Mな気分でストラヴィンスキー
2022年08月10日 (水) 17:20 - HMV&BOOKS online - Classical
連載 許光俊の言いたい放題 第301回

マゾッホの『毛皮を着たヴィーナス』。マゾヒストの聖典? その翻訳をやっと仕上げた。ようやく本の形になった。数年がかりで、訳しては直してを繰り返した。じくじく、じくじく。文学作品の翻訳はほんとにたいへんですよ。文化も時代も違うところで構想されたものを、今の日本で通じる、わかるようにするのは。ピンと来るようにするには。いくら考えても、直しても、きりがない。
翻訳は演奏と似ている。原典に忠実にすればよいというものでもない。ムラヴィンスキーが同じ曲ばかりしつこく演奏し続けたのもわかる気がする。ヴァントが演奏後に、うまくいかなかったところを思い出して気分が沈んでいたというのもわかる。さらには、いっそう効果的になるようにスコアを書き換えたストコフスキーの気持ちもわかる。私も、翻訳に限らず、本になったのを見たとたんに、あ、ここ、ああすればよかった、とそれはもう瞬間的に思うので。どうして前には気づかなかったのだろう・・・。嫌になってしまう。
『毛皮を着たヴィーナス』は、1870年ごろに書かれた小説である。作家はオーストリア人とされているが、今ならウクライナのリヴィウという町の人。そうかあ、マゾヒズムは150年前にウクライナで生まれたのかあ。
この時代はワーグナーが自他ともに認める巨匠となっていた時期でもある。それもあってだろう、作品の中では、「タンホイザー」がやり玉に挙がっている。処女崇拝だの純愛だのバッカじゃないの、とヴィーナスさまはおっしゃるのである。古代ギリシアでは、クラシック愛好家ならよくご存じの通り、ゼウスをはじめ神々、それに王家の人たちも、欲望に実に忠実だったからね。
この作品の中では、主人公の若い男が、女王さまの命令で、牛馬のようにすきに結び付けられ、畑を耕すというシーンがあるのだけれど(これ以外にもマゾッホの作品には何度か出てくる)、私はついつい連想してしまう。もちろんあれですよ、ムソルグスキー「展覧会の絵」のビドロ。重たいものを苦労して引っ張るという情景は、東欧では何か人々の心の根っこにある原イメージなのでしょうか。ドストエフスキーにも出てくるし。で、引っ張り終わったあとにはみなでビールを飲んで憂さ晴らし、なんてはずもなく、力尽きて倒れてしまう。
翻訳も執筆も、これ以上は(今回は)無理!というところまでやって、倒れる。そういうものである。ただ、ビドロとは違って、やり尽くしたという充実感はある。光文社古典新訳文庫です。ぜひお読みください。この仕事のあとで死んでもいいやと思ったので。神さま、これが終わらないうちは生かしておいてください、コロナにしないでくださいと思ったので。女王さまが、マジでエロかわいいです。エロかわいいけど、お嬢さんです。そういう女王さまを思い浮かべながら訳した。
偶然だが、今月20日から世田谷パブリックシアターでは、「毛皮のヴィーナス」という芝居が見られる。高岡早紀と溝端淳平の濃密なふたり芝居。マゾッホ作品を下敷きにしたエロティックかつ知的な台本。フィクションと現実が一体化してきて・・・台本を読んだだけでも、かなりウズウズする内容。こちらもぜひどうぞ。
さて、ビドロ、あるいは「展覧会の絵」、ムソルグスキーには、ドイツやフランスの音楽にはない暗い暴力性があると私は前々から感じているのだけれど、同じものを「ペトルーシュカ」にも感じるのだ。
ストラヴィンスキーの三大バレエは、私の場合もうしばらくの間、サロネンの演奏をやたらと聴いていたので、すっかり耳というか頭がそれになってしまっている。コロナ直前のフィルハーモニア管弦楽団との来日公演を聴いた人ならわかるだろうが、あの色彩的にもリズム的にも劇的にも燦然とした「火の鳥」や「春の祭典」に匹敵する演奏が、現代においてほかにあり得るとはちょっと思えないのである。
と同時に、サロネンのストラヴィンスキー演奏があまりに気持ちがよいものだから、何度でも聴きたくなってナマに通ったり、録音を聴いたりしているわけだけれど、もちろん、それ以外に演奏の可能性がないとはこれっぽっちも考えてはいない。

