登川誠仁 インタビュー【3】

2009年10月20日 (火)

interview
登川誠仁




 ところで、おたくは本土のどこ?

--- 出身は神奈川県です。

 横浜の・・・あの辺?

--- はい。鎌倉なんかにほど近いところです。

 ワシは本土には相当行っているが、料亭のひとつも憶えたことはないんだ。「あんな処憶えてもよ、お金にならんから」とワシは言いよったんだ(笑)。唄憶えた方がいいって。本土行くと、酒飲んで、どこに行くにもしょっちゅうタクシー乗ってるもんだからね。

--- 本土に行かれるのは、東京、大阪がほとんどなのですか?

 兵庫の尼崎だとか。この間、大阪にいる弟子が、またそっちでも弟子を持って教えていると言ってて・・・あれ?名古屋だったか?(笑)・・・登川流は大きいからね。

 だがよ、本土の人間のようには沖縄の人はできない。師匠への敬いがないしね。上手になったらあっちこっち行ってしまう。ヤマトンチュの場合は、師匠を死ぬまで看てあげるとかね。ヤクザもんも大体同じだよ、本土は。沖縄はよ、「上が死んだらワシが親分になる。これを待っていたんだ」ってよ(笑)。ワシは何でも“付き合い”をしてみたんだ。ヤクザ連中でも。那覇派とコザ派があるでしょ?

 那覇派とコザ派は敵味方だけど、ワシは両方のところに行けるわけよ(笑)。親分たちが「誠小さん、新年会お願いできますかね?」って。普通の三味線弾きは怖がって行かないんだよ。ワシは、お金儲けできるから行く(笑)。料亭に新年パーティーに行くでしょ、すると刑事なんかがいるわけ。「誠小さん、今日はこっちでヤクザもんが新年会だ。アンタここに何しに来た?」って。「いや、今日はちょっと地方(じかた)で雇われてね。儲かってきます」って(笑)。

--- ギャラがいいから、しょうがないですよね(笑)。

 コレ(と指で金サイン)は大きいからね(笑)。今はこんなことあまりなくなったが。またよ、那覇の警察署長の新年会、そっちにも呼ばれるんだ(笑)。

--- (笑)警察と言えば、以前に一日警察署長も務められていましたよね?

 この写真がそう(と額縁に飾られたその時の写真を見せていただきました)。この時は、おかしくてよ(笑)。


登川誠仁


 今も料亭だとかバーとか行くと、ワシ、夜中の2時3時までもいるからよ。

--- 全く飲まずに・・・ですよね?

 コーヒーを飲んだりしてね。周りの人は、「登川さんは酒をやめたと言ってたけど、あれはやめてないよ。お酒やめて、あんな2時3時までおれるわけがない」って言うんだ。それで、ワシの席のところにビールを持って来て、「登川さん、元気ですか?」って酒を注ごうとするから、「いやいや、ワシは今、アルコールはちょっとやめてるから」って言うと、「ホントかね?」ってコーヒーやお茶に酒が入ってないか確かめられる(笑)。

--- どこかに仕込んでいるんじゃないかと?(笑)

 “グロモント・ウィスキー”があるんじゃないかってよ(笑)。飲み屋なんかに行く場合、ワシはカラオケもやって・・・あのカラオケっていうのが難しいんだ。ワシなんかは、三味線弾いて唄っているからよ、カラオケの音はなかなか当てきれないんだ。同じ曲でも、ワシが弾くのと他人が三味線弾くのと弾き方が違うから。嘉手苅(林昌)さん、死ぬまで全然できなかったよ。カラオケの調子が当てきれなかった。

--- 登川さんがカラオケをされていること自体意外でしたが、最近もよく行かれているのですか?

  ついつい行ってしまう(笑)。「♪雨の外苑〜夜霧の日比谷〜」(「東京の灯よいつまでも」)って、あの曲なんかは行く度に毎回歌わされてるよ。「これ1つだけ歌ってから帰ってください」って(笑)。ワシは、ヤマトもんの歌謡曲なんかも三味線弾いて唄ったりするもんだからね。普通、歌謡曲を民謡する人が歌うと民謡みたいに聴こえるが、「おたくはヤマトの歌謡曲を歌っても違和感がないから珍しい」と言われるよ。


登川誠仁


--- お若い頃には、米軍基地でハウス・ボーイの仕事をやられていたそうですが、その時期には、ジャズやリズム・アンド・ブルースのようなアメリカのポピュラー音楽も聴いていたのですか?

 黒人は歌好きでしょ?「♪ユ〜ア〜マイ、サ〜ンシャ〜イン」(「You Are My Sunshine」)とか、「♪オ〜マイダ〜リン、クレメンタ〜イン」(「My Darling Clementine」)とか(笑)。こんなのを適当にカタカナで書いて憶えてよ(笑)。「ペスト・パーキン・ママ」が一番面白かったよ。「♪ドリンキン・・・ゴ〜ザヘ〜ヴンフォ〜ン」って、黒人と酒ば飲みながらね。仕事はあまりしなかったよ(笑)。木の上に登って遊んだりしてたから(笑)。

 そこで、黒人のおじさんにかわいがってもらっててよ。この人はボクサーで、ボクシングに勝った場合にワシにお土産のLPを持ってきてくれるんだ。この人から色々と(外国の曲を)教えてもらったんだが、英語分からんでしょ。歌の意味は分からんわけ。ただ聴こえたのを書き写してよ。「これはどういう意味ですか?」という英語が分からんから、訊けないんだ(笑)。だから、とにかく唄ってみてよ、あとはリズム感(笑)。ナイリーフォーリーエイト(1948年)の時分、16歳の時だからよ。とってもおもしろく遊んできましたよ、ワシは(笑)。

