「貧窮雑感」

2009年1月13日 (火)

連載 許光俊の言いたい放題 第157回

「貧窮雑感」

 2008年は世界的な不景気と騒がれた年だった。ますますひどくなる環境汚染といい、あたかも世の終わりがすぐそばまで来たかのような悲観的な雰囲気である。
 しかし、だ。今や日本国内で豊かさを享受しているわれわれは、とんでもない思い違いをしているのである。実はわれわれがこのような豊かな生活をしているのは、たかが40年程度でしかない。それ以前は、ちょっと想像もできないほど貧しかった。その貧しさを若い人々が知らないのは当然としても、老人たちでさえかつて普通だったことをすっかり忘れてしまったらしい。たぶんそれは思い出したくない過去であり、できれば抹消したいものなのだろう。
 私は昨年、ふと書店で手に取った紀田順一郎『東京の下層社会』(ちくま学芸文庫)と塩見鮮一郎『貧民の帝都』(文春新書)を読んで驚愕した。戦後の混乱期は当然としても、戦前の東京にはものすごく多くの貧窮者がいた。その生活のひどさは想像以上。ハッキリ言って、『ヴォツェック』よりはるかにひどい!というありさまだったのだ。たとえば、彼らはかろうじて残飯で食いつないでいた。残飯屋というのがあって、ご飯類、おかずなどをぐちゃぐちゃに混ぜたものを、重さで量り売りしていたというのだ。腐ったものを食べるのも普通だった。私が務めている大学の近くも貧民街だったが、というのも学校から出される残飯を当てにして人々が集まってきたからである。確かに、「おじいちゃんたちは、昔は残飯を食べて生きていたんだよ」とは、孫には言いづらい事実かもしれない。だいたい、ブラジルやハワイや満州に多くの人々が移住したのは、日本にいては食えなかったからだ。国内にいてそこそこ食えるなら、移民になって苦労することもない。これらの本を読むと、ここしばらくの日本の繁栄がいかに奇跡的と言おうか、本来考えられないような蜃気楼的なものかがわかる。
 今、世界中の貧しい人々の様子を私たちはテレビなどで知らされているが、そうした貧しさと、当時の日本の貧しさとは決定的に異なる。日本には金持ちも少なからずいたのだ。そして一番たちが悪いのは、多くの芸術家、文学者、マスコミがそうした貧しさから目をそむけ、無視したこと。人間は覚えていたくないことは忘れる、見たくないものは見えない、というのは心理学の初歩である。貧民は確かにそこに(数万人規模で)存在しているにもかかわらず、当時のインテリは見て見ぬふりをした。永井荷風に至っては、貧民街すらが美的な嘆賞の対象だった。だから、そのおぞましい実体が現代の私たちには伝わっていないのである。夏目漱石にしたって、森鴎外にしたって、みんなエリートである。太宰治も金持ちの息子だ。現代まで読み継がれる彼らの小説は、結局のところ、余裕がある人たちの苦悩に過ぎなかったとも言える。
 「戦前の日本人は立派だった」みたいなことを言う人がいるが、とんでもない。貧しさからどんな悪が生まれるか。親は娘を平気で遊郭に売った。売られた娘が、悲惨な労働から逃れようとすると、警官が捕まえて、引き戻した。医者も看護婦も、娘たちが働けるように、性病検査の結果を偽造した。みんなグルだった。工場主にこきつかわれた女工の中には、失明するものもいた。だが、失明したあとでさえも(!)働かされたのである。確かに現代日本にも悪が多数存在する。が、昔と今とどっちがましかといえば、どう見ても今だろう。
 とにかくショッキングな事実がいっぱい記されている(すき焼き屋で出る残飯を食べるために、ゴミ箱の中に隠れ住んだ人の話とか)。現代の危機を相対化するためにもぜひ読むべき2冊だと思う。戦後の社会や教育を間違いだったと言い、復古的な主張をする人は決して少なくないが、本書を読めば、やはり時計を逆行させてはならないと思うはずだ。

