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1 people agree with this review 2011/06/05
アバドはベルリン・フィルとともにベートーヴェンの交響曲全集を2度完成させている。最初の全集は、芸術監督就任から10年近く経った頃の録音で、アバドが大病に倒れる直前に完成されたものである。これに対して、2度目の全集は、大病を克服した後、ローマにおいて第1番から第8番をライヴ録音で収録したもの(DVD作品のCD化)であり、第9番だけは最初の全集におさめられたライヴ録音をそのまま採用している。要は、アバドは最初の全集の中でも、第9番だけには自信を持っていたということを伺い知ることが出来るところだ。このように、アバドが自信を持っていたこともあり、私としても、アバドによるベートーヴェンの交響曲全集の中で最も出来がいいのは第8番と第9番であると考えている。全体を約62分という、第9番としては相当に早いテンポで演奏しているが、せかせかした印象をいささかも与えることがなく、トゥッティに向けて畳み掛けていくような力感溢れる気迫とともに、どこをとっても情感の豊かさと歌謡性を失うことがないのが素晴らしい。特に、第1番から第6番では軽妙さだけが際立ったベルリン・フィルも、この第9番においては、さすがにフルトヴェングラーやカラヤンなどの往年の指揮者による重厚な演奏にはかなわないものの、倍管にしたことも多分にあるとは思うが、重心の低い奥行きのある音色を出しているのが素晴らしい。特に、終楽章の合唱の壮麗さは抗し難いほどの美しさを誇っており、これは世界最高峰とも称されるスウェーデン放送合唱団の起用が見事に功を奏していると言える。独唱陣もいずれも素晴らしい歌唱を披露しており、スウェーデン放送合唱団とともにエリック・エリクソン室内合唱団も最高のパフォーマンスを示していると言えるだろう。いずれにしても、新しい研究成果に基づくペンライター版使用による本演奏は、近年の古楽器奏法やピリオド楽器の使用による演奏の先駆けとなったものであり、アバドによるベートーヴェンの交響曲の演奏としては第8番と並んで最高峰にある名演と高く評価したい。録音は本盤でも十分に鮮明な高音質であるが、先日発売されたSHM−CD盤では、若干ではあるが音質がさらに鮮明になるとともに、音場が幅広くなったように思われる。かつて発売されていたDVD−audio盤が廃盤ということを考慮すれば、現時点ではSHM−CD盤がベストの音質になるのではないかと考えられる。いまだ未購入で、アバドによる本名演をできるだけ良好な音質で聴きたいという方には、SHM−CD盤の方の購入をお奨めしておきたい。
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5 people agree with this review 2011/06/05
本盤にはバルトークの管弦楽曲の二大傑作とされている管弦楽のための協奏曲及び弦楽器、打楽器とチェレスタのための音楽、そして5つのハンガリー・スケッチがおさめられているが、いずれの楽曲も、録音から50年以上が経過してもなおこれまでの様々な指揮者による演奏に冠絶する至高の超名演と高く評価したい。先ず、管弦楽のための協奏曲と弦楽器、打楽器とチェレスタのための音楽についてであるが、これらの演奏におけるライナーのアプローチは、テンポは幾分早めであり、全体として引き締まった筋肉質の演奏であると言える。他の指揮者による演奏が、聴かせどころのツボを心得たわかりやすい表情づけを随所に施しているのに対して、ある意味ではいささかも微笑まない辛口の演奏で一貫しているとさえ言えるほどだ。しかしながら、演奏全体に漲っている気迫や張り詰めた緊張感には尋常ならざるものがあり、我々聴き手の心胆を寒からしめるのに十分なものがあると言える。また、一聴とすると何の飾り気もない各フレーズの随所から滲み出してくるような奥深い情感には、抗し難い魅力が満ち溢れていると言えるところである。これは、ライナーのこれらの楽曲への深い理解や愛着とともに、楽曲に込められたバルトークの心底にあった寂寥感や絶望感などを敏感に感じ取っていたからに他ならないと言える。このような楽曲の心眼に鋭く切り込んでいくような彫の深い表現は、バルトークと親交があり、バルトークと同じ苦難の時代を生きたライナーだけが成し得た究極の演奏とさえ言えるだろう。古今東西の指揮者によるこれらの楽曲の演奏の中でも、これほどまでに楽曲の心眼に鋭く踏み込んだ彫の深い演奏を行ったものは、管弦楽のための協奏曲については皆無であるし、他方、弦楽器、打楽器とチェレスタのための音楽についてはムラヴィンスキー&レニングラード・フィル(1965年)以外には類例を見ないところである(ムラヴィンスキー盤の音質がいささか良好とは言い難いことを考慮に入れると、本演奏こそは、前述のように同曲のあらゆる名演に冠絶する至高の超名演との評価をするのにいささかも躊躇するものではない。)。