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『庭にお願い』 倉地久美夫×須川善行 対談 

2011年11月1日 (火)

interview
倉地久美夫×須川善行


秘宝館などにも絵が飾られているエロ絵師、樺山久夫さんを父に持つミュージシャン 倉地久美夫さんの冨永昌敬監督によるドキュメンタリー『庭にお願い』が10月30日から下高井戸シネマで東京凱旋公開される。その公開記念と「記念グッズ」として作られた紙ジャケジャバラ仕様の「音盤パンフレット」的要素を併せ持つサントラが聴けば聴くほど素晴らしすぎるので、倉地さんと本作のプロデューサーでもある元「ユリイカ」編集長の須川善行さんに倉地さんの東京ライヴ2日間の合間、残暑厳しいお昼間、吉祥寺のとあるカフェでご取材させて頂いた。

本作は倉地さんが語る少しのエピソード&ライヴシーンはもちろん、(嬉野武雄観光)秘宝館での戯れシーンや倉地さんの実家シーンなどに加え、倉地さんに関係のあるミュージシャン他が倉地さんの印象を語るパートがある。それがどうもインタビューには向かない「変な場所」(ビルのシャッターが後ろで突然閉まり出すどこかの街の道の真ん中、ある風の強い大学構内、時に電車が通る線路近く・・・)で行なわれている。しかも須川さんに手持ちでマイクを差し出されながら。(冨永監督ということで腑に落ちますが・・・)このシチュエーションはどう考えても気が散る。そんな突然目に飛び込んでくる予想外の外的要素の中で語られる「倉地像」を聞いても映画を観ても、いまいちよく分からない。それは菊地成孔さんをもって「天才なんだからしょうがない」と言わしめた倉地さんの魅力かもしれないが、人はどうも、分からないものについて触れたくなる。「倉地さんとはどんな人なのだろうか?」胸いっぱいに膨らんだ好奇心と疑問をいくつも抱えながら、お話を伺ってきた。そして、そこで見えてきた倉地さんの意外なパーソナル。そして、激しく注目して頂きたいのは、須川さんの倉地さんに対する多大すぎるピュアな愛。この対談がお読み頂いた方の心や身体のどこかにちくっと刺さって下さいますように。

INTERVIEW and TEXT and PHOTO: 長澤玲美

倉地 非常にオーバーな言い方ですけど、「人生の一端が残るんだなあ」という。
須川 常に「まだ何かある」って感じがするんですよ、倉地さんって。


--- 本日はよろしくお願いします。

倉地久美夫(以下、倉地)&須川善行(以下、須川) よろしくお願いします。

--- 『庭にお願い』が10月30日から下高井戸シネマで東京凱旋ロードショーが決まったということと、サントラが聴けば聴くほど素晴らしすぎるのでお話を伺わなければ後悔すると思いまして(笑)、倉地さんと『庭にお願い』のプロデューサーである須川さんに対談をしていただきたいと思いました。

須川 ありがとうございます。本当は冨永(昌敬)監督に来てもらうのが筋とは思うんですけど、恐縮です(笑)。

--- 倉地さんの東京ライヴでのタイミングにちょうどお会いできてうれしいです。

倉地 僕は18歳から28歳まで東京に10年住んでたんですよね。その時に出会った人たちのおかげで今でもこうして活動できていることがありがたく思いますね。


庭にお願い


--- サントラに収録されている音源は、映画にも使われている2006年の3月に渋谷ギャラリー・ルデコで行なわれた倉地さんのライヴ3日間の企画のときのものですね?

須川 そうですね。その3DAYSでは、倉地さんのソロもあり、ゲストの菊地雅章さん、山口優さんとの共演もあり、最終日の3日目には菊地成孔さんと外山明さんのトリオでやったりと、けっこう盛りだくさんな内容でした。


外山明 1962年、神奈川県生まれ。斬新なドラムセンスとテクニックで独特の磁場を創り出し、ジャンルを問わず幅広く活動するドラマー。 24歳のとき「坂田明DADADAオーケストラ」「日野皓正・HAVATAMPA」に参加。セッション活動・バンド活動もUA、渋谷毅オーケストラ、ラクダ・カルテット、BOZO、MULL HOUSE、phonolite、松風紘一カルテット、eEYO idiotなど、積極的に展開中。キューバ、インド、西アフリカ、ギニアなどの多くの国を旅して、常にセンスやテクニックを磨き続けている。

--- 当時は、「3日間のライヴを記録しよう」というだけのつもりだったそうですが、どうしてそれが映画に?

須川 その時は「せっかくなのでいい状態で残しておこう」ということだけだったんです。でも一方で、僕は昔から、倉地さんは世界が知るべき人だと考えてまして(笑)、このままだとちょっと変わった天才がいるっていうだけの、いわば日本の内側だけで終わってしまうなと思ったんですよね。もちろん世界といってもごく一部の人ですけど(笑)、それでもこういう聴いたことのない音楽に敏感に反応する人は世界中に一定の数必ずいるんですよ。でも、何か別の仕掛けがないと海外の人に届かないというか、聴くべき人のところに届かないという気がしたんです。そのためには、要は倉地さんが歌っているところを映像のかたちでパッケージしたものが流通するのがわかりやすいだろうと。で、その時に「あれ?そのための材料が自分の手元にあるじゃん!」と気がついたんです(笑)。

倉地 おおおお!(笑)。

須川 しかもそれは、僕が何かしようと言わない限り、闇から闇に消えていっちゃうだけのものなわけですよね。それで、オレの出番が来たなという(笑)。池袋シネマ・ロサで『庭にお願い』を最初に上映した時に、菊地さんが初日のトークで「俺は天才と出会う才能がある」って言ってましたよね、「天才が目の前を通りかかったら、そのチャンスをパッと掴む力があるんだ」と。


庭にお願い


倉地 「そういうチャンスを神様が自分に与えてくれた」みたいな言い方をしてましたよね。

須川 「それが来たら絶対に逃さない」と。で、外山(明)さんしかり、倉地さんももちろんそのひとりだと。

倉地 今堀(恒雄)くんとかね。

須川 そうそう。だから、菊地さんも同じように感じていたのかなあと思いましたね。とはいえ、映画を作るといってもそう簡単ではないでしょうから……。

倉地 よくやりましたよねえ、以前からそのようなことをされていたわけじゃないのに。それに感動しましたよ、無謀だなあと(笑)。

須川 自分でもそう思いますけどね、今もって(笑)。それで、まず考えたのは、今はフィルムでなくても劇場にかけられるようになってきたということ。それから、ライヴの映像を冨永監督が撮影してくれていたこと。ちなみに、このライヴを撮った時点では、冨永監督の最初の長編映画がまだ公開されてないんです。

倉地 『パビリオン山椒魚』の前ですか?

須川 たしか『パビリオン山椒魚』を撮り終えて公開を待っているくらいの時期だったんじゃないかな。冨永監督でなかったら、『庭にお願い』は映画界では完全に黙殺されたと思いますね(笑)。そして、倉地さんの映画を作るなら、菊地さんも出演してくれるんじゃないかと。語り部としてあんな強力な人はいないですからね。さらにもうひとつ、倉地さんにはおもしろいお父さん(笑)、樺山久夫さんがいる。それがなかったら、それこそ「天才がいる」っていうだけの話で終わってしまう。それではたぶん映画が平板なものになってしまうので、樺山さんも紹介できると、「あれ、奥にもう一部屋残ってるぞ」っていう作りにできるなと考えたわけです。それだけの要素があれば映画として成立するんじゃないかと。


庭にお願い


※樺山久夫 本名・倉地久夫。倉地久美夫の実父。全国を渡り歩いたエロ絵師で、その作品は全国の観光地(北海道夕張、九州の嬉野や別府市)に点在する秘宝館の壁画に、あるいは神社の境内に、現存しないが昭和の大阪万国博覧会における自身のコーナー、あるいはスポーツ新聞のエロ小説の挿絵などに残されている。特にエアーブラシやスプレーを多用した心象風景的またはシュールな作風はエロスの甘い魅惑と相性がよく、秘宝館のいかがわしげなムード造りに重宝がられた。故に作品のテーマは一貫して「エロ」カーマストーラや浮世絵を下敷きにした男根陰唇いり乱れるそれは額に入れられ明るい壁に掛けられるのを拒み、うす暗い部屋の中裸電球や紫外線ランプに照らされ好気の目にさらされる方を望んだ。過去に自費出版によって日の目をみた見世物看板絵師の志村静峯や津崎雲山と同じく福岡が生んだ表美術界とは無縁の人たちである。もっとも人の良さが災いしてか経済的にはあまり恵まれず「注文品の代金をウィスキー一本で誤魔化されることもあった」(倉地久美夫談)晩年は画材によるシンナー中毒で倒れ19年没した。享年78才。老いてもなおエロ収集に余念のない人であった。ちなみに倉地久美夫のCD『うわさのバッファロー』ジャケに使用されている絵は樺山の手によるもの。樺山という画号も最初はバカ山という名前にするつもりが、家族の反対があり反転させたものだそうである。 (倉地久美夫 オフィシャルHPより抜粋)

倉地 なるほど!

