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Review List of つよしくん 

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  • 6 people agree with this review
     2011/08/27

    プレトニョフによる新しいチャイコフスキーの交響曲チクルスの第3弾の登場であり、今回は最高傑作である交響曲第6番「悲愴」の登場だ。前回の全集から今般の2度目の全集に至るまでの間、プレトニョフは、ベートーヴェンの交響曲全集やピアノ協奏曲全集で、自由奔放とも言えるような実に個性的な演奏を繰り広げてきた。交響曲全集については賛否両論あるようであるが、ピアノ協奏曲全集については、現代を代表する名演との評価を幅広く勝ち得ている状況にあると言える。いずれにしても、今般の2度目の全集は、そうしたクラシック音楽の王道とも言えるベートーヴェンなどの演奏を経験した上での、満を持して臨む演奏ということであり、既に発売された交響曲第4番や第5番も、プレトニョフの円熟が感じられる素晴らしい名演に仕上がっていたところだ。プレトニョフによるチャイコフスキーの演奏は、前回の全集でもそうであったが、ベートーヴェンの交響曲全集における自由奔放さとは別人のようなオーソドックスな演奏を披露していた。ロシアの民族色をやたら強調したあくの強い演奏や表情過多になることを極力避け、純音楽的なアプローチに徹しているようにさえ思えるほどだ。本盤の「悲愴」の演奏においてもかかるアプローチは健在であり、プレトニョフは中庸のテンポにより曲想を精緻に、そして丁寧に描き出して行くという、ある意味ではオーソドックスとも言うべき王道たる演奏を心掛けているとも言える。スコアに忠実に従った各楽器の編成の下、各楽器セクションのバランスを重視した精緻な響きが全体を支配しており、他の指揮者による演奏ではなかなか聴き取ることが困難な音型を聴くことが可能なのも、プレトニョフの演奏ならではの特徴とも言える。もっとも、純音楽的かつ精緻で、オーソドックスなアプローチと言っても、第1楽章冒頭のゆったりとしたテンポによる序奏の後、主部に入ってから早めに進行させ、第2主題の導入部で再度ゆったりしたテンポをとったりするなど、あたかも魔法のような変幻自在のテンポ設定は実に巧妙であると言える。また、第1楽章(特に展開部終結部の雷鳴のようなティンパニは凄まじいド迫力だ。)及び第3楽章における畳み掛けていくような気迫、強靭な生命力には凄みがあると言えるところであり、我々聴き手の度肝を抜くのに十分な迫力を誇っていると言えるところでいる。終楽章の心を込め抜いた慟哭の表現も壮絶の極みであり、全体としていい意味での硬軟バランスのとれた円熟の名演に仕上がっていると高く評価したいと考える。本盤の登場によって、プレトニョフ&ロシア・ナショナル管弦楽団による新しいチャイコフスキーの交響曲チクルスの後期三大交響曲集が出揃ったことになるが、残る初期の交響曲集(第1〜3番)及びマンフレッド交響曲についても、素晴らしい円熟の名演を大いに期待したいところだ。併録のイタリア奇想曲は、楽曲の細部に至るまで彫琢の限りを尽くした精緻さとドラマティックな要素を兼ね備えたプレトニョフならではの稀有の名演と高く評価したい。マルチチャンネル付きのSACDによる極上の高音質録音も、本名演の価値を高めるのに大きく貢献しているのを忘れてはならない。

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  • 4 people agree with this review
     2011/08/27

    ユニバーサルが、6月のフルトヴェングラー、7月のベーム、そして今月のアルゲリッチというように、これまで一度もSACD化されていなかった音源のシングルレイヤーによるSACD&SHM−CD化を開始したのは、パッケージ・メディアの権威が大きく揺らいでいる中において、その起死回生とも言うべき壮挙であると言える。今回のSACD化に対して、ユニバーサルにあらためて深く感謝するとともに、今後とも過去の名演のSACD&SHM−CD化に引き続き取り組んでいただくよう切に願いたいと考える。本盤には、当時気鋭の女流ピアニストとして頭角をあらわしつつあったアルゲリッチと、同じく次代を担う気鋭の指揮者として急速に人気が高まりつつあったアバドが組んで行った、19世紀の偉大なピアニスト兼作曲家であったショパンとリストのピアノ協奏曲第1番の演奏がおさめられている。いずれも演奏も、録音から40年以上が経過した現在においても、両曲の演奏史上トップの座を争う至高の超名演と高く評価したい。アルゲリッチは、両曲ともに後年に、一時は夫君となったデュトワ(オーケストラはモントリオール交響楽団)と組んでスタジオ録音(ショパンは1988年、リストは1998年)を行っている。いずれも超名演であるが、本盤の演奏にはそれら後年の演奏にはない若さ故の独特の瑞々しさがあると言える。したがって、本盤の演奏との優劣の比較は困難を極めるが、いずれもハイレベルの超名演であることは疑いようがなく、結局は好みの問題であると言えるのかもしれない。アルゲリッチにとっては、本盤が初の協奏曲録音となったものであるが、そのようなことを微塵も感じさせないような圧倒的なピアニズムを展開していると言える。アルゲリッチの場合は、実演であってもスタジオ録音であっても、灼熱のように燃え上がる圧倒的な豪演を展開するが、本盤の演奏においてもその豪演ぶりは健在であると言える。変幻自在のテンポ設定や思い切った強弱の変化、そしてアッチェレランドの駆使など、これ以上は求め得ないような幅広い表現力を駆使して、両曲の魅力を最大限に表現し尽くしているのが素晴らしい。こうしたアルゲリッチの自由奔放とも言うべき圧倒的なピアニズムに決して引けを取っていないのが、若きアバドによる生命力に満ち溢れた演奏であると言える。アバドは、ロンドン交響楽団を巧みに統率して、気迫と力強さが漲るとともに、持ち前の豊かな歌謡性をも織り込んだ、いい意味での剛柔バランスのとれた名演奏を展開していると評価したい。音質については、これまで何度もリマスタリングを繰り返してきたこともあって、従来盤でも十分に良好な音質であったが、数年前に発売されたSHM−CD盤がベストの音質であったと言える。ところが、今般発売されたシングルレイヤーによるSACD&SHM−CD盤は、これまでとは次元の異なる圧倒的な高音質に生まれ変わったと言える。いずれにしても、アルゲリッチ、そしてアバドによる歴史的な超名演を、現在望み得る最高の高音質SACD&SHM−CD盤で味わうことができるのを大いに歓迎したい。

