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Review List of jasmine 

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     2025/03/24

    オーケストラの常任指揮者である以上にオペラハウスのカペルマイスターでありたかったカラヤンにとって《指環》の上演はライフワークともいうべき課題であった。最愛のオペラハウス=ウィーン国立歌劇場の総監督を辞任したカラヤンは、故郷のザルツブルクを舞台に理想のオペラ上演を目指して復活祭音楽祭を創設。その最初の演目として取り上げられたのが《指環》だった。ピットには世界最高のオーケストラ=ベルリン・フィルが入る。『ヨーロッパ音楽界の帝王』と称された世界一多忙な指揮者カラヤンが、ベルリン・フィルとの仕事一本に絞って活動を展開したこの時期(60年代半ばから椎間板の手術を受ける75年まで)を私はカラヤンの絶頂期と見ているが、ピークを迎えた天才指揮者が、その威信にかけて取り組んだ上演と並行して収録されたこの作品が悪かろうはずはないが、果たして、実にユニークな作品となった。

    これまでワーグナーの楽劇で聴くことがなかったオーケストラの精妙な響きから『室内学的』と評されるが、もちろんダイナミックな迫力も兼ね備えている。ドラマとしての性格よりも、純音楽的な表現が採られ、歌手の起用も、そうしたポリシーに則った独自の人選がなされている。

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     2025/01/11

    これは素晴らしいブラームスだ。ブラームスの交響曲は名曲だけに名盤も星の数ほど存在するが、エッシェンバッハ盤は最上位にランクされるものと言ってもよいのではないか? フルトヴェングラー、トスカニーニ、ワルター、カラヤン、ベーム、ザンデルリング、ハイティンクやヤンソンスといった定番的な名演も良いが、何かもっと個性的な、新鮮味のある演奏はないのか?という方にお勧めしたいのが、ドホナーニ/フィルハーモニア、ネルソンス/ボストンとこのエッシェンバッハ盤である。

     エッシェンバッハは、どんな作品であっても魂の籠った熱い演奏を聴かせてくれるが、ここではベルリン・コンツェルトハウス管弦楽団もやる気に満ち満ちていて、充実した音楽が鳴り響く。ウィーン・フィルやシュターツカペレ・ドレスデンの様な甘美な歌や優雅な調べはないが、ブラームスらしい骨っぽい重厚な響きが鳴り渡る。ベルリン・フィルやシカゴ響のような名技はないが、心を込めた献身的で気迫溢れる訴えかけがある。どれだけ『上手に』弾いたところで、『感心」はしても「感動」はしない。人が感動するのは『誠実さ』や『真剣さ』であることを教えてくれる忘れ難い名盤の誕生だ。

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     2024/12/09

    カラヤンがブルックナーに特別の愛着をもっていたことは明白で、とりわけ後期の交響曲と《テ・デウム》はコンサートでもしばしば取り上げ、複数回にわたりレコード、及び映像作品をリリースし、結果として交響曲全集も収録した。今でこそブルックナーはメジャーな演目として定着しているけれども、私がクラシック音楽を聞くようになった70年代には、まだマイナーな存在で、ブルックナーを振れるのはクナッパーツブッシュかシューリヒト、或いはヨッフムくらいのものとされていた。その後マタチッチ、朝比奈、ヴァント、スクロヴァチェフスキー達が加わったが、当時はフルトヴェングラーでさえ主情的過ぎるとして『亜流』扱いだった。しかし、実際には、カラヤンはキャリアのごく初期の段階からブルックナーを得意とし、44年にベルリン国立歌劇場管弦楽団とブルックナーの交響曲第8番をセッション録音している。残念ながら第1楽章が欠落しているものの同曲の最初のレコードではないだろうか? 47年10月に戦後初めてウィーン・フィルと公式のコンサートを開催することを許されるが、この際に取り上げたのも第8番だった。ベルリン・フィルの常任指揮者となりDGGとの新たなレコーディング契約を結んだ際本人が要望したのがブルックナーの作品の収録だったというが、ヨッフムとの計画がすでに組まれていた関係で通らず、ようやく実現したのが66年のこの第9番だったのである。ここにはその喜びが溢れる意欲的な表現がみられ、後の普遍的な演奏とは異なる溌剌とした性格が特徴となっている。第2楽章のリズミックなテンボもユニークだ。カラヤンの最終稿としては、驚異的な完成度を誇る75年の新盤を採るのが妥当であろうが、壮年期のカラヤンの気迫に満ちた快演にも抗し難い魅力がある。SACD化された機会に今一度耳を傾けたい名盤である。