須川 「大きくしていくぞ」っていう欲をはらなければなんとかなるんじゃないかなと。

倉地 こっちはそういう考えがあるなしに関わらずね、「せっかく来てくれたんだから、(嬉野武雄観光)秘宝館にでも行きますか?」って感じでしたけどね(笑)。でも、すでにそういう前提だったんですね。


※嬉野武雄観光秘宝館 佐賀県にある秘宝館。樺山久夫さんの作品も所蔵されている。

須川 そうですね。そういういろんな条件が重なってくれて映画が実現したという感じです。


庭にお願い


--- 「映画にしたい」というお話を聞いて、いかがでしたか?

倉地 そういう話は聞いてましたけど、こっちから催促するみたいになっては変だったので、大人の世界のペースでやっていただければいいやと(笑)。でも、「本当に映画になるのかなあ?」みたいな感じで気にはしてましたね。でも、「僕が考えてもしょうがないしなあ……」みたいなところもあり。

須川 それと、もう一つ大きな条件があるとすると、それは倉地さんがいい人だったってことですね!(笑)。

倉地 いやあ……(笑)。

須川 さっきの話の逆じゃないですけど、おもしろいとされるドキュメンタリーにはときどきあるんですけど、取材される側が変なプレッシャーをかけてきたり、わざと何か目立つことをするとか(笑)、そういうことをしない。結果的に映画ができあがるまでに5年もかかっちゃったんですけど、それにも文句一つ言わずに待っていただいたので。

倉地 率直に何かかたちに残してもらえるっていうのはすごくうれしかったですよね。非常にオーバーな言い方ですけど、「人生の一端が残るんだなあ」という。誰しもが思うドキュメンタリーは、お亡くなりになった人のものがほとんどなわけで、生きてる人間の映画で、しかもドキュメンタリーなんて光栄の限りですよね。喜びが何よりもバーンと来ました。たとえば、地方に住んでて、ご近所の人なんかは僕のドキュメンタリー映画って言ったって誰も信じないですからね(笑)。だから、よけいに「本当にできあがるのだろうか」っていう気持ちでぬか喜びにならないようにしとこう(笑)、期待しないようにしておこう、でもうれしい、みたいなそんな感じでしたね。

--- 完成された映画をごらんになっていかがでしたか?

倉地 過程は定期的に何回か冨永さん経由で送ってもらったりしていたし、現場も立ち会っていたので、できあがったものを観て、「おお、こうなったか」っていうショックはないんですけど、客観的に映画として観た時に自分のことだからドキュメンタリー映画としてどんな魅力があるのかいまだに自分も捉えきれていないというか。なかなか客観的になれないものなのかもしれないですけどね。自分が観に行くドキュメンタリーだったら、波乱万丈ですごいことがあったとか関係者を殺しちゃったとかね(笑)、そういうことがある人のドキュメンタリーだとわかるんですけど。だから、あとはもう第三者が感じ取ってくれてることですよね。この映画についてのツイートとかを見てみると、「ああ、こういうふうに感じるものなんだな」と。届くところには少しずつ届いているところがあるんだろうなという感じですかね。それがお互いの喜びでもありますしね。

--- 冨永監督の発言で「倉地さんからは映画についての意見はまったくなかったのに、テロップの字体に対しての意見だけはあった」というエピソードがおもしろかったです(笑)。

倉地 ああ、そうですね(笑)。明朝体なんだけど、何かぼこーってやたら太いデザインになってたんですよ。

須川 倉地さんはデザイン関係の仕事をされているから、そういうところがけっこう気になるんですよ(笑)。

倉地 その編集ソフトでは明朝とゴシックの2種類くらいのフォントしか使えなかったみたいで、「じゃあ、細明(朝)でいいっす」なんて言ったことが冨永監督は意外だったんでしょうね、もっと他のことを言ってくるのかと思ってたでしょうから。でも、映画は冨永監督の作品として僕も楽しみにしていたから、それに対して「これはこうだからこうして下さい」とかね、そういう横ヤリが入るとおかしくなっちゃうじゃないですか?なので、そのへんはおまかせにしておきました。


庭にお願い


--- さまざまな土地で上映されていますが、どんな感想が届いていますか?

須川 この間、神戸アートビレッジセンターでの反応はけっこう熱かったですね。上映にあわせて倉地さんがミニライヴをやることも多いんですけど、神戸でやった時にはお客さんがたくさん来てくださって、大ウケでした。

倉地 期待してここに来てくださってるっていう空気感がありましたよね。出た瞬間の拍手の感じとかね。「おおー、待っててくれたのかあ」というね。そういうお膳立てして下さった方たちの力もすごく感じましたね。でも、「この映画を観て、倉地久美夫の全貌がわかったなんて思ってない」って書き込みはよく見ますよね。自分でそんなに正体不明な奴なのかなって思っちゃいますけどね(笑)。

須川 常に「まだ何かある」って感じがするんですよ、倉地さんって。

--- あとは何と言っても、今まで見たことのない、倉地さんじゃないと絶対に出てこない独特すぎる素晴らしい歌詞の魅力がありますよね。歌詞カードを読んでも、どんな音楽かも想像することはできないですし、狙っているという感じもまったくなくて、受け手の想像力をすごく掻きたてますよね。この歌詞はどうやって出てくるのか、ぜひお聞かせいただきたいです(笑)。

倉地 映画でも言ってますけど、僕はクラフトワークとかああいった世代で、シンセの宅録で音楽を始めてたから歌を歌うなんて何にも考えてなかったんですよ。上京して、初めて人前で何かやるんで出たのが、霜田誠二さんとかね、裸で踊ったりしてる人たち、アート・パフォーマンスの部類に入るのかな、そういうイベントだったんですね。弾き語りスタイルのイベントに出たのが最初だったわけじゃないんです。もし周りが弾き語りスタイルの人たちばっかりだったら、周りを見て「弾き語りはこうやって、こう歌えばいいんだよね?」みたいに習い覚えたのかもしれないけど、僕の場合は最初がそれだった。周りがすごい大きいノイズを出して、霜田さんが裸でパフォーマンスをしてて、それと同列って言ったらおかしいですけど、立つことを一から考えるきっかけがその時にあったような気がしますね。

もともとやってたのがシンセの宅録だから、歌とか全然歌ってなかったんですけど、「声を発する」っていう方法の一つとして口があるから、「何か使わなきゃ!」みたいな感じで、そこから現代詩とかを読み始めちゃったんですね。同じ詩を作るなら現代詩として詩集を出せるくらいのものは作りたいし、同時にギターを弾くんだったら、クラシックギターの人のギターアルバムくらいのことはしたいしっていう、そういった欲求が出てきたというか。

だから、今思い返してみれば、最初に弾き語りの仲間っていうところに入らなかったのが結果的にはよかったのかもしれませんね。詩を何かで作ろうとしたわけじゃなくて、最初に詩に興味があったわけでも実はなかった。でも、そこで井坂洋子さんとかの詩集とかをいろいろ読んでいるうちに、「ああ、言語でこういうことができるんだなあ」っていうのはいろいろ感じ取って、僕なりの現代詩のつもりで、どうせだったらいいもののエッセンスを歌に載せたいっていう欲求が起きたと。それが始まりですね。と、こうやって映画の中で言えばよかったです(笑)。


※霜田誠二 パフォーマー、詩人。1953年、長野県生まれ。1970年から詩を書き始め、1975年にパフォーマンスを始め、1982年からは海外でも活動を始め、これまでに50カ国以上の数百の国際フェスティバルに招待されている。1993年に、パフォーマンス・アートの国際フェスティバル、ニパフを発足。武蔵野美術大学非常勤講師。

須川 弾き語りとして何かモデルにしたような人っていうのはいないわけですか?

