナ、VPO。「悲劇的序曲」、ハダモフスキー:木管楽器と管弦楽による舞踏組曲、「アルプス交響曲」
●4月、クナ、摂政劇場。「さまよえるオランダ人」「神々の黄昏」「ばらの騎士」
●5月、クナ、故郷ヴッパータールのヨハニスベルク・シュタットハレで「マイスタージンガー」を上演。
●6月、クナ、摂政劇場。「ばらの騎士」「タンホイザー」
●7-8月、クナ、バイロイト。「マイスタージンガー」「パルジファル」


◆8月、アメリカ占領軍政府を引き継いだ高等弁務官事務所のジョン・J・マクロイ高等弁務官が退任。マクロイは兵器産業クルップ社に財産を返還し、グロピウス(アルマ・マーラーの元夫)ほかの要請でウルム・デザイン学校に100万マルク寄付したほか、政財界関係者など戦争犯罪者89人を恩赦対象とするという思い切ったことも実施、西ドイツに対してどこまでも経済優先の施策をおこなっていました。
●9月、バイエルン国立歌劇場のトップ人事が刷新。支配人ゲオルク・ハルトマン、音楽総監督ゲオルク・ショルティの「ゲオルク体制」から、支配人ルドルフ・ハルトマン、音楽総監督ルドルフ・ケンペの「ルドルフ体制」に交代。
ケンペはドレスデン国立歌劇場音楽監督を1950年から務めており、この時点ではまだ在職中のため西ドイツと東ドイツで兼任という特殊事例で、東ドイツ政府が期限付きで許可、翌1953年にコンヴィチュニーがドレスデンを引き継いでいます。
ハルトマンは第2次大戦後はニュルンベルク国立劇場のオペラ監督として活動。この異動で戦前戦中の古巣に戻った形になり、1967年まで15年間務めあげています。
●9月、クナ、摂政劇場。「ばらの騎士」「エレクトラ」「サロメ」
●9月、クナ、BPO、ブローネ。「イタリア風セレナード」、シベリウス:ヴァイオリン協奏曲、ブラームス第3番
●10月、クナ、BPO。ツアー(ハンブルク、ハノーファー、ランダウ・イン・デア・プファルツ、ローザンヌ、バーゼル、チューリヒ、ベルン、フィールゼン、バート・ピルモント)
●11月、クナ、摂政劇場。「ラインの黄金」「ワルキューレ」「ジークフリート」「神々の黄昏」「サロメ」
●11-12月、クナ、パリ音楽院管、ソロヴィエフ、ヤンコフ。シューベルト第5番、ブラームス:ヴァイオリン協奏曲、「ドン・ファン」「アイネ・クライネ・ナハトムジーク」、シューマン:ピアノ協奏曲、ブラームス第4番
●12月、クナ、ブレーメン・フィル。ベートーヴェン第2番、ブラームス第4番 
 1953年 64-65歳

●1月、クナ、MPO。コングレスザール。ブルックナー第8番
●1月、クナ、VPO、ボスコフスキー。「ジークフリート牧歌」、ザルムホーファー:ヴァイオリン協奏曲、シューマン第4番、ウィンナ・コンサート
●1月、クナ、摂政劇場。「ばらの騎士」「さまよえるオランダ人」
●2月、クナ、摂政劇場。「トリスタンとイゾルデ」
●2月、クナ、MPO、フルニエ。「ジークフリート牧歌」、シューマン:チェロ協奏曲、「グレート」
●3月、クナ、摂政劇場。「さまよえるオランダ人」「オルフェウスとエウリディーチェ」。グルックはヴィーラント・ワーグナーによる抽象的な舞台。
●4月、クナ、ナポリ・サン・カルロ劇場。「ラインの黄金」「ワルキューレ」「ジークフリート」「神々の黄昏」。座席数が摂政劇場の約3倍にあたる3,285席の大劇場での「指環」。
●4月、クナ、バイロイト音楽祭に出演しない旨、ヴィーラント・ワーグナーに連絡。ヴィーラントは説得を試みるものの失敗。
●4月、クナ、摂政劇場。「ラインの黄金」「ワルキューレ」「ジークフリート」「神々の黄昏」
●4月、クナ、VPO。ベートーヴェン第2番、「悲愴」
●5月、クナ、演出が気に入らないためバイロイト音楽祭に出演しない旨、ヴィーラント・ワーグナーに再度連絡。
ヴィーラントはすぐにクレメンス・クラウスに出演を依頼。クラウスは、「ニーベルングの指環」と「パルジファル」の指揮を承諾。公演は成功を収め、ヴィーラントは翌年以降もクラウスの起用を決定。