そういえば、テンシュテットの「ペトルーシュカ」を買っていなかったことに気付いた。たぶん発売予告が出て、実際の品が届くのはだいぶ先だから、またあとで注文すればいいやと思って放置したままだったのだ。ありがち。ついでにやはりテンシュテットとジェシー・ノーマンの「サロメ」ともども取り寄せてみた。どちらの盤にもぶっ飛んだ。
「ペトルーシュカ」はピアノ独奏が活躍するという点ではピアノ協奏曲的な面があり、また各楽器のソロが重要という点でも、協奏曲的である。それに限らず、本来は舞台音楽にもかかわらず、視覚的要素がなくても楽しいし、音楽を聴くのが好きな人はついつい音だけに集中してしまうのだ。
だが、もとはといえば、このバレエは、いかにも暗くて、救いようがない話なのである。暗い部屋で暮らす、しがない人形の報われない恋。あげく、何もそこまでされなくてもいいのに、追いかけられて刺殺されてしまう。出口なしの人生。悲惨そのもの。
テンシュテットの演奏は、最初のうちは普通に明るい。遊園地ののどかな風景みたいな雰囲気がたいへん強い。ところが、どんどん暗くなっていく。濃密な独奏楽器を聴いていると、ああ、マーラーと同じことじゃんと気づく。逆に、マーラーの交響曲のソロも、テンシュテットはこういうイメージで吹かせていたのだろうと推測できる。交響曲第6番や第7番のような「ペトルーシュカ」。

ラトルは、ロンドン響の首席指揮者になったとき、いきなり得意曲を並べて、これでどうだと言わんばかりのシリーズを行った。その中で一番チケットが買えなかったのが、ストラヴィンスキーの三大バレエの夕べ。一晩で3つやるのは、お得でもあるしね。
どういうわけか、その録音が今頃になって出てきた。ラトルのストラヴィンスキーはもちろん非常にレベルが高いのだが、サロネンのあとで聴くと、天才的な閃きや薄いのだなと思ってしまう。超贅沢なレベルの話です。
しかし、この2枚組の1枚目、「火の鳥」は実に楽しい。異常なアンサンブルのよさ。単に縦線が合うというのではなくて、木管楽器たちが、あたかも鳥がかわす会話のようだったり。
実はロンドン交響楽団は、ウィーン・フィルにも似たいやらしいところがあるオーケストラだ。実力を発揮すればすごい。だけど、手の抜き方を知っているし、抜きたがる。この何年かでは、ラトルとやるときと、そうでないときの落差が激しいようだ。ラトルと「幻想交響曲」をやったときは、第1楽章の冒頭や第3楽章で、「これでもついてこられる?」といわんばかりにラトルがめちゃくちゃに細かくテンポや音色を変化させた。それを見ながら、聴いているほうがはらはらドキドキした。え、そんなことやっちゃうの? オケは必死になってついていく。すばらしかったけれど、心臓には悪かった。へたしたら崩壊、また弾きなおし、そうなったらまるで練習風景みたいな。そういうギリギリの線。
そういうオーケストラの底力がよくわかるのが「火の鳥」。ほれぼれするようなソロや、弦の表現力や、合奏がたっぷり味わえる。録音が各楽器近接クローズアップ型だということもある。

ところで、一般的に賞賛されているすばらしいストラヴィンスキー演奏というのは、ブーレーズであれ、誰であれ、実は決定的な間違いを犯している。音だけで完結してしまうのだ。もちろん、コンサートや家で楽しむ分にはそうでなくては困るとも言えるけど。
コロナの前だが、サロネンがパリのオペラ座に登場し、舞台付きの「春の祭典」をやった。舞台付き、なんて言ってはいけないだろう。それが本来の姿。コンサートのほうが踊り抜きで不完全なはずなのだ。
しかし、サロネンの「春の祭典」は時として、これで踊れるかよ?というテンポを取るときがある。人間の体には内在的・必然的なリズムや限界があるけど、それを無視して突き進む。それが音楽表現としては実にスリリングなのだが。さて、踊りといっしょだとどうなるか。サロネンが妥協するとは思えないし。などと考えながら、二度見に行った。
もちろん、大きなパリのオペラ座でも、コンサートのような大編成はピットに入りきらないのである。それでちょっとがっかり。で、例によってサロネンは自分の「春の祭典」をやってくれたのだけれど、踊りとまったく乗り合わない。見ていて聴いていて不完全燃焼。舞台音楽としてはよろしくない。
という経験を思い出したのは、ユロフスキーの録音を聴いたから。このところすっかりメジャーになっているユロフスキー。実は彼のナマを聴いていいと思ったことは一度もないのである。あ、いや、一度だけあった。曲名は憶えていないけど現代音楽。
