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ドビュッシー(1862-1918)

CD 月の光〜辻井伸行・プレイズ・ドビュッシー

月の光〜辻井伸行・プレイズ・ドビュッシー

商品ユーザレビュー

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    ギマロ  |  東京都  |  不明  |  2020年06月04日

    とにかく素晴らしいアルバムである。辻井さんの演奏は卓越した技に加え綺麗で繊細な音が持ち味だが、ここでも十分に発揮されている。 辻井さんのハンデキャップを全く感じさせない。むしろ超越した美しいドビュッシーの音の世界がある。フランソワやミケランジェリ、チッコリーニ、ベロフも勿論素晴らしいが、決して負けていないと思う。

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    マント・ケヌーマー  |  静岡県  |  不明  |  2015年05月04日

    現在の演奏家のクラシックCDを購入したのは何年ぶりだろう。 それほど彼の演奏には魅力と求心力を感じた。現代では珍しいヴィルトオーソ。とっくに絶滅したヴィルトオーソ。こういう演奏家が出現したことに感動すら覚える。 もし、彼が盲目でなかったとしたら、クラシックファン以外の知名度など皆無に等しいヴァン・クライバーン国際音楽コンクールでの優勝という快挙が、あれほど津々浦々にまで知れ渡り、マスコミにより連日騒ぎ立てられ、数多の俄かファンを生むなどという異様な現象は起こらなかったかも知れない。 果たしてそうだろうか?盲目のピアニストが優勝!はメディアのキャッチコピーでそれでより話題性が上がったのは事実である。 しかし、優勝者が出ない、でにくい野で有名な難関コンクールで1位になったのは彼の演奏がすばらしかったからで、目が見えないことが考慮されていない。これは事実である。そう彼の演奏が審査員の心を動かしたからである。彼の演奏を聴く場合、目が見えないことは忘れたほうがいい。肝心なことを見逃すことになるからである。そうしないと、話題性と芸術的真価とを取り違え、ハンディキャップを持つ人間に対して、憐憫という名の差別意識を持つ人が余りにも多い。 これを克服しない限りは、我が日本におけるクラシック音楽のレベルは未来永劫ヨーロッパに太刀打ち出来やしないだろう。こういう差別的、上から目線で物を言う人間になってしまう。 演奏家は劣っているとは思わないが、鑑賞する人間はいささか問題がある人も多いのが事実。評論家の評価のみを信じ自分でちゃんと評価できない人が多い。残念だけど・・・ 山根銀二「音楽美入門」  第十章 演奏と鑑賞 より  音楽は意味の芸術である。・・・され、さまざまな形式が作られてゆく。こうして音楽は人生的な意味をあらわす芸術となり、すでに永い歴史をそういう資格において過してきているのである。  音楽が音の組立であらわされた意味であり、音で組立てられた意味であるというときに、その組立てる仕事の内部は二つの主要な部分に分けられる。一つは全体の設計に基づいてどこにどの音を置くかを心に思い浮べ、それを楽譜に書きつけてゆく仕事であり、もう一つはそのようにして楽譜に書かれたものを、楽器なり肉声なりによって現実の音に鳴らす仕事である。この二つが結びつけられて、音は現実に意味的に組立てられてゆくのであって、このように音の組立を実際につくり出してゆく営みによって、音楽は成り立っているのである。その場合、前のものが作曲と呼ばれ、後のものが演奏と呼ばれる仕事であることはいうまでもない。 例えば喜びの島を聞けば分かるだろう。ワトーのシテール島への船出を見て作曲者が深い感銘を受けて作られたのであるが、見事に彼のピアノから伝わってくる。 月の光はどうだろうか? 彼の演奏の色彩感は、そうたとえれば、懐石料理の出汁、塩加減であると思う。そういう意味では聞き手を選ぶ(本当は聞き手が受け付けないだけであるが・・・)普段、ファミレスやらーめんにコショウを大量にかける人には難しいと思う。決してフランソワにせよミケランジェリにせよ、こうした色彩感覚が実に豊かなのである。 しかし、辻井の演奏には、「色彩の変化」というものがない。ということではなく、フレンチやイタリアンと和食で味の濃さを比較しているようなものでナンセンス。 彼が果たして、一過性なのか、それとも本物なのかこれからの彼の人生で証明されていくことだろう。 辻井のCDが欧州で売れるのに日本でさっぱり売れないことにならないことを祈る。 (このことが日本でクラシック音楽の販売状態の深刻な問題なんだが)

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    遊悠音詩人  |  埼玉県  |  不明  |  2014年04月01日

    「盲目でこれほどのピアノが弾けるのか。」 辻井伸行を聴くとき、大方の人はそう言うだろう。 もし、彼が盲目でなかったとしたら、クラシックファン以外の知名度など皆無に等しいヴァン・クライバーン国際音楽コンクールでの優勝という快挙が、あれほど津々浦々にまで知れ渡り、マスコミにより連日騒ぎ立てられ、数多の俄かファンを生むなどという異様な現象は起こらなかったかも知れない。 だが、こうした風潮が、昨今世間を賑わせている「耳が聴こえないのにあれだけの交響曲を書ける作曲家」という、虚像を生み出したに違いないのである。 おおよそ、話題性と芸術的真価とを取り違え、ハンディキャップを持つ人間に対して、憐憫という名の差別意識を持つ人が余りにも多い。 これを克服しない限りは、我が日本におけるクラシック音楽のレベルは未来永劫ヨーロッパに太刀打ち出来やしないだろう。 実際、ここに聴くドビュッシーも、綺麗なのだが何かが明らかに足りない。 それは「色彩」である。 ドビュッシーは印象派の巨匠として名高い。印象派といえば元々は絵画の世界の言葉だ。モネ、マネ、ルノワールなどの絵画を見れば分かると思うが、輪郭線に頼らず、光と陰のコントラストによってモティーフを浮かび上がらせようとする手法が、ドビュッシーの音楽にも如実に現れている。 ゆえに、ドビュッシーの名盤と呼ばれるものには、フランソワにせよミケランジェリにせよ、こうした色彩感覚が実に豊かなのである。 しかし、辻井の演奏には、「色彩の変化」というものがない。タッチは確かに美しいが、光と陰が絶えずたゆとうような感覚は、如何せん皆無である。 色彩は視覚的なものであり、視覚を奪われた辻井にとっては再現不能なものかもしれない。確かに「心象風景」という、視覚よりはメンタル的な意味での色彩感覚というものもある。だが、それは心の中に浮かぶものを、過去にその目で見た様々な色彩と関連付けて、始めて生まれるものなのだ。 ゆえに、ドビュッシーを聴きたいのであれば、同じ3000円をフランソワやミケランジェリに注いだ方がはるかにいい音楽を聴けるはずだ。一過性の話題に振り回されては、本物は分からない。

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