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  • 11 people agree with this review
     2011/08/27

    一時は絶滅の危機に瀕したSACDが息を吹き返しつつある。SACDから撤退していたユニバーサルが昨年よりSACDの発売を再開するとともに、本年になってついにEMIがSACDの発売を開始したからだ。一昨年末にESOTERICから発売されたショルティ&ウィーン・フィルによるワーグナーの楽劇「ニーベルングの指環」のSACD盤が飛ぶように売れたことからもわかるように、ガラスCDのような常識を外れた価格でさえなければ、少々高額であっても、かつての良質のアナログLPにも比肩し得る高音質のSACDは売れるのである。最近は、オクタヴィアがややSACDに及び腰になりつつあるのは問題であるが、いずれにしても、大手メーカーによる昨年来のSACD発売の動きに対しては大きな拍手を送りたいと考えている。そして、今般、ターラレーベルがフルトヴェングラーの過去の遺産のSACD化を開始するということは、SACDの更なる普及を促進するものとして大いに歓迎したい。ターラレーベルからは、既にフルトヴェングラー&フィルハーモニア管弦楽団によるベートーヴェンの交響曲第9番(1954年)がSACD化されている(既にレビュー投稿済み)ので、本盤におさめられたいわゆるウラニアのエロイカは、ターラレーベルによるSACD第2弾ということになる。フルトヴェングラーによるエロイカについては、かなり多くの録音が遺されており、音質面を考慮に入れなければいずれ劣らぬ名演であると言えるが、最高峰の名演は本盤におさめられたウラニアのエロイカ(1944年)と1952年のスタジオ録音であるというのは論を待たないところだ。1952年盤が荘重なインテンポによる彫の深い名演であるのに対して、本盤の演奏は、いかにも実演のフルトヴェングラーならではのドラマティックな名演であると言える。第1楽章からして、緩急自在のテンポ設定や思い切った強弱の変化、そして大胆なアッチェレランドを駆使するなど、これ以上は求め得ないようなドラマティックな表現を展開している。第2楽章の情感のこもった歌い方には底知れぬ深みを感じさせるし、終楽章の終結部に向けて畳み掛けていくような気迫や強靭な生命力は、我々聴き手の肺腑を打つだけの圧倒的な迫力を誇っていると言える。このように、本演奏と1952年盤は同じ指揮者による演奏とは思えないような対照的な名演であると言えるが、音楽の内容の精神的な深みを徹底して追及していこうというアプローチにおいては共通していると言える。ただ、音質が今一つ良くないのがフルトヴェングラーのエロイカの最大の問題であったのだが、1952年盤については本年1月、EMIがSACD化を行ったことによって信じ難いような良好な音質に蘇ったところであり、長年の渇きが癒されることになった。他方、本演奏については、これまではオーパスによる復刻盤がベストの音質であったが、1952年盤がSACD化された今となっては、とても満足できる音質とは言い難いものがあった。ところが、今般のターラレーベルによるSACD化によって、さすがに1952年盤ほどではないものの、オーパスなどのこれまでの復刻CDとは次元の異なる良好な音質に生まれ変わったと言える。いずれにしても、ウラニアのエロイカをこのような高音質SACDで聴くことができる喜びを大いに噛み締めたい。

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     2011/08/26

    本盤には遺作となったヴィオラ協奏曲及びヴァイオリン協奏曲第1番を軸として、2台のピアノ、打楽器と管弦楽のための協奏曲のオーケストラバージョンがおさめられている。いずれも名演であると考えるが、とりわけヴィオラ協奏曲については素晴らしい超名演であると高く評価したい。それどころか、ヴィオラ協奏曲には競合する目ぼしい名演が殆ど見当たらないことから、本演奏の登場によって漸く同曲の真価がそのベールを脱いだと言っても過言ではあるまい。それにしても、本演奏におけるバシュメットのヴィオラ演奏は圧倒的だ。変幻自在のテンポ設定や思い切った強弱の変化など、実に多彩な表現を見せており、その桁外れの表現力の幅の広さは圧巻というほかはない。同曲は、バルトークの最晩年の作品だけに、その内容の深遠な奥深さには尋常ならざるものがあると言えるが、バシュメットの多彩な表現力を駆使した彫の深い演奏は、正に同曲の心眼を鋭く抉り出していくに足る凄みさえ感じさせるところであり、我々聴き手の肺腑を打つのに十分であると言える。ベルリン・フィルの卓越した技量をベースにした名演奏も、本名演に大きく貢献しているのを忘れてはならない。ヴァイオリン協奏曲第1番は、クレーメルの超絶的な技量をベースにしたいささかも歌わない冷徹とも言える表現が同曲の性格に見事に符号していると言える。バルトークの楽曲に特有の、ハンガリー風の民族色の表現にはいささか不足しているとは言えるが、同曲を純粋な現代音楽として捉えると、かかるクレーメルのアプローチにも十分な説得力があり、何らの遜色があるわけではないと考えられる。また、本演奏でもベルリン・フィルの圧倒的な名演奏は健在だ。さらに、本盤には2台のピアノ、打楽器と管弦楽のための協奏曲がおさめられているが、これはオーケストラバージョンとしての作品の出来としてはいささか問題があると言える。もっとも、ピアノや打楽器パートについては見事な書法であり、純粋なソナタとしては傑作の名に値する楽曲であると言えるであろう。これをエマールなどの豪華ソリストがこれ以上は求め得ないような名演奏を繰り広げているのが素晴らしい。音質は、2004年及び2008年の録音ということもあって鮮明で素晴らしいものであると言えるが、とりわけヴィオラ協奏曲については同曲演奏史上でもトップの座に君臨する超名演であることもあり、今後はSHM−CD化、そして可能であればシングルレイヤーによるSACD&SHM−CD化を図るなど、更なる高音質化を大いに望んでおきたいと考える。