淡々と振り進めていくのが、オーケストラ芸術の精髄、さまざまな美味珍味に慣れてしまった私の耳にはいかにも物足りないのだ。後姿がロボットだか何だかみたいに冷たい。男の背中には人生が見えるとか何とか昔は言ったものだが、確かにチェリビダッケやクライバーの背中は発散するものが違ったなあ。
それはともかく、何の期待もなしに再生してみた「火の鳥」、腑に落ちた。劇場の音楽としてはこれくらいでいいのだ。適度にすきまがあったり、ゆるいほうが、踊りや演技とうまく組み合わさるのだ。そういえばユロフスキーは、コンサートもだが、劇場で活躍している人である。そのへんの案配はよくわかっているのかもしれない。
サロネンやラトルの「火の鳥」「春の祭典」を聴いても、踊っているステージは思い浮かんでこない。だけど、煮詰めすぎないユロフスキーだと、ピットで鳴っているのはこんな感じという気がして、ステージを想像したくなる。特に描写的に演奏しているわけではない。だって、ステージの上で人々が踊っていたら、オーケストラでいちいち描写しなくてもいいからね。
最後、聴衆のものすごい喝采が入っている。ナマでは熱々の演奏だったのだろうか。そこはちょっとわかりかねるが。
ところで、三大バレエ、音だけを聴いていると、洗練や技巧の極致と受け取ってしまうのだが、実際の舞台は・・・初演当時のパリでロシア・バレエ団がスキャンダルだったのも当たり前だ。バレエとは、肉体の美しさや動きの美しさを表現するものという常識を逆に行ったのだから。はるか大昔、近代文明とは隔たった時間と場所で、原始的な服を着て、わけがわからない飛んだり跳ねたり。それはもう、バレエ的な人工美の極致を期待する人からすれば、許せない代物。洗練を求めている客に、野蛮を差し出したようなもの。刺激に飢えている都会人のためのショー。洗練された世界だから、野蛮を愉しむ余裕があるとも言える。そんなことを、ずいぶん前に初演の場所、シャンゼリゼ劇場で復活上演を見たときに思った。間違っても、サロネンやラトルやブーレーズの演奏が似合うものじゃありません。
評論家エッセイ情報
ラトル
テンシュテット
ユロフスキー
サロネン

マゾッホの『毛皮を着たヴィーナス』。マゾヒストの聖典? その翻訳をやっと仕上げた。ようやく本の形になった。数年がかりで、訳しては直してを繰り返した。じくじく、じくじく。文学作品の翻訳はほんとにたいへんですよ。文化も時代も違うところで構想されたものを、今の日本で通じる、わかるようにするのは。ピンと来るようにするには。いくら考えても、直しても、きりがない。
翻訳は演奏と似ている。原典に忠実にすればよいというものでもない。ムラヴィンスキーが同じ曲ばかりしつこく演奏し続けたのもわかる気がする。ヴァントが演奏後に、うまくいかなかったところを思い出して気分が沈んでいたというのもわかる。さらには、いっそう効果的になるようにスコアを書き換えたストコフスキーの気持ちもわかる。私も、翻訳に限らず、本になったのを見たとたんに、あ、ここ、ああすればよかった、とそれはもう瞬間的に思うので。どうして前には気づかなかったのだろう・・・。嫌になってしまう。
『毛皮を着たヴィーナス』は、1870年ごろに書かれた小説である。作家はオーストリア人とされているが、今ならウクライナのリヴィウという町の人。そうかあ、マゾヒズムは150年前にウクライナで生まれたのかあ。
この時代はワーグナーが自他ともに認める巨匠となっていた時期でもある。それもあってだろう、作品の中では、「タンホイザー」がやり玉に挙がっている。処女崇拝だの純愛だのバッカじゃないの、とヴィーナスさまはおっしゃるのである。古代ギリシアでは、クラシック愛好家ならよくご存じの通り、ゼウスをはじめ神々、それに王家の人たちも、欲望に実に忠実だったからね。
この作品の中では、主人公の若い男が、女王さまの命令で、牛馬のようにすきに結び付けられ、畑を耕すというシーンがあるのだけれど(これ以外にもマゾッホの作品には何度か出てくる)、私はついつい連想してしまう。もちろんあれですよ、ムソルグスキー「展覧会の絵」のビドロ。重たいものを苦労して引っ張るという情景は、東欧では何か人々の心の根っこにある原イメージなのでしょうか。ドストエフスキーにも出てくるし。で、引っ張り終わったあとにはみなでビールを飲んで憂さ晴らし、なんてはずもなく、力尽きて倒れてしまう。