ライナーによる確かな統率の下、素晴らしい演奏を成し遂げたシカゴ交響楽団による超絶的な技量も、これらの超名演に大きく貢献しているのを忘れてはならない。また、5つのハンガリー・スケッチは、民謡の採取に生涯をかけたバルトークならではの比較的親しみやすい民族色溢れる名作であるが、ここでは、ライナー&シカゴ交響楽団が管弦楽のための協奏曲や弦楽器、打楽器とチェレスタのための音楽とは別人のような温もりのある演奏を繰り広げているのが素晴らしい。これだけの超名演だけに、これまでSACD化やXRCD化など高音質化への取組がなされているが、私としてはXRCD盤、そして、特に弦楽器、打楽器とチェレスタのための音楽及び5つのハンガリー・スケッチについては、数年前に発売されたSHM−CD仕様によるXRCD盤の方をより上位に置きたいと考える。いずれにしても、今から50年以上も前のスタジオ録音であるが、XRCD化によってきわめて鮮明な音質に蘇ったところである。現在では特にSHM−CD&XRCD盤は廃盤ではあるが、ライナーによる超名演でもあり、今後再発売をしていただくことをこの場を借りて大いに望んでおきたい。
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0 people agree with this review 2011/06/05
本盤には、アバド&ベルリン・フィルによるブラームスの交響曲第4番やハイドンの主題による変奏曲、そして悲歌がおさめられているが、いずれの楽曲ともに名演と評価したい。アバドは、ベルリン・フィルの芸術監督就任間もない頃に、本盤におさめられた第4番を含めブラームスの交響曲全集を完成させた。もっとも、カラヤン時代の猛者がいまだ数多く在籍していたベルリン・フィルを掌握し得た時期の録音ではないことから、第1番などは名演の名には恥じない演奏であるとは言えるが、アバドの個性が必ずしも発揮された演奏とは言い難いものであった。他方、楽曲の性格とのマッチングや録音時期(芸術監督就任前の1988年)の問題もあって、第2番はアバドならではの豊かな歌謡性が発揮された素晴らしい名演であった。このようにベルリン・フィルの掌握の有無なども演奏の出来に作用する重要な要素であるとは思うが、根本的には、アバドの芸風に符号する楽曲かどうかというのが演奏の出来不出来の大きな分かれ目になっていると言えるのではないだろうか。アバドのアプローチは、前任者のカラヤンのような独特の重厚なサウンドを有していたわけでもない。むしろ、各楽器間のバランスを重視するとともに、イタリア人ならではの豊かな歌謡性を全面に打ち出した明朗な演奏を繰り広げていると言える。このようなアプローチの場合、第1番ではいささか物足りない演奏(もっとも、第1番はカラヤン時代の重厚な音色の残滓が付加されたことによって、けがの功名的な名演に仕上がった。)になる危険性があり、他方、第2番については、楽曲の明朗で抒情的な性格から名演を成し遂げることが可能であったと考えられる。他方、本盤におさめられた第4番も、楽曲の心眼に踏み込んでいくような彫の深さ(とりわけ終楽章)と言った面においてはいささか生ぬるい気がしないでもないが、とりわけ第1楽章及び第2楽章などの情感豊かな歌い方には抗し難い魅力があり、第2番ほどではないものの、比較的アバドの芸風に符号した作品と言えるのではないだろうか。併録のハイドンの主題による変奏曲や悲歌も、アバドならではの豊かな歌謡性に満ち溢れた素晴らしい名演だ。もっとも、大病を克服した後のアバドは、凄みのある名演を成し遂げる大指揮者に変貌していると言えるところであり、仮に現時点で、ブラームスの交響曲全集を録音すれば、より優れた名演を成し遂げる可能性が高いのではないかと考えられるところだ。いずれにしても、アバドはベルリン・フィルの芸術監督就任直後にブラームスの交響曲全集を完成させるのではなく、芸術監督退任直前に録音を行うべきであったと言えるのではないだろうか。
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2 people agree with this review 2011/06/05
本盤には、アバド&ベルリン・フィルによるブラームスの交響曲第3番や悲劇的序曲などがおさめられているが、いずれの楽曲も若干甘い気はするものの名演と評価したい。アバドは、ベルリン・フィルの芸術監督就任間もない頃に、本盤におさめられた第3番を含めブラームスの交響曲全集を完成させた。もっとも、カラヤン時代の猛者がいまだ数多く在籍していたベルリン・フィルを掌握し得た時期の録音ではないことから、第1番などは名演の名には恥じない演奏であるとは言えるが、アバドの個性が必ずしも発揮された演奏とは言い難いものであった。他方、楽曲の性格とのマッチングや録音時期(芸術監督就任前の1988年)の問題もあって、第2番はアバドならではの豊かな歌謡性が発揮された素晴らしい名演であった。このようにベルリン・フィルの掌握の有無なども演奏の出来に作用する重要な要素であるとは思うが、根本的には、アバドの芸風に符号する楽曲かどうかというのが演奏の出来不出来の大きな分かれ目になっていると言えるのではないだろうか。