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4 people agree with this review 2012/04/21
ラヴェルの管弦楽曲集は、その光彩陸離たる華麗なオーケストレーションの魅力もあって、様々な指揮者による主要なレパートリーとなり、これまで多種多様な演奏が繰り広げられてきているところだ。そのようなあまた存在する演奏の中には名演と評価し得るものも数多くあるが、かかるあまたの名演に冠絶する至高の超名演こそは、本盤におさめられたクリュイタンス&パリ音楽院管弦楽団による演奏であると考える。録音から50年が経過したにもかかわらず、現在でも本演奏を凌駕する名演があらわれていないというのは殆ど驚異的であるとさえ言える。本盤におさめられた各曲の演奏におけるクリュタンスのアプローチは、意外にもゆったりとしたテンポにより曲想を精緻に描き出して行くというオーソドックスなものと言える。しかしながら、一聴すると何の変哲もない演奏の各フレーズの端々からほのかに漂ってくるフランス風のエスプリには抗し難い魅力があると言えるところであり、演奏全体が醸し出す瀟洒な味わいにおいては、他の演奏の追随を許さないものがあると言えるだろう。また、ボレロ、スペイン狂詩曲、ラ・ヴァルスともに、終結部に向けて圧倒的な盛り上がりを見せる楽曲であるが、本演奏では強靭さにおいては不足がないものの、かかる箇所においても洒落た味わいをいささかも失うことがないのは、クリュイタンスのラヴェルの音楽への深い理解・愛着と同時に、その抜群の相性の良さを感じることが可能だ。正に、クリュイタンスによる本演奏こそは、ラヴェルの管弦楽曲演奏の理想像の具現化とも評価し得るところである。このように洒落た味わいが際立つ演奏ではあるが、パリ音楽院管弦楽団の卓越した技量も、ラヴェルの華麗なオーケストレーションを色彩感豊かに描き出すのに大きく貢献しているのを忘れてはならない。このような演奏を聴いていると、クリュイタンスが62歳という指揮者としては比較的若くしてこの世を去ってしまったことを大変に残念に思う聴き手は私だけではあるまい。音質は従来CD盤でも比較的満足できる高音質であったが、数年前にHQCD化されたことによって音質はより鮮明になるとともに音場が幅広くなった。したがって、私としても、当該HQCD盤を愛聴してきたところである。しかしながら、今般、ついにSACD化が行われることによって大変驚いた。従来CD盤やHQCD盤とは次元が異なる見違えるような鮮明な音質に生まれ変わった言えるところである。音質の鮮明さ、音場の幅広さのどれをとっても一級品の仕上がりであり、あらためてSACDの潜在能力の高さを思い知った次第だ。1960年代のスタジオ録音とは思えないような音質の劇的な変化は、殆ど驚異的ですらあると言えるだろう。いずれにしても、クリュイタンスによる素晴らしい超名演を、SACDによる極上の高音質で味わうことができるのを大いに歓迎したいと考える。
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8 people agree with this review 2012/04/15
とてつもない超名演だ。このような超名演が発掘されたことは、クラシック音楽ファンにとっては何よりの大朗報であり、本盤の発売を行うに際して努力をされたすべての関係者に対して、この場を借りて心より感謝の意を表したい。バーンスタインは、ワルターやクレンペラーと言ったマーラーの直弟子ではないが、おそらくは今後とも不世出であろう史上最高のマーラー指揮者。何よりも、DVD作品を含めると3度にわたってマーラーの交響曲全集を録音(最後の全集については、交響曲「大地の歌」や交響曲第8番及び第10番の新録音を果たすことが出来なかったことに留意しておく必要がある。)したことがそれを物語っており、いずれの演奏も他の指揮者の演奏をはるかに凌駕する圧倒的な超名演に仕上がっているとさえ言える。バーンスタインは、そうしたマーラーの数ある交響曲の中で最も愛していたのは、マーラーの交響曲中で最高傑作の呼び声の高い第9番であったことは論を待たないところだ。バーンスタインは、本盤が登場するまでの間は、同曲について、DVD作品を含め4種類の録音を遺している。最初の録音は、ニューヨーク・フィルとのスタジオ録音(1965年)、2度目の録音は、ウィーン・フィルとのDVD作品(1971年)、そして3度目の録音は、ベルリン・フィルとの一期一会の演奏となったライヴ録音(1979年)、そして4度目の録音は、コンセルトヘボウ・アムステルダムとのライヴ録音(1985年)である。本盤の演奏は、コンセルトヘボウ・アムステルダムとの演奏が1985年5〜6月のものであることから、その約2か月の1985年8月のものであり、現時点では、バーンスタインによる同曲の最後の演奏ということになる。9月には、同じくイスラエル・フィルと来日して、今や我が国では伝説的となった同曲の至高の超名演を成し遂げるのであるが、当該来日公演のCD化がなされていない現段階のおいては、本盤の演奏こそは、バーンスタインの同曲演奏の究極の到達点と言っても過言ではあるまい。既に、コンセルトヘボウ・アムステルダムとのライヴ録音のレビューにおいて、私は、バーンスタインによる同曲の演奏について、「古今東西のマーラーの交響曲第9番のあまたの演奏の中でもトップの座に君臨する至高の超名演と高く評価したい。マーラーの交響曲第9番は、まぎれもなくマーラーの最高傑作だけに、様々な指揮者によって数々の名演が成し遂げられてきたが、本盤の演奏はそもそも次元が異なると言える。正に、本バーンスタイン盤こそは富士の山、他の指揮者による名演は並びの山と言ったところかもしれない。これに肉薄する往年の名演として、ワルター&ウィーン・フィル盤(1938年)があり、オーパスによって素晴らしい音質に復刻はされているが、当該演奏は、多分に第二次世界大戦直前という時代背景が名演に伸し上げたと言った側面も否定できないのではないだろうか。