「摩訶不思議な《パッヘルベルのカノン》」
Friday, September 16th 2011
連載 許光俊の言いたい放題 第198回「摩訶不思議な《パッヘルベルのカノン》」
私はかねてから、「アルビノーニのアダージョ」や「G線上アリア」といった超有名ポピュラー名曲において、ケーゲルやスヴェトラーノフといった超弩級の演奏を発見して大喜びしてきた。が、意外にもこれはという演奏に恵まれていないのが「パッヘルベルのカノン」である。なぜかこの曲に限っては大物指揮者たちが触手を動かさず、衝撃的な体験をすることができなかった。もしチェリビダッケが、ケーゲルが、バーンスタインが指揮したらどんな演奏になったか。想像するだけで興奮してしまうのだが。
ところが、この夏、まったく思いがけず、あまりにも意外な演奏に遭遇したのである。エンリコ・オノフリ指揮チパンゴ・コンソートによる「コン・アモーレ」というアルバムだ。
私はこれまでオノフリの演奏をナマでもCDでも聴いてきたけれど、正直言って、あまり感心しなかった。私はもっともっと精度が高いヘンゲルブロックのような演奏家のほうを評価するし、好むのである。だが、この「カノン」はあまりにもユニークかつ何度でも聴いてしまうきわめて不思議な音楽だった。
順を追って話そう。まず最初に私がこの演奏を聴いて驚いたのは、このよく知っているバロック音楽が、まるで沖縄のヴォーカル・グループ、ネーネーズのように聞こえたからだ。主旋律の微妙なアクセントや陰影、大胆な起伏がまるで琉球の島唄のよう、民謡のこぶしのようなのだ。実は私はネーネーズが好きである。初めて那覇に行ったとき、居酒屋で偶然耳にして以来だ。あの表現の強さは半端ではない。いつかベルリン・フィルの伴奏でネーネーズが聴きたいと思っているほどだ。だから、よりによって癒し系バロック名曲の典型である「カノン」がそう聞こえるのに心底驚いたのである。
ところが、である。話はここでは終わらない。これはおもしろい!と繰り返し聴いているうちに、今度は何と、ビートルズみたいに聞こえてきたのだ。南国沖縄からいきなり霧の町リヴァプールへ!
なんだこれは、と訝りながらさらに数度聴くと、今度は大昔に流行したフォークソングのように聞こえてきた。実際、この演奏はまるでひとりの若者が芝生にすわってギターをつま弾くかのように開始される。そこに次々に他の楽器が加わっていく様子は、まるで公園に若者が集って声を合わせているような錯覚を呼び起こす。
ついには40年以上前の若者たちの姿まで目の前に浮かんできた。髪の毛を伸ばし、社会の束縛を免れ、自由を夢見た若者たちの姿だ。あるいはドラッグに陶酔し、だらしない格好をした・・・。
この思いがけない事態に、さらに数度繰り返して聴くと、今度は盆踊りのように集団で輪になって踊る様子がイメージされてきた。しかも、パンパン手を叩きながらだ。盆踊りにように聞こえる「カノン」・・・。
なぜこんなことが起きたのか。この「カノン」を演奏しているのは、指揮者を除けばほとんどが日本の音楽家たちである。だから? かもしれない。間違いないのは、この「カノン」を聴いたあとで冒頭に戻ると、旋律がまさに日本の演歌のような声色の変化をもって歌われていると気づくこと。
こうなると、この盤に含まれている、森麻季が歌うヴィヴァルディのアリアも演歌に聞こえてくる。カウンターテノールの米良良一が演歌大好きだったのは、偶然ではなかったのだ。モンテヴェルディに代表されるバロック音楽の革新性とは、強い感情を一本の旋律線に託したこと。それがハーモニー重視のルネサンス音楽との決定的な違いだった。もしかして森や米良が日本で人気を得たのは、美しい声の質ゆえではなく、バロック音楽に内在する演歌性によるのかもしれない。念のため断って置くが、私は悪い意味で言っているのではない。演歌的な音楽は、世界中に存在し、クラシックにおいてもそうした性格は継承されていることは間違いない。人間が持つ音楽の本能のもっとも根源的な要素のひとつであろう。そして、この演奏はそういう根源に期せずして触れてしまったのであろう。
単にすごいとかすばらしいと言うのではない、実に摩訶不思議な「カノン」である。もっと繰り返して聴くと、また何か別のものに聞こえてくるのだろうか???
このオノフリ盤に触発され、「カノン」のめぼしい演奏を残らず聴きたくなってしまったが、調べてみるとどうやら俗っぽい編曲版ばかりが多く、私を震撼させるようなものはなさそうだ。
ちなみに、「カノン」が有名になったのは、パイヤール指揮の演奏のおかげである。今改めてこれを聴くと、昔の婦人から発散されていた化粧の匂いのような、トロリと甘美な濃厚さを強く感じさせられる。特に弱音はやさしく撫でるようで官能的だ。そして、絶対、絶対にネーネーズやフォークソングや盆踊りには聞こえないのである! これはこれで今もってすばらしい演奏なのだ。現代楽器を用いたものとしては屈指である。
(きょみつとし 音楽評論家、慶応大学教授)
for Bronze / Gold / Platinum Stage.
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