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「バーンスタインの偉大さにひれ伏す」

Wednesday, April 4th 2012

連載 許光俊の言いたい放題 第206回

「バーンスタインの偉大さにひれ伏す」

 1985年、バーンスタインとイスラエル・フィルによって演奏されたマーラーの交響曲第9番のCD。
 この演奏に関しては、ここがこうとか、あそこがああだとか、訳知り顔の解説をするのが嫌になる。小利口な解釈を言う気にもなれない。そんなことは卑しいという気にさせられる。あらゆる最高峰の音楽は、そういうものである。
 が、それでは文章にならないので、何事か綴ってみることにしよう。

 1985年に行われたバーンスタインとイスラエル・フィルの来日公演のマーラー交響曲第9番は、今日まで数限りなく繰り返された日本でのマーラー演奏の中で間違いなく最高のものである。もちろん、そう断言することは論理的には不可能なわけだが、少なくとも、私の中ではそうである。
 あれからすでに25年以上が経った。その間、私はこの曲をインバルとチェコ・フィル、ラトルとベルリン・フィルあるいはバーミンガム市響、ベルティーニとケルン放送響、スヴェトラーノフ指揮ロシア国立響、最近ではアバドとルツェルン祝祭管、ハイティンクとコンセルトヘボウ管などなど、さまざまな演奏家のナマで各地で聴いてきた。その中には、立派な演奏もあれば、嫌悪感だけが募るようなものもあった。だが、確実に言えるのは、どんな指揮者が振るときでも、私は、バーンスタインとイスラエル・フィル以上の演奏が行われる可能性など、ただの1パーセントも信じていなかったということだ。そして、ひどい演奏に遭遇するたびに、心の中で「この馬鹿たれが」と罵りながら、バーンスタインを思い出していたのである。バーンスタインのおかげでこの曲がどれほど凄惨かつ甘美な、ユニークにして恐るべき傑作であるかを知っているがゆえに、生ぬるい演奏に遭遇するとよけいに腹が立って仕方がなかったのである。
 それほどまでにバーンスタインの東京ライヴはすごすぎたのである。あのときは、まず大阪で演奏会があり、吉田秀和がそれを絶讃する評が東京公演の直前に朝日新聞に掲載された。ただの名演奏と言うよりも、歴史的な大演奏とか何とか、そんなことが書かれていたように記憶している。それは嘘でもなければ大げさでもなかった。今でこそ、曲が静かに終わったときには拍手を控えるようになった日本の聴衆だが、かつてはそうではなかった。むしろ逆で、すばやく拍手するのが礼儀だと信じられていた。ところが、この時ばかりは二十秒も沈黙が続いた。何しろ、黒田恭一がそれに仰天して、後日バーンスタインとのインタビューでわざわざ触れたほどだ(もっとも、バーンスタインはそんなことは意に介さず、マーラーの魂が話しかけてきた云々と彼らしい怪しい話をしていたのだが)。
 私にとってはこのイスラエル・フィルとの演奏が思い出が強烈すぎて、コンセルトヘボウとの録音は一度聴いただけでがっかりしたし(こういう、深いところに突っ込まないことを美学とする楽団で第9番を録音したレコード会社を恨んだ)、ベルリン・フィルとのライヴ盤にも熱中しなかった。
 東京公演はNHKホールで行われたが、あの会場で音響のことなどまったくどうでもよくなったのはあとにも先にもこの時だけである。あまりにも鋭い、肺腑をえぐるような衝撃的な響きから、ぶあつい弦のカンタービレまで、あのお粗末な音響のホールにおいてすら、恐るべき生々しさで聞こえてきたのである。いや、耳に突き刺さるように音が飛んできたのである。身を切られるような痛みすら覚えた。
 そんな東京公演に先行する本拠地でのライヴ録音が発売されるというニュースを聞いて、私は驚き、喜び、恐れた。まさかあの忘れがたい、というか、私が聴いた最高のコンサートのひとつである来日公演と同様のすごい演奏を聴くことができるのか? だが、演奏のよしあしが伝わるかどうかは音質次第でもある。はっきり言って、期待しすぎないほうがいい。不安も感じつつ、今度のCDを聴き始めた。

