80歳以上の2024年
2024年12月25日 (水) 13:10 - HMV&BOOKS online - Classical
連載 許光俊の言いたい放題 第314回
どんなもの、どんなことでもやがて過ぎ去る。例外はない。すばらしいコンサート、甘い恋、愉しい集い。もちろん、青春も。人生も。2024年も最後にさしかかった今、私にはことさらそれが痛感される。
まだ高齢とは言い難い美しい女優が、まったく思いがけず入浴中に命を落としたりする。ああ、気持ちよくお風呂に入りたい・・・それが最後の入浴になるなんて、誰が知ろう。私だって、ほろ酔い気分のまさにその瞬間、家の階段を踏み外して死ぬことになるのかもしれない。
ひとの世の、ひとの命のまことに儚いことよ。

7月、私がハンブルクのオペラハウスを訪れたのは、51年もここのバレエ団を率いてきたジョン・ノイマイヤーが85歳でついに監督職を引退するからだった。
50年。過ぎてしまえばあっという間かもしれない。が、客観的に眺めれば、ひとりの人間にとってはまったく途方もなく長い時間である。オーケストラと長年の関係を結んだいにしえの指揮者たちにしたところで、ここまで長い時間を一か所で過ごした人はほとんどいないだろう。
ベジャール、フォーサイスなどなど有名な振付家は何人もいるが、私にとってはノイマイヤーが一番のお気に入りだった。私はごく普通のクラシックなバレエにはあまり興味がない。もちろん様式美としてはすごいものがあって、極上の上演に遭遇すれば大いに満足できる。が、本心としては、ドラマをきっちりと読み解き、登場人物の心理を克明に表現していくノイマイヤーのほうが、ずっと共感できるのである。
さらに私がノイマイヤーにひきつけられたのは、彼がたぐいまれな音楽的センスを持ち合わせているからだ。正直言って、振付家のほとんどは、音楽的センスには恵まれていない。現代の振付のほとんどは、別に音楽がバッハだろうがショパンだろうがどうでもいいんじゃないのと思わされるものがほとんどである。その中でノイマイヤーは、いやノイマイヤーだけは異常なまでに鋭い音楽的感覚を持っていて、曲の選択が実におもしろく、また適切なのである。
特に今回私が見るのを楽しみにしていたのは、「ガラスの動物園」だ。これは、アメリカの作家、テネシー・ウィリアムズの原作による比較的最近の制作である。主人公のローラは、きわめて引っ込み思案な娘で、いい男を見つけるどころか、手に職をつけることすら難しい。永遠に日陰者であるしかないような孤独な人間。
ところが思いがけず、前から憧れていた青年が、脚が悪い彼女をリードしてワルツを踊ってくれる。彼女の、おそらくは人生でたった一度だけの幸せな瞬間。だがしかし、その幸せは、ちょっとした間違いで生じただけのこと。あっという間に、まさにガラスのように砕け散ってしまう。恐ろしく悲惨な話で、救いがない。後味の苦さも強烈だ。
このストーリーのためにノイマイヤーが選んだ音楽は、ほとんどがアイヴズとフィリップ・グラス。アメリカ由来の原作だから、アメリカ由来の音楽を合わせたのだろうが、すごすぎる選曲である。「答えのない質問」で静かに始まって、また同じ曲で静かに終わる。実はこの作品は、遠くからローラを想う弟の回想なのである。母(絵に描いたような毒親)と姉を置き去りにして家を飛び出し、かなたのどこかにいる彼が、家族を捨てた自分の罪深さを感じつつ思い起こす悲しいエピソードなのだ。
ハンブルクの劇場では、演奏は、ちゃんとナマのオーケストラがやる。ドイツの楽団だもの、グラスをやっても、何かワーグナーのようなロマンティックな気配がある。それがこの場合は妙に感じがよかった。
幸い、この「ガラスの動物園」は映像収録されていて、近々ブルーレイで発売が予定されている。まさしく名女優と呼びたくなる主演アリーナ・コジョカルの演技の緻密さ、克明さ、生々しさには息を呑む。むろん、劇場で見なければわからないおもしろさや表現というのもあるが、コジョカルの演技を細部まで堪能できるのは、映像収録のほうである。今から発売が待ち遠しい。ちょっとした手や足の動きがどれほど豊かな感情表現になっているか。圧倒されるはずである。