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     2011/08/24

    本盤にはブーレーズが、各曲毎に異なったピアニスト、オーケストラと組んで演奏を行ったバルトークのピアノ協奏曲全集がおさめられているが、いずれも素晴らしい名演と評価したい。それどころか、バルトークのピアノ協奏曲の演奏史上でも、フリッチャイがゲーザ・アンダと組んでベルリン放送交響楽団を指揮した歴史的な超名演(1960、1961年)に次ぐ至高の超名演と高く評価したい。ブーレーズは、1960年代から1970年代にかけては、前衛的とも言えるような先鋭的なアプローチによって聴き手を驚かすような衝撃的な名演の数々を成し遂げていた。しかしながら、1990年代に入ってDGと専属契約を締結した後は、すっかりと好々爺となり、かつてと比較すると随分とノーマルな装いの演奏を繰り広げるようになったと言える。もちろん、ブーレーズの芸風の基本は徹底したスコアの読み込みにあることから、そのスコアに対する追及の度合いはより深まったと言えなくもない。ただ、それを実際に音化する際には、おそらくは円熟の境地に去来する豊かな情感が付加されるようになってきたのではないだろうか。かかるブーレーズの円熟のアプローチが今一つしっくりこない楽曲(とりわけ、ストラヴィンスキー、ドビュッシー、ラヴェル)もあるが、他方、バルトークについては、各楽曲が含有する深遠な世界がより巧みに表現されることになり、むしろ功を奏していると側面もあると考えられる。とりわけ、ピアノ協奏曲については、バレンボイムと組んで行った演奏(1967年)(ただし、第1番及び第3番のみ)が、指揮者とピアニストの呼吸が今一つであったことからしても、本演奏の圧倒的な優位性にいささかの揺らぎはないものと考えられる。それにしても、本盤における各曲におけるピアニストやオーケストラの使い分けには抜群のセンスの良さを感じさせる。第1番は、3作品の中では最も前衛的な装いの楽曲であると言えるが、ツィメルマンの卓越した技量や、トゥッティに向けて畳み掛けていくような気迫と強靭さは、同曲のアプローチの規範となるべきものと言える。シカゴ交響楽団の超絶的な技量も本名演に華を添えているのを忘れてはならない。第2番は、気鋭の若手ピアニストであるアンスネスが、強靭で迫力ある演奏を行いつつも、祖国の大作曲家グリーグの抒情小曲集で披露したような繊細なピアニズムを随所に聴かせてくれるのが素晴らしい。バルトークが「親しみやすく気楽な性格を持っている」と評したわりには、きわめて晦渋な音楽との印象を受ける同曲ではあるが、ベルリン・フィルの圧倒的な技量も相まって、おそらくは同曲演奏史上最も明瞭で美しい演奏に仕上がっていると言えるのではないだろうか。第3番は、バルトークの最晩年の作品だけにその内容の奥深さには尋常ならざるものがあると言えるが、グリモーの強靭な打鍵から繊細な抒情に至るまでの桁外れの表現力の幅の広さが、本演奏における彫の深い表現の醸成に大きく貢献していると言えるだろう。ロンドン交響楽団も、最高のパフォーマンスを発揮していると評価したい。いずれにしても、バルトークのピアノ協奏曲各曲の性格を的確に把握し、それぞれに最適のピアニストとオーケストラを配したキャスティングの巧妙さにも大きな拍手を送りたいと考える。音質は鮮明で素晴らしいものであると言えるが、同曲演奏史上でもトップの座に肉薄する名演であることもあり、今後はSHM−CD化、さらにはSACD化を図るなど、更なる高音質化を大いに望んでおきたい。

