【インタビュー】山本恭司 / BOW WOW

2016年04月01日 (金) 21:00

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先ごろデビュー40周年と生誕60年、合わせて「100 YEARS PREMIUM LIVE」と題し、自身のキャリアを総括する圧巻のステージを行った BOW WOW のギタリスト、山本恭司さんに話を聞きました。
Aki--- まずは先日のアニバーサリーライブ、お疲れ様でした!本当に素晴らしいライブをありがとうございました!

山本恭司(以下、山本):デビュー40周年ということもあって、これまでもバースデーライブはやってきたのだけど、わりとシンプルな「弾き語り、弾きまくり」を中心にね。でもね、デビュー40周年、生誕60年というところで合わせて100という「100 YEARS PREMIUM LIVE」というタイトルでそれに相応しいものができたらいいなという心の底にはあったんですよ。でも僕はあんまり自分から派手にしようしようってのは正直苦手なタイプだから100人規模のところでやればいいかなくらいに思ってて(笑)。

でもチッタの方や長年のクラシックロックジャムでお世話になっている方から、せっかくだから恭司さんこういうのやらない?っていうお誘いがあって。何となく心も動いてきて、たしかに一生に一度しかないし、でもみんな集まってくれるかな?と心配だった部分はあるにはあったけど、でも勿論やるからにはね、プロとしての責任感はある方なので(笑)これは徹底して一緒にやってくれるミュージシャンもお客さんも心から喜んでもらえるものにするぞと決めて、ちゃんとその手ごたえは感じるようなライブにするぞと。そしていざ蓋を開けてみると自分の予想とか想像とか遥かに超えたものになってもう最高でした。Akiさんも観て下さったんですものね?

Aki--- はい、拝見させていただきました!とても濃密で素晴らしい時間でした、本当にデビュー40周年と生誕60年おめでとうございます!

山本:ありがとう。

Aki--- 実際ライブで40周年を振り返っていかがでしたか?色々なことが頭をよぎりましたか?

山本:BOWWOWはここのところ少しまたやるようになってはきたし、WILD FLAGは活動しているしね。特にVOW WOWは色々な事情があって活動の実現が難しい、先生の事情とかね(笑)Vまで出来れば本当に自分の40周年に相応しいものが出来るなと思って、でもなかなか難しいだろうなと思っていたけど厚見くんもGENKIもすぐ引き受けてくれて。だから本当に自分の歴史を辿れるようなライヴになりましたね。

一曲目にいきなりBOW WOWの「Heart's On Fire」をやったっていうのも、僕のプロとしてのキャリアの一曲目だったし、皆さんにとっては意外だったと思うけど、これで始めるしかないと決めていてね。メンバーが全員揃ったわけではなかったけど、BOWWOWもVOW WOWもWILD FLAGも庄太郎と竜一という本当に誠実な二人のリズムセクションに頼んで良かったな。他のメンバーに「違和感ある?」と聞いても「いや、全然!」とごくごく自然に彼らもメンバーに成りきってやってくれて、だから僕も集中できて。滅多に僕はこういう言葉は使わないのだけど、「感無量」という言葉がぴったりのライブになりましたね。合わせて100というのも一生に一回なんだけど、少なくともこれまでの人生において特別な最良の日になりましたね。

Aki--- 出演メンバーもたくさんいらっしゃいましたし、今回のライブで苦労された点などはありますか?

山本:実は苦労はそれほどなかったですね(笑)。最初はセットリスト考えたり、順番とか相当悩むなとは思ったんだけど、いざ書き始めたらすーっと浮かんで。2時間以内に決まって。その後のリハーサルもとても順調に進んでね。みんな本当にしっかりとうちで予習してくれていて、とてもありがたかったな。

Aki--- あれだけの曲数を覚えられていて凄いなと思いました。

山本:庄太郎は何も見ないでやっていたもんね。彼らを選んで本当に良かったと思ったよ。

Aki--- ではライブの流れと合わせまして、私たち世代には恭司さんは本当にBIGな方なのですけど、若い世代のもしかしたら恭司さんをまだご存知ないかもしれない音楽ファンへ恭司さんの思いを伺わせて下さい。まず恭司さんのシルエットが映し出されて「Prelude」からの「Heart's On Fire」は決めていたと先ほどもおっしゃっていましたね。