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     2024/12/06

    カラヤンの全盛期(1974年)の《幻想》。1964年にも優れた演奏のレコードをリリースしているが、録音会場がダーレムのイエス・キリスト教会から本拠地のベルリン・フィルハーモニーザールに移行したのを受けての再録音と思われる。

    旧盤も気迫溢れる秀演だったが、新盤は更に徹底して磨きをかけ、唖然とするような名演が刻印された。最終楽章の鐘の音も甲高い『カーン』という響きのものではなく、もっと重たい『ゴーン』という響の鐘(電子的に造られた音のようだ)が用いられ、異色を放っている。

    とにかくオーケストラが上手い。練り上げられた弦楽器のサウンドが一糸乱れぬ動きをみせ、幻想的な世界を表出する。煌めくような木管楽器の音色が縦横無尽に明滅し、金管楽器は夢を引き裂くかのような激しさで咆哮する。名手揃いの打楽器群も鮮やかだ。世界最高のオーケストラの黄金時代の凄さを見せつけられるような壮絶な演奏が展開されている。

    録音も素晴らしい。ベルリン・フィルハーモニーザールの広い空間にオーケストラが立体的に配置され、トゥッティの部分の強音も飽和することがない。イエス・キリスト教会は残響音が美しいが、エア・ヴォリュームが小さいことからクライマックスでの混濁が生じ易いという難点があった。カラヤンが再録音に踏み切った理由は、その辺りにあるのではないか?

    問題は鐘の音だ。レヴュアーの皆さんには比較的好評のようだが、私は従来の鐘の音色の方がしっくりくる。ピッチも幾分甘いように思う。小澤征爾/ボストン響盤も鐘の音色はよいのだが、ピッチが明らかにズレている。ここでの鐘の音は重要だ。それだけが不満、と声を大にして言いたいが、評価自体は文句なしの5点満点。

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     2024/12/06

    作曲者から否定されたカラヤンの《ハルサイ》だが、複数回の録音を遺し、コンサートでもしばしば取り上げていたことからも愛着のほどが窺い知れる。初演時には大混乱に至ったという問題作だが、現在では古典的な作品の仲間入りをしたと言ってもよく、演奏様式も多岐にわたり、もはやアヴァンギャルドな性格を強調することもなくなった。

    かつてはピエール・ブーレーズのクールで分析的なスタイルとレナード・バーンスタインやズービン・メータのホットで野生的なスタイルがこの作品の代表的名盤とされていたが、その後オーケストラの技量も格段に向上し、コリン・デイヴィスやマイケル・ティルソン・トーマス、クラウディオ・アバド等のクラシカルな性格の演奏が登場し、カラヤンのレコードの再評価にも繋がったように思う。

    実際、実に見事な演奏だ。切り込むような弦楽器の強奏、金管楽器の咆哮、ティンバニの炸裂もあるが、予想外の展開というものはない。《バーバリズム》というのとはちょっと違う感じの名演だ。予めそこに在るべき音が鳴っている、と言ったらいいだろうか?その辺りが作曲者にはお気に召さなかったのかも知れない。

    旧盤の方が、些か艶かしい。新盤は、より古典的。カラヤンの創り出す音楽は、あくまでま美しい。こういう《ハルサイ》があってもいいと思う。

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     2024/12/06

    カラヤンのブルックナーは作曲者が譜面に記した音符を忠実に再現した、その意味ではもっともオーセンティックな演奏といえるものだが、カラヤンの特徴である『音価を保つ』、所謂レガート奏法によって磨き上げられ天国的な美しさが際立ってくることから、しばしば「ブルックナーにしては美しすぎる」とか「精神性に乏しい」などと批判されてきた。しかしながら本場ヨーロッパではその評価は頗る高く『まるで神の声を聞くようだ』(リッカルド・ムーティ)ど絶賛されてきた。私は70年に収録されたEMI盤によってブルックナーに開眼し、以来《ロマンティック》と《第七》の二曲に関しては、これを最上位の名盤と位置付けてきた。

