一番のびっくりはロトだった

2024年01月22日 (月) 14:30 - HMV&BOOKS online - Classical

連載 許光俊の言いたい放題 第310回


 2024年はしょっぱなからいろいろなことが起きている。こんな年も記憶にない。大地震、飛行機事故、田中角栄邸炎上、さまざまな人たちの思いがけぬ訃報、自民党の激動・・・。どれもわずか1か月前には誰も予想できなかったことだ。
 しかし、畢竟この世は思いがけないものである。2023年、私がもっとも衝撃を受けた、まさにガツーンとやられたとしか言いようがないコンサートは、ロト指揮のブルックナー交響曲第8番だった。初稿。ギュルツェニヒ管との本拠地での演奏である。まさか、この指揮者のブルックナーで、チェリビダッケ以来のショックを受けようとは。そうだ、チェリビダッケ以来なのだ。それに改めて気づき、よけいに動揺した。
 ブルックナーの交響曲の初稿を、われわれはすでにインバルやナガノなどの演奏で知っている。マニア率の高い日本では、何番は何版が好きだみたいな会話もありふれたものだ。ところが、私はロトの第8番を聴いて、初めてブルックナーの頭の中をハッキリと見せられた気がしたのである。あの人はこんな音楽を思い浮かべて書いていたのか。懇切丁寧にそれを解きほぐしてわからせてくれるロトに比べれば、インバルはあまりに自分のスタイルになりすぎており、ナガノはスムーズになりすぎていたのである。
 第8番初稿、それはほとんど狂気の音楽と言いたくなるほどユニークなのだ。思いがけぬ音の進行、音色。ブルックナーは変人だったのにすばらしい音楽を書いたのではない。変人だからこんな音楽が書けたのだと完全に納得させられた。初演がすんなりいかなかったのも無理はない。ブルックナーの支持者だった者にとっても、このスコアは理解不能だったのである。
 そして、この初稿こそが本来ブルックナーが思い描いていた音楽なのだとしたら、われわれが慣れ親しんでいる版とはいったい何? その版で成立しているチェリビダッケの演奏は何? 私はそこまで考えるほど、ロトの演奏に追い詰められたのだった。約80分、とうに知っているはずなのに、知らない音楽が鳴り続けるのに翻弄され、極度に緊張させられた。
 この第8番は、音質がいいとはとても言えないが、すでに配信されている。より高品質でのCD化が待ち遠しい。すでに、ロトとギュルツェニヒによる第3,4番の初稿はCDが出ていて、彼らの特徴はそれで十分によくわかる。透明感がある響きなのに、ひとつひとつの音が手でつかめるがごときにしっかりしているのだ。「ドン・キホーテ」にしてもだけれど、こういうのは録音方法で得をしているのではないかと、少々疑っていたのだが、ケルンで聴く彼らの音は、きわめて雄弁にして明晰明快、この通りなのだった。日本でも、響き過ぎないホールで聴いてみたいものだ。
 このロトのブルックナーについてはきちんと書くとあまりに長くなってしまうので、あえてここでははしょる。結論だけ記す。
 21世紀の今、ロトとギュルツェニヒの初稿録音は、新たな基準となる演奏である。現在、発売されている第3、第4番。これを無視してブルックナーを語ってはならないというしかない。