山本:うん、「Prelude」となるとあれは「SIGNAL FIRE」の1曲目なのでそのままね「天国行超特急」に繋がるんだけど。あれで予想を裏切ったというかサプライズというかね(笑)。でもあの曲しかないでしょうと。
僕はBOWWOWの第三のメンバーなんだけど1976年12月にデビューコンサートとデビューアルバムが出て、それから2ヶ月くらいでAEROSMITHと日本ツアーをやったりとか4ヵ月後くらいにはKISSとやったんだよね。

本当にプロの一つ目のバンドとして結構デビューは華々しかったのでわりと天狗になるというか、まだハタチそこそこ平均年齢10代のバンドがいきなりそんなふうに受けたりするとやっぱり調子に乗りがちなのね(笑)でもそこをAEROSMITHやKISSという若手トップのハードロックバンドと出来て、彼らの凄さを目の当たりにして。全てのショウをステージサイドから観たり、客席から観たりとかしましたから、そこで本当のプロフェッショナルというのはなんぞや?というのを叩き込まれて。あれは良かった、若いうちにそういうものを叩き込まれて。そしてBOWWOWで初めて海外で演った時、最初は81年に香港でやって、翌年に例のイギリスのレディングフェスティバルがあって。前座扱いだったのにその日一番か二番くらいに本当に受けたんだよね。99.9%は僕らのことを知らない人の前、それも日本人のバンドだったし。

僕はね、アメリカとかイギリスへ行ってやっぱり音楽に国境はないと言いつつも、日本のバンドってどうしても差別というか偏見がないとは言えないと思うんです。例えば、日本にいてフィリピンのシンガーがどれだけ上手くても拍手を贈ってもどこか違う目で見てしまうようなところがある、これは身をもって感じてきたことなので。だからそういう事にも拘らず、あれだけの支持を得られて凄まじい自信になった。これは調子に乗るとかではなく、俺たちのやる事は間違っていないと。ビデオで観ても、形相が必死なの(笑)人間ね、大げさですけど死ぬ気になれば、そこまで魂も命も込めて演奏し必死にやれば人を動かすことができるんだと。

またBOW WOWは日本のハードロックバンドとしては先駆け的存在だったと思うのね、もちろんロックバンドといえばクリエイションもいたしフラワー・トラベリン・バンドという偉大な先輩もいたけれど、新しいイメージを持ったハードロックバンドはBOWWOWが最初だったと思うので。道のないところにデコボコ道かもしれないけど自分たちで道を作って歩いて行って、実験的なこともたくさんやってきて。後輩から言われるのは、BOWWOWが居たから歩きやすくなりましたと。成功も失敗も含めて反面教師としてのBOWWOWもあるし、良い見本でもあるし、僕らは本当に実験の連続だったし失敗もたくさんあったなぁと。

笑い話になるかもしれないけど、沖縄基地で米軍相手にやったとき、あの頃マグネシウムというか花火とか使ってたのは国内ではBOWWOWくらいだったのね、KISSの影響で。マネージャーに火薬免許を取りに行かせて(笑)沖縄まで重い筒持って行くの大変だから火薬だけ持って行って、頑丈な空き缶でやればいいやとやってみたら空き缶が粉々になって(笑)米兵が怪我をして当時のマネージャーが警察に捕まって2泊くらい泊まらせられたりとかね(笑)アメリカでも勝手に電柱に貼り紙したら捕まったり(笑)当時デビュー前は合宿所でタコ部屋のようなところでマーシャル3段積みをフルボリュームで窓開けてても誰も文句言わないような豚牧場のはずれで合宿してましたよ(笑)とにかくBOWWOWが世間も音楽界も何も知らなかった自分にあらゆることを教えてくれたと言ってもいいかな、だからバンドにも感謝しているしイベントのオープニングにあの曲を選んだのもとても意味のあるものだったです。


Aki--- 中期の「GUARANTEE」や「GLORIOUS ROAD」のポップ期については、なぜポップ路線になられたのでしょう?

山本:あれはね、丁度世の中がテクノブームになってきて、パンク、テクノブーム。それでハードロックという言葉とか長髪とかロンドンブーツとかベルボトムとか全てが一番世の中でダサイとなったの(笑)ロン毛〜?え〜?みたいな(笑)僕らのやってる事が全て否定された時代になったの。 今でこそ同時に色々な音楽がそれぞれプライドを持って成立しているけど、あの頃はなかなかそれが出来なかった。当時の事務所とかプロダクションがお前らどうする?ってなってプレッシャーを与えられて、このままだったら正直言ってどんどんレコードも売れなくなるだろうし、ライブの集客もできなくなる、そんなマイナーなところでやって行くか、それとも解散してしまうか。それともお前たちは音楽もハードロックだけじゃなくて色々出来るだろうからスタイルを変えてチャレンジしてみるか、というまだ20代前半の頃にそういう選択を突きつけられましたね。

Aki--- そこからまたハードな路線に戻られましたよね?

