Bob Dylan
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Bob Dylan (ボブ・ディラン) プロフィール

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Bob Dylan

米フォーク/ロックの巨人として誰もが認めるボブ・ディランの歌唱は実にユニークなもの。単に個性的というだけでは明らかに表現が足りないだろう。人間臭さや生きる佇まいそのものが現れている彼の歌声は、一度聴いたら忘れようにも忘れられないほどのインパクトを持って迫ってくるのだ。ポップスにおける常道のメロディを歌い上げるというような手法はほとんど無いに等しい。代わりにあるのはフォーク期からの特徴であるトーキング・スタイルやメロディを崩して引き摺るように歌う「あのスタイル」。またそれは後のラップにも通じる表現の直接性があるらしい。「らしい」というのは、自分も含めた英語を母国語としないリスナーにとっては正直なところ、彼の言葉がそのままダイレクトに飛び込んできて、さまざまな像、イメージが響きあうという風には味わいづらいのかもしれないと思うからだ(実際にはディランの時に難解といわれる歌詞は英語圏の人にとっても難しいものだとも言われているが)。ただヒップホップ〜ラップが出てきた頃によく言われた、英語のトーキング・スタイルは日本人にとってリアリティがあるのか?という問いが現在ほとんど聞かれなくなったように、生きた言葉による言語のリズムは、ときに「いわゆる英語の歌」以上に、それこそ言葉では言い表せないような形で直接的に響いてくることがあるのではないか、とも今では思える。

ボブ・ディラン(本名:ロバート・アレン・ジィンママン)は1941年5月24日にミネソタ州デュルースに生まれた。彼が6歳のとき一家はさびれた炭鉱町ヒビングに移り住む。ディランは8歳の頃にはピアノを10歳の頃にはギターを弾き始めた。そしてディランがはじめて憧れたのはカントリー&ウェスタンの王者、ハンク・ウィリアムスだった。しかしまもなくロックンロールの時代がやってきた。1955年の映画「暴力教室」でビル・ヘイリー&ヒズ・コメッツの演奏する“ロック・アラウンド・ザ・クロック”を聴き衝撃を受けたディランはロックンロールに傾倒し、リトル・リチャードのファンとなる。ハイスクールに上がると友人達とゴールデン・コーズなるロックンロール・バンドを結成。1959年にミネソタ州立大学に入学したディランは、コーヒー・ハウスでフォーク・ソングを歌い始める。ウディ・ガスリーの自叙伝を読み感銘を受けた彼は、この頃からイギリスの詩人、ディラン・トーマスからとってボブ・ディランと名乗るようになった(後に法律上でも改名している)。

1961年1月、大学をドロップアウトしたディランウディ・ガスリーに逢うためにニュー・ヨークに出てきた。当時ガスリーは病院で闘病生活を送っていた。ディランはそこへ何度も訪れ、音楽上のアドヴァイスをいくつも受けたと言う。またディランはこの頃にフォーク・シーンを担う才能、ランブリン・ジャック・エリオットシスコ・ヒューストンなどと出会っている。1961年4月にディランは本格的なステージに立つ。ブルースのジョン・リー・フッカーの前座としてだった。また彼はこの頃、自分の音楽をヴァンガード・レーベルに売り込みに行っているが、これは成功しなかった。同年夏から春にかけてディランはハーモニカ奏者としていくつかのレコーディング・セッションに参加。そして9月、ガーズ・フォーク・シティに出演していたディランは、そこで音楽評論家のロバート・シェルトンに認められ、ニュー・ヨーク・タイムズで絶賛されるという出来事があった。ビリー・ホリデイや後のブルース・スプリングスティーンなどを見い出したジョン・ハモンドに認められたディランはCBSと契約。アルバート・グロスマンを迎えてデビュー・アルバムをレコーディングする。1962年2月1stアルバム ボブ・ディラン 発表。しかしこれは当初5000枚しか売れなかったといわれるほど悲惨な結果に終わったようだ。

