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TOP > My page > Review List of 村井 翔
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4 people agree with this review 2013/06/17
「ティーレマン組」は今年からザルツブルク・イースター音楽祭に引っ越したので、バーデンバーデンでの最後の年の上演ということになる。ティーレマンの指揮に関しては、文句なしの素晴らしさ。彼にはやや不向きな曲かと思ったが、喜劇的な場面もそつなくこなしているし、最後の盛り上げは見事の一語。オケがシュターツカペレ・ドレスデンに代わった効果も間違いなく出ている。しかし、全体としてはどうも気勢の上がらない上演。第一の「戦犯」は面白く見せようと工夫を凝らしてはいるものの、根本的には救いがたく凡庸な演出。終盤の「宙を舞う椅子」(HMVレビューの写真で見られる)はマジで笑えるが、こんなことに金と労力を費やすのなら、アリアドネが死んで生まれ変わるというオペラの本筋をどうしてちゃんと表現しないのか? 歌手陣も主役級で水準以上なのは、コッシュ(コッホ)の作曲家だけ。フレミングはもはや衰えが痛々しい。崩れかかった歌のフォルムを維持するために歌詞が犠牲になっていて、何を歌っているのか判然としない。同じ2012年の夏のザルツブルクで同じ役(オリジナルのシュトゥットガルト版だが)を歌ったエミリー・マギーに完敗。アーチボルトは技術的な切れ味に不足はないが、さして魅力なく、可もなし不可もなしのツェルビネッタ。これなら日本で見られたダニエラ・ファリーの方が上ではないか。ディーン・スミスはどう見てもただの中年オジサン。(演出の責任でもあるが)「若い神」としてのアウラに全く欠ける。
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2 people agree with this review 2013/05/11
これはもともとロンドン科学博物館のデジタル・インスタレーションとして制作された映像で、博物館ではマルチ・スクリーンのそれぞれにオケの各ブロック(37台のキャメラで撮影とのこと)が別々に映った映像を見られるようだ。しかし、映像ディスクでそれをそのままやるわけにはいかないので、見られるのは一画面に編集された映像。その編集があまり感心しない。基本的にメロディーを担当している楽器を映すのは定番ではあるが、無意味なアングルの切り替えが多すぎて煩わしい。演奏シーンの背景が殺風景なスタジオなのも、ちょっと興を削ぐ。サンフランシスコ交響楽団のキーピング・スコア・シリーズや、エッシェンバッハ/パリ管のマーラー交響曲全集など、良くできた先行作品をもっと研究してほしかった。サロネンの冴えたバトン・テクニックが見られる指揮者だけのアングルを「ピクチャー・イン・ピクチャー」で入れることができるほか、各楽章ごとの解説、指揮者やフィルハーモニア管首席奏者たちの「オーディオ・コメンタリー」(英語字幕が表示されるので聞き取りやすい)など特典映像は山盛りだが、コメンタリーはいま一つ面白くない。やはりヴィデオ作品としての完成度は、前述のキーピング・スコア・シリーズなどに及ばない。けれども、サロネン/フィルハーモニアの演奏自体はさすがに素晴らしい。「海王星」の末尾からそのまま続くタルボットの新作も、まあ気が利いているし、「火星」のリズム・オスティナートの徹底的な表出、「木星」の楽想に応じたテンポの伸縮などお見事。おなじみの通俗名曲が鮮やかに面目一新している。
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このコンビによるマーラー映像ディスクの三枚目だが、第5番(NHK-BSで放送済み)、第6番も既に録画されており、映像による全集に発展するようだ。曲の性格上、派手な大芝居をうつような演奏ではないが、きわめて透明度が高くスコアが透けて見えるような解釈で、曲との相性は悪くない。コンセルトヘボウとの録音と比べても、第1楽章の多彩な楽想の描き分けなど、一段と入念になったように思う。独唱者のラントシャマーはあまり技巧を凝らさず素直に歌っているが、これはこれで悪くない。ただし、映像ディスクに限っても、アバド/ルツェルン、イヴァン・フィッシャー/コンセルトヘボウなど競合盤を押しのけて、どうしてもこれを選びたいと思わせるほどの「切り札」には欠ける気がする。マーラー自身の演奏を記録したヴェルテ・ミニョン(自動ピアノ演奏装置)をスタインウェイ・ピアノに取り付けての特典映像は、その解説ともども大変興味深い。一方、ディスク付属のリーフレットは4番という交響曲について非常に明確な解釈を打ち出しているが、シャイー御大のコメントの方はさっぱり要領を得ない。でも、あまり露骨に言葉で解釈を語られてしまうよりはいいか。
