登川誠仁 インタビュー

2009年10月20日 (火)

interview
登川誠仁


 9月、沖縄。本島の台風シーズンという懸念を一掃し、午前中から痛いほどの日差しが照り付ける那覇空港に降り立つ。リスペクト・レコード、高橋さんのご仲介・ご配意により、登川誠仁さんのコザ(現・沖縄市)にあるご自宅での取材が、念願叶って急遽実現した。1999年、映画『ナビィの恋』(中江祐司監督)の快演で一躍”時のヒト”となった誠仁さんは、沖縄民謡界だけでなく、戦後から現在に至る全ての沖縄芸能を代表する存在として本土で注目を集めたことはご存知のところ。その後の『スピリチュアル・ユニティ』、『スタンド』、『登川誠仁 / 知名定男』、『酔虎自在』といったアルバムでも、銀幕での演技同様、技巧を超越した「人間・登川誠仁」にたっぷりとしみ込んだ味わい深さと、軽快でとぼけたユーモア・センス(遊び)とのユニゾンに多くの人々が魅了されてきた。かくゆう僕もそのひとり。

 沿道に茂る青々とした緑葉に目を奪われながら、330号線をレンタカーで飛ばし、誠仁さんのご長男でありマネージメントも務めている仁志(ひとし)さんとの待ち合わせ場所、コザ十字路へ、いざ。

 「誠小(せいぐゎ)さん、今はお酒をやめているようですので、オロナミンCをお土産に持って行かれると喜ばれるかもしれませんよ」と高橋さんから事前に助言をいただいたことを思い出し、向かい途、サンエー(県内最大級チェーンのスーパー・マーケット)でオロナミンC、そして、誠仁さんが長年愛飲している沖縄タバコ、バイオレットを2カートンほど調達。やおら運転席でバイオレットに火を点けるも、あまりのクセの強さ(タール17r!)に軽く咽こんでみる。そんなウチナーからの洗礼(?)に慄きながら、車は目的地である沖縄市照屋の交差点に差し掛かる。待つこと10分、大型スクーターで現れた仁志さんが車を先導。しばらくして、県立美里高校近くの住宅街に入り込むと、「最近引っ越したばかりなんですよ」という登川邸に到着した。   

 三線や数々の表彰状が飾られ並ぶ応接間で、「親父、お風呂に入っているようですから、少しお待ちくださいね(笑)」との仁志さんの言葉に緊張を解されつつ、冷たいさんぴん茶を一口。仁志さんとのしばしの談笑の後、鮮やかな青のかりゆしウェアと湯上りの風情に身を包んだ誠仁さんが、奥の間からゆっくりとこちらへやってきた。


インタビュー/構成:小浜文晶




--- 本日は宜しくお願い致します。こちら少ないのですが、お土産のバイオレット(沖縄のタバコ)とオロナミンCです。

 にふぇ〜で〜びる〜(ありがとうございます)。バイオレットがまたいらっしゃった(笑)。

--- (笑)今は、タバコは1日にどれぐらい吸われているんですか?

 前は、1日に3箱だったのが、今は3日に1箱。タバコというのはお客さんに合わせて吸うんだよ。

--- ご引越しされたばかりだそうで、お疲れのところを本当にすいません。

 いいよ、いいよ。訊きたいことがあったら、返事ぐれぇはするから(笑)。今の家は、引越してじきだからね。あちこち便利なように直さんと。隣が美里高校の野球場だから、ごみやほこりがすごいんだ。沖縄の方言で「がじゃん」もいっぱいいて。

--- 「がじゃん」?

 蚊よ。英語では「むし」と言うのよ(笑)。

--- (笑)「モスキート」ってやつですね。

 そう、「モスキート」。

 ワシは沖縄イチの日本語の下手な人間だからさ(笑)。しょっちゅう笑われてよ。だけど、本土に公演とかで行くでしょ。ワシのこのお喋りがよ、「面白い」って言う人もいるのよ。標準語では何と言ってるか、自分でも分からない言葉を喋ってしまう場合もあるんだけど(笑)。今はもう日本語もくずれているでしょ?

--- 今の沖縄の若い人たちは、ほとんど「うちなーぐち(沖縄の方言)」は理解できないのですか?

 沖縄の方言はあまりしない。学生なんかは戦前から「標準語でいこう」と、方言を使ったら(罰則の)札を貼られるわけ(方言札)。ワシたちの国民学校の時代にはあまりなかったんだけど・・・訊きたいことは、大体は唄の事とか?

--- 唄の事も勿論なんですが、その他にも色々と・・・

 あぁ、あれこれと?

