リスボン・ライヴのキモと幽霊の正体
2022年04月11日 (月) 08:14 - HMV&BOOKS online - Classical
連載 許光俊の言いたい放題 第298回
戦争のニュースが毎日続いている。攻める側も攻められる側も、人が死ぬ。おそらくその死者のほとんどにとって、死は不本意だろう。子供も大人も、民間人も兵士も、もっと生きられたらと思いながら死んでいくのだろう。想像しただけでたまらなくなる。和平が成立したところで、死んだ人は蘇らない。
だが、死は日本から遠い戦場にだけ存在するのではない。つい先日、私の授業に2年間出ていた学生が、自ら命を絶った。知らせを受けて言葉を失った。間違いだったらいいのにと思いつつ、間違いないでこともわかっていた。
彼女からは「もう生きていたくありません」という悲鳴のようなメールが来ていた。死ぬ当日のことだ。週に1度か2度、授業で顔を合わせるだけ、しかもコロナのせいで少なくとも半分はオンライン授業だったのがこの2年。それだけの関係の私に、死ぬ当日にそんなメールを送って来るとは、どれほど辛かったのだろう。私が返事を返したとき、もはや彼女はこの世の人ではなかった。せめて最後に、何か言葉を交わせていたら・・・。
あとで彼女が置かれていた境遇を知って、さらに心は重くなった。安易な同情や慰めなど通用しない厳しい人生を送っていたのだ。いったい私に何ができたろう。安らかに眠れ。私に言えるのはそれだけだ。
今いる大学に来て20年が経ったところだが、残念なことにその20年間に、私の授業に出席していた学生で、知っている限りでも3人の若者が自ら死を選んでいる。そのたびに実に辛い気持ちにさせられる。だが、他方で、こう言いたくなる人もいるだろう。あなたは世の中的にはいい学校に入れて幸せじゃないか、病気じゃないだけ幸せじゃないか、そしてウクライナの人なら、平和なだけでも幸せじゃないかと。むろん、それはその通りなのだ。ではあるのだけれど・・・。

学生の死の知らせを受けた次の日、ムーティが東京・春・音楽祭のオーケストラを指揮する「未完成」を聴きに行った。この指揮者と楽団が信じられないくらいすばらしい演奏を昨年してくれたことはすでにここで書いた。今年も、期待通りのすごい「未完成」をやってくれた。第1楽章で展開部に入るところ、よけいな力みもなく、美しいままに、闇に突入する。弱音で霞のように漂う弦楽器の上に、弱音の木管楽器がすうっと入ってくるところの、なんという美しさ。第2楽章を聴きながら、ほの明るい天国にいる死者たちが見えるようだと思った。あの学生も、それ以外の死者も、そこでは微笑している。でも何という寂しげな微笑。もちろん、こんなことは、作曲者や作品とは本来関係がない、私の心の中だけの話である。が。昔の人が、「未完成」を天国の音楽のようだと言ったのは、そういうことなのかもしれない。つまりは死者の国。苦しみはもうない。だけれど、飲んで騒いで浮かれたりという楽園ではない。ただただ静かな微笑があるだけみたいな。静かに流れる音楽。が、その音楽は無音のような不思議な音楽。あるようでないような音楽。
「未完成」は、「魔王」にも通じるグロテスクな恐怖が表現されていると私は考える(喜多尾道冬氏は梅毒に感染したことを知ったシューベルトの絶望的な気持ちの表現だとまで言っている)。が、ムーティは決して上品で繊細な美の領域をはみださない。恐怖やグロテスクを露骨に出してはこない。なのに、まったく物足りなくない。
今年初めてムーティと東京春祭オケの演奏を聴いた知人たちが、みんな「すばらしかった」と興奮していた。プロ中のプロの一番うるさい連中が「奇跡」「尊い」といった最上級の言葉で褒めたたえていた。それほどの演奏だった。しかし、私にとっては、その日の「未完成」は、20歳で死んだ学生のためのレクイエムだった。そうだ、彼女はこういう最上級の音楽とか、人生のいろいろな幸福、それをほとんど知らずに20歳で死んだのだ。不憫である。ひたすら不憫である。