    そんなカラヤンのDGGへの再録音がリリースされた時には、発売日にレコードを購入し待ちきれない思いで針を落としたのだが、その期待は失望へと変わった。落ち着きのない、何というか『力任せ』で、『せせこましい』印象が拭えない。旧盤の、天井に向かってどこまでも伸びていくような壮大さや艶やかなまでに優美な歌いくちとは全く違う『ぎこちなさ』が目立つ演奏に愕然とした。セッションは75年の4月21日に行われた。この内容でたった一日でセッションを終了させてしまったのか?どういうことか? これまでカラヤンのレコードを聴いてきて、このような経験は初めてだった。好き嫌いは別として、演奏のクォリティには執拗に拘ったカラヤンの演奏とは到底思えない。先に発売された第8番、更には第7番が総決算的な秀演だっただけに、一層不安が募った。よほど体調が優れなかったのか? 兎にも角にもセッションを早く切り上げてしまいたい、といった感じの中途半端な出来栄え。このレコードを聴いて以降、私はカラヤンのレコードに対する不信感を抱くようになった。それまでは、カラヤンの作品は保証書付と言っても良い、第一級の名演ばかりだった。

    従って、SACDとしてリイッシューされた際にも直ぐには食指が動かなかった。それでも購入することにしたのは、チャイコフスキーの交響曲全集の前例があったから。

    《ロマンティック》で大きな疑問符のつく不可解な演奏をしたカラヤンだが、その後の第9番、テ・デウムでは持ち直し、ヴェルディの《序曲集》やモーツァルトの《レクィエム》《戴冠ミサ曲》も優れた出来栄えだったので、一時的な現象なのかと思ったのだが、得意のチャイコフスキーの《第5交響曲》で、またもや不可思議な演奏が出現。まるで顕微鏡で拡大したかのような『超リアル』な『グロテスク』な表現がなされている。カラヤンの特徴だった、どれほど盛り上がってもエレガントさを失わない抜群のバランス感覚が損なわれ『力み』や『ぎこちなさ』が感じられる。収録日は75年10月22日。カラヤンは同年の末に椎間板の手術を受けた。

    私は、ブルックナーと同様、チャイコフスキーも70年代の演奏を最上位に置いていたので、チャイコフスキーの交響曲全集のSACDが出た時にも購入を躊躇った。しかし、SACD化の成果が目覚ましいという評判を知って『よもや?』と思い入手し聞き直してみた。50年前には『グロテスク』に感じた違和感は和らぎ、『超リアル』というよりは『緻密]かつ『克明』な描写という印象で、かつて感じたよりは遥かに自然な表現に思えた。ならば《ロマンティック》も再試聴してみる価値があるのではないかと考え、トライしてみた。

    やはり違った。旧EMI盤よりも早めのテンボながら、『せかせかした』感じや『力み』は目立たなかった。むしろ、楽曲本来の構造を作為なく表現しようとしているように聞こえた。私としては、霧の中から一筋の光明が差し、それが遥か彼方まで届かんばかりに響き渡る旧盤の美演に魅了されるが、一般的には、新盤でも名演として歓迎されるのではないか、と思う。70年代の日本プレスのLP盤の音はやや先鋭に過ぎ、空間的な広がりや奥行きを感じ難い性格で、特性的には優秀なのかも知れないが音楽的には欧州プレスのものに敵わないということを知ったのは、それから10年後、輸入LP専門店に通うようになってからのことだった。

    SACD盤によってかつての落胆は些かなりとも癒されたけれども、心身ともに正に絶頂期にあった旧EMI盤の優位は動かない。それでも正確無比の壮大な《第5番》やサヴァリッシュと並ぶ名演となった《第6番》が理想的なサウンドで聴ける喜びは大きい。評価は五つ星が妥当だろう。