3 people agree with this review 2013/05/05
ミュンヒェンでマイールの珍しいオペラ『コリントのメディア』を蘇演したミヒャエルが次にケルビーニ版に挑むのは当然のなりゆきだったろうが、オリジナルのフランス語版、しかもオケはピリオド楽器、演出は完全な現代化版とは。仏語版は『カルメン』と同じオペラコミーク、つまりナンバーの間を仏語の台詞でつないでゆく形で書かれているが、台詞部分は演出に合わせて現代語の言い回しに直されている。さらに台詞は必ずしも舞台用の発声ではなく、時には囁くようにも語られるので、その聞き取りを補助するために歌手たちは小型マイクを装備している。演出はジャケ写真通りのパンク姐ちゃん風メデが彼女を拒む社会の中で孤立してゆく様を的確に見せる。子供殺害のシーンはやはりダイレクトには表現しないが、象徴的な見せ方がうまい。ケルビーニ版では金羊皮をめぐる過去のいきさつや異民族、異宗教ゆえの差別などはあまり語られず、メデ個人の悲劇に焦点を合わせた作りになっているが、演出もその方向で徹底していて、昨今の演出では定番の映像も、幸福だったであろうメデとジャソンの過去の回顧になっている。 指揮はピリオド楽器の粗い響きを利して、もともとエキセントリックな音楽をさらに鋭利に響かせる。ミヒャエルは期待通り、いや期待以上の歌と演技で圧巻。次はマクベス夫人か? 中年オジサンになった(でもまだカッコいい)ストレイトも相手役として不足はない。ル・テクシエの悪役ぶりもなかなかの凄味。ディルセはこの版では単なる被害者なので性格表現はシンプルだが、ケルクホーフェの技巧の切れ味も申し分ない。
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4 people agree with this review 2013/05/02
既に他の方も書かれている通り、協奏曲第2番ももちろん悪くはないけど、ここでは完全に「おまけ」でしたね。前座のワルツ第7番に続く、ソナタ第2番とバラード第4番が彼女の勝負曲。ソナタ第1楽章では冒頭のグラーヴェを音楽が止まりそうなほど遅く始め、それから第1主題の突進に転じるという鮮やかな身のこなしがまず印象的。楽器と楽譜を完全にコントロールして、見通しの良い余裕さえ感じさせたユジャ・ワンに比べると、ブニアティシヴィリの場合、何よりも表現に対する意欲がすさまじい。スケルツォ主部の畳みかけるような煽り方も凄い。彼女もよくアルゲリッチと比べられるが、先行世代と明らかに違うのは単なるロマンティストではなく、鋭利な楽譜解析力を併せ持っているところだろう。そのセンスはまるでクラスター音楽のような終楽章の弾き方に結実している。このソナタに関しては、もう完璧無類なキーシンとユジャ・ワン、そしてブニアティシヴィリがあれば十分。ホロヴィッツ、ポリーニ、アルゲリッチら「過去の名盤」は安心してレコード棚に引退していただける。ちなみに、リスト作品集のレビューで彼女は「フォルティッシモを強く叩きすぎる」と書いたが、お詫びして訂正。2011年ヴェルビエでの映像を見て、彼女はピアノ教師が嫌う「汚い音」も自分の表現の一部として組み込んでいることが分かった。そこで彼女は二年前にユジャ・ワンが弾いたのと同じ「ペトルーシュカの3楽章」を演奏しているのだが、表現の方向はまさに対照的だ。
5 people agree with this review 2013/04/26
マーラー・イヤーだった2010年12月のライヴ録音だが、拍手はない。チャイコフスキーの4〜6番あたりでは、こういう曲を振るにはまだ若いかなと感じさせたユロフスキーだが、マーラー1番では彼の若々しさ、生きのよさが曲の求めるところとぴったり一致している。第2楽章の位置に「花の章」を入れているが、残りの4楽章はハンブルク稿ではなく通常版(第1楽章提示部のリピートもある)。他の4楽章は管弦楽法も遥かに分厚くなっているわけだから、『タンホイザー』のパリ版みたいな不釣り合いはあるが、こういうやり方も私は支持したい。主題的なつながりから言っても(「花の章」主題はスケルツォでも変形されて現われるほか、終楽章では明瞭に回想されている)、「花の章」はやはり他の4楽章と一緒に聴かれるべきだと思う。しかも、この演奏では他の4楽章も「花の章」に合わせたかのように、あまりオーケストレーションの厚みを感じない。テンポも概して速めで、音楽が非常に機敏だ。昨今のマーラー演奏では定番となった弦のグリッサンドやホルンのゲシュトップトなど特殊奏法もきわめて克明。葬送行進曲(冒頭のコントラバスはユニゾン)のブラスバンド風の響きの作り方もうまいし、終楽章最後のテンポ操作(減速+加速)も鮮やかに決まっている。
