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【特集】 スリー・ブラインド・マイス

2013年7月10日 (水)


TBM (スリー・ブラインド・マイス) 復刻シリーズ
伝説のジャズ・レーベル、スリー・ブラインド・マイス復活!!

 70年代、日本のジャズが熱かった頃、「スリー・ブラインド・マイス」というレーベルがあった。TBMの愛称で知られ「楽しいジャズ」「スイングするジャズ」「創造的なジャズ」「個性的なジャズ」を四本柱に、メインストリーム系のモダン・ジャズからビッグ・バンド、ヴォーカル、フリー・ジャズ、フュージョンまで、幅広いカテゴリーを網羅。今田勝、山本剛、鈴木勲、金井英人、中本マリなど、それまであまりレコーディングの機会に恵まれなかったライヴ・シーンの実力者たちを積極的に起用し、日本のジャズ界に新風を吹き込んだ。その功績は彼らの現在に至るまでの活躍ぶりを見れば明らかである。約150種の作品がリリースされているが、駄作の類はひとつもない。驚異的なレベルの高さがTBMの大きな特質にして魅力である。

 これまでに一部CD化されたものもあるが、それらも現在はすべて廃盤状態。中古市場ではトンデモない価格で取引がなされているものもある。このたび、THINK! RECORDSが厳選したタイトルを全7期にわたり復刻。世界のジャズ史にも残る貴重な音源を再び世に問う!!

 名エンジニアの誉れ高い神成芳彦が手がけたガッツのある音質は、「究極のジャズ・サウンド」と呼ばれ「ジャズ・オーディオ」という概念を確立した。今回はその魅力を余すところなくお伝えする為、全タイトルを紙ジャケット仕様のBlu-spec CD™でリリース! さらに当時のオリジナルブックレットも復刻!!




スリー・ブラインド・マイスの魅力

小川充(音楽評論家/ライター/DJ/選曲家)


 ジャズの名門と呼ばれる独立レーベルと言えば、ブルーノート、プレスティッジ、リバーサイドなどが思い浮かぶだろうが、日本にもジャズ専門、もしくは得意な自主レーベルは幾つか存在してきた。アケタズ・ディスク、ジョニーズ・ディスク、ALM(コジマ録音)から、作品を1、2枚しか出していないような幻のレーベルまで色々あり、大手レコード会社の傘下にもイースト・ウィンド、イースト・ウェスト、フラスコ、パドル・ホイールがあった。他にもフュージョンものが多いベター・デイズ、フライング・ディスク、エレクトリック・バード、主に海外アーティストの作品を扱かうベイステイトなど、1970年代から1980年代には多くのレーベルが存在した。コロムビアと業務提携するタクトや、オーディオ・メーカーが作ったトリオなども優れたレーベルだった。そうした中、一際光る存在がスリー・ブラインド・マイス(以下、TBM)である。

 1970年6月に創設されたTBMは、1983年までに約150タイトルもの作品をリリースしてきた。まず、リリース量の多さが他のレーベルを凌駕しており、そしてどれも一定の水準をクリアしている。自主レーベルだと存続期間が短く、予算によるのだろうが時に録音状態が悪く、作品にバラつきが見られる。今の時代からすると、これはないだろうというジャケットも少なくない。それらを鑑みるとイースト・ウィンドやトリオのレコードは総じて質が高いが、メインストリームからフリー、フュージョンまで網羅する作品の幅広さ、完全なジャズ専門レーベルという点ではTBMの独壇場だ。

藤井武(左)と鈴木勲(右)  TBM創設者の一人は藤井武で、彼が作品プロデュースを行った。幻のレーベルのロックウェル創設者で、ジャズ評論家としても高名な油井正一は、レーベル構想を抱く藤井に助言を送ったことがある。TBM設立前夜の1970年前後、油井はビクターで『日本のジャズ・シリーズ』の監修を務めたが、その頃に彼が目をかけた若手エンジニアの神成芳彦も紹介した。海外にも紹介できる、オリジナリティがある日本人ジャズのリリースを目指す『日本のジャズ・シリーズ』の精神は、こうしてTBMへ受け継がれたのである。ここに西沢勉がデザイナーとして加わり、ジャケットからライナー・ノート、帯まで拘ったデザインを見せたTBMは、さしずめブルーノートのアルフレッド・ライオン、ルディ・ヴァン・ゲルダー、リード・マイルス&フランシス・ウルフ体制の日本版とでも形容できるだろう。

 TBM第1弾はアルト・サックス奏者の峰厚介による『ミネ』だったが、当時の峰は新進気鋭の若手という立場で、彼にレーベルの船出を託したところにTBMのレーベル姿勢が垣間見える。有名な人気プレイヤーではなく、これからのジャズ界を担う若き才能を見出し、積極的に発表の機会を与えるというものだ。福村博、土岐英史、植松孝夫、中村照夫、大友義雄、山本剛、水橋孝など、TBMから初リーダー作を発表したミュージシャンは多い。鈴木勲、今田勝など、それまで実績はありながら脇役だったプレイヤーを、スポットの浴びる場へ連れ出したのもTBMだ。東京だけでなく、大阪の宮本直介、名古屋の和田直や太田邦夫など、地方のミュージシャンも発掘してきた。若手や新人だけでなく、松本英彦、ジョージ大塚、ジョージ川口、横内章次などのベテラン勢に、再び意欲を持って作品制作ができる場も提供している。

 後藤芳子、笠井紀美子、中本マリなどジャズ・シンガーの作品が多いのも特徴で、中でも大御所の水島早苗、戸谷重子、細川綾子が、初めてアルバム単位でリリースを行ったことはTBMの功績の一つに数えられる。女性だけでなく、笈田敏夫、森山浩二など男性シンガーにもフォーカスした数少ないレーベルの一つでもあった。「10年以上のジャズ・ファン歴のある方のため」という藤井の制作意図により、関西で活躍してきたアルト奏者の古谷充がヴォーカリストとして初めてアルバムもリリースした。自主レーベルでありながら予算の掛かるビッグ・バンド作品にも積極的に取り組み、高橋達也と東京ユニオン、宮間利之とニュー・ハード、水野修孝、三木敏悟などの作品がある。

 あらゆるジャズを楽しめるTBMのレーベル総決算と言うべきは、藤井の構想の元、高柳昌行をはじめ個性派が結集した異色ビッグ・コンボのティー&カンパニーだろう。ハード・バップでもモードでもフリーでもなく、ジャズ・ロックやフュージョンまでも飲み込んだティー&カンパニーの3部作、及び森剣治、金井英人など参加メンバーのリーダー作は、TBMが存在しなければ聴くことができなかっただろう。



小川充 (おがわ みつる)
音楽評論家・ライターとして雑誌のコラムやCDのライナーノートなどを執筆。著書に『JAZZ NEXT STANDARD』、同シリーズの『スピリチュアル・ジャズ』『ハード・バップ&モード』の他、『クラブ・ミュージック名盤400』がある。DJ・選曲家としても活動中で、ブルーノートの『ESSENTIAL BLUE - Modern Luxury』、Tru Thoughtsの『Shapes Japan :Sun』などのコンピの監修・選曲も手掛ける。




TBM復刻 [第2期]  向井滋春とのダブル・トロンボーン体制でニッポン・ジャズの夜明けに翔ぶ。「トロンボーンの復権」をかけた福村博の『モーニング・フライト』、ハービー・ハンコック、ロン・カーターら数多巨匠をトリコにさせたベース奏者、世界の「Mr. GON」こと水橋孝の初リーダー作『男が女を愛する時』、森剣治、渡辺香津美、中本マリらサイドの遊撃手が彩を添える鈴木勲のTBM4作目『オランウータン』、当時はアイドル級の人気を誇った土岐英史のこれぞ原点にして武者震いのストレート・アヘッド傑作『トキ』、レーベル主宰・藤井武を骨抜きにした若き天才ピアニスト、山本剛によるブルージーなトリオ奥義『ガール・トーク』、その山本トリオをバックにスウィングしまくる70s男性ジャズ・ヴォーカルの都会派ロイヤル・ストレート・フラッシュ盤、森山浩二『スマイル』。[第2期]では、近年再CD化が切に待たれていた人気盤はもちろん、ボントロ、歌モノとヴァリエーション豊かな6タイトルを。

* 6タイトルのいずれか1点お買い上げの方に、ジャズ界人気No.1ゆるキャラ(!?)「TBMネズミロゴ」ステッカーをプレゼントいたします!  