--- (笑)そうですね、あれこれと。普段どういった生活をされているのかなとか。

 (笑)いやぁ、ワシはもう・・・生まれてじきから、朝ごはん、昼ごはん、夕飯って、時間どおりに食べたことはいっぺんもないんだよ。お昼が夕飯になったり。今日は・・・あれ?今日食べたかな(笑)?

 ワシは仕事が多いもんで、ウグイスとかめじろの世話をして・・・野鳥の会の人に見られたら罰金だけど(笑)。罰金がきたら、「罰金があるんですか?じゃあ放してしまえ」って放して、でも夕方になると帰ってくるんだ。

 (長男の登川仁志さん)沖縄では、めじろを飼うのは、一家庭に一羽って決められてるんですよ。

 前は二羽だったよ、めじろは。ウグイスも同じじゃないかな。ウグイスは飼うのが難しいのよ。ワシなんかは、戦前の子供の頃から飼っているもんだから慣れてるけど。一週間ぐらいしたらすぐ死んでしまうよって。イモとトマト、餌がそれだけしかないもんだから。ウグイスは冬になったら垣根なんかにうずくまって、ちっちゃいミミズなんかよく食べるんだよ。

--- ウグイスやめじろの世話で一日が始まるんですね。お弟子さんのお稽古は午前中に行なうんですか?

 今はあまり稽古はしてないもんだからね。沖縄には孫弟子が多くて、自分と同じ技ができるような内弟子が教えてる。唄というのは技人といってね。本土でも、唄い手と作曲家と作詞家ってあるでしょ?沖縄では、作詞家も作曲家もないのよ。唄う人がすぐ作ってしまって、曲も歌詞も。ワシが作る唄なんかは、弟子が急にはできないよ。昔風で曲を作ってしまって、昔の言葉があるし、こぶしの入れ方が難しいから。

 普通の唄は大体できても、ワシの唄をできる人はいないと思う。ワシは「冗談うた」が好きで、またお客さんもこれを喜ぶんだ。お喋りが入って。でも、ワシよりちょっと下の70歳ぐらいまでの人には、なかなか分からないよ。ワシも7つ8つから、年寄り連中としか付き合いしてないから。


登川誠仁


 「もーあしび(毛遊び)」と言って、青年たちは小高い丘の芝生の上で夜遊ぶんだ。昼は畑仕事をして夕方帰ってきて、夕飯を食べてまた裸足で丘に出て行く。屋敷の門のところで「ひゅ〜ひゅ〜」って口笛で(仲間に)「行こう、行こう」って誘って。でも、夜だからあんまり長らくは遊べない。朝は5時頃から起きて、牛や馬の餌の草取りとかするから。この「もーあしび」があるところは、大体百姓の家。皇族の家にこんなのはないよ。だから、那覇とか町の人に「もーあしび」と言ってもあんまり分からないんだ。

 タバコを吸い始めたのが9つであって、もう11ぐらいには本物になって(笑)。

--- 吸い始めは、どんなタバコを吸っていたんですか?

 巻きタバコよ。一応、店にいったら「あさひ」だとか「みどり」だとか名前の付いた刻みタバコはあるわけよ。それをキセルに入れて吸うんだけど。

--- 9歳ですでにキセルですか? (笑)

 だから、キセルとか持って歩いてたら変でしょ?先輩たちに見つかったらコロされるからね。模範青年みたいな先輩にこんなの見られたらよ、すぐコロされる(笑)。

--- (笑)お酒の方は?

 10、11からお酒だね。御祝い座に出るようになってからしか酒は飲んでなかったよ。タバコはちょいちょい吸ってたけど。その御祝い座に行って、カチャーシーをやるんだ。上手かったから。その時は、歌詞を1つしか覚えてないわけ。その歌詞だけしょっちゅう唄うもんだから、おばぁたちが「いつもこれだ。」って言うわけね(笑)。年寄り連中は、カチャーシーができても長い時間は弾けないわけよ。腕がだるくなるから。ワシは若い時分だから夜通しでも弾くでしょ。だから、「アンタはどんどん弾いて、歌詞はワタシたちが付けて唄うから」って、おばぁたちも「♪かりゆし〜ぬ〜あ〜し〜び〜」(安波節)って全部唄うわけよ(笑)。

--- タバコを吸って痰がひっかかると、それを泡盛で流すという。

 タバコを吸いすぎるとね、煙で喉がカサカサする。だから、泡盛でそれを流して滑らかにするわけ。今、酒は徹底的にやってないから、タバコ吸ったら必ず、あいすわら(アイスウォーター)とかジュースとかを飲んでから出るんだ。・・・でも、これ(タバコ)はやめられないんだよ。

--- 僕もかなり吸う方なので、そのお気持ちはよく分かりますよ。

 こないだ、ちょっと病院行ってて退院する時に、先生に言ったのよ。「ちょっとぐらいタバコ吸っていいですかね?」って(笑)。お医者さんが「いいよ」とか何とか言えないでしょ?向こうにしたら毒だから。そうしたら、「家族に相談してみなさい」ってよ、笑ってた(笑)。