倉地 自分にとってのギターアイドルも、そういえば確かに特にいませんね。「何でそれで弾き語りって形式を選んだの? シンセライヴでもよかったんじゃないの?」って言われそうですけど(笑)、人前に立つなら弾き語りかなっていうぎりぎり世代だったのかなあ。そういうふうに違和感なく思っちゃったから。

--- 詩を作って、そこからメロディーをつけてみようということではなかったんですね。

倉地 そういうのもあってもいいんでしょうけど、詩というよりは音に出した時の言語の響きとメロディーやリズムの組み合わせで「何か偶発的に生まれてこんかなあ」っていうやり方が多いですかね。

須川 さっき井坂洋子さんっていう名前が出てきたんで、ナルホドと思いました。

倉地 僕はあの人の詩は好きなんですよ。あれは何だろう……ことばの上でだけ表現してるんじゃなくて、何か違う世界をかいま見ちゃったみたいな感じがしたので、「こういうやり方はいいな」って思ったんですよね。知ったのは確か矢野顕子さんのインタビューで「好きな詩人は?」って質問に「井坂洋子さんが好きです」みたいなふうに矢野さんが答えてたので「ほうほう」とかって思ってね(笑)。

須川 『オーエス オーエス』で井坂さんの詩に曲をつけてたのがありましたよね、「素顔」だったかな。倉地さんの詞は、現代詩というくくりの中にもうまくはまらないところがありますけど、確かに男の書く現代詩っていう感じはあんまりしないですね。

倉地 男の書く現代詩は方法論がちょっとね、「やってみせてる」っていうのがわかる。現代詩枠の中でいろんなふうにあがいてるように見える。井坂さんの場合は、意外な言葉で少し違う世界をかいま見せるようなタイプの現代詩だって思ったんですよね。だからって、現代詩を知ってるわけでもないし、別に昭和詩でも全然いいんですけど(笑)。


庭にお願い


--- 倉地さんは2002年に第2回「詩のボクシング」で優勝されましたが、当時もそのようなスタンスで詩を書かれていたんですか?

倉地 2002年くらいになると20歳くらいから弾き語りをやり始めているので、もう15年くらい経ってますよね?九州に帰っていろいろ模索した時に即興の場とかワークショップとかそういうところに顔を出してたんですけど、大人数で共有するんですよね、多い時は10人くらいで即興をやったりとかして。大きな音を出した方が勝ちみたいな感じで。そこにはダンサーもいたので彼らと絡んだりもしたんですけど、何かの言語や声を出すことでダンサーの反応がすごくよくなるのに気づいたので、即興の時は何かの言葉を使うようにだんだんなってきたんですよね。楽曲には使えなかったけどもったいないって思うような言葉を一時使い回していて、それを「詩のボクシング」に出た時に主に使っていたという感じですね。でも、知人の勧めで出たような感じでしたから、「詩のボクシング」が何かっていうのは知らなかったんですよ。

須川 倉地さんを知ってる僕らからすると、倉地さんが優勝したってことには何にも驚かない、「そりゃあ、そうだよね」って感じ。「え、『詩のボクシング』に出たんだ!」っていうことの方が驚きでしたね(笑)。

倉地 でもね、中には「ズルイじゃーん」って人もいますからね。「狙ってたんだろう?」とかね(笑)。「いや、知らなかったんだって!」って言うんですけどね。

--- 倉地さんの他にはどんな方が出ていたんですか?

須川 本当に素人さんばっかりですよね。

倉地 「詩のボクシング」は、97〜98年が最初だったと思うんですけど、そのころはねじめ正一さんとか谷川俊太郎さんとかが出てたはずですね。

須川 もともと平田俊子さんとか島田雅彦さんとかが出てたんですよ。それがだんだん「もっと広めていこう」って感じになったんでしょうね。

倉地 そこから、一般公募の勝ち抜き戦っていうのをやり始めたその第2回目に僕が出たんです。それはTVとかラジオでも放送されたらしいんですが、第1回目の様子は翻訳されて海外でも放送されたそうです。第1回目は、高校2年生くらいのセーラー服を着た初々しい女の子が、ステージに立った時に何も見ないで気づいたことをどんどん朗読していくんですけど、それがもう神がかってて。あれはびっくりしちゃったし、圧勝でしたね。僕が出た第2回目の時は、それに感動しちゃった女子高生ばーっかりが出てましたけど(笑)、それだけ影響力が強かったんですね、その女の子は。だから、本当に僕は運がよかっただけなんです。


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--- 須川さんはあらためて、倉地さんのどういうところがお好きですか?(笑)。

須川 うーん、こういう映画を作って、倉地さんのことをいろいろと知ることはできても、いまだによくわからない……そういうところですかね(笑)。さっきも言ったとおり、「まだ何かある」っていう感じがいまだにするんです。最初に見た時と今とでは、倉地さんがやっていることはずいぶん変わってきているのに、受ける驚きの質はまったく変わらない。言葉も不思議だし、ギターの奏法も変わってるし……メロディ自体はそんなに変わってるわけではないというか、むしろ口ずさみやすいくらいなんですけど、それがいったんステージに登っちゃうと本当に見たことも聴いたこともないもののように響いてしまうところとか。

倉地 須川さんは僕に「ステージの上にはだしで出るのはなぜか?」っていうお話を何度かされたことがありましたよね?それに対する答えが全然思いつかなかったんですけど、ちょっと冷静に思い出してみたんです。

東京に来てしばらく経ってから、パフォーマンス系のイベントとかによく行ってたんですよ。当時は政治的なこともよくわかっていなかったので、目の前で人が捕まっちゃうような、けっこう原始的でヤバいイベントも多かったんですけど(笑)、そこから「ちょっと弾き語りのハコに入ってみるか」って思ったのが渋谷のアピアだったんです。そこでギターの弾き方とかを習いたかったんですよ、本当にコードとかも知らなかったから。

でも、そこではお師匠さん的な人から「まず、立ち方を覚えるとよい」って言われたんです(笑)。田中泯さんとかね、ああいった舞踏を見せに連れて行こうと言われたり。「いったいいつになったらギター教えてくれるの?」みたいな感じもあったんですけど(笑)、ずっと立ち方の練習をしてましたね。要は、昔のフォーク界は非常にケンカが多かったから、人前に立つ時は当然それ相応の覚悟が必要だということだったらしいですけど。「熱心に来てるお客さんは、絶対それくらいの気持ちで期待してるから来てるんだ」と言われまして、トマト投げつけるとか(笑)にはならないにしても、「そういうつもりで立て!」と。僕はその時、まだ20歳そこそこだから若いし、気合いも入るわけなんですけど、「何をすればいいんだろう?」って悩んでもいた時期で、それでせめてはだしになろうかなと……。

つまり、まずは裸になるということ、それ自体が表現以前の自己開放が必要とされるようだし、行為としては捨て身で勇気があることですよね。僕はそれはマネできないので、そういうことにはよけいに敬意を払いたいんですが、はだしにくらいはなれるだろう、という感じでしょうかね。足だけは舞踏家のそれの一部でもあやかりたい、というか。

あの時にそういうふうになってなかったら、もっとオタクっぽいステージをやってたかもしれないですね。どこか肉体派ではない、パッションとかテンションの高さとかそういうことを今までは全然考えたことがなかったから。