アバドのアプローチは、前任者のカラヤンのような独特の重厚なサウンドを有していたわけでもない。むしろ、各楽器間のバランスを重視するとともに、イタリア人ならではの豊かな歌謡性を全面に打ち出した明朗な演奏を繰り広げていると言える。このようなアプローチの場合、第1番ではいささか物足りない演奏(もっとも、第1番はカラヤン時代の重厚な音色の残滓が付加されたことによって、けがの功名的な名演に仕上がった。)になる危険性があり、他方、第2番については、楽曲の明朗で抒情的な性格から名演を成し遂げることが可能であったと考えられる。他方、本盤におさめられた第3番も、楽曲の心眼に踏み込んでいくような彫の深さ(とりわけ両端楽章)と言った面においてはいささか生ぬるい気がしないでもないが、とりわけ第2楽章及び第3楽章などの情感豊かな歌い方には抗し難い魅力があり、第2番ほどではないものの、比較的アバドの芸風に符号した作品と言えるのではないだろうか。また、とりわけ第3番については、第2番と同様にアバドが芸術監督に就任する前の録音でもあり、ウィーン・フィルに軸足を移したカラヤンへの対抗意識もあって、ポストカラヤンの候補者と目される指揮者とは渾身の名演を繰り広げていたベルリン・フィルのとてつもない名演奏が、本名演に大きく貢献しているのを忘れてはならない。もっとも、大病を克服した後のアバドは、凄みのある名演を成し遂げる大指揮者に変貌していると言えるところであり、仮に現時点で、ブラームスの交響曲全集を録音すれば、より優れた名演を成し遂げる可能性が高いのではないかと考えられるところだ。いずれにしても、アバドはベルリン・フィルの芸術監督就任直後にブラームスの交響曲全集を完成させるのではなく、芸術監督退任直前に録音を行うべきであったと言えるのではないだろうか。
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アバドは、ベルリン・フィルの芸術監督就任後間もない頃にブラームスの交響曲全集を完成させたが、私としては、アバドがブラームスの交響曲に取り組むのはいささか早過ぎたのではないかと考えているところだ。というのも、ベルリン・フィルはカラヤンの指揮の下でブラームスの交響曲を何度も演奏しており、本演奏ではアバドの解釈がベルリン・フィルに必ずしも浸透しているとは言い難いからである。したがって、第1番などは名演ではあるが、それはカラヤン時代の遺産が作用しているというけがの功名的な側面もあり、アバドの個性が発揮された演奏とは言い難いものであったとも言える。しかしながら、第2番はむしろ、第1番とは異なりアバドの個性がそれなりに発揮された名演と言えるのではないだろうか。本盤におさめられた第2番がこのようにアバドならではの名演となった理由はいくつかあると考えられるが、先ずは楽曲の性格がアバドの芸風に符号している点が掲げられる。第2番は、ブラームスの交響曲の中でも最も牧歌的な雰囲気に満ち溢れており、流麗で伸びやかな曲想が特徴的なブラームスの田園とも称される楽曲である。したがって、アバドの純音楽的で歌謡性豊かなアプローチに最も適した交響曲であると言える。第2の理由としてベルリン・フィルによる名演奏が掲げられる。本演奏については1988年の録音であり、これはカラヤンが存命でなおかつ芸術監督であった時代のものである。この当時のベルリン・フィルは、ウィーン・フィルに軸足を移したカラヤンへの対抗意識もあり、ポストカラヤンの候補者と目される指揮者とは渾身の名演を繰り広げていた。本演奏もその例外ではなく、ここにはアバドの指揮に必死に喰らいついていった(というよりも、アバドを立てた)ベルリン・フィルの猛者たちの圧倒的な名演奏を聴くことが可能だ。なお、アバドは、1970年代初頭にもベルリン・フィルとともにブラームスの第2を録音しており、それも若きアバドによる生命力溢れる素晴らしい名演であったが、本演奏においては、さらに円熟味とスケールの雄渾さが加わっていると評価することも可能であり、私としては本演奏の方をより上位に掲げたい。併録のアルト・ラプソディ大学祝典序曲もアバドならではの豊かな歌謡性を活かした歌心溢れる美演であると評価したい。
本盤におさめられたブラームスの交響曲第1番は、アバドがベルリン・フィルの芸術監督に就任直後に完成させた全集に含まれるものである。本演奏を聴き終えた感想は、アバドもなかなか健闘しているのではないかと言ったところだ。というのも、この時期のアバドは低迷期に入っていたと言えるからである。アバドが最も輝いていたのは、ベルリン・フィルの芸術監督の就任前であり、ロンドン交響楽団やシカゴ交響楽団などと数々の名演を成し遂げていた時期であると考えている。ところが、アバド自身も全く想定していなかったベルリン・フィルの芸術監督に就任してからは、借りてきた猫のような大人しい演奏に終始し、かつての輝きを失ってしまったように思われる。そのようなアバドが再び凄みのある演奏を繰り広げるようになったのは、大病を克服した後であり、それは皮肉にもベルリン・フィルの芸術監督退任直前のことであったと言える。