マーラーの交響曲第9番は、マーラーの交響曲の総決算であるだけに、その神髄である死への恐怖と闘い、それと対置する生への妄執と憧憬がテーマと言えるが、これを、バーンスタイン以上に表現し得た指揮者は他にはいないのではないか。第1楽章は、死への恐怖と闘いであるが、バーンスタインは、変幻自在のテンポ設定や思い切ったダイナミックレンジ、そして猛烈なアッチェレランドなどを大胆に駆使しており、その表現は壮絶の極みとさえ言える。これほど聴き手の肺腑を打つ演奏は他には知らない。第3楽章の死神のワルツも凄まじいの一言であり、特に終結部の荒れ狂ったような猛烈なアッチェレランドは圧巻のド迫力だ。終楽章は、生への妄執と憧憬であるが、バーンスタインの表現は濃厚さの極み。誰よりもゆったりとした急がないテンポにより、これ以上は求め得ないような彫の深い表現で、マーラーの最晩年の心眼を鋭く抉り出す。」と記したが、本盤の演奏は、更に壮絶な迫力(例えば、第3楽章終結部の猛烈なアッチェレランド、終楽章の濃厚かつ情感豊かな味わい深さなど)を誇っているとさえ言えるだろう。これは、イスラエル・フィルという、同じユダヤ人としてのマーラーへの深い共感度を誇ったオーケストラを起用したこと、そして、録音を意識しないで演奏を行っていたであろうことに起因するオーケストラの渾身の熱演ぶりにあると言えるのではないだろうか。おそらくは、同曲の最高の演奏という次元を超えて、これほどまでに心を揺さぶられる演奏というのはあらゆる楽曲の演奏において稀であるとさえ言えるところであり、正に筆舌にはもはや尽くし難い、超名演の前に超をいくつ付けても足りないような究極の超名演と高く評価したいと考える。音質も非常に優れたものと言えるところであり、コンセルトヘボウ・アムステルダムとの演奏が今一つの音質であっただけに、大きなアドバンテージとも言えるだろう。これだけの超名演だけに、可能であれば、SACD盤で発売して欲しかったと思う聴き手は私だけではあるまい。それにしても、本演奏がこれだけ素晴らしいだけに、どうしても更なる欲が出てくる。あの伝説的な来日公演をCD化することはできないのであろうか。
8 people agree with this review
2 people agree with this review 2012/04/15
本盤には、シベリウスを十八番としたバルビローリによる管弦楽の小品がおさめられているが、いずれも素晴らしい名演と高く評価したい。バルビローリのシベリウスは、そのヒューマニティ溢れる温かさが魅力であると言える。それは交響曲において特に顕著ではあったが、管弦楽小品においても同様であり、どの演奏をにおいてもバルビローリならではの人間的な温もりが感じられると言っても過言ではあるまい。もっとも、だからと言って穏健な演奏に終始しているわけではないことに留意しておく必要がある。例えば、冒頭におさめられた交響詩「フィンランディア」は、冒頭からとてつもないエネルギッシュな力感溢れる演奏で開始される。終結部のトゥッティに向けて畳み掛けていくような力奏も圧倒的な迫力を誇っており、バルビローリのこの演奏にかける灼熱のように燃え上がるような熱き情熱が感じられるのが素晴らしい。中間部の讃美歌はいかにもバルビローリならではの温もりのある情感に満ち溢れており、本演奏はいい意味での剛柔バランスのとれた名演に仕上がっていると高く評価したい。組曲「カレリア」は、シベリウスの初期の作品ということもあって、どちらかと言うと颯爽とした趣きの演奏が多いと言えるが、本演奏は正に「歌う英国紳士」の面目躍如たる情感の豊かさが全体を支配していると言える。それでいて、いささかも感傷的に流れるということはなく、どこをとっても高踏的な美しさを湛えているのが素晴らしい。いずれにしても、本演奏は、演奏の内容の密度の濃さから、同曲演奏史上でもトップの座を争う名演と高く評価したい。他の諸曲も素晴らしい名演であり、例えば、悲しきワルツの楽曲の心眼に踏み込んでいくような深遠な演奏や、交響詩「ポホヨラの娘」や「レミンカイネンの帰郷」の荒々しささえ感じさせる気迫溢れる力強い演奏を凄い。とりわけ、「レミンカイネンの帰郷」を聴いて、バルビローリの指揮で4つの伝説曲全体を通して聴きたいと思った聴き手は私だけではあるまい。ハレ管弦楽団も部分的には、ブラスセクションの荒っぽさや弦楽合奏のアンサンブルなどにおいて若干の問題がないわけではないが、これだけの名演奏を繰り広げたことを考えれば文句は言えまい。録音は、リマスタリングを繰り返してきたこともあってとりあえずは満足し得る音質であるとは言えるが、今般、ついに待望のSACD化が行われることによって大変驚いた。従来CD盤とは次元が異なる見違えるような、そして1960年代のスタジオ録音とは到底信じられないような鮮明な音質に生まれ変わった言える。バルビローリによる演奏の最大の美質でもある弦楽合奏の美しさが艶やかに表現されているのは殆ど驚異的ですらあると言えるだろう。もっとも、ハレ管弦楽団のブラスセクションのいささかきめの細かさを欠いた荒っぽい演奏ぶりが高音質化によってさらに露わになったのは玉に傷とも言えるが、いずれにしても、バルビローリによる至高の名演を、SACDによる高音質で味わうことができるのを大いに歓迎したいと考える。
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1990年代に入って、余人を寄せ付けないような神々しいまでの崇高な名演の数々を成し遂げた巨匠ヴァントによる本拠地、ハンブルク・ムジーク・ハレでの最後のライヴ録音である。とは言っても、ヴァントの場合は、数回に渡って行われる演奏会の各演奏を編集した上で、ベストの演奏を作り上げていくという過程を経て、はじめて自らの録音を販売するという慎重さを旨としていたことから、厳密に言うと、本拠地での最後の演奏会における演奏そのものと言えないのかもしれない。また、その数日後にも、同じプログラムでヴッパータールやフランクフルトで演奏会を行っているということもある。そうした点を考慮に入れたとしても、巨匠の人生の最後の一連の演奏会の記録とも言えるところであり、本演奏には、巨匠が最晩年に至って漸く到達し得た至高・至純の境地が示されていると言っても過言ではあるまい。