だから、そういう覚悟や勇気を得るために舞踏を見に連れて行ってくれたんだと思うんですよね。「見てごらん?あの人はバレーみたいにフォームがあるわけではないのに、ただ裸一貫で立ってるだけじゃないか。それで2時間、お客さんはじーっと見てお金払って帰ってるんだから。あなたにそれができる?」って言われると、「うわー!」って思っちゃうし、考えちゃいますよね。だから、もがいたというかあがくような気持ちにさせられたので、それはいい人に出会えたのかもなって。

須川 最初に音楽を分析するところから入ったら、倉地さんの音楽も今やってることとはまたずいぶん違ったものになっていたのかもしれませんね。

倉地 たぶんね、そうだと思います。この間、古い友人が「上京した時に最初にチャゲアスとかに出会ってたら変わってたんじゃないですか?」って言われましたけどね(笑)。まあ、それはありえないですけど、そうかもなあと思ったり。

須川 僕が倉地さんを初めに見た時は裸足でステージに出ていて、そのこともけっこうびっくりしたんですよ。そのしばらく後に、ダンサー/振付家の勅使河原三郎が「ダンサーの身体で一番大切なのは足の裏だ」って書いてるのを見て、「なるほど!」(笑)と思ったことがありますね。つまり、本当にそこが世界と直に触れ合うところでもあるし、自分の身体を支える一番肝心なところでもあるし……。

倉地 ダンサーではないけれど、それはわかるような気がしますね。足の裏……人によっては丹田って言うかもしれないですけど、「立つ」ってことなんですよね。でも、いきなり、「立つことを覚えよ!」とか抽象的なことを言われると混乱しますよね(笑)。だけど、もともとそういった話は嫌いでもないし、抽象的な事象に対する興味っていうのもあったから門を叩いたんだと思いますね。何かビビッと来たんでしょうね、若い、多感な頃なので(笑)。

須川 立ち方を覚えようとして本当に素直に聞いたけれども、ものにならずに何もできなかったとか、道を誤っちゃう人もけっこういると思うんですけど(笑)、倉地さんはそこからもちょっと違うというか、そういう人たちが望んだのともちょっと違うかたちで出てきちゃったんじゃないかなって感じがするんですけどね。


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倉地 ナディア・ブーランジェの本を読んだんですよ。

須川 マジで!?(笑)。

倉地 ストラヴィンスキーとかね、いろんな人に教えた先生でもあるんですけど、あの人の「言葉集」っていうのがあって。

須川 え!?そんな本があるんですか?(笑)。

倉地 あるんですよ。だいぶ前の本なので、今はもう絶版かもしれないですけど、その本には例えばね、「あるバイオリニストはレゲエミュージシャンのようなリズムの喜びをなぜ出そうとしないのか。ヒップホッパーはクラシック奏者のような厳格な練習を何故しようとしないのか」というようにね、あらゆるジャンルの音楽家に対しておのおの伝えようとしているんです。だから、ある特定のジャンルで優れた要素を、オーバーに言えば各ジャンルの文化遺産としてすべてを取り入れようとしていったら素晴らしいものができあがるに違いないのに、なぜあるジャンルで育った人はそれ以外を排他的にしてしまうのかが残念でならない」みたいな感じのことが書いてあるんです。それができるできないってなるとまたエラい話なんだけど(笑)、少なくてもそのつもりでやって、探して、摂取したいっていう気持ちがあって。

須川 そのナディア・ブーランジェって人は、自分自身音楽家でもあるんですけど、それ以上に音楽教育家としてすごく知られている方なんです。

倉地 きっと適切な言葉が言える人ですよね。

須川 本当にいろんな人に音楽を教えて、出てきた人がすごい人ばっかりで、しかも、全然違うタイプの人ばっかり。その人のことは菊地成孔+大谷能生の『憂鬱と官能を教えた学校』に出てきますよ。

倉地 教育ってなると必ず出てくる人ですよね。

須川 そうですね、確かに。それから今の話を聞いて「なるほどな」って思ったのは音楽をやってて、歌がうまい人、言葉がすごい人、ギターが上手な人、キャラが立ちまくってる人とかいろんな人がいますけど、たいていどれか一つかせいぜい二つなんですよね。でも、倉地さんの場合はその要素のどれもが誰とも違うもので、それが全部まとまって一つの世界を作ってるってところにびっくりした。それがもう本当に何回も言っている「まだ何かある」につながってるんですよね。

倉地 アカペラとかでワンステージとかね、それくらいもうちょっと歌がどうにかなるといいなあって思うんですけどね(笑)。そしたら、弾き語りっていうだけで要素が十分になってくるじゃないですか。


庭にお願い


--- お話を伺っていると、倉地さんは「学びに行く」という姿勢が常にありますよね?現在もヴォーカルスクールに通われているそうですし、そこでの課題曲、カヴァー曲をライヴで披露されたりもしていますし。

倉地 いやいやいや(笑)。ふだん絵を描いたりとかそういうことばっかりやってると身体を動かさないし、ミュージシャンの身体じゃないんですよね、どう考えても。それで週末だけ急にミュージシャンになれるわけないので、「月に2回はそういうところに行っておかないと」って思ったんですよね。人間ね、放っておくと怠け者だから(笑)。

須川 最近のライヴはカヴァーが増えてきたと思いますけど、それはヴォーカル教室の成果ですか?

倉地 そうそう(笑)、ヴォーカル教室の。ただやってるだけで手抜きなんですけど。

須川 自分の好きなようにやっていたら絶対やらないような曲と出会うきっかけにはなってますよね。

倉地 そういうのが逆に楽しいですね。その先生はJ-POPや洋楽のポップスしか聴いたことないっていうような人なので、最初は「大丈夫かな?」って思ってたんですけど、そういう人にもだんだん徐々に理解してもらえたらうれしいじゃないですか?「ということは、僕はもうちょっと普遍性があるかも……」みたいな扉を開くきっかけになればいいなあと。サブカル的なライヴハウスをうろちょろしてると、そこで安心しそうな怖さも同時に田舎に住んでいるとよけいにあるので、それがいい方向に成長できたらいいなあと。

須川 この間歌った「AMAZING GRACE」もすごいよかったですね。

倉地 あれはめちゃくちゃひさしぶりにやったなあ(笑)。

須川 ギターがすごくシンプルな分、「ふつうにコード弾いてる!」(笑)、みたいな感じもあるし。

--- 「リンゴ追分」もカヴァーされましたよね?

倉地 「リンゴ追分」は先生からOKを全然もらえないんですよね(笑)。あまりにもOKがもらえないんで最近全然やってなかったんですよ。美空ひばりを選んだのが難し過ぎたのかなあと(笑)。稲田(誠)さんもね、僕が歌う「リンゴ追分」は「ピンとこない」って言うので、僕も何かね、「挑んでます」っていうのを見せてるところで止まってるっていうのを見破られたんでしょうね。彼は曲を選ぶ時とかの意見が非常に率直なんですよ。「この曲は好き」とかもはっきり言うし。自分が「無理してやってるなあ」って思ってたら、僕が言う以前に彼が気づいていたりすることがけっこうある。でも、おとといのライヴでは「ちょっとだけうまく歌えたかも?」って思ってるんですけど(笑)。


稲田誠 明石在住のコントラバス奏者。棚レコード代表。PAAP、Brazilという自己のバンドやAurora(川端稔sax,vo/青野忠彦ds)、千野秀一pエレクトリックトリオ(楯川陽二郎ds)、水谷康久saxトリオ(半野田拓g,key)、真夜中ミュージック(三沢洋紀g,vo/中尾勘二sax/植野隆司g/山本達久ds)、DODDODO+稲田誠、等のユニットでベースを弾き、ときどき歌う。ゑでぃまぁこん、TEASIGofishのうしんとうのレコーディングエンジニア担当。

須川 「リンゴ追分」はヴォーカルスクールに通うようになってからの曲ですか?

倉地 その前にも一回歌ったことはあるんですけど、当時はもっと乱暴だったんですよね。違和感とインパクトみたいなところで止まってたような感じで。


庭にお願い


須川 おとといのライヴは15年前くらいの曲、最近あまりやらない曲もやってましたよね?

