モーツァルト(1756-1791)

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CD 輸入盤

弦楽四重奏曲第8番〜第23番 ズスケ四重奏団(5CD)

モーツァルト(1756-1791)

基本情報

ジャンル
:
カタログNo
:
BC0302060
組み枚数
:
5
レーベル
:
:
Germany
フォーマット
:
CD
その他
:
輸入盤

商品説明


ズスケ四重奏団/モーツァルト:弦楽四重奏曲第8〜23番(5CD)

多くのクラシック・ファンから長く支持されてきたズスケ四重奏団のモーツァルト弦楽四重奏曲集が、「エテルナ・オリジナル・マスター・シリーズ」から登場します。このシリーズの常として、今回もマスターテープから新たなマスタリングがおこなわれているため、さらなる音質向上が期待されるところです。
  アルバム・アートワークはレンブラントの素描です。これはLP発売時にシリーズで使用されていたものです(参考までに、下の作品紹介のところにオリジナルのレンブラント・ジャケット画像をマスターテープの箱の写真と共に表示しておきます)。

 ルカ教会での名録音

ズスケ四重奏団のモーツァルトは、1970年代のアナログ完成期に、ドレスデンのルカ教会でセッションを組んで入念にレコーディングされたもので、弦楽四重奏のアンサンブル全体の響きはもちろんのこと、4人それぞれの演奏も細大漏らさず見事な質感で収録されています。
  高水準でニュートラルな演奏と録音のおかげで情報量が最大化、作品本来の姿の把握が容易となり、ベートーヴェンやシューベルト、ニコライ、ワーグナー、ブルックナー、ブラームスなどに与えた影響もわかりやすくなっています。
  また、「プロシャ王第1番」の終楽章には、作曲時に関わっていた「フィガロの結婚」改訂作業の影響と思われる伯爵夫人のアリアの旋律を使用したメッセージが反映されているのではないかとも思えてきます。詳しくは下の作品紹介をご覧ください。


 マスタリングについて〜クリストフ・シュティッケル(マスタリング・エンジニア)

ETERNAテープをリマスタリングする際の前提は、オリジナル・サウンドを変えることなく可能な限り最高の状態でオリジナル・サウンドを再現することでした。
  全ての作業はオリジナルのアナログ・マスターテープに基づき、マスタリングはそれぞれのテープに対して細心の注意を払って行われました。
  アナログ領域のみでサウンド処理されたアナログ信号を96kHz / 24bitの高品位デジタル化後に44.1kHz / 16bit化されました。
  また、デジタル領域においてもノイズの除去や、オリジナル・サウンドに影響を与えるその他の修復は行わず、必要最小限のテープ・エラーとテクニカル・クリックのみの修復が行われました。


 エテルナ・オリジナル・マスター・シリーズ

【ヘルマン・アーベントロート】
●ブルックナー:交響曲第4番、第5番、第9番 (3CD)
●ブラームス:交響曲第1番、第3番、第4番、ハイドン変奏曲 (2CD)
●モーツァルト」交響曲第33番、第35番、第38番、第41番、ディヴェルティメント第7番、ノットゥルノ (2CD)
●チャイコフスキー:交響曲第4番、第6番、シューマン:交響曲第4番、ドヴォルザーク:チェロ協奏曲 (2CD)
●ハイドン:交響曲第88番、第97番、ヘンデル:二重協奏曲、バッハ:管弦楽組曲第3番

【オトマール・スイトナー】
●レジェンダリー・レコーディングス (7CD)
●ドヴォルザーク:交響曲全集 (5CD)

【ハインツ・レーグナー】
●マーラー:交響曲第3番、第6番 (3CD)
●ブルックナー:交響曲第4番、第5番、第6番、第7番、第8番、第9番集 (6CD)

 収録情報

モーツァルト
Disc 1
●弦楽四重奏曲第8番ヘ長調 K.168
  録音:1974年4月、5月

●弦楽四重奏曲第9番イ長調 K.169
  録音:1974年4月、5月

●弦楽四重奏曲第10番ハ長調 K.170
  録音:1974年4月、5月

●弦楽四重奏曲第11番変ホ長調 K.171
  録音:1975年2月、3月

●弦楽四重奏曲第12番変ロ長調 K.172
  録音:1975年2月、3月

Disc 2
●弦楽四重奏曲第13番ニ短調 K.173
  録音:1975年2月、3月

●弦楽四重奏曲第14番ト長調 K.387『春』
  録音:1971年3月

●弦楽四重奏曲第15番ニ短調 K.421 (417b)
  録音:1971年11月

Disc 3
●弦楽四重奏曲第16番変ホ長調 K.428 (421b)
  録音:1971年6月

●弦楽四重奏曲第17番変ロ長調 K.458『狩り』
  録音:1971年7月

●弦楽四重奏曲第21番ニ長調 K.575『プロシャ王第1番』
  録音:1972年3月、4月

Disc 4
●弦楽四重奏曲第18番イ長調 K.464
  録音:1971年11月

●弦楽四重奏曲第19番ハ長調 K.465『不協和音』
  録音:1971年12月

Disc 5
●弦楽四重奏曲第20番ニ長調 K.499『ホフマイスター』
  録音:1972年2〜4月

●弦楽四重奏曲第22番変ロ長調 K.589『プロシャ王第2番』
  録音:1972年5〜6月

●弦楽四重奏曲第23番ヘ長調 K.590『プロシャ王第3番』
  録音:1972年5月

ズスケ四重奏団
 カール・ズスケ(第1ヴァイオリン)
 クラウス・ペータース(第2ヴァイオリン)
 カール=ハインツ・ドムス(ヴィオラ)
 マティアス・プフェンダー(チェロ)

録音場所:ドレスデン、ルカ教会
プロデューサー:ハインツ・ヴェーグナー
エンジニア:ホルスト・クンツェ、エバーハルト・リヒター(K.465)





 各種リンク

【トピック】
●ズスケ四重奏団、気づきのモーツァルト
●ズスケ、ライプツィヒからベルリンへ
●ズスケの主なキャリア
●モーツァルト「プロシャ王四重奏曲」の謎
●CDトラック番号別 曲目紹介 Disc 1
●CDトラック番号別 曲目紹介 Disc 2
●CDトラック番号別 曲目紹介 Disc 3
●CDトラック番号別 曲目紹介 Disc 4
●CDトラック番号別 曲目紹介 Disc 5

【年表】
前史19341935193619371938193919401941194219431944194519461947194819491950195119521953195419551956195719581959196019611962196319641965196619671968196919701971197219731974197519761977197819791980198119821983198419851986198719881989199019911992199319941995199619971998199920002001200220032004200520062007200820092010201120122013201420152016201720182019202020212022

【商品関連】
●商品説明:年表シリーズ一覧


 ズスケ四重奏団、気づきのモーツァルト

ズスケ四重奏団の演奏(録音)には、楽譜に忠実で、しかも全パートが聴こえやすいという特徴があります。そのため、モーツァルトの弦楽四重奏曲が後世に与えた影響や、モーツァルト自身が盛り込んだメッセージのようなものにも気づきやすくなっています。
  以下、ざっと聴いてみた範囲で気づかされたものをまとめておきます。

◆弦楽四重奏曲第21番 K.575『プロシャ王第1番』第4楽章
第1主題は第1楽章の第1主題に似ていますが、それは「フィガロの結婚」の伯爵夫人の有名アリア「楽しい思い出はどこへ」の変形と見ることもできます。第1主題前半と後半のほか、第2主題にもアリアの中の旋律が用いられています。下記テキストの部分の旋律の変形です。

第1主題部 00:00- Dove sono i bei momenti(楽しい思い出はどこへ)
第1主題部 00:17- di dolcezza e di piacer(甘美と喜びの)
第2主題部 01:24- mi portasse una speranza di cangiar l'ingrato cor(恩知らずの心を変えるという希望を私にもたらしてくれるでしょう)

「フィガロの結婚」は3年前の1786年に地元ウィーンで初演されながらも好意的には受けとめられず9回の上演だけで終わってしまった作品ですが(プラハでは大成功)、この弦楽四重奏曲第21番を完成した2か月後には再びウィーンのブルク劇場で上演することが決まっており、モーツァルトは劇場からの要請に合わせて改訂作業までおこなっていたので、その上演への意気込みと、ウィーンの人々へのちょっとした皮肉がこの楽章に盛り込まれたということでしょうか。
  「プロシャ王四重奏曲集」の作曲事情については諸説ありますが、ここではハイドンの成功話の影響と、プロイセン国王側の事情、モーツァルトの立ち位置と経済状況、社会背景などからある程度の推測ができると考え、下記にまとめておきました。
◆モーツァルト「プロシャ王四重奏曲」の謎

◆弦楽四重奏曲第21番 K.575『プロシャ王第1番』第2楽章
少年時代にイタリア旅行した際に作曲した旋律ですが、冒頭はブラームス交響曲第1番第2楽章の出だしに似ているのに驚きます。
◆弦楽四重奏曲第23番 K.590『プロシャ王第3番』第1楽章
第1主題は1788年に作曲していたピアノ協奏曲第27番第1楽章第1主題に似ていますが、冒頭の雰囲気と第2主題のチェロの出方は、ベートーヴェンのチェロ・ソナタ第5番第1楽章冒頭を思わせます。
◆弦楽四重奏曲第23番 K.590『プロシャ王第3番』第2楽章
独特な主題はベートーヴェンの交響曲第7番第2楽章に影響を与えたと思われます。
◆弦楽四重奏曲第23番 K.590『プロシャ王第3番』第3楽章
後年のハイドンの交響曲第104番第3楽章に似ています。
◆弦楽四重奏曲第20番K.499『ホフマイスター』第2楽章
中間部はシューベルトの「死と乙女」を彷彿とさせます。
◆弦楽四重奏曲第18番 K.464(ハイドン四重奏曲第5番)第2楽章
主部にはのちの交響曲第40番第3楽章中間部を思わせる素材も使用。
◆弦楽四重奏曲第18番 K.464(ハイドン四重奏曲第5番)第3楽章
第6変奏のチェロはニコライ「ウィンザーの陽気な女房たち」序曲の中の愉快な旋律に似ています。
◆弦楽四重奏曲第18番 K.464(ハイドン四重奏曲第5番)第4楽章
ベートーヴェンの「クロイツェル・ソナタ」第1楽章に出てくる動機に似た部分があります。
◆弦楽四重奏曲17番 K.458『狩り』 (ハイドン四重奏曲第4番)第4楽章
後年のハイドンの交響曲第101番第4楽章に似ています。
◆弦楽四重奏曲第16番 K.428(421b) (ハイドン四重奏曲第3番)第2楽章
「トリスタン和音」を思わせる部分があります。
◆弦楽四重奏曲第15番 K.421 (ハイドン四重奏曲第2番)第1楽章
第1主題は凝った旋律で、構成要素からブルックナーの交響曲第0番第4楽章の第1主題がつくれそうな雰囲気があります。
◆弦楽四重奏曲第15番 K.421 (ハイドン四重奏曲第2番)第2楽章
主要主題はブラームスの交響曲第2番第2楽章でおなじみのフレーズによく似ています。
◆弦楽四重奏曲14番 K.387 (ハイドン四重奏曲第1番)第1楽章
ベートーヴェンの弦楽四重奏曲第14番第7楽章でもおなじみの音楽が聴こえてきます。
◆弦楽四重奏曲14番 K.387 (ハイドン四重奏曲第1番)第4楽章
ソナタ形式とフーガが融合されており、動機労作的、構造的にも「ジュピター」第4楽章の先駆的な存在。
◆弦楽四重奏曲第13番 K.173 (ウィーン四重奏曲第6番)第3楽章
ブラームスの「雨の歌」に似た音型があります。


 ズスケ、ライプツィヒからベルリンへ

この名盤誕生の遠因には、「ベルリンの壁」建設が引き起こした東ドイツ音楽界の混乱があるので、時系列で簡単にまとめておきます。

◆1961年8月、ホーネッカーの指揮で「ベルリンの壁」の建設を開始。
◆東ベルリンへの西側からの出入りが困難になったことで、ベルリン国立歌劇場の運営が危機的状況に陥ります。
◆ベルリン国立歌劇場の危機を救うため、多くの音楽家がベルリンに集まる中、1962年9月には、ベルリン国立歌劇場音楽総監督でゲヴァントハウス管弦楽団の音楽監督でもあるコンヴィチュニーの要請で、ズスケがベルリン国立歌劇場の第1コンサートマスターに就任します(就任前にコンヴィチュニーは急死)。
◆1962年7月のコンヴィチュニーの急死の半年前には、コンヴィチュニーの要請でライプツィヒからベルリンに移っていた指揮者ザイデルマンが急死しており、どちらもズスケと親しい指揮者だったので、ズスケは傷心の身で第1コンサートマスターの仕事を始めることになります。
◆1963年、ハンス・ピシュナーが総監督に就任してベルリン国立歌劇場の混乱が収まり、翌1964年にはドレスデンからオトマール・スイトナーが音楽総監督に就任すると劇場も安定。
◆1965年、ズスケは再び弦楽四重奏を始めるべく、シュターツカペレ・ベルリンの同僚たちと弦楽四重奏団を結成。ズスケはゲヴァントハウス四重奏団では第2ヴァイオリンを受け持っており、すでに8年のキャリアがありましたが、ここでは初心に帰り、かつてスメタナ四重奏団を育て上げたヨセフ・ミツカ教授の指導を受けています(ズスケの生地はチェコ領でした)。こうしたズスケの真摯な姿勢が、無用な強調表現を戒め、結果的にモーツァルトの作品からさまざまな要素を引き出すことに繋がっているものと考えられます。
◆1966年、ジュネーヴ国際コンクール弦楽四重奏部門で首位無しの第2位をズスケ四重奏団と西ドイツのメロス四重奏団が分け合います。
◆1970年、順調に成果を上げていたズスケ四重奏団は、東ドイツ政府より国家芸術賞を授与され、「ズスケ四重奏団」から「ベルリン四重奏団」に改名しています。
◆1971年、エテルナ・レーベルでモーツァルトの弦楽四重奏曲録音に着手しますが、エテルナでは名前は「ズスケ四重奏団」の方を採用しています。