 さて、小林多喜二の『蟹工船』がしばらく前から売れているらしいが、本当に状況は70年前と何ら変わりがない。彼の『党生活者』や『オルグ』を読んでごらんなさい。最近何かと話題の、派遣社員の契約打ち切り問題と同じようなことが書かれているから。いや、「来週から来なくていいよ」という昨今の状態は、小説よりひどいくらいだ。せめてもの救いは、多くの人々が「これではいけない」と具体的な行動を取るようになったことだが。
   昨年終わり頃になって登場した宮下誠『カラヤンがクラシックを殺した』(光文社新書)は、こうしたひどい世界のシンボルとしてカラヤンを捉えている。結論から言うと、この人が書いた何冊かの本の中では、私にはこれが一番おもしろかった。著者がカラヤンを指弾する言葉はなかなか激しい。「音楽の力を素直に肯定する彼の音楽によって救われた人も少なくないだろう。しかし、そのような慰めは多くの場合、間違っている。目を背けてはならない。彼の音楽は小市民社会の偽りの幸福感、欺瞞と瞞着に根ざしている」。
 私もまったくそうだと思う。さらに言うなら、「カラヤンなんて・・・」というアンチ・カラヤンの人々にしたところで、「小市民社会の偽りの幸福感、欺瞞と瞞着に根ざしている」という点では、カラヤン愛好家と何ら変わりがないのである。
 著者は、カラヤンや社会を指弾するだけでは満足しない。大衆もまた徹底的に批判されねばならないのだ。というのも、「大衆は自分の努力のなさ、向上心の欠如、拝金主義、他人の不幸を喜ぶ意地悪さなどを棚上げして、自分に理解できないものを排除し、才能ある人間を食い物にするという恐ろしい生き物」だから。
 私はこうしたことが記されている第1章をもっとも興味深く読んだ。続いて、カラヤン論が展開され、さらにカラヤン的悪の音楽に対抗するものとして、クレンペラーとケーゲルを取り上げて、各1章が当てられている(このあたりは、単におもしろい演奏が聴きたいだけの「小市民」にも喜ばれそう)。
 カラヤンの悪が、彼だけの問題ではなく、時代と密着していることは、誰もがうすうす感じていたことである。ただ、それを大規模に論じようとする人はあまりいなかった。おそらくそれは、カラヤンの悪は、現代の悪であり、つまりわれわれ自身の悪だからだ。カラヤンに斬りかかれば、自分を斬ることになる。本書の最後は、「私たちは覚醒しなければならない・・・小市民たちよ。目覚めよ」と閉じられている。言いたいことはわかる。ただ、言葉が上滑りしているような軽さがないわけではない。家族やペットのことをいちいち記して感謝するなんて、これこそ小市民的幸福の最たるものではないのか。著者はそういう自分に後ろめたさを感じているか。感じているとしたら、それとどう向き合うのか。そのあたりが曖昧である。他人に「目覚めよ」と言うなら、やはり厳しい自省が必要なはずだ。

 昨年、新国立劇場でツィンマーマンのオペラ「軍人たち」が上演された。私があの劇場で見たオペラの中では圧倒的に一番おもしろかった。しかし、ヴィリー・デッカーの演出は、貧窮の悲惨を除菌してしまったかのようなものだった。このデッカーという人は、世界中あちこちで仕事をしているが、とりあえずきれいに、スタイリッシュに見せてしまう人である。たとえばネトレプコ主演の「トラヴィアータ」のDVDが出ているが、あれなどその典型。細かい部分についての疑問はさておくとして、全体的に見てもあそこからは頽廃や堕落などまるで感じられない。それではまずいのである。同様に、「軍人たち」もまた、いやらしさや悪をほとんど感じさせない舞台になっていた。いつの日か、私たちの時代にふさわしい悪に満ち満ちた「軍人たち」が制作されることを私は願う。
 この作品に関しては、伝説的な演奏がCD化され、手に入るようになった。テープやさまざまな音響を取り入れた野心的な音楽だけに、やはり会場で聴くのに比べればインパクトは弱まるものの、現代人たるもの、一度は聴いておくべき作品だと思う。特に最後の幕は、何度聴いても圧倒される。
 もっとも、そもそも悲劇や悲惨を舞台の上に乗せて「鑑賞する」とはいったいどういうことなのか。富める者が貧しい者を演じるとはどういうことなのか。ギャラの高い歌手が貧民を演じるとは、破廉恥な欺瞞ではないのか。ペーター・コンヴィチュニーはそういう疑問を捨てることができなかったがゆえに、おそらくは彼の最高傑作のひとつである「ヴォツェック」において、ほとんどいっさいの舞台装置も衣装も放棄した。これもいつの日か映像が発売されるのを待ちたい。

(きょみつとし 音楽評論家、慶応大学教授) 

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