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     2024/12/05

    カラヤンのブルックナーは、日本では永らく正当に評価されてこなかった。曰く『ブルックナーにしては美し過ぎる』『精神性に欠ける』。これらのレコードがリリースされた当時、ブルックナーが振れるのはクナッパーツブッシュかシューリヒト、ヨッフムか朝比奈といった限られた指揮者だけで、それ以外のものは亜流とされた。かのフルトヴェングラーでさえ、主情的に過ぎ、曲想を損ねていると評された。しかし本場ヨーロッパではカラヤンのブルックナーの評価は高く、『まるで神の声を聞くようだ』(リッカルド・ムーティ)と絶賛されていた。

    実際、カラヤンはキャリアのごく初期の段階からブルックナーを得意とし、重要なコンサート(アメリカ公演、日本公演等)でも取り上げていた。結果として交響曲は全曲をレコード化したが、とりわけ後期の三曲には強い愛着を持っていたようで、それぞれ複数回のセッション録音が存在する。

    このディスク(SACD)で聴ける演奏はベルリン・フィルとの二回目のセッション録音で、両者の絶頂期の、恐るべき完成度を誇る名盤だ。いずれも壮年期の意欲に満ちた、より個性的な快演があるが、ここでのコンセプトは各曲の構造を克明に描き切ろうというもの。ブルックナーの新たな《規範》を示さんという気概を感じる。楽曲のあるべき姿を歪みなく示すことで、自ずとその威容を明らかにしていこうといった演奏が展開されている。録音も、残響音を効果的に拾いつつ、オーケストラの奏でるサウンドをホール全体に響き渡らせた旧録音とは打って変わって、個々の楽器の音をしっかりと捉え、それらを緻密に組み上げていくというポリシーで臨んでいる。

    旧盤が『動的』な性格の快演を『マクロ的』に収録しているのに対して、新盤は『静的』な秀演を『ミクロ的』に刻印したと言えば分かり易いだろうか?

    どちらを採るかは悩ましいが、私は第7番は旧番を、第8番と第9番は新番を好む。

    最晩年にウィーン・フィルとライヴ収録したレコードも存在し、世評も高いが、私は採らない。紛れもないカラヤンとウィーン・フィルの名演ではあるが、少々緩い。功なり名をなした老将のみが浸れる《融通無碍の世界》に敬服するものの、かむての輝きは失われてしまった。一発勝負のコンサートなら感激するであろうが、繰り返し聴くのは辛い。カラヤンほどの巨匠にも成長期、絶頂期、衰退期があったのだ。

    絶頂期の最後の輝きを刻印した名盤として、広くお勧めしたい名作だ。

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     2024/12/04

    カラヤンのブルックナーは、日本では永らく正当な評価を得られずにいた。『ブルックナーにしては美し過ぎる』『精神性に欠ける』・・・。このレコードが発売された頃、ブルックナーを振れるのはクナッパーツブッシュかシューリヒト、ヨッフムか朝比奈くらいのもので、かのフルトヴェングラーでさえ亜流と断じられた。なかば神格化された巨人にしてこの扱いなのだから、カラヤンがいいなどと言おうものなら「解っとらん」と一喝されかねない状況だった。ずいぶん偏狭な論評が罷り通っていたものだが、本場ヨーロッパではカラヤンのブルックナーは『まるで神の声を聞くようだ』(リッカルド・ムーティ)と絶賛されていた。

    実際、カラヤンはキャリアのごく初期の段階からブルックナーを得意としており、アメリカ公演や来日公演でもプログラムに組み入れていた。結果として交響曲は全曲を収録したが、後期の三曲には愛着をもっていたようで、とりわけ第8番と第9番は、映像作品も含めて4回の商業録音を遺していて、いずれも聴き逃せない名演を展開している。

