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0 people agree with this review 2011/07/04
先ずは、本XRCD盤の極上の超高音質を高く評価したい。正直言って、1970年代の録音がこれほどまでに新鮮味溢れる高音質に生まれ変わるとは思ってもみなかった。あたかも最新録音であるかのようであり、眼前でコンサートが行われているかのような錯覚さえ思い起こさせるほどだ。弦楽器の細かい動きといい、弦楽器と見事に分離して聴こえるチェンバロの精緻な響きといい、実に素晴らしいの一言。ヴィヴァルディのヴァイオリン協奏曲集「四季」のこれまでの高音質のCDと言えば、SACD化されたアーヨとのイ・ムジチ盤や、マルチチャンネル付きのヤンセン盤があり、演奏の素晴らしさも相まって極上の名演に仕上がっていると言えるが、本盤も、後述のような演奏の水準の高さも相まって、これらの名盤に匹敵する至高の名盤として高く評価したいと考える。そして演奏内容も素晴らしい。ヴィヴァルディはイタリアの作曲家ではあるが、本盤は、いかにもフランスの音楽家たちが成し遂げた瀟洒な味わいによる「四季」と言える。同じくラテン系ではあるが、ここには、そうしたラテン系の明るさとともに、フランス風のエスプリ漂う極上の優美さ、そして瀟洒な味わいが備わっていると言えるところだ。このような洒落たセンス満点の「四季」は、他にもあまり類例は見ないところであり、聴いていて、あたかもヴィンテージものの高級ワインを味わっているかのような、最高の気分を味わうことができる極上の名演と言えるだろう。なお、本盤はXRCD盤であるが、数年前に発売されていたSHM−CD仕様によるXRCD盤は、若干ではあるが音質がよりまろやかであったように思われる。もっとも、それは高いレベルでの比較の問題であり、敢えて買い替えを行うほどの違いは存在していないと考える。
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6 people agree with this review 2011/07/04
本盤には、レヴァインが主として1970年代(第7番のみ1980年)に演奏したマーラーの交響曲のスタジオ録音がおさめられている。全集ではなく、第2番及び第8番、そして「大地の歌」が存在していないのは残念な気がするが、他方、第10番についてはアダージョではなく、デリック・クック第3稿第1版による全曲版をおさめており、収録曲については一長一短と言えるのかもしれない。演奏は素晴らしい。いずれも極めて優れた名演と高く評価したいと考える。レヴァインのアプローチは、その大柄な体躯を思わせるような骨太で迫力満点のエネルギッシュなものだ。奇を衒ったりすることはいささかもなく、あくまでも直球勝負。シカゴ交響楽団やフィラデルフィア管弦楽団、そしてロンドン交響楽団などと言った一流のオーケストラを巧みにドライブして、曲想を精緻かつ丁寧に、そしてダイナミックに描き出していくものであると言える。したがって、マーラーの交響曲の魅力をそのままの形で満喫させてくれるのが素晴らしいと言える。このようなオーソドックスとも言えるような純音楽的なアプローチは、近年ではジンマン、ティルソン・トーマス、マーツァルなど現代におけるマーラーの演奏様式の主流となりつつあると言えるが、本盤の演奏当時の1970年代においては、むしろ少数派であったと言えるのではないか。マーラーの直弟子でもあったワルターやクレンペラーによる演奏は別格として、バーンスタインによるドラマティックで劇的な演奏や、ショルティによる無慈悲なまでの強烈無比な演奏、クーベリックによるボヘミア風の素朴な味わいの演奏、カラヤンによる耽美的な絶対美を誇る演奏など、海千山千の指揮者による個性的な名演が跋扈し、アバドやマゼール、テンシュテット、インバルなどによる演奏の登場もこれからが本番という時期でもあった。そのような個性的な演奏があまた存在している中で、敢えて純音楽的に徹した演奏を行ったレヴァインのアプローチには、ある種の新鮮さを感じるとともに、現代におけるマーラー演奏の先駆けとも言える存在ではないかとさえ考えられるところだ。もちろん、レヴァインによるマーラーの演奏には、バーンスタインやテンシュテットなどによるドラマティックで劇的な演奏にように、我々聴き手の肺腑を打つような奥行きの深さなどは薬にもしたくないが、マーラーの交響曲の美しさ、素晴らしさを安定した気持ちで心行くまで満喫させてくれるという意味においては、1970年代以前に録音された演奏の中では、本盤の演奏の右に出るものはないのではないかと考えられるところだ。いずれにしても、本盤のマーラーの交響曲選集は、若きレヴァインによる爽快な名演であり、3007円という廉価であることに鑑みても、安心してお薦めできる名選集であると高く評価したいと考える。
