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アンクル・テュペロ〜ウィルコの歴史

2010年4月30日 (金)






 もはや、「オルタナ・カントリー」という枠の中で、ウィルコの音楽性を形容するのは、あまりにも野暮な行為だが、今ではほとんど死語となったこの呼称の発信元を辿れば、ウィルコ、あるいは、前身バンドのアンクル・テュペロの音楽的な懐の深さを知ることができるのではないだろうか。カレッジ・シーン興隆期のいちパンク・バンドとして、そのキャリアをスタートさせたジェフ・トゥイーディとフェイ・ファーラーによるアンクル・テュペロが、若者に淘汰されようとしていたカントリー・ミュージックを融合要素に取り込もうとした、半ば強引とも捉えられがちな実験精神や柔軟な発想は、ウィルコが、現在のアメリカン・ロック・シーンの代表的存在となるまでの道程に必要不可欠なものだったということをしっかりと頭に叩き込んでおきたい。ましてや、パンクとカントリーは、”水と油”だなんて元々誰も言ってないしね。「オルタナティヴ」な何某それは、「はいはい」と突き放される一方で、じわじわと、そして確実に、世界を侵食してゆく殺人ウィルスの如し。それを念頭に、ウィルコの軌跡、ご開帳。 


Uncle Tupelo
 ミネアポリスなどを巣窟とした1980年代半ばのパンク/ハードコア・シーンから、所謂”オルタナ・カントリー”と後に呼ばれるようなサウンドは生まれた。イリノイ州ベルヴィルの田舎町で幼馴染として育った、ジェフ・トゥイーディとフェイ・ファーラーは、10代の頃にプリミティヴスというパンク・バンドを組んで活動をしていた。リプレイスメンツ、ソウル・アサイラムといったカレッジ・チャートから飛び出したバンドが巷に氾濫していた80年代中頃〜後半、プリミティヴスを解散させた2人は、88年にアンクル・テュペロを結成するにあたり、それまでのありきたりなパンク・サウンドにはない素養を融合させようと試みる。そこで白羽の矢が立ったのが、母国のルーツ音楽でありながらも、一部の心ない偏見により、”ヒップでないもの”として疎んじられていたカントリーだった。マンドリン、バンジョー、アコーディオンといった楽器の音色を加えつつも、パンクあがりの粗々しさと勢いは失わない。90年のデビュー・アルバム『No Depression』において、アンクル・テュペロは、”それまでにないパンク、それまでにないカントリー”という新しい潮流の源となるミクスチャー・サウンドを作り上げた。R.E.M.のピーター・バックがプロデュースした3rdアルバム『March 16-20,1992』では、よりアコースティックなサウンドに傾倒し、トラディショナル・フォーク/カントリーへのアプローチを強めていった。アフロ・アメリカンならばブルース、日本人ならば民謡/歌謡etc・・・といった具合に、自らのルーツに立ち返りながらシンプルなソング・オリエンテッドな方向性に歩みを進める彼らの姿勢は、ソウル・アサイラム、レモンヘッズといった周辺バンドにも大きな影響を与えていった。


Being There
 

Wilco
 メジャーに移籍した93年のアルバム『Anodyne』には、ペダル・スティール、フィドルの音色が美しく伸びるカントリー・バラードから純正のロックンロールまで、バラエティ豊かな楽曲が並び、バンドが試行錯誤、追求してきた5年間の総決算的な1枚となった。しかし、翌年、新たな地平を見据えるファーラーは、よりストレートでピュアなカントリーに接近するためにアンクル・テュペロを突如脱退。かつてのバンド・メイトでもあったマイク・ハイドーン(ds)らとサン・ヴォルトを結成。残された、ジェフとケン・マーク(ds)は、『Anodyne』のレコーディング・サポートを行なっていたジョン・スティラット(b)、マックス・ジョンソン(fiddle,banjo,lap steel・・・)らとウィルコを結成した。同じ音楽的要素のベクトルを持ちながらも、カントリーへのアプローチが微妙に異なる両バンドは、”オルタナティヴ”バブルともいえるシーンの盛り上がりも追い風になり、ネオ・カントリー・ロック(≠オルタナ・カントリー)の覇者としてその名を知らしめるようになった。翌年リリースされたウィルコの1stアルバム『A.M.』は、ブライアン・ポールソンとバンドの共同プロデュースで、ビルボード誌ヒートシーカーズ・チャートの最高位27位を記録。ギター・ポップ作品としての瑞々しい躍動感に無邪気に体を揺らすと同時に、グラム・パーソンズ、クリス・ヒルマンらが遺したカントリー・ロックの偉大なる遺産・・・その偉大さに、このアルバムを通してあらためて気付かされたファンも多いことだろう。ジェフのソングライターとしての稀有な才能も着実に花開きつつあり、さらに翌96年の2ndアルバム『Being There』でそれは満開の季節を迎えた。また、マルチ・インスト奏者ジェイ・ベネットの加入や、いきなりのノイズ黄砂に吹かれる「Misunderstood」で顕著な、ミックスを担当したジム・ロンディネルの貢献など、袂を分かったサン・ヴォルトと差別化を図るかのように、様々なエレメンツや実験的要素をカントリー・ロックというマテリアルに叩き込んでみせた。   



