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Review List of MISPRISIONER 

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     2012/05/27

    ヤルヴィのエーテボリ響との録音は、(ロイヤル)スコティッシュ・ナショナル管のものと比べると、どこか”毒気”が抜かれてる感じがして、「サビ抜き」の寿司を食べているような物足りなさがある。そういう意味では、チャイコフスキーやボロディンの交響曲の録音がスコットランドのオーケストラと残されなかったのは残念で仕方がないが、ショスタコーヴィチの交響曲全集がそのオーケストラと完遂されなかったことはもっと悔やまれる。スウェーデンとスコットランドのオーケストラを振り分けて「全集」が完成したことで、聴き手に、二つのオーケストラとの演奏レベルの違いが如実に突きつけられてしまったからだ。この交響曲第11番も例外ではない(皮肉なことに、副題となっている「1905年」は、正にエーテボリ響が設立されたその年に当たる)。■ヤルヴィの解釈は、速めのテンポで、フレーズの切れ目に「間」をおかず、何の抵抗感もなくスイスイと音楽が進行していく。第2楽章など、17分台前半と、コンドラシンやムラヴィンスキーの初演盤より速いタイムをたたき出しているくらいだ。テクスチャの扱いも、余計な小細工なしに次々とこなしていくのはいつものヤルヴィ調といえるし、速め(というか、ムラヴィンスキー、コンドラシンに次ぐ最速テンポなのだが)のテンポがアダとなって細部がおろそかになっていないのは流石と言える。オーケストラのアンサンブルにも破綻はみられない。■しかし、北欧のオーケストラのくすんだ響きがショスタコーヴィチに相応しいかというと、人によって認識は大きく違ってくるだろう(「サビ抜き」の寿司を肯定できるか否か)。しかし、それは、第2、3番や第12〜15番なといった、ヤルヴィがエーテボリ響と組んだ他の交響曲録音にも言えることだが、「(演奏に)ロシア的な激しさがなく物足りない」などという低レベルでの話ではない。やはり、エーテボリ響の演奏には、ショスタコーヴィチ演奏に不可欠な要素が何か欠けているようにしか思えない。それが何なのか、そんなものが本当にあるのかは、この録音を聴いた者に各々感じ取ってもらいたい。■最後に一言付け加えれば、ビシュコフ/ベルリン・フィルの同曲録音が好きな人には、この録音は大歓迎で迎えられるかもしれない。

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     2012/04/30

    ディストリビューターの能書きに、「極限まで自らを研ぎ澄まして一音一音に魂を込める」「ショスタコーヴィチ独特の慟哭を感じる熱い演奏」などと、誠に勇ましいことが書かれていたので、どんなに凄いアルバムなのかと期待したが、演奏が始まった途端、「何コレ?」と極めて大きく落胆させられた。いってみれば、リプキンの印象は「チェロのナイジェル・ケネディ」といったところか。エキセントリックを装ってはいるもののそれが成功してるとはいえず、技巧的に怪しい部分は緩徐楽章で音程がズレる以外は殆どないが、ただナルシスティックなだけで、音楽への共感が全くない。思えば、このアルバムがリプキンの自主制作盤だという時点で、既に死亡フラグが立っていたのかもしれない。■翻って、彼の演奏を好意的に見るとすれば、ショスタコーヴィチの音楽にある、ある種の聴き難さがソフィスティケートされた、耽美な演奏ということは出来る。人によっては、こういう演奏の方が良いというかもしれないが、そういう人は、「別に無理してショスタコーヴィチを聴かなくてもいいのでは?」と思ってしまう。ショスタコーヴィチに限らず、各々の作曲家の作品には、長い演奏史の中で培われた”様式”や”伝統”がある。そういうものを無視して、わざわざ「こちらの領域」に遠征してきて、ただ自分の好みに合っているという基準だけで良い悪いの判断をするのは、ファシズムというものではないか。確かに、時代によって演奏の様式は替わっていくのが必然だし、新たな試みや演奏者独自の解釈を否定するつもりはない。どちらにせよ、問題なのは、巧みに演奏されているか、演奏そのものに説得力があるかだ。■そう前提した上で、この演奏に乏しいのは、解釈を表面的な輝かしさを超えた領域へと高める音楽的洞察力の更なる広がりだ。さらにこの演奏は、リズムに広がりがなく、芸術的な方向性にも確固としたものがない。演奏に理念を欠き、ただ漫然と華美で、ただ小奇麗な音を作ろうとしているだけにしか聴こえない。オーケストラも終始「伴奏」に徹していて、ティンパニの打撃はポコポコいっているだけで頼りなく、ソロ・ホルンは音程も怪しいし響きは薄っぺらだ。24bit/96khzで行われた録音も、色彩に乏しくソノリティはこじんまりとして豊かでない。■
    結論としては、このアルバムは、彼のグルーピーだけが聴けばいいもので、彼の存在を広く世に問う必然性は全くないといえる。