●5月、クナ、VPO。「タンホイザー」序曲とヴェヌスベルクの音楽、「さまよえるオランダ人」序曲、「ワルキューレの騎行」、録音(DECCA)
●5月、クナ、ケルン放響。「ジークフリート牧歌」、ブラームス第4番
●5月、クナ、摂政劇場。「ワルキューレ」「ばらの騎士」
●6月、クナ、摂政劇場。「さまよえるオランダ人」
◆6月、東ベルリン暴動発生。東ベルリンの「スターリン通り」建設に際し、労働者が厳しいノルマに対して反発。これをきっかけに東ドイツ各地で蜂起が発生するものの、ソ連の武力介入により鎮圧。死者は民衆側と政府側を合わせて数百名規模。


●7月、クナ、摂政劇場。「マイスタージンガー」
●8月、クナ、摂政劇場。「マイスタージンガー」
●クナ、バイロイト市から名誉市民の称号を授与。
●9月、クナ、摂政劇場。「ばらの騎士」
●10月、クナ、パリ音楽院管、フィルクシュニー、プリムローズ。ハイドン第88番、ベートーヴェン:ピアノ協奏曲第4番、ブラームス第3番、「タンホイザー」序曲、「ジークフリート牧歌」、バルトーク:ヴィオラ協奏曲、シューマン第4番
●10月、クナ、摂政劇場。「さまよえるオランダ人」「ばらの騎士」
●11月、クナ、VPO。モーツァルト:フルートとハープのための協奏曲、フランツ・シュミット第2番
●12月、クナ、MPO、ゾンライトナー。ヘルクレスザール。「イタリア風セレナード」、ザルムホーファー:ヴァイオリン協奏曲、「英雄」
●12月、クナ、摂政劇場。「ラインの黄金」「ワルキューレ」「ジークフリート」「神々の黄昏」「魔弾の射手」「フィデリオ」 
 1954年 65-66歳

●1月、クナ、MPO。コングレスザール。ベートーヴェン第4番、「悲愴」
●1月、クナ、摂政劇場。「魔弾の射手」
●1月、クナ、VPO、バックハウス。「コリオラン」、ベートーヴェン:ピアノ協奏曲第4番、ベートーヴェン第7番
●1月、クナ、VPO、バックハウス。ツアー(ジュネーヴ、ローザンヌ、チューリヒ、フライブルク)。「コリオラン」、ベートーヴェン:ピアノ協奏曲第4番、ベートーヴェン第7番
●2月、クナ、パリ音楽院管、ブーコフ。「エグモント」序曲、ベートーヴェン:ピアノ協奏曲第3番、ベートーヴェン第7番
●2月、クナ、ボルドー国立歌劇場。14日から21日まで滞在して「ワルキューレ」を指揮。


●3月、クナ、摂政劇場。「ばらの騎士」「魔弾の射手」
●4月、クナ、VPO、カーゾン。ベートーヴェン:ピアノ協奏曲第4番、ブルックナー第3番、録音(DECCA)
●5月、クナのもとに、バイエルン国立歌劇場音楽総監督に就任して欲しいという連絡。クナは、1936年に国家社会主義政権からドイツ公使館在オランダ職員相手の発言に問題があったとして解任され、1945年にはアメリカ占領軍政府からナチ協力者として解任された過去があるという理由で要請を拒否。
●5月、クナ、摂政劇場。「フィデリオ」「さまよえるオランダ人」、、「魔弾の射手」
●6月、クナ、摂政劇場。「フィデリオ」「魔弾の射手」
●6月、クナ、MPO。コングレスザール。ブルックナー第5番
●7月、クナ、VPO。ブルックナー第8番
●7-8月、クナ、バイロイト。「マイスタージンガー」「パルジファル」


