CD 輸入盤

交響曲第1番、第3番、第4番、ハイドンの主題による変奏曲 ヘルマン・アーベントロート&ライプツィヒ放送交響楽団(2CD)

ブラームス(1833-1897)

基本情報

ジャンル
:
カタログNo
:
BC0302792
組み枚数
:
2
レーベル
:
:
Germany
フォーマット
:
CD
その他
:
輸入盤

商品説明


ヘルマン・アーベントロート/ブラームス交響曲第1・3・4番、ハイドン変奏曲(2CD)

アーベントロートがドイツのエテルナ・レーベルでレコーディングしたブラームスの3つの交響曲とハイドン変奏曲は、セッション録音のためモノラルながらバランスの良い聴きやすい音質として知られています。
  今回は「エテルナ・オリジナル・マスター・シリーズ」からの登場で、マスターテープから新たなマスタリングがおこなわれているため、音質向上が期待されるところです。
  アーベントロートのブラームス演奏では、個性際立つ交響曲第1番がなんといっても有名です。その多彩をきわめた表現の背景には、以下のような事柄の影響があると思われます。

◆ブラームス本人がマイニンゲン宮廷楽団に客演した際、楽譜に無いことをあれこれ指示。
          ⇓
◆ブラームスの指示などをシュタインバッハが自身の楽譜に書き込み。
          ⇓
◆ブルーメがそのシュタインバッハの楽譜や指揮、口伝などをもとにまとめて1933年に人智学系出版社から謄写印刷で刊行。

上記のブラームス系伝承に加えて、以下のような事情もあります。

◆アーベントロートはシュタインバッハの後任としてケルンで長く仕事。
◆アーベントロートがシュタインバッハと接触したり演奏を聴いたりした可能性は非常に高い。
◆ブラームス本人が自作の指揮者として最も好んだのはビューローだったというのは当時有名な話。
◆ビューローの指揮は緩急自由でかなりぶっとんだものだったそうで、ブラームス本人は実直なハンス・リヒターの指揮には不満を表明し、ビューローを称えるのが常。
◆ビューローはニキシュよりも人気があり、ギャラも当時最高(ニキシュのボストン響音楽監督年俸1万ドルに対し、ビューローの北米客演報酬は6週間滞在で1万3千ドル、マネジメントも1万2千ドルの利益を得ています)。
◆20世紀初頭にマックス・フィードラー[1859-1939]がビューロー系ともいえる自由な演奏でドイツで高い評価を獲得。フィードラーはブラームスの知人でもあり、録音も存在。


こうした流れの中で、ブラームス系伝承を勘案しながらも、伝説のビューローを意識して自由に形成したのが、アーベントロート独自の境地ともいえるこれらの演奏なのかもしれません。
  おかげで有名な交響曲第1番第4楽章の主部第1主題も、万感の思いを込めて歌い抜かれています。
  下の楽譜画像はその第1主題が開始される部分ですが、新たなマスタリングで音質が向上すれば、弦の美しいサウンドもさらに際立つのではないかと思われます。


なお、ブックレットには使用したマスターテープの箱の写真も掲載されており、歴史的ドキュメントとしてのリアリティもあります。マスタリング・エンジニアはいつものクリストフ・シュティッケルが担当。

 収録情報

ブラームス

Disc 1
●交響曲第1番ハ短調 op.68

1.T Un poco sostenuto-Allegro
2.U Andante sostenuto
3.V Un poco Allegretto e grazioso
4.W Adagio-Allegro non troppo, ma con brio

ライプツィヒ放送交響楽団

録音:1949年10月20日、ライプツィヒ放送スタジオ
プロデューサー、エンジニア:ザッハー

●ハイドンの主題による変奏曲 op.56a
5.Thema: Chorale St. Antonii. Andante
6.Var I. Poco piu animato
7.Var II. Piu vivace
8.Var III. Con moto
9.Var IV. Andante con moto
10.Var V. Vivace
11.Var VI. Vivace
12.Var VII. Grazioso
13.Var VIII. Presto non troppo
14.Finale. Andante

ライプツィヒ放送交響楽団

録音:1949年12月29日、ライプツィヒ放送スタジオ
プロデューサー、エンジニア:国家放送委員会

Disc 2
●交響曲第3番ヘ長調 op.90

1.T Allegro con brio
2.U Andante
3.V Poco allegretto
4.W Allegro

ライプツィヒ放送交響楽団

録音:1952年3月17日、ライプツィヒ、コングレスハレ
プロデューサー、エンジニア:国家放送委員会
●交響曲第4番ホ短調 op.98
5.T Allegro non troppo
6.U Andante moderato
7.V Allegro giocoso
8.W Allegro energico e pasionato

ライプツィヒ放送交響楽団

録音:1954年11月8日、ライプツィヒ、コングレスハレ
プロデューサー:ザルガー、エンジニア:ヴォルフ

ヘルマン・アーベントロート(指揮)




 マスタリングについて〜クリストフ・シュティッケル(マスタリング・エンジニア)

ETERNAテープをリマスタリングする際の前提は、オリジナル・サウンドを変えることなく可能な限り最高の状態でオリジナル・サウンドを再現することでした。
  全ての作業はオリジナルのアナログ・マスターテープに基づき、マスタリングはそれぞれのテープに対して細心の注意を払って行われました。
  アナログ領域のみでサウンド処理されたアナログ信号を96kHz / 24bitの高品位デジタル化後に44.1kHz / 16bit化されました。
  また、デジタル領域においてもノイズの除去や、オリジナル・サウンドに影響を与えるその他の修復は行わず、必要最小限のテープ・エラーとテクニカル・クリックのみの修復が行われました。


 Berlin Classics所蔵 オリジナル・アナログ・マスターテープ使用


 各種リンク

【トピック】
●ブラームス演奏史の最初の20年
●保守派とワーグナー派の対立
●ハンス・フォン・ビューロー / ブラームスが最も信頼した大指揮者
●フリッツ・シュタインバッハ / ブラームスの使徒
●ヴァルター・ブルーメ / シュタインバッハの楽譜への書き込みを出版
●アーベントロートとソ連
●アーベントロートとナチ
●アーベントロートと戦後

【年表】
18831884188518861887188818891890189118921893189418951896189718981899190019011902190319041905190619071908190919101911191219131914191519161917191819191920192119221923192419251926192719281929193019311932193319341935193619371938193919401941194219431944194519461947194819491950195119521953195419551956

【エテルナ・オリジナル・マスター・シリーズ】

アーベントロート
●ブルックナー交響曲集 (3CD)
●ブラームス交響曲集 (2CD)
●モーツァルト交響曲集 (2CD)
●チャイコフスキー、シューマン交響曲集 (2CD)
●ハイドン交響曲集

スイトナー
●レジェンダリー・レコーディングス (7CD)
●ドヴォルザーク交響曲全集 (5CD)

レーグナー
●マーラー交響曲第3番、第6番 (3CD)
●ブルックナー交響曲集 (6CD)


【商品関連】
●商品説明:年表シリーズ一覧


 ブラームス演奏史の最初の20年

1876年に始まった演奏史

ブラームスの交響曲の演奏の歴史は、1876年のオットー・デッソフによる交響曲第1番の初演に始まっているので、すでに140年を超えていますが、そのうちブラームス存命中の期間は20年ほどです。
さまざまな形で遺されたブラームスの言葉

幸いなことにいくつかの演奏については、それを聴いたブラームス本人の言葉も遺されており、そこからはブラームスの好みの傾向も知ることができます。基本的には感謝の言葉が多かったものの、ブラームス自身が優れた指揮者でもあったことから、時には強く批判することもありました。
  また、そうした批判の中には、時にハンスリックやクララ・シューマンら保守派と新ドイツ派(ワーグナー派)の対立が含意されることもあったようです。


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 保守派とワーグナー派の対立

保守派のマニフェスト

シューマンから始まっていた、リスト、ワーグナーら「新ドイツ派」との対立は、シューマンの死後はブラームスが保守の代表のようになり、1860年5月にはベルリンの音楽誌エコー誌上に、ヨアヒム、ショルツらと「新ドイツ派」に対して、「音楽の本質的精神に反する」と非難するマニフェストを掲載し署名しています。賛同者にはブルッフやヒラー、キルヒナー、ライネッケなど20人以上の音楽家がいました。

ハンスリック

ブラームスら保守陣営にとって強力な援軍だったのが、ウィーン大学教授で批評家のエドゥアルト・ハンスリック[1825-1904]です。ハンスリックの主張の強いワーグナー批評やブラームス批評が新聞などで賛否両論を巻き起こし、保守陣営と新ドイツ派の対立は、いつしかブラームス派とワーグナー派の対立の様相を呈することになります。ハンスリックはユダヤ系でしたが、その批評内容がワーグナーの反ユダヤ主義に影響されることはないとしています。また、ハンスリックが37年間に渡って記事を発表していたウィーンの「新自由新聞」はユダヤ系のリベラル紙であり、1904年の発行部数約5万部という当時としては大規模な新聞社で執筆陣も全員ユダヤ系でした。ちなみに1900年のウィーンのユダヤ系人口は約15万人で、人口の約9%を占めています。


ブルックナーの楽譜出版にも影響

新聞の影響力もあり、ブラームス派とワーグナー派の対立は、作曲家やその支持者の領域で幅広く引き起こされていました。
  常々ワーグナーへの賛辞を口にしていたブルックナーも、ハンスリックから新聞紙上で徹底的にこき下ろされたことも手伝って作品周知がなかなか進まず、結果的にブルックナーの弟子たちも協力し、世間に受け入れられるように改訂したうえで楽譜を出版しています(=初版)。

演奏家にも影響

しかしやがて、「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」ということで、ブラームス派とワーグナー派の対立には演奏家も巻き込まれるようになり、どちら側の作品もとりあげる指揮者は特に困った事態に陥るようになって行きます。かのワインガルトナーも、当初はブラームス作品をけなしていましたが、後年には態度を大きく変えてブラームス称賛にまわっているほどです。


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 ハンス・フォン・ビューロー / ブラームスが最も信頼した大指揮者

指揮もピアノも天才、記憶力も驚異的

暗譜で自由自在な演奏をおこなって人気を博した指揮者でピアニストのハンス・フォン・ビューロー[1830-1894]は、リストのロ短調ソナタの初演などピアノ・リサイタルも含めると3千回を超える膨大な数のコンサートに出演。ロシアや北米へのツアーもおこなって興行的な成功も収めたことで、国際的スター指揮者の元祖ともいわれています。

子供の頃からワグネリアン

1842年、ビューローは12歳の時に「リエンツィ」初演を聴いてワーグナーに傾倒。親の要請でライプツィヒ大学で法律を学ぶもののドレスデン動乱で中断し、ベルリン大学に編入後は、新聞で炎上記事を書いて多くの敵をつくっています。その後、ワーグナーとリストの仲介で親の許可を得て音楽の道に進み、リストにピアノを師事したほか、フランス語が堪能だったことからベルリオーズとも親しく交流。1857年にはリストのロ短調ソナタの初演を任されてもいます。

リストの娘、コジマとの結婚・離婚、ワーグナーとの決別

1857年、リストの娘コジマ[1837-1930]とベルリンの聖ヘトヴィヒ教会でカトリック式で結婚。新婚旅行先のチューリヒでは、ドレスデンで指名手配されていたワーグナーがヴェーゼンドンク邸に隣接する家に匿われており、ビューロー夫妻はそこに3週間滞在(ワーグナーはマティルデと不倫中)。その後、ワーグナーは1863年11月にコジマと不倫。コジマは1865年にはワーグナーの子を出産し、1867年と1869年にもワーグナーの子を産んで1870年にビューローと離婚してワーグナーと結婚、1883年にワーグナーと死別しています(ビューローの方は離婚後、年齢差27歳の若い女優と結婚)。

ブラームスとの交流

1870年、20年に及んだビューローとワーグナーの交流が終わり、今度はブラームスとの親交が始まります。ビューローとブラームスは1854年にヨアヒムの紹介で会っており、ビューローはほどなくブラームスのピアノ曲を演奏会で取り上げてもいました。
  そして1877年には、前年に初演されたブラームスの交響曲第1番を指揮したほか、1879年にはドイツ・レクイエムを指揮。ビューローは「3大B」(バッハ、ベートーヴェン、ブラームス)という言葉を使ってブラームスを称えるようになります。

資産家の資金100万マルクでホッホ音楽院が開校。院長は親友のヨアヒム・ラフ

1877年にフランクフルトで開校したホッホ音楽院は、市長経験もある音楽好きのホッホ博士が遺産100万マルクで音楽院財団を設立させたもので、ビューローの親友でもある作曲家ヨアヒム・ラフが初代院長に任命されています。
  ラフはワーグナー派でしたが、人事では保守派のクララ・シューマンらや、ワーグナー派の人材を半々に招いてバランスの良い教育をおこなっていました。

マイニンゲン宮廷楽団の音楽監督に就任

1880年、ビューローはザクセン=マイニンゲン公ゲオルク2世からマイニンゲン宮廷楽団の音楽監督に指名され、オーケストラ改革を断行。ペダル・ティンパニや5弦コントラバス、リッター・ヴィオラ(正確なサイズのヴィオラ)を導入してサウンドを一新、49人の固定メンバーには、ベートーヴェンの9つの交響曲をすべて暗譜で演奏させて驚異のアンサンブルを完成させます。
  その演奏はすぐに評判となり、翌1881年にはブラームスがマイニンゲンを訪れてビューローと親交を深め、以後、マイニンゲンを頻繁に訪れて指揮もするようになります。
  1882年にはドイツ、オーストリア、ハンガリー、オランダにツアーもおこなって各地で驚きをもって迎えられることとなり、ベートーヴェンだけでなくオール・ブラームス・プログラム公演もおこない、ブラームスの独奏でピアノ協奏曲第2番も組み込まれたりしていました。

親友ラフの死とホッホ音楽院の分裂・保守化

1882年、ヨアヒム・ラフ院長が亡くなると、ホッホ音楽院の教職員たちの間には争いが絶えないようになります。
  そして1884年、保守派で強硬路線のショルツが院長に就任すると、かつてのビューローの弟子など3人を退職に追い込み、さらに3人を解雇するなどしてワーグナー派を一掃、クララ・シューマンとその仲間たちの存在の大きさもあって、ホッホ音楽院を反ワグナー派の一大拠点、保守の牙城とすることに成功しています。

ワーグナー派の追放教職者によりラフ音楽院が設立

1884年、ホッホ音楽院を追放された教職員たちは、恩人の名を冠して「ラフ音楽院」を自分たちで設立しますが、資金難に苦しみます。
  ビューローは元弟子などの惨状を知って、「ラフ記念基金」を設立すべく同地で支援コンサートを開催しますが、それが気に入らなかったショルツ院長やクララ・シューマンは、人々がコンサートに行かないよう妨害工作をおこなったりするものの、影響はほとんどなく公演は成功してなんとか運営資金が集まります。
  また、ビューローはラフ音楽院のマスタークラスにも出演し、自身の報酬を「ラフ記念基金」に寄付し、フランクフルト滞在費も自腹とするなど、元弟子たちの音楽院を喜んで支援してもいました。
  ビューローは1870年にはワーグナーと決別して、実際には保守派側に立っていたので、亡き友人ラフやかつての弟子たちへの配慮・支援は、ビューローの人柄をよく表してもいます。
ビューローがシュタインバッハをホッホ音楽院に紹介

1885年、ビューローはラフ音楽院への支援と並行して、マインツ市立劇場の第2指揮者フリッツ・シュタインバッハをホッホ音楽院に紹介して就職させています。
  フリッツ・シュタインバッハは、ワーグナー派のマインツ市立劇場の中にあって、珍しいブラームス派ということで目をかけての紹介でした。