アバドは、前任のカラヤンや前々任のフルトヴェングラーなどとは異なり、カリスマ性など皆無であったことから、プライドの高い楽員で構成され、カラヤン時代に全盛を誇った大物奏者が数多く在籍していたベルリン・フィルを統率するのは、とても荷が重いことであったのかもしれない(アバドのライバルであったムーティもそのことを予見していたと言われている。)。そもそも本演奏では、アバドのやりたい音楽とベルリン・フィルの奏でる音楽に微妙なずれがあるのではないかと考えられる。というのも、ブラームスの交響曲第1番はカラヤンの代名詞のような楽曲であり、その重厚にして華麗な演奏はカラヤン&ベルリン・フィルの黄金時代の象徴のようなものであったからだ。カラヤン時代の名うての奏者が数多く在籍していたベルリン・フィルとしても、カラヤンのようにオーケストラを最強奏させるのではなく、各楽器間のバランスの重視に軸足を置いたアバドのやり方には相当手こずったのではないかとも考えられる。したがって、本演奏は、全体としてはアバド流の歌謡性豊かな演奏にはなっているが、随所にカラヤン時代の重厚さが入り混じると言う、アバドの個性が全開とは言い難い演奏であり、私としては、アバドがブラームスの交響曲に取り組むのはいささか早過ぎたのではないかと思われてならないところだ。もっとも、本演奏も見方を変えれば、カラヤン時代の重厚さとアバドの歌謡性が融合した新時代を象徴する演奏とも評価し得るところであり、アバドの健闘が光る名演との評価をするのにいささかの躊躇をするものではない。
3 people agree with this review 2011/06/05
アバドはレパートリーがきわめて広範であるために、一般的にはそのような認識がなされているとは必ずしも言い難いが、いわゆるマーラー指揮者と評しても過言ではないのではないだろうか。マーラーの交響曲全集を一度、オーケストラや録音時期が異なるなど不完全な形ではあるが完成させているし、その後も継続して様々な交響曲の録音を繰り返しているからだ。ライバルのムーティが第1番しか録音していないのと比べると、その録音の多さには際立ったものがあり、こうした点にもアバドのマーラーに対する深い愛着と理解のほどが感じられるところである。アバドのマーラー演奏の特徴を一言で言えば、持ち味の豊かな歌謡性ということになるのではないか。マーラーの長大な交響曲を演奏するに当たって、アバドの演奏はどこをとっても豊かな歌心に満ち溢れていると言える。したがって、マーラー特有の随所に炸裂する不協和音や劇的な箇所においても歌謡性を失うことがいささかもなく、踏み外しを行ったりするなど極端な表現を避けているように思われるところである。もっとも、アバドもベルリン・フィルの芸術監督に就任するまでの間にシカゴ交響楽団などと録音された演奏では、持ち前の豊かな歌謡性に加えて、生命力溢れる力感と気迫に満ち溢れた名演の数々を成し遂げていた。しかしながら、ベルリン・フィルの芸術監督就任後は借りてきた猫のように大人しい演奏が多くなり、とりわけ大病を克服するまでの間に演奏された第5番は、物足りなさ、踏込み不足を感じさせる演奏であったとも言える。しかしながら、大病にかかる直前、そして大病降伏後の演奏では、豊かな歌謡性に加えて、楽曲の心眼に鋭く踏み込んでいくような彫の深さが加わったと言えるところであり、特に、ベルリン・フィルとの第3番、第4番、第6番、第7番及び第9番、ルツェルン祝祭管との第2番は圧倒的な名演に仕上がっていると言える。本盤におさめられた第1番は、ベルリン・フィルの芸術監督就任直前のアバドによる演奏だ。彫の深さといった側面ではいささか物足りないという気がしないでもないが、楽曲がマーラーの青雲の志を描いた初期の第1番であるだけに、かかる欠点は殆ど目立つことなく、持ち前の豊かな歌謡性が十分に活かされた素晴らしい名演に仕上がっていると評価したい。これほどまでに、歌心に満ち溢れるとともに情感の豊かさを湛えている同曲の演奏は類例を見ないところであり、バーンスタインやテンシュテットなどの劇的な演奏に食傷気味の聴き手には、清新な印象を与える名演であると言っても過言ではあるまい。新しい芸術監督に対して最高の演奏で応えたベルリン・フィルに対しても大いに拍手を送りたい。録音は本盤でも十分に満足できる音質であるが、先日発売されたSHM−CD盤は、本盤よりも若干ではあるがより鮮明な音質に生まれ変わったと言える。いまだ未購入の方で、アバドによる素晴らしい名演をよりよい音質で味わいたいという方には、SHM−CD盤の方の購入をお奨めしておきたい。
3 people agree with this review