●8月、クナ、摂政劇場。「ラインの黄金」「ワルキューレ」「ジークフリート」「神々の黄昏」
●9月、クナ、BPO、ブローネ。ハイドン:序曲、ブルッフ:ヴァイオリン協奏曲第1番、ブルックナー第3番
●9月、クナ、摂政劇場。「エレクトラ」「フィデリオ」「ワルキューレ」「魔弾の射手」「ばらの騎士」「マイスタージンガー」
●10月、クナ、バイエルン国立管。コングレスザール。ブルックナー第3番
●10月、クナ、VPO、デ・オリヴァ。ベルガー:「ロンディーノ・ジョコーソ」、シューマン:ピアノ協奏曲、「ジークフリートのラインへの旅」「ワルキューレの騎行」、トラップ:管弦楽のための協奏曲第3番、ブルックナー第4番
●10月、クナ、摂政劇場。「さまよえるオランダ人」「魔弾の射手」「トリスタンとイゾルデ」
●11月、クナ、摂政劇場。「ばらの騎士」「さまよえるオランダ人」「フィデリオ」「神々の黄昏」「魔弾の射手」
●12月、クナ、摂政劇場。「フィデリオ」「魔弾の射手」「ローエングリン」 
 1955年 66-67歳

●1月、クナ、MPO。コングレスザール。「モルダウ」「くるみ割り人形」組曲、「新世界より」
●1月、クナ、摂政劇場。「マイスタージンガー」「ラインの黄金」「ワルキューレ」「ジークフリート」「神々の黄昏」「ローエングリン」「魔弾の射手」
●2月、クナ、パリ音楽院管。「悲劇的序曲」、モーツァルト:ピアノ協奏曲第20番、「町人貴族」組曲、「魔弾の射手」序曲、「ブルレスケ」、チャイコフスキー第5番
●2月、クナ、摂政劇場。「フィデリオ」
●3月、クナ、バイエルン国立管。コングレスザール。「舞踏への勧誘」「ウィーンの森の物語」「千一夜物語」間奏曲、「シェーンブルンの人々」「軍隊行進曲」「ピツィカート・ポルカ」「エジプト行進曲」「アンネン・ポルカ」「南国のバラ」「バーデン娘」
●3月、クナ、摂政劇場。「ルイーズ」「ローエングリン」「さまよえるオランダ人」「ワルキューレ」
●3-4月、クナ、VPO。「ドン・ファン」、ブルックナー第4番、「ジークフリート牧歌」、録音(DECCA)
●4月、クナ、摂政劇場。「ルイーズ」「ローエングリン」
●4月、クナ、BPO、カーゾン。「バグダッドの理髪師」序曲、「皇帝」、シューマン第4番
●4月、クナ、BPO、エルトマン。スイス・ツアー(ローザンヌ、チューリヒ、ベルン)。「ドン・ファン」、ベートーヴェン:ピアノ協奏曲第2番、シューマン第4番
●5月、クナ、パリ・オペラ座。「ラインの黄金」「ワルキューレ」「ジークフリート」「神々の黄昏」
●6月、クナ、摂政劇場。「ルイーズ」「ばらの騎士」
●7月、クナ、VPO、カーゾン。ブラームス「悲劇的序曲」、ピアノ協奏曲第2番、交響曲第3番
●7-8月、クナ、バイロイト。「さまよえるオランダ人」「パルジファル」
●8月、クナ、摂政劇場。「ラインの黄金」「ワルキューレ」「ジークフリート」
●9月、クナ、摂政劇場。「神々の黄昏」「ローエングリン」「ばらの騎士」「マイスタージンガー」
●10月、クナ、MPO。ヘルクレスザール。ベートーヴェン第8番、ブラームス第2番
●10月、クナ、摂政劇場。「ワルキューレ」「ルイーズ」「ローエングリン」
●11月、クナ、摂政劇場。「フィデリオ」「さまよえるオランダ人」
●11月、クナ、ウィーン国立歌劇場。「ばらの騎士」
●11月、クナ、VPO。ブルックナー第8番
●12月、クナ、バイエルン国立管。コングレスザール。ブルックナー第8番
●12月、クナ、バイエルン国立管。コングレスザール。ブルックナー第8番
●12月、クナ、摂政劇場。「サロメ」「ルイーズ」「ローエングリン」「ばらの騎士」 
 1956年 67-68歳

