Bon Jovi

Bon Jovi (ボン・ジョヴィ) プロフィール

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Bon Jovi

ヘヴィ・メタルやハード・ロックといった音楽スタイルを越えてより幅広い音楽ファンに愛されるボン・ジョヴィ。彼らはデビュー前にはその存在を一切知られていなかったため、そのデビュー後に果した快進撃はまさに衝撃的なものだった。

ボン・ジョヴィ ジョン・ボン・ジョヴィ(vo.g./1962年3月2日生)を中心にアメリカ東海岸のニュー・ジャージで結成。いくつかのバンドを経てジョン・ボン・ジョヴィボン・ジョヴィに至ったのは1981年に入った頃で(当時は他のバンド名を名乗っていた)デヴィッド・ブライアン(Key./1962年2月7日生)と活動をともにするようになってからだ。デモ・テープを作ってはカリフォルニアにあるレコード会社などに売り込みに行く、といった活動がメインであったが、その甲斐はすぐには実らなかった。しかし1983年に入り、違ったチャンスが彼らのもとに訪れる。ラジオ局が制作したサンプラー・アルバムに代表曲となる“夜明けのランナウェイ”で参加する機会を得たのだった。このサンプラー・アルバムに参加したことによって、彼らはスキャンダルのツアーに抜擢されオープニング・アクトの座をモノにした。更にこのツアー中のライヴが、ポリグラム・レコードの目に止まり、彼らは遂にアルバム契約を果すのだった。同時にバンド名はボン・ジョヴィに変更。またメンバーにリッチー・サンボラ(g./1959年7月11日生)、アレック・ジョン・サッチ(b./1956年11月14日生)、ティコ・トーレス(ds./1953年10月7日生)を加え、お馴染みのラインナップになっている。

デビュー・アルバム 夜明けのランナウェイ(Bon Jovi)は1984年3月に発表された。全米チャート43位という結果が示すように、アメリカでの反応は当初それほどのものではなかったが、逆に日本では大型新人バンドとして、本国での人気とはかけ離れているといえるほどのもてはやされようだった。それは1984年8月に開催された‘スーパー・ロック’84・イン・ジャパン’出演のため、早くも初来日を果したことにも顕れている(当時の感覚でいうとこの時点での来日は稀だった)。実際にそこでの彼らのパフォーマンスは30分程度といったものだったが、オーディエンスを大いに沸かせた。彼らと日本との蜜月の関係はこの頃から定着し続けている。

1985年3月に2ndアルバム 7800°ファーレンハイトを発表。これは全米37位を記録。前作が日本で成功したことを受けて、ワールド・ツアーのスタートは日本から、となった。ひとつの都市で8公演を行うという最多連続公演記録を樹立するなど、ここでも大きな人気を得た彼らは、次第にヨーロッパへの進出も見せ始めた。この頃になると、ヨーロッパを含む大掛かりな活動を見せたボン・ジョヴィに対して、彼らを冷遇していたアメリカのマーケットも、彼らを徐々にといった感じで認めていくようになり、ラジオやMTVでのオン・エアーも増えていった。

本当の意味での成功は1986年に入ってからだった。1986年夏に3rdアルバムワイルド・イン・ザ・ストリーツ(Slippery When Wet)を発表し、8月から日本を皮きりにワールド・ツアーを再開。日本での人気は当然だったが、前作辺りからのアメリカでの好反応も巧く作用したとみえ、この作品とそれに伴うツアーがボン・ジョヴィを一段高い地点に押し上げた。もちろん“禁じられた愛“、”リヴィン・オン・ア・プレイヤー“といった全米ナンバー・ワン・シングルがその人気に拍車を掛ける役割をしたことは言うまでもない。シンデレラが同行した全米ツアーが長期に渡って行われたこともあり、ワイルド・イン・ザ・ストリーツ(Slippery When Wet)は遂に全米ナンバー・ワン・アルバムとなった。9週連続ナンバー・ワンという快挙を成し遂げた同作はアメリカだけで800万枚、全世界で1400万枚という驚くべきセールスをあげたのだった。

デビューから5年という短期間で大成功を収めたボン・ジョヴィはその後ブランクを置くことなく作品を発表した。1988年秋、4thアルバム ニュー・ジャージーを発表。それに合わせてワールド・ツアーを敢行し、1988年から1989年初頭にかけてボン・ジョヴィは5年連続の来日を果たしている。またこの日本公演のあと、1月からは全米ツアーに入り、サポート・アクトとしてスキッド・ロウを引き連れるなど、新たな話題も提供した。アルバムニュー・ジャージーは英米をはじめ世界各国でナンバー・ワンを獲得していくという状況の中で、ボン・ジョヴィは先の日本公演を含めて17ヶ月間、計237回のショウという過酷なワールド・ツアーを行った。その末に精神的にも肉体的にもダメージを受けたメンバー達は、ツアー最終日となったメキシコ公演終了後に、各々個別に休息をとることになった。これに対して一部のマスコミは解散説など、様々な憶測の記事を書きたてたりもした。

