スッキリサッパリの「ドイツ・レクイエム」
2025年07月07日 (月) 18:00 - HMV&BOOKS online - Classical
連載 許光俊の言いたい放題 第316回

夏になり、ケント・ナガノのハンブルク時代が事実上終わった。ベルリン、ミュンヘン、ハンブルクというドイツの主要都市のオーケストラやオペラで活躍してきた彼は、このあと、スペインのオーケストラに移るようだ。
70歳を過ぎたナガノのワーグナーをオーケストラ・ピットの真ん前で聴く機会はもうあまりないかもしれないと思って、先月得意の「トリスタン」をハンブルク州立歌劇場で聴いてきた。文字通り、聴くのである。目の前では一世を風靡したルート・ベルクハウスの演出が繰り広げられているが、大昔ならともかく、今さらたいしておもしろくも感じられないので、完全無視して音楽だけに集中するのである。
ナガノの音楽は、とにかくスムーズで、きれいに流れる。ドイツ的な力みや淀みとは無縁だ。それがドイツ音楽の演奏として完全に正しいかと言えば、そうではあるまい。実際、ナガノのドイツものに対して執拗なブーイングを行う人が現地にはいなくもない。うんこらしょ、どっこらしょ、一瞬タメがあってドカーン、ウギャー、そういう音楽を好きな人にとっては物足りないのだろう。私にとっても、さすがに彼の「フィデリオ」あたりは、全然おもしろくない。おもしろくないという意味はもちろん、愉快ということではない。音がみな言うべきことを言わないで目の前を素通りしていくように感じられてしまうのである。
けれど、ワーグナーとブルックナーに関しては、ナガノ流が独特の美しさを生み出していて、これはこれで大したものだといつも思う。明るい透明な音色ですいすいと流れていく「トリスタン」の愛の二重唱なんて、もうふたりの愛はすっかり清められて救われてしまっているようで、いや、これは違うでしょとも思うのだが、とはいえ非常に心地よく聴いてしまう。
第3幕前奏曲の濃厚なチョコレートのような響きは、いつまでも私の耳の底に残るだろう。ドイツ楽団のチェロ、コントラバスのぶあつくもクリアな響き、これを指揮者のまうしろで、全身で浴びるようにして聴く以上の幸せはそんなにはない。
ナガノは現在、コンチェルト・ケルンと「リング」4部作を毎年ひとつずつコンチェルタンテで演奏している。19世紀の楽器を使っていて、何とも言えない中間色的な響きがして、いい。端的に言って、音色が多い。ドビュッシーが聴いたワーグナーの音とはこういうものだったかと思う。マイクをいっぱい立てて録音しているので、そのうちまとめて発売されるのだろう。今から楽しみだ。

さて、ナガノのハンブルクでの「ドイツ・レクイエム」のライヴ録音がBISから出た。この町のオペラのオーケストラも、現在ではコンサートをエルプフィルハーモニーで行うようになったので、そこでの録音。非常に満足がゆくものだ。いや、満足どころか、私にとってはこの曲の一番好ましい演奏。もったいぶった、重たいものがかぶさってくるような息苦しさがまったくない。
だが、気づく人は気づくだろう。合唱とオーケストラの演奏傾向が若干異なることに。合唱は当然ながらドイツ語を歌う。当たり前に子音ははっきりと明快で、単語やフレーズの頭が強く発音されることが多い。オーケストラの流麗さは必ずしもそれと一致しているわけではないのである。端的に言って、オーケストラだけを聴くと、あまりになだらかに聞こえるかもしれない。だが、そこが合わせ技の妙技で、こういうオーケストラ演奏がかえって合唱のすばらしさを引き立てる。そして、オケと合唱が両方でこってりドイツ風をやると、いかにもしつこい、塩気も脂もたっぷりの昔風高カロリー演奏になってしまうだろうが、そうではなくて、うまみがあるのに軽やかでヘルシーな現代的な味に仕立てられている。これ、言うほど簡単なことではないですよ。