ビューローがフランクフルトでのブラームスの勝手な行動に怒って辞任

1885年冬、マイニンゲン宮廷楽団のツアー先のフランクフルトで、交響曲第4番をムゼウム管弦楽団(音楽監督はデッソフ)と急遽演奏するなど、ブラームスの勝手な行動に激怒したビューローは、1886年1月29日にマイニンゲン宮廷楽団の音楽監督を辞任してしまいます。
  後を継いだ助手のリヒャルト・シュトラウスは、ビューローと頻繁に手紙をやり取りし、マイニンゲンを去ることを決意、ビューローの古巣で父フランツ・シュトラウスもいるミュンヘンの宮廷歌劇場の第3楽長となって1886年4月にマイニンゲンを辞任しています(宮廷歌劇場音楽監督はヘルマン・レーヴィ)。

ブラームスが和解の手紙をビューローに送付

1886年前半、ブラームスはビューローに対して和解を求める手紙を2度書きます。2人は1885年の冬から喧嘩別れのようになってしまっていました(1887年1月に和解)。
  もっとも、コンサートではビューローはブラームスの作品を指揮しており、たとえば1886年にハンブルクでおこなわれたフランツ・リスト追悼演奏会でも、冒頭で「悲劇的序曲」を演奏したりもしています。リストは新ドイツ派(ワーグナー派)の重鎮でしたが、ビューローにとってはかけがえのない恩人でした。

ブラームスがフランクフルトのシュタインバッハを後任として推薦

1886年、シュトラウスの後任を探していたゲオルク2世に対して、ブラームスは前年からホッホ音楽院で作曲と対位法を教え始めていたフリッツ・シュタインバッハを推薦。ゲオルク2世はシュタインバッハに対して、マイニンゲン宮廷楽団の音楽監督に就任するよう要請します。
  これにより31歳のシュタインバッハはブラームスの熱烈な崇拝者となり、以後、17年間に渡ってマイニンゲンで、ブラームスの音楽を軸として働くことになります。

ビューローのブラームス演奏

ブラームスの演奏評で最も熱烈な賛意が示されているのは、ビューローがマイニンゲン宮廷楽団を指揮した演奏でした。そのスタイルはいつもビューローらしくきわめて自由なもので、ブラームスと親しいヘルツォーゲンベルク夫人などは、ビューローがブラームスの作品でテンポを変えすぎてるとわざわざ手紙で知らせるほどでした。
  しかしブラームスは、楽譜通りの生真面目なハンス・リヒターをけなす一方で、ビューローの演奏を常に称えており、そうした自由な演奏に大きな魅力を感じていたことも確かなようで、ビューローが1893年に脳腫瘍で指揮ができなくなるまで、ブラームスにとって自作の最高の指揮者はビューローだったことは間違いないようです。
  もっとも、ビューロー本人は、亡くなる11か月前に病を押して出演したベルリン・フィルとのコンサート(ブラ4、ベト4ほか)では、終演後のスピーチで「以前の過剰な演奏に対する恩赦として、私自身のために今回の演奏を受け入れることにする。」と述べてもいました。最後は別な境地に達していたのでしょうか。


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 フリッツ・シュタインバッハ / ブラームスの使徒

兄エミールに教えをうけたのちライプツィヒ音楽院へ

1855年、フリッツ・シュタインバッハはバーデン領グリューンスフェルトで誕生。6歳年長の兄エミール・シュタインバッハ[1849-1919]に音楽を習ったのち、メンデルスゾーンが設立したライプツィヒ音楽院に1873年に入学。音楽学者ヘルマン・クレッチュマー[1848-1924]に実力を認められます。

ブラームスとの出会い

1875年4月、ブラームスの友人でもあったクレッチュマーは、シュタインバッハを弟子にしてくれるようブラームスに要請し、また、シュタインバッハ本人もブラームスを訪ねて弟子入りを懇願しますが、ブラームスはもともと教えることが苦手で、しかも演奏・作曲で多忙だったため断っています。

ブラームスの紹介でウィーンで勉強

代わりにブラームスは、自分と親しいウィーンのグスタフ・ノッテボーム[1817-1882](メンデルスゾーンとシューマンの弟子でベートーヴェンとモーツァルトの研究家、教育者)と、アントン・ドーア[1833-1919](ツェルニーの弟子でピアニスト、教育者)を紹介。
  シュタインバッハは1874年から1878年までフランクフルト・モーツァルト基金の奨学金を得ていたことで、学業を終えてからも作曲家として過ごすことができました。
兄エミールのもとでマインツで就職

1879年、24歳の時に、マインツ市立劇場の第2楽長という肩書でプロとしてのキャリアを開始。
  マインツはフランクフルト近郊の市で、当時の人口は5万人ほどでしたが、そこでは兄エミールが、1877年から市の楽長(市の音楽総監督のような職)として働いていました。
  ヘルマン・レーヴィに師事したワーグナー派の人物でもあった兄エミールは、オペラとコンサートの両方を指揮してワーグナー作品を中心に高い評価を得ており、1877年11月にはコンサート用に編成が拡大された「ジークフリート牧歌」(1878年出版)の世界初演をマインツでおこなって注目を集めてもいます。
  兄エミールは1909年まで実に32年の長きに渡ってマインツ市の楽長を務めていますが、その間、1893年にロンドンの王立歌劇場で「トリスタンとイゾルデ」と「ジークフリート」を指揮して大成功を収めてもいました。

ビューローの紹介でワーグナー派の職場から保守派の職場へ鞍替え

1885年、ビューローの紹介で、フリッツ・シュタインバッハは、フランクフルトのホッホ音楽院で作曲と対位法の教師として働くことになります。ホッホ音楽院は、1884年にワーグナー派が追い出されて、クララ・シューマンら保守派の重要拠点となっていました。

ブラームスの推薦でマイニンゲン宮廷楽団の音楽監督に就任

1886年、ビューローの助手で後任だった21歳のR.シュトラウスは、僅か数か月で辞任してミュンヘンの宮廷歌劇場(バイエルン国立歌劇場)の第3楽長となったため、その後任として、ブラームスがシュタインバッハを音楽監督にするようゲオルク2世に進言。ゲオルク2世は1881年に客演の実績からブラームスに勲章を授与していたこともあり、進言を受け入れてシュタインバッハに連絡。
  以後、17年間に渡ってシュタインバッハは、マイニンゲンの音楽生活を盛り立てることになります。

守備範囲の広い音楽家

シュタインバッハはマインツ市立劇場では兄エミールのもとで第2楽長として、市のさまざまなコンサートやオペラに関わっていたと考えられ、その守備範囲は幅広く、マイニンゲンでも宮廷楽団の指揮者だけでなく、エレン公爵夫人(元女優でピアニスト)の支援で合唱団を設立して、マタイ受難曲なども上演したりしています。

ブラームスの指示を記録

ブラームスはマイニンゲン宮廷楽団を気に入っており、ビューローの頃から通算15年間に渡って客演していましたが、その際、シュタインバッハは、楽譜に記載の無い指示がブラームスから発せられた場合は、自身の楽譜に書き込みをしていました。

「ブラームスの街マイニンゲン」を目指して奮闘

シュタインバッハはまた、人口約7万人のバイロイトが「ワーグナーの街」として有名になったことに倣い、人口約1万2千人のマイニンゲンを「ブラームスの街」にしようと計画、ブラームスの名を冠したホールと音楽院を一緒にした施設を、マイニンゲン中心部のエングリッシャーガルテンに建設すべく、マイニンゲンの名を広めるための宣伝活動に奔走、ブラームス音楽祭を3回開催したほか、マイニンゲン宮廷楽団を率いて、スイス、オランダ、デンマーク、イギリス、ボヘミア、ロシアの85都市で297回に及ぶコンサートを開催するという大規模なツアーなども実施。
計画の頓挫

マイニンゲンにはすでに劇場が複数あり、またゲオルク2世と夫人の関心の対象は演劇寄りだったことなどから計画は残念ながら頓挫してしまいますが、有名な彫刻家アドルフ・フォン・ヒルデブラント[1847-1921]による「ブラームス記念碑」だけは1899年に完成、マイニンゲン楽友協会の名で寄贈されています。

アルゲマイナー・ドイツ音楽協会の会長

1898年、ブラームスの死の翌年にシュタインバッハは、「アルゲマイナー・ドイツ音楽協会」の会長に選出されています。同協会は1861年にフランツ・リストとフランツ・ブレンデル[1811-1868]が「新ドイツ派」の音楽を普及するための組織として創設したもので、意外な人選でしたが、シュタインバッハは1901年まで会長を務めています。
  同協会には1903年にアーベントロートも加入しており、1910年には取締役会のメンバーになって委員として活動。1914年には第49回ADMV音楽祭に指揮者として出演し、シリングス、ハウゼッガー、シュナーベル、フルトヴェングラー、レーガー、プフィッツナーらと交流してもいました。
ケルン市の要請でギュルツェニヒ管の首席指揮者とケルン音楽院院長に就任

1903年、ギュルツェニヒ管弦楽団首席指揮者とケルン音楽院院長を兼務していたフランツ・ヴュルナー[1832-1902]が死去したため、同楽団に客演もしていたシュタインバッハが後継者としてケルン市から招かれることになります。
  ちなみにヴュルナーは、1884年にブラームスの推薦によって、ギュルツェニヒ管弦楽団の首席指揮者とケルン音楽院院長に就任し、1888年には、ギュルツェニヒ管弦楽団の運営母体をケルン市とすることに尽力した人物で、ブラームスの仲間でもありました。

マーラーを招いて交響曲第3番を演奏

1904年3月、シュタインバッハはマーラーを客演に招いて、長大な交響曲第3番を指揮させています。その4日前には、マーラーは兄エミールの招きでマインツで交響曲第4番を指揮していました。これらの成功により、1904年10月にはマーラーが再び客演して交響曲第5番を世界初演し、当夜のシューベルト「セレナーデ」、ベートーヴェン「レオノーレ」序曲第3番などはシュタインバッハが指揮しています。
ニーダー・ライン音楽祭の監督に就任

1904年、1907年、1910年、1913年に監督を務めています。ケルンで開催される歴史ある音楽祭で、メンデルスゾーンもかつて出演していました。
第1回ドイツ・ブラームス音楽祭に出演

1909年、ドイツ・ブラームス協会が主催し、ミュンヘンのオデオンで開催。シュタインバッハの指揮した演奏は非常に高く評価されます。
「ブラームスの街ケルン」を目指して奮闘

シュタインバッハはケルンでもブラームス作品を数多く取り上げ、今度は、人口約42万人の都市を「ブラームスの街ケルン」にすべく努力するなど、ブラームス派の旗手としての存在感がさらに増大。
ケルン音楽院教授としてのシュタインバッハ

シュタインバッハといえば、クナッパーツブッシュ、フリッツ・ブッシュ、アドルフ・ブッシュを教えていたという話が有名ですが、ギュルツェニヒ管弦楽団の指揮者兼ケルン音楽院の院長としての仕事がメインという感じで、しかも客演も忙しかったので、ブッシュの自伝など読む限りでは、指揮の授業は実際には本人はあまりおこなっていなかったようです。
  ブッシュも在学中にシュタインバッハの前で正式には指揮できなかったのが残念だと回想しています。クナッパーツブッシュについての低評価も、単にワーグナー派ということで低くしただけの可能性があります。
ケルンを辞めてミュンヘンへ

1914年、ケルンの仕事を辞してミュンヘンに転居。1916年に心臓発作で亡くなり、同地のヴァルトフリートホーフ墓地に埋葬。
シュタインバッハの評判

フルトヴェングラーはシュタインバッハの指揮について、「ブラームス・カルトの完成形」と表現しています。
  シュタインバッハはまた、イギリスやアメリカを含む海外のオーケストラにも客演などしていたことから、トスカニーニやエードリアン・ボールトといったドイツ以外の指揮者からも、そのブラームスの指揮ぶりが称えられてもいました。


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 ヴァルター・ブルーメ / シュタインバッハの楽譜への書き込みを出版

アーベントロートと同年生まれでミュンヘン音楽院での師匠も同じ

1883年、ヴァルター・ブルーメはバーデン大公国のフィリップスブルクに誕生。ミュンヘン音楽院で、理論と作曲をルートヴィヒ・トゥイレ、指揮をフェリックス・モットルに師事しています。
  驚いたことに、アーベントロートと同年の生まれで、トゥイレとモットルという師匠も同じですが、学んでいた時期が一緒かどうかはわかりません。
  ちなみに当時は、フルトヴェングラーがミュンヘン宮廷歌劇場のモットルのもとでコレペティートアとして修業してもいました。

コブレンツ市立劇場

1912年、ブルーメは、ケルンの南東約80キロのところに位置するコブレンツで楽長として働き始めます。この時期にブルーメはケルンに頻繁に通って、シュタインバッハの指揮する演奏会を数多く聴いています。
ミュンヘン・コンツェルトフェライン管

1914年、ブルーメは、ミュンヘン・コンツェルトフェライン管弦楽団(のちのミュンヘン・フィル)の指揮者となり1918年まで在職。戦争中なので公演数は限られていましたが、大衆向けシンフォニー・コンサートを中心に出演。
  1914年にはシュタインバッハもミュンヘンに移り住んでおり、ミュンヘン・コンツェルトフェライン管弦楽団への客演もおこなっていました。
  この時期にブルーメはシュタインバッハと個人的に親しくなっており、1914年から1915年にかけて書き込み入りの楽譜を入手しているので、1916年にシュタインバッハが亡くなるまでに多くのことを学んでいると考えられます。
ベルリンで出版

1917年、ベルリンの哲学・人智学出版社から「精神科学的な意味での音楽的考察」を出版。あとがきは人智学の御大ルドルフ・シュタイナー[1861-1925]。ブルーメは人智学に詳しく、また、シュタイナーは音楽に通じていたので、交流があったようです。
ミュンヘンで雑誌編集長

1919年、月刊誌「道(Der Weg)」の初代編集長に選出。同誌は、芸術、文学、音楽のための雑誌で、当時のミュンヘンで最も先進的な内容だったということです。第3号からは編集長が交替し第8号で休刊。
ヴュルッテンベルク・トーンキュンストラー管

1931年、シュトゥットガルトのヴュルッテンベルク・トーンキュンストラー管弦楽団の指揮者になります。
シュトゥットガルトで出版

1933年、シュトゥットガルトの人智学系出版社、ズーアカンプ社から「マイニンゲンの伝統におけるブラームス:彼の交響曲とハイドン変奏曲」を出版。
  序文には、指揮者向けの本であることが記されており、バランス、音の出し方など、楽器のテクニックに関する問題にも注意が払われて、オーケストラのすべてのセクションが何らかの形で扱われてもいます。
  また、出版といっても、ナチ政権による出版物の検閲・焼却などもおこなわれていた時期だったため、簡易な謄写印刷(いわゆるガリ版)による89ページの本という体裁となり、164枚に及ぶ譜例も鉄筆での手書きでした。
  それでもブルーメが集めた大量の情報と解釈が掲載されているのは、やはり非常に貴重であることは確かです。
ケルンに向かう途中に死去

1933年6月、ケルンへの移動の途中でブルーメが死去。まだ50歳で、死因などは明らかになっていません。
  行き先がケルンということは、もしかすると、刷り上がった「マイニンゲンの伝統におけるブラームス」を、シュタインバッハゆかりのギュルツェニヒ管弦楽団かアーベントロートに届けるつもりだったのかもしれません。しかし1933年のケルンは、以下のような状況でかなり物騒でした。

  ◆3月、アデナウアー市長が突撃隊の襲撃をギリギリで回避してベルリンに脱出。
  ◆3月、市庁舎が突撃隊と親衛隊によって占拠。
  ◆3月、ユダヤ人弁護士と裁判官たちが逮捕され、ごみ収集車で警察本部に連行。突撃隊と親衛隊によって暴行。
  ◆4月、ケルン音楽大学共同学長のブラウンフェルスがユダヤ系ということで解任。
  ◆5月、ケルン大学前でドイツ学生連合によって焚書が実施。
  ◆5月、ケルン大学前で抗議の焼身自殺事件。

