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Review List of 村井 翔 

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  • 6 people agree with this review
     2016/07/16

    ティーレマンの素晴らしい指揮、しかし舞台上は目を覆わんばかりの惨状というコントラストは毎度おなじみのパターンだが、今回は夢も希望もない、酷薄(したがって非ロマンティック)な、しかし最初から最後まで首尾一貫したカタリーナの過激かつ徹底した読み替えを受け入れるならば、非常に水準の高い上演と言えるだろう。指揮は例によって、いやこれまで以上に見事だ。ほとんど拍節感を感じさせない流動性の高い指揮で、ここぞという所でのテンポの動かし方も堂に入っている。ティーレマンが演出に合わせて演奏を変えるとは考えにくいが、第2幕幕切れの遅いテンポによる悲劇性の強調、第3幕での恋人たちの再会場面でも最後に大きくリタルダンドするといった仕様は結果的に演出の絶望的な雰囲気にマッチしている。歌手陣もなかなかの水準。ヘルリツィウスは表現主義的な歌い方をするので、時に美観を欠くこともあり、スタミナ的にもやや苦しいが、演唱のコンセプトは好ましいと思う。ウェストブレークのように声は立派だが頭カラッポの歌手より遥かに良い。グールドは柔らかい、細やかな歌い口で、テノール殺しと悪名高い第3幕の「狂乱の場」もいたずらに絶叫に走らず、的確に言葉の意味を伝えてくれる。悲劇的な陰影の濃さはまだ乏しいが、見た目(かなりの肥満)に目をつむれば近年出色のトリスタンだと思う。ツェッペンフェルトはまたしても標準イメージと真逆のキャラクターを演出に押しつけられたが(この人、こんな役回りばっかり)、歌、演技ともに大変すばらしい。
     さて、問題のカタリーナ演出。『トリスタン』を観る人は、恋人たちが媚薬を飲む前から愛し合っていることは百も承知だと思うが、エッシャー風の迷宮を舞台にした第1幕では、演出家はそれをくどいほど強調する。ところが最後では、二人に媚薬を飲ませない。シェロー演出が描いてみせた通り、媚薬は「ただの水」で構わないのだが、二人がそれを毒薬だと思って飲むことに意味がある。まさにここで死への恐怖が愛に反転するという絶妙のアイデアなのだが、カタリーナはこれを放棄してしまった。完全な確信犯だと思う。つまり、愛=死によるカタストローフというオペラの根本思想を全部ひっくり返してしまったのだ。異性愛など人間を惑わすだけで虚しいものだという、いわば『パルジファル』の視点から見返した『トリスタン』、それがカタリーナ演出だと思う。バイロイトにおける一代前のマルターラー演出と似たテイストではあるが、マルターラーのような多義性はなく、すべては明確に割り切られている。第2幕、クプファー演出でのマルケ王は老人ではなく、むしろ感情の起伏の激しい男盛りのオジサンだったが、この演出のように悪辣な暴君として描かれるとさすがに衝撃的だ(やはりフェミニストか)。言葉としては彼の台詞は全部嘘ということになるわけだが、はたして演出が音楽を裏切ることができるか。私はなかなか面白い結果になったと思う。第3幕での再会場面、クライマックスなのに数秒にわたって舞台真っ暗という作りもプロの演出家としては大失態と言われかねないが、これもまた(相変わらず素人っぽいとも言えるが)確信犯だろう。

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  • 5 people agree with this review
     2016/06/18