ハンブルクのオペラハウスのシーズン最終日は、毎年恒例、いつも「ニジンスキー・ガラ」というバレエのガラ公演で閉じられる。この劇場ではバレエはオペラと同じかそれ以上に大事なのだ。ノイマイヤーはニジンスキーにことのほか関心を持ち、たくさんの資料や遺物を収集しているというし、その名も「ニジンスキー」という作品もある(映像が発売されている)。それだけに彼の名を冠したガラ公演は、内容豊富で長時間にわたり、毎年行われるのにチケットの入手は容易ではないのである。
ノイマイヤーが制作してきた作品が、少しずつ、しかも彼自身の解説つきで上演される。今回が最後ということからか、マイクを手にした彼はいつにも増して率直な話し方をしているようだったと思う。そして、過去を思い出しながら話しているうちに、涙ぐみ、言葉に詰まってしまうこともたびたびあった。たとえば、今はみな忘れているけれど、エイズという恐ろしい伝染病が発生し、何人ものダンサーが死んだときのこと。ミュンヘンのオペラハウスで監督をやらないかと誘われたが、「バレエは、花屋できれいな花を買うのとはわけが違う。それは庭のように常に細かに手入れをしなくては育たないものだ」と断ったこと。
ノイマイヤーはマーラーの諸作品をバレエ化しているが、この日もまずは「大地の歌」フィナーレが踊られた。飛び入りで、なんとテノールのフォークトがこのフィナーレを歌ったのには肝をつぶした。アルトやバリトンではないですよ。テノールがあれを歌うのか。でもすごくいい感じ。
そして、いよいよこれが最後の演目として選ばれたのは、同じくマーラーの交響曲第3番のフィナーレだった。ノイマイヤーの代表作のひとつとされている。この楽章にはもともと「愛が私に語るもの」という言葉が添えられていた。ゆったりと歌う音楽がいよいよ終わりに近づいてくると、私の周囲では何人ものご婦人たちがすすり泣く声が聞こえてきた。高価なチケットを購ってひとりでここにやってきたこの人たちはおそらく何十年もここでノイマイヤー作品を見てきたに違いない。思う存分お泣きなさいよ、今日泣かなかったら、劇場で泣くことなんてもう一生ありませんよ。
長い長い拍手。そうやって、ノイマイヤーの時代は終わった。何とも言えない、ひとことでは言えないような気分。万感胸に迫るとはそういうときにふさわしい言葉である。

長寿の時代である。昔に比べて、老人の指揮者たちも元気だ。
ウィリアム・クリスティは80歳になった。その記念コンサート、そしてラモーの「エベの饗宴」の記念上演が今月パリで行われた。
私はこれまでずいぶんたくさんのすばらしいコンサートを経験してきたけれど、一番幸福を感じたコンサートは何かと問われれば、迷うことなく、5年前のレザール・フロリサンの40周年コンサートだったと断言できる。とにかく会場の雰囲気があたたかかった。出演者たちもみな幸せそうだった。その場にいるみなが、今生きて音楽を弾いたり聴いたりすることの幸せをかみしめていた。
だから、同じパリのフィルハーモニーで行われるクリスティの80歳記念コンサートも、決死の覚悟で行くつもりだった。絶対に聴き逃してはいけないコンサートや上演というものがこの世にはあるのである。
「優雅なインドの国々」「アリオダンテ」など得意曲を並べたコンサートはもちろんすばらしかった。アンコールになると飛び入りでナタリー・デセイが出てきて、クリスティも仰天。デセイにもはや往年の輝きはないけれど、そんなことは言うだけ罰当たりというものだ。あたたかい祝福を受け、クリスティは、最後は涙ぐんでいたが。
そして、その前後にオペラ・コミックではラモー「エベの祭典」を指揮。いかにもありがちなフランス・バロックのオペラだが、最後の幕が、ベートーヴェンやブルックナーとは違う意味で、ある種の浄化になっていることに感銘を受けた。