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クーベリックが手兵バイエルン放送交響楽団とともに1980年にスタジオ録音したモーツァルトの後期6大交響曲集は、往年のワルターやベームの名演にも匹敵する素晴らしい名演である。したがって、クーベリックによるモーツァルトの交響曲録音の代表盤としては、1982年のレコード・アカデミー賞も受賞した当該スタジオ録音を掲げるのが一般的であり、私としてもそれに異論を差し挟むつもりはない。しかしながら、本盤におさめられたモーツァルトの交響曲第40番及び第41番は1985年のライヴ録音であり、前述のスタジオ録音に比較すると一般的にはあまり知られていない音源であると言えるが、演奏自体ははるかに本演奏の方が上であり、知る人ぞ知る至高の超名演と高く評価したい。本演奏が前述のスタジオ録音と大きく異なるのは、深沈たる奥行きの深さと圧倒的な高揚感と言えるのではないか。クーベリックは実演でこそ本領を発揮する指揮者であり、本演奏においてもその真骨頂が存在していると言える。前述のスタジオ録音においてもシンフォニックで優美な演奏に仕上がっていたが、本演奏では悠揚迫らぬインテンポで曲想を堂々と描き出していくとともに、楽曲の頂点に向けて畳み掛けていくような気迫や高揚感が満ち溢れており、スタジオ録音以上に力強い気迫や生命力、そして奥行きのある演奏に仕上がっていると言える。とりわけ第41番の終楽章はヴァイオリン両翼型の配置による立体的な響きが、本演奏の類稀なる高揚感に一躍買っている点を忘れてはならない。また、スタジオ録音では基本的に反復を省略していたが、本演奏ではすべての反復を実施している。その結果、両曲で約75分(第40番は約35分、そして第41番は何と約40分)という長大な演奏となっているが、いささかも冗長さを感じさせることもなく、むしろ音楽が濃密で、なおかつスケールが極めて雄大なものとなっているのも本名演に大きく貢献していると言える。いずれにしても、1985年当時はクーベリックもコンサートの回数を限定して、引退をも念頭に置いていた時期に相当するが、それだけにクーベリックの本演奏にかける、燃えるような渾身の情熱を感じることが可能であり、いい意味での知情兼備の彫の深い至高の超名演に仕上がっていると高く評価したいと考える。録音は、低音を絞り気味にすることで悪名高いオルフェオレーベルであり完全に満足できる音質とは言い難いが、それでも楽曲がモーツァルトの交響曲であること、そして1985年のライヴ録音ということに鑑みれば文句は言えないレベルの音質に仕上がっていると言っても過言ではあるまい。
6 people agree with this review 2011/07/03
本盤にはチャイコフスキーの三大バレエ音楽からの有名曲の抜粋がおさめられているが、いずれも素晴らしい超名演であると高く評価したい。カラヤンは、チャイコフスキーを得意中の得意としており、三大バレエ音楽からの抜粋についても、フィルハーモニア管弦楽団との演奏(1952、1959年)、ウィーン・フィルとの演奏(1961、1965年)、そして本盤におさめられたベルリン・フィルとの演奏(1966、1971年)と3度にわたってスタジオ録音を行っている。また、組曲「くるみ割り人形」については、幻想序曲「ロミオとジュリエット」との組み合わせで1982年にも録音を行っている。いずれ劣らぬ名演であると言えるが、この中で最もカラヤンの個性が発揮された名演は、本盤におさめられたベルリン・フィルとの演奏であると考えられる。本演奏の録音当時は、正にカラヤン&ベルリン・フィルという稀代の黄金コンビの全盛時代であったと言える。分厚い弦楽合奏、ブリリアントなブラスセクションの響き、桁外れのテクニックをベースに美音を振り撒く木管楽器群、そして雷鳴のように轟きわたるティンパニなどが、鉄壁のアンサンブルの下に融合し、およそ信じ難いような超絶的な名演奏の数々を繰り広げていたと言える。カラヤンは、このようなベルリン・フィルをしっかりと統率するとともに、流麗なレガートを施すことによっていわゆるカラヤンサウンドを醸成し、オーケストラ演奏の極致とも言うべき圧倒的な音のドラマを構築していた。本演奏においても圧倒的な音のドラマは健在であり、その演奏は正に豪華絢爛にして豪奢。おそらくは、これらの楽曲の演奏史上でも最も重厚にして華麗な演奏と言っても過言ではあるまい。楽曲がチャイコフスキーの三大バレエ音楽だけに、カラヤンによるこのようなアプローチは見事に功を奏しており、私としては、本演奏こそが、これらの楽曲(組曲等の抜粋の形での演奏)の演奏史上最高峰の玉座に君臨する至高の超名演と高く評価したいと考える。録音は、従来盤でも十分に満足できる音質であると言えるが、カラヤンによる至高の超名演でもあり、今後はSHM−CD化、そして可能であればシングルレイヤーによるSACD&SHM−CD化を図るなど更なる高音質化を大いに望んでおきたいと考える。
4 people agree with this review 2011/07/03
本盤におさめられたベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲は、カラヤンの秘蔵っ子であったムターとともにスタジオ録音を行った演奏だ。当時、いまだハイティーンであったムターに対して、カラヤンは同曲を弾きこなせるようになったら録音しようと宿題を出したとのことである。しかしながら、懸命の練習の結果、同曲を弾きこなせるようになったムターであったが、その演奏をカラヤンに認めてもらえずに、もう一度宿題を課せられたとのことである。それだけに、本演奏には、ムターが若いながらも一生懸命に練習を積み重ね、カラヤンとしても漸くその演奏を認めるまでに至った成果が刻み込まれていると言えるだろう。カラヤンは、協奏曲録音においては、とかくフェラスやワイセンベルクなどとの演奏のように、ソリストがカラヤン&ベルリン・フィルによる演奏の一部に溶け込んでしまう傾向も散見されるところだ。