「たいまつ行進」や「焚書」に熱狂するようなドイツ学生連合の危険な学生たちや、あまり知的とは言えなそうな突撃隊員から見れば、謄写印刷の手書き譜例がたくさん載っている本など怪しい暗号書とでも思われかねません。さらに前月にドイツ全土で学生たちによって「焚書」がおこなわれていた事実を考慮すると、ブルーメの本の出版社がナチの忌み嫌うルドルフ・シュタイナーゆかりの人智学系ということも危険な要因となり得ます。
出版までの大まかな流れ

◆ブラームス本人がマイニンゲン宮廷楽団に客演した際、楽譜に無いことをあれこれ指示。
          ⇓
◆ブラームスの指示などをシュタインバッハが自身の楽譜に書き込む。
          ⇓
◆ブルーメがそのシュタインバッハの楽譜や指揮、口伝などをもとにまとめて1933年に謄写印刷で出版。



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 アーベントロートとソ連

数多くのソ連への客演

アーベントロートは、1925・1927・1928・1929・1951・1954年にソ連を訪問しており、モスクワとレニングラードで数多くのコンサートを指揮しています。戦前のソ連には、クレンペラーやクラウス、クナッパーツブッシュなど多くの指揮者が招かれていますが、戦後は冷戦ということもあり、渡航者は限られていました。そうした中でアーベントロートのソ連ツアーは目立つものだったようです。1951年にはリヒテルとの共演がプラウダ紙、ソビエト芸術紙に掲載されるなど注目を集めています。

ショスタコーヴィチが絶賛

アーベントロートは1954年にモスクワでベートーヴェン交響曲全曲チクルスをおこなっていますが、ショスタコーヴィチは「わが首都の音楽生活における喜ばしい出来事」として、その魅力に触れ、アーベントロートは、ベートーヴェンの楽譜の優れた目利きであり、ベートーヴェンの作品に典型的に見られる深い情熱をダイナミックに鳴り響かせ、モスクワっ子の期待に応えたと称えています。

ガウクも称賛

有名な指揮者、アレクサンドル・ガウクは、アーベントロートがすべての楽器、すべてのエピソード、すべての声部を引き出して、リズム・パターンを鋭く強調しようとすると説明し、そのオーケストラへの欲求の強さについて語っていました。
  ちなみにガウクは戦前のレニングラード・フィルでは外国からの大勢の客演指揮者のためにオーケストラの下準備をしていた人物でもあり、ドイツの指揮者たちの芸風にも精通していました。

戦前の成功と出版、講演

そしてそのレニングラードで、アーベントロートは1929年にブルックナー第5番のレニングラード初演を指揮しており、さらに、独墺ものだけでなく、チャイコフスキーの第5番でも成功を収めていたのです。
  なお、アーベントロートは、多くの客演経験をもとに、ソ連に関して肯定的な旅行記をリベラル全国紙「ケルニッシェ・ツァイトゥング(ケルン新聞)」に載せたことや、ケルン大学で講義までおこなっていたこともあってか、たとえば独ソ戦のさなかでもレニングラードのホールからアーベントロートの肖像写真が外されていませんでした。

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 アーベントロートとナチ

ナチ政権成立以前

アーベントロートの一連のソ連ツアーは、アーベントロートに危機をもたらすことになります。
  アーベントロートは1918年に社会主義者の訴えに共同署名していたほか、戦前のソ連ツアーの際、アーベントロートは「私のロシア体験記」をケルンのリベラル全国紙「ケルニッシェ・ツァイトゥング(ケルン新聞)」に載せたことや、ケルン大学でソ連を題材に講義までおこなっていたことで、それがのちにケルン=アーヘン大管区指導者ヨーゼフ・グローエ[1902-1987]から「文化ボルシェヴィズム」だとして非難されることになります。
  さらにアーベントロートは、グローエに非難される前の1928年には反ユダヤ主義的なドイツの講演組織「西部ドイツ国民講義講堂」から名誉会員に選ばれますが、関わることを拒否したため、これもナチ党に睨まれる要因になっています。

ナチ政権成立〜ケルン時代

また、ユダヤ人と親しかったアーベントロートは、もともとの姿勢が反ナチ的でもありましたが、ケルンで遭遇した一連の政治的な出来事は、アーベントロートの人生に影響を及ぼすことになります。
  まず1933年3月、恩人でもあるアデナウアー市長がナチ突撃隊の襲撃をかわしてギリギリの状態でベルリンに逃亡するという事件が起き、翌月には、同僚で同郷・同門・同年齢(生年月日が一か月違い)のブラウンフェルスがユダヤ系のためケルン音楽大学の共同学長を解任されています。
  ケルン市内では不穏な状況が継続し、ナチ親衛隊や突撃隊、ケルン警察、ゲシュタポが暗躍する中、アーベントロート自身も、9か月後の1934年1月にリーゼン市長により解任を通告されてしまいます。
  この解任を不服としたケルン音楽大学の人々が抗議集会などおこないますが、帝国音楽院幹部でヴァイオリニストのグスタフ・ハーヴェマン[1882-1960]は、彼らに対してこれ以上アーベントロートを擁護する場合はゲシュタポに引き渡すと脅迫する手紙を送っています。また、彼らの集会は実際に突撃隊に襲われ2人が負傷する事態にまでなっていますが、それがハーヴェマンの指示によるものかは不明です。

ライプツィヒ時代

ゲヴァントハウス管のブルーノ・ワルターの後任を探していたライプツィヒ市長のゲルデラー[1884-1945]は、1933年3月31日に、ケルンのリーゼン市長に対してアーベントロートを称える文書を送っています。ゲルデラーは当初は、ハンブルクやデュッセルドルフがおこなったように歌劇場音楽監督の兼任(ライプツィヒの場合は市の音楽総監督でもあるパウル・シュミッツ[1898-1992])を考えていましたが、任命委員会に却下され、より知名度の高いアーベントロートに白羽の矢が立ったというものです。ゲルデラーはナチ台頭以前からドイツ政界で有名だった人物でもあります。
  そうした流れの中で、1934年10月、アーベントロートはゲヴァントハウス管弦楽団首席指揮者に就任し、ライプツィヒを新天地として働くことになります。

狂信的ナチで専横なルドルフ・ハーケ

アーベントロート着任から2年後の1936年11月9日、ゲルデラー市長のフィンランド滞在中に、狂信的なナチ党「国家弁士」で副市長のルドルフ・ハーケ[1903-1945]が扇動してゲヴァントハウス前のメンデルスゾーン像を破壊。当時、ロンドン・フィルと共にゲヴァントハウスを訪れていたビーチャムが、11月10日に花束を捧げようとメンデルスゾーン像を訪れると台座しか残っていませんでした。帰国したゲルデラー市長は、なんとか像を再建しようとしますが市議会にも妨害され、4か月後の3月31日に辞任しています。


ナチ党の人気過熱と新規入党制限

当時、ナチ党はドイツ国民に圧倒的な人気があり(音楽家の半数も党員)、あまりの入党過熱のため1933年4月19日には新規入党の制限を開始し、1939年5月10日に新規入党制限が完全に撤廃されるまで、実に6年間に渡って、新規入党を基本的に受け付けていませんでした(縁故や再入党のほか数回の例外期間を除く)。
  なので、政治家が音楽家などに対して入党要請することはほとんどなく、良いポジションを得たい音楽家側から入党申込みをおこなうのが一般的で、すでに知名度が高かった指揮者や演奏家が入党していないケースが多いのはそれが要因でもあります。

ハーケの権力掌握とアーベントロートの入党手続き

1937年4月1日付でハーケは臨時市長に任命されて権力を振るえるようになり、入党禁止期間にも関わらず、アーベントロート(と歌劇場音楽監督のパウル・シュミッツ)に対して入党するよう迫ります。
  ハーケの場合は、行状からとてもマトモな政治家と言える人物ではなく、しかも入党制限期間に敢えて入党を迫っているので、アーベントロートが迂闊な対応をすれば深刻な事態を招く恐れもありました。しかも、妻エリーザベトのアーリア人証明が未取得という問題(翌1938年にベルリンの地方裁判所から却下)や、文化ボルシェヴィズム問題、反ユダヤ主義講演団体の名誉職拒否問題もあり、アーベントロートは拒むことができず、5月1日付で入党手続きのみおこなっています。
  なお、アーベントロート自身は、入党後の生活について、「党員証を持ったことはなく、党の会合に参加したこともなく、党内で活動したこともなく、党員に課される通常の寄付以外に党に特別な貢献をしたこともない。」と述べています。

ハーケのその後

ハーケは就任6か月後の1937年10月に新市長デーニケ[1899-1945]に替わられます。その5か月後の1938年3月にライプツィヒを訪れたヒトラーに対して、デーニケ市長が「タンホイザー」の楽譜の原本を贈ったつもりがリトグラフだったという間抜けな事件が発生し、それを機にハーケの野心が再燃、党幹部にデーニケが無能だと吹き込み、7か月後の1938年10月に解任させることに成功しています。どこまでも悪い男です。
  再び臨時市長となったハーケは、新市長が着任するまでの10か月間、市長権限を振るいます。
  1939年8月に着任した新市長のフライベルク[1892-1945]は、財務と法律の専門家でハーケも手が出せず、逆に1943年に市長がハーケの汚職を告発し、ハーケはライプツィヒ市政から追放処分を受けています。
  ハーケはその後、占領下のリトアニアでナチの仕事をしたりしますが、やがて「国民突撃隊」のメンバーとなり、ケルブラ村でアメリカ兵によって殺されています。
  ちなみに前市長のゲルデラーはヒトラー暗殺計画参加の容疑で処刑、後任のデーニケは占領直前に自殺、その後任のフライベルクも同じく自殺しています。
  なお、アーベントロートは1938年5月には、「ユダヤ人もわれわれと同じ人間であり、どの民族にもいる一部の有害な者の過失のために、その民族全員を苦しめることは許されない。」とも述べています。

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 アーベントロートと戦後

アメリカによる占領統治

ライプツィヒは1945年4月にアメリカ軍によって占領。終戦によりライプツィヒの占領統治が始まると、アメリカ占領軍は、戦勝による敵国人処罰政策として、「非ナチ化」を開始します。これは党籍に関係なく、戦時ドイツの要職者や有名人をブラックリストの対象とするものです。アーベントロートもこのときにリストに入れられています。
  しかし、7月になるとアメリカ占領軍は、ベルリン西部の占領を確保することを最優先としてライプツィヒから撤退したため、ライプツィヒの占領統治も終了。

ソ連による占領統治

ほどなくソ連占領軍がライプツィヒに進駐し、占領統治を開始。ソ連の目的は社会体制の変革なので、ソ連占領下の地域(=のちの東ドイツ)では、当局の重要なポストはドイツ人の共産主義者等に速やかに置き換えられ、共産党員らによる農民の再教育なども優先的におこなわれており、食糧支援も英米よりはるかに大規模に実施されていました。

ソ連による非ナチ化政策

ソ連の非ナチ化政策はシンプルで、政府や軍の幹部、戦犯を対象とし、アメリカのように有名人だから裁くというような見せしめ的なことはおこないませんでした(イギリス軍、フランス軍による非ナチ化政策も軽微)。
  そのため、アーベントロート、ロベルト・ヘーガー、ハインツ・ボンガルツ、フランツ・コンヴィチュニー、パウル・シュミッツなどナチ党員だった有名指揮者も、ソ連により急遽任命された当局ドイツ人(多くは戦時中にナチに逮捕・収容されていた人)の考えや、劇場の爆撃破壊と代替会場の状態次第で、所属が変えられたりはしたものの指揮活動は継続しています。ちなみにソ連は英米と違って無差別爆撃をおこなっていません。
  また、アメリカによって非ナチ化裁判にかけられた多くの音楽家は結局ほとんどが無罪・微罪になったので、その目的は「見せしめ」と、劇場組織の人事刷新によって自国側に利益をもたらすことだったと考えられます。
  なお、ソ連は犯罪性のあるナチ党員については強制労働収容所送致や処刑とするなど西側に較べて厳しく対処しており、1948年3月にはスターリンによる非ナチ化宣言がおこなわれ、以後は元ナチ党員も問題なく国家建設に向けて政治活動ができるようになります。

東ドイツでの文化行政参加

非ナチ化宣言を受け、1948年5月には「ドイツ国家民主党(NDPD)」が結党。元ナチ党員や軍人、文化人らの政治的受け皿となります。
  アーベントロートは支配政党で事実上の共産党である「ドイツ社会主義統一党(SED)」への参加は拒否しましたが、民主主義ブロック政党である「ドイツ国家民主党(NDPD)」の要請は受け入れ、1949年に参加し、ドイツ人民会議議員に選出されています。
  翌1950年には、文化行政に直接関係する「東ドイツ文化連盟(クルトゥーアブント)」のためにドイツ人民議会の会員になって1954年まで活動。1951年には、国家芸術委員会の委員に任命されています。

元ナチ党員だらけの西ドイツと、反ナチ活動家が要職者に多かった東ドイツ

西ドイツ政府は元ナチ党員についてはゲシュタポや親衛隊も含めて大したお咎めなしで済ませています。政治・行政など社会体制があまり変わらなかったため、1933年4月の「職業官吏再建法」で優遇されたのが党員だったことから、司法や警察も含めて実態は元ナチ党員だらけという状態が長く続き、たとえば西ドイツ司法省は1950年代終わりになっても元ナチ党員比率が7割を超えているという状態でした。
  一方、東ドイツの方は、要職者に反ナチ運動家や元左派政党の政治家などを重用したため、たとえばライプツィヒ市長は終戦まで強制収容所にいたエーリヒ・ツァイグナーとなり、活動実態に関わらず元党員を憎悪したことで、アーベントロートが1945年11月にゲヴァントハウス管首席指揮者を解任され、逆に1949年には市長が亡くなったことでコンヴィチュニーが首席指揮者に就任できています。

「ペルソナ・ノン・グラータ」という冷戦プロパガンダ

元ナチ党員だらけの西ドイツ政府は、東ドイツを軍事費増大の決め手となる「冷戦」の相手、つまり税公金投入の前提となる重要動機を提供できる「仮想敵国」であると世論定着させるため、東ドイツの元ナチ党員には見せしめ的に対処。東ドイツ国籍を有する元ナチ党員は「ペルソナ・ノン・グラータ(好ましからざる人物)」であるから入国を認めないというプロパガンダまでおこなっていました。
  当時は「ラパツキ計画」など東側から提案された軍縮プランを西側がすべて潰してもいたので、西側における米軍需産業の影響力のほどがすでに示されていたと見ることもできます。
  おかげで東ドイツの音楽家まで影響を受け、たとえば1950年にはケルン音楽大学の記念式典に出席し、ギュルツェニヒ管弦楽団とブルックナー3番を演奏していたアーベントロートは、西ドイツの「再軍備」が認められた1955年には、元ケルン市長のアデナウアー連邦首相によってケルン来訪を拒否されています。
  そうした事情もあって、米軍需産業にとってご利益たっぷりのパワースポットともいえる西ベルリンで、アーベントロートが客演活動をおこなうことはさらに困難で、戦前・戦中に80回も指揮していたベルリン・フィルへの戦後の登場回数はゼロでした。これは同じく元ナチ党員のカラヤンが「再軍備」の年にベルリン・フィルとアメリカ・ツアーまでおこなっていたことを考えると、原因が「冷戦」であることは明らかです。同じ元ナチ党員でも西側だと好ましく、東側だと好ましくないという西側プロパガンダです。
  ちなみに1960年代なかばまでに西ドイツ連邦軍の高額装備は、戦車がM41、M46、M47、M48など、戦闘機がF84、F86、F104などアメリカ武器メーカー製品がほとんどでした。

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 年表
 1866年

◆6月、普墺戦争勃発。
◆8月、プラハ条約締結により、普墺戦争が終結。
◆10月、フランクフルトがヘッセン州に編入。
 1870年

◆7月、普仏戦争勃発。
 1871年

◆1月、ドイツ帝国成立。
◆5月、フランクフルト講和条約締結により、普仏戦争が終結。
●10月、書籍商のヘルマン・モリッツ・アーベントロートと、玩具製造業者の娘ヘンリエッテ・エリーザベト・フロマンがヘッセン州のダルムシュタットで結婚。父はドレスデン近郊の出身、母はダルムシュタットの生まれでした。
 1883年(0歳)