福村博 『モーニング・フライト』

1973年8月22日録音

モーニング・フライト  当時においては珍しい「ダブル・トロンボーン・クインテット」編成で吹き込まれた、今では泣く子も黙るボントロ大巨匠として君臨する、福村博と向井滋春による双頭リーダー作。スウィング・ジャズ全盛期には超が付くほどの花形楽器だったトロンボーンも、JJジョンソン、カイ・ウィンディング、カーティス・フラーの黙過然り、モダンジャズ以降のシーンではあまりスポットライトが当たらず、昼行灯なる存在とも揶揄されていたが、ここではそんな蔑ろにされつつあった風評を毅然とした態度で覆すような、主役2人の熱く表情豊かなプレイにトキメキをおぼえる。1973年のことだ。

 向井のオリジナルとなる表題曲では、両者の音色の違いをハッキリと打ち出したソロを聴くことができる。大空に虹を架けるような悠然としたテーマ・ユニゾンに続く、先発・向井のソロは、カール・フォンタナの高速タンギングよろしくの確かなテクニックで、トラディショナルとモダン入り乱れたフレッシュなフレージングで煽りまくり、聴く者をトロンボーン・ジャズの新世界へといざなう。一方、後発・福村は、豪快丸出航! とばかりの勢いで太く豊かな音色を滑らせる。いずれ菖蒲か杜若。24歳、同学年のボントロ若大将2人が、ハッパを掛け合いながら日本一のソリストへの階段を駆け上がっていく。そんな希望に満ちた輝かしい未来を予感させる、何とも清々しい一曲だ。

 ジョン・サーマンの「ウィンター・ソング」、コルトレーンの「カズン・メアリー」では、まるで双子のようなフレーズでソロの受け渡しを行なう主役2人。ここではその2人以上にバックのピアノトリオが激しく振り切れる。弱冠ハタチのピアニスト、田村博は、ジャズピアノの世界に足を踏み込んでまだ3年程にもかかわらず、ここではすでに貫禄溢れるダイナミックなソロを繰り出している。前者でのソロを聴くにつけ、福村も向井も仰天したに違いない。ゆえに、本作では全曲において田村のソロ・スペースが与えられている。このアルバムに躍動感をもたらしているのは、何を隠そうこの田村のピアノなのかもしれない。

 同年このWトロンボーン・クインテットは、実況録音盤『ファースト・フライト』を吹き込み、その後、福村はニューイングランド音楽院大学院留学のために渡米。76年の帰国後は、師・渡辺貞夫グループに再入団。渡辺をはじめ、海外からはコーネル・デュプリー(g)やチャック・レイニー(b)、ハーヴィー・メイソン(ds)ら錚々たるメンバーを迎えて78年に録音されたリーダー作『ハント・アップ・ウィンド』で世界中から称賛を浴びた。また80年からは本田竹曠を中心とする人気フュージョン・グループ、ネイティブ・サンにも参加している。一方、向井も76年に初リーダー・アルバム『フォー・マイ・リトル・バード』を発表後、1年間のニューヨーク武者修行を経て、80年にスティーヴ・ガッド(ds)やウォーレン・バーンハート(key)ら本場名士たちと吹き込んだ『プレジャー』を発表。その後も、渡辺香津美キリン・バンド、松岡直也ウィッシングに参加し、クロスオーヴァー時代屈指の名トロンボーン・プレイヤーとして、その名を欲しいままにした。

 「トロンボーンの復権」だけに終始しない両者のドン欲なまでの探究心やパイオニア精神がもたらした、目が眩まんばかりのこの輝かしいキャリアはどうだ。その時代の日本のジャズ・シーン全体に通底していた情熱のひとつの結晶であったことには違いないが、何より、同じ時代に福村、向井という同い年のスキルフル・プレイヤーが惹かれ合い、膝を突き合わせつつ存在したその奇跡に感謝の意を感じずにはいられない。



福村博 (tb) / 向井滋春 (tb) / 田村博 (p) / 岡田勉 (b) / 守新治 (ds)





福村博 (ふくむら ひろし)
1949年2月21日東京生まれ。トロンボーン奏者。ニューイングランド音楽院大学院修了。トロンボーンをウィリアム・ギブソン、フィル・ウィルソンに師事。作・編曲をガンサー・シュ−ラ−、ジョージ・ラッセル、渡辺貞夫に師事。71年、渡辺貞夫(as)グループに参加を経て、73年に向井滋春との2トロンボーンで自己のクインテットを結成。初リーダー作『モーニング・フライト』発表。その後ニューイングランド音楽院大学院に留学し76年帰国。80年ネイティブ・サンに参加。同グループで83年モントルー・ジャズ・フェスに出演。その後は自己のグループ「Uptown Jazz Band」を率いてライブ活動をする傍ら、小野リサ、阿川泰子などのコンサートやレコーディングにゲスト参加、編曲も提供している。

水橋孝カルテット+2 『男が女を愛する時』

1974年3月23・26日「5デイズ・イン・ジャズ'74」ライヴ録音

男が女を愛する時  比較的若いジャズ・ファンにとっては、「Samba De Negrito」のヒトでおなじみと言ってもよいのだろうか。ハービー・ハンコック(p,el-p)、ブルーノ・カー(ds)、中村照夫(b)らがサイド参加した77年ニューヨーク録音作『ワン・チューズデイ・イン・ニューヨーク』は、ベーシスト 水橋孝のインターナショナルな活動歴を語る上で欠かせない、また今も多くのジャズ・ファン〜クラブジャズDJたちに溺愛される一枚として知られている。「ジャズ・ネクスト・スタンダード」、「ブリザ・ブラジレイラ」といった近年のディスクガイド本の指南効果によるところも大きいのだろうが、それより何より主役のバリ太で歌心・ブルースフィーリング溢れた低音に触れてみれば、この作品の持つ最もフィジカルでマジカルなグルーヴの真味というものに迫りきることができるだろう。

 国内はもとより、ハンコックほか、ロン・カーター、アーチー・シェップ、マリオン・ブラウン、デイヴ・バレル、ミッキー・タッカーといった大物たちに愛された、「Mr. GON」こと水橋のベース。本場の楽士が口を揃えて称賛するそのソウルフルな音色と馬力溢れる出音は、現役の今もあい変わらずといったところ。

 1974年の東京・日本都市センターホールでのライヴを収録したこの初リーダー作にしても、主役のブンブン唸るベースがとにかく海馬を心地よく揺さぶる。ハードにドライブする「ソー・ホワット」は、ヤングライオン大友義雄(as)のガッツあるブロウに花を持たせつつも、関根英雄のさらに上行く熱血ファンキードラムと共に、「低音たるやこうであれ!」とばかりに凄まじいまでのエネルギーを宿したベースラインをモリモリとはじき出す。正確なリズム、されど自由度も高い。超人技のようなベースラインが全体をグイグイと引っ張っていく。若き辛島文雄(p)のスパークを誘い込み、10分30秒以降はまさに大爆発。オーラスのテーマ着地時にはおそらく館内の聴衆ほとんどが失禁状態にあったことだろう。この「ソー・ホワット」は、それまでの紋切り型の解釈を大いに逸脱しながら、結果コルトレーン「インプレッションズ」との“すくみ”にまでタッチした、日本ジャズ史上に残るウルトラCレベルの絶演だ。

 オリジナルLPではB面丸々を使って収録されたスタンリー・タレンタインの「シュガー」。中村誠一(ts)、向井滋春(tb)の2管がハツラツとしたソロで館内を沸かせる。そのバッキングに際しても、水橋のベースはブンブンと、いや、もはやベリベリという破壊音にも似た強靭な出音を交えボトムをうつ。ソロの饒舌な“おしゃべり”も表情豊かによくスウィングしている。言葉にならない。パーフェクトだ。