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     2011/08/22

    ルービンシュタインは、3度にわたってベートーヴェンのピアノ協奏曲全集をスタジオ録音している。ルービンシュタインはポーランド出身ということもあって、稀代のショパン弾きとしても知られてはいるが、前述のように3度にわたってベートーヴェンのピアノ協奏曲全集を録音したことや、生涯最後の録音がブラームスのピアノ協奏曲第1番であったことなどに鑑みれば、ルービンシュタインの広範なレパートリーの中核を占めていたのは、ベートーヴェンやブラームスなどの独墺系のピアノ曲であったと言えるのかもしれない。本盤におさめられたベートーヴェンのピアノ協奏曲第4番&第5番は、ルービンシュタインによる3度目のピアノ協奏曲全集(1975年)からの抜粋である。最初の全集であるクリップス&シンフォニー・オブ・ジ・エアとの演奏(1956年)や、2度目の全集であるラインスドルフ&ボストン交響楽団との演奏(1963年)と比較すると、本演奏は88歳の時の演奏だけに、技量においてはこれまでの2度にわたる全集の方がより優れていると言える。しかしながら、本演奏のゆったりとしたテンポによる桁外れのスケールの大きさ、そして各フレーズの端々から滲み出してくる枯淡の境地とも言うべき奥行きの深い情感の豊かさにおいては、これまでの2度にわたる全集を大きく凌駕していると言えるだろう。このような音楽の構えの大きさや奥行きの深さ、そして格調の高さや風格は、まさしく大人(たいじん)の至芸と言っても過言ではあるまい。特に、両曲の緩徐楽章の深沈とした美しさには抗し難い魅力があると言えるが、その清澄とも言うべき美しさは、人生の辛酸を舐め尽くした巨匠が、自らの生涯を自省の気持ちを込めて回顧するような趣きさえ感じられると言える。これほどの高みに達した崇高な音楽は、ルービンシュタインとしても最晩年になって漸く到達し得た至高・至純の境地と言えるのかもしれない。ルービンシュタインの堂々たるピアニズムに対して、バレンボイム&ロンドン・フィルも一歩も引けを取っていない。バレンボイムは、ピアニストとしても(クレンペラーの指揮)、そして弾き振りでも(ベルリン・フィルとの演奏)ベートーヴェンのピアノ協奏曲全集を録音しているが、ここではルービンシュタインの構えの大きいピアニズムに触発されたこともあり、持ち得る実力を存分に発揮した雄渾なスケールによる重厚にして渾身の名演奏を展開しているのが素晴らしい。いずれにしても、本盤におさめられたベートーヴェンのピアノ協奏曲第4番及び第5番の演奏は、いずれも両曲の演奏史上トップの座を争う至高の超名演と高く評価したい。音質は従来盤でも十分に満足できるものであったが、数年前に発売されたSHM−CD盤が現時点ではよりベターな音質であると言える。もっとも、ルービンシュタインによる超名演でもあり、今後はSACD化を図るなど更なる高音質化を大いに望んでおきたいと考える。

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     2011/08/21

    カラヤンはシベリウスを得意としており、交響曲(第3番やクレルヴォ交響曲を除く。)、ヴァイオリン協奏曲、そして管弦楽曲に至るまで多岐にわたる録音を行っている。特に、管弦楽曲については何度も録音を繰り返しており、フィルハーモニア管弦楽団との各種の録音に引き続いて、手兵ベルリン・フィルとともに、1960年代、1970年代、そして1980年代と、ほぼ10年毎に主要な管弦楽曲集の録音を行っているところだ。本盤におさめられたシベリウスの管弦楽曲集は、カラヤンによる最後の録音に相当する。カラヤンによるベルリン・フィルとのシベリウスの管弦楽曲集でも、最もカラヤンの個性が発揮された演奏はまぎれもなく1970年代の演奏であろう。というのも、1970年代はカラヤン&ベルリン・フィルの黄金コンビの全盛期であったからである。分厚い弦楽合奏、ブリリアントなブラスセクションの響き、桁外れのテクニックをベースに美音を振り撒く木管楽器群、そして雷鳴のように轟きわたるティンパニなどが、鉄壁のアンサンブルの下に融合し、およそ信じ難いような超絶的な名演奏の数々を繰り広げていたと言える。カラヤンは、このようなベルリン・フィルをしっかりと統率するとともに、流麗なレガートを施すことによっていわゆるカラヤンサウンドを醸成し、オーケストラ演奏の極致とも言うべき圧倒的な音のドラマを構築していた。1970年代の演奏は、正にかかる圧倒的な音のドラマが健在であり、どこをとってもいわゆるカラヤンサウンドに覆い尽くされていたと言える。他方、1960年代の演奏は、ベルリン・フィルにいまだフルトヴェングラー時代のドイツ風の音色の残滓が存在した時代であり、流麗なカラヤンサウンドの中にも適度の潤いが感じられ、いい意味での剛柔バランスのとれたサウンドが支配していたと言える。したがって、いわゆる北欧音楽らしさという意味においては、1960年代の演奏の方を好む聴き手がいても何ら不思議ではないと考えられる。これらに対して、本盤におさめられた演奏は、1970年代の演奏と比較すると、明らかにカラヤンの統率力に陰りが見えると言えるだろう。1970年代に全盛期を迎えたカラヤン&ベルリン・フィルの黄金コンビも、1980年代に入るとザビーネ・マイヤー事件の勃発によって亀裂が入り、その後は殆ど修復が見られなかった。加えて、カラヤン自身の健康悪化もあって、この黄金コンビによる演奏にかつてのような輝きがなくなってしまったところだ。もっとも、本演奏は、1970年代の演奏のような音のドラマの構築においては今一つの出来であり、カラヤン、そしてベルリン・フィルによるベストフォームの演奏とは言い難いものがあるが、他方、カラヤンの晩年の心境を反映した枯淡の境地を感じさせるような独特の味わいがあると言えるのではないだろうか。したがって、人生の辛酸を舐め尽くした巨匠カラヤンの晩年の清澄な境地が色濃く反映した独特の味わい深さという意味においては、本演奏を名演と評価するのにいささかも躊躇するものではない。録音は、比較的良好な音質であると言えるが、晩年のカラヤンならではの味わい深い名演でもあり、今後はSHM−CD化、可能であればシングルレイヤーによるSACD&SHM−CD化を図るなど、更なる高音質化を大いに望んでおきたいと考える。