冒頭のシューベルトの交響曲第5番も、冒頭からして清澄さが漂っており、この世のものとは思えないような美しさに満ち溢れていると言える。もちろん、ヴァントの演奏に特有の厳格なスコアリーディングに基づく堅固な造型美の残滓を聴くことは可能であるものの、むしろ緻密な演奏の中にも即興的とさえ言うべき伸びやかさが支配していると言えるところだ。加えて、各旋律の端々には枯淡の境地とも言うべき情感が込められているとも言えるところであり、その独特の情感豊かさには抗し難い魅力に満ち溢れていると言える。ヴァントにとって、同曲の演奏は、ケルン放送交響楽団との全集以来の録音(1984年)であると思われるが、演奏の芸格の違いは歴然としており、最晩年のヴァントが成し遂げた至高の超名演と高く評価したいと考える。ブルックナーの交響曲第4番は、ヴァントが何度も録音を繰り返してきた十八番とも言うべき楽曲である。ヴァントによるブルックナーの唯一の交響曲全集を構成するケルン放送交響楽団とのスタジオ録音(1976年)、北ドイツ放送交響楽団とのライヴ録音(1990年)、ベルリン・フィルとのライヴ録音(1998年)、ミュンヘン・フィルとのライヴ録音(2001年)の4種が既に存在し、本盤の演奏は5度目の録音ということになる。演奏の完成度という意味においては、ベルリン・フィルやミュンヘン・フィルとの演奏を掲げるべきであるが、演奏の持つ味わい深さにおいては、本盤の演奏を随一の超名演と掲げたいと考える。シューベルトの交響曲第5番と同様に、本演奏においても、厳格なスコアリーディングに基づく緻密さや堅固な造型美は健在であるが、テンポをよりゆったりとしたものとするとともに、随所に伸びやかさや独特の豊かな情感が込められていると言えるところであり、正にヴァントが人生の最後に至って漸く到達し得た崇高にして清澄な境地があらわれていると言っても過言ではあるまい。いずれにしても、私としては、本演奏こそはヴァントによる同曲の最高の名演であるとともに、ベーム&ウィーン・フィルによる演奏(1973年)や朝比奈&大阪フィルによる演奏(2001年)と並んで3強の一角を占める至高の超名演と高く評価したいと考える。音質は、従来CD盤が初発売された後、リマスタリングが一度もなされていないものの、十分に満足できるものであったと言える。しかしながら、今般、ついにSACD化が行われることによって大変驚いた。従来CD盤とは次元が異なる見違えるような鮮明な音質に生まれ変わった言えるところであり、あらためてSACDの潜在能力の高さを思い知った次第である。いずれにしても、ヴァントによる至高の超名演を、SACDによる極上の高音質で味わうことができるのを大いに歓迎したいと考える。
1 people agree with this review 2012/04/15
ヴァントほどの大指揮者になると、愉悦性に富んだ管弦楽曲と言えどもいささかも手抜きはしない。その最たる例が、本盤におさめられたハフナー・セレナード&ドイツ舞曲であると言えるだろう。モーツァルトの管弦楽曲と言えば、オペラの序曲を除けば、セレナードとディヴェルティメントが2本柱と言えるが、超有名な「アイネ・クライネ・ナハト・ムジーク」を除けば、独墺系の指揮者は、そのどちらかを好んで演奏する傾向が強いように思われるところだ。カラヤンなどは、ディヴェルティメントを得意のレパートリーとしており、最晩年にも素晴らしいスタジオ録音を成し遂げている。これに対して、生前カラヤンのライバルと目されたベームはセレナードを好んで演奏していたことは良く知られているところだ。そして、ヴァントは、こうしたベームの系譜に繋がる指揮者と言えるだろう。とは言っても、ベームによるセレナードの演奏と、ヴァントによるセレナードの演奏は随分とその性格が異なる。どちらの指揮者も、堅固な造型美や重厚にして剛毅な演奏という点において共通していると言えるが、ベームの演奏には、ウィーン・フィルなどによる美演ということも多分にあると思われるが、優美さや典雅さに満ち溢れていると言えるのではないだろうか。これに対して、ヴァントの演奏は、例によって厳格なスコアリーディングに基づいた緻密さを基軸にしていると言えるところであり、優美さや典雅さよりもむしろ、交響曲を演奏するような姿勢で演奏に接しているとさえ言えるだろう。したがって、ハフナー・セレナードの持つ愉悦性においては、いささか欠けていると言わざるを得ないが、格調の高さにおいては無類のものがあり、一聴すると武骨な表現の中にも、独特のニュアンスや情感の豊かさが込められているのが見事であると言える。必ずしも、一般受けする演奏とは言い難いが、演奏に内在する意味の深さ、彫の深さには尋常ならざるものがあると言えるところであり、本演奏は、巨匠ヴァントの晩年の至高・至純の境地があらわれた素晴らしい名演と高く評価すべきではないかと考えられるところだ。ドイツ舞曲も、ヴァントのような大指揮者が演奏すると、偉大な芸術作品に変貌するとも言えるところであり、正に、同曲の真の魅力を引き出すのに成功した稀有の名演と高く評価したいと考える。音質は、1989年のスタジオ録音であるだけに、従来CD盤でも十分に満足できる音質であったが、今般、ついにSACD化されたのは何と言う素晴らしいことであろうか。音質の鮮明さ、音場の幅広さのどれをとっても一級品の仕上がりであり、あらためてSACDの潜在能力の高さを思い知った次第だ。いずれにしても、ヴァントによる至高の超名演を、SACDによる極上の高音質で味わうことができるのを大いに歓迎したい。
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2 people agree with this review 2012/04/14