●1月19日、ヘルマン・パウル・マクシミリアン・アーベントロート、ドイツ帝国のフランクフルトに誕生。生家は書籍を商っており、11歳年長のエルゼ、7歳年長のマリーという二人の姉がいました。
●5月、アーベントロート、プロテスタントとして受洗。

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 1884年(0〜1歳)

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 1885年(1〜2歳)

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 1886年(2〜3歳)

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 1887年(3〜4歳)

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 1888年(4〜5歳)

●アーベントロート、フランクフルトのヴェーラー=レアルギムナジウムに入学。

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 1889年(5〜6歳)

●フランクフルトのヴェーラー=レアルギムナジウムに在籍。

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 1890年(6〜7歳)

●フランクフルトのヴェーラー=レアルギムナジウムに在籍。

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 1891年(7〜8歳)

●フランクフルトのヴェーラー=レアルギムナジウムに在籍。

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 1892年(8〜9歳)

●フランクフルトのヴェーラー=レアルギムナジウムに在籍。

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 1893年(9〜10歳)

●フランクフルトのヴェーラー=レアルギムナジウムに在籍。

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 1894年(10〜11歳)

●フランクフルトのヴェーラー=レアルギムナジウムに在籍。

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 1895年(11〜12歳)

●フランクフルトのヴェーラー=レアルギムナジウムに在籍。

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 1896年(12〜13歳)

●フランクフルトのヴェーラー=レアルギムナジウムに在籍。
●10月、ブルックナー、ウィーンで死去。


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 1897年(13〜14歳)

●フランクフルトのヴェーラー=レアルギムナジウムに在籍。

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 1898年(14〜15歳)

●アーベントロート、フランクフルトのヴェーラー=レアルギムナジウムを卒業。
●アーベントロート、フランクフルトの商業学校に入学。

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 1899年(15〜16歳)

●フランクフルトの商業学校に在籍。

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 1900年(16〜17歳)

●アーベントロート、フランクフルトの商業学校を卒業。


●アーベントロート、ミュンヘン王立音楽院に入学。指揮法、ピアノ、理論と作曲などを学びます。


  指揮法の教師は、フェリックス・モットル[1856-1911]。モットルはブルックナーの弟子で、ワーグナー指揮者として有名。当時、バーデン大公国のカールスルーエ宮廷劇場の音楽監督でもあったモットルは、バイロイト音楽祭では1886年から1906年にかけて69公演指揮しており、カールスルーエ宮廷劇場の楽員の多くをバイロイトでも演奏させたため、宮廷劇場は「小バイロイト」の異名もとっていました。モットルは1903年にミュンヘン宮廷歌劇場の第1楽長となっていますが、並行してメトロポリタン歌劇場にも客演。1904年にかけて63公演も指揮して国際的な名声を高め、コヴェントガーデンやモスクワ、サンクトペテルブルクにもワーグナー作品で客演していました。そして1907年にはミュンヘン宮廷歌劇場の音楽監督に就任。その間、1904年にはミュンヘン王立音楽院の院長にも任命され、さらに宮廷劇場のツアーやオーケストラ・ツアーでも指揮するなど多忙をきわめ、1911年6月21日、「トリスタンとイゾルデ」通算100回目の指揮となった公演で倒れて病院に移送され、治療の甲斐なく7月2日に54歳で死去しています。


  ピアノの教師は、アンナ・ヒルツェル=ランゲンハン[1874-1951]。ヒルツェル=ランゲンハンはスイス人ピアニストで、夫リヒャルト・ランゲンハンが1898年にミュンヘンのカイム管弦楽団の第2楽長に任命されたことからミュンヘンでソロや室内楽の演奏活動をおこなっていましたが、アーベントロートが入学する少し前の1900年3月に、夫のリヒャルトが亡くなったため、ミュンヘン音楽院での教育活動に力を入れるようになっています。彼女の門下には、クララ・ハスキル、エディト・ピヒト=アクセンフェルト、ハンス・ライグラフ、ヴェルナー・エックらがいました。


  理論の教師は、ルートヴィヒ・トゥイレ[1861-1907]。1882年にミュンヘン王立音楽院を卒業し、翌年には母校の教師となり、1888年に教授に昇格したトゥイレは、1907年に45歳で亡くなるまでエルネスト・ブロッホ、ヴァルター・ブラウンフェルスなど多くの学生を指導します。


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 1901年(17〜18歳)

●ミュンヘン王立音楽院に在籍。


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 1902年(18〜19歳)

●ミュンヘン王立音楽院に在籍。


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 1903年(19〜20歳)

●ミュンヘン王立音楽院に在籍。


●アーベントロート、ドイツ音楽協会(ADMV)に加入。


●アーベントロート、ミュンヘンで指揮者デビュー。
●アーベントロート、アマチュア・オーケストラ「ヴィルデ・グングル」の指揮者となります。「ヴィルデ・グングル」は、ミュンヘンの中産階級市民が主なメンバーであるミュンヘン・オーケストラ協会の運営する楽団で、前任の指揮者はリヒャルト・シュトラウスの父、フランツ・シュトラウスでした。


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 1904年(20〜21歳)

●アーベントロート、ミュンヘン王立音楽院を卒業。


●アーベントロート、アマチュア・オーケストラ「ヴィルデ・グングル」の指揮者を継続。


●アーベントロート、リューベック楽友協会の常任指揮者募集に応募。これは師のモットルから教わった情報でしたが、応募者が89人という人気ぶりで、若くプロ経験が無かったアーベントロートは書類選考で落とされてしまいます。
  しかし、師のトゥイレが、マックス・フォン・シリングスと知り合いで、シリングスがリューベックと関係があったおかげで、実技の最終選考に出場することができ、アーベントロートは審査員全員からの支持を得て選ばれることになります。


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 1905年(21〜22歳)

●10月、アーベントロート、リューベック楽友協会フィルハーモニー管弦楽団の常任指揮者に就任。6年間で240回のオーケストラ・コンサートを指揮します。会場は主にフュンフハウゼン・コンツェルトハウス(800席)。


大規模動員が見込める公演ではコロッセウム(3,000席)を使用。


●11月、リューベック楽友協会フィル。ブルックナー第7番。

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 1906年(22〜23歳)

●リューベック楽友協会フィルに常任指揮者として在職。


●リューベック楽友協会フィル。ブルックナー第5番、第9番。

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 1907年(23〜24歳)

●リューベック楽友協会フィルに常任指揮者として在職。


●10月、アーベントロート、リューベック市立劇場の首席指揮者に就任。4年間で、ローエングリン、さまよえるオランダ人、ワルキューレ、ジークフリート、トリスタンとイゾルデ、マイスタージンガー、フィデリオ、カルメン、こうもり、トロヴァトーレ、後宮からの誘拐、魔笛など129回指揮。
  任期中、師のモットルのアシスタントとして、バイロイトとミュンヘンのプリンツレーゲンテン劇場でのワーグナー公演をサポートしてもいます。


●アーベントロート、リューベック市立劇場在職中に、女性作家で芸術パトロンとしても知られていたイーダ・ボイ=エト[1852-1928]から経済的な支援を受けます。彼女はアーベントロートの後任のフルトヴェングラーも支援していました。


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 1908年(24〜25歳)

●リューベック市立劇場に首席指揮者として在職。新しい劇場が完成。約1,000席。


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 1909年(25〜26歳)

●リューベック市立劇場に首席指揮者として在職。


●2月、アーベントロート、ベルリン・フィルに初めて客演。以後、1944年12月までに80公演以上指揮しています。

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 1910年(26〜27歳)

●リューベック市立劇場に首席指揮者として在職。


●ドイツ音楽協会(ADMV)の取締役会のメンバーになり、委員として活動。


●リューベック・フィルハーモニー合唱団の指揮者に就任。

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 1911年(27〜28歳)

●2月、ミュンヘン・フィル。クローゼ:イースター賛歌「ヴィディ・アクアム」。合唱演奏会協会。
●4月、リューベック市立劇場首席指揮者として最後のコンサート。後任はフルトヴェングラー。


●7月2日、恩師モットル、ミュンヘンで死去。自身100回目となる「トリスタンとイゾルデ」の公演中に倒れ、搬送先の病院で11日後に死去。54歳でした。
●8月、アーベントロート、結婚。相手はブレーメン出身の19歳のエリーザベト・ヴァルター(愛称はリーゼル)で、リューベック時代に知り合っていました。
●秋、アーベントロート、エッセン市の音楽総監督に就任。オペラやコンサートの指揮を任されます。


●ギュルツェニヒ管。モーツァルト。


●11月、ミュンヘン・フィル。ベートーヴェン:イェーナ交響曲。ベートーヴェン: ピアノと管弦楽のためのロンド、ピアノ協奏曲ニ長調断章(恩師ヒルツェル=ランゲンハン)。独奏はミュンヘン王立音楽院の恩師。

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 1912年(28〜29歳)

●エッセン市音楽総監督在職。


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 1913年(29〜30歳)

●エッセン市音楽総監督在職。
●4月、エッセン市立劇場管弦楽団。ブルックナー第8番。


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 1914年(30〜31歳)

●エッセン市音楽総監督在職。


◆7月、第1次世界大戦開戦。
●7月、フリッツ・シュタインバッハ、ケルン市音楽総監督を退任。これにより、ギュルツェニヒ管弦楽団首席指揮者とケルン音楽院院長の職が空席となります。


●11月、アーベントロート、ギュルツェニヒ管弦楽団とコンサート。ベートーヴェン:エグモント序曲、「レオノーレ」序曲第3番、ヴァイオリン協奏曲(カール・フレッシュ)、交響曲第5番。


●アーベントロート、ドイツ音楽協会(ADMV)の主催する第49回ADMV音楽祭に指揮者として出演し、シリングス、ハウゼッガー、シュナーベル、フルトヴェングラー、レーガー、プフィッツナーらと交流。


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 1915年(31〜32歳)

●1月、アーベントロート、ギュルツェニヒ管弦楽団首席指揮者に就任。ギュルツェニヒ管弦楽団の母体は、1827年にケルン市民が「音楽協会」と「市立合唱協会」を一緒にして設立した「ケルン・コンサート協会」で、要は市民参加のオーケストラと合唱団を運営する協会です。オーケストラの方は、劇場楽団や大聖堂の礼拝堂楽団、軍楽隊、アマチュア音楽家なども参加していました。
  やがて1857年11月には、15世紀の古い建築で遮音や音響に多少問題はあるものの、新たに1,338席の座席を設置しコンサートホールとしてもなんとか使えるようになった「ギュルツェニヒ」で、「協会大コンサート」を開催、以後、定期的にギュルツェニヒでコンサートをおこなうようになって「ギュルツェニヒコンツェルト」と呼ばれるようになり、オケは「ギュルツェニヒ管弦楽団」、合唱団は「ギュルツェニヒ合唱団」として親しまれるようになります。
  そして1888年にケルン市がオーケストラを運営することを決定、1902年にはケルン市が当時のドイツで最大級の歌劇場(1,800席)を新たに建設しオペラ団体を運営するようになったため、以後、ギュルツェニヒ管弦楽団は歌劇場とコンサートの両方の仕事をこなすオーケストラとして活動。年間の演奏回数は200回前後で、比率はオペラ3に対してコンサート1ぐらいなので、いわゆる歌劇場オーケストラとしてはコンサート回数は多い方ですが、通常のコンサート専門オーケストラに較べると半分以下という水準です。
  そのため、アーベントロートの知名度が上がるとともに海外への客演も増え、ケルン時代にアーベントロートの名声が国際的になったのはその少ない演奏回数のおかげともいえます。


  ちなみにオーケストラ・コンサートの際は基本的にギュルツェニヒが演奏会場でしたが、特別公演などではアーベントロートもケルン歌劇場を使用しており、クレンペラーが指揮するオーケストラ・コンサートについては歌劇場が使用されていました。


●1月、アーベントロート、ケルン音楽院の院長に就任。前任のシュタインバッハのときに学生が大幅に増えたことから、ヴァルラフ市長が委員長を務める委員会で35万マルクの資金を調達、8万uの土地の譲渡も承認されていましたが、第1次大戦の開戦により計画は中止、以後、ハイパーインフレで資金が消失するなどして計画は大幅に延期され、実現したのは1975年のことでした。


●1月、アーベントロート、ケルン・コンサート協会の芸術監督兼指揮者に就任。この協会はギュルツェニヒ管弦楽団のルーツともいえるもので、ケルン市民によるオーケストラと合唱団を運営していました。
●12月、ギュルツェニヒ管&合唱団。ブルックナー:詩篇第150篇、他。


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 1916年(32〜33歳)

●ギュルツェニヒ管に首席指揮者として在職。


●ケルン音楽院に院長として在職。


●ケルン・コンサート協会芸術監督兼指揮者。
●2月、ギュルツェニヒ管。ブルックナー第7番、他。


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 1917年(33〜34歳)

●ギュルツェニヒ管に首席指揮者として在職。


●ケルン音楽院に院長として在職。


●ケルン・コンサート協会芸術監督兼指揮者。
●1月、ギュルツェニヒ管。ブルックナー第4番、他。


◆コンラート・アデナウアーがケルン市長に選ばれます。


●クレンペラーがケルン歌劇場の音楽監督に就任。


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 1918年(34〜35歳)

●ギュルツェニヒ管に首席指揮者として在職。


●ケルン音楽院に院長として在職。


●ケルン・コンサート協会芸術監督兼指揮者。
●3月、ギュルツェニヒ管。ブルックナー第5番、他。


●アーベントロート、ケルン市の音楽総監督に就任。
●アーベントロート、ケルン音楽院の院長兼音楽監督に就任。
●アーベントロート、社会主義者の訴えに共鳴して共同署名。のちにナチ党から問題にされることになります。
●父ヘルマン・モリッツ・アーベントロート、フランクフルトで死去。
◆イギリス軍がケルン近くに駐留を開始してケルン市街にも展開。当初は5個軍団の大規模なものでしたが再編・解散・縮小し、1929年に役割を終えています。


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 1919年(35〜36歳)

●ケルン市音楽総監督在職。
●ギュルツェニヒ管に首席指揮者として在職。


●ケルン音楽院に院長兼音楽監督として在職。


●ケルン・コンサート協会芸術監督兼指揮者。
●ケルン音楽院の教授に就任。アーベントロートは院長を務める一方で指揮も教え、シュタインベルク(スタインバーグ)やエルメンドルフなど約80人を指導。
●2月、ギュルツェニヒ管。ブルックナー第9番、モーツァルト:ピアノ協奏曲第21番(エリー・ナイ)。


●ヨーロッパ各都市に客演。
◆イギリス陸軍ライン軍団が設立されケルン近くに駐留。約13,360人で構成され、月額約30万ポンドの駐留費用が発生。大隊向けに新聞「ケルン・ポスト」まで発行。


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 1920年(36〜37歳)

●ケルン市音楽総監督在職。
●ギュルツェニヒ管に首席指揮者として在職。


●ケルン音楽院に院長兼音楽監督として在職。


●ケルン・コンサート協会芸術監督兼指揮者。
●1月、ギュルツェニヒ管。ブルックナー第8番、他。


●5月、オランダのマーラー音楽祭に参加。


●7月、ギュルツェニヒ管。ベートーヴェン=ブルックナー・アーベントを4回開催。会場はケルン歌劇場。


●10〜11月、コンセルトヘボウ管弦楽団に客演。ブルックナー第8番、ブラームス第1番、グラズノフ:ヴァイオリン協奏曲、他。


◆イギリス陸軍ライン軍団がケルン近くに駐留。

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 1921年(37〜38歳)