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     2012/04/27

    ここ1年で入手した、新規発売によるブラームスの交響曲ツィクルス9種のうちで、最も魅力に乏しかった。特に優れていると思ったのはジンマン/チューリヒ・トーン・ハレ管のツィクルスだが、このディスクはそれらの中で最も期待値が高いものだったにもかかわらず、――恐ろしいことに4曲とも――演奏・録音共に、それらと比べるまでもなく、ここ数年で聴いたどの録音よりも酷い代物であった。少くとも、ノリントン盤やラトル盤と同じくらいの水準には留まると思ったが(この巨匠たちの演奏も、それほど優れているとは思えない)、大植英次/大阪フィル盤やライスキン/ライン州立フィル盤が思いの外優れていたのとは対照的な結果である。■とはいえ、演奏自体はおかしな表現が散見されるわけではなく、いつものドホナーニらしくオーソドックスな演奏なのだが、何といっても録音が悪すぎて、演奏の美点が殆ど伝わってこない。第4番だけはクイーン・エリザベス・ホール(QEH)での収録だが、こえれは、フィルハーモニア管の本拠地ロイヤル・フェスティバル・ホール(RFH)が改修中で、同じサウスバンクセンターにある、900人収容(これはRFHの1/3以下)のQEHでやむなくコンサートが行われたものである。ちなみに、QEHにはパーセル・ルーム(シート数は370)が併設されている。RFHはオープンから50年経ち、東京文化会館同様、建物自体の老朽化と音質改善の為に改修工事が行われたものだが、この録音を聴く限り(第1〜第3番の演奏は、改修後に行われたコンサートのライヴ録音)、少くとも音質面で改修の効果はなかったようだ。それは、第1〜第3番の音質が、小ホールといってもいい上に、クラシック専門ではない、いわば多目的ホールであるQEHで収録された第4番の録音より、劣っているように聴こえるからだ。録音エンジニアは、DECCAにいたジョナサン・ストークスによるもので、腕は確かだと思うし、或いはマスタリングで音質のクォリティーが劣化したのかもしれないが、とにかく、70年代の記録用放送録音をBBC LEGEDSで聴いているようなプアな音質では、演奏の本質が伝わらないのは仕方ないことかもしれない。■そのことを承知の上で演奏について書くが、第1番冒頭から音はよく出ているが、ごちゃっとした塊にしかなっておらず、サウンドに潤いが全く感じられない。主部に入ってからは何の変哲もなく、ただ単にベルトコンベア方式で左から右に音楽が流れていっているだけで、何も起こらないうちに第4楽章へと自動的に運ばれていってしまう。第4楽章も、段取り的に音楽が進むだけで、コーダのコラール主題の再現も、習慣的に何となくテンポを落としてやっているだけだから、間が持たない。ただ、最後のストレッタは「終りよければ全て善し」方式で煽りまくっているので大拍手(まあ、2,900人も入るホールだから歓声は自然と大きくなる)。第2番以降もその調子だから、どんなにこっちが好意的に聴こうとしても「山なし、ドラマなし、オチなし」じゃ、音楽の神様は降りて来っこない。ここで疑問が残る。さて、感動出来ないのは、本当に録音の所為だけだったのだろうか・・・?