凄まじい演奏だ。ドヴォルザークの交響曲第9番「新世界より」に、チェコの民族色豊かな抒情性などを期待する聴き手には、全くおすすめできない演奏であるとさえ言える。いや、それどころか、殆どの指揮者がこのような演奏をすること自体が許されない雰囲気があるが、怪演という名の個性的な名演を数多く成し遂げてきた大指揮者スヴェトラーノフだけに許される演奏であると言えるのかもしれない。しかしながら、それにしても凄い。もちろん、スヴェトラーノフの指揮であり、しかも、ロシア国立交響楽団との豪演を聴いているだけに、聴く前から十分に覚悟して本演奏を聴いたのだが、冒頭から完全に圧倒されてしまった。ブラスセクションの咆哮のとてつもないド迫力、地響きがするようなティンパニの凄まじいまでの強靭さ、うなりをあげる低弦の迫力など、よくぞここまで思い切った演奏をさせるものだとほとほと感心してしまった。テンポの振幅は激しく、アッチェレランドなども随所に施してはいるが、演奏全体のスケールはこれ以上は考えられないような雄大なもの。同曲は、新世界であるアメリカ合衆国からのお土産便りのような意味合いを有しているが、スヴェトラーノフによる本演奏は、あたかもロシアの悠久の広大な大地を思わせるものであり、同曲の演奏としては他のどの指揮者の演奏よりも濃厚で特異な性格を有するもの。正に尋常ならざる演奏とさえ言えるのではないだろうか。とりわけ、終楽章終結部の強烈な最強奏という超個性的な解釈には、完全にノックアウトされてしまった。しかしながら、聴き終えた後の充足感については、これまた尋常ならざるものがあり、これだけ聴き手を満足させてくれれば文句は言えまい。もちろん、前述のように、チェコの民族色豊かな抒情性を同曲に希求する聴き手には全くおすすめできないが、同曲を何度も繰り返し聴き込んだ聴き手には、むしろ新鮮ささえ感じさせるとも言えるところであり、聴き終えた後の充足感などを総合的に考慮すれば、私としては、本演奏をスヴェトラーノフならではの超個性的な名演と評価するのにいささかも躊躇するものではない。併録のスラヴ舞曲第3番も、交響曲第9番「新世界より」と同様に濃厚の極みと言うべき超個性的な名演だ。これまた、スヴェトラーノフが演奏すると、チェコの舞曲というよりはロシアの舞曲になっているとも言えるが、演奏全体の濃密さや聴き終えた後の充足感は、他のどの指揮者による同曲の演奏にもいささかも劣っていないと言える。スウェーデン放送交響楽団も、こうしたスヴェトラーノフの個性的な指揮に、アンサンブルを殆ど乱すことなくしっかりとついていっており、見事な名演奏を繰り広げている点についても高く評価したいと考える。音質も素晴らしい。今から約30年前のライヴ録音ではあるが、現在でも十分に通用する素晴らしい音質であり、スヴェトラーノフ&スウェーデン放送交響楽団による同曲の超個性的な名演が鮮明に再現されるのが見事である。
4 people agree with this review 2012/04/14
本盤におさめられたドビュッシーのピアノ作品集は、最晩年のフランソワが成し遂げた不朽の名盤であると言える。フランソワの急死によって全集完成に漕ぎ着けることができなかったのは残念ではあるが、それでも本演奏の素晴らしさにいささかの揺らぎが生じるものではない。ドビュッシーのピアノ曲の名演を成し遂げたピアニストは、これまで多く存在しているが、その中でもサンソン・フランソワの演奏は、個性的という意味においては最右翼に掲げられるべきものと言えるのではないだろうか。いわゆる崩した弾き方とも言えるものであり、あくの強さが際立った演奏とも言える。それ故に、コンクール至上主義が横行している現代においては、おそらくは許されざる演奏とも言えるところであり、ドビュッシーのピアノ曲を得意としたギーゼキングによる演奏のように、オーソドックスなアプローチにより名演とは大きく異なり、安心して楽曲の魅力を満喫することが可能な演奏ではなく、あまりの個性的なアプローチ故に、聴き手によっては好き嫌いが分かれる演奏とも言えなくもないが、その演奏の芸術性の高さには無類のものがあると言っても過言ではあるまい。フランソワは、もちろん卓越した技量を持ち合わせていたと言えるが、いささかも技巧臭を感じさせることはなく、その演奏は、即興的で自由奔放とさえ言えるものだ。テンポの緩急や時として大胆に駆使される猛烈なアッチェレランド、思い切った強弱の変化など、考え得るすべての表現を活用することによって、独特の個性的な演奏を行っていると言える。各旋律の心を込め抜いた歌い方にも尋常ならざるものがあると言えるが、それでいて、陳腐なロマンティシズムに陥ることなく、常に高踏的な芸術性を失うことがないのが見事であると言えるだろう。また、一聴すると自由奔放に弾いているように聴こえる各旋律の端々には、フランス人ピアニストならではの瀟洒な味わいに満ち溢れたフランス風のエスプリ漂う情感が込められており、そのセンス満点の味わい深さには抗し難い魅力に満ち溢れているところだ。本盤におさめられたドビュッシーのピアノ作品集も、正にセンスの塊とも言うべき名演奏であり、自己主張をコントロールして全体を無難に纏めようなどという考えは毛頭なく、前述のように、強烈な個性という意味においては、フランソワによる本演奏の右に出る演奏は存在しないと言っても過言ではあるまい。音質は、従来CD盤ではやや鮮明さに欠ける音質であり、時として音がひずんだり、はたまた団子のような音になるという欠点が散見されたところであったが、今般、ついに待望のSACD化が行われることによって大変驚いた。従来CD盤とは次元が異なる見違えるような、そして1968〜1970年のスタジオ録音とは到底信じられないような鮮明な音質に生まれ変わった言える。フランソワのピアノタッチが鮮明に再現されるのは殆ど驚異的であり、あらためてSACDの潜在能力の高さを思い知った次第である。いずれにしても、フランソワによる至高の超名演を、SACDによる高音質で味わうことができるのを大いに歓迎したいと考える。
0 people agree with this review 2012/04/14
