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2 people agree with this review 2011/06/06
カラヤン&ベルリン・フィルの全盛時代は一般的に1960年代及び1970年代と言われている。この当時の弦楽合奏は鉄壁のアンサンブルと独特の厚みがあり、いわゆるカラヤンサウンドの基盤を形成するものであったと言える。しかしながら、蜜月状態にあったカラヤン&ベルリン・フィルも、ザビーネ・マイヤー事件の勃発によって大きな亀裂が入り、その後は修復不可能にまで両者の関係が拗れてしまったところである。本盤におさめられた演奏は、アイネ・クライネ・ナハトムジークが全盛時代末期のもの、ディヴェルティメント第15番が両者の関係が最悪の時期のものと言えるが、演奏を聴く限りにおいては、両演奏ともにそのような事件の影響を何ら感じさせないような、いわゆるカラヤンサウンド満載の演奏と言える。一糸乱れぬアンサンブルを駆使した重量感溢れる分厚い弦楽合奏は圧巻の迫力を誇っていると言えるところであり、カラヤンは、このような重厚な弦楽合奏に流れるようなレガートを施すことによって、曲想を徹底して美しく磨き抜いている。これによって、おそらくは両曲演奏史上最も重厚にして美しい演奏に仕上がっていると言える。古楽器奏法やピリオド楽器の使用が主流となりつつある今日においては、このようなカラヤンによる重厚な演奏を時代遅れとして批判することは容易である。しかしながら、ネット配信の隆盛によって新譜CDが激減し、クラシック音楽界に不況の嵐が吹き荒れている今日においては、カラヤンのような世紀の大巨匠が、特にディヴェルティメントのようなモーツァルトとしては一流の芸術作品とは必ずしも言い難い軽快な曲を、ベルリン・フィルの重量感溢れる弦楽合奏を使って大真面目に演奏をしていたという、クラシック音楽界のいわゆる古き良き時代(それを批判する意見があるのも十分に承知しているが)が少々懐かしく思われるのもまた事実であり、このような演奏を聴くとあたかも故郷に帰省した時のようにほっとした気持ちになるというのも事実なのだ。このように賛否両論はある演奏であると言えるが、私としては、両曲を安定した気持ちで味わうことができるという意味において、素晴らしい名演と高く評価したい。
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カラヤンがショスタコーヴィチの15曲ある交響曲の中で唯一演奏・録音したのは第10番のみだ。その理由は定かではないが、オイストラフがカラヤンに、第10番をショスタコーヴィチの交響曲の中で最も美しい交響曲だと推薦したという逸話も伝えられている。また、最も有名な第5番については、カラヤンがムラヴィンスキー&レニングラード・フィルの豪演を聴いて衝撃を受け、二度と指揮しないと誓ったとの説もまことしやかに伝えられている。そうした逸話などの真偽はさておき、カラヤンは第10番に相当の拘りと愛着を抱いていたようで、スタジオ録音を2度(1966年及び1981年)、ライブ録音を1度(1969年)行っている。いずれも素晴らしい名演であるが、演奏の完成度と言う意味においては、本盤におさめられた1981年盤を随一の名演と高く評価したいと考える。本演奏でのカラヤンは、一糸乱れぬ鉄壁のアンサンブルを駆使して、曲想を徹底的に美しく磨き抜く。加えて、ここぞという時のトゥッティの迫力も凄まじいもので、雷鳴のようなティンパニのトレモロは、殆ど悪魔的ですらある。金管楽器や木管楽器のテクニックも桁外れで、分厚い弦合奏の揃い方は圧巻の技量だ。これは、間違いなく、オーケストラ演奏の極致とも言うべき名演奏であり、かつて、レコード芸術誌において故小石忠男先生が使っておられた表現を借りて言えば、管弦楽の室内楽的な融合と評価したいと考える。同曲の音楽の内容の精神的な深みを追及した名演と言うことになれば、ムラヴィンスキー&レニングラード・フィルの名演(1976年盤)を第一に掲げるべきであるが、これだけの徹底した音のドラマを構築したカラヤンの名演との優劣は、容易にはつけられないのではないかと考える。録音は、1981年の録音ということもあって、本盤でも十分に満足し得る音質であるが、先日発売されたSHM−CD盤は、本盤よりも若干ではあるが音質が鮮明になるとともに音場が広くなったように感じられるところだ。いまだ未購入で、カラヤン&ベルリン・フィルによる超名演をできるだけ良好な音質で味わいたいという聴き手には、SHM−CD盤の購入をお奨めしておきたいと考える。
7 people agree with this review 2011/06/06