--- 3日に1箱だったらと、ご家族の方からOKが出たわけですね。

 血圧の高い人だとかは、タバコはすぐ止められるからね。ワシはどんなに酒を飲んでも、血圧だけは安定してるから。ワシが血圧高かったら、今まで生きていないよ。こんなに酒飲んだ人はいないからね。自慢ではないが、昔は朝起きたらすぐやるから。お客さんがいらしてもすぐ酒を出す。うちのカアちゃん(奥さん)が、お客さんにはお茶を出して、ワシには何も出さないわけよ。冷蔵庫から酒とコップを自分で出してきて飲むのを知ってるもんだから。このクセが付いてしまったから、今お茶が出てないときがあると、「あら、お茶だったわね」って(笑)。

--- お酒は泡盛ですよね? ビールや洋酒などはほとんど飲まなかったんですか?

 全然飲まないというよりは・・・御祝い座は、泡盛が出ないで若い連中がビールばかり飲むパーティーもあって。そんなところに行ったらこっちは、唄も忘れるぐらい面白くなくなるよ(笑)。でも、ビールでもアルコールだから、とりあえず飲んでしまう(笑)。

--- お酒をやめられる前のレコードの録音は、常に飲まれてやっていたそうですね。

 一晩に32曲入れた時があるよ。1曲、2曲ができない人もいるんだけれども。三号瓶で酒を持ってきて横に置いて、夕方の7時から11時まで酒を飲みながらよ。ラジオ沖縄のステージを借りて、マルフク(丸福)レコードに録音したんだよ。32曲も入れたから、そこのオヤジが「こんなの初めてだ」って喜んでよ。「どんどん飲んでください」って言ってたよ(笑)。

 沖縄では、舞踊曲なんかは、1曲のものもあるけど、大体3曲か4曲で“ひとくさり”(1セット)でね。舞台に出てくるための曲、中の曲、速いのに切り替えして踊って帰る曲とで、大体“ひとくさり”。こんなのも入れて32曲。「高平良萬才(たかでーらまんざい)」とか。親の敵を討ちに行く唄があるんだけどね。「口説(くどぅち)」から始まって、「万歳かふす」、「うふんしゃり」、「さいんする」って、4曲。あんなにできないよ、今だったら。ワシが34、5ぐらいだからね。酒を飲みながらでしょ。飲まんと唄えない、あんなたくさんは(笑)。忘れてしまう。だから、毎晩酒を飲みながら唄って、稽古もするんだよ。


登川誠仁


--- お稽古の時にもしっかりと飲んで・・・

 酒を飲むと、口が(滑らかに)動くから。酒をやめると、今まで通っていた口が、ちょっと方向変換してしまうのよ(笑)。

--- 昨年出た『酔虎自在』の録音は、完全に禁酒して挑んだそうですが・・・

 ・・・そんなことあったかね?いや、これは、「飲まんでやったのもある」ということ。ワシが飲まんでやったというのは、病気だったからだ。病気以外は飲んでいるよ。ワシは、いつ頃何を吹き込んだかは、あまり憶えてないんだよ。飲みながらやったのもあるしね。こんな唄もあったのかと、自分のテープやCDを聴いてから思い出すわけ(笑)。

 まだやってない唄がたくさんあるんだよ。ワシの先生から習った歌詞や文句なんかがたくさんある。だから今度は、琴も入れたりしてね。ワシは琴もちょっとぐらいできるからね。弦楽は大体できる。ギターでも自己流だから。

--- ギターも弾かれるんですか?

 全部自己流(笑)。終戦直後にワシの友達が、歌謡曲専門の歌い手で沖縄代表として本土に行くってね。いっぺんもラジオなんかでかかったことはなかったけどよ(笑)。これの兄貴がギターが上手だった。だけども、「こんなのは三味線ができればすぐ弾けますよ」ってワシは言ったからね。ワシは、「湯の町エレジー」なんかは、ギターより三味線の方がいいんだ。その時分は、「酒は涙か溜息か」とか「旅笠道中」とか。今、歌謡曲はたくさん出てるでしょ。

 ワシが恐いのは、「(この先)沖縄の民謡どうなるかね?」ってこと。これは考えてみるね。ワシの先輩の嘉手苅林昌(かでかる・りんしょう)って、あの人も亡くなったでしょ?ワシより先輩で、今も唄をやってる人はいるが、ほとんど名もない人たちだから、沖縄の民謡を残しきれないんだよ。一応、ちょっとぐらいは名もないとね。

