please enable JavaScript on this site.
Guest
Platinum Stage
Gold Stage
Bronze Stage
Regular Stage
Buy Books, CDs, DVDs, Blu-ray and Goods at HMV&BOOKS online
Advanced Search
TOP > My page > Review List of つよしくん
Previous Page
Next Page
Showing 796 - 810 of 1958 items
%%header%%
%%message%%
4 people agree with this review 2011/06/11
古今東西の数多くのピアニストの中でも、ショパン弾きとして名を馳せた者は数多く存在しているが、その中でも最も安心してその演奏を味わうことができるのは、ルービンシュタインを置いて他にはいないのではないだろうか。というのも、他のピアニストだと、古くはコルトーにしても、ホロヴィッツにしても、フランソワにしても、演奏自体は素晴らしい名演ではあるが、ショパンの楽曲の魅力よりもピアニストの個性を感じてしまうからである。もちろん、そのように断言したからと言って、ルービンシュタインが没個性的などと言うつもりは毛頭ない。ルービンシュタインにも、卓越したテクニックをベースとしつつ、豊かな音楽性や大家としての風格などが備わっており、そのスケールの雄渾さにおいては、他のピアニストの追随を許さないものがあると言えるだろう。そして、ルービンシュタインのショパンが素晴らしいのは、ショパンと同じポーランド人であるということやショパンへの深い愛着に起因すると考えられるが、ルービンシュタイン自身がショパンと同化していると言えるのではないだろうか。ショパンの音楽そのものがルービンシュタインの血となり肉となっているような趣きがあるとさえ言える。何か特別な個性を発揮したり解釈を施さなくても、ごく自然にピアノを弾くだけで立派なショパンの音楽の名演に繋がると言えるところであり、ここにルービンシュタインの演奏の魅力があると言える。本盤におさめられたスケルツォについても、そうしたルービンシュタインならではの情感豊かでスケール雄大な名演だ。ショパンのスケルツォの名演としては、近年ではポゴレリチによる楽曲の心眼に鋭く切り込んでいくような凄みのある超名演(1995年)があるが、本演奏もその奥行きの深さにおいていささかも引けを取っていないと言える。そして、ショパンのスケルツォという楽曲の魅力を安定した気持ちで味わうことができるという意味においては、本演奏の右に出る演奏は皆無であると言える。また、演奏全体を貫いている格調の高さは比類がなく、これぞまさしく大人(たいじん)の至芸と言えるだろう。なお、本盤で何よりも素晴らしいのはXRCDによる極上の高音質だ。本演奏は今から50年以上も前のスタジオ録音であるが、とてもそうとは思えないような鮮明な高音質を誇っていると言える。既に発売されているSACDハイブリッド盤よりも、更に高音質と言えるのではないだろうか。いずれにしても、ルービンシュタインによる至高の超名演を、XRCDによる極上の高音質で味わうことができるのを大いに歓迎したい。
4 people agree with this review
Agree with this review
7 people agree with this review 2011/06/11
ハイティンクほど、評価が分かれる指揮者はいないのではないだろうか。ハイティンクのアプローチは誠実そのものであり、奇を衒った演奏を行うことは皆無。曲想を丁寧に愚直に描き出していくのを旨としていると言える。したがって、聴き手によっては、楽曲の魅力を安定した気持ちで満喫することができるということで評価する者もいるであろうし、他方では、そうした演奏を没個性的であると批判する者もいると思われる。私としては、いずれの意見にも一理あると考えているが、楽曲によって向き不向きがあると言えるのではないだろうか。例えば、マーラーのような交響曲については、ハイティンクの演奏では物足りないと感じることが多々あるが、他方、ブルックナーの交響曲については、これも曲によって良し悪しはあるが、総体としては、マーラーよりは出来がいい演奏を成し遂げているように思われる。多くの指揮者が賞賛しているショスタコーヴィチの交響曲についても、楽曲によって向き不向きがあるようで、例えば第4番はいかにも踏む込み不足が露呈した演奏に陥っているように思うが、第13番は彫の深い素晴らしい名演に仕上がっている。