ジョン・ボン・ジョヴィは1990年8月に初のソロ・アルバム ブレイズ・オン・グローリーを発表。映画ヤング・ガンズIIのサントラにもなった同作は、ジェフ・ベックエルトン・ジョンといったゲストを迎え、バンドとは異なる音楽性を展開。表題曲のシングルは全米ナンバー・ワン、アルバムも英米でトップ3入りを果している。またジョン・ボン・ジョヴィはこれと前後してアリス・クーパースティーヴィ・ニックスらのところで数多くのセッション活動を行ってもいた。一方、ギタリストのリッチー・サンボラエリック・クラプトンらが参加したソロ・アルバム ストレンジャー・イン・ディス・タウン を1991年に発表している。前後するが、バンドとしての活動がなく解散の噂が消えないままのボン・ジョヴィは、突如1990年の大晦日から東京ドームでのファイナル・カウント・ダウン・コンサートを含めた日本公演を行ったことを付け加えたい。しかし、これは単発的なものでバンドの活動の本格化を告げるものではなかった。

ボン・ジョヴィが遂に始動したのは1991年の暮れのこと。毎年恒例の地元ニュー・ジャージーでのチャリティ・コンサートに出演したバンドはそのままスタジオ入り。その作業の成果は、1992年10月に5thアルバム キープ・ザ・フェイス(全米5位)となってファンの前に姿を現した。アルバム発表後、彼らは飽くまで自分達のペースを保ちながらツアーを行い、またサッカー・ワールド・カップを記念して制作されたCDグローリーランドやジョージ・ガーシュインのトリビュート盤 ・グローリー・オブ・ガーシュイン などにも参加するtといった活動を見せた。

1994年10月、デビュー10周年を記念し、それまでのバンドの活動を集大成したベスト盤 クロスロード(全米8位)を発表。新曲“オールウェイズ”(全米4位)を含むこのアルバムは全世界で1400万枚という驚異的なセールスを記録したベストセラーとなった。またこの頃デヴィッド・ブライアンが初のソロ・アルバム、オン・ア・フル・ムーン…を発表している。

クロスロード のリリースで貫禄を感じさせたボン・ジョヴィだったが、しかしここでバンドに突然の衝撃が走る。1994年ベーシストのアレック・サッチが脱退。12月恒例のチャリティ・コンサートでは彼らのレコーディング・セッションにも関わっていたヒュー・マクドナルドが代わりにプレイし、彼はそのまま次のレコーディングにもセッションという形で参加した。結局ボン・ジョヴィは4人体制のまま6thアルバム ジーズ・デイズを1995年6月に発表。この後1996年5月に久しぶりとなる日本公演も行った。

ジョン・ボン・ジョヴィは映画俳優として1995年Moonlight And Valentino、1996年 妻の恋人、夫の愛人(Leading Man)に出演。俳優業も行っていく(以降、1997年Little City、1998年ワイルドスモーカーズ(Homegrown)、No Looking Back、2000年 U-571と映画に出演)。またジョン・ボン・ジョヴィは1997年に本格的なソロ・アルバム ディスティネイション・エニーホエア を発表。一方のリッチー・サンボラは、1997年暮れ(日本以外では1998年初頭)に2ndソロ・アルバム アンディスカヴァード・ソウル を発表した。

そして2000年5月、ボン・ジョヴィは前作オリジナル・アルバムから約5年ぶりとなる7thアルバム クラッシュ を発表。ボン・ジョヴィのバンドとしての揺るぎない個性と、シングル“イッツ・マイ・ライフ”をはじめ相変わらずの高いクオリティを誇る楽曲を聴かせ、完全に復活をアピールした。2000年7月からは日本を皮切りにワールドツアーを敢行するした。

翌2001年3月には世界のどこの国よりも一番早くボン・ジョヴィの存在を認めた国として、特別な思い入れがある日本のファンへのプレゼントとしてロック・ナンバーのみを集めたベスト・アルバムTokyo Roadをリリース、同年5月には初のライヴ・アルバムOne Wild Night - Live 1985-2000をリリース。一時は ジョンが俳優業に専念する為バンド活動をしばらく休止するとも報じられたが、昂ぶったモチヴェーションを下げたくないとの理由で新作のレコーディングを開始。そして2002年9月、8作目となる新作バウンスをリリースした。米国同時多発テロの影響が色濃く反映されたであろうこの作品は、アメリカを代表するロック・バンドとしての強い意志が感じられる内容であった。

2003年初頭には新作を引っ提げ来日日公演を行い、5大ドーム・ツアーが瞬く間にソールド・アウトになったことも話題となった。同年末にはアコースティック・アルバムのリリースを予定していたが、レコーディング中に新たなアイデアが次から次へと溢れ出て、当初の予定から大きく方向転換をし、急遽新たなアレンジを施したベスト・アルバムという形でリリースされることになった。それがディス・レフト・フィールズ・ライト〜である。

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