カラヤンがショスタコーヴィチの15曲ある交響曲の中で唯一演奏・録音したのは第10番のみだ。その理由は定かではないが、オイストラフがカラヤンに、第10番をショスタコーヴィチの交響曲の中で最も美しい交響曲だと推薦したという逸話も伝えられている。また、最も有名な第5番については、カラヤンがムラヴィンスキー&レニングラード・フィルの豪演を聴いて衝撃を受け、二度と指揮しないと誓ったとの説もまことしやかに伝えられている。そうした逸話などの真偽はさておき、カラヤンは第10番に相当の拘りと愛着を抱いていたようで、スタジオ録音を2度(1966年及び1981年)、ライブ録音を1度(1969年)行っている。いずれも素晴らしい名演であるが、演奏の完成度と言う意味においては、本盤におさめられた1981年盤を随一の名演と高く評価したいと考える。本演奏でのカラヤンは、一糸乱れぬ鉄壁のアンサンブルを駆使して、曲想を徹底的に美しく磨き抜く。加えて、ここぞという時のトゥッティの迫力も凄まじいもので、雷鳴のようなティンパニのトレモロは、殆ど悪魔的ですらある。金管楽器や木管楽器のテクニックも桁外れで、分厚い弦合奏の揃い方は圧巻の技量だ。これは、間違いなく、オーケストラ演奏の極致とも言うべき名演奏であり、かつて、レコード芸術誌において故小石忠男先生が使っておられた表現を借りて言えば、管弦楽の室内楽的な融合と評価したいと考える。同曲の音楽の内容の精神的な深みを追及した名演と言うことになれば、ムラヴィンスキー&レニングラード・フィルの名演(1976年盤)を第一に掲げるべきであるが、これだけの徹底した音のドラマを構築したカラヤンの名演との優劣は、容易にはつけられないのではないかと考える。録音は、1981年の録音ということもあって、本盤でも十分に満足し得る音質であるが、先日発売されたSHM−CD盤は、本盤よりも若干ではあるが音質が鮮明になるとともに音場が広くなったように感じられるところだ。いまだ未購入で、カラヤン&ベルリン・フィルによる超名演を、より良好な音質で味わいたいという聴き手には、SHM−CD盤の購入をお奨めしておきたい。
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4 people agree with this review 2011/06/06
本盤には、チャイコフスキーとドヴォルザークによる弦楽セレナードがおさめられているが、いずれも素晴らしい至高の名演と高く評価したい。録音は1980年であるが、これはカラヤン&ベルリン・フィルという黄金コンビが最後の輝きを見せた時期でもある。健康問題が徐々に顕在化しつつあったカラヤンと、長年にわたる独裁政権に辟易とし始めたベルリン・フィルとの関係は、1970年代後半頃から徐々に悪化しつつあったが、それでも1980年には、いまだ対立関係が表面化することはなく、少なくとも演奏の水準においては究極の到達点にあったとさえ言える。翌々年には、ザビーネ・マイヤー事件の勃発によって両者の関係が修復不可能にまで悪化することから、本演奏の録音のタイミングとしては、ベストの時期であったと言っても過言ではあるまい。本演奏においては、全盛期のベルリン・フィルの弦楽合奏がいかに桁外れに凄いものであったのかを思い知らされることになるのは必定だ。一糸乱れぬ鉄壁のアンサンブル、重量感溢れる肉厚の合奏、情感溢れる美しさの極みとも言える高弦の艶やかな響きなど、とても人間業とは思えないような超絶的な機能美を誇っていると言える。カラヤンの指揮も流麗なレガートを駆使して、これ以上は求め得ないような濃厚で耽美的な指揮を披露している。このように最高の指揮者と最強の弦楽合奏が生み出した音楽は、極上の美しさを湛えていると言えるだろう。両曲の演奏には、本演奏においてはいささか欠如している、ロシア風の強靭な民族色やボヘミア風のノスタルジックで素朴な抒情を求める聴き手も存在し、その線に沿った名演(チャイコフスキーについてはスヴェトラーノフ&ロシア国立交響楽団(1992年)、ドヴォルザークについてはクーベリック&バイエルン放送交響楽団(1977年ライヴ)など)も少なからず成し遂げられているが、オーケストラ演奏の極致とも言うべき圧倒的な音のドラマを構築したカラヤン&ベルリン・フィルの名演との優劣は、容易には付け難いのではないかと考える。
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6 people agree with this review 2011/06/06
カラヤンとツィマーマンが組んで行った唯一の協奏曲録音である。そもそもカラヤンが、協奏曲の指揮者として果たして模範的であったかどうかは議論の余地があるところだ。カラヤンは、才能ある気鋭の若手奏者にいち早く着目して、何某かの協奏曲を録音するという試みを何度も行っているが、ピアニストで言えばワイセンベルク、ヴァイオリニストで言えばフェラスやムター以外には、その関係が長続きしたことは殆どなかったと言えるのではないだろうか。ソリストを引き立てるというよりは、ソリストを自分流に教育しようという姿勢があったとも考えられるところであり、遺された協奏曲録音の殆どは、ソリストが目立つのではなく、全体にカラヤン色の濃い演奏になっているとさえ感じられる。そのような帝王に敢えて逆らおうとしたポゴレリチが練習の際に衝突し、コンサートを前にキャンセルされたのは有名な話である。