しかしながら、ムターとの演奏では、もちろん基本的にはカラヤンのペースに則った演奏ではあるが、ムターの才能と将来性を最大限に引き立てようとの配慮さえ見られると言える。カラヤンの伝記を著したリチャード・オズボーン氏が、モーツァルトの協奏曲の演奏の項で、「高速のスポーツカーに乗った可愛い娘を追いかけて、曲がりくねった慣れない田舎道を飛ばす。」と記しているが、本盤のベートーヴェンの協奏曲の演奏も、正にそのような趣きを感じさせる名演であると言える。本盤の演奏におけるムターのヴァイオリンは、いつものムターのように骨太の音楽づくりではなく、むしろ線の細さを感じさせるきらいもないわけではないが、それでも、トゥッティにおける力強さや強靭な気迫、そしてとりわけ緩徐楽章における伸びやかでスケールの大きい歌い回しなど、随所にムターの美質を感じることが可能だ。ムターの個性が全開の演奏ということであれば、マズア&ニューヨーク・フィルとの演奏(2002年)の方を採るべきであるが、オーケストラ演奏の重厚さや巧さなどと言った点を総合的に勘案すれば、本演奏の方を断然上位に掲げたいと考える。カラヤン&ベルリン・フィルは、本演奏の当時は正にこの黄金コンビが最後の輝きを見せた時期でもあったが、それだけに重厚にして華麗ないわゆるカラヤンサウンドを駆使した圧倒的な音のドラマは本演奏においても健在であり、ムターのヴァイオリンをしっかりと下支えしているのが素晴らしい。録音は、リマスタリングが施されたこともあって、比較的良好な音質であると言えるが、カラヤン、そしてムターによる素晴らしい名演でもあり、今後はSHM−CD化、可能であればシングルレイヤーによるSACD&SHM−CD化を図るなど、更なる高音質化を大いに望んでおきたいと考える。
4 people agree with this review
0 people agree with this review 2011/07/03
本盤の売りは、全盛期のシカゴ交響楽団の超絶的な技量とXRCDによる極上の高音質録音であると言える。シカゴ交響楽団と言えば、ショルティの時代におけるスーパー軍団ぶりが記憶に新しいところだ。このコンビによる来日時のマーラーの交響曲第5番を聴いたことがあるが、実演であるにもかかわらず一切のミスをしない鉄壁のアンサンブルや、各管楽セクションの超絶的な技量、そして金管楽器の大音量に度肝を抜かれたものであった。ハーセスやクレヴェンジャーなどのスタープレイヤーが揃っていたこともあるが、それ以上にショルティの薫陶にも多大なものがあったと言えるのではないだろうか。ただ、ショルティがかかるスーパー軍団を一から作り上げたというわけでなく、シカゴ交響楽団に既にそのような素地が出来上がっていたと言うべきであろう。そして、その素地を作っていたのは、紛れもなくライナーであると考えられる。それは、本盤におさめられたベートーヴェンの田園の演奏を聴くとよくわかるはずだ。オーケストラのアンサンブルの鉄壁さは言うに及ばず、金管楽器や木管楽器の力量も卓越したものがあり、ここぞという時の迫力(とりわけ第4楽章)も圧倒的であると言える。もっとも、ショルティ時代よりも演奏全体に艶やかさがあると言えるところであり、音楽性という意味では先輩ライナーの方に一日の長があると言えるだろう。こうしたライナー指揮によるシカゴ交響楽団による素晴らしい演奏を完璧に捉えきったXRCDによる極上の高音質録音も素晴らしい。特に弦楽合奏の艶やかな響きには抗し難い魅力があり、とても今から50年前の録音とは思えないような鮮明さを誇っていると言える。あらためて、XRCDの潜在能力の高さを思い知った次第だ。以上は、本XRCD盤の長所について指摘したが、演奏自体は必ずしも深みのあるものではなく、その意味ではスコアに記された音符の表層を取り繕っただけの早めのテンポによる薄味ないささか外面的な演奏と酷評する聴き手も多いとも思われる。もっとも、私としては、外面的な効果がより一層際立った第5番よりはかかるアプローチも比較的成功しているのではないかと考えており、前述のようなXRCDによる極上の高音質を加味すれば、本盤全体としては文句のつけようがない水準に達していると高く評価したいと考える。
8 people agree with this review 2011/07/03
本盤におさめられたワーグナーの楽劇「ワルキューレ」は、フルトヴェングラーによる最後のスタジオ録音、そして最後の演奏となったものである。楽劇「トリスタンとイゾルデ」の成功によって、フルトヴェングラーもレコーディングというものを再評価し、楽劇「ニーベルングの指環」の全曲録音に挑むべく本演奏の録音を行ったのであるが、それを果たすことなくこの世を去ることになってしまったのは、フルトヴェングラー自身も心残りであったであろうし、クラシック音楽ファンにとっても大きな損失であったと言わざるを得ないだろう。それでも、遺された録音が楽劇「ラインの黄金」ではなく、楽劇「ワルキューレ」であったというのは不幸中の幸いであったと言えるのかもしれない。本演奏については、楽劇「トリスタンとイゾルデ」があまりも神々しい超名演であるために過小評価されているように思われるが、私としては、フルトヴェングラーによる畢生の名演として高く評価したいと考える。全体としては荘重な悠揚迫らぬインテンポで楽想を進行させているが、各登場人物の深層心理に鋭く切り込んで行く彫の深さ、そしてスケールの雄大さはいかにもフルトヴェングラーならではのものであり、とりわけ第1幕のジークムント、ジークリンデ、フンディングの間の心理戦におけるドラマティックにして奥行きのある表現は、正にフルトヴェングラーの真骨頂と言えるだろう。