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     2012/04/25

    俵孝太郎著『CDちょっと凝り屋の楽しみ方』(コスモの本、1993年)で、俵氏がラフの音楽(その中でも特に交響曲)を絶賛していてずっと気になっていたのだが――その時点では、全11曲の交響曲のうち、まだ6曲しか音盤はなかったらしいが――、筆者のコレクションの射程圏外(基本的にはドイツ系の音楽で、前・中期ロマン派であること)だったので長らくそのままになっていたが、折角交響曲全集として纏まったのだからと、モノは試しとばかりに全部聴いてみることにした。「CDは買ったら聴く」のが当たり前だとお思いかもしれないが、音盤コレクターというものは余程の守銭奴でない限り(いうか「守銭奴のコレクター」など聞いたことがないがw)、ディスクを買う金より音楽を聴く時間の方が足りないのが普通で、入手したものを必ず聴くとは限らないのだ。しかし、交響曲を含むラフの管弦楽曲は、確かに聴いて正解だった。俵氏が最もよく聴いているという第5番《レノーレ》から聴き始めたのだが、俵氏が「作品としてはあまり面白くない」と書いていた組曲やオペラの序曲などの管弦楽曲も、悪くなかった。ラフの交響曲はいずれも概ね30分代の長さで、第1番《我が祖国より》が67分と突出している以外は、第5番が約50分、第3番が約45分、第7番が約42分で(因みに一番短いのは第10番の約31分)、CDの余白には、殆ど収録限界丸々、盛大にc/w曲が用意されている。■楽風は、いずれもシューベルトの《ザ・グレイト》をモデルにしたようなムードの音楽で、ブルッフのような自然主義的な箇所も散見される。しかし、同時代に活躍した9歳年上のワーグナーや、ブルックナー、ブラームスに繋がるような要素は余り認められない。聴いた限りでは、ラフの音楽を語る際、約一回り年上のメンデルスゾーンがよく引き合いに出されるが、ラフの音楽はメンデルスゾーンよりも古いドイツ音楽を基礎に成り立っていると思う。大団円のクライマックスの築き方や、基本的には明るい音楽で祝典的な雰囲気を伴っているなど、ウェーバーの序曲にそっくりだ。また、面白いことに、ハンス・ロットの交響曲(第1番)を先取りしたような箇所も多く、ロマン派以降の音楽に親しんでいる人にも、ラフは様々な発見がある作曲家である。■1929年生まれのベテラン、シュタードルマイアー率いるバンベルク響の演奏は、何も引かず何も足さず、ラフの音楽の真実を現代によく伝えてくれる優れたものだ。■録音は1999年〜2002年だが、インナージャケットには録音データについての記載は個別にはなく、ブックレットのドイツ語による曲ごとの作品解説の箇所にそれぞれ記されている形式なので、録音を聴いているときに、データをちょっと確認したいと思っても、130ページ近くあるブックレットの該当箇所にいちいち当たらなくてはならず、これは不便といえば不便。米国や英国のレーベルは廉価盤でも箱の外からディテールが分かるようになっているのだが、何故か昔からドイツ語圏のレーベルは録音データ隠したがる傾向があって困る(Profilなんて復刻レーベルなのに、どこにも録音データが記載されていないこともあって閉口した)。ただし、録音自体は古さを全く感じないし、クオリティも低音域をしっかりと捉え、大きなスケール感で距離感も適切に無理なく展開されていて、楽想ともマッチして手堅い仕事といえる。