ハイティンクは、長年にわたって、コンセルトへボウ・アムステルダムの芸術監督をつとめたことから、どちらかと言うと、同オーケストラを指揮した時の方が、名演になることが多いとも言えるのかもしれない。実際に、前述のショスタコーヴィチの第4番はロンドン・フィルとの演奏であるのに対して、第13番はコンセルトへボウ・アムステルダムとの演奏でもあるのだ。それはさておき、本盤のドビュッシーの演奏においても、ハイティンクのアプローチは何ら変わるものではない。自我を抑制し、ひたすら曲想を丁寧に愚直に描き出していくというものだ。したがって、ドビュッシーの音楽の魅力をゆったりとした気持ちで味わうことができるという意味においては、素晴らしい名演と評価してもいいのではないかと考える。特に、当時のコンセルトへボウ・アムステルダムの各奏者は卓越した技量を誇っており、そうした圧巻の技量とともに、北ヨーロッパの楽団ならではの幾分くすんだいぶし銀の響きが味わえるのも本演奏の大きな魅力の一つであると考える。また、本演奏については、既にSACDハイブリッド盤が発売されており、極めて満足できる鮮明な高音質であったが、今般のシングルレイヤーによるSACD&SHM−CD盤は、SACDハイブリッド盤をはるかに凌駕する超高音質と言える。このような究極の超高音質で、本名演を味わうことができることを大いに喜びたい。
7 people agree with this review
本盤には、生粋のウィーンっ子であったクリップスがコンセルトへボウ・アムステルダムを指揮したモーツァルトの交響曲第40番及び第41番がおさめられておるが、いずれも古き良き時代のウィーンの雰囲気を彷彿とさせる素晴らしい名演と高く評価したい。仮に、クリップスが、コンセルトへボウ・アムステルダムではなくウィーン・フィルも指揮して演奏をしていれば、更にウィーン風の雰囲気は強まったとも考えられるが、本盤の録音当時のコンセルトへボウ・アムステルダムは、北ヨーロッパならではの幾分くすんだようないぶし銀の音色が顕著であり、演奏に適度のうるおいとぬくもりを付加させている点を忘れてはならない。そして演奏は、優雅そのものであり、いかにもクリップスならではの本場ウィーンを思わせるような典雅な雰囲気に満たされていると言える。クリップスのアプローチは決して手の込んだ個性的なものではなく、ゆったりとしたテンポによって、スコアに記された音符の一音一音を心を込めて精緻に表現していくというものであるが、音楽の流れが淀むことはいささかもなく、むしろウィンナ・ワルツのように優雅に、そして颯爽と流れていくのが素晴らしい。表現自体は、あくまでも自然体でオーソドックスなものであると言えるが、細部に至るまでコクがあり、豊かな情感に満ち溢れているというのは、クリップスが本演奏において必ずしも意図して行ったのではなく、むしろクリップス自身に染みついた天性の指揮芸術の賜物と言えるところであり、正に生粋のウィーンっ子の面目躍如たるものと言えるだろう。モーツァルトの交響曲の演奏様式は、近年ではピリオド楽器の使用や古楽器奏法などが主流となっているが、本盤のような演奏を聴いていると、故郷に帰省した時のように懐かしい、そして安定した気分になる聴き手は私だけではあるまい。本演奏については、かつてSACDハイブリッド盤が発売されており、それでも十分に満足し得る高音質であった。しかしながら、本盤のシングルレイヤーによるSACD&SHM−CD盤は、それをはるかに凌駕する究極の高音質録音であると言える。このような素晴らしい優雅な名演を、望み得る最高の鮮明な高音質で味わうことができることを大いに歓迎したい。
レスピーギによるローマ三部作はイタリアを代表する傑作であるが、すべてのイタリア人指揮者が指揮しているかというと、必ずしもそうでないところが大変興味深いところだ。トスカニーニは別格であるが、私の記憶が正しければデ・サパタやサンティも一部のみ。その後に同曲を録音したのは、有名指揮者ではムーティと本盤のシノーポリと若手のガッティやパッパーノのみ。ジュリーニもアバドも、そしてシャイーですら全く録音を行っていないのは実に不思議な気がする。シャイーであれば、かなりの名演を期待できると思うのだが、現時点では録音したという話は一切聞こえてこない。そのような中で、2001年に惜しくも急逝したシノーポリが同曲の録音を遺してくれたのは何と言う喜ばしいことであろうか。演奏内容も素晴らしい名演と高く評価したい。