 ところで、私は昨年、家のステレオをグレードアップした。コロナの最中には特にそうしたいという気は起きなかったのだが、そのコロナ渦も過ぎ去り、各地で名オーケストラの力が入った演奏を聴いているうちに、もちろんそれをそっくりそのまま家で鳴らせるはずはないのだけれど、もっといい再生音が欲しくなったのである。
 結果はすばらしいもので、実に愉しい。やばい。この年齢になるまで家で音楽を聴いていてこれほど幸せだったことはたぶんない。こんなことなら、もっと早くからグレードアップすればよかった。あ、いや、でも新たに買い入れた機種は少し前発売されたばかりなのだった(詳細は「ステレオサウンド」228号をご覧ください)。
 ではあるけれど、これはさすがにまずいのでは・・・と思う瞬間もある。美しすぎるのだ。たとえば、ブリュッヘンが指揮する新日フィルのラモー。日本のオーケストラでこういう感じのリッチで典雅な音はしないのではないか、という疑いがつい頭をかすめてしまう。音色だけではなくて、リズムとかも。これが本当に日本のオケのトランペットなのかという宮廷っぽい音がする。しかも、これ会場がトリフォニーだよね。すみません、ナマを聴いていないので、こういう疑いは偏見のようでよくないかもしれないが、それでも浮かんでくるのが正直なところ。
 一般の愛好家は、音楽がきれいに聞こえるステレオを用いればいいと思う。せっかくの自分の時間とお金、幸せになることに使うべきだ。が、こうやって文章を書く立場だと、きれいなだけではまずい。ただし、である。自分で自分に言い訳できるのは、もう私もいい年になってきたし、CDで聴く演奏家の多くはナマで聴いたことがある人で、どんな感じかはもうわかっている。多少嘘っぽくても幸せな音で聴きたいですよ。
であるからして、こう書いておこう。このラモーはうちではものすごくきれいに聞こえる。あなたの家でもそうだとよいのですが。
 ブリュッヘンと新日フィルのセットには、ハイドンはいいとして、シューマンの交響曲第2番も入っている。ブリュッヘンがこんな曲もやっていたなんて、全然ノーチェックで、知りませんでした。よりによってシューマンの中でももっともマニアックな、ヴァントに言わせれば病的な音楽である。私も苦手。だけど、この曲が好きでたまらない人を最低2人は知っている。シノポリ、バーンスタインという濃厚系の指揮者たちも第2番がお好みだったが、ブリュッヘンのやり方は案の定ドロドロしていなくて、透明感があって、見通しがよくて、作品の細かな仕立て方がわかる演奏。古楽風のやさしく繊細な手つきで混ぜ合わせていく響きの美しさ。ラモーに比べれば、安全運転の気配があるので、やはり先のラモーはさらによかったのだろう。
 ハイドンの102番の頭は、思わずぞわぞわするような音がする。ほんとにこんな音がしたのか? でも、これはステレオのせいではないだろう。ってことは、何も疑わずにこの美しさを満喫するのが吉ということですね。


 そして、昨年もラトルは好調だった。ラトルはもちろんたびたび来日して、そのたびにすばらしい演奏を聴かせてくれているけれど、絶対に日本に持ってこられないであろうシャルパンティエの「メデ」(ベルリン)とかモーツァルトの「イドメネオ」(ミュンヘン)が強烈だった。ドラマティックのきわみみたいな、とてつもない強さで悲劇を表出するのだ。実は悲劇の魅力とは、このように古めかしい台本や原作において、すでに完璧に表現されていると思い知らされた。バイエルン放送響との「イドメネオ」は配信もされたが、CD化されるといいな。
 ラトルとバイエルン放送響のCDといえば、「ジークフリート」が聴きごたえたっぷり。カロリーたっぷりの料理を山盛りにしたような、もうやりたい放題に遊んでいる感じ。「マイスタージンガー」にも通じる素直な笑い。紙芝居で子供たちをびっくりドキドキさせるみたいな。まだまだ無邪気なジークフリートといっしょに笑えばいいんだという。
 オケの力がすごい。ホールは、現在ミュンヘンで仮設されているイーザーフィルハーモニーというところで、私も行ってみたら、しょせん仮設は仮設なのだが、案外癖のない音で、悪くないと思った。会場のせいか、「ラインの黄金」「ワルキューレ」よりくっきりした音質。声のバランスが強すぎず、オーケストラの表現力が満喫できる。全部を聴く時間がなくても、あちこちを少しだけ聴いて繰り返し愉しめるし、実際私はそうしている。

(きょみつとし 音楽評論家、慶応大学教授)


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