さて、前回書いた、キオヴェッタのモーツァルト集に幽霊が出ると言う話。
実は、このCDには俗に言う隠しトラックがあるのだ。いや、より正確に言うのならトラックという形ではない。
問題は最後に入っているイ短調のロンドだ。ロンドとは輪舞である。ABACA・・・という形式。モーツァルトはたとえば、協奏曲のフィナーレでこの形式をしばしば用いた。軽快で、気楽で、爽快な音楽になるのが普通。
ところが、このイ短調のロンドは、およそロンドのイメージからかけ離れている。消えては戻ってくる悲しげな旋律。半音階や転調の妙。モーツァルトはロンドなどというありきたりな形を使って微妙な心理の移り変わりを語ることに成功したのである。シューベルトやショパンを先取りしたのである。こういうのを天才的と言うのだ。
ジャケットやケースに記されている曲目はここまで。私はすぐほかのCDを聴くのでなければ、わざわざプレーヤーのストップを押さずに、放置しておくことが多い。どうせ数秒で止まる・・・はず。
そうしたらだいぶ経ってから突然鳴り出したのだ、あまりにも美しく、悲哀に満ちた音楽が。まさに浄化された、天国のような響き。真剣に驚いた。音楽のこの世ならざる美しさに息をのんだ。幽霊がステレオを鳴らしていると思った。にしても、何とやさしいのだろう・・・。
モーツァルトがグラスハーモニカのために書いたアダージョだ。これをロンドのあとで弾くとは、すばらしすぎるアイデア、そして演奏だ。あとで確かめたら、ロンドとの間には1分以上があけられていた。このCDを買っても一生気付かないで終わる人もいるかもしれない。演奏時間も、ロンドの11分だけが記されている。当然、頭出しもできません。
存在していないのに存在している、存在しているのに存在していない音楽。
この世には、ケーゲル指揮のアルビノーニ「アダージョ」のような、どうしてこんな録音が作られてしまったのだろうという不思議なものがある。このキオヴェッタもそういう1枚だ。

チェリビダッケのいわゆる「リスボン・ライヴ」、ブルックナーの第8番がたいへん好評らしい。なんとLPレコードでの発売も進行中という。
で、リスボン・ライヴ、そのキモとは何なのか? チェリビダッケのブルックナー第8番に関してはすでに複数の録音が発売されている。基本的には、解釈は変わらない。では、どこが違うのか?
チェリビダッケが、フルトヴェングラーのテンポ観にショックを受けたというエピソードはよく知られている。つまり、テンポとは機械的に決められるものではない。たとえばホールの残響によっても違ってくる。
当たり前と言えばあまりに当たり前だ。風呂場のように残響が長いホールでは、テンポが速ければ、すべての音が混ざってしまう。ちょっと遅めでいい。だが、残響が短いホールでは、音がすぐに消えるから、テンポは速めていい。
だが、この当たり前がわかっていない、あるいは問題とはしない演奏家、関係者は決して少なくないのだ。
たとえば、かつてコロムビア、DENONでインバルをはじめとするすぐれた録音を制作し続けた川口義晴氏は、たまたま同じ大学に出講していたこともあって、何度も酒席を共にして話し込んだが、ベルティーニのテンポがコンサートごとに違うことが理解できなかった。「どうしてリハーサルと違うわけ? 基本的におかしい」と。言外に、「インバルはそうじゃないよ」と。いやいや、川口さんともあろう人がどうしてそんなことをおっしゃる?と思ったものだ。その場の雰囲気、集中力でテンポや演奏は変わりますよ。授業だってそうじゃん。
こういうことはあまり書かれないとは思うが、オーケストラの集中力があまり高くないときには(つまり、くたびれていたり、時差ボケがあったり、前日がサッカーの試合だったり・・・)、テンポは速めでさっさと切り上げるほうがいい。逆に、やる気満々、集中力が高いときには、遅いテンポでじっくりやれる。むろん、本当の本領は後者で発揮される。