    第9番は66年と75年にセッション録音しているが、その違いや如何に? 66年の旧盤はDGGに対してブルックナー作品のレコード化を要望していながらなかなか実現せず、ようやく実現した喜びが溢れ出たかのような意欲的な演奏である。活力に満ちた『動的』な性格で、第2楽章の快活なテンポもユニークだ。それに対して75年の新盤はより普遍的。作品の構造を克明に描き出さんとしているようだ。荘厳な教会の威容を仰ぎ見るかのような、その意味では『静的』な性格。

    『静的』といっても迫力に欠けたり、盛り上がる部分で物足りないということではない。むしろ『揺るぎない』『動じない』演奏は巨大な建造物のように圧倒的なパワーを秘めている。

    壮年期の気迫溢れる快演をか、全盛期の完成度の高い秀演か、悩ましい選択だが、私は後ろ髪をひかれつつも新盤を採る。

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     2024/11/05

    これは素晴らしいレコードだ。ゼルキンならでは、セルならではの名演を聴くことが出来、大きな感動を覚える。録音もこの時期のライヴとしては上々の部類に入る。

     この独特の作品の名盤として名高いものを挙げると、古くはバックハウス/ベーム盤にルービンシュタイン/ライナー盤、ステレオの名盤としてはゼルキン/セル盤やギレリス/ヨッフム盤、ブレンデル/アバド盤などがあるが、私個人としては、断然ルプー/デ・ワールト盤を推したい。

     しかし、高度成長期(20世紀)のように、どれがベストか、決定盤は何か、といったような時代は終わった。聴き手は成熟を遂げ、それぞれの魅力を聴き分けられるようになった。数年前には小編成のオケとともに収録したアンドラーシュ・シフ盤がレコード・アカデミー賞を獲得した。時代はさらに下って、レコード芸術誌も廃刊となった(実に寂しい!)。

     そんな時代にこそ、今一度かつての名匠の仕事を振り返ってみるのも有意義ではないか?

     ゼルキンやセルという、巨匠と称される偉大な音楽家が活躍していた輝かしい時代の空気を味わうことが出来る記録だ。

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     2024/11/05

    グリーグのピアノ協奏曲の名盤というと私はラドゥ・ルプーとアンドレ・ブレヴィンを真っ先に思い起こすが、それに続くものというと、どうなんだろうか? リパッティのは古いし、リヒテルのは立派過ぎて北欧的というよりはロシア的だし・・・。

     グリーグの親しみ易く温かみのある、そして懐かしさを感じさせる音楽に適性あるピアニストとして、仲道 郁代は第一に指折られる存在であろう。自身、個人的にもっとも聞き返す機会の多い作品としてグリーグの叙情小曲集を挙げるというほどであるから優れた演奏がなされたとしても不思議はないのだが、果たして素晴らしい作品となった。

     近年、アリス=紗良・オットーがエサ=ベッカ・サロネンと録れた話題盤も出たので聴き比べたが、私は仲道に軍配を挙げたい。もちろんオットーも魅力的ではあるが、サロネンともども盛り上がるところで畳み掛ける勢いが強過ぎて、大袈裟に言うと、少々グロテスク。その意味では、リヒテル/マタチッチと同じ様なことになってしまった。過ぎたるは、なお及ばざるが如しという諺があるが、仲道は節度を守り、ハメを外すことがない。面白みには欠けるかもしれないが、空回りすることはない。

     それでいて、感動的な,内実を伴った演奏が出来るところが仲道の強みである。録音も含めて、同曲の代表的なレコードとして推薦したい。

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     2024/11/05

     かつてアルトゥーロ・ベネッティ・ミケランジェリの鮮やか極まりない名演に聴き惚れた《バラード第1番》。その後、これに勝る、乃至は匹敵する演奏に出会うことはなかった。ポリーニもツィンメルマンも素晴らしいけれど、あまりにも完璧なミケランジェリの前では、その名技に感心はしても、感動するには至らない。

     もうミケランジェリさえあれば十分、と思っていた私の目を開かせてくれたのは仲道だった。ミケランジェリが(ポリーニもツィンメルマンも)水も漏らさぬ見事なテクニックや計算され尽くした解釈といった、どちらかというと『外側』からの働きかけによって私を感服させたのに対し、仲道のショパンは、すっと心のうちに入り込み、このかけがえのない作品を弾く喜びを共有するかのような、ずっと身近な営みとして現れるのである。正に、我が事のように響くと言ったら良いだろうか? それだけに感銘の度合いは一際高い。

     無論《バラード第1番》に限ったことではなく、このアルバムに収められた全ての楽曲において、このことは当てはまる。収録は1990年の4月、松本市で行われた。もう30年も前のことだ。長い間、仲道の魅力に気づかずにいた。何ということか!

