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「クライバーの『ばらの騎士』」

2008年11月19日 (水)

連載 許光俊の言いたい放題 第154回

「クライバーの『ばらの騎士』」

 このコラムの執筆がずいぶん滞ってしまったが、今年の秋は何だか人生最悪ではないかというほど忙しい。秋の夜長にたらたらと本でも読みたいのに、当分無理そうである。  先月はライプツィヒで講演をしてきた。ライプツィヒといえば、クラシック・ファンにとっては当然バッハの町である。シューマンなども活躍した、音楽史上重要な町だ。
 演出家のペーター・コンヴィチュニーにかの地のオペラで講演してくれと言われて、最初は断ろうと思った。だってめんどくさいじゃん、ドイツ語で90分の原稿を用意するなんて。正直言って、今更ドイツの人々と交流したいという気持も特にないし、完成させねばならない本はいくつもあるし。
 しかしその話を引き受けたのは、コンヴィチュニーが私の本のために2度もインタビューに応じてくれた恩返しということもあるが、もうひとつは、少し前、ある本を読んでいたからだ。樋口隆一『バッハの風景』(小学館)である。
 樋口氏は、日本を代表するバッハ学者である(最近は指揮のほうに情熱があるらしいが)。氏が若者だった三十数年前、外国、特に社会主義国に行くのは、決して簡単ではなかった。何しろ日本と東ドイツの間には正式の国交がなかったほどだ。日本政府は国民が東側諸国を訪問するのを決して快く思っていなかったのである。ついでだから書いておくが、私が学んだドイツ文学の先生たちも、国費留学の条件として東側に行かないことを誓わされたという。それゆえ、パスポート本体ではなく別の紙に入国スタンプを押してもらうという抜け道を使って東ドイツを見に行ったのだ。でも、東側抜きのヨーロッパ文学・芸術なんてありえないでしょう! 
 さて、樋口氏はバッハ研究をする20代半ばの学生だったが、そんな時代ゆえ簡単に東ドイツには行けなかった。たとえビザが取れても、その頃東ドイツを旅行する外国人は必ず政府が指定するホテルに泊まらねばならなかった。これが、外貨獲得のためもあって学生には高すぎる値段設定だったのである。学生の予算だと2,3日しか滞在できないが、もちろんそれではバッハの自筆譜と取り組むためにはまったく時間が足りない。
 しかし、願ってもいないチャンスが訪れた。樋口氏はたまたま来日公演中のゲヴァントハウス管弦楽団コンサートマスターとアルバイトを通じて知り合いになった。その彼が尽力し、しかも自分のところに泊まればホテル代がかからなくていいじゃないかと言ってくれたのである。
 当たり前の親切のように私たちには聞こえる。だが、これは当たり前ではなかった。なぜなら、当時の東ドイツでは、外国人を家に泊めることは違法行為だったのだ。コンサートマスターは若い日本の学生のために、あえて違法行為をする気になったのである。もし当局にとがめられれば、相応の罰を受けることになるだろう。さまざまな不利益は免れまい。普通ならそんな危ないことを、たかが1学生のためにするはずがない。
 確かに東ドイツやソヴィエトは、恐ろしい監視社会だった。いたるところにスパイがうようよしていた。にもかかわらず、体制の裏をかいてやろうと考える人たちは決して少なくなかったのである。コンサートマスターもまた、政府に対してささやかな抵抗を試みたのだった。
 私はこの話を思い出して、そういう人々が住んでいるところだったら、行って話をする価値があると思った。いや、すべきだと思った。結果的には、自分で言うのも何だがたいへん好評で、また来てくれと頼まれた。考えてみれば、日本の演奏家の多くが本場の人間に向かって演奏している。ならば、評論を書いている人間も、自分の意見を本場で問うてみるべきだろうとも常々思っていた。思いのほか盛んな拍手を受けながら、たとえばウィーンでモーツァルトを演奏して喝采される外国人演奏家は、こういう気分がするものかなどと考えた。