さて、ここまでが、生のコンサートでの話。私たちが録音で聴く場合には、さらにもうひとつ条件が加わります。
録音、つまり音の録り方がその演奏の雰囲気や様子やイメージを、ちゃんと伝えてくれるかどうか。
この点で、リスボン・ライヴは、決して凝った録音でもないにもかかわらず、また、決してハイファイな感じの録音でもないにもかかわらず、演奏と録音のバランスが取れているのだ。ポルトガルの放送局が考えに考えてこうなったわけではないだろう。たまたまだろう。だが、人生とは、社会とは、歴史とは、大いにたまたまなものである。私はその会場に行ったことがないので、会場でどう鳴っていたかを断言はできないのだが、これは全体をまとめるように録っている。それがチェリビダッケのテンポと合っているのだ。
EMIで発売されたミュンヘンでの定期演奏会がリスボンのコンサートよりできが悪かったとはまったく思えない。ただ、EMI,つまりもともとのオーケストラやバイエルン放送が録った音は、リスボンとは違って、局所クローズアップ型で、総体を示すという点では物足りなかったのだ。ミスや不ぞろいが目立つ傾向になる。熱っぽさをあまり伝えない。しかし、ドイツでのライヴ録音はたいがいこの手の方法だ。昔の性能のよくないラジオ放送のためにはよかったのかもしれない。
ちなみに、カラヤンのオペラ録音はきわめて世評が高く、私も質が高いと思うけれど、今日となってみると、歌手のクローズアップが過ぎるように感じる。昔の装置や環境で歌手をちゃんと聴くにはこれが最善と判断されたのだろう。だが、オーディオの音も進歩する。歌手よりももっと背景のオーケストラが聴きたいなというときがある。録音も、演奏の特徴や時代に合わせて変わっていいのだし、変わるべきなのだ。
評論家エッセイ情報
キオヴェッタ
チェリビダッケ
戦争のニュースが毎日続いている。攻める側も攻められる側も、人が死ぬ。おそらくその死者のほとんどにとって、死は不本意だろう。子供も大人も、民間人も兵士も、もっと生きられたらと思いながら死んでいくのだろう。想像しただけでたまらなくなる。和平が成立したところで、死んだ人は蘇らない。
だが、死は日本から遠い戦場にだけ存在するのではない。つい先日、私の授業に2年間出ていた学生が、自ら命を絶った。知らせを受けて言葉を失った。間違いだったらいいのにと思いつつ、間違いないでこともわかっていた。
彼女からは「もう生きていたくありません」という悲鳴のようなメールが来ていた。死ぬ当日のことだ。週に1度か2度、授業で顔を合わせるだけ、しかもコロナのせいで少なくとも半分はオンライン授業だったのがこの2年。それだけの関係の私に、死ぬ当日にそんなメールを送って来るとは、どれほど辛かったのだろう。私が返事を返したとき、もはや彼女はこの世の人ではなかった。せめて最後に、何か言葉を交わせていたら・・・。
あとで彼女が置かれていた境遇を知って、さらに心は重くなった。安易な同情や慰めなど通用しない厳しい人生を送っていたのだ。いったい私に何ができたろう。安らかに眠れ。私に言えるのはそれだけだ。
今いる大学に来て20年が経ったところだが、残念なことにその20年間に、私の授業に出席していた学生で、知っている限りでも3人の若者が自ら死を選んでいる。そのたびに実に辛い気持ちにさせられる。だが、他方で、こう言いたくなる人もいるだろう。あなたは世の中的にはいい学校に入れて幸せじゃないか、病気じゃないだけ幸せじゃないか、そしてウクライナの人なら、平和なだけでも幸せじゃないかと。むろん、それはその通りなのだ。ではあるのだけれど・・・。