倉地 おとといはね、身内率が高かったから(笑)。「MCもダラしなかった」って言われちゃったし(笑)、ゆるゆるで。あのライヴでは録音用のマイクでふつうのマイクを使ってなかったので、いろんなことで遊んじゃった感じがあるかもしれないですね。

--- 最近あまりやらない曲というとどのあたりの曲ですか?

倉地 「しまうまタクシー」とか、95年の歌ですしね。

須川 「二刀流」とか「8ミリ監督」とか。

倉地 ああ、そうねえ。あとは「鉄塔」ね、あれはもう長寿曲ですね(笑)。唯一あの曲だけは92年か93年くらいからかな、九州でアジャ・クレヨンズを一年半やってた時の頃の曲なんです。


アジャ・クレヨンズ 倉地が1987年から率いていたグループ。メンバーは倉地の他、林克洋(ds)、富永周平(el-b)、菊地成孔(sax)。九州に戻ってからも別メンバーで活動したが、90年代前半に消滅。

倉地 九州に帰ってすぐの頃、悶々としててギターも売っちゃった時期があるんですけど、「やっぱり歌いたい!」ってなった時に頼りにしてたおじいさんがいたんです。大正以降かな、日本の歌曲とシャンソンを教えるような人で。そのおじいさんの風貌がまたかーっこよくて。「もしそれで飯食ってるんだったら、弟子になりたい!」ってそれだけで決めたんですよね、ジャンルとか全然わかんないのに(笑)。でも、その人は「鉄塔」はあんまり褒めてなかったなあ。「一見、綺麗で真面目で美しい歌っぽいところで終わってるから、こういう歌を歌う時はもっと踏み込まなくては」と言われて、それが課題として残ってるんでいまだに歌ってるようなところがありますね。

その人もまたアピアで教わった人と似てて(笑)。「シャンソンのように歌えるようになるにはヴィブラートってどうやったらかかるんだろう?」って思うじゃないですか?だけど、「まず、お前には酒の注がれ方を教えてやろう」なんて言われて(笑)。教室に行くとレッスンをやらないで、すぐ先生の行きつけの飲み屋に行くんです。「お酒は片手で受けるな!」とかね、そういう感じでずーっと続くんです。「お前はこれから大変な世界に足を踏み入れるんだぞ!酒はこうやって飲むんだ!」なんて言われるのを「はあ!」って感じで(笑)……3年近く通ってましたね。最初はすごく厳しかったのに2年越えたくらいから急に気の毒になるくらい気が弱くなっちゃって。ある時期からそういうことがお互いにわかってたから、「今度、東京にギターを習いに行こうと思ってて、来週から突然ですけど……」、「うん、わかっとるよ」みたいなそんなやり取りをして、その関係はしゅんって終わってしまって。

そういうことがあったその後、「先生がお亡くなりになった」って、その教室の先輩に言われて知ったんですけど、それはしばらく引きずっちゃいましたね。ある時、「俺の全財産をもらってくれ」って頼まれたことがあったくらい本当にかわいがってくれたんですよ。その先生は一人暮らしをしてて、徘徊を繰り返して(笑)、優雅に暮らしてたんですけど、部屋も昔の汚い譜面がいくつかあるくらいで、「くれると言ってもいるものといらないものがあります」って言ったら激怒しちゃったんだけど(笑)、あの時、先生は僕に何かを引き継いで欲しかったのかなって思いますね。男の弟子がいなかったんです。シャンソンに憧れたり、日本歌曲をやる人はママさんコーラスみたいな女性、おばちゃんが多かったんで。

須川 その先生が書かれたものは散逸しちゃったわけですか?

倉地 娘さんが何人かいて、そのうちの一人が7インチのレコードとかをもらったらしいんですけどね。まあ、無駄にはならないですよね、弟子もいっぱいいるから絶対形見分けしてると思うし。

須川 僕は日本歌曲っていうのは聞いてたんですけど、シャンソンもやってた方とは……(笑)。

倉地 「セシボーン♪」とかって歌ってたんですよ。

須川 その2つが結びつくっていうのはそうとうですよ(笑)。

倉地 でも、歌曲も西洋がだいぶ入り込んでた頃の山田耕筰とかあの辺とかで、よく聴くと曲とかは結構おしゃれなものが多いですね。それもいい体験でしたね。何かすっかり思い出話みたいになっちゃいましたけど……映画の中で漏れてた部分、伝えてなかった部分をちょっと思い出しました。

須川 シャンソンを学んで得たことってありますか?

倉地 その先生は自分を見てて、シャンソンを教えようとかそういう感じじゃなく、「酒の注がれ方を覚えよ!」ですからね(笑)。だから、今から思うとですけど、その世界で生きていくタフさを身につけさせようとしたのかなあと。そういうことにエラい厳しかったんですよ。昔ながらの師弟関係っていう感じで、「もう明日から来なくていい!」って言われて、翌週やってくると「ほうほう、来たか」みたいな、映画とかによくある感じというか(笑)。

--- 試されつつも(笑)。

倉地 そうそう、そんな世界でしたね。

須川 さっきのお話だと、倉地さんの曲も先生に持っていってたんですか?

倉地 そうですね。自分の曲を作るのがだんだん楽しみになってきて、その先生。「エイ」の歌とか(『夏をひとつ』に収録)。あれも、「ああしろ、こうしろ」とかは言われなかったけど、「エイのあの臭ーい感じをもうちょっと出さんかい!」とかって言われて。

--- 臭い感じを……(笑)。

倉地 「確かにエイは臭いですよねえ。アンモニア臭いですもんねえ」とかって話を延々として、「今日のレッスンは終わり!」って(笑)。だから、あの世代が求める肌に感じるリアル感っていうのはあったんだろうなあと。当時の歌はちょっと小ぎれいすぎて見えたんでしょうね。自分より一世代ともうちょっと上の世代だから、それは貴重だったなあって思いますね。


庭にお願い


--- もしかして……まだ先生がいたりしますか?(笑)。

倉地 実はね、もう一人(笑)……松下隆二くんっていう現代ギター奏者の人がいるんですけど、彼はワークショップとか即興の時に「メタルのWネックギターを持ってるメタル好きの即興演奏家がいるなあ」くらいに思ってたんですけど、彼の本職が実はクラシックギターだったんです。彼は親の代々から音楽教育を受けてる人にありがちな、若いうちに反動としてメタルをやってみたというタイプで。だから、そういう人にギターを習いに行くんだったら、彼自身のキャパがすでにあるからいいかなあと。そしたら、「倉地さんの曲はおもしろいんだけど、結局、楽典から見るとどれも同じことをやってる」と(笑)。「そうだったのかあ……知らなかったなあ。でも、それは菊地さんからも言われてたなあ」って思って(笑)。「じゃあ、具体的にどうしたらいいの?」っていうことをこと細かにいろいろ教えてくれたんです。

須川 そうだったのか……。

倉地 それで、それ以降にできた曲はちょっとね、音の響きが変わってきたんです。あれは即効性がありましたねえ、点滴みたいな感じで。

--- 特にその影響が出ている曲といいますと?

倉地 「缶詰」とか「中央公園」とか……。「中央公園」はモロですね。「30,000,000粒ダム」とかあの辺ができあがったのも松下くんに教わってからかな?『夏をひとつ』を出した直後くらい。そこくらいから響きがちょっと現代的になったのはその影響ですね。損してるような気がしたんですよ、最初にジャラーンと弾いた瞬間に「ああ、ブルースマイナーの人」って思われちゃうのが。

須川 その松下さんとライヴで共演したりしたことはありますか?

倉地 ないですね。彼は「クラシックギターを触るともう厳格な親譲りのことしかできない身体になっちゃった」って。「でも、エレキギターとかエフェクターを通すとまったく別人になれる」とか。だから、彼は彼なりの英才教育なりの悩みがあるんですよね、どこかで自由になりたかったんだろうなって。

須川 倉地さんもあまりいわゆる即興っぽい即興みたいなことはやらないですよね。

倉地 それはもちろん得意でもないし、それに可能性を見出してそれに人生をっていうのではないですからね。九州に帰って来てすぐに悶々としてた頃はよくやってましたね。何かリセットじゃないですけど、「どうしよう、俺はこんなんでいいのだろうか。もやもや」みたいな(笑)。ドラびでおの一楽(儀光)さんとか内橋(和久)さんたちと出会ったのもその頃なんですけど、その時期はその時期で、いい人たちと出会ったなあと思ってます。

須川 方向として自分にはあんまり向いていなかったという感じ?