  それ以外にも非常におもしろいオペラ上演を体験したが、それは別の機会にするとして、今回は思いがけず発売されたカルロス・クライバー指揮「ばらの騎士」(1973年)について述べよう。クライバーの「ばらの騎士」は、ミュンヘン・ライヴの映像がすでに発売されており、それに加えてウィーン・ライヴの映像も存在する。そういう点では目新しくはない。
 しかし、演奏の生気という点では今回のが群を抜く。私の記憶に残っているクライバーの生「ばらの騎士」の印象にもっとも近いのが、今回のCDである。1974年のバイロイト出演を目前にして、クライバーは絶好調のようだ。ただし、このきわめて直接的な感情表現や素直さ、屈託のない軽やかな足取りは、ウィーン風の優雅や気取りとはまったく別のものだということは言っておかねばなるまい。暗示やほのめかしではない、生の感情が溢れている。
 第2楽章冒頭からしばらく、オクタヴィアンが登場するまでのほとばしるような音楽といったら。このようなわくわくするような、感動的なまでに幸福な演奏を知ったら、他の演奏はすべて色あせて聞こえるのも無理はない。そう、この演奏はひたすら若々しく、幸福に満たされた音楽なのだ。しかも、バカ騒ぎとか軽薄という感じがしないのが不思議なのである。オーケストラが生きもののようにうねるこの演奏に比べれば、他は杓子定規的に聞こえてしまう。このペースに巻き込まれると、歌手について文句を言う気も失せてくる。ルチア・ポップが異常に興奮したゾフィーを演じているが、おそらくオーケストラのものすごい熱気にやられてしまったに違いない。
 そしてオクタヴィアンの登場。ここでの脳天をつんざくような響きが録音され切れていないのは仕方がないけれど(何せ、こうして25年たっても鮮明に覚えているくらいである)、その後のオクタヴィアンとゾフィーの絡みもあまりにも美しく、しかも切実だ。単にきれいなのではない。その美しさはどこまでも人間の生のはかなさ、人生の一瞬の輝きの尊さを示してやまない。人間に対するいとおしさに満ちている。たぶんクライバーの音楽が人々をあれほどまでに強烈に魅了したのは、だからなのである。
 もう何度も書いたことだが、私は1983年、18歳のときに、まさにこのような「ばらの騎士」を聴いて、絶大なショックを受けた。その数日後聴いたカラヤンとウィーン・フィルの同じ曲など、屍にしか思えなかったし、その後クライバーがウィーン国立歌劇場に出演したときの生気が抜けた演奏には愕然とした。まさに今回の録音のような演奏をするからこそ、クライバーはクライバーなのであり、他に類がない音楽家だったのである。第1幕はすごい勢いで突き進む演奏だが、ちょっとせっかちな感じがしなくもない。だが、この第2幕にはぐうの音も出ない。
 第3幕でも、オックスとオクタヴィアンのやりとりなど、どうしてこんなに美しいのかと怪しまれるほど甘美で美しい。今にして思うが、オックスは決して悪者ではないのである。彼もまた愛すべきひとりの人間であり、オックスもいれば、オクタヴィアンもいれば、元帥夫人もいるのがこの世界なのである。彼らは等しくこの世に場所を与えられて生きているのだ。
 歌手では、クライバーの「ばらの騎士」はこの人なしではあり得ないというファスベンダーのオクタヴィアンが、とにかく勢いで聴かせる。ただ、元帥夫人の、ヴィブラートが大きいし、音程も非常に悪い。オクタヴィアンに向かって「カンカ〜ン」と呼びかけるあたりは、正直言って不気味だ。私はおぞましく感じた。第3幕3重唱の開始部など、はっきり言って耳を覆いたくなる。だが、それを支えるオーケストラはすばらしい。おそらく、歌唱や合奏の細かな精度などは、最初からクライバーの眼中にはないだろう。考えてみれば、1970年代以後でもなおこうした指揮者が活躍できたということは、今になってみれば実に例外的なことではないか。
 音質はクリアではある。ただし、制限の多い劇場ライヴのせいか、コンサートものとは比べられない。声が近いのに比してオーケストラが遠いのだ(こういうのが1980年代までオペラ録音の主流ではあったのは確か)。またノイズをカットしたせいか、人工的な感じもする。明らかに不自然な残響も感じられる。ミュンヘンのオペラハウスは決して音響的に一級とは言えないとはいえ、もっと何とかなるはずだ。正直言って日本のアルトゥスとかで音を調整してくれたら、もっとよかっただろうが。演奏がすばらしいゆえ、あえて書かせてもらう。
 とはいえ、聴いているうちに耳が慣れる部分もある。神経質な人以外は(クラシック好きには神経質な人が多いけどね)、満足できるだろう。気にしだせば気になるだろうが、演奏に集中すれば、どうでもよくなる。

(きょみつとし 音楽評論家、慶応大学教授) 

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