登川誠仁 インタビュー【2】
Tuesday, October 20th 2009

昔、竹中労っていう人がこんなことを言っていて、「ワシは沖縄が好きだから、もし死んだ場合には、遺灰を海に投げ捨ててくれ」って。追悼式(1991年没)は本土でワシたちがやったんだよ。沖縄の民謡の人たちみんなが敬ってた人だから、あの人に世話になった人たちが本土に行ってね、追悼公演をやったわけ。
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--- 登川さんの『
美 ら弾 き』(1975年)は、竹中労さんのプロデュースで、東京のビクターのスタジオで録音したものですよね。 大城美佐子、知名定男、知名定繁とかみんな一緒に本土に行ったよ。その時分、沖縄には、三味線の“美ら弾き”という言葉はなかったんだ。「よーはんちっさー」(よく弾くね)とかはあったけど、「美ら弾きぐゎすっさー」(美ら弾きすごい!)とかはあんまり流行らなかったんだ。「誠小(せいぐゎ/登川さんの愛称)という人は、沖縄の本当の三線の美ら弾ちさーである」って、竹中労さんが、ワシの名前を広めたんだ。あの人は沖縄の民謡の本当のファンだったんだよ。
追悼式の時、「今度ばかりは竹中労さんの追悼公演だから、酒は持たないようにしよう!」って、定繁さんも嘉手苅さんも言ってたのに・・・ヒヒヒヒ・・・ワシはスーツケースに入れてるわけ(笑)。楽屋裏で隠れてちょこちょこ飲んでたら、「あんた、あっち向かって何していた?」って(笑)。酒のにおいは分かるでしょ?定繁さんも嘉手苅さんも「ワシにもちょっと」って。ワシの三号瓶2本が空になったと思ったらよ、定繁さんが一升瓶持ってる(笑)。みんな酔っ払ってしまったよ(笑)。
酒飲む人は、大体早く死んでしまう。喜屋武繁雄(きゃん・しげお)って北谷の砂辺の人がいて、この人も早死にしてしまって。ワシより3つぐらい上だったかね。ワシは、アーリー・タイムズとかラベルが貼ってある酒瓶を持っていかれんでしょ、楽屋で見られたら大変だから。全部集めてから薬局に行って、グロモントとかの栄養ドリンクの中身と全部すり替えてよ(笑)。三味線箱にたくさん入れたんだ。この人もよく飲むから、「誠仁、“グロモント・ウィスキー”はないか?」って言うと(笑)、「はいはい」って三味線箱開けてよく渡してたんだよ(笑)。あの人が“グロモント・ウィスキー”って名前付けたんだ(笑)。- --- (笑)登川さんは、そうしてお酒を飲んだり女の人と遊んだりと、「たくさん遊ばないと民謡は唄えない」とよく言われてますよね。
味がね。だけども、よく唄い手や芸人が二号さんを作ったりするでしょ?そんなのは、ワシは好きじゃない。遊ぶのは好き、お金出してね(笑)。何の関わりもなくなるから。それっきり。
- --- 後腐れなしと。
そう、後腐れなし。民謡とか舞踊とか、芝居しい(役者)とか、こういう人たちはたくさん子供がいるでしょ?色んなところに。ワシはそんなのはやらん。これだけは、ワシは真面目だ。遊ぶのは、ちゃんと商売人もいるでしょ。沖縄でも昔から辻ってあるでしょ。花の島って。花というのは大体、女のことを言ってるから。商売人というのは、酒飲むところに付きものだからよ。
- --- 登川さんからご覧になって、今のお弟子さんたちの中には、遊びに精を出している方もいらっしゃいますか?
