レーグナーのシューベルト

2020年06月22日 (月) 10:00 - HMV&BOOKS online - クラシック

連載 許光俊の言いたい放題 第278回


 久々にレーグナーのすばらしい演奏を聴けた。
 この指揮者のピークはLPレコードの終わり近くの時代だったと言っていいだろう。チャイコフスキーの三大バレエをはじめとして、ドイツ・シャルプラッテンで発売されていたあれこれはいまだに私の愛聴盤だ。どれもとても丁寧な、手がかかった仕事である。2回や3回の練習で達成できるものではない。
 レーグナーの演奏は、決して誰でも聴いてすぐにわかるというものではあるまい。チェリビダッケの異常に巨大なスケール、カルロス・クライバーの疾走感、ムラヴィンスキーの強烈さ、そういったものは彼らの演奏のある一面でしかないものの、実にわかりやすいのも確か。だが、レーグナーはほとんどの場合、そういうわかりやすさを示してはくれない。恐ろしく緻密で、この旋律、この和音、このテンポはこう鳴らなくてはいけないという設計図がくっきりと指揮者の頭の中にあって、実際の音になる。鑑賞者もそれを丹念に聴きとっていかなければならない。さまざまな演奏を知っている人のほうが、「へえ、こうやるのか」とおもしろさに気づく。できばえに舌を巻く。

 で、今回のシューベルト。
 「未完成」第1楽章提示部では、流麗な旋律を弾くヴァイオリンやチェロのやわらかでスムーズなこと。ところが、強い音が、ぞっとするような響きでくさびを打ち込んでくる。低弦楽器をずらしぎみに弾かせる。レーグナーは瞬間的な響きの作り方がうまい。
 ひとつの旋律がほかの楽器に移ったときに、見事に同じように再現される。オーケストラの訓練が行き届いている。こけおどしはいっさいない。コントロールが徹底されている。本来、緻密に練られた端正な演奏のはずなのである。しかし、端正に聞こえないのは、作品のせいである。端正を突き破る作曲家のせいである。この楽章の最後も、すっきりとしていて、おどろおどろしさはない。それが逆に怖い。
 第2楽章もまずはきわめて流麗だ。アンダンテ・コン・モート。動きのあるアンダンテ、そうシューベルトは記している。アダージョではないのだから、すっきりとしたテンポで歩み始める。最初のヴァイオリンの清楚な色気。音色もヴィブラートもちょっとしたアクセントも、いかにも丁寧に作られた工芸品だ。やがて歌いだす木管のやりとりなど優雅とすら言ってよいほど。それを支える弦楽器の微妙な明暗も実にいい。
 ところが、いきなり悲劇がそれを襲うのだ。シューベルトの音楽のユニークなのは、この「いきなり」である。いきなり怖い音が鳴ったり、転調して闇の中に落ちる。かと思うと、天国の光が降り注ぐ。「いきなり」だから、演奏家は一発で勝負を決めなければいけない。マジックを成功させなければならない。じわじわ、ねっとりとはやれないのだ。繊細かつ大胆でなければならない。レーグナーみたいに響きの作り方がうまい人、表情の描きわけが上手な人はシューベルトに向いている。音量を大きめにして、スピーカーにへばりついて、やっていることを全部、ヴィブラートの揺れのひとつひとつまで聴き取りたくなる演奏だ。ホルンも弦楽器も全体に響きがソフトで、むりやり音を出している感じがしないのもいい。
 第2楽章最後の、あまりにもあっさりした片づけ方は、あっさりしすぎていて、かえって驚いた。でも、これでもいいのかも。作曲者はあとの楽章も書こうとしていたわけだし。実際に書けたかどうかは別にして。