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     2011/08/21

    本盤には旧ソヴィエト連邦時代に活躍した2人の大作曲家、プロコフィエフとショスタコーヴィチによるチェロによる協奏的作品の傑作がおさめられている。いずれの楽曲も、本演奏の当時世界最高とも謳われたロストロポーヴィチに献呈されたという意味において共通しているが、素晴らしい名演と高く評価したい。とりわけ、プロコフィエフの交響的変奏曲については、目ぼしい競合盤が殆ど存在していないことから、同曲演奏史上最高の超名演と言えるのではないか。作曲者とも親交があり、これらの楽曲を作曲するに当たっても様々な助言を行ったと想定されることから、ロストロポーヴィチの両曲に対するスコア・リーディングの深さと演奏にかける深い思い入れには尋常ならざるものがあると言える。ロストロポーヴィチによるチェロ演奏は、超絶的な技量とそれをベースとした濃厚な表情づけで知られているが、楽曲によってはそれが若干の表情過多に繋がり、技巧臭やロストロポーヴィチの体臭のようなものを感じさせることがあった。本盤におさめられた両演奏においても、かかるロストロポーヴィチの超絶的な技量を駆使した濃厚な歌いまわしは顕著にあらわれているが、表情過多であるという印象をいささかも与えることがなく、むしろかかる濃厚な演奏が必然であると感じさせるのが素晴らしい。これは、前述のように、ロストロポーヴィチがこれら両曲に対して、被献呈者として深い愛着を抱くとともに、作曲者が両曲にこめた深遠なメッセージを的確に理解しているからにほかならない。そして、ロストロポーヴィチによる濃厚なチェロ演奏をしっかりと下支えしているのが、小澤&ロンドン交響楽団による名演奏であると言える。ロストロポーヴィチと小澤はお互いを認め合うなど肝胆相照らす仲であったことで知られているが、本演奏でも、小澤はロストロポーヴィチのチェロ演奏を引き立てた見事な好パフォーマンスぶりを発揮していると高く評価したい。小澤がロンドン交響楽団を指揮することは稀であると思われるが、ここでは息の合った見事な名コンビぶりを披露していると言える。音質については、1987年のデジタル録音ということもあり、従来盤でも十分に満足できる良好なものであると言える。もっとも、ロストロポーヴィチ、そして小澤による至高の超名演でもあり、今後はSHM−CD化、可能であればSACD化を図るなど、更なる高音質化を大いに望んでおきたいと考える。

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     2011/08/21

    本盤におさめられたマーラーの交響曲第6番は、DVD作品を除けば、アバドによる3度目の録音ということになる。最初のものは、ウィーン交響楽団とのライヴ録音(1967年)であり、デビューしたばかりの若きアバドならではの渾身の大熱演であった。これに対して、2度目のものはシカゴ交響楽団とのスタジオ録音(1979〜1980年)であり、これはある意味ではアバドが最も輝いていた時期の演奏。持ち味である歌心溢れる豊かな歌謡性と強靭な気迫や生命力が融合した稀有の名演に仕上がっていたと言える。これに対して、本演奏は2004年のライヴ録音。これまでの2度にわたる演奏とは一線を画する円熟の名演に仕上がっていると言える。本演奏の最大の優位点は、演奏全体を支配する奥行きの深さである。アバドはベルリン・フィルの芸術監督を退任する少し前の2000年に大病を患うことになった。そして、アバドはその大病を見事に克服するのであるが、死と隣り合わせの苛烈な体験を経たことによって、アバドの芸風には、それまでの演奏にはなかった凄みと底知れぬ彫の深さが加わったと言えるのではないだろうか。ベルリン・フィルの芸術監督に就任して以降は、借りてきた猫のように大人しい演奏に終始していただけに、その変貌ぶりには驚くべきものがあったとも言える。したがって、本演奏には、これまでの2度にわたる演奏には存在しなかった楽曲の心眼に鋭く切り込んでいくような彫の深さが存在しているというのはある意味では当然であり、正にアバドによる円熟の名演と評価するのにいささかも躊躇するものではない。もっとも、トゥッティに向けて畳み掛けていくような気迫や強靭な迫力という意味においては、シカゴ交響楽団との2度目の録音と比較するといささか見劣りするとも言えなくもないが、むしろ、このように決して喚いたり叫んだりしない、そして奥行きの深い演奏の中にも持ち前の豊かな歌謡性をより一層際立たせたいい意味での剛柔バランスのとれた演奏こそが、アバドが目指す究極のマーラー演奏の理想像とも言えるのかもしれない。なお、アバドは、これまでの2度にわたる録音とは異なり、国際マーラー協会の見解に従って、第2楽章と第3楽章を入れ替えるバージョンで演奏しているが、これはいかにも新しいもの好きのアバドならではの解釈であると言える。ベルリン・フィルも、このような深みと凄みを増したアバドによる確かな統率の下、持ち得る実力を十二分に発揮した最高のパフォーマンスを示していると評価したい。録音については、数年前に発売されていたマルチチャンネル付きのSACDがベストの高音質である。当該SACD盤は現在でも入手可であり、可能であれば、当該SACD盤の入手をおすすめしたい。なお、最近では、シカゴ交響楽団とのスタジオ録音がSHM−CD化されるなど高音質化の動きがあるところであり、本盤についても可能であれば現在流行りのシングルレイヤーによるSACD&SHM−CD化を図るなど、更なる高音質化を大いに望んでおきたいと考える。