    アバドの死後、2年間だけピンチヒッターを務めたネルソンスだが、これは2年目のライヴ。今年からシェフの座をシャイーに譲ってしまうのは惜しいと思えるほどの充実した出来ばえだ。アバドが指揮した2004年の演奏に比べて全体で数分長いが、テンポの遅いネルソンスの指揮はきわめてスケールが大きく、特にもともと遅いテンポが指定されている第2楽章第2主題、スケルツォのトリオ、アダージェットなどでは微視的な繊細さがきわだっている。オブリガート・ホルンはアレグリーニが自分の席に座ったまま吹くが、このオケのヴィルトゥオジティはまだ健在(もちろん吉井瑞穂さんの顔も見える)。映像では現役指揮者中随一だと思うネルソンスの雄弁なボディ・ランゲージも堪能できる。ただし、現時点では構えの大きな造型の内部を埋めるべき音楽の内実にほんの少し、不足を感じるのも事実。どちらかと言えば小編成の『角笛』歌曲の方が、シャープな楽譜の読みの美質が文句なく感じられる。今やドイツ・リート界の王者となったゲルネの歌の素晴らしさは言うまでもない。
    なお、日本語字幕付きなのは有難いし、ある程度の意訳は訳者の裁量範囲内だと思うが、間違っては困る肝心な所で致命的な誤訳があるのは困る。たとえば『死んだ鼓手(レヴェルゲ)』末尾の「墓石のように臥しならぶ」。骸骨と化した兵士たちの隊列はやはり「立って」いないとぶち壊しだ。『美しいトランペットの鳴り渡る所』の「1年たてば僕のひとだと言ってたくせに」も意味不明。彼女はこんな約束していない。彼が「来年には僕の嫁さんにしてあげる」と言っているのだ。話者の意思という語法を知らないのか? 欲を言えば「近寄る男に雪ほど白い手をさしのべた」は間違いではないが、「彼女も」という大事な部分が抜けてしまった。「も auch」という一語だけで、彼も「雪ほど白い手」の持ち主、つまり骸骨であることを暗示しているこの詩のキモなのだが。

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  • 3 people agree with this review
     2016/06/13

    ホーネックのチャイコフスキー演奏のスタンスはEXTONから2006年のライヴが出ている第5番と基本的に同じ。感傷過多、ズブズブの低回趣味に陥るのを避けようとして造型はかなり堅固。その中で細かいアゴーギグの駆使や普通は聴こえない裏の響きの強調で独自性を出そうという行き方だ。ただし、チャイコフスキー交響曲の中で最も構築的な5番と楽章の配置自体が独創的な6番では同じやり方は採れないし、オケとの信頼関係も9年前とは全く違うだろう。というわけで、今回の6番だが、基本テンポは全楽章とも標準的(終楽章、私は少しも快速とは思わない)。しかし、例によって指揮者自身が執筆したライナーノートでほぼネタバラシされてしまっているが、細部には色々と工夫がある。第1楽章ではバスクラリネットのpppppp(やはりファゴットでは演奏できない理由を指揮者が明快に述べている)に続く展開部が出色。当然ながらテンポは激烈で、荒っぽく演奏されがちな部分だが、対位声部にも目配りした目のつんだ響きは見事。再現部に入ってからの大クライマックスは、バーンスタイン最後の録音ほどではないが、かなり粘る。中間2楽章はやや失望。第2楽章中間部のティンパニはもっと強くていいだろう(指揮者は強調したと書いているのだが) 。第3楽章では楽譜にない強弱の変化をつけるが、これも既におなじみの手口だし、最後のアッチェレランドも全く想定通り。このコンビには珍しく今回は5つ星は無理かと思い始めたが、終楽章は再び良い。冒頭、両ヴァイオリンの旋律のため息のような弾かせ方(フルトヴェングラーのブラームス第4番冒頭と同じ)から始まって、様々な工夫が生きている。終盤、ホルンのゲシュトップト奏法の音色へのこだわりも面白い。
    『ルサルカ』幻想曲はなかなか凝った編曲。元のオペラでの登場順通りではないので、お目当ての「月に寄せる歌」の旋律は「満を持して」出てくるが、私は大いに楽しんだ。ちなみに今回の録音、ややマイクが近すぎたのか、歪んではいないが潤いに欠ける硬い響きがするのは残念。

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  • 5 people agree with this review
     2016/06/12