山本:うん、選択を突きつけられて、解散するのは忍びなかったのね、だからちょっとチャレンジして。チューリップだとかサザンとか甲斐バンドとかロック色もあってやっている、ならやってみたら出来るんじゃないかと。そうしてやってみて、そこからファンになった人たちもいるんだけど、あの頃全然ポップだと思わなかった、ハードロックだと思ってましたとかね。初期を知ってるとポップになってどうしちゃったの?というのはあるけれど、あそこからの人たちは十分ハードロックだと言うんだよね(笑)でもね、デパートの屋上でサイン会をしながらアイドルたちとやったり、遊園地でやったりの営業もたくさんこなしてきたわけですよ(笑)シングルを売るために。それも含めての人生経験。あるときは八王子かな?デパートの屋上でRCサクセションとも一緒にやったよ、色々なバンドがそういう苦労もしつつやってた時代だったね。

でもやっぱりどうしても身体が(笑)うーん(笑)やっぱりこれじゃないだろうって。ライブやっても後半は初期の曲をやってたのね。これでもし失敗しても解散してもいいよね、と4人で真剣に居酒屋さんで話し合って。スタッフ抜きで4人で酒を飲みながら話したのはもしかしたらそれが最初だったのかもしれない。その話し合いでもう一回ハードロックやろうよ、これで解散でも覚悟決めようよって。レコード会社を説得にかかって、事務所の中にも凄く味方をしてくれる人もいてね、エンジニアの人なんだけど。彼が上の人を説得してくれてBOWWOWにやらせてやってくれと動いてくれて。僕らも本気だったので。そしてやり始めたら日本でも「ジャパニーズメタル」のムーブメントがだんだん来始めて、僕らのハードに返り咲いたタイミングと合致してきたのね。LOUDNESSも、LAZYの頃からデイビー(樋口宗孝)とは仲良くしていて、互いに行ったり来たりもしてて。まだデビュー前の二井原くんの歌も聴かせてくれたり、ファーストアルバムもこれ一発撮りなんですよとか聴かせてくれたり。一緒に頑張って行こうという感じだったよ。実際に段々と盛り上がってきて、Heavy Metal Fes.とかHeavy Metal Fantasyとか開かれるようになって。

僕らは先ほど述べたレディングとか翌年も出たしイギリスツアーもやって、よーし!って思ってたら光浩が脱退することになって。光浩は更にロックンロール色が強いARBに入って。もう一人ギターを入れてやってもいいかなと少しは頭をかすめたのだけど、いや、せっかくのチャンスなのだから新しい事やっちゃえと。実はBOWWOWの最後の方のツアーは厚見くんは参加してたの。その前に作ってたシングルでキーボードが必要だったのでね。厚見くんにも参加してもらって僕のソロアルバムの曲もすでにやっていて、厚見くんがキーボードもコーラスも参加してくれていて。キーボード入れてもいいなと。その直前に出した僕のソロアルバム「ELECTRIC CINEMA」、この間のライブでもアコースティックで1曲歌いましたけど、あのときにとったのがヴォーカルとキーボードを入れてという形態で。僕はこの「ELECTRIC CINEMA」が大好きでとても自信作だったのね。だからああいう形でBOWWOWの進化を遂げられたら最高じゃないかなと思い始めたんだ。

で、他のメンバーにも相談してヴォーカル探し。色々とオーディションして、でもなかなか見つからなくてね。そんな時に厚見くんがちょっと面白いヴォーカルがいるんだと言ってNOIZのカセットをくれたのね、厚見くんはNOIZにもキーボード参加してたし。NOIZはデビューも決まってアルバムも作ったのだけどデビュー前に解散が決まってたという(笑)だからGENKIも学校の先生やろうかなみたいなところだったんだけど、GENKIを呼んで、セッションしてみたの。そしたら凄まじいものがあって。でもセッションだけが盛り上がる事はよくある事なのでレコーディングするとよくわかるの、本当に良いか悪いか。大抵ライブで良くてもいざレコーディングしてみるとあれ?と思ってしまうミュージシャンも少なくないんだよ正直言って。曲を一曲作ってみてみんなでレコーディングして、GENKIに歌ってもらったらレコーディングでも凄まじかったの。これはバンドでやりたいと説得して、実はGENKIの方が先にOKをくれて厚見くんは様子を見つつ、でも少し経ってからやっぱりやろうって事になって。

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