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     2012/04/25

    1975年から78年にかけての録音。LP2枚組だったものをCD2枚に収録。■ついに、やっとついに、この怪盤が再流通の運びとなった。筆者は、いくつかの復刻盤屋にコネがあって、ずっと前からこの録音をCD化するよう訴え続けていたが叶わず、いずれどこかこの録音群の価値を分かっているレーベルから出るだろうと思っていたが、このように現代音楽専門のレーベルがリリースしてくるとは意外だった。しかも、オリジナルLPにも使われたトーマス・ハート・ベントンによるラグルズのポートレート(LPが出た頃はカンザス・シティのネルソン・アトキンス美術館蔵だった)をジャケットにしているのは、いかにも「分かっている」感じがして、ラグルズのマニアとしては嬉しい限りだ。■ラグルズは、元々の名前はチャールズだったが、わざわざドイツ風のカールに改名した程ドイツ(音楽)びいきで、バッハ、ベートーヴェン、ワーグナーの音楽に深く傾倒していたという(ラグルズが、1906年にコントラルト歌手である夫人と知り合うきっかけとなったのは、二人ともドイツの歌曲作曲家ロバート・フランツを敬愛していたのが縁となったそうだ。しかし、黒人やユダヤ人に対する差別観はなく、ルー・ハリソンは親友だったが、つい差別発言を口走った後、絶交された)。ちなみに、代表作《太陽を踏む者》の冒頭がブラームスの交響曲第1番冒頭と酷似しているのは誰が聴いても明らかだが(しかし、ブラームスが6/4拍子であるのに対し、ラグルズは7/4、5/4、3/4と1小節ごとにリズムが替わる)、ラグルズはブラームスを「でっかい弱虫」(彼の音楽は、決まりきった進行や展開に捕らわれすぎていて、本心を語ることを恐れているようだから)と評しあまり高くは評価してなかったので、深い意味はないようだ。■この録音群は、「全集」とあるが、未完成作品や廃棄作品、また改訂作品の多いラグルズ作品のどこからどこまでを扱えば「全集」といえるか議論の余地のあるところだが(完成すれば最後の作品《オルガヌム》より後の作品となっていた、半世紀!書き続けたオペラ《沈鐘》の浄書譜は廃棄されたが、スケッチの山はアイヴズの《コンコード・ソナタ》を初演したピアニストで音楽学者、本ディスクでも《エヴォケイション》のオリジナル・ピアノ版を演奏し、LPには詳細な作品解説も寄稿したJ・カークパトリックが、ラグルズの手稿の整理中に発見したりしている)、息子の4歳の誕生日のために書いた、一番初めに出版された《おもちゃ》(しかし、カークパトリック曰く「和声的には徹頭徹尾不協和」な作品)から、ラグルズ独自のスタイルで書かれた最後の作品《オルガヌム》(それまで単旋律で歌われていたグレゴリオ聖歌に、4度や5度の並行進行によるハーモニーがついた、最初の和声的音楽のこと。この曲を、ヴァレーズが「4度と5度の使い方が極めて上手いね」と評したことから名付けられた)までは勿論、ラグルズ自身が書いた本当の最後の作品である、讃美歌《心のたかまり》(1年前に亡くなった妻君、シャーロットの想い出のために1958年に書かれたオルガン又は金管合奏のための作品)まで、計10曲(《天使》と《エヴォケイション》はオリジナル版と改訂版の2バージョン収録)を聴くことができる。■演奏は、13歳で初めて彼の作品を聴いて(それは《人と山》だったという)以来、何度もラグルズ作品を演奏し続けていたマイケル・ティルソン・トーマスの棒が、本当の意味で冴え渡っており、単なる手本として以上の価値を有するものとなっている。《太陽を踏む者》や《人と山》《入口》といった、大管弦楽を要する作品は、他にも良い録音(とりわけ《太陽…》は、ボストン響との初録音盤の方が演奏に勢いがある)はあるが、あのアイヴズをして「最も男らしい音楽」と言わしめた作曲家の作品の全貌を知るには、最良のディスクである。なお、金管アンサンブルを使った作品でリーダーを務めるのは、今や指揮者としても高名なジェラルド・シュウォーツである(シュウォーツは、すぐにNAXOSでラグルズの全集を出すかと思ったが、計画はまだないのだろうか・・・)。

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     2012/04/25

    1988年にUNICORNーKANCHANA UKCD2010として出たディスクの再発売。ディストリビューターの能書きには、「ナッセンが20代で作曲した作品で作曲した作品」を収録したとあるが、交響曲第2番は実際には1970年に書き始められて1971年に完成しているので、1952年生まれの作曲家は、まだディーンエイジャーだった。従って、本盤は、正確には、71年完成の交響曲第2番から、1979年完成の《コールシング(追跡)》まで、「ナッセンが70年代に作曲した作品集」ということになる。■作曲家としてのナッセンといえば(今ではセーゲルスタム同様、作曲家としてよりも、指揮者としての方が知られている)、オペラ《怪獣たちのいるところ》が最もよく知られており、作曲者指揮のDVDも入手可能だ。現在、交響曲は79年完成の第3番までだが、彼の多くの作品はいずれも極小編成のアンサンブルから、大きくても二管の室内楽編成が主流で、決して聴き応えのする音楽ではないが(88年の”Flourish with Fireworks”ではかなり大胆な響きも聴かせるが)、晩年のブリテンに通ずる部分もある。例えばティルソン・トーマスに捧げられた交響曲第3番は、一応は四管編成でティンパニ以外6名の打楽器奏者を必要とするが、トゥッティはなく、62人がマックスと指定されたストリングスは、殆どの部分で六部から十部(中には十六部の箇所も)にディヴィジされ(半分の人数をそれだけディヴィジする箇所も多い)、しかもミュート(弱音器)を付けて演奏しなければならなくなっている。スコアを見ながら聴かなければ、交響曲第2番同様、室内楽編成のオーケストラにしか聴こえないだろう。■しかし、無調的ではあるがウルトラ前衛主義的な音楽とは無縁で、18歳年上のピーター・マックスウェル=デイヴィスやハリソン・バートウィッスル、9歳年上のロビン・ハロウェイ、19歳年下のトーマス・アデスと比べるとかなり保守的な音楽である。■ナッセンの父親は、ロンドン響のコントラバス奏者だったということもあり、恵まれた音楽環境で育った。多くの現代音楽作曲家が、現行のシステムに何かしら抗って作曲しているような部分があるにも拘わらず、ナッセンの音楽は、作曲者が、作曲という行為を心から楽しんで行なっているのがよく伝わってくる(交響曲第1番を自らの指揮で初演――その指揮ぶりは手刀式で、かなりぎこちなかった――して以来、指揮活動も作曲と同じくらい面白がってやっているらしいが)。ナッセンの音楽をじっくり聴くと、入念な作りを持ち、ひそかにロマンを自伸ばせているのがわかる。強靭なコンセプトを失った時代をよく反映した作品群だ。ティルソン・トーマス及び作曲者の指揮、ナッシュ・アンサンブルによる演奏はもちろんお手本以上のクオリティを持ち、ナッセンの音楽の真の姿をよく伝えている。