●1月、クナ、MPO。コングレスザール。「オベロン」序曲、「なき子をしのぶ歌」「グレート」
●1月、クナ、摂政劇場。「マイスタージンガー」「さまよえるオランダ人」「魔笛」
●2月、クナ、摂政劇場。「ローエングリン」「魔笛」
●3月、クナ、摂政劇場。「トリスタンとイゾルデ」「魔笛」「フィデリオ」
●4月、クナ、BPO。トラップ:管弦楽のための協奏曲第3番、「なき子をしのぶ歌」、ベートーヴェン第5番、「ウィンザーの陽気な女房たち」序曲、「くるみ割り人形」組曲、ハンガリー舞曲第5番、第6番、「加速度」「アンネン・ポルカ」「ウィーン市民」「ピツィカート・ポルカ」「美しく青きドナウ」「奇術師」前奏曲
●4月、クナ、摂政劇場。「魔笛」「フィデリオ」「さまよえるオランダ人」「サロメ」
●5月、クナ、パリ音楽院管。「ドン・ファン」「死と変容」、録音(DECCA)
●5月、クナ、パリ・オペラ座。「トリスタンとイゾルデ」
●5月、クナ、VPO、フラグスタート。ワーグナー作品集、録音(DECCA)
●5月、クナ、摂政劇場。「ローエングリン」「さまよえるオランダ人」「サロメ」
●6月、クナ、VPO。ブルックナー第5番、「ジークフリートのラインへの旅」「ジークフリートの葬送行進曲」、録音(DECCA)


●7-8月、クナ、バイロイト。「ラインの黄金」「ワルキューレ」「ジークフリート」「神々の黄昏」「パルジファル」
●8月、クナ、摂政劇場。「ローエングリン」
●9月、クナ、摂政劇場。「ばらの騎士」「魔笛」「マイスタージンガー」
●9月、クナの兄グスタフが、西ドイツ政府より「ドイツ連邦共和国功労勲章一等功労十字章」を授与されます。本業の「グスト・クナッパーツブッシュ」運営の傍ら、ヴッパータールの地方裁判所で、25年間に渡って名誉商業裁判官を務めていたことが称えられたものです。
●10月、クナ、MPO、キスカルト。コングレスザール。ベートーヴェン第8番、ボッケリーニ:チェロ協奏曲、ブラームス第2番
●10月、クナ、MPO、キスカルト。ツアー(バーゼル、アスコーナ。チューリヒ)。ベートーヴェン第8番、ボッケリーニ:チェロ協奏曲、ブラームス第2番
●10月、クナ、ベルリン国立歌劇場。「マイスタージンガー」。 下の画像は再建されたベルリン国立歌劇場で、以前の建物とは屋根の上部などが違っています。また、右隣に見える聖ヘートヴィヒ大聖堂も爆撃で上部構造物が破壊されてシンプルになっています。


◆10月、ハンガリー動乱。ハンガリーの共産主義政権に対して蜂起した市民たちを制圧すべくソ連が軍事介入。市街戦の様相を呈した「ハンガリー動乱」は、死傷者1万7千人という犠牲を出し、難民の数も20万人とも言われる大惨事。ウィーン郊外の収容施設には、膨大な数の難民が受け入れられ、中には音楽家たちも数多く含まれていました。


●11月、クナ、シュターツカペレ・ドレスデン。ブラームス第3番、シューマン第4番
●11月、クナ、摂政劇場。「ラインの黄金」「ワルキューレ」「ジークフリート」「神々の黄昏」
●12月、クナ、摂政劇場。「ローエングリン」「フィデリオ」「魔笛」「ばらの騎士」 
 1957年 68-69歳