パリでは、オペラやコンサートに行くためにはあえておしゃれをしないのが、もう何十年も前から習慣になっているが、クリスティ誕生日当日だけは例外。なんとドレスコードがフォーマル指定で、タキシードとドレスの人たちで満席。そして、みなにシャンパンがふるまわれたのだった。こういうの、ほんとにいいと思います。
指揮姿はいまだ颯爽としているクリスティ。5年後に85歳の誕生日コンサートは行われるのだろうか。神のみず知るである。それはまたレザールの50周年ということにもなろう。レザール・フロリサンを指揮した録音集成の大ボックスが先日発売されたが、ほとんどみなすでに持っているのだけれど、改めて買い直してしまった。今からすると若き日のクリスティの演奏。現在は最晩年様式となっていて、速いところは速いが、遅いところはじっくりと濃いのがたまらないのだが、それに比べるとあっりめ。でも、どの曲も私にとっては基準となる演奏。
この手のボックスを買うと、歌詞の対訳がついていない。かつては内藤義博さんという研究者の「ルソーとフランス・オペラ」というHPがあって、これが対訳、解説などを満載したすばらしいサイトだったのだけど、消滅して何年にもなる。まことに惜しい。これで知って、内藤さんの本は全部買った。

ところで、現代のフランス・バロックの歌手としてピークにあるのは、レア・デザンドレである。バレエをやっていたとかで、身体は異常に細いのだが、メゾソプラノの声は緻密で、特に悲劇的な表現がすばらしい。肉厚の暗めではなくて、透明感や明るさがある声質。今年の春にはクリスティとシャルパンティエ「メデ」をパリ・オペラで上演し、早々に売り切れた。実に悲劇の魅力はここに尽きると言いたくなるすばらしい上演だった。映像収録されたのでそのうちブルーレイになるかも。
デザンドレのCDでは、「イディール」というアルバムがいい。近頃の歌手は、かつてのように「ヴェルディ・アリア集」「シューベルト歌曲集」というタイトルや選曲ではなくて、バロックから現代、シャンソンなども含んだコンセプトで1枚を構成するようになった。イディールとは牧歌のことで、平和な情景がイメージされている。
音質はエコー多めで、いかにも平和っぽくしているのが邪道かつよけいなおせっかいだが、歌はすばらしく、レザンドレの魅力がたっぷり味わえる。ひとつめからしてあまりにも陶酔的、官能的で、私はいったい何度聴いたかわからない。
リュートを弾いているダンフォードもレザール・フロリサン出身で、別格の名手。あまりにも繊細な音楽性に、初めて聴いたときは驚愕した。そもそも、オーラがすごくて、明らかにひとりだけ別世界で音楽を紡いでいる感じがしたものだ。さながら、人間たちが音楽を演奏している間に、神がひとりだけ混じり込んだような。最近は独立した活動が多いようだけれど、クリスティ誕生日コンサートにはちゃんと出演していて、嬉しかった。デザンドレとはデュオのコンサートを各地で行っている。なんと銀座の王子ホールでやったこともある。ええっ、と私が気づいたときにはすでに遅かった。ふたりのアルバムはいくつか出ているが、ことに「イディール」がいいと改めて繰り返しておく。

80歳と言えば、サヴァールもすでに80の大台を超えて何年か。近頃ちょっと脚を痛めているとも聞く。が、とりあえず新譜のメンデルスゾーン「夏の夜の夢」はいいので安心した。メンデルスゾーンは誰が演奏してもあまり印象が変わらない不思議な作曲家である。彼が書く旋律がスッキリ、あっさりしていて、ここでこぶしをきかせようなどとは誰も思わないこと。その旋律や、軽いリズムや、見通しのよい響きから、はかなげな風情が出てくるということ。このあたりがどうしても動かせないのである。たとえるなら、きっちりした燕尾服姿の紳士に、その服装で相撲を取れと言っても、できないでしょう。そんな感じ。
それでもサヴァールは、序曲には若干の野性味を加えているのがおもしろい。やはりこの作品は舞台音楽というイメージなのだろう。