 ズスケの主なキャリア

ズスケは6歳の時にライヒェンベルク市立管弦楽団の第2ヴァイオリン奏者の父からヴァイオリンの手ほどきを受け、ほどなく父の同僚のコンサートマスターから教えを受けるようになります。戦後は12歳からグライツ交響楽団のコンサートマスターのもとで学び、14歳になるとワイマール音楽大学でゲルハルト・ボッセに師事するという具合に、ズスケの教育環境はオケマン尽くしでした。
  興味深いのは、ズスケが究極のヴァイオリニストと絶賛するのがダヴィッド・オイストラフということで、彼のように弾けることが最大の目標だったとしながらも、人にはそれぞれの弾き方があり、他人の模倣をすることはできないとも語っている点です。
  その言葉通り、ズスケは我が道を行き、コンサートマスター、室内楽奏者、独奏者として大きな足跡を残しているので、時系列で簡単にまとめておきます。

◆1951年、17歳の時に、師のゲルハルト・ボッセが、アーベントロートの要請でライプツィヒ放送交響楽団第1コンサートマスターに就任したため、14歳からボッセの教えを受けていたズスケもライプツィヒに転居。ワイマール音楽大学からライプツィヒ音楽大学に編入してボッセの指導を継続して受けることになります。
◆1954年、20歳でライプツィヒ音楽大学を卒業し、ゲヴァントハウス管弦楽団に首席ヴィオラ奏者として入団。
◆1955年、師のゲルハルト・ボッセがゲヴァントハウス管弦楽団に第1コンサートマスターとして入団。ボッセはゲヴァントハウス四重奏団の第1ヴァイオリン奏者も兼務するようになったため、21歳のズスケを四重奏団の第2ヴァイオリン奏者として起用します。
◆1956年、22歳でゲヴァントハウス管弦楽団の第2コンサートマスターに就任。
◆1958年、24歳でゲヴァントハウス四重奏団のアルバム、ゲルスター:弦楽四重奏曲第2番、ヴァーグナー=レゲニー:弦楽四重奏曲、デッサウ:カルテッティーノのエテルナへの録音に参加。
◆1962年、コンヴィチュニーの要請で、ズスケは28歳でベルリン国立歌劇場(シュターツカペレ・ベルリン)の第1コンサートマスターに就任。
◆1965年、31歳で「ズスケ四重奏団」をシュターツカペレ・ベルリンの同僚たちと結成。
◆1977年、クルト・マズアの要請で、ズスケは43歳でゲヴァントハウス管弦楽団の第1コンサートマスターに就任。ゲヴァントハウス四重奏団の第1ヴァイオリン奏者もボッセから引き継ぎます。
◆1994年、ズスケはゲヴァントハウス四重奏団を60歳で退団。
◆2001年、ズスケはゲヴァントハウス管弦楽団を67歳で退団。



 CDトラック番号別 曲目紹介

 Disc 1
 弦楽四重奏曲第8番ヘ長調 K.168 (ウィーン四重奏曲第1番)


作曲完成:1773年8月、ウィーン(初版出版:1801年)。モーツァルト17歳。初の4楽章構成の弦楽四重奏曲。ハイドンの影響を受け、対位法にこだわった作品。

01.第1楽章 Allegro 04:43
ソナタ形式、ヘ長調、4分の4拍子
呈示部(00:00-)、呈示部反復(01:17-)、展開部(02:33-)、再現部(03:12-)

第1主題のモティーフを展開部でも使用。

02.第2楽章 Andante 04:58
二部形式、ヘ短調、4分の3拍子
第1部(00:00-)、第2部(3:11-)

ハイドンの弦楽四重奏曲 Op.20-5の終楽章フーガの素材をカノン風に展開。

03.第3楽章 Menuetto 02:59
三部形式、主部:ヘ長調、4分の3拍子、中間部:変ロ長調、4分の3拍子
主部(00:00-)、中間部(01:13-)、主部(02:18-)

主部と中間部に共通素材あり。対位法も活用。

04.第4楽章 Allegro 01:58
ヘ長調、4分の2拍子

フーガで書かれた快速フィナーレ。


 弦楽四重奏曲第9番イ長調 K.169 (ウィーン四重奏曲第2番)


作曲完成:1773年8月、ウィーン(初版出版:1801年)。オペラ風な要素、フランス風な要素なども取り込んだ作品。

05.第1楽章 Molto Allegro 03:52
ソナタ形式、イ長調、4分の3拍子

展開部にカノン。

06.第2楽章 Andante 04:12
二部形式、ニ長調、4分の2拍子

オペラ風なカヴァティーナ。第1主題は1762年に初演されたグルックのオルフェオのアリア「さらば、わがため息よ」に類似

07.第3楽章 Menuetto 03:43
三部形式、イ長調、4分の3拍子

スケルツォ風な要素も持ったメヌエット。

08.第4楽章 Rondeaux: Allegro 01:45
ロンド形式、イ長調。4分の2拍子

フランス風のロンド・フィナーレ。


 弦楽四重奏曲第10番ハ長調 K.170 (ウィーン四重奏曲第3番)


作曲完成:1773年8月、ウィーン(初版出版:1792年)。ハイドンの影響を受け、ディヴェルティメント的な様式に傾斜。

09.第1楽章 Andante
変奏曲形式、ハ長調、4分の2拍子

冒頭楽章に変奏曲というスタイルはハイドン風。ここでは主題もハイドン風。

10.第2楽章 Menuetto
三部形式、ハ長調、4分の3拍子

ハイドンが好んだ音程も使用。

11.第3楽章 Un poco adagio
三部形式、ト長調、2分の2拍子

セレナーデ風な緩徐楽章。ハイドンの好んだ様式。

12.第4楽章 Rondeaux: Allegro
ロンド形式、ハ長調、4分の2拍子

フランス風のロンド・フィナーレ。第9番よりも技法が進化。


 弦楽四重奏曲第11番変ホ長調 K.171 (ウィーン四重奏曲第4番)


作曲完成:1773年8月、ウィーン(初版出版:1801年)。モーツァルトはこの第11番で、弦楽四重奏曲に初めて序奏を導入(ハイドンは弦楽四重奏曲では序奏は不使用)。

13.第1楽章 Adagio - Allegro assai - Adagio
ソナタ形式、序奏:変ホ長調、4分の4拍子 主部:変ホ長調、4分の3拍子

序奏部は主部の後に拡大して再現されて楽章を締めくくるなど重要な位置づけ。

14.第2楽章 Menuetto
三部形式、変ホ長調、4分の3拍子

第1楽章の終りがアダージョということでメヌエットが第2楽章に来ています。トリオではカノンを使用。

15.第3楽章 Andante
二部形式、ハ短調、4分の4拍子

バッハのトリオ・ソナタを思わせる書法と、弱音器を付けた独特の音が印象的。

16.第4楽章 Allegro assai
ソナタ形式、変ホ長調、8分の3拍子

多彩な楽想と変化に富む進行が快適。


 弦楽四重奏曲第12番変ロ長調 K.172 (ウィーン四重奏曲第5番)


作曲完成:1773年9月、ウィーン(初版出版:1801年)。シンフォニア的な両端楽章、セレナーデ風な緩徐楽章にカノン風なメヌエットという表現の枠が拡大された作品。

17.第1楽章 Allegro spiritoso
ソナタ形式、変ロ長調、4分の3拍子

シンフォニア的な力強さが印象的。

18.第2楽章 Adagio
二部形式、変ホ長調、4分の4拍子

どこか「フィガロの結婚」のアリアを思わせるような美感を持つセレナ―デ風な曲調。

19.第3楽章 Menuetto
三部形式、変ロ長調、4分の3拍子

メヌエット主部の伸びやかなカノンと、中間部の小刻みなト短調楽想のコントラストが効果的。

20.第4楽章 Allegro
ソナタ形式、変ロ長調、4分の2拍子

シンフォニアというかディヴェルティメント風な曲調が心地よいフィナーレ。

 Disc 2
 弦楽四重奏曲第13番ニ短調 K.173 (ウィーン四重奏曲第6番)


作曲完成:1773年9月、ウィーン(初版出版:1792年)。モーツァルトの初期四重奏曲の中で唯一の短調作品。当時のウィーンで流行していたシュトゥルム・ウント・ドラング様式の影響も指摘されています。
01.第1楽章 Allegro ma molto moderato
ソナタ形式、ニ短調、2分の2拍子

「魔笛」序曲の主題を思わせる同音連打の動機が支配的な役割を果たしています。

02.第2楽章 Andantino grazioso
ロンド形式風の緩徐楽章、ニ長調、4分の2拍子

ガヴォット風ののどかさと三連符のせわしない音型の交錯がロンド風。

03.第3楽章 Menuetto
三部形式、ニ短調、4分の3拍子

第1楽章、第2楽章と動機的に関連付けられたメヌエット。ハイドンのOp.9-4のメヌエットを思わせる部分があったり、ブラームスの「雨の歌」に似た音型があったりと投入素材は豊富です。

04.第4楽章 Allegro
フーガ・フィナーレ、ニ短調、4分の4拍子

半音階の用い方も効果的。

 弦楽四重奏曲第14番ト長調 K.387 (ハイドン四重奏曲第1番)


作曲完成:1782年12月、ウィーン(初版出版:1785年)。若き日の「ウィーン四重奏曲」以来、しばらく弦楽四重奏曲から遠ざかっていたモーツァルトは、1782年に発表されたハイドンの「ロシア四重奏曲」に深く感動し、3年がかりで自分の弦楽四重奏曲を6曲作曲し、ハイドンに捧げています。同じ頃、毎週のようにファン・スヴィーテン邸で開催されていたバッハのフーガやヘンデルのコンサートにモーツァルトは足繁く通って音楽を吸収し、対位法の腕前を上げてもいます。

05.第1楽章 Allegro vivace assai
ソナタ形式、ト長調、4分の4拍子

情熱的な第1主題とリズミカルな第2主題を軸に構築され、展開部では、44年後のベートーヴェンの弦楽四重奏曲第14番第7楽章でもおなじみの音楽が聴こえてきます

06.第2楽章 Menuetto: Allegro
三部形式。ト長調。4分の3拍子。

第1楽章が弱音で終わったためメヌエットが第2楽章に来ています。ト短調で旋律的な中間部とのコントラストも鮮明。

07.第3楽章 Andante cantabile
二部形式、ハ長調、4分の3拍子

展開部の無い自由なソナタ形式の緩徐楽章。第1ヴァイオリン独奏や、4声部の対話的な音楽など、入念で多彩なスタイルで書かれています。

08.第4楽章 Molto Allegro
ソナタ形式、ト長調、2分の2拍子

フーガ・フィナーレ。ソナタ形式とフーガが融合されており、動機労作的、構造的にも「ジュピター」第4楽章の先駆的な存在


 弦楽四重奏曲第15番ニ短調 K.421 (ハイドン四重奏曲第2番)


作曲完成:1783年6月頃、ウィーン(初版出版:1785年)。前作第1番とは打って変わって、短調のモーツァルトの魅力が示されています。

09.第1楽章 Allegro moderato
ソナタ形式、ニ短調、4分の4拍子

第1主題は凝った旋律で、構成要素からブルックナーの交響曲第0番第4楽章の第1主題がつくれそうな雰囲気もあります。その凝った旋律をモーツァルトはシャコンヌ・バスやストレッタまで駆使して縦横に展開し、弦楽四重奏の表現力を徹底的に追及しているかのようです。

10.第2楽章 Andante
三部形式、ヘ長調、8分の6拍子

主部(二部形式)、中間部(三部形式)、主部(二部形式)という構成で、主要主題はブラームスの交響曲第2番第2楽章でおなじみのフレーズによく似ています
11.第3楽章 Menuetto: Allegretto
三部形式、ニ短調、4分の3拍子

ニ短調で重みのある主部と、ニ長調でまるでディヴェルティメントK.334のメヌエットのように天真爛漫な中間部の対比が鮮やかです。
12.第4楽章 Allegretto ma non troppo - piu allegro
変奏曲形式、ニ短調、8分の6拍子

ハイドンの弦楽四重奏曲Op.33-5終楽章に倣ってシチリアーノを主題に使っていますが、こちらはニ短調のほの暗い美しさが際立っています。


 Disc 3
 弦楽四重奏曲第16番変ホ長調 K.428(421b) (ハイドン四重奏曲第3番)


作曲完成:1783年7月頃、ウィーン(初版出版:1785年)。自筆譜と初版譜では第4番となっていたものの、のちに第3番に変更されています。

01.第1楽章 Allegro non troppo
ソナタ形式、変ホ長調、4分の4拍子

半音階を盛り込み、呈示部第1主題と第2主題のあいだの推移部の規模を拡大、展開部にはカノン的要素も取り入れるなど多彩な内容。

02.第2楽章 Andante con moto
二部形式、変イ長調、8分の6拍子

半音階を盛り込み、アンサンブルによる和声の表現に凝った楽章。ワーグナーの「トリスタンとイゾルデ」のいわゆる「トリスタン和音」を思わせる部分も登場するなど後世への影響もありそうです。

03.第3楽章 Menuetto: Allegro
三部形式、変ホ長調、4分の3拍子

主部の主題は激しい前打音を含む野趣に富む部分と二度音程で縫うように進む滑らかな部分からなり、強烈な印象を与えます。中間部は主部主題の後半をさらに滑らかにした感じで、主部との対比も鮮やか。

04.第4楽章 Allegro vivace
ロンド形式、変ホ長調、4分の2拍子

展開部の無いソナタ形式的な構造。第1主題はハイドン風で、第2主題には第2楽章の動機も用いており、ハイドンと新たなモーツァルトの組み合わせと見ることもできます。


 弦楽四重奏曲第17番変ロ短調 K.458『狩り』 (ハイドン四重奏曲第4番)