本盤にはシューベルトの室内楽曲の中でもとりわけ有名なピアノ五重奏曲「ます」と弦楽四重奏曲第14番「死と乙女」がおさめられており、いずれも素晴らしい名演と評価し得るところであるが、とりわけユニークなのは、ピアノ五重奏曲「ます」と言えるのではないだろうか。というのも、同曲の演奏に際しては、既存の弦楽四重奏団が名のあるピアニストを招聘して行うのが主流であると言えるからである。本演奏の場合は、ウィーン・フィルやベルリン・フィルのトップ奏者に、専業指揮者であるレヴァインによるピアノが加わるという、ある意味では極めて珍しい組み合わせと言えるであろう。本演奏においては、ヘッツェルやクリストなどの弦楽合奏の美しさは言うまでもないところであるが、何と言ってもレヴァインのピアノが素晴らしい。私も、聴く前はその体躯を活かした大味な演奏をするのかと思っていたがさにあらず、繊細にして清澄な美しさに満ち溢れた情感豊かな演奏を披露してくれていると言える。前述の弦楽奏者との相性も抜群であり、ピアニストも含めた各奏者の息の合った絶妙のハーモニーの美しさにおいては、同曲の他の名演にもいささかも引けを取っていない素晴らしい名演と高く評価したい。弦楽四重奏曲第14番「死と乙女」は、いかにもハーゲン弦楽四重奏団ならではの情感豊かな演奏であるが、同曲特有の劇的でドラマティックな表現においてもいささかの不足はない。音質は、本盤でも十分に満足できる音質であるが、先日発売されたSHM−CD盤はピアノのタッチや弦楽の弓使いまでがさらに鮮明に再現されるようになったところであり、音場も若干ではあるが幅広くなったように思われる。いずれにしても、いまだ未購入で、このようなシューベルトによる室内楽曲の名演をよりよい音質で味わいたいという方には、SHM−CD盤の方の購入を是非ともお奨めしたい。
ルーペルト・シェトレ著の「舞台裏の神々」には、明らかにガーディナーのことを指摘しているとわかるような記述がある。それによると、ウィーン・フィルはガーディナーのことを「イギリス系のひどくいけ好かない」指揮者と考えていたようで、シューベルトの交響曲第9番「ザ・グレート」のリハーサルの際にもひどく巧妙な復讐を企てたらしい。ガーディナー自身もテンポ感覚が全くなかったようで、本盤の交響曲第4番の録音の際には400箇所にも及ぶ継ぎはぎが必要であったとのことである。これによって、ガーディナーはDGからレコード録音の契約解除を言い渡されたということらしい。したがって、本盤におさめられた演奏についても、事後にかなりの編集が行われたと言えるが、その上で仕上がった演奏(作品)としては、素晴らしい名演と高く評価したいと考える(ルーペルト・シェトレの指摘のように、編集技術の絶大な威力のおかげと言えるのかもしれない。)。少なくとも、本演奏を聴く限りにおいては、ガーディナーとウィーン・フィルの緊張した関係を感じさせるものは何もないと言える。本演奏で素晴らしいのは、何よりもウィーン・フィルの奏でる音の美しさと言うことであろう。メンデルスゾーンの交響曲第4番及び第5番の他の指揮者による名演について鑑みれば、トスカニーニ&NBC交響楽団による超名演(1954年)を筆頭として、ミュンシュ&ボストン交響楽団による名演(1957〜1958年)、カラヤン&ベルリン・フィルによる名演(1971年)、第4番だけに限るとアバド&ベルリン・フィルによる名演(1995年)などが掲げられる。したがって、ウィーン・フィルを起用した名演は皆無と言えるところであり、その意味でもウィーン・フィルによる両曲の演奏は大変に貴重ということができるのではないだろうか。ガーディナーには大変申し訳ないが、本演奏にはバロック音楽における個性的な指揮で素晴らしい名演の数々を成し遂げている常々のガーディナーは存在していない。むしろ、ウィーン・フィルがCDとして演奏を商品化するに当たって、「イギリス系のひどくいけ好かない」指揮者を黙殺して、自分たちだけでもこれだけの美しい演奏ができるのだというのを、自らのプライドをかけて誇示しているようにさえ思われるのだ。もっとも、我々聴き手は演奏に感動できればそれでいいのであり、これだけ両曲の魅力、そして美しさを堪能させてくれれば文句は言えまい。なお、本盤には、メンデルスゾーン自身が後年に第2〜4楽章に施した交響曲第4番の改訂版がおさめられており、世界初録音という意味でも貴重な存在である。これは、いかにもバロック音楽などにおいても原典を重んじるガーディナーの面目躍如とも言える立派な事績であると考える。録音は本盤でも十分に満足できる音質ではあるが、先日発売されたSHM−CD盤は、若干ではあるが音質はより鮮明になるとともに、音場が広くなったように思われる。いまだ未購入の方で、ウィーン・フィルによる希少な両曲の美しい本名演をよりよい音質で聴きたいという方には、SHM−CD盤の方の購入をお奨めしておきたい。
4 people agree with this review 2011/06/05