合唱は、日本や北欧の団体みたいにとにかく音が濁ることを嫌うだけではない。歌詞に即した表現力、響きの色彩感を持ちながら、しかも混濁しないという方向性である。この演奏には複数の合唱団が参加しているが、実はドイツは合唱が盛んで、アマチュアの世界でも、まるでプロスポーツかというほど細かにレベルが分かれているそう。そういう背景があってこそ生まれたこの壮麗な音楽なのだ。
そして、ナガノ独特の透明感ある響きが、「ドイツ・レクイエム」にはうってつけなのだ。ここで示されているキリスト教は、罰や地獄落ちを強調する中世のそれではない。もっと人間の悲しみに寄り添い、やさしく慰めてくれるものなのだ。それがいいのか悪いのか、宗教がそういうものに変質したのである。
神の家はなんと快いのだろうと歌う第6曲は微笑んでいるみたい。最終楽章は、天上から光が降り注ぐような冒頭からしてシビレてしまう。その終わりのほうは、まさにナガノ得意中の得意「パルジファル」のようだ。そして、この録音で聴ける澄み切ったしみじみ感は、ナガノが近年になって得たものだ。
このライヴ録音は、ハンブルクの新ホールで行われた。音がいいとやたらに言われているエルプフィルハーモニーである。私ももうずいぶん通ったが、実はひとことで音がいいとは言いにくい会場で、しかもいい席の数がものすごく少ないというのが、目下の印象だ。ただし、曲、編成、席、もちろん演奏といういくつもの要素がぴたりと重なり合ったときの響きは、ほかのどこでも聴けないきわめて独特な美しさで、ナマでコンサートを聴く最高の悦びが得られる。この会場ならではの現代的な明快さがよくとらえられている音質だ。
そして大事なこと。この演奏・録音は、ブレーメンでの初演時の様子を再現したということで、通常とは異なる演奏形態だ。まず、5つめの楽章がないこと。初演時にはまだ作曲されていなかったのだ。よって、この楽章が大好きな人にとっては、物足りないということになるのかもしれない。不可解なほど甘いカラヤンとウィーン・フィルの演奏あたりになじんだ耳にとっては。
さらに、途中と終わりでバッハやヘンデルの曲が奏されること。今日では、どの曲であれ、全曲が単独で演奏されるのが常識であるけれど、ブラームスの時代でもまだこんな演奏形態が行われていたのである。「ドイツ・レクイエム」の途中でバッハのヴァイオリン協奏曲がたっぷり弾かれるとは、やはり奇異に感じないわけにはいかない。そして、最後には、「マタイ受難曲」と「メサイア」の有名アリア、合唱曲が歌われるのである。むろん、当時はまさしくブラームスを演奏するようなスタイルで奏されたのだろうが。「ドイツ・レクイエム」のあとで「ハレルヤ」ですか。知らずに聴いたら、唖然として当然である。
古典的な形式美を志向したとされるブラームスですらこういう感性だったと知れば、ブルックナーの交響曲第9番第3楽章のあとで「テ・デウム」を演奏するなど、まったくもって何でもないことであろう。
ちなみに、エルプフィルハーモニー、このシーズンに私は長年のコンサート通いでも生まれて初めての経験をした。演奏の途中に、うしろがざわざわ。振り返ると一面が霧。消火剤でミストサウナ状態。すぐに建物から出ろとアナウンス。火の気のないここで火事かよ。
その時指揮をしていたのは、ペッカ・クーシスト。近年急速に認知度を上げている才人系の人だ。ざわつく客席を振り返って見た彼の呆然とした顔が忘れられない。あともう少しで終わるところだったのにい。そういうタイミングだった。全員退避になったのに、ステージを去りがたいという表情。
打ち切りというアナウンスもなしに、自然解散。眺望を誇るだけに、音楽ホールとしては異例の高い階にあるホールから、長い階段を何度も折り返しながら大勢の人たちが無言で下りたあの数分は、何とも形容しがたい体験だった。階段室の中で、ただ人々の靴音だけが響いた。