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     2012/04/23

    《春の祭典》は、《結婚》とc/wだったオリジナル盤[444 542-2]と組み合わせを替えての再発売。尚、《三楽章の交響曲》と《アゴン》は、昨年発売された7枚組のDECCA COLLECTORS EDITION[478 302 8]にも入っている。正直、指揮者としてのアシュケナージのソリューションには首を傾げざるを得ない部分が多いのだが、この《春の祭典》は、彼のディスコグラフィーの中で、ずば抜けて優れたクオリティの演奏だ。これまで、DECCA(LONDON)の《春の祭典》というと、アンセルメ、ショルティ、ドラティ、シャイー、デュトワが広く聴かれてきたわけだが(もちろん、モントゥー、ベイヌム、メータ、マゼールなど、他にも録音はいくらでもある。これだけ同じ曲の録音があれば、ドホナーニがDECCAでやらせてもらえなかったのも頷けるが、最近では、ゲルギエフ盤もDECCAブランドから出ている)、この演奏は、それらとはまた違った魅力がある。この演奏を、発売と同時に聴いてきて、常にその素晴らしさを実感してきた筆者にとって、この素晴らしい録音が、発売から20年近く無視され続けてきた事は、全くの不当だと声を大にして言いたい。録音は94年だが(発売は95年)、その頃は、既に、69年のブーレーズ盤[SONY]以来、アバド盤やティルソン・トーマス盤、コリン・デイヴィス盤、ムーティ盤など、70年代に続出した録音群を通して、リズムやハーモニー、独特の音響構造を、明晰かつシャープ、そしてスマートに表出する表現が主流、というか、当たり前になっていた時期だった。そこに来てこの演奏は、垢抜けないリズム処理、全ての声部を無骨に鳴らした分厚いがややくすんだストリングスのサウンド、太古から蘇ってきたような原始的な打楽器の響きなど、不器用とも言える、正に作曲当時ストラヴィンスキーが想定したであろう、オーケストラのソノリティを随所に聴くことができる。特に、ブーレーズ[DG]などのスマートな演奏で聴き慣れた変拍子が、本来のカオス状態そのままに描出された第二部中間部以降は圧巻で、《春の祭典》を初めて聴いた時の驚きが蘇ってくる。