本盤におさめられた演奏は、ツィマーマンによる約20年ぶりのブラームスのピアノ協奏曲第1番の録音ということになる。前回の演奏・録音は1984年であり、バーンスタイン&ウィーン・フィルをバックにしたものであった。当該演奏も素晴らしい名演であったが、どちらかと言えばバーンスタインによる濃厚な音楽が全面に出た演奏になっており、必ずしもツィマーマンの個性が発揮された演奏とは言い難い側面があったことは否定できないのではないかと考えられる。それに対して、本演奏では徹頭徹尾ツィマーマンの個性が全開と言える。ツィマーマンは「思索と研鑽の人」と称されるだけに、同曲についても徹底的に研究を重ねたのだと考えられる。同曲はブラームスの青雲の志を描いた作品であるが、ツィマーマンはそうした疾風怒濤期にも相当する若きブラームスの心の葛藤のようなものを鋭く抉り出し、奥行きのある彫の深い演奏を行っているのが素晴らしい。また、技量においても卓越したものがあるとともに、強靭な打鍵から繊細な抒情に至るまで表現の幅は桁外れに幅広く、スケールも雄渾の極みであり、情感の豊かさにおいてもいささかの不足もない。正に、技量においても内容の深みにおいても完璧なピアニズムを展開していると言えるところであり、ツィマーマンとしても会心の名演奏と言えるのではないだろうか。このような凄みのあるツィマーマンのピアノに対して、ラトルの指揮も一歩も引けを取っていない。同曲は、ピアノ演奏付きの交響曲と評されるだけあって、オーケストラの演奏が薄いとどうにもならないが、ここでのラトルは、ベルリン・フィルを率いて実に重厚でシンフォニックな演奏を繰り広げていると言える。本演奏は2003年の録音であり、ラトルがベルリン・フィルの芸術監督に就任して間もない頃のものである。この当時のラトル&ベルリン・フィルの演奏には、ラトルの気負いだけが先走った浅薄な凡演が多かったところであるが、本演奏では、そのような浅薄で気負ったラトルとは別人のような充実した重厚な名演奏を繰り広げている。その理由は、DGとEMIの音質の違いがあるのかもしれないが、それ以上に、ラトルがツィマーマンの凄みのあるピアノ演奏に触発されたといった側面も否定できないのではないかとも考えられるところだ。このコンビによる第2番を聴きたいと思う聴き手は私だけではあるまい。録音は、本盤でも十分に満足できる音質であるが、先日発売されたSHM−CD盤は、若干ではあるが音質がより鮮明になるとともに、音場が広くなったように思われる。いまだ未購入で、本演奏をよりよい音質で味わいたいという方には、SHM−CD盤の方の購入をお奨めしておきたい。
4 people agree with this review
本盤におさめられたマーラーの交響曲第2番は、ブーレーズによるマーラーチクルスが第6番の録音(1995年)を皮切りに開始されてからちょうど10年目の録音である。このように10年が経過しているにもかかわらず、ブーレーズのアプローチは殆ど変っていないように思われる。かつては、作曲家も兼ねる前衛的な指揮者として、聴き手を驚かすような怪演・豪演の数々を成し遂げていたブーレーズであるが、1990年代に入ってDGに録音を開始するとすっかりと好々爺になり、オーソドックスな演奏を行うようになったと言える。もっとも、これは表面上のこと。楽曲のスコアに対する追及の度合いは以前よりも一層鋭さを増しているようにも感じられるところであり、マーラーの交響曲の一連の録音においても、その鋭いスコアリーディングは健在であると言える。本演奏においても、そうした鋭いスコアリーディングの下、曲想を細部に至るまで徹底して精緻に描き出しており、他の演奏では殆ど聴き取ることができないような旋律や音型を聴き取ることが可能なのも、ブーレーズによるマーラー演奏の魅力の一つと言えるだろう。もっとも、あたかもレントゲンでマーラーの交響曲を撮影するような趣きも感じられるところであり、マーラーの音楽特有のパッションの爆発などは極力抑制するなど、きわめて知的な演奏との印象も受ける。したがって、第2で言えば、ドラマティックなバーンスタイン&ニューヨーク・フィル(1987年ライヴ)やテンシュテット&ロンドン・フィル(1989年ライヴ)の名演などとはあらゆる意味で対照的な演奏と言えるところである。もっとも、徹底して精緻な演奏であっても、例えばショルティのような無慈悲な演奏にはいささかも陥っておらず、どこをとっても音楽性の豊かさ、情感の豊かさを失っていないのも、ブーレーズによるマーラー演奏の素晴らしさであると考える。さらに、ウィーン・フィルの優美な演奏が、本演奏に適度の潤いと温もりを付加させていることも忘れてはならない。クリスティーネ・シェーファーやミシェル・デ・ヤングによる独唱やウィーン楽友協会合唱団も最高のパフォーマンスを示していると言える。なお、このような細部への拘りを徹底した精緻な演奏としては、最近ではホーネック&ピッツバーク交響楽団が第1番や第4番で見事な名演を成し遂げているが、ホーネックが今後第2番を手掛けた時に、本演奏を超える演奏を成し遂げることが可能かどうか興味は尽きないところである。録音は、本盤でも十分に満足できる音質であるが、先日発売されたSHM−CD盤は、本盤よりも若干ではあるが、音質はやや鮮明になるとともに音場が広がることになった。もっとも、それでも必ずしも抜本的な改善が図られているとは言い難い。いずれにしても、本演奏はマーラーの交響曲演奏に新風を吹き込むことに成功した素晴らしい名演でもあり、第3、第4及び大地の歌と同様にSACD化していただくことをこの場を借りて大いに望んでおきたい。