いないとも限らんけど・・・初めは、男女で唄のコンビだったりするのが、そのうち“上下全部コンビ”になってしまってよ(笑)。すぐ離婚したりするのもいるよ。そんなのが多い人は、男でも女でも唄は上手になっていくんだ。情けの通わしとか。これは本当だ。断言できる。
ただ師匠に唄だけ習って、上手になりきれる人間というのはそういない。男、女の味わいを知っていないと、本当の唄じゃない。唄の上手な人は、必ず子供を持っているということを忘れないでくださいよ(笑)。唄というのは、本に書かれるものじゃないんだ。何かの味わいがないとね。ワシは、工工四(くんくんしー)という本も作ってるがね。- --- 工工四というのは、楽譜ですよね。
今度の一冊は、ワシの先生から習った昔からの歌詞を載せようと思って。「誠小よ、この歌詞は、ナークニーとかカイサーレーなんかに乗せたら面白いと思うよ」とか、「これに乗せてもこれに乗せてもできる、だがこの曲に乗せたらもっと上等になると思う」って、そんな歌詞がたくさん残ってるわけ。自分の曲は自分でしょっちゅう作るでしょ。1日1曲。沖縄の唄というのは、1曲に対して大体4つぐらい歌詞を作らんといけないわけ。
琴も自分が作った曲は、古典音楽でなければ琴で楽譜を書いてもいいんだ。古典音楽はちゃんと本にあるから、あれを真似てはいけない。盗作になるから。だから普通、端節(ふぁぶし)の曲なんかはいいのよ。それを沖縄の方言と、あんたたちヤマトンチュ(本土の人)でも分かるような仮名使いとで半分ずつで書かないといけないから。歌詞は漢文で書いて。沖縄の方言でね。方言と言っても、沖縄の場合、言葉の読み方と歌詠みとは違うんだ。- --- 9月に本土の日比谷野音で行われる(*註1)琉球フェスティバルには、この琴も持っていかれるんですか?
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(*註1)2009年琉球フェスティバルは9月20日に開催されました。
この取材は9月10日に行われたものです。 いやいや、持っていかん。邪魔だよ。ワシは自分より大きいものはあまり使いたくないのよ(笑)。終戦直後、大型タクシーと小型タクシーってあったわけ。昔、その小型タクシーに入るぐらいに、(琴の胴の部分を)切って短くしたんだよ。だけど、音に伸びがないもんだからよ。酒飲んでた時に、弟子にくれてしまった憶えがある(笑)。こんなのはいくらでも自分で直せるからね。
「ワタブーショー」って分かる?亡くなった照屋林助の。- --- はい、知っています。
あの人は、エレキ・ギターとか何かを自分で作るのが手馴れたもんだったよ。だがよ、仕事するのはあまり好きじゃなかったんだ(笑)。遊ぶのが好きだったんだ。ワシがハワイに29の時分に行く時、四味線(よみせん)を作ってくれってお願いしたら、フレットもちゃんと入れて、スーツケースにも入るような小っちゃいのを作ってくれたんだよ。四味線は、三味線より低音がもう一段低く出せるんだ。工工四に「○」が付いてる、弾かないで待っておく“待ち拍子”で、あと一段下がることができるんだ。
ワシは学校行ってないもんだから、しょっちゅう人に「あんたは三味線だけよ。学校も行かんで後々どうなるかね」とか何とか言われてよ。だから、人に笑われた分、一応自分の名だけは立てておこうとね。ワシの先生の板良敷朝賢(いたらしき・ちょうけん)は武士でもあるしよ。外人みたいに大きな人だったの。昔は、三味線弾く人には武士が多かった。でまた、これとかね(と小指を立てる)、辻の(笑)。琉球時代、沖縄は薩摩に戦で負けた時分にね、板良敷朝賢の親父だとかは、武士でもあり学問もよくできた人だったから、沖縄から薩摩に上納しに行く場合にも、王の遣いでこの人が行きよった。
沖縄には、「上り口説(ぬぶいくどぅち)」ってある。その時分は、ポンポン船みたいのもないし、ヤンバル船とかホタテ船だから。台風にあったりして帰ってこない人もいるんだよ、死んでしまうから。だから、「旅の出で立ち観音堂」って、無事に帰ってこれるように、親や子供やおばぁなんかが拝んでね。港から出て行く場合にも、見えなくなるまで手振って。だから、「上り口説(ぬぶいくどぅち)」の場合には、三味線も舞踊もちょっとゆったりなんだ。名残惜しいから。「♪テ〜ンテ〜ン、ト〜ンテン」って。- --- 後ろ髪を引かれる感じなんですね。