Wilco
 パンク通過後にウディ・ガスリーやフィル・オークスといったトラディショナル・フォークに傾倒していった、英国で最も尖った感性を持つ吟遊詩人ビリー・ブラッグとの出会いは、ルーツ音楽へのアプローチの類似性を考えれば、ウィルコにとって必然的なものであったのかもしれない。伝説的なフォーク・シンガー、ウディ・ガスリーの書き遺した未発表詩に曲を付けて歌うという企画を、ウディの娘ノラから持ちかけられたブラッグは、共同レコーディングのオファーを、『Being There』ツアー中でヨーロッパに滞在していたジェフとベネットに直接申し出たという。トータル40篇の詩にブラッグとジェフが曲を付け、歌い分け、さらにそれを15曲に厳選した『Mermaid Avenue』(98年発表)は、ウディ・ガスリーというシンガーソングライターをモチーフに両者が個性をぶつけ合った、企画モノの域を超えた内容の濃いものとなり、第41回グラミー賞の「ベスト・コンテンポラリー・フォーク・アルバム」にもノミネートされた。2000年には続編も制作されている。Mermaid Avenueセッションを終えたバンドは、一時的に中断させていたレコーディングを再開させ、ウィリー・ネルソンが所有するテキサスのスタジオで3枚目のアルバム『Summer Teeth』を完成させた。ジェフ自ら「ダーク・ポップ・アルバム」と称した本盤には、「She's a Jar」、「Shot in the Arm」、「I'm Always in Love」、「Via Chicago」といったバンド史上極めてポップなレパートリーが収められている。『Mermaid Avenue』、『Summer Teeth』と、方や企画モノながら、性格・毛色の異なる2作品をほぼ並行して生み出すことのできる二面性や柔軟性。こうした、トラディショナルと現代ポピュラリティの間を自在に行き来できるところが、ウィルコの最大の強みなのかもしれない。  


 


Loose Fur
 地元シカゴのアーヴィング・パークにあるスタジオ、通称”ウィルコ・ロフト”に篭り、通算4枚目のアルバムの制作に入った2000年の5月、ジェフは、大ファンでもあった同郷のジム・オルークに共演を打診した。意気投合したオルークは、ドラマーのグレン・コッチェをジェフに紹介。ここに、オルーク、ジェフ、コッチェによるサイド・プロジェクト=ルース・ファーが誕生した。ポストロック的なコンテキストを、自由度の高いセッションの中で脱力的に散文化した、独特な音響空間。ジェフの中で、もはや”オルタナ・カントリー”といったような概念は、窮屈でしかないものになっていたのだろう。シカゴの音響怪人との邂逅によって、ジェフの第三の眼は大きく開かれ、ほぼ完成に漕ぎ着けていたアルバムは、オルーク、コッチェの参加(ジェイ・ベネット、ケン・クーマー脱退)による再レコーディングが施された。ルース・ファー・セッションでの手応えをバンドにダイレクトに反映させたかったジェフの大胆なテコ入れにより、ウィルコは音楽的にもメンバー的にも過渡期を迎え、そうした混沌とした状況の中、2001年にニュー・アルバム『Yankee Hotel Foxtrot』は完成した。が、この突然変異に嫌悪感を示したのが、所属レコード会社Repriseの保守派の人間。まだポストロックが現在ほど市民権を得ていなかった当時、「妙ちきりんな音やね」というレコード会社の一方的な判断の下、バンドと対立。アルバムの発売見合わせと契約解除を強行した。2002年春、新たな契約先のNonsuchから無事世に出た新作は、保守派層の大方の予想とは裏腹に、ビルボードの最高位13位という、この時点におけるバンド史上最高のヒットとセールスを記録。音響面の新境地もさることながら、「Kamera」等での変わらぬメロ立ちの良さはさすがの一言。この年の最も重要なアメリカン・ロック・アルバムとして高い評価を得たことは言うまでもない。