ヴァントと言えば、最晩年のブルックナーの交響曲の神がかり的な超名演の数々がいの一番に念頭に浮かぶ。その他にも、シューベルトやブラームス、ベートーヴェンの交響曲の名演などの印象も強く、本盤におさめられたムソルグスキーの組曲「展覧会の絵」やドビュッシーの交響的断章「聖セバスティアンの殉教」を演奏しているヴァントのイメージが今一つ浮かんで来ないと言わざるを得ない。むしろ、ヴァントの芸風からすれば、極めて珍しい録音と言っても過言ではないとさえ思われるところであるが、意外にもヴァントはこれら両曲に深い愛着を抱き、たびたび演奏してきたとのことである。それだけに、例えば、組曲「展覧会の絵」についても、たどたどしいところがいささかもなく、各場面の描き分けを巧みに行った見事な演奏を展開していると言えるだろう。独墺系の指揮者で同曲を得意としていた指揮者としてはカラヤンが掲げられるが、カラヤンの演奏のように豪華絢爛にして豪奢な演奏ではなく、カラヤンの演奏と比較すると随分と地味な印象も受けるところだ。テンポはやや早めで一環しているが、前述のような場面毎の巧みな描き分け、そして随所に聴かれる独特のニュアンスの豊かさは、正に老巨匠ならではの名人芸とも言えるところであり、内容の豊かさという意味においては、他のどの指揮者の演奏にも引けを取らない高水準の演奏に仕上がっていると言える。ロシア風の民族色とは殆ど無縁であり、必ずしもスケールの雄大さを感じることもできない演奏ではあるが、私としては、ヴァントの指揮芸術の奥の深さを十二分に味わうことが可能な素晴らしい名演と高く評価したいと考える。ドビュッシーの交響的断章「聖セバスティアンの殉教」も、およそヴァントの芸風とは結びつかない楽曲であると言えるが、厳格なスコアリーディングに基づく緻密な演奏を旨とするヴァントの芸風との相性は意外にも良く、純音楽的な意味においては、これ以上は求め得ないような演奏に仕上がっていると言えるのではないだろうか。フランス風のエスプリであるとか、同曲の官能的な描写性とは殆ど無縁の演奏ではあるが、いわゆる純音楽的という意味においては、他のどの指揮者による演奏よりも優れた名演であると高く評価したいと考える。音質は、従来CD盤が発売された後、リマスタリングが一度もなされていないものの、十分に満足できるものであったと言える。しかしながら、今般、ついにSACD化が行われることによって大変驚いた。従来CD盤とは次元が異なる見違えるような鮮明な音質に生まれ変わった言えるところであり、あらためてSACDの潜在能力の高さを思い知った次第である。いずれにしても、ヴァントによる素晴らしい名演を、SACDによる極上の高音質で味わうことができるのを大いに歓迎したいと考える。
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3 people agree with this review 2012/04/14
これは素晴らしい名演だ。近年のゲルギエフ&ロンドン交響楽団の充実ぶりを窺い知ることができる名演とも言うことができるだろう。本盤の選曲も絶妙である。ストラヴィンスキーとラフマニノフと言えば、その芸風は全く正反対。この両者は、同時期にアメリカ合衆国で活躍していたこともあるが、ストラヴィンスキーはラフマニノフの楽曲を前時代的な作風と酷評していたのは想像に難くなく、他方、ラフマニノフにしてみれば、ストラヴィンスキーの楽曲は、革新的でとても受け入れがたいものであったのではないだろうか。それでも、どちらが送り手だったか記憶が定かではないが、両者には有名な蜂蜜の逸話が存在しており、両者のまるで異なる芸風ほどに溝があったのではないのかもしれない。実際のところ、この両者は、ともに故国ロシアの大作曲家であるチャイコフスキーを深く敬愛していたことにおいても共通しており、意外にもお互いを認め合っていたと言えるかもしれない。しかしながら、本盤におさめられたストラヴィンスキーの3楽章の交響曲と、ラフマニノフの交響的舞曲は、全く対照的な作品と言える。革新的なリズムをベースとしつつ、強烈無比な不協和音などがさく裂する現代音楽の申し子のような楽曲と、故国ロシアへの望郷の念が色濃く反映された情感豊かでメランコリックな旋律に満ち溢れた楽曲。ゲルギエフは、この対照的とも言える両曲を巧みに振り分け、両曲の魅力を最大限に表現し得ている点を高く評価したい。ゲルギエフによる両曲のアプローチは、近年のこれら両曲の演奏において一般化しつつある洗練されたものではない。むしろ、個性的で、いわばあくの強ささえ感じさせるものであり、ストラヴィンスキーの3楽章の交響曲で言えば、ブラスセクションなどもオブラートに包むなどという小細工を弄することなど薬にしたくもなく、ブラスセクションにとどまらず、すべての楽器セクションを思い切って鳴らし、同曲の性格でもある一種の原始的な様相を殊更に強調しているとさえ言えるだろう。かかるアプローチ故に、他のどの演奏にも増して、ストラヴィンスキーが同曲に込めたメッセージが明瞭に表現されているとも言えるところであり、その意味では、前述のように、同曲の魅力を最大限に引き出すことに成功した稀有の名演と評価してもいいのではないかとも考えられるところだ。ラフマニノフの交響的舞曲も、同曲に特有のメランコリックな旋律の数々を、さすがにかのスヴェトラーノフほどではないが、思い切って歌い抜いており、演奏全体から漂ってくる独特の情感の豊かさは、ラフマニノフが亡命した後、二度と足を踏み入れることができなかった故国ロシアへの深い愛着の念が滲み出ており、実に感動的であると言える。演奏全体のスケールの大きさは、悠久の大地ロシアを思わせるのに十分であり、本演奏を、近年のゲルギエフの充実ぶりが如実にあらわれた名演と評価するのにいささかも躊躇するものではない。加えて、本盤で素晴らしいのは、マルチチャンネル付きのSACDによる極上の高音質録音であると言える。いずれにしても、ゲルギエフ&ロンドン交響楽団による素晴らしい名演を、マルチチャンネル付きのSACDという、臨場感溢れる極上の高音質で味わうことができるのを大いに喜びたい。
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1 people agree with this review 2012/04/08