本盤におさめられた演奏も、どちらかと言えばカラヤン主導による演奏と言える。カラヤンにとっては、シューマン、グリーグのいずれのピアノ協奏曲も既に録音したことがある楽曲でもあり、当時期待の若手ピアニストであったツィマーマンをあたたかく包み込むような姿勢で演奏に望んだのかもしれない。特に、オーケストラのみの箇所においては、例によってカラヤンサウンドが満載。鉄壁のアンサンブルを駆使しつつ、朗々と響きわたる金管楽器の咆哮や分厚い弦楽合奏、そしてティンパニの重量感溢れる轟きなど、これら両曲にはいささか重厚に過ぎるきらいもないわけではないが、オーケストラ演奏の極致とも言うべき圧倒的な音のドラマの構築に成功していると言える。カラヤンの代名詞でもある流麗なレガートも好調であり、音楽が自然体で滔々と流れていくのも素晴らしい。ツィマーマンのピアノも明朗で透明感溢れる美しい音色を出しており、詩情の豊かさにおいてもいささかの不足はなく、とりわけ両曲のカデンツァは秀逸な出来栄えであるが、オーケストラが鳴る箇所においては、どうしてもカラヤンペースになっているのは、若さ故に致し方がないと言えるところである。もっとも、これら両曲の様々な演奏の中でも、重厚さやスケールの雄渾さにおいては本演奏は際立った存在と言えるところであり、本演奏を両曲のあらゆる演奏の中でも最も壮麗な名演と評価するのにいささかも躊躇するものではない。本盤は1981〜1982年の録音であり、本盤でも十分に満足し得る音質であると言える。しかしながら、先日、特にピアノとの相性が抜群のSHM−CD盤が発売されたが、音質がより鮮明になるとともに、音場が広くなったと言えるところである。さすがにSACD盤ほどではないが、いまだ未購入の方で、本名演をより鮮明な音質で味わいたいという聴き手には、SHM−CD盤の購入をお奨めしたい。
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3 people agree with this review 2011/06/06
バーンスタインの芸風は、1980年代に入ってから大きく変化したように思われる。テンポが著しく遅くなるとともに、表現は雄弁できわめて大仰なものとなったからである。こうした変化は、バーンスタインの健康の衰えによるものなのか、それとも晩年になって感情移入の度合いが高くなってきたためなのか定かではないが、いずれにしても、その変化の大きさは、常識をはるかに超えているとさえ言えるだろう。バーンスタインには、熱烈な愛好者も多く存在しており、そのような者からすれば、かかる演奏を持って、晩年になって新境地を開いたとか、スケールが雄大になったとか、あるいは真の巨匠になったなどと評価するのであろう。しかしながら、一般の愛好者の中には、とてもついていけないと感じる者も相当数いるのではないだろうか。かく言う私もその一人である。マーラーや、精神分裂気質がマーラーと似通っているシューマンの楽曲の演奏については、私は高く評価している。それどころか、特にマーラーについては、バーンスタインこそは史上最高のマーラー指揮者として高く評価しているところだ。しかしながら、その他の作曲家による大半の楽曲の演奏については、雄弁であるが内容は空虚。スケールはやたら大きいが、いわゆるウドの大木の誹りは免れないのではないかと考えている。本盤におさめられたドヴォルザークの第9も、そのようなバーンスタインの欠点が露骨にあらわれた凡演と言えるだろう。バーンスタインは、最晩年になって、あらゆる楽曲がマーラー作曲の楽曲のように感じるようになったのであろうか。粘ったような進行や表情過多とも言える大仰さはほとんど場違いな印象を与えるところであり、とりわけ第2楽章のあまりにも前に進んで行かない音楽にはほとほと辟易とさせられた。バーンスタインは、1962年にニューヨーク・フィルと同曲を録音しているが、そちらの方がよほど優れた演奏であり、いかにもヤンキー気質の力づくの箇所もないわけではなく名演と評価するには躊躇するが、若武者ならではの爽快な演奏であると言える。本盤での救いは、併録のスラヴ舞曲集であろう。これとて、大仰さが気にならないわけではないが、交響曲よりはよほどまともな演奏と言える。いずれにしても、本盤の評価としては、スラヴ舞曲集がややまともな演奏であることを踏まえ、交響曲の演奏の評価は★1つではあるが、★2つの評価とさせていただくこととする。
3 people agree with this review
