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ショスタコーヴィチ(1906-1975)

CD 交響曲第5番 バーンスタイン&ニューヨーク・フィル(1959)(平林直哉復刻)

交響曲第5番 バーンスタイン&ニューヨーク・フィル(1959)(平林直哉復刻)

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  • ★★★★☆ 

    遊悠音詩人  |  埼玉県  |  不明  |  2011年08月18日

    スポーティーな快感を味わうのにはこの上ない。しかし、ムラヴィンスキーに代表される切実さは、この演奏にはない。スポーツライターの玉木正之氏は、バーンスタインの「檄速」に「爽快感」を覚え、ムラヴィンスキーの「テンポの鈍重なことと権威主義的重々しさにウンザリした」と書いているが、奇しくもこの言葉が当盤の全てを物語っているといえる。ムラヴィンスキーを「重い」と酷評する向きには、当盤は如何にも歯切れがよく、快速なテンポも心地好く感じられるだろう。しかし、だからといって、この曲を初め数多くの作品を初演し、また、旧ソ連の困難な時代を作曲家と生き抜いたムラヴィンスキーを、主観論で批判するのは如何なものか。むしろ、ムラヴィンスキーのように、圧倒的なスケールで金縛りに遭わせるような切実さがあってこそ、ショスタコーヴィチの真髄に迫れるのではないか。だからではないが、バーンスタインの解釈は、見方次第では、如何にも大衆受けを狙った、恣意的で、短絡的で、深みがないもののように感じてしまうのだ(勿論、若き日のバーンスタインならではの求心力は魅力的であり、一定の評価は可能なのだが)。もし宮〇誠氏なら、「アメリカン・ドリームを地で行く指揮者が、20世紀の陰の部分にはひたすら目を瞑り、ミュージカル映画のように分かりやすく興奮度の高い演奏を大衆に提供し、無知な大衆はそのスポーティーさに酔い、アドレナリンを放出した」云々と酷評するだろう(挙げ句、ヘルベルト・ケーゲルの怪演を絶賛するだろう)。玉木氏は「気持ちのいい音楽、聴き手をワクワクされる音楽が、いい音楽なのだ」というが、胸倉を掴まれるような、呆然と立ち尽くすような凄みのある音楽もまた、気持ちいい音楽以上に芸術的であり、感動的であり、後世に残すべき価値を有するものであるはずだ。無論、ムラヴィンスキーが全てではないし、まして鬱病になるために音楽がある訳でもない。バーンスタインもショスタコーヴィチその人を感動させるだけの演奏をしたくらいなのだから、どちらがどれだけ正しいかなど論じるだけ野暮である。こうなると、結局は個々人の好み次第ということになりそうだが、さて……。

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