     録音も鮮明で、おそらく仲道が奏でた響きを捉えているのでは、と思われる。多くの人に聴いてもらいたい名盤だ。

     

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     2024/11/05

     ショパンのプレリュードといえばアルフレッド・コルトーの名演が思い出されるが、その後はポリーニ、アルゲリッチ、アシュケナージの見事なレコードに魅了されてきた。それぞれに個性的な演奏なのだが、コルトーのように楽曲のフォルムを歪めることはなく、時代の変遷を感じさせたものだった。

     それ以降、これらの名盤に代わって聴いてみたいと思うような演奏に出会うことはなかった。評判のグレゴリー・ソロコフの見事な演奏を知らないわけではないが、先に挙げた三人の名作を凌駕しているとは思わなかった。勿論、全てのレコードやコンサートに触れている訳ではないので、私が見逃しているのかも知れないが・・・。

     ところが、こんなに近くに、とんでもない名盤があった。

     録音のデータを見ると1991年8月27日から29日に仙台で収録されている。もう30年以上も前のことだが、当時は話題になったのだろうか? まったく知らなかった。

     《アルバムに寄せて》のなかで仲道自身が記している『ショパンはピアノという楽器の可能性を絶対に超えようとしない。しかし、最大限にその魅力を引き出している』(中略)『それは、すなわち、私のピアノへの挑戦、愛情と重なるのです』という表現そのままの演奏が刻印されている。

     久々に『心を撃たれる名演に出会った』という感動を味わった。

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     2024/10/01

    カラヤン得意の《ボエーム》のSACD盤が遂に発売となった。これまでブルーレイオーディオ付のCDがリリースされたことがあった(勿論購入した)が、SACD盤が出たならば、やはり注文することとなる。ベルリン・フィルのサウンドがワーグナー的であるとか、オーケストラ(カラヤン)が主張し過ぎるとか、いろいろと批判されることもあるようだが、この天下の名盤をもって《ボエーム》の代表盤とすることに、私は些かも躊躇しない。

     プッチーニには。そもそもある種独特の響きがあって、マーラー的、ドビュッシー的、時にはワーグナー的要素をも感じさせる。それは、カラヤンが振った場合だけではなく、シノーポリやセラフィンの演奏でも感じるもの。それがベルリン・フィルというドイツのオーケストラを起用したことによって顕在化していることは確かだが、私はそれをマイナスには感じない。ウィーン・フィルだったならば、当然もう少し淡い色彩になったであろうが、その代わりにこれほどの圧倒的な感銘には至らなかったのではないか?

     セラフィン盤ももちろん素晴らしい。しかし全盛期のパヴァロッティとフレーニの名唱、カラヤン(ベルリン・フィル!)の絶妙なサポート、それらを鮮明に捉えた録音は圧倒的な説得力で聴く者の心を揺さぶる。