また、第3幕におけるヴォータンとブリュンヒルデの心の葛藤の描き方には、劇性をはるかに超越した枯淡の境地のようなものさえ感じられるところであり、フルトヴェングラーが構築した現世での最後の音楽に相応しい崇高さを湛えていると言える。歌手陣もフルトヴェングラーの彫の深い指揮に一歩も引けを取っておらず、特に、ブリュンヒルデ役のマルタ・メードルとジークリンデ役のレオニー・リザネクの歌唱は素晴らしく、ジークムント役のルートヴィヒ・ズートハウスも実力以上の歌唱を披露していると言える。ヴォータン役のフェルディナント・フランツの歌唱も重厚さと厳かな威厳を湛えていて圧倒的な迫力を誇っていると言える。フルトヴェングラーの統率の下、最高のパフォーマンスを示したウィーン・フィルにも大きな拍手を送りたい。録音は、従来盤でも1954年のスタジオ録音ということもあって、フルトヴェングラーのCDとしては比較的満足できる音質を誇ってはいたが、今般のSACD化によって見違えるような素晴らしい高音質に生まれ変わった。とりわけ、歌手陣の息遣いまでが鮮明に再現されるのは驚異的ですらあり、フルトヴェングラーの遺言とも言うべき至高の超名演を、現在望み得る最高の音質で味わうことができるのを大いに喜びたい。
8 people agree with this review
16 people agree with this review 2011/07/02
本盤にはクーベリックが1967年から1971年という短期間で完成させたマーラーの交響曲全集がおさめられている。本盤の録音当時は、近年のようなマーラーブームが到来する以前であり、ワルターやクレンペラーなどのマーラーの直弟子によるいくつかの交響曲の録音はあったが、バーンスタインやショルティによる全集は同時進行中であり、本全集は極めて希少な存在であったと言える。そして、本全集は既に録音から40年が経過したが、現在においてもその価値をいささかも失うことがない素晴らしい名全集と高く評価したいと考える。本演奏におけるクーベリックのアプローチは、ある意味では極めて地味で素朴とも言えるものだ。バーンスタインやテンシュテットのような劇場型の演奏ではなく、シノーポリのような楽曲の細部に至るまで彫琢の限りを尽くした明晰な演奏を旨としているわけではない。また、ブーレーズやジンマンのような徹底したスコアリーディングに基づいた精緻な演奏でもなく、シャイーやティルソン・トーマスのような光彩陸離たるオーケストレーションの醍醐味を味あわせてくれるわけでもない。クーベリックはむしろ、表情過多に陥ったり、賑々しい音響に陥ることがないように腐心しているようにさえ思われるところであり、前述のような様々な面において個性的な演奏に慣れた耳で聴くと、いささか物足りないと感じる聴き手も多いのではないかとも考えられる。しかしながら、一聴するとやや早めのテンポで武骨にも感じられる各旋律の端々から滲み出してくる滋味豊かさには抗し難い魅力があると言えるところであり、噛めば噛むほど味わいが出てくる演奏ということが可能であると言える。地味な演奏というよりは滋味溢れる演奏と言えるところであり、とりわけ、マーラーがボヘミア地方出身であることに起因する民謡風な旋律や民俗的な舞曲風のリズムの情感豊かで巧みな表現には比類がない美しさと巧さがあると言える。いずれにしても、近年の賑々しいマーラー演奏に慣れた耳を綺麗に洗い流してくれるような演奏とも言えるところであり、その滋味豊かな味わい深さという点においては、今後とも普遍的な価値を有し続ける至高の名全集と高く評価したい。なお、クーベリックはスタジオ録音よりも実演でこそ実力を発揮する指揮者であり、本全集と同時期のライヴ録音が独アウディーテから発売されている(ただし、第4番と第10番は存在していない。)。当該独アウディーテ盤は、本全集には含まれていない「大地の歌」やSACD盤で発売された第8番など魅力的なラインナップであり、楽曲によっては当該ライヴ録音の方が優れた演奏がないわけではないが、オーケストラの安定性などを総合的に考慮すれば、本全集の価値はなお不変であると考える。録音については、私は1989年に初CD化された全集を所有しており、それは現在でも十分に満足し得る音質であると言える。もっとも、その後一部の交響曲についてはリマスタリングが行われたようであるが、クーベリックによる貴重な遺産でもあり、今後はSHM−CD化、さらにはSACD化を図るなど、更なる高音質化を大いに求めておきたいと考える。
16 people agree with this review
3 people agree with this review 2011/07/02