学生の死の知らせを受けた次の日、ムーティが東京・春・音楽祭のオーケストラを指揮する「未完成」を聴きに行った。この指揮者と楽団が信じられないくらいすばらしい演奏を昨年してくれたことはすでにここで書いた。今年も、期待通りのすごい「未完成」をやってくれた。第1楽章で展開部に入るところ、よけいな力みもなく、美しいままに、闇に突入する。弱音で霞のように漂う弦楽器の上に、弱音の木管楽器がすうっと入ってくるところの、なんという美しさ。第2楽章を聴きながら、ほの明るい天国にいる死者たちが見えるようだと思った。あの学生も、それ以外の死者も、そこでは微笑している。でも何という寂しげな微笑。もちろん、こんなことは、作曲者や作品とは本来関係がない、私の心の中だけの話である。が。昔の人が、「未完成」を天国の音楽のようだと言ったのは、そういうことなのかもしれない。つまりは死者の国。苦しみはもうない。だけれど、飲んで騒いで浮かれたりという楽園ではない。ただただ静かな微笑があるだけみたいな。静かに流れる音楽。が、その音楽は無音のような不思議な音楽。あるようでないような音楽。
「未完成」は、「魔王」にも通じるグロテスクな恐怖が表現されていると私は考える(喜多尾道冬氏は梅毒に感染したことを知ったシューベルトの絶望的な気持ちの表現だとまで言っている)。が、ムーティは決して上品で繊細な美の領域をはみださない。恐怖やグロテスクを露骨に出してはこない。なのに、まったく物足りなくない。
今年初めてムーティと東京春祭オケの演奏を聴いた知人たちが、みんな「すばらしかった」と興奮していた。プロ中のプロの一番うるさい連中が「奇跡」「尊い」といった最上級の言葉で褒めたたえていた。それほどの演奏だった。しかし、私にとっては、その日の「未完成」は、20歳で死んだ学生のためのレクイエムだった。そうだ、彼女はこういう最上級の音楽とか、人生のいろいろな幸福、それをほとんど知らずに20歳で死んだのだ。不憫である。ひたすら不憫である。

さて、前回書いた、キオヴェッタのモーツァルト集に幽霊が出ると言う話。
実は、このCDには俗に言う隠しトラックがあるのだ。いや、より正確に言うのならトラックという形ではない。
問題は最後に入っているイ短調のロンドだ。ロンドとは輪舞である。ABACA・・・という形式。モーツァルトはたとえば、協奏曲のフィナーレでこの形式をしばしば用いた。軽快で、気楽で、爽快な音楽になるのが普通。
ところが、このイ短調のロンドは、およそロンドのイメージからかけ離れている。消えては戻ってくる悲しげな旋律。半音階や転調の妙。モーツァルトはロンドなどというありきたりな形を使って微妙な心理の移り変わりを語ることに成功したのである。シューベルトやショパンを先取りしたのである。こういうのを天才的と言うのだ。
ジャケットやケースに記されている曲目はここまで。私はすぐほかのCDを聴くのでなければ、わざわざプレーヤーのストップを押さずに、放置しておくことが多い。どうせ数秒で止まる・・・はず。
そうしたらだいぶ経ってから突然鳴り出したのだ、あまりにも美しく、悲哀に満ちた音楽が。まさに浄化された、天国のような響き。真剣に驚いた。音楽のこの世ならざる美しさに息をのんだ。幽霊がステレオを鳴らしていると思った。にしても、何とやさしいのだろう・・・。
モーツァルトがグラスハーモニカのために書いたアダージョだ。これをロンドのあとで弾くとは、すばらしすぎるアイデア、そして演奏だ。あとで確かめたら、ロンドとの間には1分以上があけられていた。このCDを買っても一生気付かないで終わる人もいるかもしれない。演奏時間も、ロンドの11分だけが記されている。当然、頭出しもできません。
存在していないのに存在している、存在しているのに存在していない音楽。
この世には、ケーゲル指揮のアルビノーニ「アダージョ」のような、どうしてこんな録音が作られてしまったのだろうという不思議なものがある。このキオヴェッタもそういう1枚だ。

チェリビダッケのいわゆる「リスボン・ライヴ」、ブルックナーの第8番がたいへん好評らしい。なんとLPレコードでの発売も進行中という。
で、リスボン・ライヴ、そのキモとは何なのか? チェリビダッケのブルックナー第8番に関してはすでに複数の録音が発売されている。基本的には、解釈は変わらない。では、どこが違うのか?