 結果から言おう。これはバーンスタインの代表盤とされるべき、すばらしいCDである。いや、その域を超えて、あらゆるクラシックのCDの中でも特に大事にされなければならない貴重なうえにも貴重な記録である。音質も欲を言えばきりがないが、まずこれ以上は求められないだろう。
 弦楽器全体の響きを生かした録音ゆえ、金管楽器や打楽器の衝撃力は減じられている。だから、第1楽章では、聴くものを責め苛み、引きずりまわし、圧倒しつくしたはずのデモーニッシュな迫力は薄れている。そこにわずかな不満がないわけではない。が、それにしたって、これほどまでに弦があちこちで不気味に鳴っている演奏は、バーンスタイン以外にない。しかもその一方で、実に陶酔的でもある。幸福と不幸、甘さと苦さ、静謐と狂乱が、じかに隣り合っている。この強烈なコントラストこそがマーラーなのだ、と改めて思わされる。
 カラヤンとベルリン・フィルの、あの練りに練られた美しいスタジオ録音と比較してみるとよい。カラヤンのほうは、あれはあれでたいへん立派な第1楽章だけれど、バーンスタインで聴くと、あっちこっちの音型、リズムなどが異様に生命感を帯びている。カラヤンが情報を一元化するのに対し、バーンスタインは多元化させるのだ。情報量がまったく違うのだ。本当に、まったく別方向の演奏である。このふたつを聴けば、演奏によってまったく違う音楽が生まれてしまう不思議を痛感するに違いない。
 第3楽章でも、あらゆるディテールが意味を持っているのがすごい。これはもはや美しさをまったく問題とはしていない音楽である。人生が必ずしも美しさで割り切れないのと同様に。バーンスタインが達した解釈の高みは、他を圧している。私はこうした演奏を聴いたことがあるからこそ、アバド、ブーレーズ、ヤンソンス、ハイティンクあたりを、まったくマーラーがわかっていないと百パーセントの確信を持って批判できるのである。もちろん、バーンスタインと違う解釈や音楽観があってよい。いや、あるべきだ。しかし、ここまで徹底的に読み込み、表現した例が他にあるなら、教えてもらいたいほどだ。
 フィナーレは想像をはるかに超えてすさまじい。こういうのを何と言ったらよいのか。豊かな歌、嘆きの歌、いや、全然言い足りない。弦のハーモニーのひとつひとつに異様な強さがある。特に16分過ぎ、ここは東京でも度肝を抜かれ、いまだにはっきり覚えている個所だけれど、木管楽器から弦楽器に交替してからあとが、戦慄的だ。オーケストラからこんなにとてつもない音、まるで人間の必死の叫び声のような音が出るのかと文字通り震えが来るような、凄絶きわまりない音楽だ。もし私が指揮者ならは、一生のうちに一度だけでいい、こんな音を出さないでは死にたくない。
 このうえなく孤独でありながら、このうえなく連帯を求める音楽。この演奏のさなか、聴衆の多くは、指揮者とともに、オーケストラとともに、そして作曲者とともに、心の中でいっしょに歌い、悲しみ、愛おしんだはずだ。音楽を生きたはずだ。そんな例外的な演奏がテープに見事に記録されていたとは、ただただ感謝あるのみである。当時の新聞評によれば、イスラエルでのこのコンサートのあとでは20分間拍手が続いたという。
 このCDは半端な気持で聴くものではない。家に誰もいないときに、たっぷり時間を取って、真剣に相対すべき音楽である。私は聴き終わったあとで、しばらく平常心に戻れなかった。そして、このような音楽を聴くためにこそ自分の人生は存在するのであり、他のことは結局のところ、すべてどうでもよいことなのだと思った。傑出した芸術は、それ以外のすべての価値を無にしてしまう危険な作用があるのだ。
 そんなものが家で聴けるとは、本来あってよいことなのかどうか、私にはわからない。

(きょみつとし 音楽評論家、慶応大学教授) 


評論家エッセイ情報
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Symphony No.9 : Bernstein / Israel Philharmonic (1985)(2CD)

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Symphony No.9 : Bernstein / Israel Philharmonic (1985)(2CD)

Mahler (1860-1911)

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Release Date:06/April/2012

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