    ネルソンスのベルリン・フィル・デビューの曲目であり、ロイヤル・コンセルトヘボウとの録画もあった第8番が期待通りの名演。まだ30台の指揮者とは信じられないほどスケールの大きな、懐の深い演奏で、第1楽章の大クライマックスや苛烈きわまりない第3楽章でも安易にオケを煽ったりしないが、総譜はまことに丁寧に読まれ、パートの隅々にまで血が通っている。最終楽章の驚くべき入念・緻密さも特筆すべき。続く第9番も良い。この2曲を続けて聴くと、一見、対照的な両曲の間には深いつながりがあり、いわば「双子の」交響曲であることが実感できる。題材に似つかわしくない軽音楽的な側面を見せる『ハムレット』付随音楽も面白いが、第5番だけはちょっと疑問。
    この曲は終楽章前半を「強制された歓喜」の表現、後半ではスターリンに対する強烈なプロテストが表明されていると解するのがここ20年ほどの流行で、ウィッグルスワースやティルソン・トーマスのように指揮者自身がはっきりそういう解釈を語っている場合はもとより、小澤、V・ペトレンコなども聴けば、そうした解釈のもとでの演奏であることが明らかに分かる。ネルソンスも基本的にはこの流れに乗っているように聴こえる。第1楽章はすこぶる繊細で内省的な楽想の真ん中にド派手な軍隊行進曲が侵入している異様な音楽であり、ネルソンスの演奏もこれがソナタ・アレグロから第8番、第10番のような冒頭=緩徐楽章への過渡期にある楽章だということを良く分からせてくれる。終楽章も必要以上の興奮を避けたクールな演奏。けれども、ウィッグルスワースのように第1楽章に19分29秒もかけたりはしないし、終楽章の二度のアッチェレランドもティルソン・トーマスほど戯画的にはやらない。その結果、ネルソンスの演奏はややこだわりの乏しい、常識的な方向に傾いてしまっている。指揮者は「音楽外」の要素を排除して、純粋に楽譜だけに向き合いたかったのかもしれない。しかし、他ならぬその楽譜の中に、これだけ多量のパロディや「ほのめかし」が埋め込まれた作品から「音楽外」の要素を排除できるだろうか。この曲に関する限り、それはもう無理だと私は思う。第5番のみ最後に拍手入り。

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  • 4 people agree with this review
     2016/06/05

    いま乗りに乗っている指揮者とオケのコンビらしい活力にあふれた演奏。楽団のスポンサーでもあるClassic FMのレーベルに入れた『1812年』序曲も、この曲に対してちょっと「大人げない」のではないかと思うほどシャカリキになった演奏で、13:56という時間はノーカット演奏では史上最速の部類ではないかと思うが、この交響曲集でもテンポはかなり速め。劇的な部分は非常に隈取りが濃く、一方、抒情的なメロディーもたっぷり歌う。第5番も第2楽章での二度の「運命動機」登場シーンの劇的な振幅、終楽章コーダ(モデラート・アッサイで運命動機が戻ってくる部分)の独創的な譜読みなど、聴くべき箇所は多いが、第1番と第2番はさらに個性的だ。かつてのマゼール/ウィーン・フィルってこんな感じだったっけ、と思って古いCDを引っ張りだしてみたが、いやいや、意外にもマゼールはウィーン・フィルの優美な味わいをちゃんと重んじていて、ペトレンコの方がはるかに爆演している。とりわけ、ここぞという所でのめざましいアッチェレランドは鮮烈で、たとえば第1番の終楽章コーダは少しカットしたほうがいいほど凡長だとずっと思ってきたが、この演奏ではじめて長さを感じなかった。リズミックな局面では一気に畳みかけ、第2主題は美しく歌う第2番終楽章でも最後の最後での猛烈な加速が凄まじい。

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  • 5 people agree with this review
     2016/06/05

    2015年7月、ブレゲンツ音楽祭での上演だが、会場はおなじみの湖上ステージではなく、やや小振りな祝祭劇場での収録。『ホフマン物語』はなるほど名曲も多いが、音楽的にはやや凡長、退屈なところもなくはないオペラだと思っていたが、こんなに舞台上が面白いと退屈している暇はない。またしてもヘアハイム演出の大勝利。このオペラの怪奇・幻想の趣きはそもそも彼向きだし、音楽の方も決定稿がないので演出家の要求に合わせて独自の版を作れるという点でヘアハイムが腕を振るうにふさわしい作品だ。デブス指揮のウィーン交響楽団はもちろん好演だが、独自のブレゲンツ版を作ったという点で特に指揮者の貢献を高く評価したい。
    さて、今回の演出コンセプトは「アイデンティティの散乱」。普通にエンターテインメントとしても楽しめる舞台だが、精神分析が主張するように、我々の「自我」は他者という鏡に映った無数の鏡像の集積に過ぎないのか、などといった哲学的なテーマを突きつけてくる演出でもある(日本語字幕あり)。この舞台のミソはジュリエッタ役の歌手がいないこと。彼女のパートはオランピア、アントニア、ニクラウスが適宜、分担する。アントニアのみやや太めだが、この三人が見た目、とても良く似ているのも演出の眼目だろう。そもそも男性の合唱団員たちは皆、ホフマンの分身だし、女性団員たちもまたステッラ=オランピア=アントニアの分身。いや、ホフマンはオランピアやアントニアですらもある。オランピア編の最後にコッペリウスによって壊されてしまうのはオランピアではなくホフマン人形、さらに男女のお客たちだ。
    ホフマン役のヨハンソンはあまり男っぽくなく「中性的」な演唱。おそらく演出家の求め通りだろうが、頻繁に着替え、女装しという演出の要求に良く応じている。アヴェモ、フレドリヒ、フレンケルの女声トリオもいずれも好演。歌手陣のなかで最年長なのは敵役4役+ルーテルを演ずるフォレ、彼はこのところヘアハイムの舞台には欠かせない。さらにオッフェンバックそっくりの扮装で、召使い3役を演ずるモルターニュもいい。