不世出の大歌手であったシュヴァルツコップは、様々な楽曲において持ち前の名唱を余すことなく披露したが、最も得意としていたのは、諸説はあると思われるが、その声質からしてもモーツァルトの楽曲であったと言えるのではないだろうか。例えば、シュヴァルツコップの歴史的な名唱としては、カラヤン&フィルハーモニア管弦楽団ほかをバックにスタジオ録音(1956年)されたR・シュトラウスの楽劇「ばらの騎士」における元帥夫人役が掲げられるが、当該楽劇もモーツァルトの歌劇「フィガロの結婚」の近現代音楽版とも言えるものである。そして、同じ組み合わせによるモーツァルトの歌劇「フィガロの結婚」などにおいても素晴らしい歌唱を披露しており、シュヴァルツコップとモーツァルトの楽曲の抜群の相性の良さを感じることが可能だ。そのようなシュヴァルツコップが、同じくモーツァルトを得意中の得意としていたギーゼキングと組んで、モーツァルトの歌曲集をスタジオ録音してくれていたのは何と言う素晴らしいことであろうか。それにしても、シュヴァルツコップは上手い。いや、あまりにも上手過ぎるとも言えなくもないが、これだけモーツァルトの歌曲の魅力を満喫させてくれれば文句は言えない。そして、上手過ぎるとは言っても、技巧臭がいささかもしないのがシュヴァルツコップの凄さと言えるだろう。随所において豊かな情感が込められているが、それでいてセンチメンタルになることはなく、どこをとっても格調の高さを失うことがないのが見事であると言える。表情づけの巧さも特筆すべきものであり、シュヴァルツコップがいかにモーツァルトの歌曲の神髄を捉えていたのかが理解できるところだ。ギーゼキングのピアノ演奏も素晴らしいものであり、シュヴァルツコップの名唱にいささかも引けを取っていないと言える。ギーゼキングのピアノ演奏は、例によって一聴すると即物的とも言うべきストレートな表現を旨としているが、よく聴くと随所に絶妙なニュアンスが込められているところであり、噛めば噛むほどに味わいが出てくるスルメのような内容豊かな演奏と言えるだろう。したがって、モーツァルトの歌曲に相応しいピアノ演奏と言えるところであり、前述のようなシュヴァルツコップの名唱とも相まって、珠玉の名演を成し遂げるに至っているものとして高く評価したいと考える。音質は、モノラル録音というハンディもあって、従来CD盤の音質は、いささか鮮明さに欠ける音質であり、時として音がひずんだり、はたまた団子のような音になるという欠点が散見されたところであった。ところが、今般、ついに待望のSACD化が行われることによって大変驚いた。従来CD盤とは次元が異なる見違えるような、そして1955年のモノラル録音とは到底信じられないような鮮明な音質に生まれ変わった言える。シュヴァルツコップの息遣いやギーゼキングのピアノタッチが鮮明に再現されるのは殆ど驚異的であり、あらためてSACDの潜在能力の高さを思い知った次第である。いずれにしても、シュヴァルツコップ、そしてギーゼキングによる素晴らしい名演を、SACDによる高音質で味わうことができるのを大いに歓迎したいと考える。
0 people agree with this review 2012/04/08
今般のEMIによる過去の名盤のSACD化シリーズにおいては、若き日のフィッシャー=ディースカウによる一連のシューベルトの歌曲集も採り上げられることになった。フィッシャー=ディースカウは、紛れもなく独墺系歌曲の最高の歌い手の一人であると言えるが、その最高の名唱とされているのは、何と言っても1970年代にジェラルド・ムーアと組んでスタジオ録音(DG)したシューベルトの三大歌曲集と言えるのではないだろうか。本盤におさめられたシューベルトの歌曲の演奏は、それよりも約20年ほど前の若き日の歌唱ということになるが、モノラル録音という音質面でのハンディはあるものの、1970年代の名唱とは違った意味で、素晴らしい名唱と評価したいと考える。というのも、フィッシャー=ディースカウの歌唱は、あまりにも巧いために、後年の歌唱においては、その巧さが鼻につくケースも散見されるところであるが、本演奏においては、若さ故の気迫や熱き生命力が全体に漲っており、いささかも技巧臭を感じさせないのが素晴らしいと言えるからだ。そして、勢い一辺倒の内容のない歌唱には陥っておらず、どこをとっても、シューベルトの音楽の素晴らしさ、美しさを心行くまで堪能させてくれるのが見事であると言える。本盤におさめられた歌曲は、魔王やセレナードなどのシューベルトの歌曲の中でも比較的有名なものをおさめているところであるが、これら各歌曲の聴かせどころのツボを心得たいい意味での演出巧者ぶりは、本演奏当時の若き日より健在であると言えるところであり、正に非の打ちどころのない名唱に仕上がっていると言っても過言ではあるまい。本盤のピアノ演奏は、いつものジェラルド・ムーアがつとめているが、例によってジェラルド・ムーアによるピアノ演奏は、シューベルトの楽曲に特有の寂寥感に満ち溢れた美しい旋律の数々を情感豊かに描き出しており、フィッシャー=ディースカウによる名唱をより引き立てるのに大きく貢献しているのを忘れてはならない。音質は、モノラル録音というハンディもあって、従来CD盤の音質は、いささか鮮明さに欠ける音質であり、時として音がひずんだり、はたまた団子のような音になるという欠点が散見されたところであった。ところが、今般、ついに待望のSACD化が行われることによって大変驚いた。従来CD盤とは次元が異なる見違えるような、そして1950年代のモノラル録音とは到底信じられないような鮮明な音質に生まれ変わった言える。フィッシャー=ディースカウの息遣いやジェラルド・ムーアのピアノタッチが鮮明に再現されるのは殆ど驚異的であり、あらためてSACDの潜在能力の高さを思い知った次第である。いずれにしても、フィッシャー=ディースカウ、そしてジェラルド・ムーアによる素晴らしい名演を、SACDによる高音質で味わうことができるのを大いに歓迎したいと考える。なお、当たり前のことではあるが、前述の三大歌曲集のSACD化に際して、扱いにくい紙パッケージに封入したことや対訳を省略したユニバーサルに対して、本盤では通常パッケージで、なおかつ対訳が付いていることについても、この場を借りて評価をしておきたい。
8 people agree with this review 2012/04/08