●ケルン市音楽総監督在職。
●ギュルツェニヒ管に首席指揮者として在職。


●ケルン音楽院に院長兼音楽監督として在職。


●ケルン・コンサート協会芸術監督兼指揮者。
●1月、ギュルツェニヒ管。ブルックナー第3番、他。
●2月、ギュルツェニヒ管。ブルックナー:ミサ曲第3番、他。
●アーベントロート、ケルン室内管弦楽団の設立に寄与。ギュルツェニヒ管弦楽団の楽員とケルン音楽院の教師に対して古楽演奏を主目的とした室内オーケストラの結成を勧めて実現したものです。ケルン室内管弦楽団が正式な団体として発足したのは1923年11月のことでした。


●5月、ケルン室内管弦楽団、ライン室内音楽フェスティヴァルに出演。指揮はアーベントロートとクレンペラー、または指揮者無し。会場はケルンのブリュール城のムジークザール。


●12月、ベルリン・フィル。ブルックナー第3番、他。
◆イギリス陸軍ライン軍団がケルン近くに駐留。

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 1922年(38〜39歳)

●ケルン市音楽総監督在職。
●ギュルツェニヒ管に首席指揮者として在職。


●ケルン音楽院に院長兼音楽監督として在職。


●ケルン・コンサート協会芸術監督兼指揮者。
●3月、ギュルツェニヒ管。ブルックナー第6番、他。
●5月、ケルンで開催された「低地ライン音楽祭」で、監督に任命。プフィッツナーのカンタータ「ドイツ精神について」をケルン初演。
●5月、ケルン室内管弦楽団、ライン室内音楽フェスティヴァルに出演。指揮はアーベントロートとクレンペラー、または指揮者無し。会場はケルンのブリュール城のムジークザール。


●6月、コンセルトヘボウ管弦楽団に客演。アルプス交響曲、ハフナー、他。


●アーベントロート、シュターツカペレ・ベルリンの指揮者に就任。シュターツカペレ・ベルリンはベルリン国立歌劇場の楽団員がシンフォニック・コンサートを演奏する際の名称で、通常、指揮者はベルリン国立歌劇場音楽監督が兼務します。しかし、当時、音楽監督でユダヤ系のレオ・ブレッヒは、1919年に着任した総監督で反ユダヤ主義者のマックス・フォン・シリングスと対立して解任されていたため、1920年からフルトヴェングラーがシュターツカペレの指揮者を務めていました。そのフルトヴェングラーがベルリン・フィルの首席指揮者に就任してシュターツカペレの指揮は困難となり、1922年からはアーベントロートが引き継ぐことになったという展開です。アーベントロートは1923年にエーリヒ・クライバーが音楽監督に着任するまでシュターツカペレの指揮者として活動しています。


●12月、ギュルツェニヒ管。ブルックナー第1番、他。
◆イギリス陸軍ライン軍団がケルン近くに駐留。

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 1923年(39〜40歳)

●ケルン市音楽総監督在職。
●ギュルツェニヒ管に首席指揮者として在職。


●ケルン音楽院に院長兼音楽監督として在職。


●ケルン・コンサート協会芸術監督兼指揮者。
●アーベントロート、シュターツカペレ・ベルリンの指揮者として在職。


●5月、ケルン室内管弦楽団、ライン室内音楽フェスティヴァルに出演。指揮はアーベントロートとクレンペラー、または指揮者無し。会場はケルンのブリュール城のムジークザール。


●7月、ギュルツェニヒ管。バルメン公演。ブルックナー第4番。同じコンサートでクレンペラーがブルックナーの9番を指揮。


●ケルン音楽院、資金難のため運営困難な状況に陥ります。第1次大戦後から長引くインフレのため、1920年に5万マルクだったケルン市当局の助成金は、1922年には2.5倍の12万5千マルクに達し、1923年にはベルリンのプロイセン政府がすべての助成金を停止。さらにハイパーインフレにより寄付金もすべて消失していました。


●10月、ケルン音楽院理事会とケルン市教育委員会が、国の助成金を受けられるよう、文化大臣のケステンベルク[1882-1962]の草案を協議し、ケルン音楽院を国立の音楽大学にする再編成案を作成。


●11月、ギュルツェニヒ管。デュッセルドルフ公演。ブルックナー第7番、他。
●12月、ギュルツェニヒ管。ブルックナー第5番、他。
●ケルン音楽院の冬学期、遅れて開始。プロイセン政府の資金援助を受けるため、新しい基準で試験を実施して学生数を約400人(前年の3分の1)に抑制し、教員数も約40人(前年の3分の2)に削減。ちなみにケステンベルク大臣は、のちにクレンペラーに話を持ち掛けてベルリンにクロールオーパーをつくった人物です。


◆イギリス陸軍ライン軍団がケルン近くに駐留。

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 1924年(40〜41歳)

●ケルン市音楽総監督在職。
●ギュルツェニヒ管に首席指揮者として在職。


●ケルン音楽院に院長兼音楽監督として在職。


●ケルン・コンサート協会芸術監督兼指揮者。
●5月、ケルン室内管弦楽団、ライン室内音楽フェスティヴァルに出演。指揮はアーベントロートとクレンペラー、または指揮者無し。会場はケルンのブリュール城のムジークザール。


●アーベントロート、「ギュルツェニヒコンツェルト」に続く2つ目のコンサート・シリーズとして「フォルクスジンフォニーコンツェルト」を開始。これは、アデナウアー市長の主導で建設された巨大なラインパークにある5,000席の大ホールを使用するもので、メインストリームの作品だけでなく、ケルン音楽院やケルンの作曲家の作品まで紹介するというもので、同僚のクレンペラーの作品なども含まれていました。


●7月、ギュルツェニヒ管。ラインパーク大ホール。ブルックナー第8番、テ・デウム。
●10月、ギュルツェニヒ管。ラインパーク大ホール。ブルックナー第2番、詩篇第150篇。
●10月、ポーランドのウッチ交響楽団に客演。
●アーベントロートのケルン市の音楽総監督としての仕事が増大していたため、調整役としてもうひとりの学長を置き、プロイセン芸術アカデミーの会員でもある作曲家、ブラウンフェルスを任命することが決定。これにより規模が縮小した音楽院の改革を進め、国立の音楽大学として運営を強化することを狙います。ブラウンフェルスは学長職だけでなく、オペラ、オラトリオ、オーケストラ演奏も指導します。


◆イギリス陸軍ライン軍団がケルン近くに駐留。

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 1925年(41〜42歳)

●ケルン市音楽総監督在職。
●ギュルツェニヒ管に首席指揮者として在職。


●ケルン・コンサート協会芸術監督兼指揮者。
●2月、ギュルツェニヒ管。ブルックナー第7番、ミサ曲第2番。
●5月、ケルンで開催された「低地ライン音楽祭」で監督に任命。
●5月、ケルン室内管弦楽団、ライン室内音楽フェスティヴァルに出演。指揮はアーベントロートとクレンペラー、または指揮者無し。会場はケルンのブリュール城のムジークザール。


●6月、ギュルツェニヒ管。「低地ライン音楽祭」。ブルックナー第6番。
◆6月、ケルンでヨーロッパ初の高層ビル「ハンザタワー」(65m)が開業。前年3月に着工して15か月間の工事で完成したもので、一世紀近く経った今でも現役。ハイパーインフレで利益を得た者も多かったことを象徴するようなビルでもあります。


●ハイパーインフレで閉鎖していた「ケルン音楽院」が、「ケルン音楽大学」となって活動を再開。
●アーベントロートと友人のヴァルター・ブラウンフェルスが、「ケルン音楽大学」共同学長に就任。


●ソ連。指揮ツアー。モスクワとレニングラードのオーケストラに客演。
◆イギリス陸軍ライン軍団がケルン近くに駐留。

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 1926年(42〜43歳)

●ケルン市音楽総監督在職。
●ギュルツェニヒ管に首席指揮者として在職。


●ケルン音楽大学にブラウンフェルスと共同で学長として在職。


●ケルン・コンサート協会芸術監督兼指揮者。
●2月、イェテボリ交響楽団。ブルックナー第3番、他。
●3月、ギュルツェニヒ管。ブルックナー第4番、他。
●6月、アーベントロート、妻のエリーザベトと共にトーマス・マンの51歳の誕生日祝いに招かれリューベックを来訪。


●7月、ギュルツェニヒ管。ブルックナー第8番、詩篇第150篇。会場はケルン歌劇場。


◆イギリス陸軍ライン軍団がケルン近くに駐留。

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 1927年(43〜44歳)

●ケルン市音楽総監督在職。
●ギュルツェニヒ管に首席指揮者として在職。


●ケルン音楽大学にブラウンフェルスと共同で学長として在職。


●ケルン・コンサート協会芸術監督兼指揮者。
●1月、ギュルツェニヒ管。ブルックナー第9番、他。
●2月、ロンドン交響楽団に客演。ブラームス4番、他。
●3月、ロンドン交響楽団に客演。ベートーヴェン第9番、第1番。
●3月、ギュルツェニヒ管、ギュルツェニヒ合唱団。ブラウンフェルスの大ミサを初演。


●5月、ギュルツェニヒ合唱団のベルリン公演を指揮。オーケストラはベルリン国立歌劇場管。ブラウンフェルスの大ミサ。


●ソ連からの招待でモスクワとレニングラードのオーケストラに客演。
◆イギリス陸軍ライン軍団がケルン近くに駐留。

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 1928年(44〜45歳)

●ケルン市音楽総監督在職。
●ギュルツェニヒ管に首席指揮者として在職。


●ケルン音楽大学にブラウンフェルスと共同で学長として在職。


●ケルン・コンサート協会芸術監督兼指揮者。
●2月、ロンドン交響楽団。ベートーヴェン第4番、ブラームス第2番、他。
●2月、ギュルツェニヒ管。ブルックナー第7番、他。
●3月、ロンドン交響楽団。死と変容、ベートーヴェン第5番、他。
●3月、ロンドン交響楽団。ブラームス第1番をHMVに録音。
●5月、ケルンで開催された「低地ライン音楽祭」で監督に任命。
●5月、ギュルツェニヒ管。ウィーン公演(ムジークフェラインザール)。ブルックナー第7番。ケルン歌劇場ウィーン公演に伴っておこなわれたコンサート。当時のケルン歌劇場音楽監督はユダヤ系のオイゲン・センカー[1891-1977]。19年間に及ぶアーベントロートのギュルツェニヒ管首席指揮者在任中のケルン歌劇場音楽監督はグスタフ・ブレッヒャー[1879-1940]、クレンペラー、センカーで、3代続けてすべてユダヤ系であり、アーベントロートとの関係も良好でした。


●6月、ギュルツェニヒ管。低地ライン音楽祭公演。ブルックナー第5番、他。ケルンのコンサート協会管弦楽団も動員した大編成での演奏。
●7月、コンセルトヘボウ管弦楽団に客演。ブルックナー第7番、ベートーヴェン第7番。


●ソ連。指揮ツアー。モスクワとレニングラードのオーケストラに客演。
●ギュルツェニヒ管。マンハイム公演。ブルックナー第8番、他。
◆イギリス陸軍ライン軍団がケルン近くに駐留。
●アーベントロート、ケルン市の音楽総監督ということで、講演組織「西部ドイツ国民講義講堂」から名誉会員に選ばれるものの拒否。これは同組織が反ユダヤ的なものだったからです。

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 1929年(45〜46歳)

●ケルン市音楽総監督在職。
●ギュルツェニヒ管に首席指揮者として在職。


●ケルン音楽大学にブラウンフェルスと共同で学長として在職。


●ケルン・コンサート協会芸術監督兼指揮者。
●1月、ウィーン響。ブルックナー第8番、テ。デウム。


●1月、ケルン室内管弦楽団とフランクフルト公演。


●2月、ベルリン・フィル。ブルックナー第7番、他。
●2月、ロンドン交響楽団。英雄の生涯、ブラームス1番、他。
●3月、ロンドン交響楽団。モーツァルト第40番、ベートーヴェン第7番、他。
●3月、ギュルツェニヒ管。ブルックナー第3番。
●5,6月、ギュルツェニヒ管。マンハイム公演。ブルックナー第6番、第7番、他。
●6,7月、ミュンヘン・フィル。キッシンゲンの夏音楽祭。
●7月、国際ブルックナー協会ラインラント支部を、アーベントロートとケルン音楽大学で共同学長を務めるヴァルター・ブラウンフェルスが設立。支部長はペーター・ラーベ。ブラウンフェルスはユダヤ系で、ラーベはのちに反ユダヤ主義で有名になる人物ですが、このときはまともだったようです。
●10月、ギュルツェニヒ管。ラインパーク大ホールでの演奏。ブルックナー第8番、詩篇第150篇。


●11月、リヴァプール・フィル。ブルックナー第4番、他。
●ソ連。指揮ツアー。モスクワとレニングラードのオーケストラに客演。
●レニングラード・フィル。ブルックナー第5番。レニングラード初演。
●マクデブルク・フィル。
●ヴェネツィアに客演。
◆イギリス陸軍ライン軍団がケルン近くに駐留。この年で終了。

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 1930年(46〜47歳)

●ケルン市音楽総監督在職。
●ギュルツェニヒ管に首席指揮者として在職。


●ケルン音楽大学にブラウンフェルスと共同で学長として在職。


●ケルン・コンサート協会芸術監督兼指揮者。
●1月、ウィーン響。ブルックナー第5番、他。


●1月、ロンドン交響楽団に客演。ブラウンフェルス:ベルリオーズの主題による幻想的出現、ベートーヴェン:ヴァイオリン協奏曲(クライスラー)、他。
●1月、ギュルツェニヒ管。ブルックナー第4番、シューマン:ピアノ協奏曲(バックハウス)。
●2月、コンセルトヘボウ管弦楽団に客演。アルプス交響曲、ブルックナー第7番、レーガー:ピアノ協奏曲、他。


●3月、ロンドン交響楽団に客演。ブラームス第4番、グリーグ:ピアノ協奏曲(コルトー)、他。
●7月、ギュルツェニヒ管。マンハイム公演。ブルックナー第8番、他。
●11月、ギュルツェニヒ管。ブルックナー第5番、他。
●アーベントロート、ボン市の音楽総監督に就任。ボン市立管弦楽団(現ボン・ベートーヴェン管弦楽団)の音楽監督となります。


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 1931年(47〜48歳)

●ボン市音楽総監督、ボン市立管弦楽団に音楽監督として在職。


●ケルン市音楽総監督在職。
●ギュルツェニヒ管に首席指揮者として在職。


●ケルン・コンサート協会芸術監督兼指揮者。
●ケルン音楽大学にブラウンフェルスと共同で学長として在職。


●11月、ギュルツェニヒ管。ブルックナー第9番、他。
●11月、ベルリン放送管。ブルックナー第5番。のちのベルリン放送交響楽団(東)。
●ロンドン交響楽団に客演。
●シュテッティンに客演。

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 1932年(48〜49歳)

●ボン市音楽総監督、ボン市立管弦楽団に音楽監督として在職。


●ケルン市音楽総監督在職。
●ギュルツェニヒ管に首席指揮者として在職。


●ケルン音楽大学にブラウンフェルスと共同で学長として在職。


●1月、ゲヴァントハウス管。ニキシュ没後10周年記念演奏会。ケルビーニ:アナクレオン序曲、クレツキ:ピアノ協奏曲、ブルックナー第4番。


●2月、ケルン室内管弦楽団とフランクフルト公演。


●3月、ギュルツェニヒ管。ブルックナー第8番、他。
●5月、チューリヒ・トーンハレ管。ブルックナー第5番、他。


●10月、ギュルツェニヒ管。ブルックナー第7番、他。
●11月、チューリヒ・トーンハレ管。ブルックナー第2番、他。


●ロンドン交響楽団に客演。
●12月、コンセルトヘボウ管弦楽団に客演。ストラヴィンスキー:詩篇交響曲、サティ:ソクラテス、R.メンゲルベルク:ミサ・プロ・パーチェ、モンテヴェルディ:アリアンナの嘆き、ドビュッシー:神聖な舞曲と世俗的な舞曲、他。


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 1933年(49〜50歳)