そう。でまた、「下り口説(くだいくどぅち)」というのがあるんだ。薩摩から無事に務めが終わって帰る場合には、この「下り口説」。これは、舞踊でもちょっと速めにやるんだ。「仕事が終わって、親兄弟、妻子にまた会えるから」って急いで帰るような感じでね。
唄は、意味も分からんで唄った場合には、舞踊も崩れていってしまうしね(笑)。「高平良萬才口説(たかでーらまんざいくどぅち)」ってのがある。これはまた、親の敵を討ちに行くから、編み笠なんかも被って勢いよく行くんだけども、それをダラダラしてよ(笑)、弾くヤツがいるんだよ。稽古の場合と同じように。そんな時ワシは、「親の敵を討ちに行く人間は、もうちょっと威勢よくしないと、アンタは返り討ちにされてくるぞ」ってよく言いよったんだ(笑)。ワシもまたあの気持ちになってしまうわけ。だから、唄は本に書けるものじゃないって。三味線はどこをおさえて、どう弾くとか、これは教えられても、唄の意味が分からないと本当の気持ちが出てこないんだ。
「てぃんさぐぬ花」って分かる?子どもたちがよく学校で「♪てぃんさ〜ぐぬ〜花や〜、爪先(ちみざち)に〜染(す)みてぃ〜」って唄ってる。- --- 「てぃんさぐ」は、ホウセンカのことですよね。
昔は、爪染めに使ってて、あの花を採ってきて爪先でこすったら光るわけよ。「てぃんさぐの花は、爪の先に染めるもの、親のゆしごと(教え)は、心に染めるもの」とよく言ったんだ。年寄り連中には「まあみな節」も有名。「まあみな」は「もやし」のことね。何で「まあみな」なのか、ワシは初め分からんでよ。昔、古典舞踊の役者の真境名由康(まじきな・ゆうこう)先生に「まあみな節ってどういう意味なんですか?」って訊いたら、「まあみなというのは、桶に入れて蓋してもすくすく育つから、自分の子どもが伸び伸び育つようにという意味で<まあみな節>と言うんだ」って教えてくれて。唄は意味が分かったら面白いよ。
ワシは今、酒飲まなくなったから、夜中まで歌詞を作ってるよ。1つ書き始めたら、徹底的に書かないと眠れない人間だから。カアちゃんが、「まだ起きてるの!?」って3時頃に(笑)。このバチはね、ウチの長男(登川仁志さん)が作ったんだ。水牛の角でできている。水牛じゃない場合には、雌の牛よ。雄の角は、先のところまで油が入ってるから使えないんだ。雌は、乳牛がいるでしょ。乳牛は角が長くなったら牧場で喧嘩やるからよ、角を切る季節があるわけ。牧場にワシの友達が働いていたから、全部もらって(笑)。アレは相当なもんよ、三味線屋に持っていったら。でも自分で作った方が格好も付くし。「カチャーシーみたいな早弾きには、どういう風に作ったら弾きやすいか?」というところから考えて作ってるからね。三味線弾けない人が作っても、やっぱり綺麗には作れないよ。
太鼓のバチでも、あと1寸5分ぐらい長くしないと打てないと思って直したから、普通より重いけど上等なもんだよ。舞台なんかで、「太鼓のバチ忘れたから貸してください」って言われてワシのを貸すと大変な事になるよ(笑)。素人がこれでボンボン叩いたら太鼓の皮が破けてしまうからね(笑)。三板(さんば)というのもワシが沖縄中で流行らせたんだがよ、あれもあと1センチぐらいは長くしようと思うんだ。
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- 酔虎自在
- 2008年発売
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- イッツ・オンリー・セイ小 -ベスト
- 2007年発売
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- 登川誠仁 / 知名定男
- 2004年発売
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- スタンド
- 2002年発売
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- スピリチュアル・ユニティ
- 2001年発売