本盤におさめられた歌劇「ローエングリン」は、ワーグナーの主要オペラをすべて録音したショルティによる一連の録音の掉尾を飾るもの(その他には、晩年の楽劇「ニュルンベルクのマイスタージンガー」のコンサート形式による録音が存在している。)である。ショルティのワーグナーについては、最初期の楽劇「ニーベルングの指環」は別格の名演であると言えるが、その他のオペラの中には呼吸の浅い浅薄な演奏もいくつか存在している。これはワーグナーのオペラに限らず他の諸曲にも共通していると言えるが(マーラーの交響曲第5番のように、成功した名演もあることに留意しておく必要がある。)、そのようなショルティも1980年代半ばになると円熟の境地に達したせいか、奥行きの深い演奏を繰り広げるようになってきたように思われる。例えば、ブルックナーの交響曲第9番の名演(1985年)などが掲げられるところであり、ショルティもこの頃になって漸く名実ともに真の円熟の大指揮者となったと言っても過言ではあるまい。本演奏も、そうした円熟のショルティの至芸を味わうことができるスケール雄大な名演と言えるところであり、前述の楽劇「ニーベルングの指環」を除けば、ショルティのワーグナーのオペラの中では最も素晴らしい名演と高く評価したい。円熟のスケール雄大な名演と言っても、本演奏においても、例によって拍が明瞭でアクセントがやや強めであることや、第2幕におけるブラスセクションによる最強奏など、いわゆるショルティらしい迫力満点の正確無比な演奏を繰り広げているのであるが、ウィーン・フィルによる美演が演奏全体に適度の潤いと温もりを付加させているのを忘れてはならない。ショルティとウィーン・フィルの関係は微妙なものがあり、必ずしも良好とは言えなかったとのことであるが、少なくとも遺された録音を聴く限りにおいては、両者が互いに協調し合った名演奏を繰り広げていると言えるのではないだろうか。また、歌手陣も極めて豪華な布陣と言える。ジェシー・ノーマンのエルザ役には若干の疑問符を付けざるを得ないが、ドミンゴのローエングリン役は意表をついたキャスティングながら見事なはまり役。ゾーンティンの国王ハインリッヒ役は威厳があって素晴らしい歌唱を披露している。加えて、軍令使役にフィッシャー・ディースカウを起用するという何とも贅沢なキャスティングは、本名演に大きく貢献しているのを忘れてはならない。なお、本盤は英デッカによる今はなきゾフィエンザールにおける最後の録音であるという意味においても貴重であり、その鮮明な極上の高音質録音についても高く評価したいと考える。
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12 people agree with this review 2011/07/02
EMIによるフルトヴェングラーの歴史的遺産のSACD化は、本年1月の交響曲及び管弦楽曲を皮切りとして、先月の協奏曲や声楽曲など多岐に渡るジャンルについて行われてきているが、今般の第4弾ではついにオペラが登場。ワーグナーの楽劇「トリスタンとイゾルデ」と「ワルキューレ」、ベートーヴェンの歌劇「フィデリオ」の3点という豪華ラインナップとなっている。いずれも名演であると思うが、その中でもベストの名演は楽劇「トリスタンとイゾルデ」と言えるのではないだろうか。それどころか本演奏は、フルトヴェングラーによるあらゆるオペラ録音の中でもダントツの名演であるとともに、様々な指揮者による同曲の名演の中でも、ベーム&バイロイト祝祭管による名演(1966年)、クライバー&ドレスデン国立管による名演(1980〜1982年)と並んでトップの座を争う至高の超名演と高く評価したい。レコーディング嫌いで有名であったフルトヴェングラーが、このような4時間近くも要する長大な作品をスタジオ録音したというのも奇跡的な所業と言えるところであり、フルトヴェングラーがいかにこの演奏に熱意を持って取り組んだのかを伺い知ることが可能であると言えるところだ。本演奏でのフルトヴェングラーは荘重にして悠揚迫らぬインテンポで曲想を進めていくが、ワーグナーが作曲した官能的な旋律の数々をロマンティシズム溢れる濃厚さで描き出しているのが素晴らしい。各登場人物の深層心理に鋭く切り込んでいくような彫の深さも健在であり、スケールも雄渾も極み。とりわけ終結部の「愛と死」における至純の美しさは、神々しいばかりの崇高さを湛えているとさえ言える。こうした濃厚で彫の深いフルトヴェングラーの指揮に対して、イゾルデ役のフラグスタートの歌唱も官能美の極みとも言うべき熱唱を披露しており、いささかも引けを取っていない。トリスタン役のズートハウスは実力以上のものを発揮していると言えるし、クルヴェナール役のフィッシャー・ディースカウも、後年のいささか巧さが鼻につくのとは別人のような名唱を披露していると言える。フィルハーモニア管弦楽団もフルトヴェングラーの統率の下、ドイツ風の重厚な演奏を展開しているのが素晴らしい。録音は、フルトヴェングラー自身がレコーディングに大変に満足していただけのこともあって、従来盤でもかなり満足し得る音質を誇っていたが、今般のSACD化によって見違えるような鮮明な音質に生まれ変わった。例えば、第2幕冒頭の弦楽器の繊細な合奏やホルンによる狩りの響き、そして歌手陣の息遣いまでが鮮明に再現されるのは殆ど驚異的ですらあり、このような歴史的な超名演を、現在望み得る最高の高音質で味わうことができるのを大いに歓迎したい。
12 people agree with this review
6 people agree with this review 2011/07/01