バーンスタインは、チャイコフスキーの第6をマーラーの第6と勘違いしているのであろうか。確かに、同曲には「悲愴」と言う愛称が付いてはいるがそもそも「悲劇的」とは異なる。しかも、もっと大事なことは、チャイコフスキーはマーラーではないということである。最晩年のバーンスタインの演奏には、このような勘違いの演奏が極めて多かったと言わざるを得ない。かかる勘違いの演奏は、本盤と同時に発売されたドヴォルザークの第9、モーツァルトのレクイエム、ショスタコーヴィチの第7、シベリウスの第2など、枚挙にいとまがないほどである。同時期に録音されたマーラーの交響曲や歌曲の一連の演奏は、いずれもそれぞれの楽曲の演奏史上最高の超名演であるにもかかわらず、その他の作曲家による大半の楽曲の演奏に際しては、とても同一の指揮者による演奏とは思えないような体たらくぶりであると言える。バーンスタインは、このような勘違いの演奏を意図して行ったのか、それとも好意的に解釈して、健康悪化によるものなのかはよくわからないが、いずれにしても、これらの演奏の数々は、バーンスタインとしても不名誉以外の何物でもないと考えられる。本盤の「悲愴」の演奏も、粘ったようなリズムで少しも先に進んでいかない音楽であるが、その大仰さが例によって場違いな印象を与える。スケールはやたら肥大化しているが、内容はきわめて空虚にして浅薄。正にウドの大木の最たるものと言えるだろう。とりわけ終楽章の殆ど止まってしまうのではないかと思われるような超スローテンポにはほとほと辟易とさせられてしまった。もちろん、バーンスタインには熱烈な支持者がいることから、このような演奏をスケールが雄大であるとか、巨匠風の至芸などと褒めたたえたりするのであろうが、一般の愛好者の中には、私のようにとてもついていけないと感じる者も多いのではないだろうか。いずれにしても、本盤の評価としては、大変残念ではあるが★1つの評価とさせていただくこととしたい。
バーンスタインは、チャイコフスキーの第6をマーラーの第6と勘違いしているのであろうか。確かに、同曲には「悲愴」と言う愛称が付いてはいるがそもそも「悲劇的」とは異なる。しかも、もっと大事なことは、チャイコフスキーはマーラーではないということである。最晩年のバーンスタインの演奏には、このような勘違いの演奏が極めて多かったと言わざるを得ない。かかる勘違いの演奏は、本盤と同時に発売されたドヴォルザークの第9、モーツァルトのレクイエム、ショスタコーヴィチの第7、シベリウスの第2など、枚挙にいとまがないほどである。同時期に録音されたマーラーの交響曲や歌曲の一連の演奏は、いずれもそれぞれの楽曲の演奏史上最高の超名演であるにもかかわらず、その他の作曲家による大半の楽曲の演奏に際しては、とても同一の指揮者による演奏とは思えないような体たらくぶりであると言える。バーンスタインは、このような勘違いの演奏を意図して行ったのか、それとも好意的に解釈して、健康悪化によるものなのかはよくわからないが、いずれにしても、これらの演奏の数々は、バーンスタインとしても不名誉以外の何物でもないと考えられる。本盤の「悲愴」の演奏も、粘ったようなリズムで少しも先に進んでいかない音楽であるが、その大仰さが例によって場違いな印象を与える。スケールはやたら肥大化しているが、内容はきわめて空虚にして浅薄。正にウドの大木の最たるものと言えるだろう。とりわけ終楽章の殆ど止まってしまうのではないかと思われるような超スローテンポにはほとほと辟易とさせられてしまった。もちろん、バーンスタインには熱烈な支持者がいることから、このような演奏をスケールが雄大であるとか、巨匠風の至芸などと褒めたたえたりするのであろうが、一般の愛好者の中には、私のようにとてもついていけないと感じる者も多いのではないだろうか。本盤の救いは併録のイタリア奇想曲であろう。こちらの方は、例によって大仰な表現ではあるが、悲愴のような凡演ではなく、濃厚な味わいのある好演と評価するのにいささかも躊躇するものではない。いずれにしても、本盤の評価としては、「悲愴」の凡演によって★1つとするところではあるが、イタリア奇想曲の好演を加味して、★2つの評価とさせていただくこととする。
1 people agree with this review 2011/06/06
本盤にはサン・サーンスの交響曲第3番とデュカスの交響詩「魔法使いの弟子」のフランス音楽の中でも特に有名な曲がおさめられているが、いずれも素晴らしい名演と高く評価したい。本演奏を聴いていの一番に思い浮かぶ感想は、「巧い」、「凄い」、そして「楽しい」である。このような感想は、深遠な内容を有する独墺系の作曲者などの交響曲等の演奏では芳しいものとは言えないが、本盤の両曲のように旋律の美しさや標題音楽の面白さが主眼の楽曲では、最高の賛辞と言えるのではないだろうか。レヴァインは、世界一の名人揃いのオーケストラであるベルリン・フィルを率いて、それこそ管弦楽による豪華なご馳走を提供してくれていると言えるだろう。サン・サーンスのオルガン付きの華麗なるオーケストレーションの面白さやデュカスの音楽の楽しさを、聴き手がこれほどまでにわくわくした気持ちで味わうことができる演奏は他にはあるまい。ベルリン・フィルの卓越した技量は唖然とする「巧さ」であり、とりわけサン・サーンスの交響曲第3番の終結部のオルガンを伴った大音響のド迫力は「凄い」の一言。デュカスの交響詩「魔法使いの弟子」は、あたかも魔法使いの弟子があわてふためくシーンが思い浮かぶほどの「楽しい」演奏に仕上がっていると言える。このような演奏を聴いていると、レヴァインの類稀なる音楽性の豊かさとともに、エンターテイナーとしての高い資質を痛感させられるところだ。