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     2011/08/20

    これは名演揃いの素晴らしい全集だ。本盤には、ラフマニノフの交響曲全集のほか、交響的舞曲を含めた管弦楽曲のほぼすべてがおさめられており(合唱交響曲「鐘」はおさめられていない。)、これは、ロシア系の指揮者を除けば、ラフマニノフを十八番としているプレヴィン&ロンドン交響楽団によるほぼ完全な全集(1973〜1976年)以来の快挙とも言える。プレヴィン盤は現在でもなお高い評価を得ている名演と言えるが、本盤のエド・デ・ワールト&オランダ放送フィルの演奏も、それに肉薄する名演と高く評価したい。ラフマニノフの演奏と言えば、ロシア風の民族色を強調したあくの強い演奏(ロシア系の指揮者(例えば、スヴェトラーノフやゲルギエフなど)による演奏)や、かかるロシア風の民族色を洗い流した洗練の極みとも言える演奏(デュトワやラトル等による演奏)などが掲げられ、それぞれに優れた名演であると言えるが、エド・デ・ワールトによる本演奏は、プレヴィンによる演奏や、ロシア風の民族色を適度に強調しつつも洗練された味わいを付加したアシュケナージによる演奏などと同様に、その中間型にある名演と言えるのではないだろうか。エド・デ・ワールトは、各楽曲の曲想を精緻に、そして丁寧に描き出している。もちろん、スコアに記された音符の表層だけをなぞっただけの浅薄さにはいささかも陥っておらず、どこをとっても奥深い情感に満たされているのが素晴らしい。そして、ロシア風の民族色をやたら強調するというようなことは一切行っておらず、各楽曲にこめられたラフマニノフ特有のロシア風のメランコリックな抒情の歌い方もいささかも重々しくなることはないが、洗練の度が過ぎるということもない格調の高い中庸の美しさを誇っていると言えるところであり、その奥行きのあるロマンティシズムには、ある種の気品さえ感じさせられるほどだ。エド・デ・ワールトの確かな統率の下、オランダ放送フィルもその卓越したアンサンブルを駆使した見事な演奏を繰り広げており、特にこのオーケストラが有する北ヨーロッパのオーケストラならではの幾分くすんだいぶし銀の音色が、本演奏に適度の潤いと味わい深さを付加しているのを忘れてはならない。また、本全集が更に優れているのは、マルチチャンネル付きのSACDによる極上の高音質録音であると言える。これは、前述のプレヴィン盤などと比較しても大きなアドバンテージと言えるところであり、本全集の価値をさらに高めることに大きく貢献している点を忘れてはならない。

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     2011/08/19

    バルビローリは、シベリウス等の北欧音楽とともにイギリス音楽を得意中の得意としていた。とりわけ、本盤におさめられたディーリアスの管弦楽曲集は、バルビローリが指揮したイギリス音楽の様々な録音の中でも最良の遺産の一つと言っても過言ではあるまい。ディーリアスの管弦楽曲は、いずれもいかにもイギリスの詩情溢れる親しみやすいものであるが、これをバルビローリ以上に情感豊かに美しく演奏したことがこれまでにあったのであろうか。ディーリアスと親交の深かったビーチャムが、手兵ロイヤル・フィルとともに管弦楽曲集の録音(1958、1960、1963年)を遺しており、それは現在においてもディーリアスの管弦楽曲演奏の規範となるべき至高の超名演であると言えるが、各演奏における情感の豊かさ、心を込めた歌い方においては、本盤のバルビローリの演奏の方に軍配があがると言える。また、バルビローリの演奏が素晴らしいのは、これらの各楽曲のスコアに記された音符のうわべだけをなぞっただけの薄味の演奏にはいささかも陥っていないということであろう。ディーリアスの管弦楽曲の演奏に際しては、その旋律の美しさに気をとられて、音楽の内容の追及をどこかに置き忘れた薄味の演奏も散見されるところであるが、バルビローリによる本演奏は、もちろん前述のように美しさにおいても他の演奏の追随を許さないものがあると言えるが、どこをとっても奥深い情感と独特のニュアンスが込められており、楽曲の細部に至るまで彫琢の限りを尽くした内容の濃い演奏を展開していると言える。また、本盤におさめられた楽曲のうち、「アパラチア」(古い黒人奴隷の歌による変奏曲)と「ブリッグの定期市」(イギリス狂詩曲)については、バルビローリの死の数か月前の録音であり、これらの楽曲の演奏に漂う清澄な美しさは、バルビローリが死の直前になって漸く到達し得た至高・至純の境地と言えるのかもしれない。いずれにしても、バルビローリによる本演奏は、その美しさにおいても、内容の濃さにおいても、正にディーリアスの演奏の理想像の具現化と言えるところであり、ディーリアスと親交があったビーチャム盤を除けば、ディーリアスの管弦楽曲集の演奏史上でもトップの座を争う至高の超名演と高く評価したいと考える。録音は、数年前にリマスタリングされたこともあって比較的良好な音質であると言えるが、バルビローリによる最大の遺産の一つでもあり、今後はHQCD化、そして可能であればSACD化を図るなど、更なる高音質化を大いに望んでおきたいと考える。