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どんなもの、どんなことでもやがて過ぎ去る。例外はない。すばらしいコンサート、甘い恋、愉しい集い。もちろん、青春も。人生も。2024年も最後にさしかかった今、私にはことさらそれが痛感される。
まだ高齢とは言い難い美しい女優が、まったく思いがけず入浴中に命を落としたりする。ああ、気持ちよくお風呂に入りたい・・・それが最後の入浴になるなんて、誰が知ろう。私だって、ほろ酔い気分のまさにその瞬間、家の階段を踏み外して死ぬことになるのかもしれない。
ひとの世の、ひとの命のまことに儚いことよ。

7月、私がハンブルクのオペラハウスを訪れたのは、51年もここのバレエ団を率いてきたジョン・ノイマイヤーが85歳でついに監督職を引退するからだった。
50年。過ぎてしまえばあっという間かもしれない。が、客観的に眺めれば、ひとりの人間にとってはまったく途方もなく長い時間である。オーケストラと長年の関係を結んだいにしえの指揮者たちにしたところで、ここまで長い時間を一か所で過ごした人はほとんどいないだろう。
ベジャール、フォーサイスなどなど有名な振付家は何人もいるが、私にとってはノイマイヤーが一番のお気に入りだった。私はごく普通のクラシックなバレエにはあまり興味がない。もちろん様式美としてはすごいものがあって、極上の上演に遭遇すれば大いに満足できる。が、本心としては、ドラマをきっちりと読み解き、登場人物の心理を克明に表現していくノイマイヤーのほうが、ずっと共感できるのである。
さらに私がノイマイヤーにひきつけられたのは、彼がたぐいまれな音楽的センスを持ち合わせているからだ。正直言って、振付家のほとんどは、音楽的センスには恵まれていない。現代の振付のほとんどは、別に音楽がバッハだろうがショパンだろうがどうでもいいんじゃないのと思わされるものがほとんどである。その中でノイマイヤーは、いやノイマイヤーだけは異常なまでに鋭い音楽的感覚を持っていて、曲の選択が実におもしろく、また適切なのである。
特に今回私が見るのを楽しみにしていたのは、「ガラスの動物園」だ。これは、アメリカの作家、テネシー・ウィリアムズの原作による比較的最近の制作である。主人公のローラは、きわめて引っ込み思案な娘で、いい男を見つけるどころか、手に職をつけることすら難しい。永遠に日陰者であるしかないような孤独な人間。
ところが思いがけず、前から憧れていた青年が、脚が悪い彼女をリードしてワルツを踊ってくれる。彼女の、おそらくは人生でたった一度だけの幸せな瞬間。だがしかし、その幸せは、ちょっとした間違いで生じただけのこと。あっという間に、まさにガラスのように砕け散ってしまう。恐ろしく悲惨な話で、救いがない。後味の苦さも強烈だ。
このストーリーのためにノイマイヤーが選んだ音楽は、ほとんどがアイヴズとフィリップ・グラス。アメリカ由来の原作だから、アメリカ由来の音楽を合わせたのだろうが、すごすぎる選曲である。「答えのない質問」で静かに始まって、また同じ曲で静かに終わる。実はこの作品は、遠くからローラを想う弟の回想なのである。母(絵に描いたような毒親)と姉を置き去りにして家を飛び出し、かなたのどこかにいる彼が、家族を捨てた自分の罪深さを感じつつ思い起こす悲しいエピソードなのだ。
ハンブルクの劇場では、演奏は、ちゃんとナマのオーケストラがやる。ドイツの楽団だもの、グラスをやっても、何かワーグナーのようなロマンティックな気配がある。それがこの場合は妙に感じがよかった。
幸い、この「ガラスの動物園」は映像収録されていて、近々ブルーレイで発売が予定されている。まさしく名女優と呼びたくなる主演アリーナ・コジョカルの演技の緻密さ、克明さ、生々しさには息を呑む。むろん、劇場で見なければわからないおもしろさや表現というのもあるが、コジョカルの演技を細部まで堪能できるのは、映像収録のほうである。今から発売が待ち遠しい。ちょっとした手や足の動きがどれほど豊かな感情表現になっているか。圧倒されるはずである。