なお、ベルリン・フィルによるサン・サーンスの交響曲第3番の演奏としては、本演奏の数年前に録音されたカラヤン盤(1981年)があるが、そちらは楽曲の魅力よりもカラヤンの個性が全面に出た演奏であり、「巧さ」や「凄さ」においては本演奏とほぼ同格の名演であるが、「楽しさ」においては本演奏の方がより優れていると言えるのではないだろうか。録音は、本盤でも十分に満足できる音質であると言えるが、先日発売されたSHM−CD盤は、本盤よりも若干ではあるが音質が鮮明になるとともに、オルガンの重低音による音場の奥行きが幅広くなったと言える。いまだ未購入で、レヴァインによる本名演をできるだけ良好な音質で味わいたいという聴き手には、SHM−CD盤の購入を是非ともお奨めしておきたい。
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0 people agree with this review 2011/06/06
本盤にはサン・サーンスの交響曲第3番とデュカスの交響詩「魔法使いの弟子」のフランス音楽の中でも特に有名な曲がおさめられているが、いずれも素晴らしい名演と高く評価したい。本演奏を聴いていの一番に思い浮かぶ感想は、「巧い」、「凄い」、そして「楽しい」である。このような感想は、深遠な内容を有する独墺系の作曲者などの交響曲等の演奏では芳しいものとは言えないが、本盤の両曲のように旋律の美しさや標題音楽の面白さが主眼の楽曲では、最高の賛辞と言えるのではないだろうか。レヴァインは、世界一の名人揃いのオーケストラであるベルリン・フィルを率いて、それこそ管弦楽による豪華なご馳走を提供してくれていると言えるだろう。サン・サーンスのオルガン付きの華麗なるオーケストレーションの面白さやデュカスの音楽の楽しさを、聴き手がこれほどまでにわくわくした気持ちで味わうことができる演奏は他にはあるまい。ベルリン・フィルの卓越した技量は唖然とする「巧さ」であり、とりわけサン・サーンスの交響曲第3番の終結部のオルガンを伴った大音響のド迫力は「凄い」の一言。デュカスの交響詩「魔法使いの弟子」は、あたかも魔法使いの弟子があわてふためくシーンが思い浮かぶほどの「楽しい」演奏に仕上がっていると言える。このような演奏を聴いていると、レヴァインの類稀なる音楽性の豊かさとともに、エンターテイナーとしての高い資質を痛感させられるところだ。なお、ベルリン・フィルによるサン・サーンスの交響曲第3番の演奏としては、本演奏の数年前に録音されたカラヤン盤(1981年)があるが、そちらは楽曲の魅力よりもカラヤンの個性が全面に出た演奏であり、「巧さ」や「凄さ」においては本演奏とほぼ同格の名演であるが、「楽しさ」においては本演奏の方がより優れていると言えるのではないだろうか。録音は、従来盤でもなかなかの音質を誇っていたが、今般のSHM−CD化によって音質がさらに鮮明になるとともに、オルガンの重低音による音場の奥行きが幅広くなった。いずれにしても、レヴァインによる素晴らしい名演を、SHM−CDによる高音質で味わうことができるのを大いに歓迎したい。
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5 people agree with this review 2011/06/05
アバドは、ベルリン・フィルの芸術監督に就任するまでの間は、持ち味である豊かな歌謡性と気迫溢れる圧倒的な生命力によって素晴らしい名演の数々を成し遂げていた。しかしながら、ベルリン・フィルの芸術監督に就任後は、なぜかそれまでとは別人のような借りてきた猫のように大人しい演奏に終始するようになってしまった。前任者であるカラヤンを意識し過ぎたせいか、はたまたプライドが高いベルリン・フィルを統御するには荷が重すぎたのかはよくわからないが、そうした心労が重なったせいか、大病を患うことになってしまった。ところが、皮肉なことに、大病を克服し芸術監督退任間近になってからは、凄味のある素晴らしい名演の数々を聴かせてくれるようになった。最近発売されるアバドのCDは、いずれも円熟の名演であり、紛れもなく現代最高の指揮者と言える偉大な存在であると言える。それはさておきアバドは、ベルリン・フィルとともにベートーヴェンの交響曲全集を2度完成させている。正確に言うと、第9だけは重複しているのだが、第1〜8番の8曲については別の演奏であり、1度目は前述の大病を患う直前のスタジオ録音、そして2度目は大病を克服した直後のローマでのライヴ録音(DVD作品のCD化)となっている。要は、第9番だけは最初の全集におさめられたライヴ録音をそのまま採用しているということであり、アバドはベルリン・フィルとの最初の全集の中でも、第9番だけには自信を持っていたということを伺い知ることが出来るところだ。本盤におさめられたベートーヴェンの交響曲全集は、アバド&ベルリン・フィルによる最初の全集だ。このうち、第1番〜第6番については、前述のような低調なアバドによるものであり、2度目の録音を大病克服直後に行ったことからしても、アバド自身もあまり満足していなかったのではないかと考えられる。