「Samba De Negrito」や「La Esmeralda」だけが水橋じゃない、ということを改めて世に広めるためにも今回の再CD化、ある種非常に気が利いている。本作における「ソー・ホワット」と「シュガー」に思いっきり腰を抜かしてほしい。



水橋孝 (b) / 大友義雄 (as) / 辛島文雄 (p) / 関根英雄 (ds) / 中村誠一 (ts) / 向井滋春 (tb)





水橋孝 (みずはし たかし)
1943年3月2日北海道夕張市生まれ。ジャズ・ベーシスト。70年ジョージ大塚(ds)グループに参加。今田勝(p)、大野雄二(p)、菅野邦彦(p)トリオを経て、74年自己のトリオを結成し、以降リーダー、サイドマンとして多くのグループで演奏。ジョージ川口(ds)&ビッグ・フォーには70年代より25年以上に渡り参加した。アルバムはハービー・ハンコック(p)と共演した78年『ワン・チューズデイ・イン・ニューヨーク』などがある。独自のテクニックと楽才に恵まれ,日本はもとより、アメリカ、ヨーロッパのミュージシャンの間で評判が高い。 世界的レベルの日本人ベーシストであり、水橋孝というよりも「GON」という愛称で広く知られている。


鈴木勲 『オランウータン』

1975年4月4日録音

オランウータン  先にも述べた『ブロー・アップ』、『ブルー・シティ』でニッポン・ジャズ・シーンの最前線に躍り出た鈴木勲のTBMでの4枚目のリーダー作は、「ジャズロック」と平たく称することさえも憚れる、完全ミュータント系の“オマスズ・グルーヴ”一大絵巻。ここではベースだけでなく、エレピもどしどし操るというのだから、もはやその姿は一団の総大将としてタクトを揮うマイルス、フェラ・クティ、JBのマナーにも肉薄。時は1975年、創造のトータリティに重きを置いた、鈴木の音楽的感性がひとつの頂点を見たと言ってもよいアルバムだろう。

 そのシンボリック・チューンとなる「ブルー・ロード」での意気盛んなロック・グルーヴは、エレクトリック・マイルス的というよりは、カンタベリー産ジャズロックのテクスチャなどを想起させる。アラン・ホールズワース、ロバート・ワイアット、エルトン・ディーンあたりの顔が次々に浮かび上がる始末・・・と言ってしまうのはヤボ天か。とにかく伝統的なジャズのしきたりのようなものに“見切り”を付けたかのようなサウンドがそれいけとハジける。当時TBMに2枚のリーダー作を残していた中本マリの妖艶なヴォーカルが宙を舞うブルース「ホエア・アー・ユー・ゴーイング」にしてもそう。シャーリー・ホーンの古きよきヴォーカル・スタイルとは一線を画する、アーバンソウル・オリエンテッドな情緒に包み込まれるこの居心地のよさ。ディーヴァの歌い口、渡辺香津美の趣味のよいギターソロ、森剣治の絶妙なフルートの絡みがあってこその成せる技に溜飲を下げた。いや、相当洒落ている。

 某資料によると、高柳昌行に「将来すごいリード奏者になる」と言わしめた森剣治の参加は、鈴木直々のオファーだったという。ちょうどその時期、高柳のニュー・デイレクションに在籍していた森だったが、その狂気にも近いフリーフォームというよりはむしろ、根底に流れる豊かなブルース・フィーリングを鈴木はしっかり見抜いていた、ゆえの抜擢ということだろう。「マイ・ワン・アンド・オンリー・ラヴ」の冒頭ではバス・クラリネット一本でのたうちまわるが、表題曲におけるアドリブなど、その慧眼にまずもって狂いはなかった。

 鈴木のチェロによる名演といえば前出の「プレイ・フィドル・プレイ」になるのだろうが、どっこいこちらもその真骨頂とも呼べるエレガントなブルー・バラード「オランウータン」できっちり締め括られるところが何よりミソだ。この人のブルースには、いわく言いがたい独特の人懐っこさとビジュがある。



鈴木勲 (b,cello,el-p) / 森剣治 (as,fl,b-cl) / 渡辺香津美 (g) / 河上修 (b) / 守新治 (ds) / 中本マリ (vo)





鈴木勲 (すずき いさお)
1936年1月2日東京生まれ。ジャズ・ベース/チェロ奏者。立教大学卒業。56年に活動を始め、ジョージ川口(ds)ビッグ4、松本英彦(ts)、渡辺貞夫(as)のグループに参加。70〜71年はアート・ブレイキー&ジャズ・メッセンジャーズに参加。帰国後フリーとして活動していたが、マル・ウォルドロン来日の際の共演で、ピアノトリオの分をわきまえたプレーが高く評価された。外国ミュージシャンとの共演は数知れない。菅野邦彦(p)参加の『ブローアップ』(73年)、『ブルー・シティ』(74年)、富樫雅彦(ds)参加の『アプローチ』(86年)、『1998,new』(98年)などリーダー作は50枚以上に及ぶ。現在も、鈴木勲OMA SOUNDの中で若手ミュージシャンを育てながら、鈴木勲自身も感性を磨き、日々練習を重ねて進化し続けている。

土岐英史カルテット 『トキ』

1975年5月17日録音

トキ  鈴木勲グループ、宮間利之とニューハード、日野皓正グループでの活動、さらには二度にわたる自己コンボの解消を経て、1975年、満を持して吹き込まれた一枚岩のレギュラー・カルテットを率いたデビュー・アルバム。森剣治、大友義雄と並ぶ、当時の若手アルト三人衆のひとりでもあった土岐のイケイケぶりを捉えた本作は、1曲を除いて全てワン・テイクで録音され、結果TBMレコーディング史上最短所要時間の新記録を打ち立てたという。

 冒頭曲「ララバイ・フォー・ザ・ガール」でのソプラノの美しい迸りは、いかにもコルトレーン系譜の正統派、という言葉がしっくりくるのだろうが、されどそこには、すでに完成されたオリジナリティをも窺わせるプレイヤーとしての芯の強さがある。どっしりとした安定感というべきか、高揚感こそあれ、うねりまくる激しいリズムの中心で鎮座ましますかのように佇む揺るぎなさを感じさせてくれる。トレーンの同胞楽士マリオン・ブラウンを心酔させたのも頷けるというもの。スティーヴ・ジャクソン(ds)、井野信義(b)がカッカと熱くなる一方で、アウトフレーズを決めながらも決してナイーヴさを失わない渡辺香津美のギタリズムも見事なものだ。土岐がアルトに持ち替えむせび泣くバラード「ダークネス」でも、渡辺のトレモロの利いたサウンドが楽曲全体のムードを決定付けているかのようだ。

 土岐は本作リリース後、大友義雄とのダブル・アルト体制で出演した「5デイズ・イン・ジャズ 1975」(日本都市センター・ホール)の実況録音盤『ラヴァーマン』、76年には、益田幹夫のエレクトリック・ピアノを大胆に取り入れ、ラテンやジャズロックにも舵をきった『スカイ・ビュー』を発表。同年、松岡直也ウィシングにも参加。さらには山下達郎や坂本龍一らとのセッション(70年代後半から山下達郎バンドに正式加入)にも顔を出し、その一方で78年に単身ニューヨークへ渡り、トミー・フラナガンらとリーダー・アルバム『シティ』を、また翌年LAで、デビッド・T・ウォーカーやフローラ・プリムらと『パシフィック・ジャム』をレコーディング。まさに「クロスオーヴァー時代の申し子的サックス・プレイヤー」とでも呼ぶべき八面六臂の活躍をみせてゆくのである。ついでに言えば、今年はチキンシャックの23年ぶりのリユニオン&新作も!