●1月、クナ、MPO、ゾンライトナー。コングレスザール。プフィッツナー:管弦楽のためのスケルツォ、ブラームス:ヴァイオリン協奏曲、シューマン第4番
●1月、クナ、VPO。ブルックナー第5番
●1月、クナ、摂政劇場。「マイスタージンガー」「ウィンザーの陽気な女房たち」
●2月、クナ、摂政劇場。「ウィンザーの陽気な女房たち」
●2月、クナ、パリ音楽院管、デトレフ・クラウス、ピエール・ネリーニ。「悲劇的序曲」、ブラームス:ヴァイオリン協奏曲、ブラームス第3番、「コリオラン」「皇帝」
●3月、クナ、摂政劇場。「ばらの騎士」「ウィンザーの陽気な女房たち」「フィデリオ」「ローエングリン」
●4月、クナ、ミラノ・スカラ座。「トリスタンとイゾルデ」
●4月、クナ、BPO、アラウ。ブラームス:ピアノ協奏曲第2番、「悲愴」
●4月、クナ、摂政劇場。「ばらの騎士」「ウィンザーの陽気な女房たち」
●5月、クナ、パリ・オペラ座。「ラインの黄金」「ワルキューレ」「ジークフリート」「神々の黄昏」
●6月、クナ、VPO、カーゾン。「皇帝」「大学祝典序曲」「悲劇的序曲」「ハイドン変奏曲」「アルト・ラプソディ」、録音(DECCA)
●7-8月、クナ、バイロイト。「ラインの黄金」「ワルキューレ」「ジークフリート」「神々の黄昏」「パルジファル」
●9月、クナ、摂政劇場。「ばらの騎士」「マイスタージンガー」
●10月、クナ、VPO。「軽騎兵の歌による変奏曲」「グレート」
●10月、クナ、VPO、カーゾン。「ラデツキー行進曲」「バーデン娘」「アンネン・ポルカ」「加速度」「トリッチ・トラッチ・ポルカ」「ウィーン市民」「ウィーンの森の物語」、 「浮気心」、ブラームス:ピアノ協奏曲第2番、「ワルキューレ」第1幕、録音(DECCA)


●11月、クナ、ベルリン国立歌劇場。「ラインの黄金」「ワルキューレ」「ジークフリート」「神々の黄昏」。
●11月、クナ、摂政劇場。「神々の黄昏」
●12月、クナ、摂政劇場。「魔笛」「ウィンザーの陽気な女房たち」「フィデリオ」「さまよえるオランダ人」「ローエングリン」「ばらの騎士」 
 1958年 69-70歳

●クナ、転居。ミュンヘン市ボーゲンハウゼン地区のマリア・テレジア・シュトラーセのベヒトルスハイム。
●1月、クナ、バイエルン国立歌劇場の国民劇場(ナツィオナルテアター)の再建工事が遅れていることに抗議して1年間、バイエルン国立歌劇場への出演を見合わせ。


●1月、クナ、MPO。コングレスザール。「リュートのための古代の舞曲とアリア」第2番、「ドン・キホーテ」、ブラームス第3番
●2月、クナ、バイエルン国立管。コングレスザール。「未完成」、ブルックナー第9番
●3月、クナ、ミュンヘン市から金メダルを贈呈。
●3月、クナ、ミュンヘン・フィルから名誉の指環を贈呈。
●3月、クナ、ベルリン・フィルから名誉会員の称号を贈られます。
●4-5月、クナ、パリ・オペラ座。「トリスタンとイゾルデ」「ジークフリート」「神々の黄昏」
●6月、クナ、VPO、ジョージ・ロンドン。ワーグナー作品集、録音(DECCA)
●7-8月、クナ、バイロイト。「ラインの黄金」「ワルキューレ」「ジークフリート」「神々の黄昏」「パルジファル」
●11月、クナ、VPO。ハイドン第88番、ベルガー:「ロンディーノ・ジョコーソ」「死と変容」、ブラームス第3番
●11月、クナ、VPO。ツアー(ベルン、チューリヒ、パリ、ザルツブルク、ボルツァーノ)。ハイドン第88番、ベルガー:「ロンディーノ・ジョコーソ」「死と変容」「4つの最後の歌」(ユリナッチ)、ブラームス第3番、ベートーヴェン第5番 
 1959年 70-71歳

●1月、クナ、摂政劇場。「トリスタンとイゾルデ」「ばらの騎士」「さまよえるオランダ人」
●1月、クナ、MPO、ゾンライトナー、キスカルト。ブラームス:二重協奏曲、「グレート」
●2-3月、クナ、ミラノ・スカラ座。「さまよえるオランダ人」
●3月、クナ、MPO。ヘルクレスザール。ブルックナー第5番
●3月、クナ、摂政劇場。「さまよえるオランダ人」
●4月、クナ、摂政劇場。「ウィンザーの陽気な女房たち」「フィデリオ」
●5月、クナ、パリ・オペラ座。「ローエングリン」
●5月、クナ、摂政劇場。「タンホイザー」「ウィンザーの陽気な女房たち」「マイスタージンガー」
●6月、クナ、摂政劇場。「ラインの黄金」「ワルキューレ」「ジークフリート」「神々の黄昏」
●7月、クナ、バイロイトで、フランス政府よりレジオン・ドヌール勲章を授与。フランス語で挨拶。