ハンブルクのオペラハウスのシーズン最終日は、毎年恒例、いつも「ニジンスキー・ガラ」というバレエのガラ公演で閉じられる。この劇場ではバレエはオペラと同じかそれ以上に大事なのだ。ノイマイヤーはニジンスキーにことのほか関心を持ち、たくさんの資料や遺物を収集しているというし、その名も「ニジンスキー」という作品もある(映像が発売されている)。それだけに彼の名を冠したガラ公演は、内容豊富で長時間にわたり、毎年行われるのにチケットの入手は容易ではないのである。
ノイマイヤーが制作してきた作品が、少しずつ、しかも彼自身の解説つきで上演される。今回が最後ということからか、マイクを手にした彼はいつにも増して率直な話し方をしているようだったと思う。そして、過去を思い出しながら話しているうちに、涙ぐみ、言葉に詰まってしまうこともたびたびあった。たとえば、今はみな忘れているけれど、エイズという恐ろしい伝染病が発生し、何人ものダンサーが死んだときのこと。ミュンヘンのオペラハウスで監督をやらないかと誘われたが、「バレエは、花屋できれいな花を買うのとはわけが違う。それは庭のように常に細かに手入れをしなくては育たないものだ」と断ったこと。
ノイマイヤーはマーラーの諸作品をバレエ化しているが、この日もまずは「大地の歌」フィナーレが踊られた。飛び入りで、なんとテノールのフォークトがこのフィナーレを歌ったのには肝をつぶした。アルトやバリトンではないですよ。テノールがあれを歌うのか。でもすごくいい感じ。
そして、いよいよこれが最後の演目として選ばれたのは、同じくマーラーの交響曲第3番のフィナーレだった。ノイマイヤーの代表作のひとつとされている。この楽章にはもともと「愛が私に語るもの」という言葉が添えられていた。ゆったりと歌う音楽がいよいよ終わりに近づいてくると、私の周囲では何人ものご婦人たちがすすり泣く声が聞こえてきた。高価なチケットを購ってひとりでここにやってきたこの人たちはおそらく何十年もここでノイマイヤー作品を見てきたに違いない。思う存分お泣きなさいよ、今日泣かなかったら、劇場で泣くことなんてもう一生ありませんよ。
長い長い拍手。そうやって、ノイマイヤーの時代は終わった。何とも言えない、ひとことでは言えないような気分。万感胸に迫るとはそういうときにふさわしい言葉である。

長寿の時代である。昔に比べて、老人の指揮者たちも元気だ。
ウィリアム・クリスティは80歳になった。その記念コンサート、そしてラモーの「エベの饗宴」の記念上演が今月パリで行われた。
私はこれまでずいぶんたくさんのすばらしいコンサートを経験してきたけれど、一番幸福を感じたコンサートは何かと問われれば、迷うことなく、5年前のレザール・フロリサンの40周年コンサートだったと断言できる。とにかく会場の雰囲気があたたかかった。出演者たちもみな幸せそうだった。その場にいるみなが、今生きて音楽を弾いたり聴いたりすることの幸せをかみしめていた。
だから、同じパリのフィルハーモニーで行われるクリスティの80歳記念コンサートも、決死の覚悟で行くつもりだった。絶対に聴き逃してはいけないコンサートや上演というものがこの世にはあるのである。
「優雅なインドの国々」「アリオダンテ」など得意曲を並べたコンサートはもちろんすばらしかった。アンコールになると飛び入りでナタリー・デセイが出てきて、クリスティも仰天。デセイにもはや往年の輝きはないけれど、そんなことは言うだけ罰当たりというものだ。あたたかい祝福を受け、クリスティは、最後は涙ぐんでいたが。
そして、その前後にオペラ・コミックではラモー「エベの祭典」を指揮。いかにもありがちなフランス・バロックのオペラだが、最後の幕が、ベートーヴェンやブルックナーとは違う意味で、ある種の浄化になっていることに感銘を受けた。