シノーポリの演奏は、医者出身の指揮者ならではのいわゆる精神分析的な、楽曲の細部に至るまで目を光らせたものが多いが、本演奏では一部(例えば、「ローマの祭り」の五十年祭のスローテンポなど)にその片鱗を聴くことができるものの殆どそのような印象を受けることはない。むしろ、意外にもまともな演奏を行っていると言えるところであり、マーラーの交響曲やR・シュトラウスの管弦楽曲などに接するのとは別人のようなオーソドックスなアプローチを披露していると言える。一言で言えば肩の力を抜いた演奏を行っていると言えるところであり、シノーポリとしても、祖国の大作曲家による傑作に対しては郷愁にも似た独特の感情を抱いていたのかもしれない。したがって、シノーポリは豪華絢爛なオーケストレーションが施された同曲の魅力をダイレクトに表現することのみに腐心しているように感じられるところであり、ローマに纏わるそれぞれの標題音楽を愛おしむように、そして楽しげに演奏しているようにさえ感じられる。生命力溢れる圧倒的な迫力と言った点においては、トスカニーニ盤は別格として、ムーティ盤にもかなわないと言えるが、それらに次ぐ名演と評価するのにいささかも躊躇するものではない。ニューヨーク・フィルも、シノーポリの指揮の下卓抜した技量を披露しており、本名演に大きく貢献しているのを忘れてはならない。録音は、従来盤でも十分に満足できる音質ではあったが、今般のSHM−CD化によってより鮮明さが増し、さらに聴きやすい音質になったと言える。シノーポリによる素晴らしい名演を、SHM−CDによる高音質で味わうことができるのを大いに喜びたい。
8 people agree with this review 2011/06/10
バーンスタインは、ビデオ作品を含め3度にわたってマーラーの交響曲全集を録音した唯一の指揮者であるが、3度目の全集については、実際には、交響曲第8番、第10番、そして大地の歌を録音することなく鬼籍に入ってしまった。3度目の全集を構成する各交響曲や歌曲集のいずれもが至高の超名演であっただけに、大変に残念なことであると考えている。本盤の大地の歌は、このような事情から3度目の全集の中におさめられてはいるが、実際には1966年の録音であり、バーンスタインが二度録音した大地の歌のうちの最初のもの。しかも、ウィーン・フィルにデビューしたての頃の録音である。したがって、バーンスタインも、名門ウィーン・フィルを前にして、相当に気合が入っていたのではないだろうか。同時期に録音された歌劇「ファルスタッフ」では遠慮があったと言えるが、マーラーにおいては、確固たる自信からそのような遠慮など薬にしたくもなかったに相違ない。他方、ウィーン・フィルにとっては、カラヤンを失ったばかりでもあり、カラヤンに対抗するスター指揮者を探すべく躍起となっていた時期であった。それ故に、本盤では、意欲満々のバーンスタインと、自らの新しいヒーローを前にして全力を尽くしたウィーン・フィルの底力が相乗効果を発揮した至高の名演ということができるのではないかと考えられる。大地の歌には、ワルター&ウィーン・フィル(1952年)とクレンペラー&フィルハーモニア管弦楽団(1964年)という歴史的な超名演が存在するが、本盤は、この両者に唯一肉薄する名演と高く評価したい。なお、本演奏において、独唱には通常のアルトに代わってバリトンを起用しているが、ここでのフィッシャー・ディースカウの独唱は、違和感をいささかも感じさせず、むしろバリトンの起用にこそ必然性が感じられるような素晴らしい名唱を披露していると言える。その名唱は上手過ぎるとさえ言えるが、これだけ堪能させてくれれば文句は言えまい。テノールのキングも、ディースカウにいささかも劣らぬ好パフォーマンスを示しているのも素晴らしい。
8 people agree with this review
4 people agree with this review 2011/06/10
マーラーの第1は、マーラーの青雲の志を描いた作品である。スコア自体は第4と同様に、他の重厚長大な交響曲と比較すると必ずしも複雑であるとは言えないが、演奏自体は、なかなか難しいと言えるのではないだろうか。他の交響曲をすべて演奏した朝比奈が、第1を一度も演奏しなかったのは有名な話であるし、小澤は3度も同曲を録音しているが、最初の録音(1977年)を超える演奏を未だ成し遂げることが出来ていないことなどを考慮すれば、円熟が必ずしも名演に繋がらないという、なかなか一筋縄ではいかない面があるように思うのである。