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     2012/04/23

    全ての演奏を、「あり」か「なし」かの二元論に還元することは不可能であるが、筆者には、本盤の演奏を「並外れて優れたクオリティ」であると評価することは出来ない。確かに、この楽曲を初めて聴くリスナーには、十分以上の内容を持っているといえるが、作品に慣れ親しんでいくうちに、この録音では満足出来なくなって行くだろう。特に、メーカーの能書きにあるように、この作品が「20世紀の人類の苦悩」を描いた交響曲であるとするならば、この演奏は、少々平和ボケし過ぎていると言わなければならない。■この演奏が録音された1988年(録音は正確には11月23日と24日に行われた)は、年明け早々、ゴルバチョフ ソ連共産党書記長が、ペレストロイカ(建て直し)とグラスノスチ(情報公開)を主軸に自由主義政策を開始、4月にはアフガンからソヴィエト軍が撤退し、雪解け以来の平和主義的な方針転換が図られた時期だ(翌年末には、東西ドイツが統一される)。そういった社会情勢を、この録音で《革命》交響曲を演奏するに当たり、インバルやフランクフルト放送響のメンバがどの程度意識していたかは分からない。ただ、そういう状況下に於いて――プルデューのハビトゥス概念、ある状況においてなすべきことについての実践感覚――を参照するまでもなく、「もうこの曲をムラヴィンスキーみたいに演奏解釈する時代じゃないな」と、無意識的な感覚として感じていたことは、少くとも確かであるように思える。■しかしながら、録音から四半世紀が経とうとしている今、この演奏を聴くと、(録音当時の)インバルのスコア(書かれたもの)に対する「客観主義」は、少くともこの作品に関しては、弱点であるようにしか思えない。ビシュコフ/ベルリン・フィル、アシュケナージ/ロイヤル・フィル、ヤンソンス/オスロ・フィル、レヴィ/アトランタ響など、80年代後半に録音された、他の西側の指揮者とオーケストラによるライバル盤も同じような傾向で、それらと比べると悪くはない。だがその一方で、ヤルヴィ/スコティッシュ・ナショナル管やマクシム・ショスタコーヴィチ/ロンドン響といった、非常に力強い有力盤もあるので、やはりこの演奏では物足りなさが残ると言わざるを得ない。そして、最後に、純粋に西側のアーティストによる《革命》交響曲の演奏といえば、94年のデュトワ/モントリール響盤[LONDON]が最良のレファレンス盤であり、デュトワこそ、最良のショスタコーヴィチ指揮者である、と筆者が固く信じていることを付け加えておこう(80年代に聴いた、ベルリン・フィルやバイエルン放送響との交響曲第8番や第10番、第13番の演奏は、ザンデルリンクもかくやと思わせる素晴らしい演奏だった)。

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     2012/04/13

    元来、ショスタコーヴィチの協奏曲やピアノ曲というジャンルは、政治臭さなど微塵も孕んでいないのだが…。肯定するにせよ否定するにせよ、ショスタコーヴィチといえば、自動的に政治的という要素に結びつけてしまう認識は、噴飯ものであるだけでなく、慎重に扱わないといけない危険な思考である。まして、本盤で聴くことのできるピアノ協奏曲第1番と24の前奏曲は、音楽に限らず、クリエータの創作活動に関して、何の政治的プレッシャも存在しない1930年代前半に書き上げられた作品なのであって、完全な事実誤認でもある。■それはさておき、ショスタコーヴィチが自ら演奏することを念頭に置いた上で初めて書き上げたピアノ協奏曲と、ム息子マクシムの為に書いた第2ピアノ協奏曲は(ついでに付け加えれば、チェロ協奏曲第1番も)、チャーリー・チャプリンを彷彿とさせるユーモアとアイロニー、風刺とグロテスクが展開される魅力的な作品だ。そこには、実に様々なスタイルを実験的に取り入れ、全部で七つになる楽章は引用の宝庫で、ユダヤのストリートソングからハイドン、ベートーヴェン、挙句には自作からも引っ張ってきている。■しかし、その両曲はただの警句、気まぐれな小品の域を出ないのだろうか? 86年生まれのコロベイニコフは、二十代でありながら、その安定した技量でフレーズの形と色を明確に作り上げ、疑問の余地を与えない。また、スラップスティック的な要素をあえて強調せず、むしろ作品内に散りばめられた哀愁をたっぷりと歌い上げている。かつてのカラヤンの秘蔵っ子で、今やベテランの域に達してたオッコ・カム率いるラハティ響も、見事な名人芸、情熱、繊細さを持ち、独奏者と熱狂を分かち合っている。第1協奏曲でのもう一つの独奏楽器であるトランペットも含め(この協奏曲は、まず、トランペット協奏曲を想定して発案された)、特に、速い楽章でのきびきびしたアーティキュレーションと活気あるフレージングが心地よい。一方、第1協奏曲より作品番号で1つ早い24の前奏曲の演奏は、充足し切った知性と感性の見事な融合がある。そこではあらゆる音が手元にしっかりと引きつけられており、その手元で自在に発言している。音楽的抑揚や音色の美しさを含めて、これは今日におけるショスタコーヴィチ解釈のひとつの規範であるとも言える。筆者はこれを聴いて、この若いピアニストがショパンをどう解釈するか、強く興味を持った。