作曲完成:1784年11月、ウィーン(初版出版:1785年)。ピアニストとして人気が高まっていたモーツァルトは、この1784年の初めから特定の労使関係のない自由な音楽家としての活動を開始。収入源はピアニストとしての予約演奏会が中心になるため、ピアノ協奏曲など華やかな曲の創作が多くなり、この弦楽四重奏曲第17番『狩り』も、成功者ハイドンにあやかるかのようなハイドン的な雰囲気を持っています。
  当時、「ウィーンの森」は、狩猟対象生物を確保するために天然の広葉樹林の保護などもおこなっていたことから「ヨーロッパで最も高貴な狩猟園」と呼ばれるほどシカやイノシシ、ウサギ、野鳥など多くの生物が棲息し、上流階級の人々の猟欲(と食欲)を満たす場と化していました。狩りが盛んだったことは、狩猟ホルンなどの音楽や、狩猟風景を描いた磁器がたくさん作られたことからもわかります。

05.第1楽章 Allegro vivace sssai
ソナタ形式、変ロ長調、8分の6拍子

狩猟ホルンを模したような楽しげな第1主題が支配的で、第2主題は控えめ。展開部でも狩猟ホルン的な別素材が投入され、狩猟や獲物を仕留める楽しさが強調されます。
06.第2楽章 Menuetto: Moderato
三部形式、変ロ長調、4分の3拍子

メヌエット主部は息の長い旋律を用いた落ち着いた主部と、軽やかな中間部の対比が鮮やか。上流階級の人々の宴の様子でしょうか。
07.第3楽章 Adagio
二部形式、変ホ長調、4分の4拍子

穏やかな第1主題は暖かく感動に満ち、第2主題もセレナーデ風の美感が際立つ美しいものです。
08.第4楽章 Allegro assai
ソナタ形式、変ロ長調、4分の2拍子

ハイドンに献呈する作品ということで、旋律素材にハイドンの弦楽四重奏曲Op.33-4の動機がオマージュ的に使用されています。ハイドンが好きな対位法的な展開も充実した素晴らしい楽章。ハイドンは9年後にウィーンで書き始めた交響曲第101番第4楽章をこの楽章に似せて返し歌としているかのようです


 弦楽四重奏曲第21番ニ長調 K.575『プロシャ王第1番』


作曲完成:1789年6月、ウィーン(初版出版:1791年)。

09.第1楽章 Allegretto
ソナタ形式、ニ長調、2分の2拍子
呈示部(第1主題 00:00- 第2主題 00:48- )、呈示部反復(第1主題 02:01- 第2主題 02:50- )、展開部(04:02- )、再現部(05:03- 第2主題 05:52- )

歌謡性に富んだ主題は少年時代にイタリア旅行した際に作曲した旋律ですが、各楽器ソット・ヴォーチェで開始され、熟達の筆致で進められることで見事な味わいを生み出しています。
10.第2楽章 Andante
二部形式、イ長調、4分の3拍子
第1部(第1主題 00:00- 第2主題 01:10- )、第2部(第1主題 02:45- 第2主題 03:58- )

この楽章の主題も少年時代にイタリア旅行した際に作曲した旋律ですが、冒頭はブラームス交響曲第1番第2楽章の出だしに似ているのに驚きます

11.第3楽章 Menuetto: Allegretto
三部形式、主部:ニ長調、4分の3拍子 中間部:ト長調、4分の3拍子
主部(00:00- )、中間部(02:27- )、主部(04:14- )

中間部(トリオ)ではチェロが大活躍。美しい旋律を聴かせます。

12.第4楽章 Allegretto
自由な形式、ニ長調、2分の2拍子

第1主題は第1楽章の第1主題に似ていますが、それは「フィガロの結婚」の伯爵夫人の有名アリア「楽しい思い出はどこへ」の変形と見ることもできます。第1主題前半と後半のほか、第2主題にもアリアの中の旋律が用いられています。下記テキストの部分の旋律の変形です。

第1主題部 00:00- Dove sono i bei momenti(楽しい思い出はどこへ)
第1主題部 00:17- di dolcezza e di piacer(甘美と喜びの)
第2主題部 01:24- mi portasse una speranza di cangiar l'ingrato cor(恩知らずの心を変えるという希望を私にもたらしてくれるでしょう)

「フィガロの結婚」は3年前の1786年に地元ウィーンで初演されながらも好意的には受けとめられず9回の上演だけで終わってしまった作品ですが(プラハでは大成功)、この弦楽四重奏曲第21番を完成した2か月後には再びウィーンのブルク劇場で上演することが決まっており、モーツァルトは劇場からの要請に合わせて改訂作業までおこなっていたので、その上演への意気込みと、ウィーンの人々へのちょっとした皮肉がこの楽章に盛り込まれたということでしょうか。
  この楽章では、第1主題を対位法も駆使して徹底展開し、第2主題はロンド的に組み込むなどソナタ、ロンド、対位法のミックス具合と、「フィガロ」引用というユーモラスなメッセージ性が面白いものとなっています。

 Disc 4
 弦楽四重奏曲第18番イ長調 K.464 (ハイドン四重奏曲第5番)


作曲完成:1785年1月、ウィーン(初版出版:1785年)。ベートーヴェンが好み、弦楽四重奏曲集 Op.18(第1〜6番)の作曲に際して、この曲の第4楽章を筆写した手稿譜が遺されています。

01.第1楽章 Allegro
ソナタ形式、イ長調、4分の3拍子
呈示部(第1主題 00:00- 第2主題 00:46- 結尾 01:46-)、呈示部反復(01:52-)、展開部(03:44-)、再現部(05:19-)

第1主題の展開が強力で、第2主題、結尾主題も第1主題から派生しています。
02.第2楽章 Menuetto
三部形式、イ長調、4分の3拍子
主部(00:00-)、中間部(02:48-)、主部(04:07-)

第1楽章との共通点を感じさせるメヌエット。主部にはのちの交響曲第40番第3楽章中間部を思わせる素材も使用。中間部(トリオ)はホ長調でメロディアスですがこちらも第1楽章に関連しています。

03.第3楽章 Andante
変奏曲形式、ニ長調、4分の2拍子
主題(00:00-)、第1変奏(01:31-)、第2変奏(03:01-)、第3変奏(04:30-)、第4変奏(06:05-)、第5変奏(07:53-)、第6変奏(09:03-)、コーダ(10:15-)

第6変奏のチェロはニコライ「ウィンザーの陽気な女房たち」序曲の中の愉快な旋律に似ています。
04.第4楽章 Allegro non troppo
ソナタ形式、イ長調、2分の2拍子
呈示部(00:00-)、展開部(01:50-)、再現部(03:06-)、コーダ(05:02-)

第1楽章と動機関連の深い楽章ですが、チェロの同音反復の面白さも際立っています。展開部にはベートーヴェンの「クロイツェル・ソナタ」第1楽章に出てくる動機に似た部分もあります



 弦楽四重奏曲第19番ハ長調 K.465『不協和音』 (ハイドン四重奏曲第6番)


作曲完成:1785年1月、ウィーン(初版出版:1785年)。モーツァルトが自宅にハイドンを招いておこなった試演会の前日に完成。

05.第1楽章 Adagio - Allegro
序奏:4分の3拍子 主部:ソナタ形式、ハ長調、4分の4拍子
序奏(00:00-)、呈示部(01:54-)、呈示部反復(04:19-)、展開部(06:45-)、再現部(08:07-)、コーダ(10:13-)

アダージョの序奏はタイトルの由来となった不協和音がカオスな美しさを示しており、後半は1774年に初演されたグルックの「アウリスのイフィゲニア」序曲に似た雰囲気もあります。モーツァルトの動機労作と和声の魅力を堪能させます。
06.第2楽章 Andante cantabile
二部形式、ヘ長調、4分の3拍子
第1部(第1主題 00:00- 第2主題 01:49-)、第2部(第1主題 03:12- 第2主題 05:18-)、コーダ(07:07-)

第1ヴァイオリンとチェロの対話が印象的な第1主題、第1楽章序奏を思わせる第2主題とその再現を経て、明るいコーダで締めくくられます。

07.第3楽章 Menuetto: Allegro
三部形式、ハ長調、4分の3拍子
主部(00:00-)、中間部(02:21-)、主部(03:48-)

主部はスケルツォ風な味わいを持つ諧謔的な音楽。中間部(トリオ)はハ短調で第1ヴァイオリンの情緒不安定的なソロがチェロにも引き継がれてユニーク。主部再現での安堵感はスケルツォ風味ならではとも言えます。

08.第4楽章 Allegro molto
ソナタ形式、ハ長調、4分の2拍子
呈示部(00:00-)、展開部(01:51-)、再現部(02:42-)、コーダ(05:04-)

第1楽章序奏部とは対照的に軽快で澄んだ音楽が支配的ですが、展開部ではさまざまな転調をおこなって第1楽章序奏の不協和音への解決策を示すかのようです。そして再現部、コーダと進んで力強く終わります。



 Disc 5
 弦楽四重奏曲第20番ニ長調 K.499『ホフマイスター』


作曲完成:1786年8月、ウィーン(初版出版:1786年)。ウィーンの楽譜出版業者で演奏家でもあったホフマイスターのためにハイドンが書いたOp.42の弦楽四重奏曲ニ短調は、ハイドンには珍しく、セットではない単独の四重奏曲。そしてその直後に同じホフマイスターが出版したモーツァルトの弦楽四重奏曲ニ長調も、やはりモーツァルトの四重奏曲には珍しい単独作品という共通点があります。
  先発がハイドンの短調作品で、後発のモーツァルトは同名調の長調作品でなおかつハイドンの素材も使用していることから何かのプランが背景にあるようにも思えますが、2人が作曲に至った経緯は不明です。ホフマイスターが企画して2人に委嘱したものなのかどうかもわからず、明確なのはホフマイスターが1786年に出版したという事実のみです。

01.第1楽章 Allegretto
ソナタ形式、ニ長調、2分の2拍子
呈示部(00:00-)、呈示部反復(02:46-)、展開部(05:31-)、再現部(06:39-)、コーダ(09:26-)

第1主題はハイドンOp.42の悲痛な美しさを湛えた第1楽章の主題を明るくした感じのものです。展開部はリズミカルな呈示部の結尾音型を軸としたもので、展開部と再現部はひとつのブロックとしてリピート記号が付いていますが、ここでは通常と同じく繰り返しは呈示部のみとなります。

02.第2楽章 Menuetto: Allegretto
三部形式、主部:ニ長調、4分の3拍子 中間部:ニ短調、4分の3拍子
主部(00:00-)、中間部(01:14-)、主部(02:18-)

対位法を駆使した短いながらも高密度なメヌエット楽章。中間部はシューベルトの「死と乙女」を彷彿とさせます。

03.第3楽章 Adagio
二部形式、ト長調、4分の3拍子
第1部(第1主題 00:00- 第2主題 01:43- 結尾 02:56-)、第2部(第1主題 04:43- 第2主題 06:36- 結尾 07:55-)

美しい第1主題、リズミカルな第2主題、和弦で印象が切り替わる結尾、そして第2部での再現という推移で聴かせるアダージョ楽章。

04.第4楽章 Molto allegro
ソナタ形式、ニ長調、4分の2拍子
呈示部(第1主題 00:00- 第2主題 00:36-)、展開部(02:15-)、再現部(03:37-)、コーダ(04:32-)

ロンド形式的な楽章で、第1主題と第2主題を繰り返し用いて呈示部を構成。展開部、再現部を経てコーダに至ります。第1主題は第2楽章のトリオ動機と関連しています。



 弦楽四重奏曲第22番変ロ長調 K.589『プロシャ王第2番』


作曲完成:1790年5月、ウィーン(初版出版:1791年)。

05.第1楽章 Allegro
ソナタ形式、変ロ長調、4分の3拍子
呈示部(00:00-)、呈示部反復(01:30-)、展開部(03:00-)、再現部(04:20-)、コーダ(05:53-)

ポリフォニックでヘ短調で始まる展開部と、ホモフォニックで変ロ長調の呈示部、再現部との対照が鮮やか。チェロは印象的な同音連打や美しい主題で活躍。
10.第2楽章 Larghetto
二部形式、変ホ長調、2分の2拍子
第1部(第1主題 00:00- 第2主題 01:50- 結尾 02:15-)、第2部(第1主題 03:14- 第2主題 04:52- 結尾 05:42-)

ゆったりと美しい楽章。チェロはここでも目立つ働きをします。
11.第3楽章 Menuetto: Allegretto
三部形式、主部:変ロ長調、4分の3拍子 中間部:変ホ長調、4分の3拍子
主部(00:00-)、中間部(02:01-)、主部(05:21-)

中間部(トリオ)は第3楽章の半分以上を占める大規模なもの。同音反復の心地よいリズムが聴きものです。
12.第4楽章 Allegro
ソナタ形式、変ロ長調、8分の6拍子
呈示部(00:00-)、展開部(01:08-)、再現部(02:30-)、コーダ(03:17-)

単一主題のソナタ形式で、対位法も使用。短い楽章ですが、モーツァルトは草案と断片を遺してもいます。

 弦楽四重奏曲第23番ヘ長調 K.590『プロシャ王第3番』


作曲完成:1790年6月、ウィーン(初版出版:1791年)。

09.第1楽章 Allegro moderato 08:36
ソナタ形式、ヘ長調、4分の3拍子
呈示部(第1主題 00:00- 第2主題 00:57-)、呈示部反復(第1主題 02:19- 第2主題 03:15-)、展開部(04:40-)、再現部(05:44-)、コーダ(08:07-)

第1主題は1788年に作曲していたピアノ協奏曲第27番第1楽章第1主題に似ていますが、冒頭の雰囲気と第2主題のチェロの出方はベートーヴェンのチェロ・ソナタ第5番第1楽章冒頭をも思わせます
10.第2楽章 Andante 06:35
二部形式、ハ長調、8分の6拍子
第1部(00:00-)、第2部(02:29-)、コーダ(05:52-)