     カラヤンという指揮者は共演する相手によってや演奏のスタイルを変化させる。生前『フルトヴェングラーかカラヤンか』の著者でベルリン・フィルのティンパニストだったテーリヒェンに「カラヤンは何回録音をしても基本的に演奏のスタイルは同一で、その違いは録音の良し悪しだけだ」などと断じられ、日本の評論家諸氏はこぞってそれに同調したが、私はその意見に与しない。カラヤンの作品に謙虚に耳を傾ければ明らかなように、オーケストラやソリストによって、或は録音会場や録音技術の違いによって、この指揮者は制作のコンセプトやポリシーを大きく変える。誰にでも解る卑近な例として、チャイコフスキー後期交響曲の71年のEMI盤と75〜77年のDGG盤が挙げられる。EMI盤がダーレムのイエス・キリスト教会で、クォドラフォニック(4CH)で収録されたのに対して75〜77年盤は本拠地ベルリン・フィルハーモニーザールでのステレオ録音で、前者のコンセプトが、個々の楽器の音を拾うよりもオーケストラのサウンドをホール全体に鳴り響かせる『マクロ的』乃至『開放的』な収録ポリシー、演奏スタイルも縦の線を合わせるよりも、音楽の流れを重視したホットでライヴな性格のものであるのに対し、後者は、個々の楽器の音を緻密に正確に捉える『求心的』な録音ポリシーで、演奏自体も譜面に記された音符を、まるで顕微鏡で観るかのような明晰な奏し方で彫塑するというスタイル。さらには、最晩年のウィーン・フィルとのDGG盤では、自身の心(魂)の叫びを赤裸々に刻印するというか、従来のスタイリッシュなイメージをかなぐり捨てるかのような壮絶な演奏が展開されている。これらを耳にして「ただ録音の良し悪しの違いだけだ」と言うなら、いったい何を聴いているのか?ということになる。同じチャイコフスキーのピアノ協奏曲でもリヒテルと共演した演奏とワイセンベルグとのもの、ベルマンとのもの、キーシンとのものとではカラヤンの採るスタンスはまったく異なり、リヒテルとは『競演』、ワイセンベルグとは『協演』、ベルマンとは『共演』、キーシンとは『教演』となる。

     話を《ボエーム》に戻す。おそらくカラヤンは、ウィーン・フィルと録音するなら「あのよう」にスカラ座と収録するなら「そのよう」に、ベルリン・フィルを起用するなら「このよう」に演奏するのであろう。そのどれが一番優れているか、という見方ではなく、それぞれの特徴を活かした演奏スタイル、録音ポリシーを採択するということを理解したうえで、その成果を楽しむのが、聴き手としてはもっとも賢明な鑑賞の仕方ではないかと思うのだが・・・。

     ほぼ同時期に同じレーベル(Decca)で制作された《ボエーム》と《蝶々夫人》。カラヤンが、片やベルリン・フィル、片やウィーン・フィルと使い分けているのは予め意図してのことと考えねばなるまい。ヴェルディ(EMI)でも《オテロ》と《トロヴトーレ》《ドン・カルロ》はベルリン・フィルで、《アイーダ》《仮面舞踏会》はウィーン・フィルだった。実に巧みな起用法ではないか?

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     2024/09/12

    1966年といえば、カラヤンがベルリン・フィルとともに1ヶ月かけて日本全国を回った、あの伝説的なツアーを挙行した年にあたる。まずは東京でベートーヴェン・チクルスを、その後、名古屋や大阪ばかりでなく、札幌、広島、福岡、さらには仙台や金沢、岡山、松山、高松でもコンサートを開催、空前絶後の楽旅となった。

     カラヤンはこの歴史的な来日公演を終え、今度はヨーロッパ各国を巡るツアーを断行、このCDは、その中の一夜の演奏会、同時期に開催されていたオランダ音楽祭に参加した際の記録であるが、全盛期のカラヤンの凄さが実感できる名演が刻印されている。

     カラヤンは55年にベルリン・フィルの常任指揮者に就任すると、翌56年にはウィーン国立歌劇場の音楽監督も受諾、すでに主席指揮者として活躍していた英国のフィルハーモニア管弦楽団やミラノ・スカラ座の音楽監督(ミラノ)と、まさにヨーロッパの主要なポストを兼任し、《ヨーロッパ音楽界の帝王》として君臨することとなる。この帝王時代、56年から64年までの10年間はカラヤンの《黄金時代》といってもよく、カラヤンが公私共にもっとも充実していた、もっとも幸福だった時代であろう。

     しかし、私は、カラヤンの全盛期はこの黄金時代ではなく、根っからのオペラ指揮者であったカラヤンが最愛のオペラ・ハウス=ウィーン国立歌劇場のカペルマイスターの座を辞任し、自ら理想とするオペラ上演を実現すべく、故郷のザルツブルグで復活祭音楽祭を創設した66年から椎間板の手術を受ける75年までの10年間と見ている。この1期間は、カラヤンが生涯のパートナーであったベルリン・フィルとの活動に特化した時代で、その蜜月関係を築くために、こうした壮大なツアーを企画し、夏のシーズン・オフの時期にオーケストラの主要メンバーを別荘のあるサンモリッツに招き行動をともにするなど、精力的に働きかけたことで知られる。

