--- 今作は、マックス・マニックスさんの脚本を基に映画化されたそうなのですが、監督が、小泉今日子さん演じる母親、恵のキャラクターを膨らませるとともに、小柳友さん演じる長男、貴のエピソードを脚色されたとのことですが、その部分も含めまして、特に監督が意識して加えられたシーンやセリフなどをお聞かせ頂きたいのですが。
黒沢 それはいっぱいあるんですけどね、どうしましょう(笑)・・・今おっしゃったように、もともとのオリジナルのストーリーは、家族4人はいたんですけど、主に、リストラされたことを家族に言えない父親とピアノを黙ってやっている次男が中心だったんですね。それはそれでシンプルなおもしろい話だったんですけど、せっかくあと2人、母親も長男もいるので、この2人にも同じくらいの分量のドラマをちゃんと作りたいと思ったんですね。ですから、この2人の部分を主に、書き加えていったんです。
観て頂いておわかりのように、父親と次男は、家の中ではそしらぬ顔をしているけれど、外に、ある秘密を持っている。外と中に問題を抱えているんですが、それは分断されていて、外の自分と家の自分がいるという構図なんですね。
長男の方はそれと同じ構図なんですが、外の問題というものを異常にデカくしたんです(戦争に行くという設定で)。ここまで外がデカいと、もう家には戻ってこないだろうっていうくらい、外をデカくしたんですね。で、母親の場合は真逆に、前半・・・中盤をかなり行くまでは、外の問題というのはない。問題は全部、内側にしかない・・・つまり、自分自身に結局、なって行くんですけど。
それで4人のバランスを取ったつもりだったんですけど、やっぱり、均等なつもりでも、長男がうんと外に広がって行って、母親はうんと自分自身を見つめ直す方向に行って・・・。全体としては、支離滅裂って言えば支離滅裂なんですが、すごく幅が出たかなあと思いました。
あとは・・・「付け加えておもしろかったな」って思うのは、ピアノを弾く次男ですけど、彼も家を飛び出てって、警察に捕まるっていうね(笑)。警察に捕まって、牢屋に入れられるっていうのは全く、オリジナルにはないんです。あそこはセリフも何もない、ある意味で淡々としたシーンなんですけど、子供とはいえ、こんなひどい目に遭うっていうのは、まあこれは一方で、長男は戦場にまで行っているっていうのがあったからなんですけど。
長男ほどは無理にしても、彼にとってはかなり思いきったとこまで行って、「1度はひどい目に遭ってもらいたい」と思って。かなりいい感じにひどい目に遭ってて、僕は好きですけどね(笑)。
--- 確かにひどい目に遭ってました(笑)。劇中、家族4人のそれぞれのストーリーが初めと中盤、ラストで全く違いますよね。
黒沢 そうですね。それがこの家族4人いるので、もう本当にともすると散漫になるんですが、こうぽんぽんといくと、うまく飛んで行けるんですね。それが本当に、2時間もない時間ではあるんですが、短い中でかなりの幅を作ることが出来たかなあとは思ってます。
--- そのような家族それぞれのストーリーが、先の読めない様子で展開されていったからだと思うのですが、作品にすごく緊張感があって、2時間という時間が本当にあっという間に感じました、ぐいぐい引き込まれていくような・・・。今作に限ってのお話しですと、監督は役者さんに対して、どのような演出をされましたか?あのような緊張感を生み出すような演出をされているのかなと思いまして。
黒沢 いや・・・(笑)、特に僕は、演出なんてしてないような気がするんですけどね。特に何にもしてないんですけど、ただ、僕がやってることって、うーん、まさに"監督"っていうことなんですね。スムーズに進めるという。
ですから、ご存知のようにカメラって、ある方向のある幅を撮っているもので、俳優があまりにも自由にやるとですね、それが映んなくなっちゃうんですよ。ある時は映んなくてもいいんですけど、映って欲しいって時に、「いやー、そっちまで行くと、そんなに遠くまで行くと映りません」「その影に隠れちゃうと全然映んないです」とか、「ここでこんな風にしたら映ってきます」「こうしたら結構大きく映ってきます」・・・っていう、どうやったら映ってくるのかっていうことだけを考えてるんですね。
あとは、緊張感とかさまざまな・・・もう少し違った情感や間などは、俳優の方達が自分達で作ってくれるものです。逆に言うと、それを基本的には、"全面的に信用する"っていうことが、僕の大きな役目ですね。
--- そのように書かれてありましたね、"スタッフやキャストを信じている"と・・・。
黒沢 ええ、そうですね。やっぱりね、信用しないと進まないですね、前にね。
映画って怖いものでね、見透かされたように、僕自身の
価値観とかふっと思ったことが出ちゃうんですよ。
--- 監督の方によっては、「映画は監督のものだ」とおっしゃる方もいらっしゃいますよね?