どちらかと言えば、重々しくなったり仰々しくなったりしないアプローチをした方が成功するのではないかとも考えられるところであり、例えば、同曲最高の名演とされるワルター&コロンビア交響楽団盤(1961年)は、もちろんワルターの解釈自体が素晴らしいのではあるが、コロンビア交響楽団という比較的小編成のオーケストラを起用した点もある程度功を奏していた面があるのではないかと思われる。ところが、バーンスタインはそうした考え方を見事に覆してしまった。バーンスタインは、他のいかなる指揮者よりも雄弁かつ濃厚な表現によって、前述のワルター盤に比肩し得る超名演を成し遂げてしまったのである。バーンスタインは、テンポの思い切った緩急や強弱、アッチェレランドなどを駆使して、情感豊かに曲想を描いている。それでいて、いささかも表情過多な印象を与えることがなく、マーラーの青雲の志を的確に表現し得たのは驚異の至芸であり、これは、バーンスタインが同曲の本質、引いてはマーラーの本質をしっかりと鷲掴みにしている証左であると言える。オーケストラにコンセルトヘボウ・アムステルダムを起用したのも、本盤を名演たらしめるに至らせた大きな要因と言えるところであり、光彩陸離たる響きの中にも、しっとりとした潤いや奥行きの深さを感じさせるのが素晴らしい。
6 people agree with this review 2011/06/10
マーラーの交響曲第2番の優れた名演が、最近相次いで登場している。昨年以降の演奏に限ってみても、パーヴォ・ヤルヴィ&フランクフルト放送交響楽団、インバル&東京都交響楽団、そしてラトル&ベルリン・フィルが掲げられ、その演奏様式も多種多様だ。また、少し前の時代にその範囲を広げてみても、小澤&サイトウキネンオーケストラ(2000年)、テンシュテット&ロンドン・フィル(1989年ライブ)、シノーポリ&フィルハーモニア管弦楽団(1985年)など、それぞれタイプの異なった名演があり、名演には事欠かない状況だ。このような中で、本盤におさめられたバーンスタインによる演奏は、これら古今東西の様々な名演を凌駕する至高の超名演と高く評価したい。録音から既に20年以上が経過しているが、現時点においても、これを超える名演があらわれていないというのは、いかに本演奏が優れた決定的とも言える超名演であるかがわかろうと言うものである。本演奏におけるバーンスタインの解釈は実に雄弁かつ濃厚なものだ。粘ったような進行、テンポの緩急や強弱の思い切った変化、猛烈なアッチェレランドなどを大胆に駆使し、これ以上は求め得ないようなドラマティックな表現を行っている。また、切れば血が出るとはこのような演奏のことを言うのであり、どこをとっても力強い生命力と心を込めぬいた豊かな情感が漲っているのが素晴らしい。これだけ大仰とも言えるような劇的で熱のこもった表現をすると、楽曲全体の造型を弛緩させてしまう危険性があるとも言える。実際に、バーンスタインは、チャイコフスキーの第6、ドヴォルザークの第9、シベリウスの第2、モーツァルトのレクイエムなどにおいて、このような大仰なアプローチを施すことにより、悉く凡演の山を築いている。ところが、本演奏においては、いささかもそのような危険性に陥ることがなく、演奏全体の堅固な造型を維持しているというのは驚異的な至芸と言えるところであり、これは、バーンスタインが、同曲、引いてはマーラーの交響曲の本質をしっかりと鷲掴みにしているからにほかならない。バーンスタインのドラマティックで熱のこもった指揮にも、一糸乱れぬアンサンブルでしっかりと付いていっていったニューヨーク・フィルの卓越した技量も見事である。ヘンドリックスやルートヴィヒも、ベストフォームとも言うべき素晴らしい歌唱を披露している。ウェストミンスター合唱団も最高のパフォーマンスを示しており、楽曲終結部は圧巻のド迫力。オーケストラともども圧倒的かつ壮麗なクライマックスを築く中で、この気宇壮大な超名演を締めくくっている。
6 people agree with this review
5 people agree with this review 2011/06/10