倉地 うーん、それは正直わかんないですね。ダンサーにおける即興みたいなものはまだわかるような気がするんですけど、音楽における即興さは……純粋にすごいことをやってる人は確かにいますもんね。

須川 さっき言おうとしたのは、倉地さんの初期の頃の楽曲って、夢っぽい感じが強かったかなあと。今はそうじゃなくなってるってわけではないんだけれど、夢というよりも現実の変なものと結びついてる感じがあって。

倉地 別に夢々しくしようと思ってるつもりはないんですけどね。何でそう思われました?

須川 「しまうまタクシー」とかもそうですよね。

倉地 「しまうまタクシー」は確かにちょっと寓話っぽいというかね、読み聞かせじゃないけれど。

須川 その頃の曲は夢の中での会話のような感じだったけれど、最近の曲はいろんな人の声が混じり込んでいるような感じがあって、実際にあるんだけれども、どこから飛んでくるのかわからないみたいな……。

倉地 最近は歌の中でセリフはあんまり入れないようにはしてるんですよね。

須川 「スーパー千歳」とか、あのあたりまでですかね。

倉地 あれ以降、そんなにやってないはずです。「自分のパターンをマネし始めちゃうとイカン!」と思って、なるべくそうはしてるつもりなんですよね。だから、インストと朗読に分けて……みたいにして、またつなぎ合わせる必要が感じられたらそうしようっていうふうに思ってますね。自分を新鮮に保つための方法というのは、たぶん多くの人がやってるんでしょうが。

須川 自分を新鮮に保つための方法をやるとしても、同じタイトルの朗読とインストがそれぞれあるっていうのは聞いたことないですよ(笑)。

倉地 あれはね、実は梅田哲也くんがそのやり方を褒めてくれたんです。最初は同じタイトルの曲としてではなかったんですけど、めんどくさかったんで同じタイトルで、「じゃあ、次はインストやります」って言ったら、「それは新しいですよ!」って、梅田くんみたいなアートっぽい人間に言われたんですよね(笑)。アート系の人って、ある程度の高い意識を持ってるはずなので、うれしくなっちゃってちょっといい気になっちゃって(笑)、それでやってみようかなあと。


庭にお願い


--- 現在レコーディングされているものには、「風景」という、同じタイトルの朗読とインストが収録されるんですか?

倉地 「風景」、そうですね。レコーディングはおかげさまで終わりました。おとといやったライヴを1曲、それこそあの時の「風景」のライヴ版を使うことになったかな。これには朗読は入れず、インストだけで6曲のミニアルバムというような感じで「円盤」から出る予定です。

--- 倉地さんは最近、どんな音楽を聴かれていますか?

倉地 最近流行ってる、ZAZ(ザーズ)っていうフランスの女性のシンガーが素晴らしいですね。あれはシャンソンっていうのが一番近いのかな?今、繰り返し聴いてますけど、すごいですよ。31歳か32歳くらいの子で、表現力がそんなにいっぱいあるわけじゃないんですけど、いわゆる声で得してるタイプに近くて、ちょっと鼻声で「ああ、この声って聴いてて快感!」っていう感じでもあるんですけど、ジャンルとしてはあまりにもいろんなことをやってて、それががんばってますっぽくなくて。特にデビューアルバムがおすすめです。

--- 他にはいかがでしょう?

倉地 ニーニャ・デ・ロス・ペイネス中村とうようさんがプッシュしてた人ですけど。あの歌い手さんも素晴らしいですねえ。当たり前ですけど、技巧を超えてるなあと。金字塔ですね、歌い手さんの。フラメンコの踊りと拍子と歌にあわせて、その時のギターの感じが変わっていって形作られる魅力……日本でそれほど評価されにくいのもわかるような気もしますけどね。ギターが演歌調のマイナー調で、歌う声の張り上げ方が受け入れ難くてっていうところがあるのかもしれない。ものすごい人はそんなものを超えて感じられるんでしょうけどね。技術が必要だっていうのを感じとったのは菊地さんからでしたね。ニューウェイブ、ロックバンド……かっこいい音楽をやってる人の中に菊地さんみたいな人がメンバーに入ってきちゃったらえらいことになりますよね(笑)。

--- 菊地さんが倉地さんと共演されている時のサックスは同じフレーズを繰り返し吹くような、今よりももっとミニマムな印象がありました。

倉地 そうですね。それはたぶん共演するユニットやバンドなんかにもよったと思うんですけど、当然ね、どジャズな世界はそうじゃなかったと思う。同じフレーズを繰り返すっていうのはセオリー上はNGなんだって言ってましたね。同じフレーズが2回出てくる時でも、どこか発展してたり、動きがあるっていう話は参考になりましたね。

--- 外山さんと共演されるようになったことはいかがですか?

倉地 そこからもっと後の九州に帰ったずーっと後になるんですけど、当時はまさか共演するとは思わなかったですね。何だかんだで一番濃ゆーい共演者になっちゃいましたけど(笑)。


庭にお願い


--- ここからはこの素晴らしすぎる『庭にお願い』のサントラのお話をいろいろ伺いたいんですが(笑)、映画のハイライトにもなっている「あなたの風」と同じテイクがサントラにも収録されていますよね?

倉地 です、です。

--- このサントラには渋谷ギャラリー・ルデコで行なわれたライヴ、2006年の3月11日と12日のテイクしか入っていないんですよね?

倉地 そうですね。ありがちですけど・・・正直言って初日はいまいちで(笑)。試行錯誤でミスも多かったので、そういった諸々も含めて2日分になってますね。

--- 選曲を含め、曲順、アルバムのトータルの長さのアイデアというのは?

須川 それは僕ですね。

倉地 僕だったら近いものにはなったかもしれないですけど、この選曲にはならなかったと思いますね(笑)。客観的に見て下さった選曲だったと思いますね。「自分だったらここはこうしなかっただろうな」とかって思いますもんね。

須川 それはどういったところが?

倉地 「パワーショベル」とかね、これは冨永監督が入れたと思うんですけど、自分だったら絶対嫌だったんですよ(笑)。

須川 実は最初、「パワーショベル」は倉地さんからはNGが出てたんです(笑)。

--- どうしてですか?

倉地 一番フォークっぽくて女々しくて嫌な曲だったんですよ。自分の曲の中でも珍しく体験的要素を歌ってるので、何か嫌でね。

須川 そう言われてもさっぱりわかんないんですけどね(笑)。

倉地 実際に引っ越しする時に家をガシャガシャーッて壊されてるのを見て作ったんですよ。

須川 でも結局、予告編も本編もサントラも「パワーショベル」で始まることになっちゃった(笑)。

--- このサントラはどういうものにしようという考えがあったんですか?

須川 実はサントラ自体も最初は作ろうと思ってなかったんですよ。倉地さんも覚えてらっしゃると思いますけど、ミキシングをしてる時に微妙な詰めのところで、ミキシングをやってくれた天野音響技術研究所の天野さんに「これはCDにするためにやるのか、映画でかけるためにやるのか、どっち?」って聞かれたので、「映画の方でお願いします」って答えちゃったんですよ。その手前もあって、CDは作らないものだって何となく思い込んでたんですけど、映画の公開が決まって話が進んできたところで、「でも、この映画観た人、CD欲しくなるよね?」っていう話になって。映画の記念にもなるし、倉地さんに最初に触れた人のために倉地さんの全体像というかね、ある程度がわかるようなものがあったらいいなあと。あともう一つ言うと、パンフレットを作ってなかったのでパンフレットの代わりにもなるようにという(笑)。

倉地 もうこれはパンフレットですよね、音盤パンフレットみたいな。

須川 そうなんですよね。それで急遽作ることになりましたが、おかげさまでよく売れております(笑)。


庭にお願い


--- 倉地さんはこのサントラに対して、どんな印象ですか?