 というわけでこの『トキ』は、キャリアに比して数少ない貴重なガチンコ・ストレート・アヘッド・アルバムとも言える。近年は、『6/6』や『The One』といったリーダー作で、円熟の“TOKIジャズ”を味わわせてくれるが、その全ての原点・出発点ともいえるギラギラとした風景がここにある。例え、土岐英史その人を知らずとも、ヤマタツ「ライド・オン・タイム」のセンセーショナルなサックス・ソロにピンときたら、まず耳を貸すのも一手。



土岐英史 (as,ss) / 渡辺香津美 (g) / 井野信義 (b) / スティーヴ・ジャクソン (ds)





土岐英史 (とき ひでふみ)
1950年2月1日神戸生まれ。アルト/ソプラノ・サックス奏者。大阪音楽大学卒業。16歳でプロとしてデビュー。70年鈴木勲(b)、宮間利之とニューハードに、72年日野皓正(tp)グループに、73年に川崎燎クインテット、板橋文夫カルテットに参加。75年初リーダー作 『TOKI』をリリース。79年松岡直也ウィシングに参加。85年、CHICKEN SHACKを結成。同バンドで10枚のアルバムをリリース。89年にTOKI & CRUISINGを結成。その後自己グループの活動の他、佐藤允彦(p)ランドゥーガなど多くのグループに参加。山下達郎のバッキングをはじめ、有名ポップスのスタジオワークも多数。


山本剛 『ガール・トーク』

1975年12月17日録音

ガール・トーク  疲れきった体をやさしく包み込む。「追憶」のピアノはまるで、母がわが子に向ける、とっぷりとした愛の抱擁のようだ。録音の素晴らしさをも物語る、山本剛の凛としたハイトーンに涙がこぼれる。僕にとっては、四方山バーブラ・ストライサンドの歌唱云々を凌駕した、オリジナリティに満ちた最高の子守唄なのである。

 1976年、折りしもジャズ界は空前のクロスオーヴァー・ブームを迎えていた。返す刀で山本は・・・というわけでは勿論ないだろうが、この“ヤマ&ジローズ・ウェイヴ”という名義で発売された『ガール・トーク』は、そんな時代のトレンドに一切目もくれず黙々とジャズ・ピアノトリオの奥義たるメニューを差し出していく。ほぼ独学でピアノをマスターしたという主役のブルース・フィーリングが音のスキマというスキマからにじみ出る表題曲。(山本にしては)めずらしくリラックスしたムードを伴っているが、要所要所でガツンと心に打つ高揚したタッチを入れてくる、そんなニュアンス付けの巧さに終始魅せられる。かの「ミスティ」、その夢のつづきが見れたのだ。

 「A列車で行こう」は、一瞬ギョッとさせられるフリー的な序章で幕を開ける。つかの間ギアを入れ替え、ハードバップの形相でトップスピードに。小原哲次郎のド派手なドラムソロを経て乗り込むのは、120点文句なしのハッピー・スウィンギン・トレイン。キメラ的アレンジのめくるめく展開に、山本のアレンジャーとしてのセンスの良さや冴えをみる。シャンソンの名曲「そして今は」の洒落たハードバップ・アレンジにしても同じく。

 一方で、原曲にかなり忠実なアレンジの「アイ・ラヴ・ユー・ポーギー」。雑味を一切排除した真の美しさが薫り立つ。そしてここにも、山本ピアノの真骨頂、 “ブルースのこころ“が小さじ一杯。演歌でいうところのコブシというやつか。しかし、このコブシ回しがたまらない。グッとくる。ちなみにではあるが、今田勝『スタンダード』と双璧を成す”モデルちゃん”ジャケットにも心を掴まれる。

 74年の『ミッドナイト・シュガー』でデビューを果たして以降、2年でアルバム6枚を録音というハイペースぶり。六本木の人気ジャズ・クラブ「ミスティ」を中心に出演していた山本に声をかけデビューさせたレーベル主宰・藤井武にとってはいわば肝煎り。「エロール・ガーナーなんて目じゃない。最高のレコーディング環境で、このワン・アンド・オンリーのピアニズムを録ってみたい」。TBMに残されたアルバムはいずれも傑作の呼び声高いということからも、山本のピアノに、ファン以上に胸を焦がしたオーナーの姿がいともたやすく想像できる。



山本剛 (p) / 大由彰 (b) / 小原哲次郎 (ds)





山本剛 (やまもと つよし)
1948年3月23日新潟生まれ。ジャズ・ピアニスト。67年、日本大学在学中にミッキー・カーティスのグループで活動を始める。74年初リーダー作『ミッドナイト・シュガー』録音。スケールの大きなブルース・フィーリングとスイングするピアノがファンの注目を集め、続く『ミスティ』が大ヒット、以後レコード各社より数多くのリーダー・アルバム、共演アルバムを発表、人気ピアニストの地位を確立する。77年モンタレー、79年モントルー・ジャズ・フェスに出演。その後1年間ニューヨークで活動。帰国後は自己のトリオを中心に活動。アルバムはトリオ編成で多数あり、2000年にはエノケン(榎本健一)歌唱集となるヴォーカル・アルバム『Dinah』をリリース。2013年、VENUSレコードより『What A Wonderful World: この素晴らしき世界』をリリースした。

森山浩二+山本剛トリオ 『スマイル』

1977年8月29・30日録音

スマイル  こんなにステキな男性ジャズ・シンガーがこの世にいたのか・・・と思わず天を仰ぐ、それほどまでに美しく艶のある森山浩二の声。ハスキーなれどちょっぴり中性的なトーンで、高速スキャットにフェイクに、愛の物語を切れ目なく紡いでゆく。時代が欲しているのかいないのか、一部で男性ジャズ・ヴォーカル氷河期ともいわれている昨今、はたして森山の歌声は市井にどのように響くのか。見ものである。

 TBMならではのレーベル・カラー、そのひとつともいえるのが続々と登場したヴォーカル作品。笠井紀美子、後藤芳子、中本マリ、水島早苗、細川綾子など、女性ヴォーカルものはご他聞にもれず、むしろ、数こそ多くはないが、森山やその草分けでもある大御所・笈田敏夫(おいだ・としお)といった男性ジャズ・シンガー作品にはクオリティの高いものが多く、ゆえに、耳の肥えた往年のジャズ・ヴォーカル・ファンからも彼らの作品は、折に触れ注目を集めていたようだ。勿論、当時望みうる最高の音質で録音されたこともその理由のひとつだったことだろう。

 30年のキャリアを経てリリースされた笈田の初アルバム『イット・ワズ・ア・ヴェリー・グッド・イヤー』は、フランク・シナトラ、トニー・ベネット、ナット・コール・キングなどを聴いて育ってきた世代をいとも簡単に納得させるだけのしみじみとした説得力があったが、当時の若いジャズ・ファンは、森山の容姿さながらのスウィートでスマートな、いわば都会的なフィーリングに溢れたシンガーを好み、人目はばからずに心酔したことだろう。そう、森山の歌声はTBMの看板だっただけでなく、70年代当時の若者が多く抱いていた、死ぬほどオシャレな都市幻想を可聴化したものだったのかもしれない。

 TBMが誇る最高のピアノトリオである山本剛トリオが伴奏を付ければ、なお文句はない。1975年の『ナイト・アンド・デイ』がそれを見事に証明している。バラードにしてもボッサにしても存分にスウィング。表題曲は秀逸。歌と伴奏の理想的な関係がそこにはある。本作はそれに続く森山×山本トリオの2集目。関係性もだいぶ深まってきたのだろう、「ナイト・アンド・デイ」に一歩も引けを取らない「アラウンド・ザ・ワールド」のアップリフティングなスキャットとピアノのコンビネーションは、もはや蜜月と呼んでもさしつかえない。スウィングが二乗にも三乗にもなって聴く者の心を躍らせる。

 絶妙なボッサ・アレンジの「デイ・バイ・デイ」には文字通りスマイルを隠しきれない。本作きっての人気曲だ。「恋人よ我に帰れ」や「オール・オブ・ミー」においても、メル・トーメ、シナトラあたりの影をちらつかせる小粋でたっぷりとした歌い口で、都会派ダンディズムのさりげない主張を感じさせる。とまれ、いつの世も、こんな男性ジャズ・シンガーの登場を皆待っているのだ。