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     2016/05/30

    世界を股にかける山田和樹といえどもマーラーの大作を振らせてもらえる機会は、まだそんなにはあるまい。だからこのマーラー・ツィクルスは彼にとっても日フィルにとってもいい勉強の機会だと思ったのだが、早くもそれを録音してCD化してしまうとは。人気者は大変だ。しかし、私の見るところEXTONはこのツィクルスを全部録音しているようだが(市販の意図はないと思うが、一部は録画もされている)、CDとしての発売は2番と6番だけというのは良心的だ。第1ツィクルスの中では第2番が、第2ツィクルスの中ではこの第6番が抜群の出来だったからだ。マーラーの総譜が要求するデジタル的な楽想の急変に山田の棒はまだあちこちでついていけていないし、アイロニー、パロディといった屈折したメタ・ミュージックにも十分に対応できていない。そんな中で2番、6番が成功しているのは、そういう要素が比較的少ない、ベートーヴェン以来の主題労作原理でできたソナタ形式への対応で押し切れてしまう曲だからだろう。さて、そこでこの6番だが、余裕のあるテンポを好むことが多いこの指揮者としては珍しく、第1・第2楽章はかなり速い。もちろんアルマの主題やスケルツォのトリオではテンポが落ちるが、そこでも過度に引きずるようなことはしない。第1楽章第1主題とスケルツォ冒頭主題は同じ楽想の変形だが、テンポの面で落差を付けようとはせず、むしろ、ひとつながりの音楽として古典的に、スクウェアにまとめようというわけだ。一方、第3楽章アンダンテ・モデラートは最近の流行に反して、むしろ遅めのテンポで細やかに歌う。この楽章順をとった必然性が良く了解できる解釈。終楽章も基本テンポ遅めで克明に描く。個人的にはもう少し暴れてほしいけど、そこまではしないのが彼の個性なのだろう。近年、演奏力の向上めざましい在京オケの中でも「伸び率」では一番の日本フィル(はっきり言って、一昔前は周回遅れ気味だったけど、今や堂々のトップ・グループだ)、さすがに終楽章あたりは「余裕を持った」演奏ではないけれど、かえって緊張感が伝わってきていい。 

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     2016/05/04

    データによれば2011年6月、2012年5月、2013年3月とずいぶん時間をかけた録音。しかもライヴではない。フィリップスへのショスタコーヴィチ交響曲の最初の録音も8番だったし、やはりこの曲には特別な思い入れがある様子。ゲルギエフのショスタコーヴィチ録音(なぜか『ムツェンスクのマクベス夫人』をまだ録音も録画もしていないが)の中では第一に推されるべき出来ばえだろう。この曲の録音はどうしてもムラヴィンスキーと比べられてしまう宿命がある。ウィッグルスワースのように暴力的な大音量、いわば音圧で押しまくるのを避けて、内省的な演奏に徹するしかムラヴィンスキーの呪縛から抜け出す手はないように思えるが、ゲルギエフは基本的にムラヴィンスキー路線。その現代版、あるいは進化版だ。今回は特に両端楽章のテンポがムラヴィンスキーより遅いので、より丁寧な印象が強いが、クライマックスでの大音量はいつも通り、いや、いつも以上。第3楽章は「アレグロ・ノン・トロッポ」の指定を守って、あまり速くならないが、むしろ機械的なインテンポの遵守が酷薄な感触を強めている。最後の一撃(譜面上は第4楽章冒頭)の凄まじさは、スピーカーが飛びそうなほど。