シューベルトは、交響曲などの管弦楽曲のジャンルにも傑作を遺しているが、どちらかと言えば、歌曲やピアノ曲、室内楽曲の方により傑作が多いと言えるのではないか。このうち、歌曲についてはここで言及するまでもないが、ピアノ曲についても、ピアノ・ソナタを軸として即興曲や楽興の時など膨大な作品を遺していると言える。ピアノ・ソナタについては、ベートーヴェンの32曲にもわたるピアノ・ソナタがあまりにも偉大であるため、それに続く独墺系の作曲家はかかるベートーヴェンの作品を意識したせいか、シューマンやブラームスなど、ピアノ・ソナタについてはわずかの作品しか遺していないと言える。その例外がシューベルトであると言えるが、シューベルトのピアノ・ソナタは、ベートーヴェンのそれとはまるで異なった独特の性格を有していると言える。シューベルトのピアノ・ソナタには、ベートーヴェンのピアノ・ソナタのいくつかの諸曲において顕著な苦悩から歓喜へと言った人生の闘争のようなドラマティックな要素など全くないと言える。それどころか、各楽曲における旋律は、ウィーン風の抒情に満ち溢れた美しさが支配していると言えるだろう。もっとも、一聴するとそうしたウィーン風の抒情に彩られた各旋律の端々には、人生への寂寥感や絶望感などが込められていると言えるところである。とりわけ、最晩年の3曲のピアノ・ソナタ(第19〜21番)については、そうした人生への寂寥感や絶望感がさらに深く刻み込まれていると言えるところであり、その内容の奥行きの深さ、深遠さにおいては、ベートーヴェンの最晩年の3つのソナタ(第30〜31番)やブルックナーの後期の交響曲(第7〜9番)にも比肩し得る崇高さを湛えていると言える。もちろん、これらの3曲のピアノ・ソナタにおいても、その表層は前述のようなウィーン風の抒情に彩られた美しい旋律が満ち溢れており、スコアの音符を精緻に音化しただけでもそれなりに美しい演奏になるとは言えるが、そのような演奏では、これらの楽曲に込められた奥深い内容を描出することは不可能であると言える。その意味では、内田光子による楽曲の内容の精神的な深みを徹底して追及するというアプローチは本演奏でも見事に功を奏しており、本盤におさめられたシューベルトのピアノ・ソナタのうち第15番以降の諸曲や、2つの即興曲集、そして3つの小品については、これらの各楽曲の様々なピアニストによる演奏の中でもトップの座を争う至高の超名演に仕上がっていると高く評価したい。とりわけ、最晩年の3曲のソナタの深みは尋常ならざるものがあり、本演奏を聴く際には相当の心構えがないと聴き通すこと自体が困難な峻厳さを湛えているとさえ言える。他方、ピアノ・ソナタの中でも第14番以前の諸曲、そして楽興の時や6つのドイツ舞曲については、もちろん名演の名には値する立派な演奏であるとは考えるが、いささか演奏自体が若干重々しくなってしまったきらいがあり、内田光子のアプローチには必ずしも符号しているとは言い難い作品と言えるのかもしれない。いずれにしても、本作品集全体としては、極めて優れた名演集と高く評価したいと考える。録音は従来盤でも十分に高音質であるが、このうちピアノ・ソナタ第7番と楽興の時をカプリングした一枚については、マルチチャンネル付きのSACD化がなされており(現在は入手難)、それは素晴らしい高音質であった。本ピアノ作品集の中でも、ピアノ・ソナタ第16番以降の諸曲や即興曲などの後期の作品については、それぞれの楽曲の演奏史上でもトップの座を争う至高の超名演であり、今後は、最低でもSHM−CD化、さらにはSACD化を図るなど、より一層の高音質化を大いに望んでおきたいと考える。
1990年代にブルックナーの交響曲の神々しいまでの崇高な超名演の数々を遺したヴァントや朝比奈が相次いで鬼籍に入ったことにより、現在では、いわゆるブルックナー指揮者と称される巨匠はスクロヴァチェフスキ一人となってしまった。とりわけ、ここ数年のスクロヴァチェフスキのブルックナー演奏は、かつてのヴァントや朝比奈のような高みに達しており、昨年の来日時に読売日本交響楽団と演奏された第7番及び第8番は、神々しいまでの崇高な超名演であった。もっとも、スクロヴァチェフスキが、このような崇高な超名演を成し遂げるようになったのは、この数年間のことであり、それ以前は名演ではあるものの、各楽器間のバランスや細部の解釈に気をとられるあまりいささか重厚さを損なうなど、もちろん名演ではあるが、ヴァントや朝比奈のような高みには達していなかったと言えるところだ。本盤におさめられたブルックナーの交響曲全集は、ヴァントや朝比奈が崇高な超名演の数々を成し遂げていた1991年〜2001年にかけて、スクロヴァチェフスキがザールブリュッケン放送交響楽団とスタジオ録音を行ったものである。前述の昨年の来日時の超名演においては、もちろん細部への拘りもあったが、むしろスケール雄大で骨太の音楽が全体を支配していたが、当該演奏と比較すると、本演奏でのスクロヴァチェフスキは、前述のように各楽器間のバランスを重視するとともに、スケール自体も必ずしも大きいとは言い難いと言える。もっとも、各楽器間のバランスを重視しても、録音の良さも多分にあるとは思われるが、重厚さを失っていないのはさすがと言えるだろう。また、細部への拘りも尋常ならざるものがあり、その意味では楽曲の細部に至るまで彫琢の限りを尽くした表現と言えるのかもしれないが、いささかも違和感を感じさせないのはさすがと言えるだろう。緩徐楽章などにおける旋律の歌い方には、ある種のロマンティシズムも感じさせるが、それが決していやではないのは、スクロヴァチェフスキがブルックナーの本質をしっかりと鷲掴みにしているからに他ならない。各交響曲の演奏ともに出来不出来はさほど大きいとは言えないが、それでも、第00番、第0番、第1番、第2番及び第6番といった、比較的規模の小さい交響曲においては、スクロヴァチェフスキによる細部への拘りや各楽器間のバランスを重視するアプローチがむしろ功を奏しており、他の指揮者による名演と比較しても十分に比肩し得る素晴らしい名演に仕上がっていると言える。他方、第5番や第8番については、一般的には名演の名に値すると思われるが、そのスケールの若干の小ささがいささか気になると言えなくもない。いずれにしても、本全集は、さすがに近年の演奏のような崇高な深みがあるとは言い難いが、現代を代表するブルックナー指揮者である巨匠スクロヴァチェフスキの名をいささかも辱めることのない、素晴らしい名全集と高く評価したいと考える。