独特な主題はベートーヴェンの交響曲第7番第2楽章に影響を与えたと思われます
11.第3楽章 Menuetto: Allegretto 04:01
三部形式、主部:ヘ長調、4分の3拍子 中間部:ヘ長調、4分の3拍子
主部(00:00-)、中間部(01:38-)、主部(03:06-)

1795年に作曲されたハイドンの交響曲第104番第3楽章に似ています
12.第4楽章 Allegro 04:54
ヘ長調、4分の2拍子
呈示部(00:00-)、展開部(02:06-)、再現部(02:30-)、コーダ(03:17-)

単一主題による無窮動のような音楽。



 モーツァルト「プロシャ王四重奏曲」の謎

作曲の本当の動機

弦楽四重奏曲第21番、第22番、第23番の3曲は、モーツァルトが1789年にフリーメーソン仲間の借金相手に書いた手紙の中で、プロイセン国王から6曲の弦楽四重奏曲の注文を受けたと書いているために「プロシャ王四重奏曲集」と呼ばれています(プロシャはプロイセンの英語化)。
  作曲の直接的な動機は、フリーメーソン仲間のハイドンが、プロイセン国王に「パリ交響曲集」の楽譜を贈ったことに始まる成功話にあやかろうとしたものと考えられます。
6曲のところ3曲で終わった理由

「プロシャ王四重奏曲集」は6曲の受注である旨、借金中のフリーメーソン仲間の友人プフベルクに伝えながらも、実際には3曲しか完成しておらず、出版に際してもプロイセン国王への献辞は添えられていません。
  また、公式な記録や報道についても、フリーメーソン仲間のリヒノフスキー侯爵とポツダムの宮廷を訪れた際の拝謁要請記録があるくらいということなので、本当はモーツァルトは注文は受けておらず、プロイセン国王のためにチェロを大プッシュした「当て書き」の曲集を完成して献呈し、収入を得るるつもりだった可能性が高いと考えられます。

完成できなかった背景

完成できなかった理由としては、フランス革命が勃発した影響も大きそうです。王侯貴族が軟禁される様子はヨーロッパ全土に広まり、好色貴族を揶揄したオペラ「フィガロの結婚」と「ドン・ジョヴァンニ」で上流社会から疎まれていたモーツァルトにはきびしい状況でした。
  その後、死の年の1791年にはモーツァルトは貴族社会と無関係の「魔笛」と、王様を称える「皇帝ティートの慈悲」でなんとか面目を保っていますが、それまではフリーメーソン仲間たちからの借金も限界に達し、まずは確実に収入を得られる作曲の仕事が優先となっていました。
  そのため、実際には注文を受けていないために報酬が得られるかどうかわからない弦楽四重奏曲セットは3曲で中断、同時に注文を受けたとされるピアノ・ソナタ・セットも1曲で中断し、社会情勢の変化もあり、作曲が再開されることはありませんでした。
モーツァルトの窮状

モーツァルトは1787年12月に、オーストリアの神聖ローマ皇帝ヨーゼフ2世の推薦を受け、宮廷作曲家に任命されていましたが、「フィガロの結婚」「ドン・ジョヴァンニ」の不評からか宮廷内にはモーツァルトを嫌う抵抗勢力がいたことから、オペラを書くことは許されず、仕事は冬季の舞踏会用の軽い音楽を書くことが中心で、年俸は800フローリンでした。
  1フローリンは現在の価値では5千円〜1万円ほどとも言われているので、通常の生活ならば十分すぎる金額ですが、モーツァルトは、家賃の高額な広い住居に暮らし、ギャンブルなどの浪費癖や妻コンスタンツェの散財のおかげで常に金に困っていました。各年の年収は、下の時系列欄に記載しておきます。
ハイドンの成功の影響

モーツァルトがプロイセン国王の知己を得たいと願った背景には、ハイドンが、「パリ交響曲集」の楽譜を国王に贈った際、称賛と共に「金の指環」を貰ったことと、喜んだハイドンが感謝の印として国王に献呈した弦楽四重奏曲集 Op.50「プロシャ王」が、ウィーンとイギリスの2つの出版社と二重契約して両社から報酬を得ることができ、さらに国王から高額な献呈料も手にしていたという出来事が影響していると考えられます。

まずは交響曲第39・40・41番を作曲

ハイドンの成功例にあやかろうとしたのか、モーツァルトはプロイセン国王が気に入ったハイドンの「パリ交響曲集」の中の3曲の調性と同じ、変ホ長調・ト短調・ハ長調を用いて、交響曲第39・40・41番を書き上げています。作曲のきっかけはともかく、やはり驚異的な天才です。
プロイセン国王拝謁への旅

しかしモーツァルトはプロイセン国王を知らなかったので、まずは知己を得ようと、フリーメーソン仲間の最高裁判所書記官ホーフデーメルから金を借りて、リヒノフスキー侯爵と旅に出てポツダムで拝謁を願い出るものの、国王と会うことはできませんでした(モーツァルトはリヒノフスキー侯爵にも多額の借金があり返済が滞っていたので、その後、1791年11月に訴訟を起こされ、宮廷作曲家報酬の差し押さえが命じられています)。
「フィガロの結婚」と「ドン・ジョヴァンニ」が好色王には不快?

プロイセン国王フリードリヒ・ヴィルヘルム2世は、最初、ルートヴィヒ・クリスティアン・ヘッセ[1716–1772]にヴィオラ・ダ・ガンバを習い、続いてイタリア人のカルロ・グラツィアーニ[c.1720–1787]と、フランス人のジャン・ピエール・デュポール[1741–1818]のもとでチェロの腕を磨いた音楽愛好家でした。その腕前はかなりのものだったと、有名な作曲家カール・シュターミッツも語っています。
  しかし世間では、国王は何よりもその好色ぶりで知られており、平民の愛人を貴族に列し、立派な城まで建設したことで強く批判されていたため、モーツァルトの近作「ドン・ジョヴァンニ」が愉快であるとはとても思えず、さらに「フィガロの結婚」でも好色貴族を馬鹿にしてウィーンの保守派からも嫌われていたモーツァルトのことを、国王が良く思うはずはなかったと考えられます。しかもモーツァルトの滞在中にはフランス革命まで勃発しています。
  ハイドンに金の指環を与え、モーツァルトの没後5年後にはベートーヴェンに金貨を詰めた金の煙草入れを贈呈していたプロイセン国王がモーツァルトに冷たかったのは、やはり好色上流階級を揶揄したオペラが原因と考えられます。
  ちなみにフリードリヒ・ヴィルヘルム2世の息子、フリードリヒ・ヴィルヘルム3世[1770-1840]は、父親の生活に憤慨しており、1797年11月に父が亡くなると、宮廷の不道徳な状態を是正するために迅速に行動を起こしています。

関連する出来事の時系列

1786年
◆8月、フリードリヒ大王、死去。
◆8月、フリードリヒ大王の甥、フリードリヒ・ヴィルヘルム2世、プロイセン国王に即位。

1787年
◆4月、フリードリヒ・ヴィルヘルム2世からハイドン宛てに手紙が到着。先にハイドンが国王宛てに贈っていた「パリ交響曲集」の楽譜を褒めたたえた文面で、「金の指環」も同封されていました。喜んだハイドンは完成間近の「弦楽四重奏曲集 Op.50」を国王に献呈することを決めます(献呈料も得られます)。
◆8月、ハイドンの「弦楽四重奏曲集 Op.50」をイギリスのウィリアム・フォスター社が出版。ハイドンは同社にアルタリア社からも出版されることを知らせていませんでした。ハイドンは作曲途中の1784年4月の時点で、他社からの予約金が100ドゥカーテン(450フローリン)以上集まっているとアルタリア社に告げていたので、そこにウィリアム・フォスター社からの金額が含まれていたと考えられます。
◆12月、ハイドンの「弦楽四重奏曲集 Op.50」をウィーンのアルタリア社が出版。ハイドンは同社にウィリアム・フォスター社から出版されていることを知らせませんでしたが、アルタリア社はすぐに二重契約について知ることになります。しかしアルタリア社もすでに300フローリンをハイドンに支払っていたためそのまま出版しています。なお、「弦楽四重奏曲集 Op.50」には、フリードリヒ・ヴィルヘルム2世への献辞が付いていたので「プロシャ王四重奏曲集」と呼ばれるようになります。
◆12月、モーツァルト、神聖ローマ皇帝ヨーゼフ2世の推薦を受け、宮廷作曲家に任命。「フィガロの結婚」「ドン・ジョヴァンニ」の不評からか宮廷内にはモーツァルトを嫌う抵抗勢力がいたことから、モーツァルトがオペラを書くことは許されず、仕事は冬季の舞踏会用の軽い音楽を書くことが中心でした。そのため年俸は800フローリンに止まっています(この年のモーツァルトの収入は3,200フローリンを超えていました)。

1788年
◆6〜8月、モーツァルト、交響曲第39・40・41番を、ハイドンの「パリ交響曲集」の中の3曲の調性に合わせて作曲。プロイセン国王にアピールしようとしていた可能性があります。
◆この年のモーツァルトの収入は宮廷作曲家以外の金額が約200フロリンで、宮廷作曲家固定給と合わせて1,000フロリンと、前年の3分の1以下でした。

1789年
◆3月、金欠だったモーツァルトは、リヒノフスキー侯爵と共に、プロイセン国王への拝謁や、旅公演を兼ねた旅行を計画。旅行資金として、モーツァルトの愛弟子マクダレーナの夫でフリーメーソン仲間でもある最高裁判所の書記官フランツ・ホーフデーメルから、4か月後返済の約束手形で100フローリンを調達。ホーフデーメルの年俸は400フローリンでした(ホーフデーメルはモーツァルトの死に関わっているとの説もあり、ホーフデーメル自身もモーツァルトの死の翌日に妊娠5か月の妻マクダレーナを刺したのち自殺。マクダレーナは一命をとりとめています)。
◆4月、モーツァルト、リヒノフスキー侯爵と共に旅行を開始。まずプラハを訪れ、続いてドレスデンとライプツィヒで演奏会を開いたのち、プロイセン宮廷の離宮のあるベルリン近郊のポツダムに到着。
◆4月、ポツダムでプロイセン国王への拝謁を願っていたモーツァルトのためにリヒノフスキー侯爵は宮廷に申請をおこない、2人はポツダムに2週間滞在。
◆4月、国王は宮廷音楽監督のデュポールにモーツァルトに会うように命じます。モーツァルトはデュポールの「チェロ・ソナタ Op.1-6」のメヌエット楽章の旋律を使ってピアノのための変奏曲を作曲(K.537)。主題となったメヌエットが「フィガロの結婚」のスザンナのアリアに良く似ていることから、後世いろいろ言われてきましたが、デュポールのメヌエットは実際には1766年にパリのシュヴァルディエール社から出版されていたものなので、「フィガロの結婚」の作曲の20年前ということになります。そして当時10歳だったモーツァルトは2か月間パリに滞在しており、そのときにデュポールのメヌエットを耳にしていた可能性はあります。
◆5月、プロイセン国王への拝謁が叶わなかったモーツァルトは、演奏会を開くためライプツィヒに向けて出発し、同地に1週間ほど滞在。
◆5月、リヒノフスキー侯爵が帰路についたため、モーツァルトはひとりでポツダムを訪れて1週間ほど滞在。しかし今回も拝謁は叶いませんでした。
◆6月、モーツァルトはウィーンに戻り、弦楽四重奏曲第21番を完成し、第22番も途中まで作曲。
◆7月、前年から借金を重ねていたフリーメーソン仲間の織物商プフベルク宛てに、モーツァルトは3度に渡って借金目的の手紙を書き、都度送金を受けています。その際モーツァルトは、プロイセン国王から弦楽四重奏曲6曲とピアノ・ソナタ6曲を注文されたことを伝えていますが、プフベルクはハイドンの友人でもあったので、プロイセン国王絡みの話を出すことで借金返済に不安が無いことを匂わせた可能性もあります。実際、モーツァルトのプフベルクへの借金返済は滞っており、亡くなった時点で1,400フローリンを超えていました。
◆この年のモーツァルトの収入は2,500フローリンを超えています。

1790年
◆5月、弦楽四重奏曲第22番を完成。
◆6月、弦楽四重奏曲第23番を完成。
◆この年のモーツァルトの収入は1,800フローリンを超えています。

1791年
◆弦楽四重奏曲第21番、第22番、第23番が、ウィーンのアルタリア社から出版。プロイセン国王宛ての献辞はありませんでした(献呈料も支払われません)。
◆11月、リヒノフスキー侯爵に借りた金をモーツァルトが返さなかったため訴えられ、1,435フローリンの支払いを命じられ、宮廷から支払われる年俸800フローリンを差し押さえることが通告されます。
◆この年のモーツァルトの収入は3,700フローリンを超えていましたが、亡くなった時の借金は4,000〜5,000フローリンとも言われています。ちなみにその借金は、コンスタンツェ未亡人が、銀食器の処分や、モーツァルトの自筆譜売却や記念コンサート、記念出版物などの収益によって数年で完済しています。

1796年
◆ベートーヴェン、リヒノフスキー侯爵と旅に出発。途中からベートーヴェンはひとりになり、ベルリンの宮廷管弦楽団のチェロ奏者のために「チェロ・ソナタ集 Op.5」を作曲。演奏を聴いたフリードリヒ・ヴィルヘルム2世は作品を気に入り、金貨を詰めた金の煙草入れをベートーヴェンに贈呈。ベートーヴェンは楽譜出版の際にフリードリヒ・ヴィルヘルム2世への献辞を添え、献呈料も得ています。





 前史

ズデーテン・ドイツ人、カール・ズスケの生まれ育ったライヒェンベルクについて理解するには、歴史を遡るのが便利なので簡単に流れをまとめておきます。

 800年

◆神聖ローマ帝国が成立。面積約100万km²、1800年の人口約2,900万人。


 14世紀

◆神聖ローマ帝国領の東部で、ライヒェンベルクの名前が使用されるようになります。当時のスペルは、「Reychinberch」、「Reychmberg」などと推移し、1369年に「Reichenberg」が文書に登場。
 1804年