チェリビダッケが、フルトヴェングラーのテンポ観にショックを受けたというエピソードはよく知られている。つまり、テンポとは機械的に決められるものではない。たとえばホールの残響によっても違ってくる。
当たり前と言えばあまりに当たり前だ。風呂場のように残響が長いホールでは、テンポが速ければ、すべての音が混ざってしまう。ちょっと遅めでいい。だが、残響が短いホールでは、音がすぐに消えるから、テンポは速めていい。
だが、この当たり前がわかっていない、あるいは問題とはしない演奏家、関係者は決して少なくないのだ。
たとえば、かつてコロムビア、DENONでインバルをはじめとするすぐれた録音を制作し続けた川口義晴氏は、たまたま同じ大学に出講していたこともあって、何度も酒席を共にして話し込んだが、ベルティーニのテンポがコンサートごとに違うことが理解できなかった。「どうしてリハーサルと違うわけ? 基本的におかしい」と。言外に、「インバルはそうじゃないよ」と。いやいや、川口さんともあろう人がどうしてそんなことをおっしゃる?と思ったものだ。その場の雰囲気、集中力でテンポや演奏は変わりますよ。授業だってそうじゃん。
こういうことはあまり書かれないとは思うが、オーケストラの集中力があまり高くないときには(つまり、くたびれていたり、時差ボケがあったり、前日がサッカーの試合だったり・・・)、テンポは速めでさっさと切り上げるほうがいい。逆に、やる気満々、集中力が高いときには、遅いテンポでじっくりやれる。むろん、本当の本領は後者で発揮される。
さて、ここまでが、生のコンサートでの話。私たちが録音で聴く場合には、さらにもうひとつ条件が加わります。
録音、つまり音の録り方がその演奏の雰囲気や様子やイメージを、ちゃんと伝えてくれるかどうか。
この点で、リスボン・ライヴは、決して凝った録音でもないにもかかわらず、また、決してハイファイな感じの録音でもないにもかかわらず、演奏と録音のバランスが取れているのだ。ポルトガルの放送局が考えに考えてこうなったわけではないだろう。たまたまだろう。だが、人生とは、社会とは、歴史とは、大いにたまたまなものである。私はその会場に行ったことがないので、会場でどう鳴っていたかを断言はできないのだが、これは全体をまとめるように録っている。それがチェリビダッケのテンポと合っているのだ。
EMIで発売されたミュンヘンでの定期演奏会がリスボンのコンサートよりできが悪かったとはまったく思えない。ただ、EMI,つまりもともとのオーケストラやバイエルン放送が録った音は、リスボンとは違って、局所クローズアップ型で、総体を示すという点では物足りなかったのだ。ミスや不ぞろいが目立つ傾向になる。熱っぽさをあまり伝えない。しかし、ドイツでのライヴ録音はたいがいこの手の方法だ。昔の性能のよくないラジオ放送のためにはよかったのかもしれない。
ちなみに、カラヤンのオペラ録音はきわめて世評が高く、私も質が高いと思うけれど、今日となってみると、歌手のクローズアップが過ぎるように感じる。昔の装置や環境で歌手をちゃんと聴くにはこれが最善と判断されたのだろう。だが、オーディオの音も進歩する。歌手よりももっと背景のオーケストラが聴きたいなというときがある。録音も、演奏の特徴や時代に合わせて変わっていいのだし、変わるべきなのだ。
(きょみつとし 音楽評論家、慶応大学教授)
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