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夏になり、ケント・ナガノのハンブルク時代が事実上終わった。ベルリン、ミュンヘン、ハンブルクというドイツの主要都市のオーケストラやオペラで活躍してきた彼は、このあと、スペインのオーケストラに移るようだ。
70歳を過ぎたナガノのワーグナーをオーケストラ・ピットの真ん前で聴く機会はもうあまりないかもしれないと思って、先月得意の「トリスタン」をハンブルク州立歌劇場で聴いてきた。文字通り、聴くのである。目の前では一世を風靡したルート・ベルクハウスの演出が繰り広げられているが、大昔ならともかく、今さらたいしておもしろくも感じられないので、完全無視して音楽だけに集中するのである。
ナガノの音楽は、とにかくスムーズで、きれいに流れる。ドイツ的な力みや淀みとは無縁だ。それがドイツ音楽の演奏として完全に正しいかと言えば、そうではあるまい。実際、ナガノのドイツものに対して執拗なブーイングを行う人が現地にはいなくもない。うんこらしょ、どっこらしょ、一瞬タメがあってドカーン、ウギャー、そういう音楽を好きな人にとっては物足りないのだろう。私にとっても、さすがに彼の「フィデリオ」あたりは、全然おもしろくない。おもしろくないという意味はもちろん、愉快ということではない。音がみな言うべきことを言わないで目の前を素通りしていくように感じられてしまうのである。
けれど、ワーグナーとブルックナーに関しては、ナガノ流が独特の美しさを生み出していて、これはこれで大したものだといつも思う。明るい透明な音色ですいすいと流れていく「トリスタン」の愛の二重唱なんて、もうふたりの愛はすっかり清められて救われてしまっているようで、いや、これは違うでしょとも思うのだが、とはいえ非常に心地よく聴いてしまう。
第3幕前奏曲の濃厚なチョコレートのような響きは、いつまでも私の耳の底に残るだろう。ドイツ楽団のチェロ、コントラバスのぶあつくもクリアな響き、これを指揮者のまうしろで、全身で浴びるようにして聴く以上の幸せはそんなにはない。
ナガノは現在、コンチェルト・ケルンと「リング」4部作を毎年ひとつずつコンチェルタンテで演奏している。19世紀の楽器を使っていて、何とも言えない中間色的な響きがして、いい。端的に言って、音色が多い。ドビュッシーが聴いたワーグナーの音とはこういうものだったかと思う。マイクをいっぱい立てて録音しているので、そのうちまとめて発売されるのだろう。今から楽しみだ。

さて、ナガノのハンブルクでの「ドイツ・レクイエム」のライヴ録音がBISから出た。この町のオペラのオーケストラも、現在ではコンサートをエルプフィルハーモニーで行うようになったので、そこでの録音。非常に満足がゆくものだ。いや、満足どころか、私にとってはこの曲の一番好ましい演奏。もったいぶった、重たいものがかぶさってくるような息苦しさがまったくない。
だが、気づく人は気づくだろう。合唱とオーケストラの演奏傾向が若干異なることに。合唱は当然ながらドイツ語を歌う。当たり前に子音ははっきりと明快で、単語やフレーズの頭が強く発音されることが多い。オーケストラの流麗さは必ずしもそれと一致しているわけではないのである。端的に言って、オーケストラだけを聴くと、あまりになだらかに聞こえるかもしれない。だが、そこが合わせ技の妙技で、こういうオーケストラ演奏がかえって合唱のすばらしさを引き立てる。そして、オケと合唱が両方でこってりドイツ風をやると、いかにもしつこい、塩気も脂もたっぷりの昔風高カロリー演奏になってしまうだろうが、そうではなくて、うまみがあるのに軽やかでヘルシーな現代的な味に仕立てられている。これ、言うほど簡単なことではないですよ。