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     2011/08/18

    まず、シューマンのピアノ協奏曲が濃厚さの極みとも言うべき圧倒的な超名演だ。おそらくは、同曲をこれほどまでに濃密に描き出した演奏は他に存在していないと言えるのではないだろうか。コルトーのピアノはとにかく凄いと言うほかはない。もちろん、凄いと言っても技量などは大したことはないと言える。それどころか、ライヴ録音ということもあってミスタッチが随所に聴かれるところであり、各種のコンサートで優勝するなどの数々の栄誉を博した現代の超絶的な技量を誇るピアニストからすれば、技術的には箸にも棒にもかからない演奏とも言える。しかしながら、その表現力の幅の広さ、濃厚さ、そして芸術性の高さにおいては、現代のいかなるピアニストを寄せ付けない至高の高みに達していると言っても過言ではあるまい。本演奏においても、正直ここまでやってもいいのかというほどの大胆な表現を駆使しており、変幻自在のテンポ設定や濃厚で心を込め抜いた歌い方など、殆どやりたい放題とも言えるほどだ。しかしながら、これだけの大胆にして濃厚な表現を行っているにもかかわらず、シューマンの演奏に不可欠な詩情の豊かさ、そして格調の高さをいささかも失っていないというのは驚異的ですらある。そして、コルトーの大胆にして濃厚なピアニズムをしっかりと下支えしているのが、フリッチャイ&ベルリン放送交響楽団による稀代の名演奏であると言える。自由奔放とも言えるコルトーのピアノに合わせるのはさぞかし苦労したことは容易に想像できるところであるが、フリッチャイはその苦労をものともせずに、コルトーのピアノをしっかりと引き立てるとともに、ベルリン放送交響楽団を巧みにドライブして、濃厚かつドラマティックな名演奏を展開しているのが素晴らしい。他方、チャイコフスキーの交響曲第5番も、濃厚な味わいによる渾身の大熱演であると高く評価したい。晩年の第6番の超名演のような彫の深さが存在しているとは言い難いところであるが、それでも白血病を発症する前の演奏ということもあって、随所に聴かれる猛烈なアッチェレランドなど思い切ったテンポの変化を駆使して、切れば血が噴き出してくるような気迫と生命力が演奏全体に漲っているのが素晴らしいと言える。なお、フリッチャイは、チャイコフスキーの交響曲第5番をウィーン交響楽団とともにライヴ録音(1955年)しているが、オーケストラの力量などを総合的に勘案すれば、本演奏の方をより上位に掲げたいと考える。音質は、1957年のモノラル録音でもあり、音場がいささか広がらないという欠点はあるものの、1950年代のライヴ録音としては比較的良好な音質であると評価したい。

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     2011/08/18

    本盤におさめられたベートーヴェンの交響曲第7番とブリテンの4つの海の間奏曲は、バーンスタインによる生涯最後のコンサートの記録である。死の2か月前の演奏でもあるということもあって、本演奏にはただならぬ雰囲気が漂っていると言えるだろう。ニューヨーク・フィルの音楽監督時代のバーンスタインは、いかにも陽気なヤンキー気質の爽快な演奏を繰り広げていた。ところが、ヨーロッパに拠点を移し、ウィーン・フィルを恒常的に指揮するようになってからは、テンポは異常に遅くなりとともに、濃厚でなおかつ大仰な演奏をするようになった。とりわけ、1980年代に入ってからは、かかる特徴が顕著であり、マーラーの交響曲・歌曲やシューマンの交響曲・協奏曲などにおいては比類のない名演を成し遂げる反面、その他の作曲家による楽曲については、疑問符を付けざるを得ないような演奏が目白押しであったように思われる。このような芸風の著しい変化は、バーンスタインによる体力の衰えが原因なのか、それともバーンスタインの音楽の捉え方がより深化したのかは正直なところよくわからない。バーンスタインには熱烈なファンも多いことから、かかる芸風の変化を持ってバーンスタインは真の巨匠になったと評価する者もいることも十分に考えられる。しかしながら、他方では、かかる常識はずれのテンポにとても付いていけないと感じる聴き手が多いのも事実である。その意味では、本盤の演奏は両曲ともに、かかる晩年の芸風が顕著にあらわれており、とてつもない遅いテンポと重苦しい雰囲気に演奏全体が包まれていると言えるだろう。ましてや、バーンスタインの体調の悪さも多分にあると思うが、ボストン交響楽団にも戸惑いが見られ、アンサンブルなども大幅に乱れるなど、バーンスタイン、そしてボストン交響楽団によるベストフォームにある演奏とはとても言い難いと言えるところだ。したがって、本演奏を凡演として切り捨ててしまうのは容易ではあるが、私はむしろ、死の2か月前、体調も最悪であったにもかかわらず、渾身の力をふり絞って本演奏会に臨んだバーンスタインの直向きさに強く心を打たれるのである。そう思って本演奏を聴くと、いかに本演奏が渾身の大熱演であったのかが理解できるところだ。本演奏は正に、死を間近に控えたバーンスタインが最後の力を振り絞って成し遂げた魂の音楽であると言えるところであり、その渾身の直向きさが我々聴き手の肺腑を打つのである。このような魂の音楽に対しては、大仰で重苦しい演奏であるとか些末なアンサンブルのミスなどとは無関係であり、ただただ虚心になって最晩年のバーンスタインによる渾身の大熱演を鑑賞するのみである。いずれにしても、本演奏は、特にマーラーの交響曲や歌曲において偉大な名演を成し遂げてきた大指揮者バーンスタインの最後の演奏としては痛々しさを感じずにはいられないが、バーンスタインが人生の最後に成し遂げた魂の音楽として、未来永劫に語り伝えたい演奏と高く評価したいと考える。