最新の研究成果を盛り込んだペーレンライター版を使用したところは、いかにもアバドならではと言えるが、記者の質問に対して版の問題は他に聞いてくれと答えたという芳しからざる噂もあり、実際のところ、アバドが自らの演奏に版の問題をどのように反映させたのかはよくわからないところだ。いずれにしても、第1番〜第6番については良くも悪しくもアバド色の濃いベートーヴェンと言えるだろう。フルトヴェングラーやカラヤン時代の特徴であった重量感溢れる重厚な音色がベルリン・フィルから完全に消え失せ、いかにも軽やかな音色が全体を支配していると言ったところだ。かつて、とある影響力の大きい某音楽評論家が自著において、本全集のエロイカの演奏を「朝シャンをして香水までつけたエロイカ」と酷評しておられたが、かかる評価が正しいかどうかは別として、少なくとも古くからのクラシック音楽ファンには許しがたい演奏であり、それこそ「珍品」に聴こえるのかもしれない。私としても、さすがに許しがたい演奏とまでは考えていないが、好き嫌いで言えば決して好きになれない軽妙浮薄な演奏と言わざるを得ない。もっとも、前述のように、近年のピリオド楽器や古楽器奏法による演奏を先取りするものと言えるが、天下のベルリン・フィルを指揮してのこのような軽妙な演奏には、いささか失望せざるを得ないというのが正直なところである。前々任者フルトヴェングラーや前任者カラヤンなどによる重厚な名演と比較すると、長いトンネルを抜けたような爽快でスポーティな演奏と言えるが、好みの問題は別として、新時代のベートーヴェンの演奏様式の先駆けとなったことは否定し得ないと言える。前述のように、決して私の好みの演奏ではないが、そうした演奏の新鮮さを加味して、第1番〜第6番については★3つの評価が精いっぱいといったところだ。ところが、第7番については、第6番までとは異なり、アバドによるベートーヴェンとしては少なくとも軽妙浮薄とまでは言い切れないのではないだろうか。もっとも、同曲の過去の名演、例えばフルトヴェングラー&ウィーン・フィル(1950年)、クレンペラー&ニューフィルハーモニア管(1968年)、さらにはカラヤン&ベルリン・フィル(1978年ライブ(パレクサ))などと比較すると、さすがに音の重心は低いとは言い難い。もっとも、本演奏では、ベルリン・フィルの音色にもかつての伝統的な重厚な音色の残滓を聴くことが可能であるとともに、アバドならではの豊かな歌謡性が演奏全体に独特の艶やかさを付加しており、アバド&ベルリン・フィルによるベートーヴェンの交響曲の演奏としては、後述の第8番や第9番に次いで、佳演と評価するのにいささかの躊躇もするものではない。次いで、第8番については、楽曲の性格も多分にあるとは思うが、アバドの演奏にも第7番以上に違和感を感じるところがない。フルトヴェングラーなどかつての大指揮者たちが名演を遺していないことも功を奏しているのかもしれないが、それ以上にアバドによる歌謡性豊かな指揮が、往年のワインガルトナーによる名演の如き極上のワインのような味わいを演奏全体に付加するのに成功しており、少なくとも、アバドによるベートーヴェンの交響曲演奏の中では、前述の第7番を凌駕するとともに、後述の第9番と並んで名演と評価してもいいのではないだろうか。そして第9番であるが、これは本全集中の白眉とも言うべき至高の名演だ。全体を約62分という、第9番としては相当に早いテンポで演奏しているが、せかせかした印象をいささかも与えることがなく、トゥッティに向けて畳み掛けていくような力感溢れる気迫とともに、どこをとっても情感の豊かさと歌謡性を失うことがないのが素晴らしい。特に、第1番から第6番では軽妙さだけが際立ったベルリン・フィルも、この第9番においては、さすがにフルトヴェングラーやカラヤンなどの往年の指揮者による重厚な演奏にはかなわないものの、倍管にしたことも多分にあるとは思うが、重心の低い奥行きのある音色を出しているのが素晴らしい。特に、終楽章の合唱の壮麗さは抗し難いほどの美しさを誇っており、これは世界最高峰とも称されるスウェーデン放送合唱団の起用が見事に功を奏していると言える。独唱陣もいずれも素晴らしい歌唱を披露しており、スウェーデン放送合唱団とともにエリック・エリクソン室内合唱団も最高のパフォーマンスを示していると言えるだろう。本全集については、すべての交響曲についてDVD−audio盤が発売されていたが廃盤になってしまった。おそらくは、それがベストの音質なのであろうが、現在では入手難という状況にある。したがって、現在では、先日発売されたSHM−CD盤がベストの音質であると言える。本全集よりも、若干ではあるがSHM−CD盤の方が音質が鮮明になるとともに、音場が幅広くなったと言えるが、本盤でも申し分のない音質を誇っており、仮に本盤を所有しているのであれば、わざわざSHM−CD盤に買い替える必要はないものと考える。いずれにしても、本全集全体の評価としては、第8番及び第9番が名演であることや、その後の演奏に与えた影響等を考慮して、★4つの評価とさせていただくこととする。
