「ここまでやったか、史上最高にエロい《トリスタン》」

Friday, May 29th 2009

連載　許光俊の言いたい放題　第164回

「ここまでやったか、史上最高にエロい《トリスタン》」

　今週は２日続けてツィメルマン、ポリーニのリサイタルに行った。贅沢な話ではある。ポリーニの客は、昔から音大生が多いが、今回もそれに加えて、ふだんあまりコンサートには来ないと思われる女性（老若問わず）が目立った。席の位置がわからなくて、右往左往する人が少なからずいるのである。
　もったいない話だ。いろいろなピアニストが日本でリサイタルを開くが、そういう人たちは一部のブランド演奏家以外に興味を示さない。別にポリーニだけがすごいわけじゃない。たぶんポリーニを聴いて感動する人なら、エマールを聴いても満足できるだろうに。
　オーケストラでも、ウィーン・フィルとベルリン・フィルのコンサートにしか行かない人がいるそうだが、そうなるともったいないというより馬鹿馬鹿しい気もする。だって、本当にこの２つのオーケストラのよさがわかる人だったら、他のコンサートのよさだってわかるはずなのだから。

　ベルティーニがケルン放送交響楽団を指揮したＣＤが３枚出た。まだすべてを聴いてはいないものの「トリスタン」の前奏曲と「愛の死」は、近年稀な（というか、１９８８年だから近年の演奏でもないのだけれど）実にネットリ粘りつくような演奏だ。というより、いくら官能大作だからといって、ここまでベッタリやった例もほとんどないのではないかというくらいの怪気炎なのである。この指揮者は、マーラーの第５交響曲アダージェットや第９番のように、一度やると決めると拍節感を無視するほどにテンポを落としてオーケストラを波打たせるが、今回の「トリスタン」はその極端な例である。全体で２０分もかけ（もちろんきわめて遅い部類）、ネチネチ責めてくる。こういうのが好きな人にはたまらない。もちろん私は大好きである。
　冒頭から緊張感は異常に高い。すべての音や楽器の表現力を使い尽くさないと気が済まないと言わんばかりの貪欲さ、気迫が感じられる。オーケストラの集中力も高く、指揮者の要求にバッチリ応える。
　弦楽器の響きの作り方がうまい。厚みのある弦が、まさに波が打ち寄せるように動くのだ。微妙なテンポの揺れ動き、ヴィブラート、強弱、音の消え方、すべてが考え抜かれている。聴いているうちにこの音楽に吸い込まれ、自分もオーケストラの一員ではないかという気がしてくるほどだ。

　そして、８分過ぎからヴァイオリンの音がどんどんイヤらしくなっていく。高い音域など、まるで女のアエギ声ではないか！　しかも、やがて音楽が頂点を迎えても、テンポをまったく速くしないのがすごい。この不思議な効果を何と言えばいいのか。これまた実にエロくて、身がよじれる。カルロス・クライバー的な加速は、それはそれで必然性があってリアルなのだとは思うにしても、こっちのほうがよほど妖しい。
　その前奏曲からとてもいい感じで「愛の死」に続く。このつなぎの絶妙さ加減だけで嬉しくなってしまうが、「愛の死」がまたやさしい愛撫そのものといった、もう実に柔らかな、甘い匂いすら感じさせるような演奏なのである。背景のトレモロなども非常に繊細で美しい。
　ベルティーニはオペラハウスでも活躍した人だが、こんな調子で「トリスタン」全曲を演奏するのは絶対に不可能であり、コンサートならではの究極の密度の高さと言うしかないだろう。前奏曲と「愛の死」には無数の演奏があるけれど、ネットリ系のエロという点では、これに勝るものを聴いた記憶がない。
　この「トリスタン」だけでも買う価値がある（というより、これを買わないでどうする）。同じＣＤに入っているベートーヴェン交響曲第７番もまったく悪くないのだが、「トリスタン」のあとでは、何も言う気が起きない。

（きょみつとし　音楽評論家、慶応大学教授）　