恋人のスーズ・ロトロと共に生活しながら曲作りに励んだディランは彼女の影響でプロテスト・ソングを書くようになった。後に代表作となる“風に吹かれて”は同年の4月に書かれ、7月にレコーディングされているが、この時点でフォーク雑誌『シング・アウト』に取り上げられ大きな反響を呼んだという。翌1963年5月、上述の“風に吹かれて”含むアルバム フリーホイーリン 発表。この作品は当時の公民権運動などが高まる機運の中で、主にインテリ層を中心にゴールド・ディスクを獲得するほど売れた。そして7月には有名なニュー・ポート・フォーク・フェスティヴァルに参加。「フォークのプリンス」と呼ばれるほどの人気を獲得していった。

その後、フォーク界の若き英雄となったディランに転機が訪れるのは1964〜65年頃のこと。1964年のイギリス・ツアーでビートルズローリング・ストーンズと交流を持ち、アニマルズによる“朝日のあたる家”を聴いたディランは再びロックンロールに目覚めたといわれている。そうした中リリースされた アナザー・サイド・オブ・ボブ・ディラン はプロテスト色が薄まり、より内省的な雰囲気を醸し出していたが、ディランのフォークからロックへの転身が明確になるのは、1965年。同年3月発表の ブリンギング・イット・オール・バック・ホーム は大胆にエレクトリックの要素を含んだ作品で、バーズのヴァージョンが全米ナンバーワンとなる“ミスター・タンブリン・マン”を含むところからもいわゆる「フォーク・ロック」の先駆けと言えた。そして事件となったのは同年7月のニュー・ポート・フォーク・フェスティヴァル。ポール・バターフィールド・ブルース・バンドをバックに、エレキを抱えたディランは、フォークの純血主義者達に大きなブーイングを浴び、彼はたまらずステージを降り、さらに涙を浮かべて“イッツ・オール・オーヴァー・ナウ・ベイビー・ブルー”を歌い、いわゆるフォーク・シーンに別れを告げた。ディランの代表曲という以上に60年代を代表するともいえる名曲“ライク・ア・ローリング・ストーン”を含むアルバム 追憶のハイウェイ は8月に発表され、ディランはこれまで以上に高い評価を受けた。その後ディランは本当にさまざまな紆余曲折を経ていきながら、常に現役のアーティストとして活動し続け、実に40年近いキャリアを誇るに至っている。

ボブ・ディランのユニークな唱法は多くのシンガーに影響を与えている。比較的直接的に思い起される例では、トム・ペティやティムバック3のパット・マクドナルドなどが挙げられるが、曲によってはジョン・レノンジョージ・ハリスンバーズロジャー・マッギンなど同時代のシンガーにも多大な影響を与えているくらいだから、細かく数えればその数は枚挙にいとまがない。特に王道なアメリカン・ロックやフォーク・ロックを志向するアーティストにはボブ・ディラン的な歌い回しの影響が顕著に感じられることが多い。またボブ・ディランの息子、ジェイコブ・ディランの歌にも当然のように父の面影があり、当初はそのことばかりが話題になったりもしていたが、彼の率いるウォールフラワーズは、現在ではそうした要素の話題性とは離れた場所で(楽曲の良さ自体の力で)ヒットを飛ばし、活躍していることを最後に付け加えておこう。

数々のミュージシャンが集まり、ボブ・ディランの偉大なるキャリアを祝した30周年記念ライヴの席でも、どこかディランには孤独そうな佇まいがあったし、淋しい感じ、というと語弊があるかもしれないが、彼の歌はいつでもそういった寂寥感を感じさせる抒情を紡いできた。シリアスなイメージで捉えられがちなディランだが、60年代当時の当初のイメージにはある種のトリックスター的な、というか頭の異常にいい不良という感じ、あるいは皮肉っぽいユーモラスな言動などがあった(ジョン・レノンディラン風の帽子を被りたがった裏には、その「鋭さ」に対する尊敬の念と同種の人間が持ちうる畏怖とがあった、といえば判り易くイメージしてもらえるだろうか)。何よりもそこがカッコ良かったのだし、そうした感覚を持って聴いてみれば、芸能生活40年の大御所といった、物々しいイメージから離れてディランの歌唱そのものを楽しめるのではないだろうか。これから彼のCDを聴いてみようという若いリスナーには、そういった感じで60年代中期の名作辺りから聴いてもらえるといいのではないだろうか。

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