     こうした努力が結実し、カラヤン自身『今、私とベルリン・フィルは最高の状態にある』と豪語する《絶頂期》を迎えるのである。この10年間にリリースされたレコードにはただ一つの駄作も存在せず、すべてが人類の遺産との称すべき名作揃いである。

     しかし、こうしたライヴ盤を聴くにつけ、カラヤンも御多分に洩れずレコーディング・アーティストである以上に実演の人であり、全盛期のコンサートでは、他の追随を許さぬ凄まじい演奏を聴かせていたことを実感する。カラヤンのブルックナーというと、最晩年のウィーン・フィルとのライヴが名演の誉も高いが、ここでの凄演はそれに比肩するどころか、遥かに凌駕する圧倒的なオーラを発しており、聴き逃せない。

     今は入手困難とのことだが、なんとしても探し出して聴いてみてほしい。同年の来日時のライヴもよいが、録音状態も含めて、私は本盤を上位に置きたい。

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     2024/07/25

     カラヤンが本拠地ベルリ・フィルハーモニーザールで、満を辞して取り組んだモーツァルト。70年のEMI盤が、五日間連続して一気に収録されたのに対し、このDGG盤は75年から77年にかけて、一曲ずつ、慎重に録り貯められた。ベートーヴェンの交響曲全集と同じく、曲目によっては一年以上経ってから機会をあらためて録り直すといった周到な進め方がなされた。

     カラヤンは75年末に椎間板の手術を受けるが、その結果は必ずしも成功したとはいえず、亡くなるまでの間12回も入退院を繰り返すこととなった。時には真っ直ぐに歩くことも、じっと立っていることもままならないこともあったという。そうした深刻な事態は、集中力と忍耐力を要するセッション録音の出来栄えに多大な影響を及ぼすこととなるが、綿密な計画の上に組み上げられるオペラ全曲のセッションは別として、管弦楽曲のレコーディングでは例外的にベートーヴェンとモーツァルトの交響曲だけは、先に記したように、推敲に推敲を重ねるかのような方法が採択された。

     ベートーヴェンの場合は、60年代の《金字塔》とも称すべき名作をも過去のものとするかのような、カラヤンとベルリン・フィルが到達した理想の響きを刻印する奇跡的名演が遺されることとなったが、モーツァルトに関しては、そこまでの成果を挙げることは出来なかった。

     モーツァルトは難しい。ベートーヴェンの音楽が、その素晴らしい楽曲となって成立するまでの間、楽聖の頭と心を大いに悩ませたのとは対照的に、モーツァルトの作品は、この天才の閃きとともに、まるで泉が湧き出るかのように、完全なカタチで描き上げられたのである。作曲者自身のオリジナルの譜面を見ても、ベートーヴェンのスコアには幾度にも亘って書き直した痕跡が残されているのか確認できるが、モーツァルトのそれには、書き直した跡がない。

     興味深いのは、名匠カラヤンが、世界最高の楽団とともに、これまで何回演奏してきたか分からないほどの手練れの演目にもかかわらず、彫塑に彫塑を重ねて造り上げるという手法が、ベートーヴェンでは成功したのに、モーツァルトでは通用しなったということ。むしろ、全盛期のカラヤンが一筆で書き上げたかのようなEMI盤の演奏の方が、その本質を捉えているように思われる。無論、DGG盤が凡演だという訳ではないが、技能や技量だけでは如何ともし難いハードルがあって、全力でブチ当れば突破できる壁と違って、軽々と飛び越えて行くしかないといった感じだろうか?

     天才モーツァルトと故郷を同じくするカラヤン。その見事な
    演奏が展開されていることは認めるものの、私は、カラヤンのモーツァルトならば、70年のEMI盤をもって代表させたい。

     

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