バーンスタインが遺した3度にわたるマーラーの交響曲全集の中で、3度目の全集は、第8、第10及び大地の歌の新録音を果たすことができなかったものの、いずれ劣らぬ至高の超名演で構成されていると言えるのではないだろうか。ところが、これほど優れた超名演で構成されているにもかかわらず、レコード・アカデミー賞を受賞(1989年)したのは、本盤におさめられた第3のみとなっている。これは、各交響曲のCDの発売のタイミングに起因するとも考えられるところであるが、何と言っても、それだけ演奏が優れているからにほかならない。マーラーの第3は、重厚長大な交響曲を数多く作曲したマーラーの交響曲の中でも、群を抜いて最大の規模を誇る交響曲である。あまりの長さに、マーラー自身も、第3に当初盛り込む予定であった一部の内容を、第4の終楽章にまわしたほどであったが、これだけの長大な交響曲だけに、演奏全体をうまく纏めるのはなかなかに至難な楽曲とも言える。また、長大さの故に、演奏内容によっては冗長さを感じさせてしまう危険性も高いと言える。ところが、生粋のマーラー指揮者であるバーンスタインにとっては、そのような難しさや危険性など、どこ吹く風と言ったところなのであろう。バーンスタインの表現は、どこをとってもカロリー満点。濃厚で心を込め抜いた情感の豊かさが演奏全体を支配している。特に、終楽章は特筆すべき美しさでスケールも気宇壮大。誰よりも遅いテンポで情感豊かに描き出しているのが素晴らしい。他方、変幻自在のテンポ設定や、桁外れに幅の広いダイナミックレンジ、思い切ったアッチェレランドなどを大胆に駆使するなど、ドラマティックな表現にも抜かりがない。このように、やりたい放題とも言えるような自由奔放な解釈を施しているにもかかわらず、長大な同曲の全体の造型がいささかも弛緩することなく、壮麗にして雄渾なスケール感を損なっていないというのは、マーラーの化身と化したバーンスタインだけに可能な驚異的な圧巻の至芸であると言える。特筆すべきは、ニューヨーク・フィルの卓越した技量であり、金管楽器(特にホルンとトロンボーン)にしても、木管楽器にしても、そして弦楽器にしても抜群に上手く、なおかつ実に美しいコクのある音を出しており、本名演に華を添える結果となっている点を忘れてはならない。ルートヴィヒの独唱や、ニューヨーク・コラール・アーティスツ及びブルックリン少年合唱団による合唱も、最高のパフォーマンスを示している点も高く評価したい。
5 people agree with this review
1 people agree with this review 2011/06/10
終楽章にボーイ・ソプラノを起用したことにより数々の批判を浴びている曰くつきの演奏ではあるが、私としては、確かにボーイ・ソプラノの起用には若干の疑問は感じるものの、総体としては、素晴らしい名演と高く評価したい。マーラーの第4は、マーラーのあらゆる交響曲の中で、最も古典的な形式に則った作品であり、楽器編成も第1楽章の鈴や終楽章の独唱を除けば、きわめて常識的である。それ故に、いわゆるマーラー指揮者とは言えない指揮者によっても、これまで好んで演奏されてきた交響曲ではあるが、表情づけが淡泊であるというか、内容の濃さに欠ける演奏、スケールの小さい演奏が多かったというのも否めない事実であると言えるのではないだろうか。もっとも、いくらマーラーが作曲した最も規模の小さい簡潔な交響曲と言っても、そこは重厚長大な交響曲を数多く作曲したマーラーの手による作品なのであり、何も楽曲を等身大に演奏することのみが正しいわけではないのである。バーンスタインは、そうした軽妙浮薄な風潮には一切背を向け、同曲に対しても、他の交響曲へのアプローチと同様に、雄弁かつ濃厚な表現を施している点を高く評価したい。バーンスタインの名演によって、マーラーの第4の真価が漸くベールを脱いだとさえ言えるところであり、情感の豊かさや内容の濃密さ、奥行きの深さと言った点においては、過去の同曲のいかなる演奏にも優る至高の超名演と高く評価したい。バーンスタインの統率の下、コンセルトヘボウ・アムステルダムも最高のパフォーマンスを示していると言えるところであり、バーンスタインの濃厚な解釈に深みと潤いを与えている点を忘れてはならない。前述のように、終楽章にボーイ・ソプラノを起用した点についてはいささか納得し兼ねるが、ヴィテックの独唱自体は比較的優秀であり、演奏全体の評価にダメージを与えるほどの瑕疵には当たらないと考える。
1 people agree with this review
マーラーの第6は、マーラーの数ある交響曲の中でも少数派に属する、4楽章形式を踏襲した古典的な形式を維持する交響曲である。「悲劇的」との愛称もつけられているが、起承転結もはっきりとしており、その内容の深さからして、マーラーの交響曲の総決算にして最高傑作でもある第9を予見させるものと言えるのかもしれない。マーラーの交響曲には、様々な内容が盛り込まれてはいるが、その神髄は、死への恐怖と闘い、それと対置する生への憧憬と妄執であると言える。これは、第2〜第4のいわゆる角笛交響曲を除く交響曲においてほぼ当てはまると考えるが、とりわけ第9、そしてその前座をつとめる第6において顕著であると言えるだろう。