●ボン市音楽総監督、ボン市立管弦楽団の音楽監督を退任。


●ケルン市音楽総監督在職。
●ギュルツェニヒ管に首席指揮者として在職。


●ケルン・コンサート協会芸術監督兼指揮者。
●1月、ギュルツェニヒ管。マンハイム公演。ブルックナー第3番、他。
◆3月、ケルン市議会選挙では、市民の4割近くが投票したナチ党が、選挙連合「戦線 黒白赤(ドイツ国家人民党と鉄兜団の連合)」と連立、さらに共産党の票が無効とされた結果、絶対多数を獲得。市議会はアデナウアー市長を解任することを即時決定し、自宅に突撃隊を派遣。アデナウアーはベルリンに逃亡して難を逃れます。


◆3月、16年に渡ってケルン市長を務めていた中央党のアデナウアーに代わり、ナチ党のギュンター・リーゼンが臨時市長に任命されています。リーゼンはユダヤ系のレーヴィ銀行の幹部でしたが、前年にナチ党員となってからは反ユダヤ主義に転向。市庁舎は親衛隊と突撃隊が占拠した状態となります。


●3月、マインツ市立劇場管弦楽団。ブルックナー第5番、他。
●3月、ライプツィヒのゲルデラー市長がアーベントロートをワルターの後任に欲しいとリーゼン市長あてに文書を送付。
●4月、ケルン音楽大学共同学長のブラウンフェルスが半ユダヤ人ということで解任。アーベントロートは単独で学長職を継続。


◆4月、国家秘密警察法制定。政治警察がゲシュタポとなり、警察組織から独立。


◆5月、ケルン大学前で抗議の焼身自殺事件。
◆夏、ケルン警察とゲシュタポによる住民統制が本格化。ケルン警察は、ケルン市とその周辺の行政区域に住む150万人以上の人々を担当。ゲシュタポは反ナチ派を監視・摘発。


●ロンドン交響楽団に客演。
●ドレスデンに客演。
●ケムニッツに客演。
●ギュルツェニヒ管。マンハイム公演。
●カールスルーエに客演。
●9月、アーベントロート、「ドイツ文化闘争同盟(KfdK)」から「ライン川におけるドイツ文化の日」のオープニングにオーケストラの音楽家を提供するよう要請されるものの拒否。
●9月、帝国文化院法制定。それまでドイツにあった映画、演劇、音楽、造形芸術、文学、新聞、ラジオに関する7つの業界組織を統合し、会員の保護・統制を目的とするもので、当初17万人の会員数は、やがて25万人まで増加します。
●11月、帝国音楽院設立。会長はR.シュトラウス、副会長はフルトヴェングラー。アーベントロートは音楽教育者評議会監督、合唱監督として参加。
◆11月、新たな国家秘密警察法により、ケルンのゲシュタポはベルリン本部から直接指示を受けることになります。


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 1934年(50〜51歳)

●帝国音楽院、音楽教育者評議会監督、合唱監督。
●1月、ギュルツェニヒ管。ブルックナー第9番。
●1月、ギュンター・リーゼン市長により、アーベントロートはケルン市音楽総監督とギュルツェニヒ管弦楽団首席指揮者、ケルン音楽大学の学長、ケルン・コンサート協会芸術監督兼指揮者職の解任が決定。
  背景には当時ドイツで歌劇場がオーケストラ・コンサートもおこなっているところでは、オペラとコンサートの音楽監督2人体制から、オペラの音楽監督がコンサートの音楽監督も兼務する1人体制に変更するという人事がおこなわれていたことがあります。すでにハンブルクやデュッセルドルフでは実施済みで、前年3月にアデナウアーの代わりに臨時市長となり11月に正式に市長となっていたリーゼンも実施に向けて動いていましたがなぜか頓挫。やがてリーゼンは、1936年12月に外国為替法違反で解任されています。


●3月、コンセルトヘボウ管。バッハ:マタイ受難曲。


●3月、ギュルツェニヒ管。バッハ:マタイ受難曲、ブルックナー:ミサ曲第2番、他。
●ロンドン交響楽団に客演。
●ギュルツェニヒ管。マンハイム公演。
●カールスルーエに客演。
●ノルウェーに客演。
●10月、ゲヴァントハウス管弦楽団の首席指揮者に就任。ケルンの場合と同じくライプツィヒでもライプツィヒ歌劇場とゲヴァントハウス管のオーケストラ・コンサートはひとつのオーケストラが兼務しています。しかしゲヴァントハウス管弦楽団は人数が多かったため、歌劇場上演とオーケストラ・コンサートを並行して行うことが可能でした。そのため、ゲヴァントハウス管は通常のコンサート専門オーケストラ並みの演奏回数をこなしています。


ちなみにライプツィヒ歌劇場の音楽監督はパウル・シュミッツで、1951年まで継続していました。


●10月、ゲヴァントハウス管。ブランデンブルク協奏曲第3番、ベートーヴェン第1番、ブラームス第4番、ブルックナー第3番、第7番、他。
●10月、ライプツィヒ音楽院教授に就任。


●アーベントロート、ライプツィヒでは、カール・シュトラウベ、ギュンター・ラミン、ゲオルク・クーレンカンプ、マックス・シュトループといったアーティストや、作曲家のカール・ヘラー、ユリウス・ヴァイスマンらと交流。
●12月、ワイマール・シュターツカペレ。ワイマール国民劇場。オベロン序曲、ハイドン第13番、ブルックナー第3番。


◆ライプツィヒ当局、将来の戦争に備え、27の死体収容部隊を編成。これは過去、ライプツィヒが1813年の諸国民戦争の舞台となりナポレオン軍など約50万人が戦う場となって約10万人の死傷者が発生、初代ゲヴァントハウスまで死傷者であふれかえったことから準備されたものです。

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 1935年(51〜52歳)

●帝国音楽院、音楽教育者評議会監督、合唱監督。
●ゲヴァントハウス管弦楽団に首席指揮者として在職。


●ライプツィヒ音楽院に教授として在職。


●2月、ゲヴァントハウス管。ブルックナー第5番、他。
●5月、ベルリン・フィル。ブルックナー第5番、他。
●7月、ゲヴァントハウス管。フライブルク・ブルックナー・フェスティヴァル。ブルックナー第1番、第8番。
●9月、アーベントロート、友人のユダヤ系作曲家ギュンター・ラファエルの資格停止処分を無効にするため、帝国音楽院総裁のペーター・ラーベと談判。
●10月、ゲヴァントハウス管。ブルックナー第6番、他。
●11月、オスロ・フィル。ブルックナー第4番、他。
●ロンドン交響楽団に客演。
●アーベントロートとフルトヴェングラー、リューベック慈善事業振興協会からゴールド記念メダルを授与。


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 1936年(52〜53歳)

●帝国音楽院、音楽教育者評議会監督、合唱監督。
●ゲヴァントハウス管弦楽団に首席指揮者として在職。


●ライプツィヒ音楽院に教授として在職。


●1月1日、ゲヴァントハウス管。ニューイヤーコンサート。ブルックナー第9番、他。
●1月、ゲヴァントハウス管。ブルックナー第9番、第5番、他。
●1月、マンハイム国立歌劇場管&フィルハーモニー協会。ローゼンガルテン、ムーゼンザール。ワーグナー:ファウスト序曲、ブルックナー第5番。


●3月、ロイス・カペレ。ブルックナー第4番、他。
●ロンドン交響楽団に客演。
●5月、ベルリン・フィル・ツアーを指揮。
●6月、シュレージア・フィル(シレジア・フィル)。ブルックナー第3番、他。
●10月、ゲヴァントハウス管。ブルックナー・フェスティヴァル。ブルックナー第8番、他。
●10月、バーデン・シュターツカペレ。ブルックナー第8番、他。
●11月9日、ドイツ・ツアー中のビーチャムとロンドン・フィルがゲヴァントハウスで演奏。
●11月9日、ゲヴァントハウス前のメンデルスゾーン像が破壊。主犯はルドルフ・ハーケ副市長。ゲルデラー市長はフィンランドに滞在中でした。
●11月10日、ビーチャムがメンデルスゾーン像に花束を捧げに訪れると、そこには台座しかありませんでした。

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 1937年(53〜54歳)

●帝国音楽院、音楽教育者評議会監督、合唱監督。
●ゲヴァントハウス管弦楽団に首席指揮者として在職。


●ライプツィヒ音楽院に教授として在職。


●ユーゴスラヴィア王国より聖サヴァ勲章を授与。


●ウィーン・フィルに客演。レオノーレ第3番、ブルックナー第3番、ブラームス:ヴァイオリン協奏曲。


◆3月31日、ライプツィヒ市長、ゲルデラーが辞任。
◆4月1日、ルドルフ・ハーケがライプツィヒの臨時市長に就任。
●5月1日、アーベントロート、ナチ党に入党。
●5月、ベルリン・フィル。ベルリン芸術週間。ブルックナー第8番。
●6月、ゲッベルスがブルックナーの楽譜はブルックナー協会の原典版を使用するようレーゲンスブルクで演説。
●6月、オーストリアのナチ事務所が、ブルックナー協会会長のマックス・アウアーが反国家主義者であるという手紙を国民啓蒙宣伝省に送付。
●7月、アーベントロートとブルックナー協会が、ミュンヘンで演奏する予定の第5番のヴァージョンの選択をめぐり衝突。
●ロンドン交響楽団に客演。
●10月、ゲヴァントハウス管。ブルックナー第4番、他。
●10月、ウィーン・フィル。ブルックナー第3番、他。
◆10月12日、ライプツィヒ市長にヴァルター・デーニケが就任。
●ヘッセン州立劇場管弦楽団の首席指揮者に就任。ダルムシュタットの州立劇場のオペラのオーケストラがシンフォニー・コンサートを開くときに指揮を担当。


●11月、ヘッセン州立劇場管。ベートーヴェン第3番、ドランスマン:交響的音楽、他。

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 1938年(54〜55歳)

●帝国音楽院、音楽教育者評議会監督、合唱監督。
●ゲヴァントハウス管弦楽団に首席指揮者として在職。


●ライプツィヒ音楽院に教授として在職。


●ヘッセン州立劇場管弦楽団に首席指揮者として在職。


●1月、ゲヴァントハウス管。ブルックナー第1番、他。
●2月、ブルックナー協会の出版社の会議でオーレルとハースの見解の相違が和解できないレベルとなり、第9番の校訂をおこなったオーレルは、以後、全集版編集から手を引きます。
●3月、ゲヴァントハウス管。ブルックナー:ミサ曲第1番、他。
●3月、ベルリン・フィル。ドランスマン:交響的音楽、他。
●3月、ミュンヘン・フィル。マンフレッド序曲、タンホイザー序曲、ドン・ファン、エック:自然、愛、死、ドランスマン:交響的音楽、シューベルト:歌曲集(管弦楽伴奏)。
●4月、イェテボリ響。ブルックナー第4番、他。
●5月、ベルリン・フィル。デュッセルドルフ公演。ベートーヴェン第9番。
●6月、ハイデルベルク・ドイツ連邦学生協会管弦楽団。第1回大ドイツ学生の日の祝賀コンサート。ブルックナー第4番。
●7月、ベルリン・フィル。ミュンヘンの「ドイツ芸術の日」での公演。
●7月、ゲヴァントハウス管。ミュンヘン・レジデンツ公演。ブルックナー第5番。
●10月、ベルリン・フィル。フィデリオ序曲、他。
●10月、ゲヴァントハウス管。ブルックナー第7番、他。
◆10月11日、ルドルフ・ハーケがライプツィヒの臨時市長に就任。ヴァルター・デーニケ市長はハーケの中傷により解任。

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 1939年(55〜56歳)

●帝国音楽院、音楽教育者評議会監督、合唱監督。
●ゲヴァントハウス管弦楽団に首席指揮者として在職。


●ライプツィヒ音楽院に教授として在職。


●2月、ゲヴァントハウス管。ブルックナー第2番、他。
●5月、デュッセルドルフ「帝国音楽の日」。帝国音楽院の音楽教育者セクションのワークショップ開催。
●7月、ベルリン・フィル。ミュンヘンの「大ドイツ美術展」での公演。
◆8月21日、ライプツィヒ市長にアルフレート・フライベルクが就任。
●12月、ゲヴァントハウス管。ブルックナー第4番、他。

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 1940年(56〜57歳)

●帝国音楽院、音楽教育者評議会監督、合唱監督。
●ゲヴァントハウス管弦楽団に首席指揮者として在職。


●ライプツィヒ音楽院に教授として在職。


●ヒルフェルスム放送交響楽団。ブルックナー第2番、他。
●2月、ベルリン・フィル。
●3月、ゲヴァントハウス管。R.シュトラウス:祝典前奏曲、他。
●7月、ベルリン・フィルのスカンジナヴィア・ツアーを指揮。スウェーデン、デンマークなど。
●10月、ゲヴァントハウス管。ブルックナー第5番、他。
●10月、ベルリン・フィル。ブルックナー第3番、他。
●12月、ゲヴァントハウス管。ブルックナー:テ・デウム、他。

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 1941年(57〜58歳)

●帝国音楽院、音楽教育者評議会監督、合唱監督。
●ゲヴァントハウス管弦楽団に首席指揮者として在職。


●ライプツィヒ音楽院に教授として在職。秋の新年度より「国立音楽大学、音楽教育および舞台芸術」と改称。


●1月、ゲヴァントハウス管。ブルックナー第8番、他。
●2月、コンセルトヘボウ管弦楽団に客演。ブルックナー第4番、ブラームス第4番、レーガー:ベックリンによる4つの音詩、他。


●10月、パリ・オペラ座。フィデリオ。
●10月、ゲヴァントハウス管。ブルックナー第3番、他。
●ライン=マイン州立管弦楽団の首席指揮者に就任。ケンプやエルトマンらも共演で訪れる新しいオーケストラ。本拠地はフランクフルトのザールバウ。


●11月、ライン=マイン州立管弦楽団。12回のコンサートを開催。
●11月、ベルリン・フィル。グレーナー:「気高き騎士オイゲン王子」、他。
●12月、パリ音楽院管。「大モーツァルト祭り」。ヤルナッハ:モーツァルトによる音楽、モーツァルト:ピアノ協奏曲第24番、レーガー:モーツァルト変奏曲。
●スウェーデンに客演。

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 1942年(58〜59歳)

●帝国音楽院、音楽教育者評議会監督、合唱監督。
●ゲヴァントハウス管弦楽団に首席指揮者として在職。


●ライプツィヒ国立音楽大学に教授として在職。


●ライン=マイン州立管弦楽団に首席指揮者として在職。


●1月、ゲヴァントハウス管。ブルックナー第7番、他。
●2月、ゲヴァントハウス管。ブルックナー第8番、他。
●3月、ベルリン・フィル。ブルックナー第7番、他。
●4月、ストックホルム・フィル。ブルックナー第3番、他。
●6月、ヒルフェルスム放送交響楽団。ブルックナー第9番。終了後に、フリッツ・エーザーの指揮で第4楽章の断片を演奏。
◆ライプツィヒ当局、1934年に編成した27の死体収容部隊を市長直属の作戦部隊に引き継がせ、英米の爆撃に備えます。死体収容だけでなく、爆撃で家を失った2万人を受け入れ食事を供給する施設が47か所確保。さらに1度に1万人の食事を提供できる大食堂とも契約し、まもなく30万人を収容できる場所も用意していました。
●11月、ベルリン・フィル。ブルックナー第4番、他。

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 1943年(59〜60歳)