森山浩二 (vo) / 山本剛 (p,solina) / 井野信義 (b) / 大隈寿男 (ds)





森山浩二 (もりやま こうじ)
1944年3月23日東京生まれ。ジャズ・シンガー/パーカッショニスト。声楽家の父の影響で、幼い頃から歌やタップダンスで米軍キャンプを沸かす。ロカビリー歌手としてデビュー後、ジャズに専念。念願であったジャズ・シンガー/パーカッショニストに転進し、藤井貞泰、山本剛などと共演。スリー・ブラインド・マイスから再デビューを果たす。いずれも山本剛トリオをバックにした『スマイル』、『ナイト・アンド・デイ』、高柳昌行も参加した伝説のクラブ「ミスティ」でのライヴ盤『ライヴ・アット・ミスティ』が、近年の和ジャズ・ブームの中で高い再評価を得ている。洒脱な美声にスキャットを多用したスインギー&ダンディな歌唱は、至極日本人離れしたフィーリングを放っている。




[第2期] 特典は特製ミニチュアジャケット・メモパッド(2種類ランダム配布)

 HMV店舗(一部除く)、HMV ONLINE/MOBILEで、7月10日発売のスリー・ブラインド・マイス復刻[第2期]の商品いずれか1点をお買い上げのお客様に、先着で特製メモパッド(ジャケット絵柄2種)をプレゼント!
*HMV ONLINEでの特典の配布は終了いたしました。

メモ[A]・・・
表紙:山本剛『ガール・トーク』ジャケット/裏表紙:土岐英史『トキ』裏ジャケットのデザインを採用
メモ[B]・・・
表紙:鈴木勲『オランウータン』ジャケット/裏表紙:福村博『モーニング・フライト』裏ジャケットのデザインを採用

特製メモパッド

*サイズ(W74mm×H74mm×T8mm)
*メモ用紙は100枚綴り。
*メモ帳2種類はランダムに配布させていただく為、デザインをお選びいただけません。予めご了承ください。
*[第1期][第3期]の商品は対象外となります。
*数に限りがございますので、お早目のご予約・ご購入をおすすめします。









TBM復刻[第1期]  スリー・ブラインド・マイス第1号作品としてその歴史に燦然と輝く峰厚介クインテットの『ミネ』、TRIO盤『ストレイト・アヘッド』リイシューなどで一気に若いジャズ・リスナーからのプロップスを得ることとなった植松孝夫の初リーダー作『デビュー』、高柳昌行、金井英人を中心に、若き日の富樫雅彦、菊地雅章、日野皓正、山下洋輔らで結成された「新世紀音楽研究所」が、1963年6月26日東京銀座のシャンソン喫茶・銀巴里で夜毎行なっていたセッションの記録『銀巴里セッション』、ロンドンで興隆したアシッド・ジャズ・ムーヴメント以降、海外のジャズ・コレクター、DJらにも抜群の人気を博した中村照夫の”和ジャズ”を超えた快作『ユニコーン』、TBMの看板プレーヤーともいえる名ベーシスト、鈴木勲が傑作デビュー盤『ブロー・アップ』に続いて吹き込んだ、こちらも本丸『ブルー・シティ』、頼もしきクインテットを乗せた芋虫が厭世をブッタ切る今田勝の痛快アーバン・ファンク盤『グリーン・キャタピラー』、かの名盤『海の誘い』制作前夜、三木敏悟が作・編曲家/サックス奏者としてその鬼才ぶりを見せつけた高橋達也と東京ユニオン『北欧組曲』。記念すべき[第1期]は、TBMレーベルを代表する作品を中心に7タイトル!

* 7タイトルのいずれか1点お買い上げの方に、ジャズ界人気No.1ゆるキャラ(!?)「TBMネズミロゴ」大判ステッカーをプレゼントいたします!  




峰厚介クインテット 『ミネ』

1970年8月4・5日録音

ミネ  記念すべきスリー・ブラインド・マイス(TBM)第1号作品。こういうのは出だしが肝心、景気よく。「なめられちゃいけねぇ」ってもんで、オープニングから主役のアルトがブリブリと雄叫びを上げる。峰厚介の前リーダー作にも収められた「モーニング・タイド」の再演。朝日がのぼり、潮が満ち、いよいよ生命が躍動し始める・・・これ以上なく相応しい幕開きじゃないか。今井尚がもっちりとしたトロンボーン・ソロで応戦。手綱を緩めることなく、村上寛のドラムが連続猛プッシュ。水谷孝のベースがブンブンうなる。じき、市川秀男のエレピも箍が外れ出す。当時レコードに針を落とし、やおらこの熱風を体いっぱいに受けとめた者誰もが、薄れゆく意識の中、「遂にこの国にもホンマモンのジャズ・レーベルが現れよったか!」と、心の中でガッツポーズを禁じえなかったはずだ。

 ジョー・ヘンダーソンがワンホーンで激しくシバき上げた「アイソトープ」も、それまでの世評などどこ吹く風、彼ら新緑のクインテットにかかれば、アッという間にクリシェを脱ぎ捨てたニューアイデンティティを纏うことに。今井からバトンを受けた主役ソプラノは実に豊かでタフな音色を吹き上げる。まるで赤子が泣き叫ぶような生命力に満ちたブロウ。この直後、日野皓正グループ入団を果たす“エレピ魔人” 市川のゾクゾクするようなソロも堪らない。その市川オリジナルによる後半2曲、「ドリーム・アイズ」、「ワークT」にしても圧巻。

 とにかく本作、静と動のコントラストこそあれど、全編に亘って圧倒的なエネルギーの放射があり、また得も言われぬ緊張感も漂泊。市川作の2曲、特に「ドリーム・アイズ」こそが、『ミネ』を“スピリチュアルな名盤”と呼ばれるものに仕立て上げたホンボシなのかもしれない。2管の絡みも絶品。

 若き闘志たちが自己のアイデンティティを音に託したホニャララ・・・なんて常套句で締めるつもりはないが、70年代ニッポンの若者たちは、まことエッジの際を歩くようなヒップでホットな音楽を欲していたこと、そしてその渇望する声に応えるかのようにTBMレーベルが旗揚げされたことには違いない。この音、この粋、このガッツ。燃えるような時代に燃えるようなジャズがあったことを知らしめる、盛り火の篇首にしてニッポン・ジャズの大金字塔。西沢勉によるジャケットは、戦慄と笑いのツボを往来するキワドイ情緒を今も変わらず漂わせている。



峰厚介 (as,ss) / 今井尚 (tb) / 市川秀男 (fender piano) / 水橋孝 (b) / 村上寛 (ds)





峰厚介 (みね こうすけ)
1944年東京生まれ。ジャズ・サックス奏者。63年ごろから活動開始(アルト・サックス)。69年菊地雅章(p)グループに参加、73年解散まで在籍。70年初リーダー作『ミネ』をリリース。71年よりテナーに転向。その後渡米。帰国後の76年にはギル・エヴァンス・オーケストラの日本公演にアルトプレイヤーとして参加する。78年本田竹曠(p)らとネイティブ・サン結成、海外公演も行なうなど人気を博す。その後、自己のグループを中心に演秦活動を行なう一方、本田竹曠(p)EASE、渋谷毅(p)オーケストラ、富樫雅彦(ds)&JJスピリッツなどにも参加。

植松孝夫カルテット+1 『デビュー』

1970年11月19日録音

デビュー  「コルトレーン、ジョー・ヘンダーソンばりの太く逞しいドス黒いブロウで」と評されることの多いテナー・サックス奏者・植松孝夫。“ドス黒い”という形容はともかく、その音にまずズッシリとした重量感があることは、この初リーダー作、またはサイドメンとして参加し“主役喰い”レベルの好演を残しているジョージ大塚『シー・ブリーズ』、猪俣猛『サウンド・オブ・サウンドリミテッド』、杉本喜代志『バビロニア・ウインド』、日野皓正『ベルリン・ジャズ・フェスティバル‘71』といった諸作品を聴いていただければ明らかだろう。