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6 people agree with this review 2013/04/23
2009年初頭の録音だが、なぜこれまでお蔵入りになっていたのか不思議なほどの見事な出来ばえ。第10番は見かけ以上に屈折した作品で、奇妙な味わいの第3楽章などは近年、音名象徴から愛人との「すれ違い」を描いた音楽と読み解かれているようだし、一見「勝利の大団円」風の終楽章もそう単純に合点すると、作曲者から「お前の目(耳?)は節穴か」と笑われてしまいそうだ。どこもそんなに極端なことはしていない演奏だが、各パートの隅々まで良く聴こえる優秀な録音とオケの響きの厚みが印象的。インバル/都響も非常にハイテンションな、士気の高い演奏だったが、この余裕のある運びを見せられると、やはりヤンソンスの方が一枚上手かと思ってしまう。第9番をさんざん批判された後、久しぶりの交響曲に作曲者がこめた裏の意味を色々と考えてみるには、とても良い演奏。
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3 people agree with this review 2013/04/22
中部ドイツ(ライプツィヒ)放送交響楽団を振った前回の録音は素晴らしい出来ばえだったが、やや分離の悪いダンゴ状の録音だけは残念だった(もう入手不能らしい)。この再録音は録音は申し分ないが、端的に言えば中間楽章の順番が変わったほか、造形がより堅固なものになった。つまり、第1楽章「アルマの主題」で大きくテンポを落としたり、抒情的な歌い込みに徹底的にこだわったりといった「変態性」は後退したわけだが、それでもルイージらしさは随所にある。前回録音ほどではないが、テンポはやはり良く動く。第1楽章では展開部中の挿入部(カウベルが鳴る所)の極端な遅さがやはり印象的。スケルツォ主部は前回より速いが(第1楽章第1主題と同じ素材の音楽だが、ルイージの場合、第1楽章より遥かに速い)、トリオになるとがくっと遅くなる。終楽章も前半は比較的冷静だが、さすがに再現部以降は非常に気合の入った、乾坤一擲の名演。ここでもカウベルの鳴る部分(つまり、激しい闘争の間に挟まれた癒しの音楽)では思い切って遅くなるが、こうしたテンポの動きもすべて理に適っていて、きわめて見通しがいい。テンシュテットのようなカオティックな演奏もありだと思うが、曲としては本来、このような整然としたアポロ的な解釈を求めている音楽だと思う。
5 people agree with this review 2013/04/01
これが『ヴォツェック』のモスクワ初演とは驚くが、いつもながら綿密なクルレンツィスの指揮のもと、ボリショイの面々がいつものルーティン・レパートリーとは全く違った緊張感を持って取り組んでいるのが分かる。チェルニャコフの現代版演出も良くできていて、主人公は現代の企業戦士たるサラリーマンだが、最初の場の「大尉」は軍隊フェチのおじさんとのロール・プレイとするなど、的確に読み替えられている。ジャケ写真の通り、方形に区切られた集合住宅が舞台で、その一室で殺人が起こっても、他の人々の暮らしは何の変化もなく続いてゆく。マンションの一角に設けられた深夜のバーで演じられる第2幕第5場(ここにいないはずのマリーも出てくる)、死んだ母親と(この演出では)心神喪失状態の父のいる室内で子どもが無邪気にテレビゲームを続ける最終場などは元の設定以上に秀逸。ただし、マンション内に「沼」を作るわけにはいかないし、「赤い月」を昇らせるわけにもいかないので、さすがに第3幕になると読み替えがちょっと苦しい。ビエイト演出ではちゃんと描かれていた「階級」「身分」の差がなくなってしまったのも、やはりまずかろう。グラマラスなマリーはやや大味だが、主役ニグル以下、歌手陣もおおむね好演。
3 people agree with this review 2013/03/30