合唱は、日本や北欧の団体みたいにとにかく音が濁ることを嫌うだけではない。歌詞に即した表現力、響きの色彩感を持ちながら、しかも混濁しないという方向性である。この演奏には複数の合唱団が参加しているが、実はドイツは合唱が盛んで、アマチュアの世界でも、まるでプロスポーツかというほど細かにレベルが分かれているそう。そういう背景があってこそ生まれたこの壮麗な音楽なのだ。
そして、ナガノ独特の透明感ある響きが、「ドイツ・レクイエム」にはうってつけなのだ。ここで示されているキリスト教は、罰や地獄落ちを強調する中世のそれではない。もっと人間の悲しみに寄り添い、やさしく慰めてくれるものなのだ。それがいいのか悪いのか、宗教がそういうものに変質したのである。
神の家はなんと快いのだろうと歌う第6曲は微笑んでいるみたい。最終楽章は、天上から光が降り注ぐような冒頭からしてシビレてしまう。その終わりのほうは、まさにナガノ得意中の得意「パルジファル」のようだ。そして、この録音で聴ける澄み切ったしみじみ感は、ナガノが近年になって得たものだ。
このライヴ録音は、ハンブルクの新ホールで行われた。音がいいとやたらに言われているエルプフィルハーモニーである。私ももうずいぶん通ったが、実はひとことで音がいいとは言いにくい会場で、しかもいい席の数がものすごく少ないというのが、目下の印象だ。ただし、曲、編成、席、もちろん演奏といういくつもの要素がぴたりと重なり合ったときの響きは、ほかのどこでも聴けないきわめて独特な美しさで、ナマでコンサートを聴く最高の悦びが得られる。この会場ならではの現代的な明快さがよくとらえられている音質だ。
そして大事なこと。この演奏・録音は、ブレーメンでの初演時の様子を再現したということで、通常とは異なる演奏形態だ。まず、5つめの楽章がないこと。初演時にはまだ作曲されていなかったのだ。よって、この楽章が大好きな人にとっては、物足りないということになるのかもしれない。不可解なほど甘いカラヤンとウィーン・フィルの演奏あたりになじんだ耳にとっては。
さらに、途中と終わりでバッハやヘンデルの曲が奏されること。今日では、どの曲であれ、全曲が単独で演奏されるのが常識であるけれど、ブラームスの時代でもまだこんな演奏形態が行われていたのである。「ドイツ・レクイエム」の途中でバッハのヴァイオリン協奏曲がたっぷり弾かれるとは、やはり奇異に感じないわけにはいかない。そして、最後には、「マタイ受難曲」と「メサイア」の有名アリア、合唱曲が歌われるのである。むろん、当時はまさしくブラームスを演奏するようなスタイルで奏されたのだろうが。「ドイツ・レクイエム」のあとで「ハレルヤ」ですか。知らずに聴いたら、唖然として当然である。
古典的な形式美を志向したとされるブラームスですらこういう感性だったと知れば、ブルックナーの交響曲第9番第3楽章のあとで「テ・デウム」を演奏するなど、まったくもって何でもないことであろう。
ちなみに、エルプフィルハーモニー、このシーズンに私は長年のコンサート通いでも生まれて初めての経験をした。演奏の途中に、うしろがざわざわ。振り返ると一面が霧。消火剤でミストサウナ状態。すぐに建物から出ろとアナウンス。火の気のないここで火事かよ。
その時指揮をしていたのは、ペッカ・クーシスト。近年急速に認知度を上げている才人系の人だ。ざわつく客席を振り返って見た彼の呆然とした顔が忘れられない。あともう少しで終わるところだったのにい。そういうタイミングだった。全員退避になったのに、ステージを去りがたいという表情。
打ち切りというアナウンスもなしに、自然解散。眺望を誇るだけに、音楽ホールとしては異例の高い階にあるホールから、長い階段を何度も折り返しながら大勢の人たちが無言で下りたあの数分は、何とも形容しがたい体験だった。階段室の中で、ただ人々の靴音だけが響いた。
(きょみつとし 音楽評論家、慶応大学教授)
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