ヤンソンスは、現在ではラトルやゲルギエフなどと並ぶ世界を代表する人気指揮者の一人である。コンセルトへボウ・アムステルダムとバイエルン放送交響楽団といった超一流の音楽監督を兼務するなど、名実ともに現代を代表する大指揮者であると言っても過言ではあるまい。ヤンソンスが初来日したのは1986年。当時、レニングラード・フィルの副指揮者をつとめていたヤンソンスは、ムラヴィンスキーが急病で来日をキャンセルしたこともあって、その代役としてレニングラード・フィルとともに数々の演奏会をこなしたのである。私は、大阪のシンフォニーホールで、ショスタコーヴィチの交響曲第6番とチャイコフスキーの交響曲第5番の演奏を聴いたが、今一つ感動を覚えた記憶がなく、果たしてこれほどの大指揮者になるなどとは思ってもみなかったところだ。本盤におさめられたショスタコーヴィチの交響曲全集は、いまだヤンソンスが若かった初来日の2年後の録音(1988年)である第7番を皮切りとして、2005年に録音された第13番に至るまで、何と17年もの歳月をかけて録音がなされたものである。そして、オーケストラについても、副指揮者をつとめていたレニングラード・フィルや現在音楽監督をつとめているバイエルン放送交響楽団、更には、ベルリン・フィル、ウィーン・フィル、フィラデルフィア管弦楽団、ピッツバーグ交響楽団、ロンドン・フィル、オスロ・フィルといった世界各国の8つのオーケストラを起用して録音がなされているというのも、本全集の大きな特徴と言えるだろう。ヤンソンスの芸風は、本全集の17年間に大きく変容しているとは言えるが、基本的には純音楽的なアプローチと言えるのではないだろうか。ムラヴィンスキーの下で副指揮者をつとめていたにもかかわらず、ムラヴィンスキーのような楽曲の心眼に鋭く切り込んで行くような徹底して凝縮化された凄みのある表現を聴くことはできない。さりとて、ゲルギエフやスヴェトラーノフ、そしてロジェストヴェンスキーなどによるロシア風の民族色を感じさせるようなアクの強さなども殆ど存在していない。むしろ、楽想を精緻に、そして丁寧に描き出していくというものであり、他のロシア系の指揮者とは一線を画する洗練された演奏を行っているとさえ言えるだろう。しかしながら、ヤンソンスの表現は洗練されているからと言って、スコアに記された音符の表層だけをなぞっただけの薄味の演奏にはいささかも陥っていない。一聴すると淡々と流れていく各フレーズには独特のニュアンスが込められており、楽曲の細部に至るまで彫琢の限りを尽くした表現を駆使していると言えるのかもしれない。もっとも、17年もの歳月をかけただけに、初期に録音されたものよりも後年の演奏の方がより優れており、とりわけバイエルン放送交響楽団とともに録音した第2番、第3番、第4番、第12番、第13番の5曲は、素晴らしい名演に仕上がっていると評価したい。これに対して、最初の録音であるレニングラード・フィルとの第7番は、いささか踏み込み不足が感じられるところであり、作曲者生誕100年を記念して発売されたコンセルトへボウ・アムステルダムとのライヴ録音(2006年)と比較すると、今一つの演奏であると言わざるを得ない。その他の交響曲については、出来不出来はあるが、少なくとも今日のヤンソンスの名声を傷つけるような演奏は皆無であり、一定の水準は十分に保った演奏に仕上がっていると言える。前述のバイエルン放送交響楽団との5曲の名演やコンセルトへボウ・アムステルダムとの第7番の名演等に鑑みれば、ヤンソンスが今後バイエルン放送交響楽団、あるいはコンセルトへボウ・アムステルダムとともに、ショスタコーヴィチの交響曲全集を録音すれば、おそらくは現代を代表する全集との評価を勝ち得ることが可能ではないかとも考えられるところだ。いずれにしても、本全集は、今日の大指揮者ヤンソンスへの確かな道程を感じさせる全集であり、最初期の第7番を除いては水準以上の演奏で構成されていること、そして1904円というとてつもない廉価であることに鑑みれば、初心者にも安心しておすすめできる素晴らしい全集であると評価したいと考える。
ブルックナー協会総裁をつとめるなどブルックナーの権威として知られていたヨッフムは、ブルックナーの交響曲全集を2度にわたってスタジオ録音している。最初の全集は、ベルリン・フィルやバイエルン放送交響楽団とともにスタジオ録音を行ったもの(1958〜1967年)であり、そして2度目の全集が本盤におさめられたシュターツカペレ・ドレスデンとのスタジオ録音(1975〜1980年)である。ヨッフムのブルックナー演奏は、1990年代以降に登場して、現在においても誉れの高いヴァントや朝比奈による超名演とはその性格を大きく異にしていると言える。ヴァントや朝比奈は、荘重なインテンポによって曲想を重厚に、そして精緻に描き出していくというスタイルで一世を風靡したところであり、これは、ブルックナー演奏はインテンポで行うべきであるという現在における基本的な演奏スタイルにも繋がっていると言える。ところが、ヨッフムの場合は、インテンポなどにいささかも固執していないと言える。それどころか、テンポは大胆に動かしており、むしろドラマティックで壮絶ささえ感じさせることがあるほどだ。