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  • 13 people agree with this review
     2016/05/03

    発売から一年経つが、まだレビューがありませんね。確かに大変な難事業、ゲルギエフ以外にはできそうにない仕事であるのは確か。幸いカメラワークも穏当、録音・録画ともにきわめて良好だ。まだ演奏機会の少ない第2番、第3番を含めて全曲の録画が揃うのはありがたいが、ただし、すべての曲が「最高の名演」でないことは言わねばなるまい。たとえば第4番、それなりにサマにはなっているが、突っ込みに欠ける、彫りの浅い箇所が随所にある。ラトル/ベルリン・フィル(デジタルコンサートホールに二種類の録画がある)と比べれば一目瞭然だ。第5番は最大公約数的な解釈。徹底的に重厚な、シリアス路線で行くわけでもなく、アイロニーや茶化しなど軽みを重んじた解釈でもなく、どうも中途半端だ。第13番も意外に粗く、ロシア語ネイティヴの合唱団の強みを生かしきれていないし、第14番も大味だ(バスはこちらのペトレンコが良いが、ソプラノは2012年7月ペテルスブルク録画、辻井の弾くチャイコフスキー:ピアノ協奏曲第1番の後プロのセルゲーエワの方が良い)。しかし、繊細かつシャープな第6番、第9番は素晴らしいし、第7番、第8番、第11番といった「壁画的」な大曲はおおむね良い出来。協奏曲集も貴重な映像が多い。二つのピアノ協奏曲にトリフォノフ、マツーエフとは何とも豪華だが、大好きなピアノ協奏曲第1番の映像はここで初めて見た。史上屈指のヴァイオリン協奏曲、第1番でのレーピンの演奏も嬉しい。
    星を一つ減らしたもう一つの理由は、ライナー・E・モーリッツのドキュメンタリー『多くの顔を持つ男』が、20年ほど前のラリー・ワインスティーンの作品『ショスタコーヴィチの反抗』と違って、今となっては毒にも薬にもならぬ凡庸な内容であること、およびゲルギエフの曲についてのコメントがことごとく当たり障りのない話に終始していること。ロシア国内で重要なポストにある人間としては、まだ発言を自己規制せざるをえないようだ。交響曲全集のライナーノートをすべて自分で執筆しているマーク・ウィッグルスワース(演奏も良いが、ライナーも力作揃い)に遠く及ばない。

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     2016/04/24

    きわめて個性の鮮明な演奏。チャイコフスキーのバレエ音楽は大別すれば二種類の音楽でできている。第1に劇的あるいは抒情的な、いわば交響曲のような音楽。これはチャイコフスキー以前のバレエ音楽には無かったものである。第2は踊りそのものに即した様々な舞曲。このコンビの演奏、前者の系統の音楽はほぼダメだ。特に抒情的な音楽は壊滅的。たとえば冒頭の序奏ではカラボスの主題が終わって、ホ長調のリラの精の主題になったとたん、CDをプレーヤーから取り出したくなるし、第2幕の名高い「パノラマ」もどうしてこんなに素っ気なく演奏できるのか、腹が立つほど。ところが後者の方、舞曲形式の音楽になると、とたんに演奏が精彩を放ち始める。第1幕の「ワルツ」だけは例外的に遅めのテンポで、しなやかなテンポ・ルバートが見事だが、概してテンポは速め。実際のバレエの舞台で良くあるように、ナンバーの終わりでリタルダンドして「見得を切る」箇所もあるが、実際の舞台に即した演奏とも言えまい。この速いテンポで踊るのは事実上、不可能だ。スタッカート気味な音楽の駆り立てが随所で効果をあげていて、普通の演奏だと何事もない序奏の次の「行進曲」なども思いがけぬヴィルトゥオーゾ・ピースに変貌している。特に絢爛豪華な第3幕のディヴェルティスマンは圧巻。ベルゲン・フィルは田舎のオケどころか、この録音に限れば非常に華やかな響きで、メジャー・オーケストラも真っ青だ。

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  • 2 people agree with this review
     2016/04/16