ブーレーズはDGに相当に長い年数をかけてマーラーの交響曲全集を録音したが、本盤におさめられたマーラーの第9は、その最初期の録音である。演奏は、あらゆる意味でバーンスタインやテンシュテットなどによる濃厚でドラマティックな演奏とは対極にある純音楽的なものと言えるだろう。ブーレーズは、特に1970年代までは、聴き手の度肝を抜くような前衛的なアプローチによる怪演を行っていた。ところが、1990年代にも入ってDGに様々な演奏を録音するようになった頃には、すっかりと好々爺になり、かつての前衛的なアプローチは影を潜めてしまった。もっとも、必ずしもノーマルな演奏をするようになったわけではなく、そこはブーレーズであり、むしろスコアを徹底的に分析し、スコアに記されたすべての音符を完璧に音化するように腐心しているようにさえ感じられるようになった。もちろん、スコアの音符の背後にあるものまでを徹底的に追及した上での演奏であることから、単にスコアの音符のうわべだけを音化しただけの薄味の演奏にはいささかも陥っておらず、常に内容の濃さ、音楽性の豊かさを感じさせてくれるのが、近年のブーレーズの演奏の素晴らしさと言えるだろう。本演奏においても、そうした近年のブーレーズのアプローチに沿ったものとなっており、複雑なスコアで知られるマーラーの第9を明晰に紐解き、すべての楽想を明瞭に浮かび上がらせるようにつとめているように感じられる。それ故に、他の演奏では殆ど聴き取ることが困難な旋律や音型を聴くことができるのも、本演奏の大きな特徴と言えるだろう。さらに、ブーレーズの楽曲への徹底した分析は、マーラーが同曲に込めた死への恐怖や生への妄執と憧憬にまで及んでおり、演奏の表層においてはスコアの忠実な音化であっても、その各音型の中に、かかる楽曲の心眼に鋭く切り込んでいくような奥行きの深さを感じることが可能であると言える。これは、ブーレーズが晩年に至って漸く可能となった円熟の至芸とも言えるだろう。いずれにしても本演奏は、バーンスタイン&COAによる名演(1985年)とあらゆる意味で対極にあるとともに、カラヤン&ベルリン・フィル(1982年)の名演から一切の耽美的な要素を拭い去った、徹底して純音楽的に特化された名演と評価したい。このようなブーレーズの徹底した純音楽的なアプローチに対して、最高のパフォーマンスで応えたシカゴ交響楽団の卓越した演奏にも大きな拍手を送りたい。録音は、本盤でも十分に満足できる音質ではあるが、先日発売されたSHM−CD盤は、若干ではあるが音質に鮮明さが増すとともに、音場が広がることになった。いまだ未購入の方で、ブーレーズによるこのような純音楽的な名演をよりよい音質で味わいたいという方には、是非ともSHM−CD盤の方の購入をお奨めしておきたい。
ブーレーズによるベルリオーズの幻想交響曲と言えば、「レリオ、または生への回帰」との組み合わせで話題となったロンドン交響楽団との旧盤(1967年)の衝撃が今でも忘れられない。この当時のブーレーズは、ストラヴィンスキーのバレエ音楽「春の祭典」(1969年)やバルトークの管弦楽のための協奏曲(1973年)など、前衛的な名演の数々を成し遂げていた時期であり、幻想交響曲においてもその斬新な解釈が聴き手の度肝を抜いたものであった。しかしながら、そのような前衛的なブーレーズも、1990年代に入ってDGに様々な楽曲を録音するようになると、すっかりと好々爺となり、大人しい演奏が増えるようになってきたと言える。もっとも、スコアリーディングについてはより追及度が上がったとも言えるところであり、そのアプローチは更に精緻さを増したとさえ言えるところだ。本盤におさめられた幻想交響曲においても、ブーレーズによる精緻なアプローチは際立っていると言える。細部の一音に至るまで蔑ろにすることがない精緻さは、あたかもスコアをレントゲンで撮影するかのような精巧さであり、これまでの演奏では聴き取れなかったような音型さえ聴こえてくるほどである。それでいて、単なるスコア至上主義には陥っておらず、どこをとっても情感の豊かさに満ち溢れているというのは、正にブーレーズの円熟の至芸と言えるところである。いずれにしても、本演奏はブーレーズの新境地を体現した素晴らしい名演と高く評価したい。クリーヴランド管弦楽団の卓抜した技量も、このような精巧な演奏に大きく貢献しているのを忘れてはならない。録音は本盤でも十分に満足できる音質であるが、先日発売されたSHM−CD盤は、本盤と比較すると、若干ではあるが音質が鮮明になるとともに音場が幅広くなったと言える。もっとも、その音質の差はさほど大きくはなく、既に購入されている方がわざわざ買い直す必要はないと思うが、未だ未購入で、ブーレーズによる本演奏をより良好な音質で味わいたいという方には、先般発売されたSHM−CD盤の方の購入を是非ともお奨めしたい。