●7-8月、クナ、バイロイト。「パルジファル」
●8月、クナ、摂政劇場。「トリスタンとイゾルデ」
●9月、クナ、摂政劇場。「ばらの騎士」
●9月、クナ、VPO、ニルソン。「トリスタンとイゾルデ」抜粋、録音(DECCA)
●11月、クナ、シュターツカペレ・ベルリン。ワーグナー・コンサート
●11月、クナ、ベルリン国立歌劇場。「ラインの黄金」「ワルキューレ」「ジークフリート」「神々の黄昏」。クナ最後の「ニーベルングの指環」。当時の音楽総監督はコンヴィチュニー。
●11月、クナ、シュターツカペレ・ドレスデン。ハイドン第88番、「死と変容」、ブラームス第2番
●12月、クナ、バイエルン国立管、バックハウス。コングレスザール。「レオノーレ」第3番、「皇帝」、ベートーヴェン第8番
●12月、クナ、摂政劇場。「魔笛」「タンホイザー」「ばらの騎士」「ウィンザーの陽気な女房たち」 
 1960年 71-72歳

●1月、クナ、MPO。コングレスザール。「アイネ・クライネ・ナハトムジーク」「くるみ割り人形」組曲、ブラームス第2番
●1月、クナ、MPO。ヘルクレスザール。ブルックナー第8番
●1月、クナ、摂政劇場。「ばらの騎士」「さまよえるオランダ人」
●2月、クナ、VPO。「ジークフリート牧歌」、ブルックナー第3番
●2月、クナ、VPO。「くるみ割り人形」組曲、「舞踏への勧誘」「軍隊行進曲」「ウィンザーの陽気な女房たち」序曲、録音(DECCA)
●2月、クナ、VPO。リンツ公演。「ジークフリート牧歌」、ブルックナー第3番
●2月、クナ、摂政劇場。「ばらの騎士」
●3月、クナ、摂政劇場。「ウィンザーの陽気な女房たち」
●3月、クナ、北ドイツ放響、バドゥラ=スコダ。「コリオラン」「皇帝」、ベートーヴェン第8番
●4月、クナ、摂政劇場。「フィデリオ」「ばらの騎士」「ウィンザーの陽気な女房たち」
●5月、クナ、パリ・オペラ座。「さまよえるオランダ人」「フィデリオ」
●6月、クナ、摂政劇場。「ウィンザーの陽気な女房たち」
●7-8月、クナ、バイロイト。「パルジファル」「マイスタージンガー」
●8月、クナ、摂政劇場。「ばらの騎士」
●9月、クナ、摂政劇場。「トリスタンとイゾルデ」
●10月、クナ、摂政劇場。「ばらの騎士」「フィデリオ」「ウィンザーの陽気な女房たち」
●11月、クナ、摂政劇場。「ウィンザーの陽気な女房たち」「さまよえるオランダ人」「フィデリオ」「魔笛」
●10月、クナ、ケルン・ギュルツェニヒ管。ブルックナー第3番
●12月、クナ、摂政劇場。「ウィンザーの陽気な女房たち」「さまよえるオランダ人」「フィデリオ」「ローエングリン」
◆西ドイツのGNP世界第2位に。1968年まで。 
 1961年 72-73歳

