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Little Feat (リトル・フィート) プロフィール

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故・ロウエル・ジョージのスライド・ギターを看板として70年代アメリカン・ロックの中でもユニークな個性を放っていたリトル・フィート。日本の音楽ファンには、はっぴいえんど関連や矢野顕子とのセッションでも有名だ。その音楽性はルーツ系のアメリカン・ミュージックを志向しながらも、どこか他のバンドとは異質でモダンなドライヴ感を有しているところ、「ミクスチャー感覚」の絶妙さに集約される。ロウエル・ジョージは汎アメリカン・ミュージックすら越えてアジアやその他の地域の音楽にも興味を示していたというし、そのユニーク極まりない音楽にはジャケットを飾るネオンパークの絵画同様、イビツなカッコよさ(勿論誉め言葉です)がある。

リーダーのロウエル・ジョージ(1945年4月13日生)は、1960年代半ばにリッチー・ヘイワードとマーティン・キビーらとともにファクトリーというフォーク・ロック・グループを結成。その2年後には“ダーティ・ウォーター”などで知られるスタンデルズや“プッシン・トゥー・ハード”などで知られるシーズ、といったガレージ・バンドに参加した。またリッチー・ヘイワードが結成したフラタニティ・オブ・マンのセカンド・アルバム ゲット・イット・オン に参加したロウエルは、、レイ・コリンズに替わってフランク・ザッパのマザーズに加入することになる。ロウエルのプレイは いたち野郎 、 ホット・ラッツ などで聴かれる(クレジットはされていない)。

マザーズ在籍中のロウエルは“ウィリン”、 “トラック・ストップ・ガール”といった曲を含む数多くの曲を書き、デモ・テープを作っていたと言われる。そしてザッパに“ウィリン”を取り上げることを進言するが、これはドラッグを扱った曲だ、という理由で断られ、その替わりに自ら新しいバンドを作るように勧められたと言われている。

そうした中、一方でロウエルのデモ・テープは大きな反響を呼んでおり、 “ウィリン”はシー・トレインリンダ・ロンシュタットコマンダー・コディらに、 “トラック・ストップ・ガール”はバーズに取り上げられた。ロウエルは新しいバンドを遂に結成。フラタニティ〜のリッチー・ヘイワード(ds)に、ビル・ペイン(key)、さらにマザーズ時代の盟友ロイ・エストラダ(b)を加えたバンドで、バンド名はマザーズのドラマー、ジミー・カール・ブラックがロウエルの足にインスピレーションを受けて、リトル・フィートと名づけた。

ロウエルのデモ・テープに興味を示したワーナー・ブラザーズはリトル・フィートと契約。彼らは1971年、ラス・タイトルマンのプロデュースにより、ファースト・アルバム リトル・フィート でデビューした。これは評論家筋では高い評価を得たが、レコード会社が1万枚しかプレスしなかったともいわれ、セールス的にはさんざんなものに終わった。後に出世作となる “ウィリン”はここではライ・クーダースニーキー・ピートをフィーチャーしたヴァージョンが収録されている。そして“ウィリン”の別ヴァージョンが収められるのが1972年発表のセカンド・アルバム セイリン・シューズ 。今でこそ代表作に挙げられるこのアルバム、しかし当時はそれほどのセールスを上げることはなかった。解散説すら流れロウエルは元ラヴィン・スプーンフルジョン・セバスチャンエヴァリー・ブラザーズフィル・エヴァリーらとスーパー・グループを組む、という噂された。結局ロイ・エストラダがキャプテン・ビーフハートのマジック・バンドに加入するため、バンドを脱退したが、リトル・フィート自体は存続した。

ロイ脱退後、リトル・フィートデラニー&ボニーのバンドに居たケニー・グラッドニー(b)、サム・クレイトン(per)、ポール・バレル(g)の三人を加え、その強力な布陣で名作 ディキシー・チキン をレコーディング。ロウエル自身がプロデュースしたこの作品は、ニュー・オリンズR&B〜アラン・トゥーサンのサウンドに多くの影響を受け、現在では「ロック名盤」に欠かせない代表作として知られているが、当時はこの力作も商業的な成功といえるほどにはセールスはあげられなかったようだ。ここでまたもやバンドは解散の危機を迎える。各メンバーは数々のセッション・ワークをこなしていくことになる。

その後しばらくして再編されたリトル・フィートは4作目 アメイジング! を1974年に発表。これが初めてのチャート・インを果たす(全米最高位36位)。この後のリリースを並べると、1975年にビル、ポールの楽曲も増えた ラスト・レコード 、ロウエルが肝臓障害で十分な活動が出来ない中、1977年に発表された タイム・ラヴズ・ア・ヒーロー 、そして1978年に発表され、彼らにとって唯一のゴールド・ディスクとなった最大のヒット作 ウェイティング・フォー・コロンブス (1977年ロンドンでのコンサートを収録した2枚組)と続く。1978年には初来日もあったが病気で肥満しきったロウエルの姿は悲痛な感じであったと言われる。なおロウエルはグレイトフル・デッドのアルバムをプロデュースする一方、自らのソロ作のプロジェクトも進めていた。その作品は 特別料理(Thanks I'll Eat It Here) として1979年にリリースされた。

1979年5月、ロウエルはリトル・フィートの解散を表明。自らのバンドを率いツアーに出るが1979年6月29日、心臓発作のためヴァージニア州アーリントンで死亡する。享年34歳だった。

その後残された各々メンバー達はさまざまな活動を行っていたが、遂に1988年、元ピュア・プレイリー・リーグアメリカン・フライヤー、エリック・カズなどと共作アルバムもあるクレイグ・フラー(vo)、数々のセッションで名を挙げたフレッド・タケット(g)を加えリトル・フィートを再結成。その後バンドは、バッキング・ヴォーカルとして参加していたショーン・マーフィーを新たにシンガーとして迎えるなどして、新たなイメージを打ち出しながら現在まで存続している。

90年代半ば頃に若い世代のリスナーによるリトル・フィート再評価の波があった。それは例えばザ・バンドステージ・フライト カフーツ 収録曲にあるグルーヴが、ヒップホップ以降の感覚を共通項にクラブでプレイされる、といったような状況の中、生まれた。トーキョー・No.1・ソウルセットリトル・フィート ダウン・オン・ザ・ファーム 収録の”ココモ”をサンプリングした、というのはその象徴的な出来事で、実際にコーザ・ノストラ在籍のDJ氏などが、クラブでファンキーな70年代ロック(といっても共通する感触や匂いで切り取られたもので全てではない)をかけていたり、小沢健二〜ソウルセット周辺内でのブームがある程度の広がりを持って、若い世代のリスナーに認知されていたことは確かだ。要はヒップホップ以降の「音源」として注目されたこの時期のリトル・フィートだが、このことはヘンな敷居の高さをとっぱらって彼らの音楽がよりダイレクトな感触で見直されるというキッカケを与えたという点で、リトル・フィートの音楽的な評価に新鮮な風を送り込んだといえるだろう。

ミュージシャンズ・ミュージシャンの最高峰として(商業的な)記録にはならない栄誉と素晴らしい音楽を遺しているリトル・フィート。またそれとは無関係にリトル・フィートの音楽は、若い世代のリスナーにとっては不可思議だけどカッコいいグルーヴ・ミュージック、として受け止められるに違いない。そしてロウエル・ジョージのスライド・ギターと真にユニークなバンド・コンセプト(プログレッシヴなアメリカン・ルーツ・ロックともいうべき個性)はこれからも永遠に語り継がれていくだろう。

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