    下手をすると支離滅裂になりかねないストーリーにちゃんと筋を通した非常にいい演出。現代への時代変更はそんなにめざましく成功したとは思わないが、教会関係者がカルトな秘密結社の面々に見えるのは、いかにもクシェイ演出らしい。カラトラーヴァ伯爵とグァルディーニ神父を同じ歌手に歌わせたのはウィーンのパウントニー演出も同じだが、この演出では父親の娘に対する近親相姦的な独占欲をはっきりと見せるので、神父は父親の生まれ変わりとしか思えない。『運命の力』という題名は、近代社会におけるそういう普遍的な状況に対する呼び名という解釈だ。父親の代行者であるドン・カルロをレオノーラの弟にしたこと、第1幕のカラトラーヴァ家にあった食卓のテーブル(序曲の間に夕食の様子を見せる)が常に同じ場所に置かれていること、さらにはカラトラーヴァ伯爵の遺体が第2幕第1場の間じゅう舞台上にあることなど、いずれも納得できる工夫だ。
    ハルテロス/カウフマンの超強力コンビについては、もはや何も言うことはない。ドイツ人であっても全く違和感ないし、現在、望みうる最上のヴェルディ歌唱だ。テジエ、コワリョフと脇役陣も申し分ない。ただひとつ残念なのは、アッシャー・フィッシュの指揮。手堅い出来ではあるが、演出が精神分析的なものなだけに、さらに積極的な音楽への踏み込みが欲しかった。

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     2016/04/16

    それなりに舞台は華やかだけど、ストーリーは全然ゲーテじゃないし、もはや手垢にまみれてダサい印象しか受けないグノーの『ファウスト』。しかしノゼダの切れ味鋭い指揮と、演出、振付から装置と衣装のデザイン、照明デザインまで一人で担当したポーダが鮮やかに作品を蘇らせた。セットは魔法陣を模した円形の廻り舞台の中央に巨大な可動式のリングを置いたもの。最初の場面では一番外側の円に沿って砂時計が並べられ、リングの象徴する「円環の時間」と砂時計の象徴する「流れ去って還らぬ時間」の対比を巧みに表現する。酒場の場(ジャケ写真)での人々の衣装も何ともファッショナブルだが、例のワルツの場面は痙攣的な集団舞踏に変容しているし、ワルプルギスの夜(バレエ音楽は最初と最後だけに縮減)ももちろん普通のクラシック・バレエではなく、黒塗りの裸のダンサー達による暗黒舞踏風ダンスになっている。マルグリートの前に「円環の時間」が開かれるのに対し、ファウストとメフィストフェレスには砂時計が手渡されるという皮肉な幕切れも見事で、本来、ゲーテの詩劇とはかけ離れたオペラからゲーテの精神を垣間見させる演出と言えよう。
    カストロノーヴォの軽い声による題名役はデリケートな繊細さが出色。けれども、これまでの彼に比べれば、かなりスピントで劇的な表現も見せる。一方のアブドラザコフは「怪物的」な声の持ち主だが、メフィストフェレスはしばしばファウスト役を食ってしまいがちなので、悪魔的な表情の誇張をやや抑えているように聴こえる。とてもいいセンスだ。ルングも軽めの声のソプラノだが、初登場の場面では童女のようにすら見える美貌は、このような映像作品ではありがたい。

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     2016/04/04

    フランス語圏(モントリオール)出身ながら、ブルックナーもマーラーも盛んに振っているネゼ=セガン。マーラーではモントリオールのオルケストル・メトロポリタンを振った第10番(クック版)の全く構えたところのない素直な演奏が印象的だったが、第1番は2014年6月、フィラデルフィア管との来日公演でも指揮した演目。これはその直後の録音だが、オケはこの曲に最適の団体が選ばれた。響きのバランスも強弱も緩急も、ことさら人と違うことをしようとはしない演奏で、一聴しての個性の刻印という点では、バッティストーニの方が鮮明だが、こちらも決して無個性な演奏ではない。スケルツォのトリオでのグリッサンドの克明な実行、葬送行進曲のクレズマー風の響きの作り方など、現代のマーラー演奏では定番だが、もちろん的確。しかし、それ以上にまず特筆したいのは、流れのスムーズさ。たとえば第1、第2楽章最後のアッチェレランドはお見事だし、終楽章第1主題部の「少し減速 Zuruckhalten」からア・テンポ(第106小節)へとテンポが変わるところなど、何百回と聴いて私の耳に染みついているバーンスタイン/ニューヨーク・フィルは強烈にアクセルを踏み込んで、ア・テンポ以上に速くなるのだが、ネゼ=セガンは流れるように減速、加速する。さらに、歌の美しさもこの指揮者の美質。終楽章の第2主題、とりわけ第1楽章序奏回想部から第2主題再現にかけての弦楽器のつややかな歌いっぷりには惚れ惚れする。演奏全体から醸し出される若々しい雰囲気は、まさしくこの曲にふさわしい。ちなみにこの盤、ジャケットにもディスク表にも『巨人 Titan』というニックネームが書かれなくなった。このように四楽章版で演奏するのなら、まさにこれが正解であり、大変結構なことだ。