黒沢 いや、あのね、どうなんですかね。僕も他の方がどうされてるのかはよくは知りませんけど、「映画は監督のものだ」っていうのは、微妙な言い方だと思うんですけど・・・ただ、これは言えるんですよ。あの・・・僕はやっぱり、俳優とスタッフを全面的に信頼して撮影していますが、「じゃあ、僕自身は全く現れないか?」って言うと、これがね、映画って怖いものでね、見透かされたように、僕自身の価値観とかふっと思ったことが出ちゃうんですよ。それは本当に不思議でね、隠せないんです。
だから、「映画は監督のものだ」っていうのは別の言い方をすると、「監督が出ちゃいますよ、気を付けて下さい」っていう(笑)。いっくら人を信頼して任せたって言っても、僕がかなりちゃんと考えてないと、「あ、この映画、ちゃんと考えられてない」っていうのがわかっちゃうんですよ。だから、怖いんですよね。
スタッフや俳優の方に、「好きなようにやって下さい。お任せします」って言っても、監督の顔色をやっぱり見てるんですよ(笑)。自然に顔色を見ながら、「たぶんこんな感じなんだろうな・・・」「たぶんこれが望まれてるんだろうな」「あ、それOKです」「ああ、なるほどこうか」「じゃあ次は、こうかな?」「・・・今度はもうちょっと、こうやってみましょうか?」「・・・ああ、こっちか」とかってね(笑)。
そんな作業を一月間もやってると、こっちは何にも言ってないのに不思議とね、欠点も含めて、みーんな、表現されちゃうんですね。だから怖いです、逆に。
--- 怖いですか?
黒沢 はい、怖いですね。「自分自身は映ってないからいいや」って、適当にやってると、出ちゃうんですよ。作品を作ってそれでおしまいだったら、「後は知らない」っていうことで、それはそれで気楽なんですけど、作ったら作ったで、その後宣伝とかで、海外の映画祭とかに行って、今まさにこのようにですね、あれこれ、根掘り葉掘り聞かれるんですよ(笑)。そうするとね、「え、そんなところがばれてたの?」とかっていうのがわかっちゃうし、聞かれたら答えなきゃいけないとかで、とても無責任にはやれないですね。だから、結構辛い仕事なんですけど(笑)。
でも、そうした上で、やっぱり信頼してますね、俳優の方やスタッフを。でもね、ほとんどの監督がそうだと思いますよ?こうやって聞かれると、あの・・・責任上、「映画は監督のものだ」って、やっぱり言うしかないですし、「人のものだ」って言うと、取材を受ける必要もない訳ですから。
「映画は監督のものだ」「監督が作品の最終的な責任を取る」っていうのは、たぶんかなり、最近・・・っていっても戦後のヨーロッパを中心にした考え方だと思います。だから日本も、それに倣って、「映画っていうのは、最終的には監督のものである」っていう風に思われてますが、アメリカは全く違いますよね。
アメリカのアカデミー賞って、観てるとわかりますね。ご存知だと思うんですけど、アメリカのアカデミー賞って、一番大きな賞が作品賞ですよね?これをもらうのは、プロデューサーです。監督は、監督賞っていうのがあるんですよね、別途に。監督賞と作品賞が違うっていうのは、よくありますよね。「作品賞はなくて、監督賞って、この人は何やったの?」って、僕は思っちゃうんですけど(笑)。
でも、アメリカではあれが当たり前なんですね。作品が素晴らしい場合は、プロデューサーに賞がいく。「作品も俳優もいまいちだったけど、監督だけよかったね」っていうのは一体、何のことだか全然わかんないんですけどね(笑)。
--- 確かにそうですね。全く考え方が違いますよね。
黒沢 そうですよね。カンヌ映画祭とかでは、最高賞、作品賞っていうのは、監督にいくんですよ。プロデューサー賞っていうのはないですよね?(笑)・・・っていう、全然違う考え方なんですよね。すいません、余談でしたね(笑)。
だからね、それくらい映画ってまだまだ、誰が作ったとか、誰に責任があるとかっていうのがまだ、きっちり定まったものではないということですよね。