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- ハウリング・ウルフ
- 1998年発売
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- 美ら弾き
- 1975年オリジナル発売
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- NHK 島唄の世界 沖縄本島
- 2001年発売
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- ナビィの恋
- 1999年劇場公開
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- ホテル・ハイビスカス
- 2002年劇場公開
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- 忠孝の歌
- 2003年発売
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- じいちゃんばあちゃん
- 2002年発売
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- 緑の沖縄(w/ ソウル・フラワー・ユニオン)
- 1992年発売
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竹中労(たけなか・ろう)・・・
ルポライター、プロデューサー。東京都出身。政治から芸能まで幅広い分野をテーマとして、権威とは無縁な時代の心性を掘り起こす文章は「竹中節」として多くの読者の支持を得た。1969年にはじめて沖縄へ渡り、琉球独立党を支援。多くの沖縄民謡のミュージシャンたちと交流し、イベントの構成等も行なった。父親は画家の竹中英太郎。1991年没。(▲戻る)
大城美佐子(おおしろ・みさこ)・・・
名護市辺野古育ち。知名定男の父、知名定繁に弟子入りして民謡の道に進む。1962年に「片思い」でデビュー。その伸びやかな高音が「絹糸の声」と評され大ヒットとなる。故・嘉手苅林昌との名コンビとしても活躍し、数々の伝説的ライブ、レコーディングを残す。2007年に芸能生活50周年を迎えるもなお、変わらず多方面での活動を続けている。(▲戻る)
知名定男(ちな・さだお)・・・
10代前半で登川誠仁に弟子入り。12歳でデビューを果たし、”天才少年”として一躍脚光を浴びた。1972年にリリースした「うんじゅが情どぅ頼まりる」が沖縄で空前の大ヒットを記録。レゲエやロックなどの要素を積極的に取り入れた楽曲は海外からの評価も高い。ネーネーズの育ての親としても知られる、喜納昌吉らと並ぶ沖縄音楽シーンのリーダー的存在。父は知名定繁。(▲戻る)
知名定繁(ちな・ていはん)・・・
知名定男の父。少年時代から古典沖縄音楽に親しむ。18歳から20数年間暮らした大阪では、芝居に音楽にと活躍し、関西における沖縄音楽の中心的人物の一人となる。マルフク・レコードから「具志川小唄」でデビュー。大阪から帰郷した後の60年代民謡ブームを牽引する重要人物として活躍した。1993年没。(▲戻る)
喜屋武繁雄(きゃん・しげお)・・・
北谷出身の戦後の琉球民謡を支えてきた作詞・作曲家。代表作「砂辺の浜」は、戦後の創作民謡に金字塔を打ち立てた作品。1989年には、知名定繁、津波恒徳らと興した琉球民謡保存会の初代会長も務めていた。1993年没。
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辻(つじ)・・・
那覇の公娼地域の一つ。辻遊郭は女性たちによって運営される独特の仕来りを持ち、明治期にはその傍に人気芝居小屋が建つなど、沖縄芸能、料理ほかの洗練をなした一大拠点でもあった。(▲戻る)
工工四(くんくんしー)・・・
沖縄独自の楽譜。本来は琉球古典音楽のために作られたもの。琉球音楽の大改革者、屋嘉比朝寄(やかび・ちょうき)によって中国の楽譜に倣って創作され、書き流し工六四(くるるんしー)ともよばれた。(▲戻る)