マタチッチ&NHK交響楽団による1984年のブルックナーの交響曲第8番のライヴ録音は、歴史的な超名演とされているものの、数年前までは既発CDの音質がとても良好なものとは言い難いことから、一部の音楽ファンを除いてはなかなか愛聴盤の地位を獲得するのは困難であったと言える。ところが、昨年3月に先ずはBlu-spec-CD化が図られ、見違えるような良好な音質に生まれ変わったことから、本名演のグレードは大きくアップすることになった。次いで、昨年の秋には待望のXRCD化が図られ、Blu-spec-CD盤ではいささか線の細さを感じさせた音質が強靭なものとなり、私としては、当該XRCD盤こそが、本演奏の決定盤として長く愛聴していくべき存在であると考えていたところである。ところが、それからあまり時間を置かずに、ついに究極の高音質化とも言うべきシングルレイヤーによるSACD化が図られることになった。ブルックナーの交響曲のファンであれば、おそらくは、既にBlu-spec-CD盤やXRCD盤を購入していると思われることから、本SACD盤を購入するのは、財政的な面からいささか気が引けるところであるが、本演奏の歴史的な価値からすると、そのようなことを言っている訳にはいかないところだ。確かに、音質は素晴らしい。XRCD盤よりも更に各楽器が明瞭に分離して聴こえるなど、おそらくは現在望み得る最高の高音質に仕上がっていると言っても過言ではあるまい。数年前まで、あまりのデッドで音場の拡がらなさに辟易としていたことに鑑みれば、正に隔世の感があると言えるだろう。ただ、このように段階的に音質の向上を図るやり方には、メーカー側の金儲け目的が色濃く出ており、そうしたメーカー側の姿勢にはこの場を借りて疑問を呈しておきたい(高音質化への不断の努力は評価するが)。本演奏についての評価については、既にこれまでのレビューに記したとおりである。Blu-spec-CD盤のレビューにおいては、「マタチッチは、偉大なブルックナー指揮者であった。1990年代に入って、ヴァントや朝比奈が超絶的な名演の数々を生み出すようになったが、1980年代においては、まだまだブルックナーの交響曲の名演というのは数少ない時代であったのだ。そのような時代にあって、マタチッチは、1960年代にシューリヒトが鬼籍に入った後は、ヨッフムと並ぶ最高のブルックナー指揮者であったと言える。しかしながら、これは我が国における評価であって、本場ヨーロッパでは、ヨッフムはブルックナーの権威として広く認知されていたが、マタチッチはきわめてマイナーな存在であったと言わざるを得ない。それは、CD化された録音の点数を見れば一目瞭然であり、ヨッフムは二度にわたる全集のほか、ライヴ録音など数多くの演奏が発掘されている状況にある。これに対して、マタチッチは、チェコ・フィルとの第5番(1970年)、第7番(1967年)及び第9番(1980年)、スロヴァキア・フィルとの第7番(1984年)やウィーン響との第9番(1983年)、あとはフィルハーモニア管弦楽団との第3番(1983年)及び第4番(1954年)、フランス国立管弦楽団との第5番(1979年)のライヴ録音がわずかに発売されている程度だ。ところが、我が国においては、マタチッチはNHK交響楽団の名誉指揮者に就任して以降、ブルックナーの交響曲を何度もコンサートで取り上げ、数々の名演を成し遂げてきた。そのうち、いくつかの名演は、アルトゥスレーベルにおいてCD化(第5番(1967年)、第7番(1969年)及び第8番(1975年))されているのは記憶に新しいところだ。このように、マタチッチが精神的な芸術が評価される素地が未だ残っているとして我が国を深く愛して来日を繰り返し、他方、NHK交響楽団もマタチッチを崇拝し、素晴らしい名演の数々を成し遂げてくれたことが、我が国におけるマタチッチのブルックナー指揮者としての高い評価に繋がっていることは間違いあるまい。そのようなマタチッチが、NHK交響楽団とともに成し遂げたブルックナーの交響曲の数々の名演の中でも、特に伝説的な名演と語り伝えられてきたのが本盤におさめられた第8番だ。(中略)本演奏におけるマタチッチのアプローチは、1990年代以降通説となった荘重なインテンポによる演奏ではない。むしろ、早めのテンポであり、そのテンポも頻繁に変化させたり、アッチェレランドを駆使したりするなど、ベートーヴェン風のドラマティックな要素にも事欠かない演奏となっている。それでいて、全体の造型はいささかも弛緩することなく、雄渾なスケールを失っていないのは、マタチッチがブルックナーの本質をしっかりと鷲掴みにしているからにほかならない。このようなマタチッチの渾身の指揮に対して、壮絶な名演奏で応えたNHK交響楽団の好パフォーマンスも見事というほかはない。いずれにしても、本演奏は、1980年代以前のブルックナーの交響曲第8番の演奏の中では、間違いなくトップの座を争う至高の超名演と高く評価したい。」と記したが、それは本SACD盤を聴いてもいささかも変わることはない。いずれにしても、今般のシングルレイヤーによるSACD化を機に、更に多くの聴き手が本演奏の素晴らしさに接することに繋がることを大いに期待したいと考える。
カラヤンによるブルックナーの交響曲第7番の録音としては次に掲げる3種存在している。最初のものは本盤のベルリン・フィルとの演奏(1970〜1971年)(EMI)、次いで、その後、カラヤンによる唯一のブルックナーの交響曲全集に発展していくことになるベルリン・フィルとの演奏(1975年)(DG)、そして、史上最高のレコーディング・アーティストであったカラヤンによる最後の演奏・録音となったウィーン・フィルとの演奏(1989年)である。言うまでもなく、さすがにそこまで断定的な言い方をしなくとも、大方の音楽ファンは、カラヤンによる同曲の最高の名演と言えば、最後の録音でもある1989年盤を掲げるのではないだろうか。ただ、それは、通説となっているカラヤンの個性が発揮された演奏ではなく、むしろ、カラヤンの自我が影を潜め、只管音楽そのものに奉仕しようという、音楽そのものの素晴らしさ、魅力を自然体で語らせるような趣きの演奏に仕上がっており、もちろん、私としても、至高の超名演と高く評価をしているが、全盛期のカラヤンの演奏とはおよそかけ離れたものとも言えるところだ。