◆8月、オーストリア帝国が成立。面積約698,700km²、人口約2,100万人で開始。


 1848年

◆1848年革命勃発。
◆オーストリア帝国でもライヒェンベルクの名前が「Reichenberg」として記載。
 1866年

◆6〜8月、普墺戦争。プロイセン陣営(イタリア、ハンブルク、リューベック等)とドイツ連邦(オーストリア、ザクセン、バイエルン、ヘッセン等)の戦い。短期間ながら両陣営死傷者10万人超えの凄惨な戦争。プロイセン側の勝利によりドイツ連邦は解散し、ドイツ統一からオーストリア帝国が除外され、オーストリア=ハンガリー帝国が生まれることになります。


 1867年

◆4月、北ドイツ連邦が成立。プロイセン、ザクセン、ハンブルク、リューベック、ブレーメン等の連合体。バイエルン、ヴュルッテンベルク、バーデン、およびヘッセン南部は加わらず。


◆5月、オーストリア=ハンガリー帝国が成立。オーストリア帝国時代の面積約698,700km²から約676,000km²となって約3%にあたる2万2700km²ほど面積が縮小したもののドイツ帝国を大きく上回っていました。人口は1914年時点で5,280万人を超える大所帯。


 1871年

◆1月、ドイツ帝国が成立。面積約54万km²、人口約4100万人で開始。


 1893年

◆オーストリア=ハンガリー帝国、ライヒェンベルクの新市庁舎が完成。オーストリアの建築家、フランツ・フォン・ノイマン[1844-1905]の設計によるもので、ウィーン市庁舎と似ていることからライヒェンベルクは「北のウィーン」とも呼ばれるようになります。当時のライヒェンベルクの住民のほとんどはドイツ系で、チェコ人、ユダヤ人は数%でした。


 1918年

◆10月27日、ズデーテン独立国、独立宣言。ライヒェンベルクはその首都で、住民のほとんどがドイツ系だったため、チェコ領になることに反対。ズデーテン独立国は下の画像の水色の部分。ライヒェンベルクは上部の中央部分。


◆11月、チェコスロヴァキア共和国、プラハで独立宣言。
◆11月下旬、チェコスロヴァキア軍がズデーテン独立国を攻撃。
◆12月、チェコスロヴァキア軍がズデーテン独立国を占領。下の画像はライヒェンベルク市庁舎を占拠するチェコスロヴァキア軍兵士たち。

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 1920年

◆7月、サン=ジェルマン条約により、ズデーテン独立国はチェコスロヴァキア領と決定。


 1933年

◆1月30日、ヒンデンブルク大統領がヒトラーを首相に任命。「ドイツ国(Deutsches Reich)」の体制は、14年間続いた「ヴァイマル共和政」(通称:ヴァイマル共和国)から「国家社会主義ドイツ労働者党独裁体制」(通称:ナチス・ドイツ)に移行(1945年まで)。
◆3月5日、ドイツ総選挙でナチ党が43.9%を獲得。
◆3月、オーストリア、キリスト教社会党のドルフース首相が、警察を動員して議会を閉鎖。緊急令により独裁的な運営を開始。
◆5月10日、ドイツ学生協会の主宰で、大規模な「焚書」が実施。
◆11月、ドイツ国会選挙。ナチ党への反対票(と無効票)が3,398,249票(7.89%)で、賛成票が39,655,224票(92.11%)と賛成が圧倒的多数でした。投票率も非常に高く95.3%の有権者が選挙に参加。


 年表
 1934年(0歳)

◆2月、ウィーンで内戦が勃発。オーストリア・ファシズム政権と、オーストリア社会民主党の支援する「防衛同盟」戦闘員が衝突、4日間で2,000人前後の死傷者が出て戒厳令も布告。
●3月15日、カール・ヨハン・ズスケ、チェコスロヴァキア共和国領のリベレツ(ライヒェンベルク)に誕生。父はフランツ、母はオッティリー・ズスケ。父はライヒェンベルク市立管弦楽団の第2ヴァイオリン奏者。
  生地ライヒェンベルクの700年ほどの歴史は、ドイツ系の住民によって築かれており、オーストリア帝国領からチェコスロヴァキア領になって十数年が経過しても住民の約8割はドイツ系で、オペラやコンサート、演劇などの劇場もあり、建築、街並みもドイツ風。経済・産業もドイツ系住民が支えていました。

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 1935年(0〜1歳)

◆3月、ドイツ、再軍備宣言と共に徴兵制も復活。

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 1936年(1〜2歳)

◆ドイツ経済が世界大恐慌前の水準に回復。
◆3月、ドイツ軍、ラインラントへ進駐。
◆12月、ヒトラーユーゲント義務化法が成立。10歳から18歳の健康な「ドイツ人全員」を対象としたもので、違反者には罰金刑や拘禁処置が適用。ちなみに1936年に約440万人だったヒトラーユーゲント構成員は、1937年に約580万人、1938年に約700万人、1939年には約810万人に達するという増え方で、1939年当時の対象者人口は約887万人だったので、その時点での加入率は実に91%と非常に高いものとなっています。ヒトラーユーゲントは健康志向で、ヒトラーが熱中した禁煙運動、アルコールやカフェイン飲料の禁止(節減)、菜食、ワンダーフォーゲルなど自然回帰に関する運動が推進されました。

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 1937年(2〜3歳)

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 1938年(3〜4歳)

◆3月、ドイツ、オーストリアを併合。
◆9月7日、ズデーテン・ドイツ人党は、ズデーテン地方自治に関するチェコスロヴァキア政府の譲歩案を拒否、交渉打ち切りを通告。
◆9月12日、ヒトラーはズデーテン・ドイツ人の処遇改善を求めて演説。
◆9月13日、プラハで非常事態宣言。自治を求めるズデーテン・ドイツ人のデモ隊が警官隊と衝突。

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 1939年(4〜5歳)

◆3月15日、ドイツによるチェコスロヴァキア実効支配開始。
  チェコのボヘミアとモラヴィアは、「ベーメン・メーレン保護領」に、「ズデーテンラントはドイツに割譲」。
  スロヴァキアとカルパティア・ルテニアは独立を強要された結果、ハンガリーに侵攻され、「カルパティア・ルテニア全土とスロヴァキアの一部地域がハンガリーによって占領」。そこでドイツが調停に入り、「スロヴァキアはドイツの保護のもとに独立」という流れになり、ほどなく独立国のスロヴァキア軍は、枢軸国軍の一員としてポーランドに攻め込むことになります。
◆3月、ライヒェンベルクはドイツ領となります。
◆8月、独ソ不可侵条約締結。
◆9月1日、ドイツがポーランドに侵攻。第2次大戦開戦。
◆9月17日、ソ連がポーランドに侵攻。
◆10月、ライヒェンベルクは、ズデーテンラント帝国大管区の大管区都となります。同大管区は面積22,608km²、人口約300万人と大規模。大管区指導者は終戦まで地元出身のコンラート・ヘンライン[1898-1945]で一貫。ヘンラインはハイドリヒと対立していました。

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 1940年(5〜6歳)

●ズスケ、父フランツからヴァイオリン演奏を習い始めます。父はライヒェンベルク市立管弦楽団の第2ヴァイオリン奏者。その後、父のほか、ライヒェンベルク市立管弦楽団のコンサートマスター、オルトからも教わるようになります。オルトは有名なオタカル・シェフチーク[1852-1934]の弟子でもありました。
●ズスケ、ライヒェンベルクの小学校に在学。
◆5月11日、チャーチルがイギリスの首相に就任。市街地空爆など民間人攻撃を強力に推進し、ドイツの民間人約41万人を殺害、500万人分以上の住居を破壊しています。
◆5月11〜12日、イギリス空軍、ドイツ西部のメンヒェングラートバッハ空爆。両国の間での最初の空爆はイギリス側が実施。

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 1941年(6〜7歳)

●ズスケ、ライヒェンベルクの小学校に在学。
●ズスケ、父フランツとライヒェンベルク市立管弦楽団コンサートマスター、オルトにヴァイオリンを師事。
◆6月22日、ドイツ軍、独ソ不可侵条約を破ってソ連に侵攻開始。バルバロッサ作戦。
◆9月23日、ラインハルト・ハイドリヒ[1904-1942]、ベーメン・メーレン保護領副総督に就任。抵抗運動に関わるインテリ層の弾圧と、労働者階級の懐柔策という「アメとムチ」ともいうべき方針で統治。労働者の食糧配給と年金支給額を増やし、温泉地カールスバートのリゾートホテルを労働者の保養目的で解放、また、チェコ初となる雇用保険制度を導入するなどして、ドイツ軍兵器の最重要生産拠点でもある工業先進地域チェコの安定化を図ります。

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 1942年(7〜8歳)

●ズスケ、ライヒェンベルクの小学校に在学。
●ズスケ、父フランツとライヒェンベルク市立管弦楽団コンサートマスター、オルトにヴァイオリンを師事。
◆5月27日、ハイドリヒ副総督、プラハでイギリス人と亡命チェコ人により襲撃され、その際に受けた傷がもとで6月4日に死去。
◆イギリス空軍、リューベック空爆により民間人約320人を殺害。

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 1943年(8〜9歳)

●ズスケ、ライヒェンベルクの小学校に在学。
●ズスケ、父フランツとライヒェンベルク市立管弦楽団コンサートマスター、オルトにヴァイオリンを師事。
◆5月16〜17日、イギリス空軍、ドイツのダムを空爆する洪水作戦を展開し、約1,300人を殺害。
◆6月19日、ベルリンでユダヤ人ゼロ宣言。
◆7月27〜28日、連合国軍、ハンブルク空爆により民間人約41,000人を殺害。
◆8月、連合国軍、ベルリン空爆開始。翌年3月までに民間人約9,400人を殺害。
◆11月1日、モスクワ宣言。3回モスクワ会議でのソ連・アメリカ・イギリスの外相らにより取り決められた内容で、オーストリアについては、ヒトラーの侵略政策の犠牲となった最初の国であるとされる一方、ドイツへの戦争協力にも言及し、今後、オーストリアそのものがドイツからの解放にどのくらい関与したかで戦争責任の追及が変わってくるなどと指摘。以後、オーストリア国内でのレジスタンスは数を増すこととなり、1944年の終わりには、臨時オーストリア国民委員会も結成して抵抗運動を本格化していました。

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 1944年(9〜10歳)

●ズスケ、ライヒェンベルクの小学校に在学。
●ズスケ、父フランツとライヒェンベルク市立管弦楽団コンサートマスター、オルトにヴァイオリンを師事。
◆2月、イギリス空軍、ボンへの空爆開始。ボンは小さな文教都市で軍事施設はありませんでしたが、連合国軍による民間人大虐殺戦略の一環として、1945年2月までに計72回爆撃、約6,400人を殺害、旧市街の建物約70%を破壊する成果を上げていました。
◆2月20日、ライプツィヒへの爆撃により、ゲヴァントハウスが焼失。ゲヴァントハウス管弦楽団は、旧市街の映画館「テアター・カピトール」で演奏会を開催するようになります。
◆4月、連合国軍、ベルギーとフランスの交通機関へ空爆開始。11月までにベルギーとフランスの民間人など約15,000人を殺害。
◆9月1日、ゲッベルス国家総力戦総監により、全ドイツの劇場閉鎖令が布告。保護領や占領地にも適用。
◆9月11〜12日、連合国軍、ダルムシュタット空爆により約12,300人を殺害。
◆9月25日、総統命令により、民兵組織「国民突撃隊」の編成が開始。対象者は16歳から60歳の一般市民。約600万人の組織を目指したものの、兵器や軍服の極端な不足や、様々な理由による拒否などにより計画にはまったく満たない状態で、戦果の方も限定的でした。
◆10月18日、連合国軍、ドイツに対して24時間体制で空爆を開始。

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 1945年(10〜11歳)

●ズスケ、ライヒェンベルクの小学校に在学。
◆2月12日、連合国軍、スヴィーネミュンデ空爆(死者約23,000人)。
◆2月13〜14日、連合国軍、ドレスデン空爆により3万人から15万人を殺害。
◆2月23〜24日、連合国軍、プフォルツハイム空爆により2万人以上を殺害。
◆4月16日、赤軍のジューコフ元帥によりベルリン砲撃開始。ベルリンの戦いは3週間続き、ソ連側死者約8万人に対し、ドイツ側死者約32万人という激戦となります。
◆4月30日、ソ連の猛攻の中、ヒトラー自殺。ヒトラーはデーニッツ元帥を後継に指名していたため。同日、臨時政府「フレンスブルク政府」が発足。デーニッツが大統領に就任して降伏のための準備を進めます。また、1月からデーニッツの指示で実施中の海軍による市民と兵士の搬送作戦も5月中旬まで継続され約200万人を救出。
◆5月9日、ドイツ降伏。2週間後、デーニッツ逮捕により臨時政府解散。
◆ベルリン、戦勝4か国占領下におかれ、ソ連が東部、英・米・仏が西部を統治。


◆5月5日、赤軍によるプラハの武装親衛隊への攻勢が開始。チェコ人による「プラハ蜂起」も起こり、ドイツ降伏の3日後まで武装親衛隊の抵抗は続きます。プラハの戦い。
◆5月8日、ドイツ降伏。
◆5月9日、赤軍がプラハを解放。
◆6月10日、ソ連軍政当局により「反ファシズム的政党の設立と活動」が許可。
◆6月11日、「ドイツ共産党(KPD)」が設立。
◆6月15日、「ドイツ社会民主党(SPD)」が設立。
◆6月26日、「キリスト教民主同盟(CDU)」が設立。
◆7月5日、「ドイツ自由民主党(LDP)」が設立。
◆上記、4つの政党の合意により、「反ファシズム民主諸政党統一戦線(アンティファ・ブロック)」が形成。
◆9月、ソ連占領地域で土地改革。100ヘクタール以上の地主の土地は没収、地主は追放。同時に大企業の土地・資産も没収。
◆チェコスロヴァキアのベネシュ大統領により、チェコスロヴァキア国籍を持つ約300万人のドイツ系住民から市民権と財産を剥奪したうえで追放することが布告されます。
  チェコのドイツ系住民のほとんどは、オーストリア帝国だった時代から代々長く暮らしていた人々です。