●帝国音楽院、音楽教育者評議会監督、合唱監督。
●ゲヴァントハウス管弦楽団に首席指揮者として在職。


●ライプツィヒ国立音楽大学に教授として在職。


●ライン=マイン州立管弦楽団に首席指揮者として在職。


●4月、ストックホルム・フィル。ベートーヴェン第9番、他。
●6月、パリ音楽院管。「ベートーヴェン祭」。ナイ、コルトー、ヌヴー、ケンプ、他。ベートーヴェン第9番、他。
●7,8月、バイロイト音楽祭でマイスタージンガーを指揮。フルトヴェングラーとのダブル・キャスト。
●10月、ベルリン・フィルのバルカン・ツアーを指揮。
◆10月、イギリス空軍がライプツィヒを爆撃。市街地・住宅地に1,085トンの爆弾を投下。
●10月、ベルリン・フィル。ブカレスト、クロンシュタット、ブダペスト、アグラムを巡るツアー。
●11月、ゲヴァントハウス管。ブルックナー:ミサ曲第1番、他。
◆12月、イギリス空軍がライプツィヒを大規模爆撃。爆弾約1,400トンにより市街地・住宅地を徹底攻撃し、約14万人分の家を破壊し、約1万人を死傷させています。ライプツィヒは当時60万人ほどの都市で、軍需産業の工場も多かったものの、工場はあまり爆撃されませんでした。
●12月、ライプツィヒ歌劇場、イギリス軍の爆撃で破壊。以後は、座席数が半分に満たない500席ほどのドライリンデン劇場で上演を継続。ゲヴァントハウス管弦楽団のライプツィヒ歌劇場要員が減るということでもありました。

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 1944年(60〜61歳)

●帝国音楽院、音楽教育者評議会監督、合唱監督。
●ゲヴァントハウス管弦楽団に首席指揮者として在職。


●ライプツィヒ国立音楽大学閉鎖。


●ライン=マイン州立管弦楽団に首席指揮者として在職。


●1月、ベルリン・フィル。ジーゲル「ミンナ・フォン・バルンヘルム」初演、他。
●2月、ベルリン国立歌劇場でマイスタージンガーを指揮。
●2月、ゲヴァントハウス管。ブルックナー第9番、第4番、他。
◆2月、イギリス軍が夜間爆撃、アメリカ軍が昼間爆撃でライプツィヒを空爆。
●2月、ゲヴァントハウス、爆撃により破壊。以後は市内の様々なホールで演奏。
●4月、ブリュッセル・フィル。プフィッツナー:ピアノ協奏曲、シューマン第4番、他。
◆5,6,7月、アメリカ軍がライプツィヒを空爆。
●7,8月、バイロイト音楽祭でマイスタージンガーを指揮。フルトヴェングラーとのダブル・キャスト。
●8月、アーベントロート、国民啓蒙宣伝省の「神の祝福を受けた者たちのリスト」に選出。指揮者ではほかに、ベーム、エルメンドルフ、ヘーガー、ヨッフム、カバスタ、カラヤン、クナッパーツブッシュ、カイルベルト、クラッセルト、クラウス、ラミン、シュミット=イッセルシュテット、シュミッツ、シューラー、シューリヒト(以上ABC順)の名があり、そして特別リストには、プフィッツナー、R.シュトラウスと共にフルトヴェングラーが選ばれていました。
  オーケストラでは、ベルリン・フィル、ウィーン・フィル、バイエルン国立管、ゲヴァントハウス管、ザクセン・シュターツカペレ(ドレスデン)、プロイセン・シュターツカペレ(ベルリン)、リンツ・ブルックナー管、ハンブルク・フィル、プラハ・ドイツ響が選ばれ、徴兵などで優遇されることになります。
●9月、全ドイツの劇場(歌劇場)閉鎖令。国家総力戦の一環で、「文化労働者」も前線動員するのが目的でしたが、アーベントロートとゲヴァントハウス管弦楽団は「神の祝福を受けた者たちのリスト」に選ばれていたため、終戦直前まで活動継続が可能でした。
◆12月、アメリカ軍がライプツィヒを空爆。

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 1945年(61〜62歳)

●帝国音楽院、音楽教育者評議会監督、合唱監督。
◆2月、アメリカ軍がライプツィヒを空爆。
●3月、ゲヴァントハウス管弦楽団と録音。
◆4月、イギリス軍がライプツィヒを空爆。
◆4月、アメリカ軍がライプツィヒを占領。


◆6月、ベルリン宣言によりドイツの政府権限停止。連合国各国軍による占領統治開始。
◆6月、アメリカ占領軍によるライプツィヒの占領統治開始。非ナチ化政策ではまず要職者や有名人をブラックリストに記載。アーベントロートも対象となります。
◆7月、アメリカ占領軍は西ベルリンの占領状態を確保するためにライプツィヒから撤退し同地の占領統治も終了。
  下の画像はドイツ銀行前のM18駆逐戦車。ドイツ銀行はナチ政権のおかげで1938年12月にメンデルスゾーン銀行の1億マルクを超える全資産を手に入れて大銀行になっていましたが、これは当時のドイツ帝国銀行の資産7,600万マルクをはるかに上回る莫大な金額でした。


◆7月、ソ連占領軍がライプツィヒに進駐。ソ連の非ナチ化政策は、主に政府や軍の幹部、戦犯を対象とし、有名人だから見せしめで裁くというようなことはおこないませんでした。


●7月、ゲヴァントハウス管弦楽団。ブルックナー第8番アダージョ、他。途中、飛行機の爆音で最初からやり直し。
●8月、ワイマール・シュターツカペレ。ハイドン第13番、シューマン第4番、ベートーヴェン第7番。ワイマール・シュターツカペレを11年ぶりに指揮。


●ワイマール国民劇場の音楽監督に就任。楽団がオーケストラ演奏会をおこなう際の「ワイマール・シュターツカペレ」の首席指揮者も翌年から兼務。国民劇場(1,000席)は爆撃で破壊されていましたが、1932年に完成したばかりのワイマールハレ(1,200席)が使用可能でした。
  ワイマール国民劇場はテューリンゲン州の運営で、州首相のルドルフ・パウルはジューコフ元帥に任命された人物。


●ワイマール国立音楽大学の指揮科教授に就任。


●11月、ゲヴァントハウス管弦楽団と首席指揮者として最後のコンサート。会場はキャピトル映画館。ブルックナー第7番、他
●11月、ゲヴァントハウス管弦楽団の首席指揮者を解任。7月に任命された新市長のエーリヒ・ツァイグナー[1886-1949]は、元検察官、裁判官、弁護士、ドイツ社会民主党政治家で法務大臣で、反ナチ活動家であり、戦前から何度も逮捕・投獄され、1944年からはヒトラー暗殺計画の失敗でブーヘンヴァルト強制収容所に収容されていた人物です。ナチへの憎悪は深く、入党手続きだけだったとはいえアーベントロートの首席指揮者継続は認めませんでした。
●12月、ゲヴァントハウス管。ベートーヴェン第9番。
●12月、ワイマール・シュターツカペレ。イェーナ公演(フォルクスハウス)。フィンガルの洞窟、画家マティス、ブラームス第1番。


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 1946年(62〜63歳)

●ワイマール国民劇場に音楽監督として在職。


●ワイマール国立音楽大学に指揮科教授として在職。


●1月、ワイマール・シュターツカペレ。モーツァルト第39番、魔笛序曲、他。
●2月、ワイマール・シュターツカペレ。マーラー第1番、ベートーヴェン:献堂式序曲、第7番、バッハ:管弦楽組曲第3番、メンデルスゾーン:真夏の夜の夢序曲、他。
●2,3月、ワイマール国民劇場。ワイマールハレ。リゴレット。
●3,4月、ワイマール・シュターツカペレ。オベロン序曲、魔弾の射手序曲、バラキレフ:ロシア、シューベルト第3番、第8番、レーガー:モーツァルト変奏曲、ヒラー変奏曲、モーツァルト第39番、ベートーヴェン第7番、バッハ:管弦楽組曲第3番、ワーグナー:ファウスト序曲、パルジファル前奏曲、ブルックナー第3番。
◆4月、党員60万人のKPD(ドイツ共産党)と68万人のSPD(ドイツ社会民主党)が統合され、SED(ドイツ社会主義統一党)が誕生。結党大会はベルリンのアドミラルパラストで実施。


●5月、ワイマール・シュターツカペレ。オベロン序曲、こうもり序曲、春の声、ウィーン気質、ピツィカート・ポルカ、シューベルト第3番、モーツァルト第39番、ブルックナー第3番、他。
●7月、ワイマール・シュターツカペレ。リスト:ファウスト交響曲、ピアノ協奏曲第2番。
●5月、ワイマール国民劇場。ワイマールハレ。リゴレット。
●8,10,11月、ワイマール・シュターツカペレ。ヘンデル:合奏協奏曲ト短調、ブルックナー第7番、マーラー第4番、シューベルト第3番、チャイコフスキー第5番、他。
●8,10,11,12月、ワイマール国民劇場。ワイマールハレ。魔笛、リゴレット。
●12月、ワイマール・シュターツカペレ。ショスタコーヴィチ第5番、ブラームス:ピアノ協奏曲第1番(シュトイラー)、ベートーヴェン第9番。

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 1947年(63〜64歳)

●ワイマール国民劇場に音楽監督として在職。


●ワイマール国立音楽大学に指揮科教授として在職。


●ワイマール市音楽総監督に就任。
●1月、ワイマール国民劇場。ワイマールハレ。魔笛。
●1月、ワイマール・シュターツカペレ。魔弾の射手序曲、ベートーヴェン第9番、ヴァイオリン協奏曲、ハイドン第92番、プロコフィエフ:ロシア序曲、他。
●3月、ワイマール国民劇場。ワイマールハレ。魔笛。
●3月、ワイマール・シュターツカペレ。かるた遊び、モーツァルト第41番、バッハ:管弦楽組曲第1番、第3番、他。
●4月、ワイマール・シュターツカペレ。ベートーヴェン第9番。
●4月、ワイマール・シュターツカペレ。エアフルト近郊ゼマーダのフォルクスハウスで、ドイツ社会主義統一党の一周年記念演奏会。バッハ、モーツァルト、ベートーヴェン。


●5月、ワイマール国民劇場。ワイマールハレ。魔笛。
●5,6,7,8月、ワイマール・シュターツカペレ。ティル、アナクレオン序曲、ヒンデミット室内音楽第5番(ヴィオラ協奏曲)、ブラッハー:交響曲、チャイコフスキー第4番、ベートーヴェン第9番、第3番シューベルト第9番、他。
●10月、ワイマール・シュターツカペレ。マンフレッド序曲、レーガー:ピアノ協奏曲、ブラームス第2番。
●11月、ワイマール国民劇場。ワイマールハレ。魔笛。
●11,12月、ワイマール・シュターツカペレ。メンデルスゾーン:静かな海と楽しい航海、最初のワルプルギスの夜の夢、チャイコフスキー第6番、ミャスコフスキー第22番、他。

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 1948年(64〜65歳)

●ワイマール国民劇場に音楽監督として在職。


●ワイマール国立音楽大学に指揮科教授として在職。


●1,2,3月、ワイマール国民劇場。ワイマールハレ。トリスタンとイゾルデ、フィデリオ。
●1,2,4,5,6月、ワイマール・シュターツカペレ(ワイマールハレ)。ヒンデミット:交響曲変ホ調、ハイドン第101番、ベートーヴェン:ピアノ協奏曲第2番、コリオラン、ラファエル:シンフォニア・セレーナ、シューマン第3番、モーツァルト第36番、ラヴェル:ピアノ協奏曲(ムスリン)、ヒンデミット:ヴェーバーの主題による交響的変容、ハチャトゥリアン:ピアノ協奏曲、ブルックナー第8番、ボロディン第2番、ベートーヴェン第5番、他。
◆5月、「ドイツ国家民主党(NDPD)」が結党。元ナチ党員や軍人、文化人らの政治的受け皿となる民主主義ブロック政党。
●アーベントロート、「ドイツ国家民主党(NDPD)」に入党。
●アーベントロート、ドイツ人民会議議員に選出。
●5,6月、ワイマール国民劇場。ワイマールハレ。魔笛、トリスタンとイゾルデ。
●8月、ワイマール国民劇場が再建されて開場(1,000席)。ドイツ初の劇場再建でした。


●8月、ワイマール・シュターツカペレ。ベートーヴェン第9番。
●9月、シュターツカペレ・アルテンブルク。フォルクスハウス。公演告知には人民評議会と教授の文字があります。


●ワイマール国民劇場にルドルフ・ケンペが楽長として着任(1950年まで)。
●10月、ワイマール・シュターツカペレ。ブラームス第1番、チャイコフスキー:ピアノ協奏曲第1番。
●11月、ワイマール・シュターツカペレ。モスクワ芸術座50周年記念祝賀会。チャイコフスキー第5番第2楽章、組曲第3番主題と変奏。
●12月、ワイマール・シュターツカペレ。ディークマン:トッカータ、インヴェンションとシャコンヌ、ラファエル:シンフォニエッタ、他。
●12月、ワイマール国民劇場。ワルキューレ。
●12月31日、ワイマール・シュターツカペレ。ベートーヴェン第9番。ゲーテ生誕200周年記念「ゲーテ・イヤー」開幕演奏会。

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 1949年(65〜66歳)

●ワイマール国民劇場に音楽監督として在職。


●ワイマール国立音楽大学に指揮科教授として在職。


●1月1日、ワイマール・シュターツカペレ。ベートーヴェン第9番。ゲーテ生誕200周年記念「ゲーテ・イヤー」開幕演奏会。
●2月、ライプツィヒ放送交響楽団の首席指揮者に就任。本業の放送用収録やレコーディングは、シュプリンガーシュトラーセの中部ドイツ放送フンクハウスでおこなわれています(1952年からDDR放送に名称変更)。


また、ライプツィヒ放送響のコンサートは、主にライプツィヒ動物園の敷地内にあるコングレスハレ(1,000席)で開かれていました。


●1,2,3月、ワイマール国民劇場。ワルキューレ。
●1,2,3,4月、ワイマール・シュターツカペレ。古典交響曲、ドン・キホーテ、ヒンデミット:シンフォニア・セレーナ、カバレフスキー:ピアノ協奏曲、ベートーヴェン第8番、モーツァルト第40番、プフィッツナー:小交響曲、ブルックナー第4番、レーガー:ヒラー変奏曲、バラキレフ:ロシア、他。
●5月、ライプツィヒ放送響。ブルックナー第5番。エテルナに録音。


●6月、ワイマール国民劇場。R=コルサコフ:5月の夜。
●8月、ドイツ人民評議会より「ドイツ民主共和国国家功労賞」授与。10,000マルクは全額ライプツィヒ放送交響楽団に寄付。当時の東の10,000マルクは、東の平均月収の約40倍に相当。


●9月、ライプツィヒ放送響。ブルックナー第8番。
●9,10月、ワイマール・シュターツカペレ。ヘンデル:合奏協奏曲Op.6-5、ブルックナー第5番、ベートーヴェン第9番、チャイコフスキー:ロメオとジュリエット、ブラームス第4番、他。
●9,10月、ワイマール国民劇場。ワルキューレ、R=コルサコフ:5月の夜。
◆10月、ドイツ民主共和国(東ドイツ)成立。
●11月、ライプツィヒ放送響。ブルックナー第4番。エテルナに録音。


●11月、ワイマール・シュターツカペレ。イン・メモリアム・R.シュトラウス(9月8日に亡くなったシュトラウスを偲んで忍んで)、シューベルト:グレート、プフィッツナー:ピアノ協奏曲。
●12月、ワイマール・シュターツカペレ。ディークマン:トッカータ、インベンションとシャコンヌ、ラファエル:シンフォニエッタ、ベートーヴェン:レオノーレ第2番、他。
●12月、ワイマール国民劇場。マイスタージンガー。

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 1950年(66〜67歳)

●ワイマール国民劇場に音楽監督として在職。


●ワイマール国立音楽大学に指揮科教授として在職。


●ライプツィヒ放送交響楽団に首席指揮者として在職。


●アーベントロート、ドイツ人民会議議員として「東ドイツ文化連盟(クルトゥアブント)」のために働きます。
●1〜6月、ワイマール国民劇場。マイスタージンガー。
●1月、ワイマール・シュターツカペレ。イェーナ公演(フォルクスハウス)。ヴァイスマン:協奏曲、プロコフィエフ:ピアノ協奏曲第3番、シューマン第1番。