倉地 いいタイミングでいいチャンスでいいきっかけで自分を知ってもらえるように作ってくれてますよね。映画を観たらパンフレットとか、何か記念グッズって欲しくなりますよね?それが結果的ですけど、紙ジャケットで中にパンフ的情報もあって、ベスト盤的な要素もあって、弾き語りあり、インストあり、デュオあり、トリオありというね。あとは音質が自分の作品の中ではいい方なんですよね。自分が作ったアルバムだと自分のアラばっかり探しちゃって「うー」ってなっちゃう……。「俺はこんなもんじゃない!」みたいな気持ちにもなるんですけど(笑)、このサントラはアルバムにするとか全然考えてなかったところから客観的に聴いていいものを選んでもらっているので、関わってない分、あんまり自我がないんですよね。

須川 たぶん、その分、倉地さんにとっても長く聴けるアルバムなのかもしれませんね。

倉地 そうですね。だから、今インディーズとか全然知らない人に自分の音楽を聴いてもらうきっかけがあったら、このアルバムを聴いてもらおうかなって感じになってますね(笑)。自分でもこれはよく聴きますね、困ったことに(笑)。

須川 自分で言うのもなんですけど、選曲はすごくうまくいったなと思いますね。で、サントラと言うけれども、実際には映画に入ってなかった曲だとか、映画に入っていたけれどそれとは違うテイクが入ってたり、あるいは逆に映画でしか聴けない曲というのもあります。実質的にはライヴ盤なんだけれども、ライヴ盤を作るつもりで録ったものではないので、「ライヴアルバム」って銘打っちゃうと演奏してくれた方々にちょっと申し訳ないところがあるなっていうこともあって、「サントラ」ということにしてます。逆に言うと、「ライヴアルバム」と呼べるものはこれから来るぞということですね(笑)。

倉地 (笑)。

須川 「いいタイミングで」って話がありましたけど、音源としてはもう5年前のものじゃないですか。てことは、今演奏したらまた全然違ういいテイクが録れる可能性もありますよね、きっと。だから、「この曲は次のライヴアルバムでやるよね?」と思って、外した曲とかもけっこうあるんですよ。

倉地 それ、聞かれましたもんね、「この曲、今後もまだやりますよね?」って。もう本当にそこまで考えてくれてるんだなあと。いい意味で締めて発展させようというプロデュースの元に作ってくれてるんだなあっていう。うるうるって感じでしょ(笑)、本当に。

須川 選ぶ時に、基本的にはこれまでに出ているアルバムの中から選曲してますけど、スタジオ録音版のテイクとはちょっと違う聴こえ方をするような曲を中心に持ってきてますね。そうでないのは「中央公園」くらいかな。

倉地 このアルバムで僕のことを知って下さって、他のアルバムを聴いたら、「ああ、全然違うんだなあ」というようなね、「おやおや?」って深入りさせるというかね(笑)。

須川 そこが狙いですよ(笑)。

倉地 本当にプロデューサーですよねえ。

須川 そういう条件をいろいろ当てはめていくと、この曲順しか最終的にはなかったっていう感じですね。

倉地 あとは、「紙ジャケでジャバラにしよう」みたいな意見は円盤の田口(史人)さんの意見だったんですよね。田口さんはいろんなアルバムを手掛けているし、インディーズもたくさん見てる方ですけど、「みんな、型にはまったようなメジャーのCDの作り方を真似してるばっかりで、CDのプレスはどんどん安くなってるのに、何でいまだに平然と2000いくらの値段で売ってるのか?」と。「それだったら、お金をかけてもこういうことをするべきだ!っていうのをここに注入して作ろう」と。こういう作りだと本当はすごくお金がかかってるはずなんですけどね。

--- 愛の結晶ですね(笑)。

倉地&須川 (笑)。

--- 具体的に「ライヴ盤」を作るご予定はありますか?

倉地 ありますね。「ああ、ライヴ盤っていいじゃん!」ってふつうに思ったりしますね。昨日も田口さんと「次、どんなのやろうか?」って話をしてたんですけど、「意外とこういうの向いてるかもねえ」って。ライヴによく来て下さる方にも、「宅録アルバムはそれ用に作っちゃってて、ライヴのエッジが立ったあの感じが出てないから、いつかそういうライヴ盤を出してくれたらうれしいです」っていうような意見を直接もらったりもしていたので。

--- 「ライヴ盤を出してほしい」と言っていた方もこのサントラに対しては満足と?

倉地 まだ感想聞いてないんですけど(笑)、それこそ即興性の部分とかがかなり出ているのでたぶん満足してくれてると思います。今までのアルバムにはいわゆる演奏家としての部分がなかったので。

須川 「え、これ、一人でどうやって弾いてるの!?」っていう曲とかありますからね(笑)。

倉地 「曲によっていろんな技法でやる」とか、僕の弾き語りを録音したものを打ち込みの方に渡して、サントラを作ってもらうとか、さらには僕は「歌うだけ」っていうようなのはどうか?っていう話もしましたね。


庭にお願い


--- 今後のご予定はいかがですか?

倉地 今まで通り、ライヴはします(笑)。気分的には、『庭にお願い』の上映とセットで舞台挨拶的なことをやるのも今は一つの楽しみでもありますし。

須川 おかげさまであちこちで上映が続いてます。あとは、去年一回だけ福岡で上映したんですけど、1週間とかね、ちょっと時間を取って上映するってことがまだ福岡ではできてないので、それを何とか今年中にやりたいんですけどね。

--- 各映画館から、「上映させて下さい」というお話があって上映が決まっていくんですよね?

須川 そうですね。その点では、この映画は本当にラッキーな奴だと思います。最初にシネマ・ロサで公開した時には、SPOTTED701企画の「MOOSIC LAB」の一環として公開されたんですよ。そういう流れがある一方で、冨永監督のもう一本の音楽ドキュメンタリー『アトムの足音が聞こえる』が『庭にお願い』と同時に完成したんで、カップリングでの上映が決まったりすることも多いんです。一本だけの上映だったら、たぶん今のような広がりにはならなかったと思うんで、本当にありがたかったですね。

倉地 ちょっと言っちゃってもいいですか?英語字幕のこと……(笑)。

須川 全然問題ないですよ。これは最初に言ったこととつながるんですけど、『庭にお願い』のDVDを出そうと思ってるんです。それには英語字幕とフランス語字幕を入れようと(笑)。海外でもこれを観て「お!」って思ってくれる人は必ずいるはずなんですが、そういう人も言葉がわからないとどうしても入りずらいってことがあるだろうから、そこをなんとかしようと思ってます。

倉地 翻訳がちょっと大変そうですよね(笑)。

須川 まあ、このあたりはまだ口で言ってるだけで現実的には全然進んでないんですけど(笑)、それは来年の課題として。

--- 海外の反応はまたおもしろいことになりそうですね。

倉地 海外では一回しかライヴをしてないので何とも言えないんですけど、歌詞がわからなくてもそんなに大きな問題はないのだなあというのは体験してほっとしたところですね。

須川 倉地さん、イギリスの観客の前で日本語の詩の朗読をしてましたからね(笑)。

倉地 でも、ふつうに東京でライヴやってるのと反応は変わらないですね。拍手とか笑うタイミングとかもそう変わらなかったのでそれは意外でした。唯一違いがあったのが、「スーパー千歳」の「アンパンなんかいらねぇんだよ」って歌詞ですね。一種のアジテーションとして捉えられたというか、真面目な真剣な顔で見られちゃったので、「おっ!」って思って(笑)。これはちょっと選曲ミスだったかなあと。

須川 日本だと笑いが起きるところですもんね。

倉地 笑わせようとしてるわけじゃないんですけどね。でも、「アサヒ!」とかね、ふつうに演奏してても反応よかったですね。

--- 倉地さんの歌詞にはすごくユーモアもありますしね。

須川 最近よくやる「エリンギの鬼」なんか、最初に聴いた時には爆笑しちゃいましたよ(笑)。

--- びっくりしました。「エリンギ」と「鬼」って言葉は、倉地さんじゃないと絶対に結びつかないです(笑)。

倉地 聴いて下さいましたか、「エリンギの鬼」?