そうなると、カラヤン&ベルリン・フィルが蜜月時代にあり、しかも全盛期にあった1970年代の2種の録音に、カラヤンの個性が表れていると言えるが、5年しか離れていないにしては、この両者の演奏の装いは大きく異なっていると言える。EMIとDGというレコード会社の違い、ダーレムのイエスキリスト教会とベルリン・フィルハーモニーホールという会場の違いもあるが、それだけでこれだけの違いが生じるというのはおよそ信じ難いところだ。カラヤン的な個性、カラヤン&ベルリン・フィルの全盛期ならではの演奏の豪快さ、華麗さと言った点においては、1975年のDG盤の方にその特色があらわれていると言えるだろう。これに対して、本盤の演奏は、むしろ、この時期のカラヤンとしては極力自我を抑制し、イエスキリスト教会の残響を巧みに生かした荘重な演奏を心がけているとさえ言える。その意味では、至高の超名演である1989年盤に繋がる要素も存在していると言ってもいいのかもしれない。流麗なレガート、ここぞという時のブラスセクションの迫力などは、いかにも全盛期のカラヤン、そしてベルリン・フィルならではのものであるが、それがいささかも外面的なものとならず、常に内容豊かで、音楽の有する根源的な迫力をあますことなく表現し尽くしているのが素晴らしいと言える。カラヤンは、同時期に第4番も録音しているが、演奏自体は断然、本演奏の方が優れており、1988年のウィーン・フィルとの第8番、そして前述の最後の録音となった1989年の第7番とあわせて、カラヤンによるブルックナーの交響曲演奏の3強の一角を占める素晴らしい名演と評価してもいいのではないかと考えているところだ。1971年のレコード・アカデミー賞を受賞し、これだけの名演であるにもかかわらず、現時点では国内盤は廃盤であり、輸入盤でも第4番とのセットでないと手に入らないというのは信じがたいところであるが、今般、ついにESOTERICから待望のSACD盤が発売されることになった。私は、これまでリマスタリングされた国内CD盤で本演奏を聴いてきたが、その音質の違いは極めて大きいものがあり、今般のSACD化によって、本演奏の精緻な美しさを存分味わうことができることになった意義は極めて大きいと言わざるを得ないと考える。いずれにしても、本演奏の素晴らしさ、そして真の魅力を味わうためにも、是非ともESOTERICから発売されたSACD盤の購入を是非ともお奨めしておきたい。
クーベリックが手兵バイエルン放送交響楽団とともに1980年にスタジオ録音したモーツァルトの後期6大交響曲集は、往年のワルターやベームの名演にも匹敵する素晴らしい名演として高く評価されている。このうち、第40番及び第41番については、数年前にBlu-spec-CD化なされたところであり、簡潔なレビューを記したところであるが、今般、この第40番及び第41番に第35番を加えてESOTERICが待望のSACD化を行ったことから、この場を借りてレビューを記しておきたい。昨年、オルフェオから発売されているモーツァルトの交響曲第40番及び第41番の1985年のライヴ録音に、レビューを記したところであるが、私としては、クーベリックによるモーツァルトの交響曲演奏のベストは、当該1985年のライヴ録音であると考えている。これは、今般のSACD盤を聴いても何ら変わることがないところだ。クーベリックは、実演でこそその真価を発揮する指揮者であるだけに、スタジオ録音での第40番や第41番の演奏では、1985年のライヴ録音において存在した楽曲の頂点に向けて畳み掛けていくような気迫や高揚感が今一つ欠けていると言わざるを得ない。加えて、1985年のライヴ録音においては、すべての反復を行い、極めてスケール極大な演奏に仕立て上げていたが、スタジオ録音においては、おそらくはLP時代の収録時間を気にしたせいも多分にあると思うが、多くの反復を省略している。ただ、1985年のライヴ録音においてすべての反復を行っていることに鑑みれば、スタジオ録音の演奏が、クーベリックの意図に従ったものであるかいささか疑問が残るところだ。このように、1985年のライヴ録音と比較すると、スタジオ録音の演奏はいろいろな面で不利な要素が存在していると言わざるを得ないが、それでも、そんじょそこらの演奏などと比較すると、極めて優れた立派な名演と評価するのにいささかも躊躇するものではない。演奏全体の様相はシンフォニック。堅牢な造型美を誇りつつも、モーツァルトの交響曲演奏において不可欠な優美さにいささかも不足もなく、正に安心してモーツァルトの交響曲の魅力を満喫させてくれるのが見事であると言える。第40番や第41番については、1985年盤という高峰の高みに聳える名演が存在するだけに、前述のように若干不利な要素もあるが、第35番については、来日時の豪演などを考慮に入れたとしても、本演奏の優位性はいささかも揺らぎがなく、正に、クーベリックによる同曲の最高の演奏と言ってもいいのではないだろうか。少なくとも、本演奏を聴くと、近年のピリオド楽器を活用した演奏は、実に小賢しいものに聴こえてしまうところだ。いずれにしても、クーベリック&バイエルン放送交響楽団による第35番、第40番、第41番を含むモーツァルトの後期6大交響曲集の録音については素晴らしい名演であり、1982年のレコード・アカデミー賞を受賞することになったが、演奏の素晴らしさからして当然のことであると考える。それにしても、この後期6大交響曲集のうち、第35番、第40番、第41番について、前述のように今般、ついにESOTERICから待望のSACD盤が発売されることになったのは誠に慶賀に堪えない。私は、これまで第35番についてはリマスタリングされたCD盤、第40番及び第41番については前述のBlu-spec-CD盤で聴いてきたが、その音質の違いは極めて大きいものがあり、今般のSACD化によって、本演奏の高貴にして優美な美しさを存分味わうことができることになった意義は極めて大きいと言わざるを得ないと考える。いずれにしても、本演奏の素晴らしさ、そして真の魅力を味わうためにも、是非ともESOTERICから発売されたSACD盤の購入を是非ともお奨めしておきたい。
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