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 1946年(11〜12歳)

●ズスケ、ライヒェンベルクの小学校に在学。
◆チェコスロヴァキアからのドイツ系住民の追放が本格化。
●ズスケ家、テューリンゲン州のグライツに移住。ライヒェンベルクの西200キロほどのところにある人口4万5千人ほどの都市。
●ズスケ、ヴィリー・ブライスにヴァイオリンを師事。ブライスはグライツ交響楽団のコンサートマスター。
◆4月、「ドイツ社会主義統一党(SED)」が成立。前年に設立された「ドイツ共産党(SPD)」と「ドイツ社会民主党(KPD)」が合体。
◆4月、「自由ドイツ青年同盟(FDJ)」創設。「ドイツ社会主義統一党(SED)」の下部組織で、ソ連の「コムソモール」に相当。
◆ドイツのソ連占領地域で、教育制度改革実施。これにより、8年間の共通教育の後、2年間の職業教育コースと大学進学コースへの準備期間が設定。
◆ドイツのソ連占領地域に、国営映画会社「DEFA」設立。

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 1947年(12〜13歳)

●ズスケ、ヴィリー・ブライスにヴァイオリンを師事。

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 1948年(13〜14歳)

●ズスケ、ヴィリー・ブライスにヴァイオリンを師事。
●ズスケ、ワイマール音楽大学に入学。ヴァイオリンの師は講師のゲルハルト・ボッセ。ボッセはワイマール放送小管弦楽団のコンサートマスターも務めていました。
◆6月20日、米英仏占領区域で通貨改革。これによりベルリンは経済的に分断。
◆6月24日、ソ連軍政局がベルリンを封鎖(1949年5月12日まで)。
◆西側大空輸作戦を開始。

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 1949年(14〜15歳)

●ズスケ、ワイマール音楽大学在学。ボッセが教授に昇進。
◆4月、北大西洋条約機構(NATO)発足。
◆9月、ドイツ連邦共和国(西ドイツ)成立。
◆10月、ドイツ民主共和国(東ドイツ)成立。

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 1950年(15〜16歳)

●ズスケ、ワイマール音楽大学在学。ボッセに師事。

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 1951年(16〜17歳)

●師のボッセが、ライプツィヒ音楽大学の教授職を獲得し、さらにアーベントロートの要請で、ライプツィヒ放送交響楽団第1コンサートマスターに就任したためライプツィヒに転居。
●17歳のズスケも師のボッセと共にライプツィヒに移り、ワイマール音楽大学からライプツィヒ音楽大学に編入してボッセからの指導を継続して受けることになります。

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 1952年(17〜18歳)

●ズスケ、ライプツィヒ音楽大学に在学。
◆5月、東ドイツと西ドイツの間に国境が設定。国境から500m以内に居住する者は、強制的に退去。
◆秋、農業改革の影響により収穫量減少。食糧が不足。配給制度が本格化。

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 1953年(18〜19歳)

●ズスケ、ライプツィヒ音楽大学に在学。ボッセに師事。
◆3月5日、スターリン死去。
◆3月、東ドイツ、経済の悪化により西側への移住が増加。
◆6月、東ベルリン暴動発生。東ベルリンの「スターリン通り」建設に際し、労働者が厳しいノルマに対して反発。これをきっかけに東ドイツ各地で蜂起が発生するものの、ソ連の武力介入により鎮圧。死者は民衆側と政府側を合わせて数百名規模。


◆東ドイツ、食糧配給制。

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 1954年(19〜20歳)

●ズスケ、ライプツィヒ音楽大学を卒業。
●9月、ズスケ、ゲヴァントハウス管弦楽団に首席ヴィオラ奏者として入団。

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 1955年(20〜21歳)

●ズスケ、ゲヴァントハウス管弦楽団、首席ヴィオラ奏者。
●ズスケ、ゲヴァントハウス四重奏団に第2ヴァイオリン奏者として入団。以後のメンバーは下記の通り。
  第1ヴァイオリン:ゲルハルト・ボッセ
  第2ヴァイオリン:カール・ズスケ
  ヴィオラ:フリッツ・ヘンチュケ
  チェロ:アルヴィン・バウアー

◆5月、ワルシャワ条約機構発足。ソ連主導の軍事同盟。


◆9月8日、西ドイツ、アデナウアー首相がモスクワを訪問し、ソ連と国交を樹立。ドイツ人捕虜が帰国できるよう交渉。
◆9月22日、西ドイツ、アデナウアー首相により、「ハルシュタイン・ドクトリン」が宣言。東ドイツを国家として承認する国とは断交することを表明。これは東ドイツを経済面で破綻させ、崩壊させるための作戦で、西ドイツは実際に、ユーゴスラヴィア、キューバと断交していました(ソ連は国交を樹立したばかりなので除外)。
◆11月、西ドイツ、ドイツ連邦軍の正式発足に伴い、北大西洋条約機構(NATO)に加盟。再軍備の準備は1950年からおこなわれていましたが、長年のフランスの反対で時間がかかりました。
◆東ドイツ、食糧配給制。

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 1956年(21〜22歳)

●ズスケ、ゲヴァントハウス管弦楽団、首席ヴィオラ奏者。
●ズスケ、ゲヴァントハウス四重奏団、第2ヴァイオリン奏者。
●9月、ズスケ、ゲヴァントハウス管弦楽団、第2コンサートマスターに就任。
◆東ドイツ、食糧配給制。
◆3月、東ドイツが再軍備を開始。志願制の人民軍を創設。前年11月の西ドイツ再軍備に対応して1月に法制化されたもので、ワルシャワ条約機構にも加盟。
◆10月、ハンガリー動乱。ハンガリーの共産主義政権に対して蜂起した市民たちを制圧すべくソ連が軍事介入。市街戦の様相を呈した「ハンガリー動乱」は、死傷者1万7千人という犠牲を出し、難民の数も20万人とも言われる大惨事。ウィーン郊外の収容施設には、膨大な数の難民が受け入れられ、中には音楽家たちも数多く含まれていました。


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 1957年(22〜23歳)

●ズスケ、ゲヴァントハウス管弦楽団、第2コンサートマスター。
●ズスケ、ゲヴァントハウス四重奏団、第2ヴァイオリン奏者。
●ズスケと妻ジビレとの間に長女、コルネリア誕生。
◆東ドイツ、食糧配給制。

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 1958年(23〜24歳)

●ズスケ、ゲヴァントハウス管弦楽団、第2コンサートマスター。
●ズスケ、ゲヴァントハウス四重奏団、第2ヴァイオリン奏者。
●ゲヴァントハウス四重奏団のヴィオラ奏者とチェロ奏者が交代。以後のメンバーは下記の通り。
  第1ヴァイオリン:ゲルハルト・ボッセ
  第2ヴァイオリン:カール・ズスケ
  ヴィオラ:ディートマル・ハルマン
  チェロ:フリーデマン・エルベン

●ゲヴァントハウス四重奏団、ゲルスター:弦楽四重奏曲第2番、ヴァーグナー=レゲニー:弦楽四重奏曲、デッサウ:カルテッティーノをETERNAに録音。
●ズスケの長男、コンラート誕生。
◆5月、東ドイツの食糧配給制が廃止。食糧事情が安定。

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 1959年(24〜25歳)

●1月、ズスケ、ゲヴァントハウス管弦楽団、第2コンサートマスター。
●ズスケ、ゲヴァントハウス四重奏団、第2ヴァイオリン奏者。
●ズスケの次男、フランク誕生。

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 1960年(25〜26歳)

●ズスケ、ゲヴァントハウス管弦楽団、第2コンサートマスター。
●ズスケ、ゲヴァントハウス四重奏団、第2ヴァイオリン奏者。
◆9月、ドイツ社会主義統一党(SED)の中央委員会第一書記であるヴァルター・ウルブリヒト[1893-1973]が、初代の「国家評議会議長」に就任。ウルブリヒトは、党の第一書記は1971年に健康問題を理由に辞任させられるものの、「国家評議会議長」には1973年に亡くなるまで留まっています。

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 1961年(26〜27歳)

●ズスケ、ゲヴァントハウス管弦楽団、第2コンサートマスター。
●ズスケ、ゲヴァントハウス四重奏団、第2ヴァイオリン奏者。
●4〜5月、ゲヴァントハウス管弦楽団、コンヴィチュニーと共に初の日本公演。以後、2019年までに24回来日公演を実施(2021年は中止)。
◆春、東ドイツの経済が急速に悪化。
◆5月、東ドイツ、バターと肉が配給制に。
◆6月15日、ウルブリヒト議長が議会で壁を建設するつもりはないと発言。
◆7月、フルシチョフにより東西ベルリンの境界閉鎖が決定。
◆8月13日、東ドイツ、ホーネッカーの指揮で「ベルリンの壁」の建設を開始。1952年からフェンスと警報装置が備えられ、国境警備もおこなわれていた西ベルリンと東ドイツの境界線に、頑丈なコンクリートの壁と有刺鉄線を設置。幅広い分離帯も設けて障害物を置いたほか、地雷を埋めたりもして、東ドイツから西ベルリンへの越境を阻止するために莫大な国費が投じられます。
  ちなみに東ドイツ建国からこの1961年までの約11年間に、累計約360万人の東ドイツ人が西ドイツに移り、累計約50万人の西ドイツ人が東ドイツに移っています。当時の東ドイツの人口は約1,700万人で、移住者の多くは生産年齢に該当したため、東ドイツ経済を押し下げ、西ドイツ経済を押し上げるのに十分な数でした。また、東ベルリンと西ベルリンの相互移動に問題がなかった時期には、物価や賃金水準の違いによって生じた往来人口は1日あたり約50万人に達しており、東側からの物品流出や、東側通貨弱体化の要因ともなっていました。
  なお、「ベルリンの壁」建設後に脱出に成功した人の数は約18万人で、これに合法的に西ドイツに移住した約72万7千人を加えると、「ベルリンの壁」建設後の流出人口は約90万7千人となります。合法的転出者の多くは高齢者でした。下の画像、ブランデンブルク門のある左側が東ベルリンで、右側が西ベルリンとなります。


●ベルリン国立歌劇場、「ベルリンの壁」の影響で運営の危機。ベルリン国立歌劇場の出演者や関係者には、西ドイツやオーストリアなど西側諸国から来る人も多く、また、東ドイツ人であっても、住居は西ベルリンというケースも割と一般的だったため、一晩で「ベルリンの壁」が築かれた影響には深刻なものがありました。
  劇場に来ることが難しくなった指揮者、歌手、オーケストラ楽員、合唱団員、バレエ団員、舞台関係者はかなりの数にのぼり、東ドイツ政府は、急遽、他の歌劇場の歌手や、オーケストラの楽員、合唱団員、東ドイツの4つの音楽学校の卒業生、バレエ学校の卒業生をベルリンに集め、ベルリン国立歌劇場の上演水準を保つために必死の努力がおこなわれます。
  総監督(インテンダント)のマックス・ブルクハルト[1893-1977]と音楽総監督のフランツ・コンヴィチュニー[1901-1962]、常任指揮者のアルトゥール・アペルト[1907-1993]とロベルト・ハネル[1925-2009]は、東ドイツ人なので問題なかったものの、音楽総監督のホルスト・シュタイン[1928-2008]と、常任指揮者のハンス・レーヴライン[1909-1992]の2名は職務継続が難しくなり、レーヴラインはフランクフルト歌劇場の第1指揮者に転身、ホルスト・シュタインも1963年にマンハイム国立劇場の音楽総監督に就任することを決めています。
  ベルリン国立歌劇場は、「レパートリー・システム」で運営される劇場の為、数多い演目を、不連続で複数回に渡って上演するという運用形態になっており、経験豊富な指揮者の存在は不可欠とあって早急な人材確保が必要とされていました。
  そこで音楽総監督のコンヴィチュニーは、自身のもうひとつの重要拠点であるライプツィヒで活躍していた3人の指揮者、ハインツ・フリッケ[1927-2015](ライプツィヒ市立歌劇場)、ヘルムート・ザイデルマン[1901-1962](ライプツィヒ市立歌劇場)、ハインツ・レーグナー(ライプツィヒ放送大管弦楽団)を呼ぶことにします。
  フリッケとザイデルマンは歌劇場勤務で指揮者が複数いたためすぐに移って、12月に音楽総監督に任命されましたが、レーグナーは放送オケの首席指揮者だったのでなかなか動けず、最初に指揮できたのが1962年7月の『フィデリオ』で、コンヴィチュニーの死の2週間前のこと。その間、ザイデルマンが着任から4か月後の1962年1月17日に急死しており、劇場は、多くの常任、客演指揮者が登場して運営されていたというのが実情でした。
  レーグナーは1962年9月のシーズン開始から移ることができ、12月にはベンツィン文化大臣から音楽総監督に任命。当時のベルリン国立歌劇場は、1955年の再建オープンから規模が大掛かりになっていたことから、音楽総監督を複数置くことを可能としており、下記のメンバーで東ドイツ時代を乗り切っています。

1955-1958 コンヴィチュニー/マタチッチ/シュタイン
1958-1961 コンヴィチュニー/シュタイン
1961-1962 コンヴィチュニー/フリッケ/ザイデルマン
1962-1962 コンヴィチュニー/フリッケ
1962-1964 フリッケ/レーグナー
1964-1971 スイトナー/フリッケ/レーグナー
1971-1974 フリッケ/レーグナー
1974-1990 スイトナー/フリッケ