--- はい、シネマ・ロサの時に。

倉地 あの時は初舞台挨拶ライヴだったから、どうしていいのかちょっと戸惑ってたところはありましたね。

須川 あの日は、満員になって本当によかったです……。

倉地 それは本当にね、いろんな方のおかげです。


庭にお願い


--- では、最後に「これだけは……」ということがありましたら、宣伝も含めてお願いします!

倉地 僕の話した分、お稽古事の話の分量が多かったですよね(笑)。でも、僕は決して勉強マニアでも何でもないんですよ。「技術を習得したい」とか「いろいろ学びたい」っていうタイプではないし、実際やってるわけでもないんです。最近に至っては、あんまりやってないんで「大丈夫かな?」って思うくらいで。だから、頑張ってる人、勉強熱心な人って思われちゃうと困っちゃうんですよね(笑)。たとえば、水彩画が非常に得意だけど、CGは得意じゃない人がいたとして、それはその人のアーティスト活動の領域がもしかしたらもったいないことになるかもしれないですよね、何かのヴィジョンを持っているのであれば。だから、それをなるべく損しないようにしておきたいというかね(笑)。菊地さんとかみたいに大学行ったりしていないこともあって、コンプレックスがあるんでしょうね、きっと。

--- 倉地さんの音楽性、表現活動への影響が予想外な部分も含めて、多岐に渡っていることがわかってすごくおもしろかったです。

倉地 自己表現とはなるべく思わないようにしているつもりではあるんです。そういうことを自分に課してるところがありますね。「いろんな世の中の実相を、自分のやれることでなるべく出したい」っていうのがあって。そういうことで知ってるものが多ければ多いほどうれしいわけですよね。技法にしても、知識にしても、体験にしても。だから、その少なさに対する焦りみたいなものがそうさせるのかもしれませんね。

--- 須川さんはいかがでしょうか?

須川 プロデューサーとしては(笑)、たくさんの方に映画をごらんいただければ、あるいはサントラをお聴きいただければ、ということに尽きますね。今回撮影と編集を一手に引き受けてくれた冨永監督は、『庭にお願い』と同時に『アトムの足音が聞こえる』という音楽ドキュメンタリー映画を完成させまして、今並行して全国で上映が進んでますんで、あわせてごらんいただくとおもしろいと思います!

--- 映画でも音楽でも表現においてわかりやすさが求められがちな中、倉地さんは体験してもよくわからない魅力で溢れていますし(笑)、「何か気になる」、「間違って出会ってしまった」というようなきっかけにこの対談がなってくれたらいいなあと心から思ってます。

倉地 こういう時に自分のことを言うのもあれですけど、自分の好きな表現というか人っていうのは、「世の中ってもっともっと広いんだな、こういう人がいるんだな」って自分で追いかけて探してみる、「探してみたい」っていう喜びだと思うので、自分がそんなふうになったらうれしいですね。「セルフプロデュースの上手な若い子たちが増えたんだろうな」っていう話を田口さんからも聞くし、音楽を聴いたら何をアピールしたいのかが確かにわかりやすいから、そういう意味ではそれは親切なのかもしれないけど、その代わりにもうちょっと掘り下げて聴いてみる楽しみはあるかもしれないですね(笑)。

--- 倉地さんのことを須川さんは昔からこんなに大好きなのに、「いまだによくわからない」とおっしゃっているのがすごいと思いますし、しかもそれが異性ではなく、同性に対してというのも(笑)。でも、「わからないけど好き」ってすごくピュアですよね?自分がそこまで好奇心が掻きたてられる人もなかなかいないと思いますし。

倉地 ピュアですよねえ(笑)。

須川 そこは「わからないことの方が面白い」くらいな感じですけどね(苦笑)。僕が個人的に知ってる天才はまだほかにもいるんですけど、さしあたり『庭にお願い』を観たり、サントラを聴いて下さった方が、その人にとっての「天才」にスポットを当てるようなことにつながっていってくれたらおもしろいなあと思いますね。こちらも自分の知らない新しい才能にふれたいですしね。

倉地 天才の定義はわからないですけど(笑)、自分も年取ったせいか、若い人を見て「ああ、このままだと埋もれちゃいそうだ、イカン、イカン」っていう気持ちになる時がありますね。それは本人の努力うんぬんっていう話だけじゃなくて、「こういう状況じゃ、そうなっちゃうよなあ」っていうことがありますからね。せっかくキラッと光ってる人がいるなら、誰も知る機会がないまま埋もれさせるのは惜しいし、生活や飯を食うために音楽を諦めてしまう前に本人に自信をあたえることができれば……と、そう思いますね。

--- 本日はありがとうございました。

倉地&須川 こちらこそ、ありがとうございました。

(おわり)




『庭にお願い』 東京凱旋ロードショー他、決定!


【上映予定】 群馬 シネマテークたかさき
10/22(土)〜28(金)

東京 下高井戸シネマ
10/31(月)〜11/5(土)


大分 AT HALL
11/12(土)〜11/14(月)


『庭にお願い』サントラ、絶賛発売中!

■収録楽曲

1.パワーショベル
2.30,000,000粒ダム
3.中央公園
4.ベストカメラ
5.アサヒ!
6.スーパーちとせ
7.あつい夏
8.缶詰
9.夏っちゃん
10.あなたの風
11.サランラップ  


【撮影・編集・監督】冨永昌敬
【出演】倉地久美夫菊地成孔外山明石橋英子岸野雄一、田口史人
(2010年/日本/78分/FONTANA MIX/デジタル上映)

profile

倉地久美夫 (くらちくみお)

※倉地久美夫 1964年、福岡県甘木市(現・朝倉市)生まれ。高校時代から多重録音による音楽製作を始める。83年に上京し、混声合唱団や身体パフォーマンスのイベント、映像・ダンスとのセッションなどに参加。84年、自主制作作品が雑誌『ビックリハウス』で鈴木慶一氏の評価を得て、後に『ビックリ水族館』に収録される。86年より弾き語りを始め、87年には自身のグループ「アジャ・クレヨンズ」を結成。91年に帰郷、その後は東京と福岡の2都市を足場に音楽活動を続ける。現在までに5枚のアルバムを発表。共演したミュージシャンも多数にのぼるが、特に90年代半ばから断続的に続けている菊地成孔、外山明とのトリオには定評がある。2002年、第2回「詩のボクシング」全国大会で優勝。09年、RKB毎日放送制作のドキュメンタリー「クラチ課長 凡な日常の非凡」が放送される。現在、新作準備中。


須川善行 (すがわよしゆき)

1962年、北海道生まれ。85年、北海道大学経済学部卒業。94年に青土社入社、96〜2000年まで『ユリイカ』編集長を務める。退社後は主にフリーで活動。07〜09年、京都精華大学で比較マンガ論を講じる。担当した書籍・雑誌に、『スタジオボイス』「特集=オノ・ヨーコ」、『フィルムメーカーズ:岩井俊二』、『文藝別冊 岡崎京子』、キム・ホシク『猟奇的な彼女』、『フランク・ザッパ自伝』、菊地成孔+大谷能生『憂鬱と官能を教えた学校』、田中小実昌『上陸』、『200CD 菊地成孔/ロックとフォークのない20世紀』、マイク・バーンズ『キャプテン・ビーフハート』、『ガンダム展』カタログ、川崎弘二『日本の電子音楽』、『映画「太陽」オフィシャルブック』、冨永昌敬『パビリオン山椒魚』、『間章クロニクル』、『スタジオボイス』「特集=政治を考える!」、ペーター・フォン・バーグ『アキ・カウリスマキ』、穂村弘『短歌の友人』、大友良英『MUSICS』、『200CD 小西康陽/マーシャル・マクルーハン広告代理店』、『200CD ピーター・バラカン/BLACK MUSIC』、高浜寛『2 ESPRESSOS』、松江哲明『セルフ・ドキュメンタリー』、大里俊晴『マイナー音楽のために』他、多数。