パリでは、オペラやコンサートに行くためにはあえておしゃれをしないのが、もう何十年も前から習慣になっているが、クリスティ誕生日当日だけは例外。なんとドレスコードがフォーマル指定で、タキシードとドレスの人たちで満席。そして、みなにシャンパンがふるまわれたのだった。こういうの、ほんとにいいと思います。
指揮姿はいまだ颯爽としているクリスティ。5年後に85歳の誕生日コンサートは行われるのだろうか。神のみず知るである。それはまたレザールの50周年ということにもなろう。レザール・フロリサンを指揮した録音集成の大ボックスが先日発売されたが、ほとんどみなすでに持っているのだけれど、改めて買い直してしまった。今からすると若き日のクリスティの演奏。現在は最晩年様式となっていて、速いところは速いが、遅いところはじっくりと濃いのがたまらないのだが、それに比べるとあっりめ。でも、どの曲も私にとっては基準となる演奏。
この手のボックスを買うと、歌詞の対訳がついていない。かつては内藤義博さんという研究者の「ルソーとフランス・オペラ」というHPがあって、これが対訳、解説などを満載したすばらしいサイトだったのだけど、消滅して何年にもなる。まことに惜しい。これで知って、内藤さんの本は全部買った。

ところで、現代のフランス・バロックの歌手としてピークにあるのは、レア・デザンドレである。バレエをやっていたとかで、身体は異常に細いのだが、メゾソプラノの声は緻密で、特に悲劇的な表現がすばらしい。肉厚の暗めではなくて、透明感や明るさがある声質。今年の春にはクリスティとシャルパンティエ「メデ」をパリ・オペラで上演し、早々に売り切れた。実に悲劇の魅力はここに尽きると言いたくなるすばらしい上演だった。映像収録されたのでそのうちブルーレイになるかも。
デザンドレのCDでは、「イディール」というアルバムがいい。近頃の歌手は、かつてのように「ヴェルディ・アリア集」「シューベルト歌曲集」というタイトルや選曲ではなくて、バロックから現代、シャンソンなども含んだコンセプトで1枚を構成するようになった。イディールとは牧歌のことで、平和な情景がイメージされている。
音質はエコー多めで、いかにも平和っぽくしているのが邪道かつよけいなおせっかいだが、歌はすばらしく、レザンドレの魅力がたっぷり味わえる。ひとつめからしてあまりにも陶酔的、官能的で、私はいったい何度聴いたかわからない。
リュートを弾いているダンフォードもレザール・フロリサン出身で、別格の名手。あまりにも繊細な音楽性に、初めて聴いたときは驚愕した。そもそも、オーラがすごくて、明らかにひとりだけ別世界で音楽を紡いでいる感じがしたものだ。さながら、人間たちが音楽を演奏している間に、神がひとりだけ混じり込んだような。最近は独立した活動が多いようだけれど、クリスティ誕生日コンサートにはちゃんと出演していて、嬉しかった。デザンドレとはデュオのコンサートを各地で行っている。なんと銀座の王子ホールでやったこともある。ええっ、と私が気づいたときにはすでに遅かった。ふたりのアルバムはいくつか出ているが、ことに「イディール」がいいと改めて繰り返しておく。

80歳と言えば、サヴァールもすでに80の大台を超えて何年か。近頃ちょっと脚を痛めているとも聞く。が、とりあえず新譜のメンデルスゾーン「夏の夜の夢」はいいので安心した。メンデルスゾーンは誰が演奏してもあまり印象が変わらない不思議な作曲家である。彼が書く旋律がスッキリ、あっさりしていて、ここでこぶしをきかせようなどとは誰も思わないこと。その旋律や、軽いリズムや、見通しのよい響きから、はかなげな風情が出てくるということ。このあたりがどうしても動かせないのである。たとえるなら、きっちりした燕尾服姿の紳士に、その服装で相撲を取れと言っても、できないでしょう。そんな感じ。
それでもサヴァールは、序曲には若干の野性味を加えているのがおもしろい。やはりこの作品は舞台音楽というイメージなのだろう。
(きょみつとし 音楽評論家、慶応大学教授)
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