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     2012/04/12

    リーリャ・ボヤディエヴァは、ブルガリア生まれで、70年代後半にモスクワ音楽院で学んだ女性ピアニスト。96年にリリースしたバーバーのアルバム以来、実に13年ぶりとなるディスクである。本盤の演奏は、テクニック的な問題は殆どないが、《三つの幻想的舞曲》冒頭からアゴーギクやルバートを多用した演奏表現は、大いに問題があると言わなければならない。それに加えて、和声やリズムの処理など、この作品を完全にブルース調に描出しており、ショスタコーヴィチを、ファリャやグラナドスと勘違いしているようだ。一方、ピアノ・ソナタ第2番や24の前奏曲では、ショスタコーヴィチの音楽から純粋な音楽日を取り出そうとする姿勢が強く聴かれ、そこにはこの作曲家の音楽のもつ、一種の諧謔的な特質を強く表面に打ち出そうとする傾向がハッキリと現れている。ボヤディエヴァによる、ショスタコーヴィチのこうした音楽認識そのものに異議を申し立てるつもりはないが、この彼女の演奏では、概して音符の横のつながりやアーティキュレーションが曖昧で、その為に、今一歩それぞれの音楽の深みに立ち入ることが妨げられている。多くのショスタコーヴィチ演奏に立ち会っている現在、そのことはどうしても、一つの演奏としてのある種の物足りなさを感じずにはいられない。ピアノを弾くという意味に於いての能力の高さは十分に示されているが、自己のショスタコーヴィチ解釈という面に於いては、疑問符が常につきまとう演奏である。ただ、テミス・ザフィロプーロスによる録音は実に見事で、間接音が十分に捉えられていながら、一つひとつの音のタッチも明確に聴き取ることができる。十分なダイナミックレンジを聴かせ、S/Nも良好。

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     2012/04/09

    ショスタコーヴィチは、勢いがある訳でもなく、ただ単にテンポが速いだけの演奏だ。なぜ、ここまで急ぐ必要があるのだろうか。ついぞ、こんなに速いテンポで弾き飛ばす演奏を聴いた記憶は全くない。まるで、録音が始まった途端大事な用事を思い出し、仕事を終わらせて早く帰らなければ、というような演奏だ。この曲の演奏時間の最短記録でも作ろうとしたのだろうか?その急速テンポの中、独創チェロもオーケストラの響きも全く魅力的でない。特にティンパニの乾ききった打音は、楽器の筐体自体の響きが全く聴こえず、ティンパニの表面の皮の音しかしないのは致命的で、この演奏を決定的に救いようのないものにしている。■一方のブリテンのチェロ交響曲は、実に豊かな響きを伴った録音で、ショスタコーヴィチとは別団体による演奏のようである。テンポも、F1でアウトバーンを最大速度で走り抜けるような猛進的な演奏でなく、細部までしっかりと表現への意思が通っていて、全体に緩急の変化が注意深く付けられており、それが演奏の起伏や陰翳を豊かにしている。実にシンフォニックで鮮やかな演奏で、この曲がなぜ協奏曲でなく交響曲と銘打たれているのか演奏自体で証明しているかのようだ。評価は総合で☆4つにしたが、ショスタコーヴィチが☆3つ、ブリテンがほぼ☆5つに相当する。

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     2012/04/08

    マーラーの第10番の全曲版は、筆者はマゼッティ版を高く評価しているのだが、本盤の演奏は、クック版の良いところも悪いところも、そのままストレートに音にしていると同時に、極めて端正な、かっちりとしたマーラー像を提示する。この端正さは、ある意味、インバル最大の美質に数えられるものだろう。実際、ここに聞き手は、彼の個性を強く感じ取ることになるだろう。しかしその一方で、そこからこぼれ落ちてしまうものが存在するのも、また事実ではないだろうか。その「こぼれ落ちるもの」とは、その作曲家「らしさ」に他ならない。ブルックナーならブルックナー「らしさ」、ショスタコーヴィチならショスタコーヴィチ「らしさ」という、各々の作曲家の「個性」のようなものが、インバルの演奏からはことごとく「こぼれ落ちて」いるように思える。言い方を替えるなら、作曲家の個性が、インバルの個性に吸収されてしまっている、とでも言おうか。しかも、ここで演奏されているのは、マーラー自身が完成させた作品ではなく、他人の手で化粧が施された作品である。ここでのクックの仕事が、高い評価を与えられているのは事実であるが、では、「マーラーらしいか?」というと、否定せざるを得ない。クック自身、「交響曲第10番をマーラーが完成させた姿」ではなく、「マーラーが残した素材を、オーケストラで演奏できる水準にする事」を追求しただけである。その意味で、このディスクの演奏は、二重に「マーラーらしさ」が抜け落ちてしまっている。従って、このディスクを評価するに当たっては、その要素をどう見るかによって、結果は大きく変わってくるだろう。筆者は、純粋に「マーラー作曲/D・クック編集編曲」作品として録音を評価した。クックのスコアからでも、もっと内面的な深さや音楽の暗い面を抉り出すことは出来るはずである。録音当時のインバルには、このクオリティが限界だったのだろう。もし、今、インバルが都響やチェコ・フィルとこの作品を録音したとしたら、一体どうなるだろう? まぁ、それはまた別の話なのだが…。