Wilco
 『Yankee Hotel〜』リリースをめぐる一連のドタバタの最中も、バンドは外部コラボレイトで得ることができる刺激を求め、積極的にセッションの場に参加していた。ベーシストのジョン・スティラットと、後に正式メンバーとなるマルチ・インスト奏者パット・サンソンのユニット=オータム・ディフェンスの活動開始もこの時期。特筆すべきは、ヤング・フレッシュ・フェローズのスコット・マッコーイ、R.E.M.のピーター・バック、ポウジーズのジョン・オーアらのサイド・プロジェクト=マイナス・ファイヴに、ウィルコのメンバーが全面参加したセッション。2001年、忌まわしき9.11の悪夢を拭い去るために、ピースフルでドリーミーなポップ・サウンドが奏でられたこの記録は、2003年に『Down With Wilco』としてリリースされた。2003年11月、その地ニューヨークを訪れたバンドは、ジム・オルークを共同プロデューサーに迎え、ニュー・アルバム『A Ghost Is Born』のレコーディングに臨んだ。怪物アルバムと化した”『Yankee Hotel〜』の次作”というプレッシャーを楽しむかのように、これまでライヴでしか使用していなかったプロ・ツールの多用など、オルークをブレインに、バンドはさらに新たな試みを重ねていった。アルバム完成後には、マルチ奏者リロイ・バックが去る一方で、『Down With Wilco』のエンジニアを務めていたマイケル・ヨルゲンセン(key)、アヴァンギャルド界隈で人気のギタリスト、ネルス・クライン、そして、オータム・ディフェンスのパット・サンソンという腕利き達を迎え入れ、2010年現在に至るラインナップが固まった。前作に引き続き、2004年6月のCDリリース前にオフィシャル・サイト上で全曲無料試聴を行なうという強気なプロモーションも功を奏し、『A Ghost Is Born』は、バンドにとって初の全米トップ10入りを記録したアルバムとなった。第47回グラミー賞では、「ベスト・オルタナティヴ・ミュージック・アルバム」と「ベスト・レコーディング・パッケージ」の2冠の栄誉に輝いた。




 

Wilco
 6人編成となった新生ウィルコの初作品は、2005年5月4日〜7日における地元シカゴ・ヴィック・シアターでの凱旋ライヴ盤(バンドとしても初のライヴ盤)となった。『Yankee Hotel〜』、『A Ghost Is Born』からの曲を中心にしたセット・リストということで、10分越えの「Spiders (kidsmoke)」やギター・インプロを投入した「Handshake Drugs」など、鬼火のようにじわりと聴き手に迫る熱っぽさがいかにもウィルコらしく、近年の充実ぶりを如実に物語っている。翌年、バンドは”ウィルコ・ロフト”に再び出向き、新メンバーを加えてから初のスタジオ作品となる『Sky Blue Sky』の制作に取りかかった。前2作でみせた旺盛な実験精神は影を潜め、バーズのフォーキーな哀愁、フェアポート・コンヴェンションの美しいメロディ、バッファロー・スプリングフィールドの柔らかいハーモニー・・・といった先達からの影響下を顕にしたような歌モノ要素を曲作りの核としていった。バンドの完全セルフ・プロデュースとなるものの、ジム・オルークは、ストリングス・アレンジ、さらには、ギター、パーカッションでの参加と、”7人目のウィルコ”に恥じない大車輪の活躍で、楽曲に様々な表情を付け加えている。芳醇さを増したジェフの歌声をはじめ、かつてない艶っぽさを手に入れた『Sky Blue Sky』は、2007年5月にリリースされるやいなや、瞬く間に全米アルバム・チャートのトップ5にランク・インし、世界7ヶ国でトップ40のヒットを記録した。また、アルバム制作着手に前後した2006年の2月に、ジェフは自身2度目のソロ・ツアーを敢行。この模様は、DVD『Sunken Treasure』で確認することができる。2009年には、旧知のジム・スコットを共同プロデューサーに迎え最新アルバム『The Wilco』をリリース。結成15年を迎えた2010年には、およそ7年ぶり、単独公演としては初めてとなる待望の来日公演が決定した。



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