ブーレーズによるベルリオーズの幻想交響曲と言えば、「レリオ、または生への回帰」との組み合わせで話題となったロンドン交響楽団との旧盤(1967年)の衝撃が今でも忘れられない。この当時のブーレーズは、ストラヴィンスキーのバレエ音楽「春の祭典」(1969年)やバルトークの管弦楽のための協奏曲(1973年)など、前衛的な名演の数々を成し遂げていた時期であり、幻想交響曲においてもその斬新な解釈が聴き手の度肝を抜いたものであった。しかしながら、そのような前衛的なブーレーズも、1990年代に入ってDGに様々な楽曲を録音するようになると、すっかりと好々爺となり、大人しい演奏が増えるようになってきたと言える。もっとも、スコアリーディングについてはより追及度が上がったとも言えるところであり、そのアプローチは更に精緻さを増したとさえ言えるところだ。本盤におさめられた幻想交響曲においても、ブーレーズによる精緻なアプローチは際立っていると言える。細部の一音に至るまで蔑ろにすることがない精緻さは、あたかもスコアをレントゲンで撮影するかのような精巧さであり、これまでの演奏では聴き取れなかったような音型さえ聴こえてくるほどである。それでいて、単なるスコア至上主義には陥っておらず、どこをとっても情感の豊かさに満ち溢れているというのは、正にブーレーズの円熟の至芸と言えるところである。いずれにしても、本演奏はブーレーズの新境地を体現した素晴らしい名演と高く評価したい。併録は、今回は「レリオ、または生への回帰」ではないが、トリスティアもブーレーズならではの非常に考え抜かれた精緻な名演に仕上がっていると言える。クリーヴランド管弦楽団の卓抜した技量も、このような精巧な演奏に大きく貢献しているのを忘れてはならない。クリーヴランド管弦楽団合唱団も最高のパフォーマンスを示していると言える。録音は従来盤でも十分に満足できる音質であったが、今般のSHM−CD化によって、さらに音質が鮮明になるとともに音場が幅広くなったと言える。ブーレーズによる素晴らしい名演を、SHM−CDによる高音質で味わうことができるのを大いに歓迎したい。
カラヤンは、クラシック音楽史上最大のレコーディングアーティストとして、様々な作曲家による交響曲全集の録音を数多く行った。その大半は独墺系の作曲家によるものに限られているが、唯一そうでないものが存在する。それがチャイコフスキーの交響曲全集であり、本盤にはそのうち後期三大交響曲(第4〜6番)がおさめられている。チャイコフスキーの交響曲は、独墺系の錚々たる大指揮者が好んで演奏を行ってきてはいるが、それは後期三大交響曲に限られていると言える。したがって、初期の第1〜第3番を含めた全集を録音したのは、独墺系の指揮者の中では現在においてもカラヤンが唯一の指揮者ということになる。後期三大交響曲についてはカラヤンの十八番でもあり、本盤以外にも、ライヴ録音を含めかなりの点数の録音を遺している。これら後期三大交響曲についての個別の演奏評価についてはそれぞれレビューを既に投稿しているので、個別の交響曲毎の演奏評価についてはそちらに委ねるが、いずれにしても、本盤におさめられた演奏は、カラヤン&ベルリン・フィルの黄金時代の演奏の凄さを満喫させてくれる素晴らしい名演と高く評価したい。各交響曲の演奏は、いずれも1975〜1976年というカラヤン&ベルリン・フィルの黄金コンビの全盛時代のもの。一糸乱れぬ鉄壁のアンサンブルを誇る弦楽合奏、金管楽器のブリリアントで強靭な響き、桁外れのテクニックを誇る木管楽器の極上の美しい響き、そしてフォーグラーによる雷鳴のように轟くティンパニなどが一体となった超絶的な技量を披露するベルリン・フィルの名演奏に、カラヤンは流麗なレガートを施すことによって、究極の美を誇るいわゆるカラヤンサウンドを形成。正に、オーケストラ演奏の極致とも言うべき圧倒的な音のドラマの構築を行っていたところである。本盤におさめられた演奏は、いずれもかかるカラヤンサウンド満載の圧倒的な音のドラマが健在であり、これはこの黄金コンビが成し遂げた究極の名演奏と言っても過言ではあるまい。なお、後期三大交響曲については、実演に近いドラマティックな豪演を展開する1971年盤(EMI)や、最晩年の枯淡の境地を示すとともに、音楽そのものを語らせる至高の名演である1984年盤(DG)の方をより上位に掲げる聴き手も多いとは思うが、カラヤンの個性が安定して発揮されていることや、演奏の完成度という意味においては、本盤におさめられた演奏は、1971年盤や1984年盤にいささかも引けを取っていないと考える。録音は、デジタル録音に移行する直前のいわばアナログ録音の完成期のものであるだけに、従来盤でも十分に満足できる音質であるが、数年前にカラヤン生誕100年を記念して発売されたSHM−CD盤による全集がこれまでのところ最も良好な高音質であったと言える。そして、不思議なのは、チャイコフスキーの交響曲の中で最も人気の低い第3番のみが、シングルレイヤーによるSACD&SHM−CD化されているということである。いずれにしても、本盤におさめられた演奏はいずれもカラヤンによる素晴らしい名演でもあり、第3番以外の後期三大交響曲についても、シングルレイヤーによるSACD&SHM−CD化をしていただくことをこの場を借りて大いに要望しておきたい。
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