「ベルリンの壁」直後、1961年秋からのシーズンを支えたのは音楽総監督のほか、常任指揮者と客演指揮者で、1960年シーズンから継続指揮のアペルトとハネルに加え、レーグナーと似た名前のハインツ・レットガー[1909-1977](デッサウ州立劇場)、朝比奈隆[1908-2001](大阪フィルハーモニー交響楽団)、チャールズ・マッケラス[1925-2010](イングリッシュ・ナショナル・オペラ)、ヘルムート・コッホ[1908-1975](ベルリン室内管弦楽団)、ヘルベルト・ケーゲル[1920-1990](ライプツィヒ放送交響楽団)、ハンス・アウエンミュラー[1926-1991](ノルトハルツ市立劇場)のほか、ルドルフ・ノイハウス[1914-1990](ドレスデン国立歌劇場)、ゲルハルト・プフリューガー[1907-1991](ワイマール・ドイツ国民劇場)、カール・シューベルト[1906-2006](シュターツカペレ・シュヴェリーン)、ホルスト・フェルスター[1920-1986](ハレ国立フィル)、アーセン・ナイデノフ[1899-1995](ソフィア国立歌劇場)、ゲルハルト・アウアー[1925-2002](スロヴァキア国立歌劇場)、ルドルフ・ヴァシャタ[1911-1982](スメタナ劇場[プラハ国立劇場])、ルスラン・ライチェフ[1919-2006](ソフィア国立歌劇場)、ヴィルモス・コモル[1895-1971](ハンガリー国立歌劇場)、等々、多くの国の指揮者が実務に携わっています。

  その後、1963年には総監督が演劇畑のマックス・ブルクハルト[1893-1977]から、元チェンバロ奏者で、ドイツ社会主義統一党(SED)のハンス・ピシュナー[1914-2016]に代わって劇場としての力が強まり、1964年にはオトマール・スイトナーがドレスデン国立歌劇場から転身して音楽総監督に就任、人気を博すようになります。ピシュナーは21年間総監督に在任。それ以前にも、ベルリン放送局音楽局長、文化省音楽部長など要職を歴任。
  やがてスイトナーは1971年、ウルブリヒト体制からホーネッカー体制に切り替わったのを機に、西ベルリンでの子供の誕生もあってか、N響客演などコンサート指揮者としての活動に軸足を移してベルリン国立歌劇場を離れたため、フリッケとレーグナーの2人が音楽総監督を務めるようになります。そのレーグナーも、2年後の1973年には、病床のロルフ・クライネルトに代わってベルリン放送交響楽団の首席指揮者に就任しますが、ベルリン国立歌劇場での音楽総監督としての指揮は翌年まで継続、しばらくは兼務で忙しい状態が続きます。
  なお、スイトナーは1974年にベルリン国立歌劇場音楽総監督に返り咲き、以後、1990年にパーキンソン病で引退するまで在任していました。
  下の画像は再建されたベルリン国立歌劇場で、以前の建物とは屋根の上部などが違っています。また、右隣に見える聖ヘートヴィヒ大聖堂も爆撃で上部構造物が破壊されてシンプルになっています。ちなみに、ベームやクリュイタンス、マルケヴィチ、ケンペ、フリッチャイ、フォルスターなどと大量のレコーディングをおこなっていた聖ヘートヴィヒ大聖堂合唱団の録音が急に少なくなってしまったのも「ベルリンの壁」が原因でした。


◆9月15日、「国境警備隊」が人民軍に編入。越境者の監視任務につき、必要な場合は、越境者が分離帯に入った時点で銃撃などで対応。監視塔は約300設置されることになり、200人近くが射殺されています。

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 1962年(27〜28歳)

●ズスケ、ゲヴァントハウス管弦楽団、第2コンサートマスター。
●ズスケ、ゲヴァントハウス四重奏団、第2ヴァイオリン奏者。
●ゲヴァントハウス四重奏団、東ドイツ政府より国家芸術賞を授与。
●7月、ズスケ、ゲヴァントハウス管弦楽団を退団。
●9月、ズスケ、シュターツカペレ・ベルリンに第1コンサートマスターとして入団。コンヴィチュニーの指名。

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 1963年(28〜29歳)

●ズスケ、シュターツカペレ・ベルリン、第1コンサートマスター。
●ズスケ、ゲヴァントハウス四重奏団を退団。後任の第2ヴァイオリン奏者はギュンター・グラス。以後のメンバーは下記の通り。
  第1ヴァイオリン:ゲルハルト・ボッセ
  第2ヴァイオリン:ギュンター・グラス
  ヴィオラ:ディートマル・ハルマン
  チェロ:フリーデマン・エルベン

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 1964年(29〜30歳)

●ズスケ、シュターツカペレ・ベルリン、第1コンサートマスター。
◆10月、フルシチョフ死去。
◆10月、ウクライナ生まれのロシア人ブレジネフが最高指導者に。
◆11月、東ドイツ、退職年齢者(男65歳・女60歳)のみ西ドイツ訪問を許可。

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 1965年(30〜31歳)

●ズスケ、シュターツカペレ・ベルリン、第1コンサートマスター。
●ズスケ、シュターツカペレ・ベルリンの楽員により「ズスケ四重奏団」を結成。スメタナ四重奏団を育て上げたヨセフ・ミツカ教授の指導を受けています。メンバーは下記の通り。
  第1ヴァイオリン:カール・ズスケ
  第2ヴァイオリン:クラウス・ペータース
  ヴィオラ:カール=ハインツ・ドムス
  チェロ:マティアス・プフェンダー

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 1966年(31〜32歳)

●ズスケ、シュターツカペレ・ベルリン、第1コンサートマスター。
●ズスケ、ズスケ四重奏団、第1ヴァイオリン奏者。
●ズスケ四重奏団、ジュネーヴ国際コンクール弦楽四重奏部門で1位なしの2位を西ドイツのメロス四重奏団と分け合います。

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 1967年(32〜33歳)

●ズスケ、シュターツカペレ・ベルリン、第1コンサートマスター。
●ズスケ、ズスケ四重奏団、第1ヴァイオリン奏者。

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 1968年(33〜34歳)

●ズスケ、シュターツカペレ・ベルリン、第1コンサートマスター。
●ズスケ、ズスケ四重奏団、第1ヴァイオリン奏者。

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 1969年(34〜35歳)

●ズスケ、シュターツカペレ・ベルリン、第1コンサートマスター。
●ズスケ、ズスケ四重奏団、第1ヴァイオリン奏者。

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 1970年(35〜36歳)

●ズスケ、シュターツカペレ・ベルリン、第1コンサートマスター。
●ズスケ、ズスケ四重奏団、第1ヴァイオリン奏者。
●ズスケ四重奏団、東ドイツ政府より国家芸術賞を授与。
●ズスケ四重奏団、「ベルリン四重奏団」と改名。
●ズスケの次女、アンネグレート誕生。
●ズスケ、ベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲ハ長調 WoO.5(断章)、ロマンス第1番、第2番をETERNAに録音。ボンガルツ指揮ゲヴァントハウス管との共演。

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 1971年(36〜37歳)

●ズスケ、シュターツカペレ・ベルリン、第1コンサートマスター。
●ズスケ、ベルリン四重奏団、第1ヴァイオリン奏者。
◆5月、ヴァルター・ウルブリヒトが、ドイツ社会主義統一党(SED)の中央委員会第一書記を辞任。後任は、エーリッヒ・ホーネッカー[1912-1994]。

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 1972年(37〜38歳)

●ズスケ、シュターツカペレ・ベルリン、第1コンサートマスター。
●ズスケ、ベルリン四重奏団、第1ヴァイオリン奏者。
◆6月、「ベルリン協定」が発効。前年に連合国4各国の外相らにより同意されていたもので、西ドイツとベルリンの間の交通・通信の十分な確保と、西ベルリンから東ドイツへの入国も認めるというソ連の決定、および米英仏による西ドイツと西ベルリンの連携が決定。四半世紀以上に渡って東西緊張の場となっていたベルリンの状況が改善した「通過交通協定」。
◆12月、「東西ドイツ基本条約」が東ベルリンで署名されて締結。1973年6月に発効。

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 1973年(38〜39歳)

●ズスケ、シュターツカペレ・ベルリン、第1コンサートマスター。
●ズスケ、ベルリン四重奏団、第1ヴァイオリン奏者。
●ベルリン四重奏団、日本公演。コンサートのほか、ビクター音産にハイドンの「セレナーデ」とシューベルトの「ロザムンデ」を録音。
●ゲヴァントハウス四重奏団、チェロ奏者が15年務めたフリーデマン・エルベンからユルンヤーコプ・ティムに交代。以後のメンバーは下記の通り。
  第1ヴァイオリン:ゲルハルト・ボッセ
  第2ヴァイオリン:ギュンター・グラス
  ヴィオラ:ディートマル・ハルマン
  チェロ:ユルンヤーコプ・ティム

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 1974年(39〜40歳)

●ズスケ、シュターツカペレ・ベルリン、第1コンサートマスター。
●ズスケ、ベルリン四重奏団、第1ヴァイオリン奏者。
◆10月7日、東ドイツ、建国25周年を機に憲法を改正。

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 1975年(40〜41歳)

●ズスケ、シュターツカペレ・ベルリン、第1コンサートマスター。
●ズスケ、ベルリン四重奏団、第1ヴァイオリン奏者。
●ズスケ、ゲヴァントハウス管弦楽団、コンサートマスターに就任。
●ズスケ、ワイマール音楽大学教授に就任。

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 1976年(41〜42歳)

●ズスケ、ゲヴァントハウス管弦楽団コンサートマスター。
●ズスケ、シュターツカペレ・ベルリン、第1コンサートマスター。
●ズスケ、ベルリン四重奏団、第1ヴァイオリン奏者。
●ズスケ、ワイマール音楽大学教授。

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 1977年(42〜43歳)

●ズスケ、シュターツカペレ・ベルリンを退団。
●ズスケ、ベルリン四重奏団を退団。
●ズスケ、ゲヴァントハウス管弦楽団、第1コンサートマスターに就任。クルト・マズアの要請によるものでした。
●ズスケ、ゲヴァントハウス四重奏団に第1ヴァイオリン奏者として復帰。第2ヴァイオリン奏者が14年務めたギュンター・グラスからジョルジョ・クレーナーに交代。以後のメンバーは下記の通り。
  第1ヴァイオリン:カール・ズスケ
  第2ヴァイオリン:ジョルジョ・クレーナー
  ヴィオラ:ディートマル・ハルマン
  チェロ:ユルンヤーコプ・ティム

●ゲヴァントハウス四重奏団、日本公演。
●ズスケ、ワイマール音楽大学講師。
◆東ドイツでコーヒー危機。ブラジル産コーヒーの急騰により、東ドイツ政府は外貨節約のため(石油輸入にまわすため)、コーヒーなどの嗜好品輸入を制限。国民は猛反発。これが1980年以降の東ドイツとベトナムの関係強化に直結。東ドイツの支援でベトナムはコーヒー農園の面積を14倍に拡大、コーヒー生産に関わるベトナム人も1万人増やし、病院・学校を含めた集落を建設、水力発電、灌漑システム、建設機器などにも莫大な費用を投じています。これによりベトナムは巨大なコーヒー産地へと成長。もともと東ドイツは共産圏ということでベトナム戦争では北ベトナムを支持、戦時中の1973年には、エテルナ・レーベルから、スイトナーやボンガルツ、マズア、ケーゲル、コッホらクラシックのアーティストの音源を集めた応援LPも発売されたりしていました。

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 1978年(43〜44歳)

●ズスケ、ゲヴァントハウス管弦楽団、第1コンサートマスター。
●ズスケ、ゲヴァントハウス四重奏団、第1ヴァイオリン奏者。
●ズスケ、ワイマール音楽大学教授。
●9〜10月、ゲヴァントハウス管弦楽団のアメリカ・ツアーに参加。

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 1979年(44〜45歳)

●ズスケ、ゲヴァントハウス管弦楽団、第1コンサートマスター。
●ズスケ、ゲヴァントハウス四重奏団、第1ヴァイオリン奏者。
●ズスケ、ワイマール音楽大学教授。
●ゲヴァントハウス管弦楽団、来日。ズスケはソロ・リサイタルも開催。
◆EMS(欧州通貨制度)設置。EEC(欧州経済共同体)加盟国間での通貨変動を年間±2.5%以内に抑制し、為替相場を安定。これにより西ドイツ・マルクが台頭。イギリスは1990年から1992年の期間のみ参加。

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 1980年(45〜46歳)

●ズスケ、ゲヴァントハウス管弦楽団、第1コンサートマスター。
●ズスケ、ゲヴァントハウス四重奏団、第1ヴァイオリン奏者。
●ズスケ、ワイマール音楽大学教授。
●ゲヴァントハウス四重奏団、日本公演。

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 1981年(46〜47歳)

●ズスケ、ゲヴァントハウス管弦楽団、第1コンサートマスター。
●ズスケ、ゲヴァントハウス四重奏団、第1ヴァイオリン奏者。
●ズスケ、ワイマール音楽大学教授。
●ズスケ、ソリストとして日本公演。

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 1982年(47〜48歳)

●ズスケ、ゲヴァントハウス管弦楽団、第1コンサートマスター。
●ズスケ、ゲヴァントハウス四重奏団、第1ヴァイオリン奏者。
●ズスケ、ワイマール音楽大学教授。

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 1983年(48〜49歳)

●ズスケ、ゲヴァントハウス管弦楽団、第1コンサートマスター。
●ズスケ、ゲヴァントハウス四重奏団、第1ヴァイオリン奏者。
●ズスケ、ワイマール音楽大学教授。

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 1984年(49〜50歳)

●ズスケ、ゲヴァントハウス管弦楽団、第1コンサートマスター。
●ズスケ、ゲヴァントハウス四重奏団、第1ヴァイオリン奏者。
●ズスケ、ワイマール音楽大学教授。

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 1985年(50〜51歳)

●ズスケ、ゲヴァントハウス管弦楽団、第1コンサートマスター。
●ズスケ、ゲヴァントハウス四重奏団、第1ヴァイオリン奏者。
●ズスケ、ワイマール音楽大学教授。
◆3月、ゴルバチョフ、ソ連最高指導者に選出。ペレストロイカ(再構築、リストラクチャー)を前面に掲げて改革を推進。ソ連経済が悪化。
●ゲヴァントハウス四重奏団、日本公演。