翻訳も執筆も、これ以上は(今回は)無理!というところまでやって、倒れる。そういうものである。ただ、ビドロとは違って、やり尽くしたという充実感はある。光文社古典新訳文庫です。ぜひお読みください。この仕事のあとで死んでもいいやと思ったので。神さま、これが終わらないうちは生かしておいてください、コロナにしないでくださいと思ったので。女王さまが、マジでエロかわいいです。エロかわいいけど、お嬢さんです。そういう女王さまを思い浮かべながら訳した。
偶然だが、今月20日から世田谷パブリックシアターでは、「毛皮のヴィーナス」という芝居が見られる。高岡早紀と溝端淳平の濃密なふたり芝居。マゾッホ作品を下敷きにしたエロティックかつ知的な台本。フィクションと現実が一体化してきて・・・台本を読んだだけでも、かなりウズウズする内容。こちらもぜひどうぞ。
さて、ビドロ、あるいは「展覧会の絵」、ムソルグスキーには、ドイツやフランスの音楽にはない暗い暴力性があると私は前々から感じているのだけれど、同じものを「ペトルーシュカ」にも感じるのだ。
ストラヴィンスキーの三大バレエは、私の場合もうしばらくの間、サロネンの演奏をやたらと聴いていたので、すっかり耳というか頭がそれになってしまっている。コロナ直前のフィルハーモニア管弦楽団との来日公演を聴いた人ならわかるだろうが、あの色彩的にもリズム的にも劇的にも燦然とした「火の鳥」や「春の祭典」に匹敵する演奏が、現代においてほかにあり得るとはちょっと思えないのである。
と同時に、サロネンのストラヴィンスキー演奏があまりに気持ちがよいものだから、何度でも聴きたくなってナマに通ったり、録音を聴いたりしているわけだけれど、もちろん、それ以外に演奏の可能性がないとはこれっぽっちも考えてはいない。

そういえば、テンシュテットの「ペトルーシュカ」を買っていなかったことに気付いた。たぶん発売予告が出て、実際の品が届くのはだいぶ先だから、またあとで注文すればいいやと思って放置したままだったのだ。ありがち。ついでにやはりテンシュテットとジェシー・ノーマンの「サロメ」ともども取り寄せてみた。どちらの盤にもぶっ飛んだ。
「ペトルーシュカ」はピアノ独奏が活躍するという点ではピアノ協奏曲的な面があり、また各楽器のソロが重要という点でも、協奏曲的である。それに限らず、本来は舞台音楽にもかかわらず、視覚的要素がなくても楽しいし、音楽を聴くのが好きな人はついつい音だけに集中してしまうのだ。
だが、もとはといえば、このバレエは、いかにも暗くて、救いようがない話なのである。暗い部屋で暮らす、しがない人形の報われない恋。あげく、何もそこまでされなくてもいいのに、追いかけられて刺殺されてしまう。出口なしの人生。悲惨そのもの。
テンシュテットの演奏は、最初のうちは普通に明るい。遊園地ののどかな風景みたいな雰囲気がたいへん強い。ところが、どんどん暗くなっていく。濃密な独奏楽器を聴いていると、ああ、マーラーと同じことじゃんと気づく。逆に、マーラーの交響曲のソロも、テンシュテットはこういうイメージで吹かせていたのだろうと推測できる。交響曲第6番や第7番のような「ペトルーシュカ」。

ラトルは、ロンドン響の首席指揮者になったとき、いきなり得意曲を並べて、これでどうだと言わんばかりのシリーズを行った。その中で一番チケットが買えなかったのが、ストラヴィンスキーの三大バレエの夕べ。一晩で3つやるのは、お得でもあるしね。
どういうわけか、その録音が今頃になって出てきた。ラトルのストラヴィンスキーはもちろん非常にレベルが高いのだが、サロネンのあとで聴くと、天才的な閃きや薄いのだなと思ってしまう。超贅沢なレベルの話です。
しかし、この2枚組の1枚目、「火の鳥」は実に楽しい。異常なアンサンブルのよさ。単に縦線が合うというのではなくて、木管楽器たちが、あたかも鳥がかわす会話のようだったり。