 一般的には、7年後にリリースされた2作目『ストレイト・アヘッド』に多くの票が集まるのかもしれないが、どっこいこちらも、あまりある若さとそのパワーが類稀なる吹上テクと共に押し出された、痛快なる一枚。鈴木良雄のエレキ・ベース、藤井貞泰のフェンダー・ローズは、来るべきジャズの次代を確実に予感させ、上長ジョージ大塚のキビキビとしたドラムが至るところに激しいスパークを生む。お誂え向けの座組みによって主役テナーは気持ちよさそうにスウィング。やおらいきなりトップスピードに乗る「インサイド・パーツ」のブロウは、なるほど太く逞しい。

 この頃、アート・ブレイキー&ジャズ・メッセンジャーズ入団直前となる鈴木の絶好調ぶりも本作のハイライト。「星影のステラ」でのアドリブ・ソロも冴えまくっているし、何より自作曲「T.I.」、「スリープ・マイ・ラブ」のコンポーズ力はお見事。プレ・フュージョン的とも呼べるこの真新しいサウンドの肌合い。恰も「スリープ・マイ・ラブ」は、電化が推進されていた本国アメリカのジャズ・シーンに対する、極東ジャズメンからのカウンター気味のアンサーのようにもとれるだろう。

 当時、ジョー・ヘンダーソン『Power To The People』、あるいはフレディ・ハバード『Red Clay』あたりを耳にして、たちどころにショックを受け感銘を受け覚醒した、そんな彼らの姿が目に浮かぶ。



植松孝夫 (ts) / 今井尚 (tb) / 藤井貞泰 (g) / 鈴木良雄 (b) / ジョージ大塚 (ds)





植松孝夫 (うえまつ たかお)
1947年東京生まれ。66年19歳でプロ入り。石川晶とカウント・バッファローズ、杉本喜代志カルテットを経て、69年にジョージ大塚カルテットに参加し脚光を浴びる。同年、スリー・ブラインド・マウスから初リーダー作『デビュー』を発表。日野皓正クインテットに参加後の73年自己のグループを結成。数年のブランクを経た77年には傑作『ストレイト・アヘッド』を発表。その後は自己のグループをはじめ、浅川マキ、日野元彦、本田竹廣、辛島文雄、峰厚介との2テナーなどで活動。その黒いテナー・サックスは、和ジャズ・ファン〜レアグルーヴ世代からも圧倒的な支持を受けている。


高柳昌行と新世紀音楽研究所 『銀巴里セッション』

1963年6月26日録音

銀巴里セッション  いわゆるひとつのトキワ荘的青春群像物語。野心溢れる若いクリエイターたちが切磋琢磨しながら未来を切り拓く。なろう、なろう、あすなろう、明日は檜になろう、の精神である。舞台は1963年6月26日の東京銀座のシャンソン喫茶「銀巴里」。高柳昌行、金井英人、富樫雅彦、菊地雅章、日野皓正、山下洋輔らを中心に、当時まだ無名に近かった若きジャズメンによって50年代末に結成された「新世紀音楽研究所」は、あらゆる意味において “現状を突破”するためのラボであり寺子屋でもあった。

 そもそも舶来品であるジャズへのアプローチの仕方を今一度捉え直し、それを受け止め消化し血肉化するだけの技術なり度量なりを身に付ける。独自性にしろアイデンティティにしろ、口で言うほど易々と備わるものではない。だからして、彼らは同志集団によるアカデミーを組織し、毎週金曜日に、まるでディベート・セミナーのようなセッションを繰り返した。これはそのレギュラー・セッションとは別に、数ヶ月に一度行なわれていた別枠の“ミッドナイト・セッション”、その第7回の記録にあたる。彼らと知己のある外科医にしてジャズ愛好家/評論家である内田修氏のポータブル・テープレコーダーによって収められたもので、それから約10年後の1972年に初めてレコード盤として陽の目を見ている。

 蛇足ながら1963年といえば、トキワ荘を根城にしていた漫画家たち(石森章太郎、鈴木伸一、つのだじろう、藤子不二雄など)が、アニメ製作会社「スタジオ・ゼロ」を設立。「オバケのQ太郎」、「サイボーグ009」といった不朽の名作漫画が次々と生まれた年でもある。

 アカデミーの主幹でもあったギタリストの高柳は、生涯においてフリー・インプロヴィゼーションという方法論を多角的に用いながら、徹底してジャズ・ギターそのものの可能性を追求し、また自身の音楽家としての生体反応と対峙していった。当時31歳の高柳、実はドラッグ依存の治療を受けるために、この日の演奏を最後に音楽活動を一旦休止しようと考えていたのだ。だが、そんな裏事情さえにわかに信じがたいと思わせる「グリーンスリーブス」は、富樫の素晴らしいドラミングと相俟って、この世にまたとない特殊な色彩を浮かび上がらせる。高柳がこの時期描いていたジャズ・ギターの大発展という種の「野望」「挑戦」「勝算」が、熱を帯び高揚しまくった最高のアドリブから見えてくる。

 高柳に限らず、後年日本のジャズ・シーンを背負って立つこととなる彼らの発芽点ともいえるわずかな“膨らみ”を窺えるのがこのセッション音源の興味深いところであり、「ナルディス」における菊地の間を生かしたアドリブ、「イフ・アイ・ワー・ア・ベル」における日野の柔らかく暖かい音色・・・そこにはエヴァンスもマイルスも問題としない絶対的なレーゾンデートルが、「明日は檜になろう」と未来だけを真っ直ぐに見据えた純粋さの顕れとして刻み込まれている。



高柳昌行 (g) / 金井英人 (b) / 稲葉国光 (b) / 富樫雅彦 (ds) / 菊地雅章 (p) / 金井英人 (b) / 中牟礼貞則 (g) / 日野皓正 (tp) / 稲葉国光 (b) / 山崎弘 (ds) / 山下洋輔 (p) / 宇山恭平 (g)





高柳昌行 (たかやなぎ まさゆき)
1932年12月22日東京生まれ。伝説的な存在のアヴァンギャルド・ジャズ系のギタリスト。秋吉敏子、渡辺貞夫、菊地雅章らと共演。60年代の末頃から前衛に傾倒する。自己のグループ、ニュー・ディレクションで50年代からメンバーを替えながら活動。銀巴里を舞台とした 「新世紀音楽研究所」の活動では、日野皓正、山下洋輔など多数の人材を世に送り出した。メインストーム・ジャズと前衛、両方の演奏とも高い評価を受けた。代表作は、『フリー・フォーム組曲』『クール・ジョジョ』、阿部薫とのデュオ作『解体的交感』など。91年6月23日死去。

中村照夫グループ 「ユニコーン」

1973年5月18日、6月8日録音

ユニコーン  ゼロ年代以降、パンデミック的に巻き起こったとされる未曾有の「和ジャズ・ムーヴメント」。ただ、それ以前から国内のみならず海外のジャズ・コレクターたちからも絶えず注目されてきた日本のジャズ・レコードというのがある。80年代後期のロンドンで興隆したアシッド・ジャズ・ムーヴメントに呼応して特に高い人気を誇ったのが、山本邦山の尺八オリエンタル横溢盤『銀界』であり、日野皓正の『スネイク・ヒップ』であり、そして中村照夫の初リーダー作となる、この『ユニコーン』である。

