トップ > 音楽CD・DVD > クラシック > シューマン、ロベルト(1810-1856) > 『ゲーテのファウスト』からの情景 フリム演出、ダニエル・バレンボイム&ベルリン国立歌劇場、ローマン・トレーケル、他(日本語字幕付)

シューマン、ロベルト(1810-1856)

Blu-ray Disc 『ゲーテのファウスト』からの情景 フリム演出、ダニエル・バレンボイム&ベルリン国立歌劇場、ローマン・トレーケル、他(日本語字幕付)

『ゲーテのファウスト』からの情景 フリム演出、ダニエル・バレンボイム&ベルリン国立歌劇場、ローマン・トレーケル、他(日本語字幕付)

商品ユーザレビュー

  • ★★★★★ 
    (1 件)
  • ★★★★☆ 
    (0 件)
  • ★★★☆☆ 
    (0 件)
  • ★★☆☆☆ 
    (0 件)
  • ★☆☆☆☆ 
    (0 件)

レビューを書いてみませんか?

レビューを書く

検索結果:1件中1件から1件まで表示

  • ★★★★★ 

    Maya  |  熊本県  |  不明  |  2023年06月10日

    この作品を舞台にかけるとは素晴らしく攻めた企画ではないでしょうか。当時のメルケル首相の顔も客席に見える、ドイツ統一記念日でもあるこの日。おそらく「統一」とか「神聖」とか「壮大」といった価値観をいったんパステルで塗りつぶして子どもの遊びにしてしまおうという舞台。ドイツ表現主義から真剣さと漆黒さをあえて取り外し、ふざけ倒してしまおうという「ノイエ」な舞台。その結果複雑怪奇な「ファウスト」の世界が輪をかけてちんぷんかんぷんなものにされ、内容伝達よりは脱臼化が確信犯的に繰り広げられる。その意図は分からなくもないが、正直最後までいたたまれない思いがあった。 で、あるにも関わらず、視聴した翌日も、美しいとしか言いようのないわだかまりが残っている。雨後の水溜まりが紫陽花を映しているように。なぜなのか。やはり音楽である。繊細過ぎ、一心過ぎて影のように流れていたシューマンの音楽が、「舞台」という視覚への暴力のあとに、不屈の野花のように香り、脳裏に立ち上がってくる。 そしてそれが舞台の記憶に逆流して、汚泥が汚泥のまま祝福される世界が広がっていた、そんな気がしてきた。 ファウスト、グレートヒェン、メフィストフェレス、それぞれが同時に2人づつ存在するが、それは演じ手と歌い手であるとともに、二重化している人格を人間存在の象徴とみなすものと思われ、原作をあえて忠実に視覚化するならこうなるほかあるまい。 つまりある程度原作を知っていることが求められる舞台である。しかしそれならシューマンが曲をつけなかった部分まで語らせる必要は、私見では、なかった気がする。それがあっても内容理解が直接深まることはなく、むしろ混乱するし、ストーリーは人間存在の悲惨とそこからの脱却を象徴するものと割り切れば、シューマンが付曲した範囲で充分と思われるからである。 そのことを別にすれば、舞台化困難と思われる楽曲への、大胆な挑戦であり、私としてはかねて大事に聴いてきた曲をますます好きになれた思いがするだけでも感謝したい。 第1部では葬列に生きながら運ばれてくるグレートヒェンの祈りがまず卓抜な着想であると思われた。全体に、舞台がどんなに極彩色でも、歌と管弦楽の響きはまさに王道のものと感じられ、その視覚と聴覚の齟齬が非常な詩情を醸す瞬間もある。 第2部での控え目だがドラマティックな音楽は舞台の有無に関わらず素晴らしいが、やはり死者たちを少年少女合唱が演じる作曲者の着想に驚嘆を新たにする。 第3部はマーラーに半世紀以上先駆している超絶的な音楽だが、マリアを讃える神父役のテノールが私としては不満であった。しかし一切を茶番化する方針の舞台にあって、この熱く悲愴な旋律は、何者が歌っても違和感を伴ってしまうであろう。 全体に、この曲はやはり思念の中で、ひとり向き合うときにだけ、理屈や論理を越えたヴィジョンをもたらしてくれるものであろう。作曲者は、ゲーテを使って、ゲーテ以上のものを模索していたと思われてならない。そのことに気づかせてくれたのがこの舞台であることに間違いはない。 この内面的な音楽に現実の舞台を与えて、大勢の美意識や価値観に問題を提起するというリスクを敢えてとった企画実行者と出演者全員に、この場を借りて心からの感嘆と感謝を捧げたい。

    0人の方が、このレビューに「共感」しています。

    このレビューに 共感する

検索結果:1件中1件から1件まで表示