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 1986年(51〜52歳)

●ズスケ、ゲヴァントハウス管弦楽団、第1コンサートマスター。
●ズスケ、ゲヴァントハウス四重奏団、第1ヴァイオリン奏者。
●ズスケ、ワイマール音楽大学教授。
◆ゴルバチョフ、グラスノスチ(情報公開)を本格化。ソ連経済がさらに悪化。

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 1987年(52〜53歳)

●ズスケ、ゲヴァントハウス管弦楽団、第1コンサートマスター。
●ズスケ、ゲヴァントハウス四重奏団、第1ヴァイオリン奏者。
●ズスケ、ワイマール音楽大学教授を退任。
●ズスケ、ライプツィヒ音楽大学教授に就任。
●9月、ズスケ、ベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲をETERNAに録音。マズア指揮ゲヴァントハウス管との共演。

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 1988年(53〜54歳)

●ズスケ、ゲヴァントハウス管弦楽団、第1コンサートマスター。
●ズスケ、ゲヴァントハウス四重奏団、第1ヴァイオリン奏者。
●ズスケ、ライプツィヒ音楽大学教授に就任。

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 1989年(54〜55歳)

●ズスケ、ゲヴァントハウス管弦楽団、第1コンサートマスター。
●ズスケ、ゲヴァントハウス四重奏団、第1ヴァイオリン奏者。
●ゲヴァントハウス四重奏団、第2ヴァイオリン奏者が12年務めたジョルジョ・クレーナーからコンラート・ズスケに交代。以後のメンバーは下記の通り。
  第1ヴァイオリン:カール・ズスケ
  第2ヴァイオリン:コンラート・ズスケ
  ヴィオラ:ディートマル・ハルマン
  チェロ:ユルンヤーコプ・ティム

●ズスケ、ライプツィヒ音楽大学教授。
◆1月15日、ライプツィヒで、ローザ・ルクセンブルクとカール・リープクネヒトの追悼行事とデモがおこなわれ約1万4千人が参加。逮捕者80名。
◆5月、民主化推進中のハンガリーのネーメト首相、オーストリアとの約350kmの国境線から鉄条網と警報装置の撤去を決定。
◆9月4日、ライプツィヒ、「月曜デモ」。
●9月、レーグナー、ライプツィヒ放送響に客演。
◆9月、ハンガリーのネーメト首相、東ドイツとの国境を開放。約20万人の東ドイツからの転出者を受け入れたのち、西ドイツのコール首相から難民受け入れの承諾をとって出国させています。
◆9月10日、東ドイツで反体制団体「ノイエス・フォールム」が結成。ホーネッカー政権に対する反政府運動を開始。
◆9月、ホーネッカー議長、チェコとの国境を閉鎖。
◆9月25日、ライプツィヒ、「月曜デモ」が約8千人規模に拡大。
◆10月9日、ライプツィヒ、「月曜デモ」が約7万人規模に拡大。
◆10月16日、ライプツィヒ、「月曜デモ」が約10万人規模に拡大。ホーネッカー議長は軍に武力鎮圧を命じるものの、シュトレーレッツ大将は拒否。


◆東ドイツから西側への転出者が約34万人。

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 1990年(55〜56歳)

●ズスケ、ゲヴァントハウス管弦楽団、第1コンサートマスター。
●ズスケ、ゲヴァントハウス四重奏団、第1ヴァイオリン奏者。
●ズスケ、ライプツィヒ音楽大学教授を退任。
◆2月、東西ドイツ通貨統合案の策定。実勢レートで4.4倍の差がある西ドイツ・マルクと東ドイツ・マルクを1:1の対等な比率で交換することで、東ドイツ国民の財産が4.4倍になるというプラン。
◆3月1日、東ドイツに「トロイハント信託公社」設立。人民の財産と称する国営企業の資産(400万人以上が働く約8,500社の資産)を、西側に売却する為につくられた組織。


◆3月18日、東ドイツの人民議会選挙で、西ドイツとの経済連携や、1対1の通貨交換を強く訴求したキリスト教民主同盟(CDU)とその同盟勢力が、48%以上の票を獲得。
◆10月18日、ホーネッカー議長辞任。
◆11月9日、「ベルリンの壁」崩壊。

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 1991年(56〜57歳)

●ズスケ、ゲヴァントハウス管弦楽団、第1コンサートマスター。
●ズスケ、ゲヴァントハウス四重奏団、第1ヴァイオリン奏者。
●ズスケ、バイロイト音楽祭にコンサートマスターとして参加。
●ゲヴァントハウス四重奏団、日本公演。
◆4月、「トロイハント信託公社」総裁のデトレフ・ローヴェッターがライフル銃で暗殺。ドイツ赤軍が犯行声明を出しているものの、犯人は不明。ローヴェッターはドイツ社会民主党(SPD)のメンバーで、後任のキリスト教民主同盟(CDU)議員ビルギット・ブロイエルは、西ドイツのニーダーザクセン州経済労働大臣でした。
◆12月、ソ連崩壊。ゴルバチョフ辞任&ソ連共産党解散。


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 1992年(57〜58歳)

●ズスケ、ゲヴァントハウス管弦楽団、第1コンサートマスター。
●ズスケ、ゲヴァントハウス四重奏団、第1ヴァイオリン奏者。
●ズスケ、バイロイト音楽祭にコンサートマスターとして参加。
◆1月、エリツィン、貿易、価格、通貨の自由化と緊縮財政策を導入し、市場経済への移行を準備。国債も大量に発行。
◆ロシアで前年比2500%を超えるハイパーインフレ状態となり、市民生活の質が大幅に低下。GDP下落率もマイナス14.5%を記録。
◆10月、ロシアの国有資産を民間に移行できるよう株式売買制度を改革。制度を利用して新興財閥が続々と誕生。

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 1993年(58〜59歳)

●ズスケ、ゲヴァントハウス管弦楽団、第1コンサートマスター。
●ズスケ、ゲヴァントハウス四重奏団を退団。
●ズスケ、バイロイト音楽祭にコンサートマスターとして参加。
●ゲヴァントハウス四重奏団、日本公演。

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 1994年(59〜60歳)

●ズスケ、ゲヴァントハウス管弦楽団、第1コンサートマスター。
●ズスケ、バイロイト音楽祭にコンサートマスターとして参加。
●4月、ズスケ、NHK交響楽団と客員コンサートマスターとして契約。
●ズスケ、ゲヴァントハウス四重奏団を退団。通算すると25年間の在籍。第1ヴァイオリン奏者の後任はフランク=ミヒャエル・エルベン。また、ヴィオラ奏者が36年務めたディートマル・ハルマンからフォルカー・メッツに交代。以後のメンバーは下記の通り。
  第1ヴァイオリン:フランク=ミヒャエル・エルベン
  第2ヴァイオリン:コンラート・ズスケ
  ヴィオラ:フォルカー・メッツ
  チェロ:ユルンヤーコプ・ティム

●11月、ズスケ、ユルンヤーコプ・ティムらと日本公演。
◆5月29日、元社会主義統一党中央委員会書記のエーリッヒ・ホーネッカー、チリのサンティアゴで死去。1989年の失脚後、1991年にソ連に亡命、1992年にドイツに戻され、1993年に訴追免除となったのち、娘の住むチリに渡り、翌年に肝臓がんにより81歳で死去。

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 1995年(60〜61歳)

●ズスケ、ゲヴァントハウス管弦楽団、第1コンサートマスター。
●ズスケ、バイロイト音楽祭にコンサートマスターとして参加。
●ズスケ、NHK交響楽団、客員コンサートマスター。

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 1996年(61〜62歳)

●ズスケ、ゲヴァントハウス管弦楽団、第1コンサートマスター。
●ズスケ、バイロイト音楽祭にコンサートマスターとして参加。
●ズスケ、NHK交響楽団、客員コンサートマスター。

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 1997年(62〜63歳)

●ズスケ、ゲヴァントハウス管弦楽団、第1コンサートマスター。
●ズスケ、バイロイト音楽祭にコンサートマスターとして参加。
●ズスケ、NHK交響楽団、客員コンサートマスター。

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 1998年(63〜64歳)

●ズスケ、ゲヴァントハウス管弦楽団、第1コンサートマスター。
●ズスケ、バイロイト音楽祭にコンサートマスターとして参加。
●ズスケ、NHK交響楽団、客員コンサートマスター。
●ズスケ、日本公演。

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 1999年(64〜65歳)

●ズスケ、ゲヴァントハウス管弦楽団、第1コンサートマスター。
●ズスケ、バイロイト音楽祭にコンサートマスターとして参加。
●ズスケ、NHK交響楽団、客員コンサートマスター。
◆1月1日、ユーロ導入。当面は帳票上の通貨。現物の流通は2002年1月1日から。

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 2000年(65〜66歳)

●ズスケ、ゲヴァントハウス管弦楽団、第1コンサートマスター。
●ズスケ、バイロイト音楽祭にコンサートマスターとして参加。
●ズスケ、NHK交響楽団、客員コンサートマスター。

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 2001年(66〜67歳)

●6月、ズスケ、ゲヴァントハウス管弦楽団を退団。

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 2002年(67〜68歳)

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 2003年(68〜69歳)

●ズスケ、東京国際音楽コンクール〈指揮〉の審査委員として来日。

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 2004年(69〜70歳)

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 2005年(70〜71歳)

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 2006年(71〜72歳)

●ズスケ、東京国際音楽コンクール〈指揮〉の審査委員として来日。

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 2007年(72〜73歳)

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 2008年(73〜74歳)

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 2009年(74〜75歳)

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 2010年(75〜76歳)

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 2011年(76〜77歳)

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 2012年(77〜78歳)

●ゲルハルト・ボッセ、大腸癌のため大阪府高槻市の自宅で死去。

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 2013年(78〜79歳)

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 2014年(79〜80歳)

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 2015年(80〜81歳)

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 2016年(81〜82歳)

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 2017年(82〜83歳)

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 2018年(83〜84歳)

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 2019年(84〜85歳)

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 2020年(85〜86歳)

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 2021年(86〜87歳)

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 2022年(87〜88歳)

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商品説明:年表シリーズ

指揮者
アーベントロート
アルヘンタ
アンセルメ
オッテルロー
ガウク
カラヤン
クイケン
クーセヴィツキー
クチャル
クナッパーツブッシュ&ウィーン・フィル
クナッパーツブッシュ&ベルリン・フィル
クナッパーツブッシュ&ミュンヘン・フィル
クナッパーツブッシュ&国立歌劇場管
クナッパーツブッシュ&レジェンダリー・オーケストラ
クラウス
クリップス
クレツキ
クレンペラー
ゴロワノフ
サヴァリッシュ
シューリヒト
スイトナー(ドヴォルザーク)
スイトナー(レジェンダリー)
スラトキン(父)
ターリヒ
チェリビダッケ
トスカニーニ
ドラゴン
ドラティ
バルビローリ
バーンスタイン
パレー
フェネル
フルトヴェングラー
ベイヌム
マルケヴィチ
ミトロプーロス
メルツェンドルファー
メンゲルベルク
モントゥー
ライトナー
ラインスドルフ
レーグナー(ブルックナー)
レーグナー(マーラー)
ロスバウト

鍵盤楽器
ヴァレンティ
ヴェデルニコフ
カークパトリック
カサドシュ
グリンベルク
シュナーベル
ソフロニツキー
タマルキナ
タリアフェロ
ティッサン=ヴァランタン
デムス
ナイ
ニコラーエワ
ネイガウス父子
ノヴァエス
ハスキル
フェインベルク
ユージナ
ランドフスカ
ロン

弦楽器
カサド
コーガン
シュタルケル
スポールディング
バルヒェット
フランチェスカッティ
ヤニグロ
リッチ
レビン

管楽器
デルヴォー(ダルティガロング)

声楽
ド・ビーク

室内アンサンブル
グリラー弦楽四重奏団
シェッファー四重奏団
シュナイダー四重奏団
ズスケ四重奏団
パスカル弦楽四重奏団
パスキエ・トリオ
ハリウッド弦楽四重奏団
バルヒェット四重奏団
ブダペスト弦楽四重奏団
伝説のフランスの弦楽四重奏団
レナー弦楽四重奏団

作曲家
アンダーソン
ベートーヴェン
ヘンツェ
坂本龍一

シリーズ
テスタメント国内盤

総合評価

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5.0

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プロシャ王セットをレコードで持っていて、...

投稿日:2010/06/27 (日)

プロシャ王セットをレコードで持っていて、とても良かったので、購入。 この全集の演奏は、変に聴き手に媚びることがない、一見、地味な演奏だが、聴き込めば聴き込む程、その演奏の素晴らしさが解ってくる、秀逸な演奏で、録音の音質も良く、購入後 数年経った今でも、愛聴盤のひとつである。

ノーブル さん | 大阪府 | 不明

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ETERNAから出ているズスケの初期ヴァ...

投稿日:2006/07/10 (月)

ETERNAから出ているズスケの初期ヴァイオリン・ソナタ集は、端正で凛としたたたずまいが好演。それがこの四重奏曲集にも反映されている。「動」のモザイクQのものと一緒に揃えれば、2倍、(いや、それ以上、たぶん)モーツァルトが楽しめるはずです。ぜひどうぞ。

ロビン さん | 埼玉県 | 不明

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特に、15番の3、4楽章は、何べん聞いて...

投稿日:2004/11/19 (金)

特に、15番の3、4楽章は、何べん聞いてもその美しさに聞き惚れてしまう。

クリ さん | 東京都 | 不明

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人物・団体紹介

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モーツァルト(1756-1791)

1756年:ザルツブルクで誕生。 1761年:最初の作曲(『アンダンテ ハ長調 K.1a』)。 1782年:オペラ『後宮からの誘拐』初演。 1783年:大ミサ曲ハ短調 K.427(417a)を上演。 1785年:弦楽四重奏曲集(ハイドン・セット)をハイドンに献呈。 1786年:オペラ『フィガロの結婚 K.492』初演。 1787年:父レオポル

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