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0 people agree with this review 2011/06/05
アバドは、ベルリン・フィルの芸術監督に就任するまでの間は、持ち味である豊かな歌謡性と気迫溢れる圧倒的な生命力によって素晴らしい名演の数々を成し遂げていた。しかしながら、ベルリン・フィルの芸術監督に就任後は、なぜかそれまでとは別人のような借りてきた猫のように大人しい演奏に終始するようになってしまった。前任者であるカラヤンを意識し過ぎたせいか、はたまたプライドが高いベルリン・フィルを統御するには荷が重すぎたのかはよくわからないが、そうした心労が重なったせいか、大病を患うことになってしまった。ところが、皮肉なことに、大病を克服し芸術監督退任間近になってからは、凄味のある素晴らしい名演の数々を聴かせてくれるようになった。最近発売されるアバドのCDは、いずれも円熟の名演であり、紛れもなく現代最高の指揮者と言える偉大な存在であると言える。それはさておきアバドは、ベルリン・フィルとともにベートーヴェンの交響曲全集を2度完成させている。正確に言うと、第9だけは重複しているのだが、第1〜8番の8曲については別の演奏であり、1度目は前述の大病を患う直前のスタジオ録音、そして2度目は大病を克服した直後のライヴ録音となっている。本盤におさめられた第1番及び第2番は、1度目の全集に含まれるもの。演奏自体は前述のような低調なアバドによるものであり、2度目の録音を大病克服直後に行ったことからしても、アバド自身もあまり満足していなかったのではないかと考えられる。最新の研究成果を盛り込んだペーレンライター版を使用したところは、いかにもアバドならではと言えるが、記者の質問に対して版の問題は他に聞いてくれと答えたという芳しからざる噂もあり、実際のところ、アバドが自らの演奏に版の問題をどのように反映させたのかはよくわからないところだ。本演奏を聴くと、アバドならではの歌謡性は豊かであるが、非常に軽やかな演奏という印象だ。これは、近年のピリオド楽器や古楽器奏法による演奏を先取りするものと言えるが、天下のベルリン・フィルを指揮してのこのような軽妙な演奏には、いささか失望せざるを得ないというのが正直なところである。前々任者フルトヴェングラーや前任者カラヤンなどによる重厚な名演と比較すると、長いトンネルを抜けたような爽快でスポーティな演奏と言えるが、好みの問題は別として、新時代のベートーヴェンの演奏様式の先駆けとなったことは否定し得ないと言える。決して私の好みの演奏ではないが、そうした演奏の新鮮さを加味して★3つとさせていただくこととする。なお、本演奏については、他の交響曲も含めDVD−audio盤が発売されていたが廃盤になってしまった。おそらくは、それがベストの音質なのであろうが、それがかなわない以上は先日発売されたSHM−CD盤で満足せざるを得ないだろう。もっとも、本盤と比較すると、SHM−CD盤の方が 若干ではあるが音質が鮮明になるとともに、音場が幅広くなったと言えるところであり、そうした点については評価したいと考える。
アバドがベルリン・フィルとともにベートーヴェンの交響曲全集の録音を開始したのは、芸術監督に就任後10年近く経ってからである。その理由としては、芸術監督就任の少し前にウィーン・フィルと全集を録音していたのが何よりも大きいとは思うが、ベルリン・フィルを完全に掌握するのを待っていたという側面もあったのではないだろうか。前任のカラヤンも、ベートーヴェンの交響曲全集の録音を開始したのは芸術監督就任から10年近く経ってからであったことを考慮に入れれば、これは天下のベルリン・フィルの芸術監督の宿命と言えるのかもしれない。いずれにしても、本演奏は、良くも悪しくもアバド色の濃いベートーヴェンと言えるだろう。フルトヴェングラーやカラヤン時代の特徴であった重量感溢れる重厚な音色がベルリン・フィルから完全に消え失せ、いかにも軽やかな音色が全体を支配していると言ったところだ。かつて、とある影響力の大きい某音楽評論家が自著において、本演奏を「朝シャンをして香水までつけたエロイカ」と酷評しておられたが、かかる評価が正しいかどうかは別として、少なくとも古くからのクラシック音楽ファンには許しがたい演奏であり、それこそ「珍品」に聴こえるのかもしれない。私としても、さすがに許しがたい演奏とまでは考えていないが、好き嫌いで言えば決して好きになれない軽妙浮薄な演奏と言わざるを得ない。しかしながら、最新の研究成果を反映させたペンライター版の使用による本演奏は、近年主流の古楽器奏法やピリオド楽器の使用による演奏の先駆けとも言えるところであり、その意味においては、好き嫌いは別として一定の評価をせざるを得ないのではないかと考えている。録音は本盤でも十分に満足できる音質であるが、先日発売されたSHM−CD盤は、若干ではあるが音質がさらに鮮明になるとともに、音場が幅広くなったように思われる。かつて発売されていたDVD−audio盤が廃盤ということを考慮すれば、現時点ではSHM−CD盤がベストの音質になるのではないかと考えられる。いずれにしても、本演奏のその後の演奏に与えた影響を加味して、少々甘いと考えるが★3つの評価とさせていただくこととしたい。