緩徐楽章などにおける抒情的な旋律の数々も徹底して歌い抜いており、その心の込め抜いた情感の豊かさには、ロマンティシズムの香りさえ漂っていると言える。このように、現代のブルックナー演奏の定石からすれば、かなり大胆で思い切った表現を駆使しているにもかかわらず、演奏全体の造型が弛緩することなく、ブルックナーらしさをいささかも失っていないというのは、ブルックナーの権威たるヨッフムの面目躍如たるものがあると言えるだろう。どの交響曲も水準以上の名演であると言えるが、とりわけ第1番、第2番、第6番などの比較的規模が小さい曲が素晴らしい超名演であるというのは、旧全集とも共通していると言える。他方、第7番や第8番についても、旧全集と同様により壮大なスケール感が欲しいという気もするが、これだけ堪能させてくれれば文句は言えまい。オーケストラには、シュターツカペレ・ドレスデンを起用しているが、このオーケストラの持ついぶし銀の重心の低い音色が、本盤の各演奏に独特の潤いと温もりを付加させていることを忘れてはならない。なお、ヨッフムのアプローチは、本全集だけでなく旧全集においても基本的に共通していると言えるが、旧全集よりも若干ではあるが本全集の方がより思い切った表現をとっているように思われる箇所が散見されるところであり、旧全集と本全集の優劣の比較は困難を極めるが、後述の録音面を加味すれば、私としては旧全集の方をわすかに上位に置きたいと考えている。もっとも、それは高次元での比較の問題であり、本全集もブルックナーの権威としてのヨッフムならではの素晴らしい名全集と高く評価したいと考える。そして録音であるが、この当時のEMIの録音に共通するのであるが、特に、金管楽器などの最強奏の箇所において各楽器が分離して聴こえないなど、はっきり言ってあまり冴えない音質であると言える。ARTリマスタリングなども行われており、若干ではあるが音質改善が見られているものの、さほどの効果があらわれているとは言い難いものがある。いずれにしても、ヨッフムによる最良の遺産の一つでもあり、今後はHQCD化、そして可能であればSACD化を図るなど、更なる高音質化を大いに望んでおきたいと考える。
4 people agree with this review 2011/07/01
バーンスタインが史上最大のマーラー指揮者であることは論を待たないところだ。バーンスタインは、DVD作品を含めて3度にわたってマーラーの交響曲全集を録音した唯一の指揮者でもあるが(最後の全集は残念ながら一部未完成)、そのいずれもが数多くのマーラーの交響曲全集が存在している現在においてもなお、その輝きを失っていないと言えるだろう。本盤におさめられたマーラーの交響曲全集は、バーンスタインによる最初のものに相当する。録音は1960〜1975年という15年の歳月にわたってはいるが、その殆どは1960年代に行われており、バーンスタインがいまだ50歳代の壮年期の演奏ということが可能であると言える。オーケストラは、当時音楽監督をつとめていたニューヨーク・フィルを軸として、第8番はロンドン交響楽団が起用されている。このようなオーケストラの起用の仕方は、1970年代によるDVDによる2度目の全集がウィーン・フィルの起用を軸としつつも第2番においてロンドン交響楽団、「大地の歌」においてイスラエル・フィルを起用したこと、3度目の全集においては、ウィーン・フィル、コンセルトへボウ・アムステルダム、そしてニューヨーク・フィルの3つのオーケストラを起用したこととも共通していると言える。バーンスタインのマーラー演奏は極めてドラマティックなものだ。変幻自在のテンポ設定や思い切った強弱の変化、そして猛烈なアッチェレランドを駆使するなど、その劇的な表現は圧倒的な迫力を誇っており、聴いていて手に汗を握るような興奮を味あわせてくれると言えるだろう。こうしたバーンスタインのマーラー演奏のスタイルは最晩年になってもいささかも変わることがなかったが、晩年の3度目の全集では、より一層表現に濃厚さとスケールの大きさ、そして楽曲の心眼に鋭く切り込んでいくような奥行きの深さが加わり、他の指揮者による演奏を寄せ付けないような至高の高みに達した超名演に仕上がっていたと言える。本盤におさめられた演奏は、50代の壮年期のバーンスタインによるものであるだけに、3度目の全集のような至高の高みには達してはいないが、前述のようなドラマティックな表現は健在であり、とりわけトゥッティに向けて畳み掛けていくような気迫や強靭な迫力においては、2度目や3度目の全集をも凌駕しているとさえ言えるだろう。ストレートで若干荒削りな演奏と言えなくもないが、スコアに記された音符の表層をなぞっただけの洗練された美を誇る演奏などに比べれば、よほど本演奏の方がマーラーの本質を捉えていると言えるとともに、我々聴き手に深い感動を与えてくれると言えるだろう。いずれにしても、本全集は、稀代のマーラー指揮者であったバーンスタインによる最初の全集として、今後ともその存在価値をいささかも失うことがない名全集と高く評価したい。録音は、従来盤が今一つ冴えない音質であったが、数年前にマルチチャンネル(3チャンネル)付きのSACD盤が発売され、信じ難いような鮮明な音質に生まれ変わったところである。当該SACD盤は分売でしか手に入らないが、バーンスタインによる至高の名全集でもあり、少々高額でもSACD盤の方の購入をおすすめしておきたいと考える。
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