 中村照夫の音楽には、「和ジャズ」という言葉では括りきれないユニバーサルなスケールがある。『ユニコーン』を聴いたことがある人は誰もが共通コード的に持っている感覚だ。中村以外のメンツが全員日本人プレイヤーでないこともその理由のひとつかもしれないが、実はそのまた逆の見え方として、中村照夫というプレイヤーそのものに日本的なナショナリズムがほぼ皆無なのではないだろうかというのがある。卑近なアメリカナイズ、という意味合いではなく、もっと普遍的でニュートラルな、いわゆる「グローカルな」という形容が彼の音楽あるいはその活動にはピタリとあてはまる。1964年、「思い立ったが吉日」とばかりに着の身着のままで単身アメリカに渡った中村は、そこでイチからジャズのいろはを体に叩き込んだ。だからして、「ニューヨーク詣」が一種のトレンドになりつつあった70年代前半〜半ばの日本のジャズメンのアルバムとは、その染み込んだ匂いを大きく違える。ネイティヴ・ニューヨーカーの粋さえ漂ってきそうな、大胆で明快で、そしてちょっぴり危険な香りのするジャズ。これこそが、かの地ならではの磁場から放たれたパワーなのかもしれない。

 1973年の5月18日と6月8日にニューヨークで行なわれたレコーディング・セッション。スティーヴ・グロスマン(ss,ts)、ジョージ・ケイブルズ(p,el-p)、チャールズ・サリヴァン(tp)、レニー・ホワイト(ds)ら当時気鋭のN.Y.ミュージシャンが、中村同様、溢れんばかりの音楽への情熱を各々メロディ、リズム、ハーモニーに託してぶつけ合う。

 すさまじいほどの熱気〜妖気がほとばしるコルトレーン・チューン「サム・アザー・ブルース」、そのコルトレーン直系のソプラノが宇宙を翔けるモーダル「ニュー・ムーン」、官能のラテン・フィギュアでニューヨークのマージナルな路地裏に突っ込む「デリックス・ダンス」、この3曲こそが、中村照夫のグローカル、且つユニバーサルな創造理念を伝え得るものに他ならないだろう、と。アシッド・ジャズ全盛期にディスカヴァリーされた「ユニコーン・レディ」、「ウマ・ビー・ミー」という“殿堂入り”の神曲に話題は集中しがちだが、聴き込むほどにそうしたジャズ・ファンク路線の楽曲以外にじわじわ心寄せをしてしまう。そういう意味で『ユニコーン』は、ここへきてさらなる評価の見直しを必要としているアルバムなのかもしれない。



中村照夫 (b,el-b) / スティーヴ・グロスマン (ss,ts) / チャールズ・サリヴァン (tp) / ジョージ・ケイブルス (p,el-p) / ヒューバート・イーヴス (p,el-p) / レニー・ホワイト (ds) / アル・ムーザーン (ds) / アルヴァン・バン (perc) / ロナルド・ジャクソン (perc) / 岸田恵二 (perc) / サンディ・ヒューイット (vo)





中村照夫 (なかむら てるお)
1942年3月1日東京生まれ。ニューヨーク在住35年にして同ジャズ界屈指の名ベーシスト。64年単身ニューヨークへ渡る。スティーヴ・グロスマンほか当時の優れた若手ミュージシャンとの交流を経て、ロイ・ヘインズのバンドで本格的にプロ・デビュー。73年に初リーダー作『ユニコーン』をリリース。また自らのバンド「ライジング・サン」を結成し、76年に『ライジング・サン』、77年に『マンハッタン・スペシャル』の2枚のアルバムをリリース。ビルボード誌をはじめとする全米チャートでトップ10入りを果たした。カーネギーホールに出演した際の音源は、90年に『中村照夫ライジング・サン・バンド・アット・カーネギー・ホール』としてCD化された。現在もプレイヤーのみならず、プロデューサー、写真家としても活動している。


鈴木勲カルテット+1 『ブルー・シティ』

1974年3月4日録音

ブルー・シティ  アート・ブレイキー楽団での演奏を経て、ニューヨークから帰国した鈴木勲が、1973年にジョージ大塚(ds)、菅野邦彦(p,el-p)、水橋孝(b)とのカルテット(一部トリオ)で吹き込んだリーダー・デビュー作『ブロー・アップ』が、「天才ベーシスト/コンポーザー現る!」とその名を一躍全国に知らしめるものとなったのは有名な話。30年後には続編まで作られている、まさに自他共に認める日本ジャズの金字塔作品だ。

 そして、翌74年に録音されたこの2ndリーダー・アルバム『ブルー・シティ』。一説には、当時その出来に鈴木自身あまり納得がいっていなかったようで、レーベル主宰者でもあるプロデューサーの藤井武に何度も録り直しを頼んだが、結局は藤井の判断の下、このままのカタチで発売されるに至ったという。一体全体どの部分に拘泥する余地があったのか、気になるところでもあり、およそ知る由もないところではあるが、もし、このアルバムが、録り直しにより全く別のサウンドに彩られたものになっていたら・・・と、想像するに身の毛が立つほどの恐ろしさを感じてしまうのは、きっと僕だけではないだろう。テイクが違えば、空気も温度も違うのは言わずもがな。空間芸術、いや瞬間に生きる潔さそのものとも言える主役ベース、前言撤回とばかりにその別の表情をのぞき見たかった欲もないわけではないが・・・やはりここに収められた音のドラマがとてもしっくりくることには間違いない。 

 鈴木のアルコが、様々なブルーの色彩を浮かび上がらせるのも本作の特色だろうか。「蒼い街」という表題にふさわしい。「(8番街) 45丁目」は、ボッサの軽快なリズムに乗って、当時まだハタチそこそこの若きテクニシャン・ギタリスト、渡辺香津美と歌心溢れたユニゾンを聴かせてくれる。師・中牟礼貞則ゆずりとなる、渡辺の歯切れの良いタッチ、ジャストなリズム感は本作の陰影の美しさを大いに際立たせている。「プレイ・フィドル・プレイ」は、鈴木のハミングとボーイング(弓弾き)によるテーマが頭にこびりついて離れない。夕暮れ時、長塚京三扮するサラリーマンが、缶チューハイを開けながら帰途に着く・・・「恋は、遠い日の花火ではない。」 あたかもそんな風景を想い起こさせるメロディ。また、菅野邦彦のピアノソロ、渡辺のギターソロ、どちらも「圧巻」という部類に入るほど熱がこもっている。皆がこの甘く憂いを帯びたノスタルジックなメロディに乗せられ上気しているんだろう。

 現在も、スガダイロー&志人、DJ Mitsu the Beats、KILLER-BONGなど、(スクエアなジャズ・ファンはおそらく「?」となるであろう)ジャンルを超えた多くの若手ミュージシャンたちと手合わせしながら、意気軒昂にわが道を往く鈴木勲。日本のジャズ・ファンを驚嘆させた『ブロー・アップ』の陰にかくれがちだが、渡辺や井野信義ら若手の新撰にジャズの活路を見出した点においては、この『ブルー・シティ』こそ、そんな鈴木の瑠璃色をした原点を垣間見ているかのような一枚だと思う。



鈴木勲 (b,cello) / 菅野邦彦 (p) / 渡辺香津美 (g) / 井野信義 (b) / 小原哲次郎 (ds)





鈴木勲 (すずき いさお)
1936年1月2日東京生まれ。ジャズ・ベース/チェロ奏者。立教大学卒業。56年に活動を始め、ジョージ川口(ds)ビッグ4、松本英彦(ts)、渡辺貞夫(as)のグループに参加。70〜71年はアート・ブレイキー&ジャズ・メッセンジャーズに参加。帰国後フリーとして活動していたが、マル・ウォルドロン来日の際の共演で、ピアノトリオの分をわきまえたプレーが高く評価された。外国ミュージシャンとの共演は数知れない。菅野邦彦(p)参加の『ブローアップ』(73年)、『ブルー・シティ』(74年)、富樫雅彦(ds)参加の『アプローチ』(86年)、『1998,new』(98年)などリーダー作は50枚以上に及ぶ。現在も、鈴木勲OMA SOUNDの中で若手ミュージシャンを育てながら、鈴木勲自身も感性を磨き、日々練習を重ねて進化し続けている。