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     2016/03/28

    DSOLiveは良く言えばホールトーン重視、音源が遠い感じで、音量レベルも低い。ズヴェーデンのオランダでの録音、特にEXTONの鮮麗な音とはひどくギャップがあるが、アンプで補正すればそれなりに聴ける音になる。『モーツァルティアーナ』は音場の感じが交響曲と全く違い、こちらはセッション録音ではないかという気がするが、例によって録音データが全くない(マーラー6番以降から記載されるようになる)。2009/2010シーズンのライヴではないかと思われるが、ダラス響のHPに行っても過去の定期演奏会曲目なんて何も分からないし、いかにもアメリカ的というか南部的だ。
    さて、ニューヨーク・フィルの次のシェフに指名されたのを機に、この指揮者の録音をあれこれ聴いてみたが、これが最も個性的だ。怖そうなご面相に似合わず、細やかな神経の持ち主。細部に色々とこだわる人らしく、4番の交響曲では冒頭の運命動機から独特な譜読みを見せる。このモティーフが戻ってくるたびに常に同じなので、指揮者の解釈であることが分かる。マンフレート・ホーネックなどと同じく弦楽器出身、そもそもコンセルトヘボウの元コンマスなので、弦楽器の弾かせ方にもこだわりがある様子。楽譜にない強弱を盛んにつける。テンポに関しては、あまり極端なことをする人という印象はないが、この曲では両端楽章が非常に速い。終楽章の最後には盛大な拍手とブラヴォーが入っているので、実演奏時間は7分30秒ほどか。この楽章の史上最速演奏の一つだが、野放図にオケを驀進させるのではなく、最後まで良くコントロールされており、その点ではスヴェトラーノフよりはムラヴィンスキーに近い。これなら聴衆の熱狂も当然だろう。

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     2016/03/15

    第6番がいかに傑作であるかは近年、かなり良く知られてきていると思う。皮肉っぽい第1楽章アレグロ・モデラート、沈鬱な第2楽章ラルゴにハイドン風の能天気な第3楽章ヴィヴァーチェが続くが、最後に第1楽章第2主題が戻ってきて、凄まじい「悲嘆の絶叫」で全曲が終わってしまう。スターリン体制下でこんなアブナい交響曲を初演するなんて、プロコフィエフも無防備すぎるが、この作曲家としては珍しく、彼自身の「ナマ」な声を(かなりアイロニーや技巧がまぶされているとしても)聴ける作品として貴重だ。ディスクでは別のところで誉めたカラビツ指揮の全集中の一枚も、もちろん見事だが、こちらは第5番と第6番という明+暗の大作2曲を一枚のCDに入れてしまったお買い得盤。オラモのテンポが速いから実現したカップリングではある(曲間のトラックを含めた総演奏時間は79:59)。第6番でのオラモやカラビツの良さはロシア人指揮者ほど第1、第2楽章のテンポが遅くなく、粘らないこと。しかし、それは楽想に対する踏み込みが甘いということでは決してなく、第2楽章まではクールに描いて、必要以上に暗さ、ドロドロ感を強調しないということだ。そのために、きわめて急速なテンポで始まり(いわゆるピリオド・スタイルの感覚と同じ俊敏さだと思う)、最後は思いっきり遅くなる終楽章の明から暗への推移がきわだって聴こえる。フィンランド放送響の表出力も素晴らしい。シベリウス交響曲全曲録画を観た限りでは、後任のハンヌ・リントゥは喋りは達者だが、棒振りの方はイマイチの感。やはりオラモは天才だったなと実感する。

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