『イオランタ』は大好きな作品だが、きわめて至純なメルヒェンなので、下手をするとただのお涙頂戴物語で終わってしまう。その点ではソ連時代のオペラ映画も1982年ボリショイでの上演記録も満足にはほど遠かった。しかし、これはセンスの良い演出と鋭敏な指揮による素晴らしい上演。舞台はジャケ写真にある通り、鳥の羽根のような装飾が付いた扉の枠だけが置かれた象徴的なものだが、セラーズ演出は歌手を下から照らすフットライトを効果的に使って「闇から光へ」の物語を説得力豊かに見せる。クルレンツィスは私が最初に聴いたショスタコの交響曲第14番以来、何を振ってもある種の表現主義をはっきりと刻印する指揮者だが、それは派手な大芝居を仕掛けるというのとは違って、表現を徹底的に磨き上げた結果、これまで何とも思わなかった細部が雄弁に語り始めるというものだ。本作でも、イオランタが盲目であることにヴォデモンが気づいた後の、弦の胸をえぐるような響きなど、実に素晴らしい。フィナーレに挿入される無伴奏の聖歌風合唱(私の所有する三種のCD、二種の映像のどれにもこの部分はない。別作品からの挿入か?)の繊細さもまた絶妙だ。シェルバチェンコ、チェルノホの主役コンピ以下、歌手陣はみな好演。特にムーア人の医者(中世はイスラム圏の方が先進国だったのだ)を演じるウィラード・ホワイトが上演に一段の重みを添えている。 これに続いて全く同じセットで演じられるのはストラヴィンスキーの『ペルセフォネ』。冥界の王ハーデスにさらわれた娘ペルセフォネを母のデーメテルらが救い出そうとする、ギリシア神話による一時間ほどの「メロドラマ」。ただし、ハーデスの妻になったペルセフォネは毎年、秋から冬にかけては冥府に住まねばならず、春になると「光」の世界に戻ってくる。語り部のエウモルペ(テノール)が盲目の男性と設定され、イオランタと同じ白い杖を持たされることで、前の演目との関連づけが図られている。ジイドのフランス語台本を語るペルセフォネ(語り役)にはカンボジア古典舞踊のダンサーが「ダブル(分身)」として付く。
5 people agree with this review 2013/03/30
ヴェルザー=メストとウィーン国立歌劇場による最初の映像ソフトだが、その演目が『ニーベルングの指環』でも『影のない女』でもなく、『アラベラ』だというのは面白い。もちろんスケールの大きさはないが、繊細かつ緻密なメストの指揮が生きる曲であるのは確かだが、彼は同じ曲を5年前にチューリヒで録画したばかりだからだ。しかも、今回のベヒトルフ演出は2006/2007年シーズンに出されたもので、最新のプレミエというわけでもない。勘ぐるに、どうも指揮者はチューリヒでの録画に不満があったのではないか。あらゆる点で今回のウィーン録画の方がチューリヒより上だからだ。演出は時代を20世紀半ばに移しているが、もともと『ばらの騎士』のような純然たる貴族社会の話ではないし、これはこれで構わない。特にあっと驚くような仕掛けがあるわけではないが、第1幕のヴァルトナー家のうらぶれ加減、第2幕の舞踏会の「しょぼさ」も非常に的確。もともとこのオペラは、台本作者ホフマンスタールの死後、シュトラウスが独断で第2幕以降の台本をばっさりと削ってしまったので、ストーリー上、やや説明不足なところがある。たとえば、アラベラは(考えようによっては迷惑な)ズデンカの振る舞いをどう思っているのか、このまま破談になってもおかしくなかったアラベラとマンドリーカの仲がどうしてハッピーエンドになるのか、などテクストの上では明らかに言葉が足りない。その足りない部分を、演出が演技によってうまく補っているところも見ものだ。 マギーは元来の演技の巧みさ(小学生になりきったコンヴィチュニー演出『ローエングリン』など圧巻)に加えて歌の方も堂々たる風格を備えるようになってきた。同じアメリカ出身だが、フレミングよりずっと賢い女性に見える。コニェチュニは演技するまでもなく、素のままで二枚目かつ三枚目のマンドリーカになりきっている。アップになるとちょっと老けて見えるが、けなげなキューマイアーのズデンカも素晴らしい。
3 people agree with this review 2013/03/02
人気のドゥダメルといえども、録音コストの高いロサンジェルスでは何でもかんでも録音させてもらえるわけではなさそうだ。そうした中で選ばれた最初の録音曲目がマーラー9番とは何とも興味深い。速いところは十分にテンポが上がるが、それでも29:32/16:25/13:19/26:46という各楽章のタイムからも察せられる通り、非常にじっくり構えたスケールの大きな演奏。第1楽章展開部末尾のクライマックス(いわゆる「死の打撃」部分)への劇的な持ち込み方、第3楽章最後の猛烈な加速(その代わり、その前のアダージョ楽章先取り部分はかなり遅い)など、まぎれもない「ドゥダメル印」もちゃんと刻印されているし、かつてはなおざりにされることの多かったポルタメントなども、楽譜の指示通り、丁寧に実行されている。強いて言えば、ポリフォニックで複雑な味わいが望まれる所で、やや音楽が平板、ホモフォニックに流れる傾向があるのが弱点かもしれないが、9番自体は決して晩年様式の枯れた曲ではないわけだから、今はこの若い指揮者の意欲的な指揮ぶりを良しとしよう。