 レーグナーのハ長調大交響曲は、かつてDENONで制作された録音があった。演奏時間が長くて、LP2枚組になったのが話題になったっけ。このライヴ録音はそれと演奏時期が半年しか変わらない。
 何がおもしろいって、あちこちがブルックナーみたいなのだ。それどころかワーグナーみたいなのだ。第1楽章のゆったりした序奏から主部に移ろうとするところのバスの動きには思わずぞくぞくしてしまった。これはまさにブルックナー。おお、そうやりますか。音質はDENONのほうが明快だ。なのにDENONだとあまりこうは聞こえない。会場の違いか、録音のせいか。
 そのあとは、案外ゆっくりしているようでいて、こっそりテンポを上げていく。気が付くと、しれっとアレグロ。思わずニヤリとさせられる。だけど最後はびっくりするほど腰を落として、またもやニヤリ。だから、レーグナーは通向き。
 第2楽章はこれもまた結構元気な足取りで歩き続けるアンダンテ。シューベルトは、「未完成」でもこの曲でも純粋に遅い楽章は書かなかったわけだ。人生は歩くことと見つけたり。「冬の旅」と同じく。
 だからこそ、歩みを止める瞬間が怖いのだ。止めたとたんに、いろいろな思いが、記憶が、どっと押し寄せてくる。それに溺れそうになる。懐かしい甘美な記憶のようなレーグナーの演奏。その記憶が不安でおぞましいものに化けていく。確かだったはずのものが、手の中でばらばらに砕けていくようだ。そうなると、また歩き始めるしかない。だが、一度生じた不安や恐怖は消えるものではないのだ。おもしろいもので、シューベルトの交響曲には、聴く者を物語へと誘う要素がある。かつてアーノンクールは、「未完成」はシューベルトが見た夢にもとづいているとしていた。この曲の第2楽章も、謎のような、しかし確かに物語的な何かが語られているように思いたくなる。あ、そうか、シューベルトはこういう点でもマーラーの先行者なわけね。ただし、レーグナーはあくどい演出を行ったりはしない。ポーカーフェースのように淡々と一定のテンポで進めていく。それがむしろ想像力を掻き立てるのかもしれない。
 フィナーレは、明晰なバスが効いている。

 順番が前後したが、このセットは、交響曲第2番から始まる。実は私はシューベルトの初期交響曲が案外好きなのだけれど、この始まり方には大喜びしてしまった。いやはや、壮麗きわまりないのだ。遅いテンポで楽器をたっぷり鳴らす。芝居っけ満点、あまりおもしろくて、反則かもしれないが、いきなり4度もリピートして聴いてしまった。もっとリピートしたかったが、それだと先が聴けないので、とりあえず我慢して、先へ。
 そのあとは快調に飛ばす。シューベルトはロッシーニを好んだというけれど、確かにオペラ、あるいはその序曲に通じる感覚。あ、交響曲の発生源のひとつがオペラの序曲だったしね。盛り上げ方もわくわく感があって、案外ドラマティック。
 第2楽章は艶やか。そして、ハイドンのようなユーモアがある。もちろんフィナーレの、突然現れるトルコあるいは中東風のところも。
 第6番もまずは構えが大きい。ここのところの古楽に慣れていると、それが逆に新鮮。この曲こそ、まさにロッシーニの影響が明らか。シューベルトほどの偉才でも、こんなに露骨に影響されてしまうのだ。

 というわけで、期待以上に楽しかったレーグナーのシューベルト。古楽の影響など微塵もない。ではあるのだけれど、前の人、あとの人、いろいろな作曲家の時間的な系列を思い出させる点でも。
 グーグル・マップで演奏会場がどこにあるのか調べてみたりした。1970年代。東西が分かれていたころのベルリン。暗い、暗い、と誰もが言っていた東ベルリン。そこの、おせじに一等地と言えない場所のホールで、こういうシューベルトが鳴っていたのか。聴衆が来ている服はおそらくは地味で、街灯も明るくなかったはずだ。きらめくようなショーウィンドーもない。そして、携帯電話がまだなかったどころか、普通の電話も、冷蔵庫も、テレビも、贅沢品だった。もう半世紀前の話だ。

(きょみつとし 音楽評論家、慶応大学教授)

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ハインツ・レーグナー

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