●2月、ワイマール・シュターツカペレ。ジーゲル:ミンナ・フォン・バルンヘルム組曲、ヒンデミット:チェロ協奏曲、ベートーヴェン第6番。
●3月、ワイマール・シュターツカペレ。ショパン:ピアノ協奏曲第2番(ムスリン)、ショスタコーヴィチ第1番。
●5月、ケルン音楽大学25周年記念式典に参加。1923年にケルン市の助成金打ち切りによる資金難とハイパーインフレで一時閉鎖されたケルン音楽院が、規模を縮小して国からの助成に切り替えて1925年にケルン音楽大学として再開してから25年が経過したことを祝うイベントでした。久しぶりにギュルツェニヒ管弦楽団を指揮してもいます。
●5月、ギュルツェニヒ管。ブルックナー第3番。
●6月、ワイマール・シュターツカペレ。ハイドン変奏曲、ベートーヴェン第3番、シェバリーン第3番、他。
●8月、ワイマール市700周年記念コンサートにワイマール・シュターツカペレと出演。ワーグナー、リスト。


●9,10,11月、ワイマール国民劇場。マイスタージンガー、フィデリオ。

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 1951年(67〜68歳)

●ワイマール国民劇場に音楽監督として在職。


●ワイマール国立音楽大学に指揮科教授として在職。


●ライプツィヒ放送交響楽団に首席指揮者として在職。


●アーベントロート、ドイツ人民会議議員として「東ドイツ文化連盟(クルトゥアブント)」のために働きます。
●1月、ワイマール国民劇場。マイスタージンガー。
●1,2月、ソ連。指揮ツアー。モスクワとレニングラードのオーケストラに客演。リヒテルとの共演がプラウダ紙、ソビエト芸術紙に掲載。
●2,4月、ワイマール国民劇場。マイスタージンガー、フィデリオ。
●4,5,6月、ワイマール・シュターツカペレ。ベートーヴェン第7番、第8番、プフィッツナー:ハイルブロンのケートヒェン序曲、バルトーク:ピアノ協奏曲第3番、ブラームス第4番、ヨハン・シュトラウス・アーベント、ベートーヴェン第9番、他。
●ハインツ・レーグナーがコレペティートアとしてワイマール国民劇場に配属。すぐに実力を認められ、オペラ、オペレッタの指揮と、演劇部門への劇音楽の作曲などに多忙な3年間を過ごすことになります。
●10月、ワイマール・シュターツカペレ。ベートーヴェン第2番、第3番、他。
●11月、ライプツィヒ放送響。ブルックナー第9番。エテルナに録音。


●12月、ワイマール・シュターツカペレ。ベートーヴェン第6番、他。
●12月、ゲヴァントハウス管。

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 1952年(68〜69歳)

●ワイマール国民劇場に音楽監督として在職。


●ワイマール国立音楽大学に指揮科教授として在職。


●ライプツィヒ放送交響楽団に首席指揮者として在職。


●アーベントロート、ドイツ人民会議議員として「東ドイツ文化連盟(クルトゥアブント)」のために働きます。
●ドイツ芸術アカデミー音楽部門会員に選出。
●2月、ワイマール・シュターツカペレ。ベートーヴェン第5番、第6番、他。 Gerster, Ottmar(1897-06-29 - 1969-08-31) Beethoven, Ludwig van(1770-12-17 - 1827-03-26) Čajkovskij, Modest Il’ič(1850 - 1918)
●3月、ワイマール・シュターツカペレ。ベートーヴェン没後125周年記念祝賀会。
●4,5月、ワイマール国民劇場。フィデリオ。
●4月、ワイマール・シュターツカペレ。ベートーヴェン第7番、第8番、他。
●5月、ワイマール・シュターツカペレ。グリエール:序曲「人民の友情」、ボルトキエヴィチ:ピアノ協奏曲第2番、ブラームス第2番。
●6月、ワイマール・シュターツカペレ。ベートーヴェン第1番、ブルックナー第9番。
●9月、ベルリン国立歌劇場。フィデリオ。
●12月、ワイマール・シュターツカペレ。ブルックナー第6番、他。
●12月、ワイマール・シュターツカペレ。ライプツィヒ公演(プーシキン広場の労働者劇場)。ベートーヴェン、チャイコフスキー、他。

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 1953年(69〜70歳)

●ワイマール国民劇場に音楽監督として在職。


●ワイマール国立音楽大学に指揮科教授として在職。


●ライプツィヒ放送交響楽団に首席指揮者として在職。


●ベルリン放送交響楽団の首席指揮者に就任。


●アーベントロート、ドイツ人民会議議員として「東ドイツ文化連盟(クルトゥアブント)」のために働きます。
●アーベントロート、ザクセン=アンハルト州交響楽団より名誉指揮者の称号を授与。
●アーベントロート、イェーナ・フリードリヒ・シラー大学より名誉上院議員の称号を授与。
●1月、オットー・グローテヴォール首相が、アーベントロートの70歳の誕生日に政府を代表して祝辞を述べています。当時の東ドイツには、グローテヴォール首相のほかピーク大統領もおり、ウルブリヒト国家評議会議長のもとで国を治めていました。
●1月、ワイマール市より名誉市民の称号を授与。
●1,2月、ワイマール国民劇場。こうもり。
●1月、ワイマール・シュターツカペレ。R=コルサコフ第3番、ヘンデル:合奏協奏曲Op.6-12、他。
●2月、ワイマール・シュターツカペレ。クライン:パッサカリアとフーガ、シューベルト第9番、他。
●3月、ワイマール・シュターツカペレ。モニューシュコ:ハルカ序曲、ショスタコーヴィチ第9番。
●4月、ワイマール・シュターツカペレ。シューベルト第8番、ブルックナー第7番。
●4月、ワイマール国民劇場。こうもり。
●5〜6月、ソフィア・フィル。
●6月、ワイマール・シュターツカペレ。ブラームス:ピアノ協奏曲第1番、ベートーヴェン第5番。
●6月、ワイマール国民劇場。こうもり。
●9月、ワイマール国民劇場。マイスタージンガー。
●9月、ベルリン放送響。フリードリヒシュタットパラスト公演。パーヴェル・セレブリャコフとのチャイコフスキー、他。


●11月、ワイマール・シュターツカペレ。シューベルト第5番、第8番、さすらい人幻想曲、他。

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 1954年(70〜71歳)

●ワイマール国民劇場に音楽監督として在職。


●ワイマール国立音楽大学に指揮科教授として在職。


●ライプツィヒ放送交響楽団に首席指揮者として在職。


●ベルリン放送交響楽団に首席指揮者として在職。


●アーベントロート、ドイツ人民会議議員として「東ドイツ文化連盟(クルトゥアブント)」のために働きます。
●東ドイツ政府より「祖国功労勲章」銀賞授与。


●アーベントロート、ドイツ合唱指揮者協会より名誉会員に選出。
●1,2,3月、ワイマール・シュターツカペレ。モーツァルト:協奏交響曲K297b、ブルックナー第4番、ミャスコフスキー第27番、ハイドン第97番、ヴィシュキ:ピアノ協奏曲、ハース:古いロココの主題による変奏曲組曲、他。
●4月、ワイマール・シュターツカペレ。ブルックナー第8番、他。
●5月、ポーランド。指揮ツアー。
●6月、ワイマール・シュターツカペレ。ルトスワフスキ:小組曲、ゲルナー:ピアノ協奏曲、ベートーヴェン第3番。
●10月、ソ連。指揮ツアー。モスクワとレニングラードのオーケストラに客演。
●11月、フィンランド。指揮ツアー。
●12月17日、ワイマール・シュターツカペレ。ベートーヴェン:コリオラン、ピアノ協奏曲第3番、チャイコフスキー第6番。コリオランは11月30日に亡くなったフルトヴェングラーの思い出に捧げられています。アーベントロートとフルトヴェングラーは親しい友人関係にありました。

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 1955年(71〜72歳)

●ワイマール国民劇場に音楽監督として在職。


●ワイマール国立音楽大学に指揮科教授として在職。


●ライプツィヒ放送交響楽団に首席指揮者として在職。


●ベルリン放送交響楽団に首席指揮者として在職。


●アーベントロート、ケルンを訪れる話が、連邦首相のアデナウアーによって拒否されます。冷戦が過熱していたためで、1950年のケルン客演は許可されていました。
●2月、ワイマール・シュターツカペレ。モーツァルト:クラリネット協奏曲、ブルックナー第5番、R.シュトラウス:家庭交響曲、他。
●3月、ワイマール・シュターツカペレ。モーツァルト:ディヴェルティメント第7番、プロコフィエフ第7番、他。
●3月、ソフィア・フィル。ベートーヴェン第5番、コリオラン、他。
●4月、ソフィア・フィル。ブルックナー第4番、他。
●4月、ワイマール・シュターツカペレ。レーガー:ヒラー変奏曲、他。
●5月、ワイマール・シュターツカペレ。ベートーヴェン第9番。
●6月、ワイマール・シュターツカペレ。ハイドン第101番、モーツァルト第38番、ベートーヴェン第7番。
●9月、ライプツィヒ放送響。プロコフィエフ第7番、シューマン:チェロ協奏曲、他。
●9月、ベルリン放送響。シューマン第1番、モーツァルト第35番、他。
●9月、ワイマール・シュターツカペレ。ベートーヴェン第1番、レーガー:ベックリンによる4つの音詩、ラヴェル:左手協奏曲、他。
●9月、ベルリン国立歌劇場が再建。杮落しは2日のコンヴィチュニーの「マイスタージンガー」で、アーベントロートは29日の祝典コンサートにベルリン放送交響楽団を率いて登場。曲目は、オベロン序曲、ゲルスターの交響曲第2番、シューベルトのグレート。なお、ベルリン国立歌劇場にはマルティン・アーベントロート[1883-1977]というバスバリトン歌手が在籍しており、この9月にも出演していました。


●10月、ワイマール・シュターツカペレ。ティル・オイレンシュピーゲル、画家マティス、ブラームス第4番、ヘッセンベルク:コンチェルタンテ・ムジーク、他。
●11月、ライプツィヒ放送響。モーツァルト:ピアノ協奏曲第20番、他。
●11,12月、ハンガリー、チェコスロヴァキア。指揮ツアー。
●12月、ワイマール・シュターツカペレ。ショスタコーヴィチ第10番、ブラームス:ピアノ協奏曲第2番。
●12月、ベルリン放送響。ベートーヴェン第9番。
●12月、ライプツィヒ放送響。モーツァルト第33番、他。

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 1956年(72〜73歳)

●ワイマール国民劇場に音楽監督として在職。


●ワイマール国立音楽大学に指揮科教授として在職。


●ライプツィヒ放送交響楽団に首席指揮者として在職。


●ベルリン放送交響楽団に首席指揮者として在職。


●1月、バイエルン国立管。オベロン序曲、ブラームス第1番、他。
●1月、ワイマール・シュターツカペレ。セレナータ・ノットゥルナ、リンツ、他。
●1月、ハンガリー国立歌劇場管。ワーグナー:ヴォータンの告別、他。
●1月、ベルリン放送響。モーツァルト:ディヴェルティメント第7番、交響曲第39番、他。
●2月、シュターツカペレ・ドレスデン。セレナータ・ノットゥルナ、戴冠式、他。
●2月、ベルリン放送響。ブルックナー第7番。
●2月、ワイマール・シュターツカペレ。デッサウ:1楽章の交響曲、コッハン:ヴァイオリン協奏曲、ベートーヴェン第6番。
●2月、ライプツィヒ放送響。ザクセ:ドビュッシーの主題による変奏曲、他。
●3月、ワイマール・シュターツカペレ。皇帝ティトゥス序曲、グラン・パルティータ、ジュピター、他。
●3月、ライプツィヒ放送響。モーツァルト第41番、ディヴェルティメント第7番、他。
●4月、ワイマール・シュターツカペレ。ハイドン第96番、リートミュラー:コンチェルティーノ、チャイコフスキー第5番。
●4月、ベルリン放送響。モーツァルト:セレナーデ第8番、ブラームス第3番、他。
●4月、ワイマール・シュターツカペレ。マンフレッド序曲、シューマン第1番、第4番。
●ドイツ・シューマン委員会の委員長に選出。
●4月27日、7月に開催されるツヴィッカウのシューマン音楽祭について、アーベントロート委員長のもと、基本的な準備が終わったと新聞報道。
●5月29日、イェーナで死去。死因は脳卒中。


●6月2日、国葬。数千人の市民、国の有力者が葬儀に参列。
●6月、埋葬。


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商品説明:年表シリーズ

指揮者
アーベントロート
アルヘンタ
アンセルメ
オッテルロー
ガウク
カラヤン
クイケン
クーセヴィツキー
クチャル
クナッパーツブッシュ&ウィーン・フィル
クナッパーツブッシュ&ベルリン・フィル
クナッパーツブッシュ&ミュンヘン・フィル
クナッパーツブッシュ&国立歌劇場管
クナッパーツブッシュ&レジェンダリー・オーケストラ
クラウス
クリップス
クレツキ
クレンペラー
ゴロワノフ
サヴァリッシュ
シューリヒト
スイトナー(ドヴォルザーク)
スイトナー(レジェンダリー)
スラトキン(父)
ターリヒ
チェリビダッケ
トスカニーニ
ドラゴン
ドラティ
バルビローリ
バーンスタイン
パレー
フェネル
フルトヴェングラー
ベイヌム
マルケヴィチ
ミトロプーロス
メルツェンドルファー
メンゲルベルク
モントゥー
ライトナー
ラインスドルフ
レーグナー(ブルックナー)
レーグナー(マーラー)
ロスバウト

鍵盤楽器
ヴァレンティ
ヴェデルニコフ
カークパトリック
カサドシュ
グリンベルク
シュナーベル
ソフロニツキー
タマルキナ
タリアフェロ
ティッサン=ヴァランタン
デムス
ナイ
ニコラーエワ
ネイガウス父子
ノヴァエス
ハスキル
フェインベルク
ユージナ
ランドフスカ
ロン

弦楽器
カサド
コーガン
シュタルケル
スポールディング
バルヒェット
フランチェスカッティ
ヤニグロ
リッチ
レビン

管楽器
デルヴォー(ダルティガロング)

声楽
ド・ビーク

室内アンサンブル
グリラー弦楽四重奏団
シェッファー四重奏団
シュナイダー四重奏団
パスカル弦楽四重奏団
パスキエ・トリオ
ハリウッド弦楽四重奏団
バルヒェット四重奏団
ブダペスト弦楽四重奏団
伝説のフランスの弦楽四重奏団
レナー弦楽四重奏団

作曲家
アンダーソン
ベートーヴェン
ヘンツェ
坂本龍一

シリーズ
テスタメント国内盤

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「デジタル領域においてもノイズの除去や、...

投稿日:2022/10/07 (金)

「デジタル領域においてもノイズの除去や、オリジナル・サウンドに影響を与えるその他の修復は行わず、必要最小限のテープ・エラーとテクニカル・クリックのみの修復が行われました。」ということですが、実際聞いてみるとLPの音とは異なります。特に音の響きが明るくなっているのでブラームスの交響曲としては残念な状態です。写真で例えるならオーケストラメンバを夕暮れに撮った集合写真があったとして、画像データのコントラストをあげたような。メンバーの顔の表情がより分かりやすくなったものの、夕暮れのしっとりした雰囲気が昼過ぎの明るい景色になっている感じです。

jin さん | 長野県 | 不明

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人物・団体紹介

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ブラームス(1833-1897)

1833年:北ドイツのハンブルクでヨハネス・ブラームス誕生。 1843年:演奏会にピアニストとして出演。作曲家、ピアニストのマルクスゼンに師事。 1852年:ピアノ・ソナタ第2番が完成。 1853年:ピアノ・ソナタ第1番、ピアノ・ソナタ第3番が完成。 1854年:ピアノ三重奏曲第1番、シューマンの主題による変奏曲が完成。

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