7 people agree with this review 2013/01/21
ベズイデンホウトはモーツァルトのソロ作品全集でもとてもセンスの良いところを見せているが、協奏曲になってさらに「一皮むけた」感がある。フォルテピアノはオケ・パートにも通奏低音として参加、独奏楽器を円形に取り囲むようにオケを配置(だから木管楽器がフォルテピアノのすぐ向こうにいる)、緩徐楽章では独奏楽器の旋律装飾に呼応して、木管もわずかだが即興的に楽譜と違う動きをするなど、きわめて過激なことを「さりげなく」やっている。ピアノ協奏曲は今や全盛のピリオド・スタイル・モーツァルトの最後の未開拓地で、ビルソン/ガーディナーの全集もインマゼールの全集も「楽器にもう少しニュアンスがあれば」と感じさせたものだが、そんな不満はすでに過去のもの。アクセントの強い表現(両曲とも短調のエピソードに差しかかると、非常にエキセントリックな表情をみせる)も、繊細な表現力(たとえば第22番終楽章のカデンツァの終わりなど絶妙)も申し分ない。第22番冒頭のファンファーレ音型とその後の柔らかい木管のメロディー(+ホルンの対位旋律)の描き分けなど、オケの雄弁な表現も圧巻。第22番はモーツァルトのピアノ協奏曲中、最愛の一曲だったが、当分この一枚があれば十分。現代楽器で聴きたいとは思わない。
7 people agree with this review
3 people agree with this review 2012/12/17
第1楽章の「戦争の主題」が『メリー・ウィドウ』の「マキシムの歌」の引用だなんて、いかにもショスタコらしいと思うけど、その種のパロディを除けば、第7番は次の第8番の素晴らしさに比べると、外見は派手だが、どうも内容空疎な曲というイメージが否めなかった。しかし、これは曲についての見方の変更を迫るほどの圧倒的な名演だ。ほぼ同時に発売されたゲルギエフの再録音(これも悪い演奏ではないが)に比べると全曲で9分ほど短い演奏で、第1楽章第1主題もアレグレットにしてはかなり速いが、これは第2主題、つまりモデラートの「戦争の主題」とのコントラストをはっきりつけようという意図だろう。その「戦争の主題」はppという指定にも関わらず、最初からコル・レーニョ、ピツィカートを非常にはっきりと響かせて始まる。この一見楽しげな、だが実は不気味な旋律の後者の側面を強調した演奏で、メロディ・ラインにつきまとう対位旋律を克明に聴かせる。その後の凄まじい修羅場は全く見事な統率力。第3楽章は第5番第3楽章、第8番第1楽章などに通ずるレクイエムとしての性格を持つアダージョだが、私はこの演奏でこの楽章の「真実の声」をはじめて聴かせてもらった。拍手入りの一発ライヴだが、録音は優秀、会場ノイズもほとんど気にならない。
1 people agree with this review 2012/12/10
指揮とオケ、メゾ・ソプラノ独唱者に関しては、文句の付けようがない。指揮はとても純音楽的にきっちりと、精妙に振っていて、かつてのような「死の想念」に浸された解釈とは、はっきり距離を置いている。この曲ではウィーン・フィルの耽美的な響きが忘れがたいが(特にワルターとバーンスタインのDECCA録音)、都響の繊細さも大いに賞賛に値する。フェルミリオンも決して「深い」声の持ち主ではないが、柔軟かつ知性的な歌いぶりで、きれいだけど「冷感症的」なクリスタ・ルートヴィヒより、むしろ好ましい。ただ一つだけ、ギャンビルの声は私には「許容範囲外」だった。もちろん楽譜通りちゃんと歌えているし、ドイツ語の発音も申し分ない。でも、歌手という生身の楽器の場合、その声が生理的に受け入れられぬということもまた起こりうるのだ。この曲のテノール・パート、私はヘルデンテノールよりもむしろリート歌手の繊細さが必要だと思うし(その点でインバルの前回録音でのペーター・シュライアーは良い選択だった)、ギャンビルも以前ほど無理に力まなくなったのは良い傾向。それでも第1楽章はまあ何とか我慢できるとしても、第3、第5楽章では、もっと伸びやかな本物のテノールの声が欲しかった。
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