このような人生の重荷を背負ったような内容の交響曲になると、バーンスタインは、正に水を得た魚のようにマーラー指揮者としての本領を発揮することになる。本演奏におけるバーンスタインのアプローチは、他の交響曲と同様に濃厚さの極み。テンポの緩急や強弱の変化、アッチェレランドなどを大胆に駆使し、これ以上は求め得ないようなドラマティックな表現を行っている。それでいて、第3楽章などにおける情感の豊かさは美しさの極みであり、その音楽の表情の起伏の幅は桁外れに大きいものとなっている。終楽章の畳み掛けていくような生命力溢れる力強い、そして壮絶な表現は、我々聴き手の肺腑を打つのに十分な圧巻の迫力を誇っていると言える。そして、素晴らしいのはウィーン・フィルの好パフォーマンスであり、バーンスタインの激情的とも言える壮絶な表現に、潤いと深みを加えるのに成功している点も高く評価したいと考える。これだけの超名演であるにもかかわらず、影響力のあるとある高名な音楽評論家が、バーンスタインの体臭がしてしつこい演奏などと難癖をつけ、ノイマン&チェコ・フィル盤(1995年)や、あるいは数年前に発売され話題を呼んだプレートル&ウィーン交響楽団盤(1991年)をより上位の名演と評価している。私としても、当該高名な評論家が推奨する2つの演奏が名演であることに異論を唱えるつもりは毛頭ない。しかしながら、本盤におさめられたバーンスタイン&ウィーン・フィルの超名演を、これら2つの演奏の下に置く考えには全く賛成できない。マーラーの第6のような壮絶な人間のドラマを表現するには、バーンスタインのようなドラマティックで壮絶な表現こそが必要不可欠であり、バーンスタインの体臭がしようが、しつこい演奏であろうが、そのような些末なことは超名演の評価にいささかの瑕疵を与えるものではないと言えるのではないか。むしろ、本超名演に匹敵し得るのは、咽頭がんを患った後、健康状態のいい時にのみコンサートを開催していたテンシュテット&ロンドン・フィルによる命がけの渾身の超名演(1991年)だけであり、他の演奏は、到底足元にも及ばないと考える。併録の亡き子をしのぶ歌も超名演であり、バリトンのハンプソンの歌唱も最高のパフォーマンスを誇っていると高く評価したい。
バーンスタインは、マーラーの第9をビデオ作品も含め4度録音している。ニューヨーク・フィル盤(1965年)、ウィーン・フィル盤(1970年代のDVD作品)、ベルリン・フィル盤(1979年)、そして本コンセルトヘボウ・アムステルダム盤(1985年)があり、オーケストラがそれぞれ異なっているのも興味深いところであるが、ダントツの名演は本盤であると考える。それどころか、古今東西のマーラーの第9のあまたの演奏の中でもトップの座に君臨する至高の超名演と高く評価したい。マーラーの第9は、まぎれもなくマーラーの最高傑作だけに、様々な指揮者によって数々の名演が成し遂げられてきたが、本盤はそもそも次元が異なると言える。正に、本バーンスタイン盤こそは富士の山、他の指揮者による名演は並びの山と言ったところかもしれない。これに肉薄する往年の名演として、ワルター&ウィーン・フィル盤(1938年)があり、オーパスによって素晴らしい音質に復刻はされているが、当該盤は、多分に第二次世界大戦直前という時代背景が名演に伸し上げたと言った側面も否定できないのではないだろうか。マーラーの第9は、マーラーの交響曲の総決算であるだけに、その神髄である死への恐怖と闘い、それと対置する生への妄執と憧憬がテーマと言えるが、これを、バーンスタイン以上に表現し得た指揮者は他にはいないのではないか。第1楽章は、死への恐怖と闘いであるが、バーンスタインは、変幻自在のテンポ設定や思い切ったダイナミックレンジ、そして猛烈なアッチェレランドなどを大胆に駆使しており、その表現は壮絶の極みとさえ言える。これほど聴き手の肺腑を打つ演奏は他には知らない。第3楽章の死神のワルツも凄まじいの一言であり、特に終結部の荒れ狂ったような猛烈なアッチェレランドは圧巻のド迫力だ。終楽章は、生への妄執と憧憬であるが、バーンスタインの表現は濃厚さの極み。誰よりもゆったりとした急がないテンポにより、これ以上は求め得ないような彫の深い表現で、マーラーの最晩年の心眼を鋭く抉り出す。そして、このようなバーンスタインの壮絶な超名演に潤いと深みを付加させているのが、コンセルトヘボウ・アムステルダムによるいぶし銀の音色による極上の名演奏と言えるだろう。本盤で残念なのは録音がやや明瞭さに欠けるところであり、数年前のSHM−CD化によってもあまり改善されたとは言えなかった。ベルリン・フィル盤が既にリマスタリングされたのに、本盤が一向にリマスタリングされないのは実に不思議な気がする。同曲演奏史上最高の歴史的超名演であるだけに、今後、リマスタリングを施すとともに、シングルレイヤーによるSACD&SHM−CD化を図るなど更なる高音質化を大いに望みたい。