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     2012/04/08

    まぁ、感じ方は人それぞれなので他人がとやかく言う筋合いはないが、正直言って、こんな寝ぼけた演奏で満足できる感性は実に羨ましい限りだ。コンチェルト・ダ・カメラと、夏の牧歌はまだいい。しかし、《典礼風》は、全ての和声とフレーズが、余りにも安易になでつけられており、オネゲルの交響曲特有の心理的葛藤の感じが、ほとんど欠如している。スコアのより暗い要素をよけて通っているフルネは、聴き手にリリカルで軽く、晴れやかで楽天的な解釈しか与えてくれない。あたかも音楽の内部から曲を生かすことよりも、サウンド的な美しさのみを追求することに専念しているようである。その特徴は、二曲の”交響的運動”になると、さらに悪い印象をあたえてくる。恐らく、フルネとオーケストラは、これらの作品に全く共感していないのだろう。表情がフラットで彫りが浅いうえ、構築的な統一感も弱く、さらに積極性やひと工夫もふた工夫も欲しい。オーケストラも技術的に洗練されてるとはいえず、オネゲルを演奏するには、荷が重かったか。

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     2012/04/06

    この、バイエルン放送響の自主制作盤シリーズと、ロイヤル・コンセルトヘボウ管の自主制作盤シリーズの中でも特にヤンソンスの指揮したものは全て手元にあるが、このブラームスは、それらの中でも特に優れた1枚。ヤンソンスの指揮は、全体的には極めてオーソドックスで、ブラームスの音楽の美質をごく自然に引き出している。尤も、それだけに、テンポが極端に遅かったり、特定の箇所に過剰に感情移入して色濃く表出したりと、わかり易い解釈を求める向きには物足りなく聞こえるだろうが、細部から演奏の美質を独自に聴き取れる聴き手にとっては、このブラームスは実に魅力的に聴こえるに違いない。もちろん、細かく語っていけば切りがない。けれども、ヤンソンスが、ここに来て、やっと作為的なコケオドシの表現とは全く無縁でありながら、結果として大きな劇的起伏に富んだ音楽を作り上げることが出来る指揮者となった事は強調しておきたい。尚、録音は、SACDのメリットはあまり感じさせない(第1番&第4番はCDでの発売とのことだが、この録音クオリティなら仕方ないだろう)。パワーアンプを立ち上げてすぐに鳴らしたような、やや彩度の低い音彩が気になるが、低域から高域まで、極めてバランス良く収録されている。特に強奏では、ムジークフェラインで録音された第3番は伸びと余裕を感じさせ、決して騒々しくないサウンドを聴かせるのは流石だ。

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     2012/04/06

    ハッキリ言って、駄作です。20年近く前、ショスタコーヴィチ協会の立ち上げ集会で見た時には、動くショスタコーヴィチの映像に、素朴に感動を覚えたものです。しかし、今、改めて見直すと、アーカイヴで手当たり次第にかき集め、たまたま入手出来た映像をなんとなく適当につなぎ合わせ、ショスタコーヴィチを共産主義政権の被害者であると同時に、いかにも反体制の旗手っぽく仕上げげようとしているのが見えみえ。確かに、それ自体は何の意味も持たない断片的な映像に、そういう意味付け、メッセージ性を付与し、受け手に無意識に特定のイメージを植え付ける手腕、そういう意味での編集の上手さたくみさは認めざるを得ない部分はある。でも、ソヴィエト軍がアフガニスタンに侵攻した記憶も鮮明な81年当時(80年のモスクワオリンピックは、それに抗議してアメリカや日本など多くの西側の国々は参加をボイコットした)はそれで誤魔化しも利いただろうが、もう、こんな映像見せられても胡散臭さしか残らない。こんな映像出すよりも、音楽記録映画「ショスタコーヴィチ」(1967年) を商品化する方が優先事項であろう。

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