●1月、クナ、MPO、キスカルト。「オベロン」序曲、ハイドン:チェロ協奏曲第2番、ブラームス第3番
●1月、クナ、摂政劇場。「さまよえるオランダ人」「ウィンザーの陽気な女房たち」「ばらの騎士」
●1月、クナ、ブリュッセルで胃の手術を受け、4分の3を切除。一時はかなりやせ細った状態となります。
◆3月、西ドイツ政府、ドイツマルクを5%切り上げ。
●5月、クナ、摂政劇場。「ウィンザーの陽気な女房たち」「マイスタージンガー」
●6月、クナ、摂政劇場。「フィデリオ」
●7月、クナ、摂政劇場。「さまよえるオランダ人」
●7-8月、クナ、バイロイト。「パルジファル」
◆春、東ドイツの経済が急速に悪化。
◆5月、東ドイツ、バターと肉が配給制に。
◆6月15日、ウルブリヒト議長が議会で壁を建設するつもりはないと発言。
◆7月、フルシチョフにより東西ベルリンの境界閉鎖が決定。
◆8月13日、東ドイツ、ホーネッカーの指揮で「ベルリンの壁」の建設を開始。1952年からフェンスと警報装置が備えられ、国境警備もおこなわれていた西ベルリンと東ドイツの境界線に、頑丈なコンクリートの壁と有刺鉄線を設置。幅広い分離帯も設けて障害物を置いたほか、地雷を埋めたりもして、東ドイツから西ベルリンへの越境を阻止するために莫大な国費が投じられます。
ちなみに東ドイツ建国からこの1961年までの約11年間に、累計約360万人の東ドイツ人が西ドイツに移り、累計約50万人の西ドイツ人が東ドイツに移っています。当時の東ドイツの人口は約1,700万人で、移住者の多くは生産年齢に該当したため、東ドイツ経済を押し下げ、西ドイツ経済を押し上げるのに十分な数でした。また、東ベルリンと西ベルリンの相互移動に問題がなかった時期には、物価や賃金水準の違いによって生じた往来人口は1日あたり約50万人に達しており、東側からの物品流出や、東側通貨弱体化の要因ともなっていました。
なお、「ベルリンの壁」建設後に脱出に成功した人の数は約18万人で、これに合法的に西ドイツに移住した約72万7千人を加えると、「ベルリンの壁」建設後の流出人口は約90万7千人となります。合法的転出者の多くは高齢者でした。下の画像、ブランデンブルク門のある左側が東ベルリンで、右側が西ベルリンとなります。


●10月、クナ、摂政劇場。「魔笛」「ウィンザーの陽気な女房たち」
●10月、クナ、VPO。ブルックナー第8番
●10月、クナ、北ドイツ放響。ブルックナー第8番
●11月、クナ、摂政劇場。「魔笛」
●12月、クナ、摂政劇場。「さまよえるオランダ人」「ウィンザーの陽気な女房たち」「ローエングリン」
●12月、クナ、バイエルン国立管。「フィデリオ」、録音(Westminster) 


 1962年 73-74歳

●クナ、転居。ミュンヘン市ボーゲンハウゼン地区のグスタフ・フライターク・シュトラーセ10のヘルツォークパーク。亡くなるまでここで暮らします。
●1月、クナ、MPO、シュレーダー。「ジークフリート牧歌」、モーツァルト:クラリネット協奏曲、シューマン第4番
●1月、クナ、北ドイツ放響、フォルデシュ。「コリオラン」、ベートーヴェン:ピアノ協奏曲第3番、ブルックナー第3番
●2月、クナ、バイエルン国立管、バドゥラ=スコダ。「コリオラン」、ベートーヴェン:ピアノ協奏曲第4番、ベートーヴェン第5番
●2月、クナ、VPO。ベートーヴェン第2番、「エロイカ」
●3月、クナ、フランクフルト放響、バドゥラ=スコダ。ハイドン第88番、モーツァルト:ピアノ協奏曲第20番、ベートーヴェン第5番
●4月、クナ、摂政劇場。「さまよえるオランダ人」「フィデリオ」
●5月、クナ、ケルン放響、アンダ。「オイリアンテ」序曲、ベートーヴェン:ピアノ協奏曲第3番、ブラームス第3番
●5月、クナ、摂政劇場。「魔笛」「ウィンザーの陽気な女房たち」「さまよえるオランダ人」「ローエングリン」
●5月、クナ、VPO、バックハウス、ニルソン。「レオノーレ」第3番、ベートーヴェン:ピアノ協奏曲第4番、「トリスタンとイゾルデ」前奏曲と愛の死
●6月、クナ、摂政劇場。「ウィンザーの陽気な女房たち」
●7月、クナ、摂政劇場。「魔笛」
●7-8月、クナ、バイロイト。「パルジファル」
●8月、クナ、摂政劇場。「ローエングリン」
●9月、クナ、摂政劇場。「魔笛」「フィデリオ」
●10月、クナ、摂政劇場。「ウィンザーの陽気な女房たち」「フィデリオ」「魔笛」「さまよえるオランダ人」
●11月、クナ、MPO。ワーグナー管弦楽曲集、録音(Westminster)
●11月、クナ、摂政劇場。「フィデリオ」
●12月、クナ、バイエルン国立管。ベートーヴェン第8番、「英雄」
●12月、クナ、VPO。ハイドン第88番、「死と変容」、シューマン第4番
●12月、クナ、摂政劇場。「魔笛」 