3 people agree with this review 2011/06/10
本盤は、バーンスタインがベルリン・フィルを指揮した唯一の演奏会の記録である。カラヤンがバーンスタインをベルリン・フィルの指揮台に立たせなかったとの説が横行しているが、私は、側近が親分であるカラヤンの気持ちを勝手に斟酌して、そのように仕向けたのではないかと考えている。比較のレベルが低すぎてカラヤンには大変申し訳ないが、我が国の某党の某幹事長のケースに酷似しているとも言える。しかも、カラヤンはこの時期、自分のレコーディング人生の最後を飾る作品として、ベルリン・フィルとともにマーラーの第9の究極の演奏を目指して、真剣に取り組んでいた。しかしながら、バーンスタインの同曲への解釈とカラヤンのそれとは北極と南極ほどに大きく異なる。そんな完全アウェイの中に、バーンスタインは果敢に飛び込んでいった。その結果、両者の試行錯誤がはっきりと聴き取れる演奏になった。バーンスタインは、あたかも不感症の女性のように、思い通りの音を出そうとしないベルリン・フィルをうなり声まで発して相当にいらいらしている様子が伺え、ベルリン・フィルもアンサンブルの乱れなどに、バーンスタインの大仰な指揮への戸惑いが見てとれる。このような指揮者とオーケストラの真剣勝負の格闘が、本盤に聴くような大熱演を生み出したと言えるだろう。正に、一期一会の奇跡の熱演である。しかしながら、本盤は、果たして繰り返して聴くに足りる演奏と言えるのかどうか。というのも、私は、ベルリン・フィルはともかく、バーンスタインが本演奏に決して満足していなかったのではないかと思うからである。本盤が発売されたのが、カラヤン没後バーンスタイン存命中ではなく、バーンスタインの没後2年も経ってからであるというのも、それを表しているのではないだろうか。バーンスタインのマーラーの第9の決定盤はあくまでもCOAとの1985年盤。本盤は大熱演であることは認めるが、バーンスタインのベストフォームとは到底言えず、あくまでも一期一会の記録として記憶にとどめておきたい。
3 people agree with this review
マーラーの交響曲第5番は、マーラーの数ある交響曲の中でも最も人気のある作品と言えるだろう。CD時代が到来する以前には、むしろ第1番や第4番が、LP一枚におさまることや曲想の親しみやすさ、簡潔さからポピュラリティを得ていたが、CD時代到来以降は、第5番が、第1番や第4番を凌駕する絶大なる人気を誇っていると言える。これは、CD1枚におさまる長さということもあるが、それ以上に、マーラーの交響曲が含有する魅力的な特徴のすべてを兼ね備えていることに起因するとも言えるのではないだろうか。先ずは、マーラー自身も相当に試行錯誤を繰り返したということであるが、巧みで光彩陸離たる華麗なオーケストレーションが掲げられる。次いで、マーラーの妻となるアルマ・マーラーへのラブレターとも評される同曲であるが、同曲には、葬送行進曲などに聴かれる陰鬱かつ激情的な音楽から、第4楽章における官能的とも言える極上の天国的な美しい音楽に至るまで、音楽の表情の起伏の幅が極めて大きいものとなっており、ドラマティックな音楽に仕上がっている点が掲げられる。このように魅力的な同曲だけに、古今東西の様々な指揮者によって、数々の個性的な名演が成し遂げられてきた。無慈悲なまでに強烈無比なショルティ盤(1970年)、官能的な耽美さを誇るカラヤン盤(1973年)、細部にも拘りを見せた精神分析的なシノーポリ盤(1985年)、劇的で命がけの豪演であるテンシュテット盤(1988年)、瀟洒な味わいとドラマティックな要素が融合したプレートル盤(1991年)、純音楽的なオーケストラの機能美を味わえるマーツァル盤(2003年)など目白押しであるが、これらの数々の名演の更に上を行く至高の超名演こそが、本バーンスタイン盤と言える。バーンスタインのアプローチは大仰なまでに濃厚なものであり、テンポの緩急や思い切った強弱、ここぞと言う時の猛烈なアッチェレランドの駆使など、マーラーが作曲したドラマティックな音楽を完全に音化し尽くしている点が素晴らしい。ここでのバーンスタインは、あたかも人生の重荷を背負うが如きマーラーの化身となったかのようであり、単にスコアの音符を音化するにとどまらず、情感の込め方には尋常ならざるものがあり、精神的な深みをいささかも損なっていない点を高く評価したい。オーケストラにウィーン・フィルを起用したのも功を奏しており、バーンスタインの濃厚かつ劇的な指揮に、適度な潤いと奥行きの深さを付加している点も忘れてはならない。