今田勝トリオ+2 「グリーン・キャタピラー」

1975年1月20日・22日録音

グリーン・キャタピラー  これはもう、のっけから今田勝流のアーバン・ファンクが炸裂する表題曲に全てが集約されている感じだろうか。1975年という時代の空気や特性をこれでもかと吸い込んだこの曲の音のつくりには、「和製ヘッドハンターズ」「日本版ラリー・ヤングズ・フューエル」と呼んで差し支えないほどのものがある。モーダルな「ストレート・フラッシュ」にしてもそう。

 70年代も中葉になると、聴衆の多くは、抽象的な「ファンキー」ではなく、確固たる具体性を持つ「ファンク」そのもののグルーヴを待望していたのである。そこにジョージ・ベンソンAORさながらの「アーバン」というまろやかなスパイスが加われば鬼に金棒。産業ディスコの侵食にたじろぎ、すっかり禅寺百景化してしまったシーンに、ダンス・ミュージックとして機能することを再び許された、新種のようでいて実は原点返りのジャズが出現することに。・・・という妄想気味のくだりすらヘルシーに思える、痛快丸かじりの新主流エレクトリック仕様なのである。SFカルチャーにライトオマージュをくれたようなポップでキッチュなジャケットも、ニクたらしいまでの異彩を放っている。鳥山明もビックリだ。

 エフェクターをかけた今田のエレピにも脱帽だが、何より溜飲を下げるのが渡辺香津美のギター・ソロ。「グリーン・キャタピラー」、「ストレート・フラッシュ」の2曲に関しては、ギター小僧昇天のテクニックとツヤのあるクリアトーンで極楽アドリブ・フレーズを連発。同年発表の『エンドレス・ウェイ』から始まる快進撃ともシンクロし、まことクロスオーバーの夜明けがみえてくる。福井五十雄の小気味よいベースソロも良し。

 オーラスの「スパニッシュ・フラワー」は、前述2曲とはグルーヴ構造が異なるものの、こちらもミッド70sのある種異様な空気を孕んだモーダル・サウンドが横溢する。コルトレーンとサンタナをオリエンタルなムードでつなぎながらも、同時代のImpulse!、BLACK JAZZなどに残されたスピリチュアル・メニューへの呼応も感じさせる。魂の浄化という名の激しい揺らぎとその切迫感にいつしか体の毒が抜ける、精神の回復のための1曲だ。また、松岡直也、渡辺貞夫、日野皓正グループなどのセッションに参加する百戦錬磨のパーカショニスト、今村祐司の存在が、本作において何より大きいのは言うまでもないだろう。



今田勝 (p) / 福井五十雄 (b) / 小原哲次朗 (ds) / 渡辺香津美 (g) / 今村祐司 (per)





今田勝 (いまだ まさる)
1932年3月21日東京生まれ。ピアニスト、アレンジャー。明治大学卒業後 コンサート、フェスティバル等で精力的な活動を続け、長い間トップ・ミュージシャンとして活躍し、40枚に及ぶリーダーアルバムを発表。ピアノトリオを中心にした4ビート・ジャズとフュージョン・グループ(NOW' IN)の活動を並行して行なう。モントルー・ジャズ・フェステイバル、横浜ジャズプロムナード等に出演。98年長野冬季オリンピックにジャズで参加。神戸大震災チャリティ・ジャズ・フェスティバルには発起人の一人として企画、構成、プロデュースに参加。サマー・フュージョンの雄、フュージョン・キーボードの雄と評されるスタイルで、ラテンのリズムをベースとした美しくロマンティックなサウンドが特徴。


三木敏悟 / 高橋達也と東京ユニオン 『北欧組曲』

1977年5月15日・22日

北欧組曲  抱腹絶倒の一言に尽きる。ズッコケ大爆笑というニュアンスではなく、この、あまりにもダイナミックで、且つ稀有な空気をたずさえるビッグバンド・サウンドに、ひとつもんどり打って悦に入る、という感覚だ。戦後日本のビッグバンド・ジャズの銘家、高橋達也と東京ユニオンの1977年スリー・ブラインド・マイスでの3作目に、作・編曲家/サックス奏者としてクレジットされているのが、何を隠そうあの三木敏悟。あの、と言われてもピンと来ないヤングには少々説明が必要だろうか。「みき・びんご」。その名前からしてすでにやらかしそうなムードが漂っているが、ジャズのみならず昭和〜平成の音楽界、特に映画音楽、舞台音楽の世界においては大変な宗匠で知られているお人なのだ。1988年には、「釣りバカ日誌」の記念すべき第1作目の音楽を手掛け、その名をお茶の間に広く浸透させた、いわば「釣りバカ音楽の人」と呼んでも概ねバチは当たらないだろうか。ともかく、6年間の米国武者修行を終え帰国した三木にとってTBMというレーベルは、己のポテンシャルを最大限に引き出すために、これ以上なくふさわしいレーベルだったに違いない。  

 映画音楽、舞台音楽、あるいはCM音楽の世界などで活躍する作・編曲家の先生というのは、一般的な歌謡系の作・編曲家先生方に比べ、表現方法においてやはりどこか異質というか特殊というか、映像・演劇などとの合わせ技の効果をもくろむ表現の性質上、音楽にある種のデフォルマシオンやアナモルフォーズの理論を求めていたのではないだろうか。ゆえに、彼らのような職種の人がタクトを揮うジャズのオーケストラは、無作為でない限りいつも決まってストレンジな空気を纏っている。ルグラン、シフリン、佐藤勝然りである。 この『北欧組曲』にも、びんご先生の(釣りバカ・スティーロとまではいかないが)そうしたフィルム・スコアリングのような妙技、あるいは米国の師ジョージ・ラッセルによる薫陶の “成果”というものが惜しげもなく詰め込まれている。つまり、サウンドトラック的な趣きに心寄せしながら聴き入ることができ、また同時に猛り狂うフュージョン時代の凶暴性も兼ね備えた、実にマルチなビッグバンド・ジャズ・アルバムなのである。

 翌78年、同じくTBMから自身のインナーギャラクシー・オーケストラを率いて、「70年代ビッグバンド・ジャズの奇跡」とまで言われる大傑作『海の誘い』(いずれ本シリーズで紹介されることだろう)を発表することになるが、ここでは早くもその“片鱗”のようなサウンドに舌鼓を打つことに。冒頭「白夜の哀しみ」には、思わせぶりな電子SEがピュンピュンと飛び交う中、劇場タイプのテーマ・メロディがゆったりと鎌首をもたげ出す。スカンジナビアの哀愁が、海老沢一博の刻む軽快なリズムに乗って花吹雪となる。ちなみにSEの仕掛け人は、シンセサイザーを操る、当時ゴダイゴを結成して間もないミッキー吉野。続く「エドワード・ムンクの肖像」でもヌエのようなソロを詩的に披露し、大技・小技取り揃えたその策士ぶりを大いに窺わせてくれる。

 ベースのオスティナートとハープシコードのもつれあいが、確実にレアグルーヴ・ファンの全細胞をたたき起こすであろうオーラスの「遊ぶ子供たち」まで、全6編にわたる一大組曲。時代劇さながら、大仰にして繊細。グレタ・ガルボも、エドワード・ムンクも、アンデルセンも、ヤン・シベリウスも、三木の中にある関係妄想のドラマによってデフォルメされまくったこの「北欧」の世界、やはり抱腹絶倒の一言に尽きる。   



高橋達也と東京ユニオン(三木敏悟:ts / ミッキー吉野:el-p ほか)





三木敏悟 (みき びんご)
1946年4月2日旧満州生まれ。コンポーザー、アレンジャー、テナー・サックス奏者。バークレー卒業後、75年に帰国。東京ユニオンにテナー・サックス奏者として入団。その後、作・編曲に専念し、77年に東京ユニオンへスコアを提供した『北欧組曲』で日本ジャズ賞を受賞。76年6月、自己のオーケストラ「ジ・インナー・ギャラクシー」を結成して『海の誘い』を発表。79年には、同バンドでモントルー・ジャズ・フェスティバルに出演し好評を博す。ほか、映画音楽なども多数手がけ、1988年の映画「釣りバカ日誌」第1回の音楽を担当したことは有名。

TBM タイトル・リスト

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