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     2011/08/10

    世界中でベストセラーになったカラヤン最大のヒット作である。カラヤン最大のヒット作ということは、おそらくはクラシック音楽史上でも最高のヒット作ということになるのであろうが、アンチカラヤン派の方々からは、そもそもこのようなCDの企画自体が、生前に音楽家ではなくセールスマンだと揶揄されたカラヤンならではの所業であるとの強烈な批判が寄せられることは十分に想定されるところだ。しかしながら、本CDは、芸術性をどこかに置き忘れた単なる低俗な人気取り商品であるかと言うと、必ずしもそうとは言い切れないのではないだろうか。というのも、本盤におさめられた楽曲がいずれも名旋律で彩られたポピュラーな名作であるのみならず、演奏自体もいずれも素晴らしい名演であるからだ。カラヤン&ベルリン・フィルは、クラシック音楽史上でも最高の黄金コンビであったと言えるが、特に全盛期でもあった1960年代から1970年代にかけての演奏はとにかく凄かった。この当時のカラヤン&ベルリン・フィルの演奏は、分厚い弦楽合奏、ブリリアントなブラスセクションの響き、桁外れのテクニックをベースに美音を振り撒く木管楽器群、そして雷鳴のように轟きわたるティンパニなどが、鉄壁のアンサンブルの下に融合し、およそ信じ難いような超絶的な名演奏の数々を繰り広げていたと言える。カラヤンは、このようなベルリン・フィルをしっかりと統率するとともに、流麗なレガートを施すことによっていわゆるカラヤンサウンドを醸成し、オーケストラ演奏の極致とも言うべき圧倒的な音のドラマを構築していた。本盤におさめられた演奏の中には、一部にカラヤンの統率力に陰りが見られた1980年代の演奏(特に、ブラームスの交響曲第3番第2楽章とシベリウスの「悲しきワルツ」)も含まれてはいるが、大半の演奏は正にカラヤン&ベルリン・フィルの全盛期の圧倒的な音のドラマが健在であると言えるところである。もちろん、本演奏には、フルトヴェングラーが指揮した演奏に顕著な音楽の内容の精神的な深みの徹底した追及は薬にしたくもないが、これだけの圧倒的な音のドラマを構築したカラヤンによる名演との優劣を付けることは困難であると考える。また、カラヤンの演奏は、音のドラマの構築に特化しているため、何色にも染まっていない演奏とも言えるところであり、初心者には安心しておすすめできる演奏である反面、クラシック音楽の熟達した聴き手には、楽曲への理解力が試されるむしろ玄人向きの演奏であるという側面も有しているのではないかと考えている。いずれにしても、本盤におさめられた演奏は、いずれもカラヤン、そしてベルリン・フィルが構築した圧倒的な音のドラマを味わうことが可能な至高の超名演であると高く評価したい。特に、「タイスの瞑想曲」におけるミシェル・シュヴァルべによるヴァイオリン・ソロの蕩けるような美しさには抗し難い魅力が満ち溢れており、あまりの美しさに涙なしでは聴けないほどだ。録音は、従来盤でも十分に満足できる音質であったが、数年前にカラヤン生誕100年を記念して発売されたルビジウムカッティングによるSHM−CD盤がベストの音質であると言える。もっとも、輸入盤ではXRCD化もなされていることから、今後は、本CDの性格上困難ではあると思うが、シングルレイヤーによるSACD&SHM−CD化を図るなど更なる高音質化を大いに望んでおきたいと考える。

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     2011/08/09

    本全集は、バックハウスがスタジオ録音を行った2度にわたるベートーヴェンのピアノ・ソナタ全集のうち、1959〜1969年にかけて行ったステレオ録音(第29番のみステレオによる再録音を果たすことが出来なかった。)による全集であるが、いずれの楽曲の演奏も神々しささえ感じさせるような至高の超名演だ。本全集におさめられた各楽曲の演奏の殆どが既に録音からほぼ50年が経過しており、単純に技量面だけに着目すれば更に優れた演奏も数多く生み出されてはいるが、その音楽内容の精神的な深みにおいては、今なお本演奏を凌駕するものがあらわれていないというのは殆ど驚異的ですらある。正に本演奏こそは、例えばベートーヴェンの交響曲などでのフルトヴェングラーによる演奏と同様に、ドイツ音楽の精神的な神髄を描出するフラッグシップの役割を担っているとさえ言えるだろう。バックハウスのピアノはいささかも奇を衒うことなく、悠揚迫らぬテンポで曲想を描き出していくというものだ。飾り気など薬にしたくもなく、聴き手に微笑みかけることなど皆無であることから、聴きようによっては素っ気なささえ感じさせるきらいがないわけではない。しかしながら、かかる古武士のような演奏には独特の風格があり、各フレーズの端々から滲み出してくる滋味豊かなニュアンスは、奥深い情感に満ち溢れていると言える。全体の造型はきわめて堅固であり、スケールは雄渾の極み。その演奏の威容には峻厳たるものがあると言えるところであり、聴き手もただただ居住まいを正さずにはいられないほどだ。したがって、本演奏を聴く際には、聴く側も相当の気構えを要すると言える。バックハウスと覇を争ったケンプの名演には、万人に微笑みかけるある種の親しみやすさがあることから、少々体調が悪くてもその魅力を堪能することが可能であるが、バックハウスの場合は、よほど体調が良くないとその魅力を味わうことは困難であるという、容易に人を寄せ付けないような厳しい側面があり、正に孤高の至芸と言っても過言ではないのではないかとさえ考えられる。バックハウスとケンプについてはそれぞれに熱烈な信者が存在し、その優劣について論争が続いているが、私としてはいずれもベートーヴェンのピアノ・ソナタの至高の名演であり、容易に優劣を付けられるものではないと考えている。録音は英デッカによる高音質であり、従来盤でも十分に満足できる高音質であったが、数年前に本全集から有名な4曲を抜粋した盤がSHM−CD化されたことによって、より鮮明な音質に生まれ変わったと言える。もっとも、SHM−CD化されたのは当該4曲のみであり、今後は、他のピアノ・ソナタも含め全集についてSHM−CD化、さらにはシングルレイヤーによるSACD&SHM−CD化を図るなど、更なる高音質化を大いに望みたいと考える。

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