ナークニー/カイサーレー・・・
「ナークニー」は、「もーあしび」で培われた即興歌。「宮古島にルーツを持つ歌」という意味だと言われ、沖縄本島の伝統的大衆歌謡の中で最後の到達点、つまりは、この「ナークニー」がきっちり唄えて初めて一人前の唄い手として認められる。独自のスタイルを作り出した人には「富原(とぅんばる)ナークニー」など個人名をつける場合もあった。「カイサーレー」も同じく「もーあしび」での即興歌。(▲戻る)
端節(ふぁぶし)・・・
琉球古典音楽の楽曲のうち、昔節や大昔節といった重厚なものに対し、古典的な曲想の心浮き立つ曲の総称。(▲戻る)
照屋林助(てるや・りんすけ)・・・
戦後沖縄芸能における最大のスター。野村流の名人として知られた照屋林山に古典音楽を学び、大衆芸能は小那覇舞天(おなは・ぶーてん)に師事。1957年、ボードビル集団「ワタブーショー」を旗揚げし、爆発的な人気を呼ぶ。1990年、コザ独立国終身大統領に就任。歌謡、洋楽等を盛り込んだ含蓄の深い漫談は、ウチナー・ポップの祖ともいうべきもので、息子の照屋林賢(りんけんバンド)、玉城満(笑築過激団)ら現在の若手・中堅タレントの多くが彼の影響下にある。2005年没。
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上り口説(ぬぶいくどぅち)/下り口説(くだいくどぅち)・・・
「上り口説」は、薩摩上納の際、首里の観音堂で航海の無事を願い、道中の風景を描写しつつ、港での別れ、開聞岳を見ながら薩摩の山川港に入港するまでの旅の模様を描いたもの。対する「下り口説」は、その帰りを祝福・歓待するものとして、琉球へ戻る船旅の様子を叙した歌詞で、喜びを押さえながらキビキビとした踊りを見せる。(▲戻る)
板良敷朝賢(いたらしき・ちょうけん)・・・
16歳の登川誠仁を琉球芝居の地謡(じかた)の世界に誘い入れ指導した、所謂師匠にあたる人物。(▲戻る)
真境名由康(まじきな・ゆうこう)・・・
戦後の沖縄芸能復興の中核的な役割を果たし、組踊と舞踊の継承発展に大きな功績を残した舞踊家。代表作に、歌劇「伊江島ハンドー小(いえじまはんどーぐわー)」などがある。(▲戻る)
三板(さんば)・・・
西洋のカスタネットに匹敵するすぐれた奏法と表現力をもった、沖縄民謡に欠かすことができない軽打楽器。左手の人差し指と中指を三枚の板の間に入れて、右手で叩くのが基本奏法。(▲戻る)

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登川誠仁
(のぼりかわ・せいじん)
1932年、兵庫県尼崎市に生まれ、本島・石川市東恩納(ひがしおんな)に育つ。少年時代から音楽〜芸能の才に長け、親に隠れながら歌や三線を独学した。16歳で当時の主要劇団の一つであった松劇団へ「地謡」(じうてー=伴奏者&シンガー)の見習いとして加わり、その後、珊瑚座などの人気劇団で修業に励んだ。この時の先輩に嘉手苅林昌(かでかる・りんしょう/1920〜99年)がいる。1957年、小浜守栄、喜納昌永らと共に琉球民謡協会を設立する。 同年、神童と謳われた12歳の少年、知名定男が、登川に弟子入りする。1970年、声楽譜付の楽譜=工工四(くんくんしー)である『民謡端節舞踊曲工工四』を発表する。いわゆる民謡界で、声楽譜まで付けた楽譜集はこれが最初である。1975年、本土に沖縄音楽を紹介した竹中労によって、登川誠仁は『美(ちゅ)ら弾き』(ビクター)などが録音される。1998年、琉球民謡協会名誉会長となる。1999年、彼が準主役として登場した映画『ナビィの恋』が、沖縄映画史上ダントツの人気をさらったのも、中江裕司監督が、登川誠仁のフトコロの深さ、味わいを、まずは映画の中核に置こうと決めた狙いの正確さに負うことが大きいはずである。2002年には、映画『ホテル・ハイビスカス』に出演。そのユニークなキャラクターがより注目を集める。同年出版されたオフィシャル自伝『オキナワをうたう』は第23回沖縄タイムス出版文化賞を受賞。2004年には弟子の知名定男と大阪ドームで共演(琉球フェスティバルに於いて)する。2008年 オリジナル・ソロ・アルバムとして約6年振りの作品『酔虎自在』をリリース。



