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国家に翻弄された2人〜クレーメルとフー・ツォン

Thursday, February 7th 2008

連載 許光俊の言いたい放題 第134回

「国家に翻弄された2人〜クレーメルとフー・ツォン」

 最近新聞を読んでいたら、韓国では若いサッカー選手たちが、兵役を免れるためにわざと肩を脱臼していたという記事があった。兵役に行くと体つきが変わってしまい、戻ってももはや選手を続けることができなくなるためだという。確かにスポーツ選手にとって20代は人生でもっとも大事な時期だ。夢を奪われる苦痛は想像に難くない。
 昨今の日本では、だらしない若者を鍛えるために兵役を導入するべきだと気軽に言う人たちも少なくないが、とんでもないことだ。兵役がある国では、これが若者たちにとってどれだけストレスになり、一生を左右しかねない大問題になっているか、日本では知られていない。たとえば、スポーツや音楽のプロを目指している人間にとって練習ができなくなる、それどころか、職業に差し障るような怪我をする可能性があるなんて、まさに人生に関わる。
 それに、こんなことは日本では報道されないが、兵役中にいじめなどを受けて自殺する若者も少なくないのである。その一方で、有力政治家の息子などは、明らかに楽な部署に回されたりしている。みな、コネを頼ってどうにか安全で楽な部署に行こうと必死なのだ。
 だいたい、兵役で若者が鍛えられるというのなら、兵役がある国の若者たちはみな立派な者ばかりということにならないか。むろん、現実はまったくそうではない。最近の若者はだらしないから・・・などと言っている大人は、自分の無力や怠惰を認めているようなものである。他人任せにせず、自分で範を示したまえ、ちゃんとした家庭教育をしたまえ、と私は言いたい。

 どうしてこんなことを書き出したかというと、最近、国家に翻弄された2人の演奏家の本を読んだから。ひとりはギドン・クレーメルの自伝『クレーメル青春譜』(臼井伸二訳、アルファベータ)。この才能ある若い音楽家が、国家の理不尽な統制に反抗し、自由のために戦う姿が描かれている。これについては、先日産経新聞の書評に書いたので詳細は割愛するが、意外だったのは、厳しいソ連においても庶民は庶民なりに裏道を知っていたということ。たとえば、発禁になった本もあるところにはあり、読む人は読んでいた。というより、相当の人に読まれていた。微妙なグレーゾーンがあって、それをうまく利用して生きていたのである。このあたり、さすがクレーメルはソ連育ちだけあって、西側の人が書いた本とは生々しさが全然違う。それにしてもこの人、三年に一度くらいの割合で結婚を繰り返していたのか・・・。

 もう一冊は、中国出身の名ピアニスト、フー・ツォンの伝記、森岡葉『望郷のマズルカ』(ショパン)だ。内容的には、こちらのほうがもっともっと残酷である。彼が活躍を始めたのは、中国の悪名高き文革(文化大革命)とちょうど同じ時期だった。インテリは西洋かぶれだの売国奴などと理由もなく批判され、弾圧された。その弾圧はあまりにも非人間的で、上海音楽院では17人の教員が自殺したという。
 ショパン・コンクールで入賞し、国際的にも有名になった若きフー・ツォンにも、近々中国に戻り、田舎に行って、思想学習しろという命令が下されていた。思想学習などと言っても、要するに厳しい労働である。今の日本の田舎ではない。それこそ暖を取るのもたいへんな、生きていくのがやっとの場所である。もちろんそんな生活をしたら、ピアニストとしての肉体は破壊されてしまう。当然、フー・ツォンは亡命を選んだ。彼の才能を惜しむ人たちが大勢協力してくれたのだ。
 だが、それもあって、中国にいる彼の両親や弟は厳しく批判され、ひどい屈辱を受けた。とうとう両親は理不尽な辱めに耐えきれず、自殺した。弟は履歴を隠して就職していたが、裏切り者フー・ツォンの親族ということがばれると、ものすごい憎しみを買い、拷問まがいの扱いを受けた。自殺して当然の辛い目にあったものの、何がなんでも生き延びるという執念でかろうじて死なずにすんだ。
 すさまじい内容である。こんなことが起きたのは、せいぜい3,40年前のことだ。フー・ツォンの音楽がきわめて生々しい喜怒哀楽を宿しているのも当然だろう。
 この本には、CDもついていて、フー・ツォンが弾いたショパン、ドビュッシー、スカルラッティ、シューマンなどが聴ける。実にお得である。特にショパンのピアノ協奏曲第2番第2楽章が入っているのがすばらしい。これはこの人の録音中でも最高傑作のひとつだ。きわめて強い悲哀、激しい没入、えぐるようなトリル、誇り高い歩み・・・悲壮という言葉がこれほどまでに似合う音楽もまれだろう。時間にしたら10分もないが、この人のすべてがたたき込まれている。まさに地獄をくぐり抜けた人ならでは凄絶な音楽だ。これほどまでの切実さをもってショパンを弾いたピアニストを私は他に誰も知らない。この曲のCDが入手しにくい現在、第2楽章を聴くためにだけでも、この本を買って後悔しないはずだ。アファナシエフにも負けない異様な暗さのモーツァルト「幻想曲」も強烈。
 フー・ツォンのCDとしては、超遅いテンポで超耽美的な世界が繰り広げられるベートーヴェンのピアノ協奏曲第4番がHMVでも入手できるようだ。これは激烈な感情が堰を切ったように溢れ出しているショパンとは正反対に、極度にロマンティックな夢幻美が特徴で、私は大好きである。

(きょみつとし 音楽評論家、慶応大学教授) 


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