本盤におさめられたベートーヴェンの第5や田園を聴いていると、ベルリン・フィルの音色の前任のカラヤン時代からのあまりの変わりように大変驚かされる。アバドがベルリン・フィルの芸術監督に就任してから10年近く経った頃の録音でもあり、その間にカラヤン時代の名うての奏者の大半が代替わりしたのも大きいと言えるのかもしれない。それにしても本演奏は、フルトヴェングラーはもとより、カラヤンによる重厚な演奏とは一味もふた味も違う軽妙な演奏である。その音色はカラフルという表現が当てはまるほどで、南国イタリアの燦々と降り注ぐ陽光を思わせるような明るい響きが支配していると言える。アバドが1980年代にウィーン・フィルと録音したベートーヴェンの交響曲全集には若干なりとも存在したドイツ風の重厚な響きは、もはや本演奏では完全に一掃されており、良くも悪しくもアバドの個性が完全に発揮された演奏ということになるのであろう。このような軽妙浮薄な演奏を、天下のベルリン・フィルを指揮して成し遂げたということについては、古くからのクラシック音楽ファンからすれば許し難いことのように思われるのかもしれない。私としてはさすがに許し難い演奏とまでは思わないが、好き嫌いで言えば到底好きになれない演奏と言わざるを得ない。しかしながら、最新の研究成果を採り入れたペンライター版使用による本演奏が、近年におけるピリオド楽器の使用や古楽器奏法による演奏の先駆けとなったということについては否定できないところであり、その意味においては一定の評価をせざるを得ないのではないかと考えている。録音については本盤でも十分に満足できる音質であるが、先日発売されたSHM−CD盤は、若干ではあるが音質はより鮮明になるとともに音場が幅広くなった。DVD−audio盤がこれまで発売された中ではベストの音質であったと言えるが、現在では入手難であり、現時点では本SHM−CD盤が最もベターな音質ということになるであろう。いずれにしても、前述のような考えに基づき、少々甘いとは言えるが★3つの評価とさせていただくこととする。
アバド&ベルリン・フィルによる1度目のベートーヴェンの交響曲全集のうち、第1番から第6番については、少なくとも往年の名指揮者による重厚な名演に聴きなれた耳からすると、天下のベルリン・フィルを指揮したにしてはあまりにも軽妙浮薄な演奏であると言えるところであり、私としてもあまり高い評価をして来なかった。ところが、本盤におさめられた第7番については、第6番までとは異なり、アバドによるベートーヴェンとしては少なくとも軽妙浮薄とまでは言い切れないのではないだろうか。もっとも、同曲の過去の名演、例えばフルトヴェングラー&ウィーン・フィル(1950年)、クレンペラー&ニューフィルハーモニア管(1968年)、さらにはカラヤン&ベルリン・フィル(1978年ライブ(パレクサ))などと比較すると、さすがに音の重心は低いとは言い難い。もっとも、本演奏では、ベルリン・フィルの音色にもかつての伝統的な重厚な音色の残滓を聴くことが可能であるとともに、アバドならではの豊かな歌謡性が演奏全体に独特の艶やかさを付加しており、アバド&ベルリン・フィルによるベートーヴェンの交響曲の演奏としては、後述の第8番や第9番に次いで、佳演と評価するのにいささかの躊躇もするものではない。また、新しい研究成果を踏まえたペンライター版使用による本演奏は、近年主流となっている古楽器奏法やピリオド楽器の使用による演奏の先駆けとも言えるところであり、その意味においても相当の評価をせざるを得ないとも考えられるところだ。次いで、第8番については、楽曲の性格も多分にあるとは思うが、アバドの演奏にも第7番以上に違和感を感じるところがない。フルトヴェングラーなどかつての大指揮者たちが名演を遺していないことも功を奏しているのかもしれないが、それ以上にアバドによる歌謡性豊かな指揮が、往年のワインガルトナーによる名演の如き極上のワインのような味わいを演奏全体に付加するのに成功しており、少なくとも、アバドによるベートーヴェンの交響曲演奏の中では、前述の第7番を凌駕するとともに、第9番と並んで名演と評価してもいいのではないだろうか。録音については本盤でも十分に満足できる音質であるが、先日発売されたSHM−CD盤では、若干ではあるが音質はより鮮明になるとともに音場が幅広くなった。DVD−audio盤がこれまで発売された中ではベストの音質であったと言えるが、現在では入手難であり、現時点ではSHM−CD盤が最もベターな音質ということになるであろう。いずれにしても、第7番が佳演どまりで若干甘い気もするが、第8番が素晴らしい名演であることを考慮して★5つの評価とさせていただくこととする。
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