本盤にはプロコフィエフのピアノ協奏曲第2番とラヴェルのピアノ協奏曲がおさめられているが、両曲ともにピアニスト、指揮者、オーケストラの三拍子が揃った素晴らしい名演と高く評価したい。特に、優れているのはプロコフィエフの方だ。プロコフィエフのピアノ協奏曲では第3番があまりにも有名であり、第2番はその陰に隠れている存在に甘んじているが、本名演はそうした不当な評価を一変させるだけのインパクトがあるものと言える。第2番は、プロコフィエフがぺテルブルク音楽院在学中に作曲されたいわゆるモダニズムを追及していた時代の野心作であり、弾きこなすには超絶的な技量を要する楽曲だ。ユンディ・リの卓越した技量は本演奏でも冴えわたっており、小澤指揮のベルリン・フィルとの丁々発止のやり取りは、これぞ協奏曲を聴く醍醐味と言えるだろう。もっとも、ユンディ・リは技量一辺倒には陥っていない。とりわけ第3楽章において顕著であるが、ロシア風の抒情の表現にもいささかも不足はなく、その情感溢れる美しさには抗し難い魅力があると言えるところであり、ユンディ・リの表現力の幅の広さを大いに感じることが可能だ。他方、ラヴェルについては、本演奏だけを聴くと素晴らしい演奏には違いがないのだが、同曲にはフランソワやアルゲリッチ、ツィマーマン、エマールなどの個性的な名演が目白押しであり、それらと比較するとやや特徴がない無難な演奏になってしまっているように思われてならない。もっとも、それは高い次元での比較の問題であり、本演奏を名演と評価するのにいささかの躊躇もしない。前述のように、小澤&ベルリン・フィルは、協奏曲におけるピアニストの下支えとしては十分過ぎるくらいの充実した名演奏を繰り広げており、本名演に大きく貢献しているのを忘れてはならない。録音は、特にプロコフィエフについてはライヴ録音ではあるが、本盤でも十分に満足し得る音質であると言える。しかしながら、先日発売されたSHM−CD盤は、若干ではあるが音質がさらに鮮明になるとともに音場がやや幅広くなったように感じられるところだ。いまだ未入手で、ユンディ・リによる素晴らしい名演をできるだけ良好な音質で聴きたいという方には、SHM−CD盤の方の購入をお奨めしておきたい。
本盤にはプロコフィエフのピアノ協奏曲第2番とラヴェルのピアノ協奏曲がおさめられているが、両曲ともにピアニスト、指揮者、オーケストラの三拍子が揃った素晴らしい名演と高く評価したい。特に、優れているのはプロコフィエフの方だ。プロコフィエフのピアノ協奏曲では第3番があまりにも有名であり、第2番はその陰に隠れている存在に甘んじているが、本名演はそうした不当な評価を一変させるだけのインパクトがあるものと言える。第2番は、プロコフィエフがぺテルブルク音楽院在学中に作曲されたいわゆるモダニズムを追及していた時代の野心作であり、弾きこなすには超絶的な技量を要する楽曲だ。ユンディ・リの卓越した技量は本演奏でも冴えわたっており、小澤指揮のベルリン・フィルとの丁々発止のやり取りは、これぞ協奏曲を聴く醍醐味と言えるだろう。もっとも、ユンディ・リは技量一辺倒には陥っていない。とりわけ第3楽章において顕著であるが、ロシア風の抒情の表現にもいささかも不足はなく、その情感溢れる美しさには抗し難い魅力があると言えるところであり、ユンディ・リの表現力の幅の広さを大いに感じることが可能だ。他方、ラヴェルについては、本演奏だけを聴くと素晴らしい演奏には違いがないのだが、同曲にはフランソワやアルゲリッチ、ツィマーマン、エマールなどの個性的な名演が目白押しであり、それらと比較するとやや特徴がない無難な演奏になってしまっているように思われてならない。もっとも、それは高い次元での比較の問題であり、本演奏を名演と評価するのにいささかの躊躇もしない。前述のように、小澤&ベルリン・フィルは、協奏曲におけるピアニストの下支えとしては十分過ぎるくらいの充実した名演奏を繰り広げており、本名演に大きく貢献しているのを忘れてはならない。録音は、特にプロコフィエフについてはライヴ録音ではあるが、従来盤でも十分に満足し得る音質を誇っていた。しかしながら、今般のSHM−CD化によって、音質がさらに鮮明になるとともに音場がやや幅広くなったように感じられるところだ。いずれにしても、このような素晴らしい名演を、SHM−CDによる高音質で味わうことができるのを大いに歓迎したい。
Back to Top