 1963年 74-75歳

●1月、クナ、MPO、フォルデシュ。「リエンツィ」序曲、ベートーヴェン:ピアノ協奏曲第3番、ブラームス第2番
●1月、クナ、摂政劇場。「フィデリオ」「魔笛」
●1月、クナ、MPO。ヘルクレスザール。ブルックナー第8番
●1月、クナ、MPO。ブルックナー第8番、録音(Westminster)


●2月、クナ、摂政劇場。「ウィンザーの陽気な女房たち」「さまよえるオランダ人」
●3月、クナ、摂政劇場。「魔笛」
●3月、クナ、ミュンヘン市から名誉市民の称号を授与。
●3月、クナ、ウィーン・フィルから「ニコライ・メダル」を授与
●3月、クナ、摂政劇場。「フィデリオ」
●3月、クナ、北ドイツ放響。ワーグナー・コンサート
●4月、クナ、ベルリン・ドイツ・オペラ。「フィデリオ」
●5月、クナ、ケルン放響。「ハイドン変奏曲」、ブルックナー第7番
●5月、クナ、VPO。「ジークフリート牧歌」「ワルキューレ」第1幕
●6-7月、クナ、摂政劇場。「ウィンザーの陽気な女房たち」
●7-8月、クナ、バイロイト。「パルジファル」
●9月、クナ、摂政劇場。「ローエングリン」
●11月、クナ、シュトゥットガルト放響。「悲劇的序曲」「ハイドン変奏曲」、ブラームス第3番
●11月、クナ、バイエルン国立歌劇場の国民劇場再建記念公演で、ベートーヴェンの「献堂式」序曲のみ指揮
●12月、クナ、バイエルン国立管。「悲劇的序曲」「ハイドン変奏曲」、ブラームス第3番 


 1964年 75-76歳

●1月、クナ、MPO、フォルデシュ。「皇帝」、シューマン第4番、「死と変容」、ブルックナー第3番。
●1月、クナ、国民劇場。「フィデリオ」。
●3月、摂政劇場、老朽化のため閉鎖。1988年に改修が始まり1996年に本格的に復活。
●4月、クナ、VPO。「ハイドン変奏曲」、ブルックナー第4番。
●6月、クナ、国民劇場。「ウィンザーの陽気な女房たち」
●7月、クナ、国民劇場。「フィデリオ」。これがバイエルン国立歌劇場でのクナの最後の出演でした。1922年から42年間に及ぶ長い付き合いとなり、54の作品で、約1,500回の上演を指揮しています。


●7-8月、クナ、バイロイト。「パルジファル」

●9月29日(30日)、クナ、自宅で転倒して大腿骨を骨折。
●9月30日、クナ、手術。
●12月上旬、クナ、退院。以後、自宅で療養。 
 1965年 76-77歳

●10月25日、クナ、急性心不全および循環器不全のため自宅で死去。自宅は1962年から居住しているミュンヘン市ボーゲンハウゼン地区のグスタフ・フライターク・シュトラーセ10のヘルツォークパーク。
●10月28日、クナ、自宅近くの聖ゲオルク墓地に埋葬。
●10月31日、バイエルン(国民劇場)でクナ追悼式。マインハルト・フォン・ツァリンガー指揮でブラームス交響曲第3番第3楽章、ロベルト・ヘーガー指揮で「パルジファル」より、ヨーゼフ・カイルベルト指揮で「ジークフリートの葬送行進曲」が演奏。
●11月11日、ウィーン・フィルがクナ追悼コンサート。
ゲオルク・ショルティ指揮で「ジークフリートの葬送行進曲」とブルックナー交響曲第7番第2楽章「アダージョ」。
●11月17日、ミュンヘン市議会は旧市庁舎でクナ追悼式典を実施。ロベルト・ヘーガー指揮ミュンヘン・フィルのモーツァルト「セレナーデ」第10番から「アダージョ」、R.シュトラウス「メタモルフォーゼン」。 

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オペラのボックスが発売されるかわからなか...

投稿日:2021/02/23 (火)

オペラのボックスが発売されるかわからなかったので、VENIASのあの4つのボックスをまとめた200枚越えの商品を買いました。

せごびあ さん | 愛知県 | 不明

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