--- 前のご自宅は、嘉手苅さんのお宅とご近所だったそうで。

 そうそう。室川っていうところ。昔、嘉手苅とは酒を相当飲んだね。夜、唄の話をやりながら、一升瓶を「もう1本開けるか」とか言いながらよ(笑)。



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毛遊び(もーあしび)・・・
 農作業が終ったあとの夕刻から深夜にかけて、、村はずれの野原(毛)などで男女が集まり、唄、舞踊、三線の演奏などを競いあった。若い男女の恋の花咲く場であり、普久原朝喜ら現代大衆歌謡の土台をなした多くの人々を育てた重要な場でもあった。(▲戻る)

カチャーシー・・・
 祭りや結婚式など祝い事の終演などに、参加者全員で喜びを分かち合いながら踊る賑やかで自由なダンスやその歌。両手を頭上に掲げて左右に振り、足も踏み鳴らす踊りは、「アッチャメー小」を使用した映画『ナビィの恋』のラスト・シーンでも特に有名だろう。「かき混ぜる」という意味から転じている。沖縄の手踊り、または三線の早弾きの曲も同意。(▲戻る)

マルフク(丸福)レコード・・・
 普久原朝喜が大阪で設立した独立系レコード会社。1927年の創立から現在まで営業を続ける名門。創立当初から新作を手がけ沖縄音楽に新風を吹き込む。戦後、朝喜の息子である恒勇により本拠を沖縄のコザ市(現・沖縄市)へ移す。62年、親戚の普久原朝幸が併行して「丸福」を開始。以後、マルフク、丸福ともに現在に至るまで膨大なレコーディングを行なっている。(▲戻る)

高平良萬才(たかでーらまんざい)・・・
 琉球の国劇とされる組踊「万才敵討ち」の中から兄・謝名の子と弟・慶雲の舞踊として独立させた二才踊(にせーうどぃ)。玉城盛重(たまぐすく・せいじゅう)の名作。闇討ちにされた父のために、兄弟が京太郎に化けて仇を討つというストーリー。(▲戻る)

口説(くどぅち)・・・
 一般の琉歌のスタイルとは異なり、七五調の歌詞からなる歌。18世紀頃に本土から沖縄へ流入したとされる。(▲戻る)

嘉手苅林昌 嘉手苅林昌(かでかる・りんしょう)・・・
 1920年沖縄本島中部越来村(現嘉手納基地内)に生まれ。戦後の沖縄を代表する沖縄民謡の唄い手。戦後、沖縄に復興の兆しが見えた頃、本腰を入れて劇団の地謡として島々を唄い歩く。以降、常に琉球民謡界の最高峰として国内外で精力的に活動。琉球民謡協会名誉会長を務め、1994年、沖縄県功労者賞文化部門受賞。1997年、地域文化功労者賞受賞。1999年、琉球民謡協会より民謡名人の称号を受ける。生涯でアルバム約30枚、シングル約100枚を録音し、常に他の追随を許さない第一人者として君臨した。1999年没。 (▲戻る)








profile

登川誠仁
(のぼりかわ・せいじん)

 1932年、兵庫県尼崎市に生まれ、本島・石川市東恩納(ひがしおんな)に育つ。少年時代から音楽〜芸能の才に長け、親に隠れながら歌や三線を独学した。16歳で当時の主要劇団の一つであった松劇団へ「地謡」(じうてー=伴奏者&シンガー)の見習いとして加わり、その後、珊瑚座などの人気劇団で修業に励んだ。この時の先輩に嘉手苅林昌(かでかる・りんしょう/1920〜99年)がいる。1957年、小浜守栄、喜納昌永らと共に琉球民謡協会を設立する。  同年、神童と謳われた12歳の少年、知名定男が、登川に弟子入りする。1970年、声楽譜付の楽譜=工工四(くんくんしー)である『民謡端節舞踊曲工工四』を発表する。いわゆる民謡界で、声楽譜まで付けた楽譜集はこれが最初である。1975年、本土に沖縄音楽を紹介した竹中労によって、登川誠仁は『美(ちゅ)ら弾き』(ビクター)などが録音される。1998年、琉球民謡協会名誉会長となる。1999年、彼が準主役として登場した映画『ナビィの恋』が、沖縄映画史上ダントツの人気をさらったのも、中江裕司監督が、登川誠仁のフトコロの深さ、味わいを、まずは映画の中核に置こうと決めた狙いの正確さに負うことが大きいはずである。2002年には、映画『ホテル・ハイビスカス』に出演。そのユニークなキャラクターがより注目を集める。同年出版されたオフィシャル自伝『オキナワをうたう』は第23回沖縄タイムス出版文化賞を受賞。2004年には弟子の知名定男と大阪ドームで共演(琉球フェスティバルに於いて)する。2008年 オリジナル・ソロ・アルバムとして約6年振りの作品『酔虎自在』をリリース。