実はロンドン交響楽団は、ウィーン・フィルにも似たいやらしいところがあるオーケストラだ。実力を発揮すればすごい。だけど、手の抜き方を知っているし、抜きたがる。この何年かでは、ラトルとやるときと、そうでないときの落差が激しいようだ。ラトルと「幻想交響曲」をやったときは、第1楽章の冒頭や第3楽章で、「これでもついてこられる?」といわんばかりにラトルがめちゃくちゃに細かくテンポや音色を変化させた。それを見ながら、聴いているほうがはらはらドキドキした。え、そんなことやっちゃうの? オケは必死になってついていく。すばらしかったけれど、心臓には悪かった。へたしたら崩壊、また弾きなおし、そうなったらまるで練習風景みたいな。そういうギリギリの線。
そういうオーケストラの底力がよくわかるのが「火の鳥」。ほれぼれするようなソロや、弦の表現力や、合奏がたっぷり味わえる。録音が各楽器近接クローズアップ型だということもある。

ところで、一般的に賞賛されているすばらしいストラヴィンスキー演奏というのは、ブーレーズであれ、誰であれ、実は決定的な間違いを犯している。音だけで完結してしまうのだ。もちろん、コンサートや家で楽しむ分にはそうでなくては困るとも言えるけど。
コロナの前だが、サロネンがパリのオペラ座に登場し、舞台付きの「春の祭典」をやった。舞台付き、なんて言ってはいけないだろう。それが本来の姿。コンサートのほうが踊り抜きで不完全なはずなのだ。
しかし、サロネンの「春の祭典」は時として、これで踊れるかよ?というテンポを取るときがある。人間の体には内在的・必然的なリズムや限界があるけど、それを無視して突き進む。それが音楽表現としては実にスリリングなのだが。さて、踊りといっしょだとどうなるか。サロネンが妥協するとは思えないし。などと考えながら、二度見に行った。
もちろん、大きなパリのオペラ座でも、コンサートのような大編成はピットに入りきらないのである。それでちょっとがっかり。で、例によってサロネンは自分の「春の祭典」をやってくれたのだけれど、踊りとまったく乗り合わない。見ていて聴いていて不完全燃焼。舞台音楽としてはよろしくない。
という経験を思い出したのは、ユロフスキーの録音を聴いたから。このところすっかりメジャーになっているユロフスキー。実は彼のナマを聴いていいと思ったことは一度もないのである。あ、いや、一度だけあった。曲名は憶えていないけど現代音楽。
淡々と振り進めていくのが、オーケストラ芸術の精髄、さまざまな美味珍味に慣れてしまった私の耳にはいかにも物足りないのだ。後姿がロボットだか何だかみたいに冷たい。男の背中には人生が見えるとか何とか昔は言ったものだが、確かにチェリビダッケやクライバーの背中は発散するものが違ったなあ。
それはともかく、何の期待もなしに再生してみた「火の鳥」、腑に落ちた。劇場の音楽としてはこれくらいでいいのだ。適度にすきまがあったり、ゆるいほうが、踊りや演技とうまく組み合わさるのだ。そういえばユロフスキーは、コンサートもだが、劇場で活躍している人である。そのへんの案配はよくわかっているのかもしれない。
サロネンやラトルの「火の鳥」「春の祭典」を聴いても、踊っているステージは思い浮かんでこない。だけど、煮詰めすぎないユロフスキーだと、ピットで鳴っているのはこんな感じという気がして、ステージを想像したくなる。特に描写的に演奏しているわけではない。だって、ステージの上で人々が踊っていたら、オーケストラでいちいち描写しなくてもいいからね。
最後、聴衆のものすごい喝采が入っている。ナマでは熱々の演奏だったのだろうか。そこはちょっとわかりかねるが。
ところで、三大バレエ、音だけを聴いていると、洗練や技巧の極致と受け取ってしまうのだが、実際の舞台は・・・初演当時のパリでロシア・バレエ団がスキャンダルだったのも当たり前だ。バレエとは、肉体の美しさや動きの美しさを表現するものという常識を逆に行ったのだから。はるか大昔、近代文明とは隔たった時間と場所で、原始的な服を着て、わけがわからない飛んだり跳ねたり。それはもう、バレエ的な人工美の極致を期待する人からすれば、許せない代物。洗練を求めている客に、野蛮を差し出したようなもの。刺激に飢えている都会人のためのショー。洗練された世界だから、野蛮を愉しむ余裕があるとも言える。そんなことを、ずいぶん前に初演の場所、シャンゼリゼ劇場で復活上演を見たときに思った。間違っても、サロネンやラトルやブーレーズの演奏が似合うものじゃありません。
(きょみつとし 音楽評論家、慶応大学教授)
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