 唄には相当助けられてきたからね。だから、唄は、この世の中の宝であると。うまんちゅ、御万人の宝。今度の本(工工四)には、こんなような歌詞が相当な量書いてあるんだよ。これにまた、琴の工工四もあるから。それまでしたらもう、本当のあの世行きになっても・・・

--- (苦笑)いえいえいえ、『酔虎自在』が完成した時には、「85歳までにまた何枚かアルバムを作りたい」とおっしゃっていましたし、是非また素晴らしいアルバムを録音してくださいよ。

 ただよ、それは酒飲まないとやっぱり(笑)・・・ワシは酒飲んだら唄いやすいんだ。だけどよ、飲まなければ息切れはしないし、タバコの量も少なくなる。タバコが少なくなったら声も出るしね。今は、18、9ぐらいの声に戻ったんだよ。

--- 頼もしいお言葉ですね。琉球フェスティバルでのステージも楽しみにしております。今日は色々と楽しいお話をありがとうございました。

 本土には、(琉球フェスティバルで)今週末に行くからよ、また楽屋で楽しく話ししよう。

--- はい、楽しみにしております。




 唄と三味線の幕間にテンポ良く飛び出すお喋り。僕は、インタビュアーという立場を時々忘れ、サーターアンダギーをほうばりながら、2時間あまりの”登川誠仁独演会”を、傍らで贅沢にも独り占め。話が唄の事に及んだ時の熱っぽい語りに、「遊び」を知り尽くした腕白悪童のような笑顔。「芸事に妥協を許さない求道者」と「愉快なおじいちゃん」の顔とを交互に覗かせながら、「うたを唄う」、「うたを紡ぐ」とはどういうことなのか、それを教えていただいたような気がします。そして、誠仁さんをよく知る音楽評論家/プロデューサーの藤田正さん(Beats21)が以前に記述されていた「一般には老境であるその年齢にふさわしくない、”青春のかおり”が彼の周辺に漂う」という、その”かおり”を大いに感じることもできました。まだまだお訊きしたいことは山ほどあったのですが、これは、次にまた沖縄でお会いした時までにとっておこうと思っています。誠仁さん、また会いに来ますね。    
 


【取材協力:登川誠仁民謡研究所/RESPECT RECORD】



地方(じかた)・・・
 または地謡(じうてー)。沖縄の芝居、舞踊のための伴奏者/唄い手。登川誠仁、嘉手苅林昌ら歴史的シンガーの多くはこの世界で腕を磨いた。文楽(人形浄瑠璃)などと同じく、本来は舞台の踊り手らを主導する立場にある。 (▲戻る)

誠小さんの一日警察署長 一日警察署長・・・
 一日警察署長を務めた際、警察のおエラ方たちの前で、ハウス・ボーイ時代に米軍から資材を持ち出した時の話、上司の名刺を持ち歩き検問をパスした話、博打で負けて完成したばかりの家を1日で取られた話、自転車泥棒をした話などを堂々と披露したという。写真は、CD『登川誠仁 独演会』(ンナルフォンレコード)の裏ジャケットに掲載されているものから。(▲戻る)

「ペスト・パーキン・ママ」・・・
 登川誠仁が米軍のハウスボーイとして働いていた時に憶えたという逸曲。原曲は「Pistol Packin' Mama」だが、「耳で憶えた」曲だけにその英語は勿論「ハナモゲラ」風。1998年の『ハウリン・ウルフ』では、照屋林助とのデュエットで楽しくファンキーな歌唱を聴かせてくれる。(▲戻る)


profile

登川誠仁
(のぼりかわ・せいじん)

 1932年、兵庫県尼崎市に生まれ、本島・石川市東恩納(ひがしおんな)に育つ。少年時代から音楽〜芸能の才に長け、親に隠れながら歌や三線を独学した。16歳で当時の主要劇団の一つであった松劇団へ「地謡」(じうてー=伴奏者&シンガー)の見習いとして加わり、その後、珊瑚座などの人気劇団で修業に励んだ。この時の先輩に嘉手苅林昌(かでかる・りんしょう/1920〜99年)がいる。1957年、小浜守栄、喜納昌永らと共に琉球民謡協会を設立する。  同年、神童と謳われた12歳の少年、知名定男が、登川に弟子入りする。1970年、声楽譜付の楽譜=工工四(くんくんしー)である『民謡端節舞踊曲工工四』を発表する。いわゆる民謡界で、声楽譜まで付けた楽譜集はこれが最初である。1975年、本土に沖縄音楽を紹介した竹中労によって、登川誠仁は『美(ちゅ)ら弾き』(ビクター)などが録音される。1998年、琉球民謡協会名誉会長となる。1999年、彼が準主役として登場した映画『ナビィの恋』が、沖縄映画史上ダントツの人気をさらったのも、中江裕司監督が、登川誠仁のフトコロの深さ、味わいを、まずは映画の中核に置こうと決めた狙いの正確さに負うことが大きいはずである。2002年には、映画『ホテル・ハイビスカス』に出演。そのユニークなキャラクターがより注目を集める。同年出版されたオフィシャル自伝『オキナワをうたう』は第23回沖縄タイムス出版文化賞を受賞。2004年には弟子の知名定男と大阪ドームで共演(琉球フェスティバルに於いて)する。2008年 オリジナル・ソロ・アルバムとして約6年振りの作品『酔虎自在』をリリース。