Small Faces

Small Faces (スモール・フェイセス) プロフィール

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ザ・フーなどと比べると、当時のセールス的にも存在感的にも小ぶりな印象のあるスモール・フェイセズ(イギリス中心で盛り上がったバンドということもある)。ただ彼らの場合、逆にその「小ぶりな印象」がタイトでストイックなバンドのイメージにも繋がるところが魅力。またスモール・フェイセズに対して、近年のモッズ・ファン達を中心とした若いリスナー層から、大物感溢れるロック・バンドであるザ・フーに対するような性質とはまた違ったリスペクトが寄せられているのも事実で、彼らに対する昨今の再評価はかなりの広がりを持って定着してきたと言っていいだろう(勿論この一文にフーに対する悪意はありません。モッズというより偉大なるロック・バンドとしてザ・フーは揺るぎない地位を築いているし、どちらも好きなバンドですから…)。

スモール・フェイセズは1965年にロンドンで結成。アウトキャスツ、パイオニアーズといったバンドを組んでいたロニー・レイン(1948年イースト・ロンドンのプレイストウ生)が仕事の傍らに本格的なバンド結成を思い立ったのが始まりだった。そのシャープなプレイを自分の兄から伝え聞いたロニー・レインがバンドに誘ったのがドラマーのケニー・ジョーンズ(1948年ステップニー生)で、続いて加入したのが後にスモール・フェイセズの看板的存在となるスティーヴ・マリオット(1947年ステップニー生)だった。スティーヴ・マリオットはミュージカル「オリヴァー」の子役として12歳の時に芸能界デビューし、その後映画やテレビで活躍しており、ショービズ界でのキャリアがバンド加入以前から既にあった。更にマリオットが連れてきたジミー・ウィンストンを加えたバンドは、スモール・フェイセズを名乗り活動を開始した。バンド名の由来には諸説あるが、メンバー全員が文字通り顔が小さかったからという説や、あるいはメンバー揃って5フィート6インチ以下と、背丈が小さかったからという説もある。

彼らは結成してまもなくシェフィールド、マンチェスター、ロンドンなどを廻ってライヴ活動を開始。リパートリーは数少ないオリジナル曲と多くのR&Bカヴァーだったという。やがてキャバーン・クラブでの演奏がロンドン有数のエージェント、ドン・アーデンの目にとまり、スモール・フェイセズは、レコード契約をものにする。そして1965年8月。デッカ・レコードからシングル“ワッチャ・ゴナ・ドゥ・アバウト・ユー”をリリースしデビューに至った。結成からこのデビューまでの間はたった6週間だった。

ただ、デビュー・シングル”ホワッチャ・ゴナ・ドゥ〜”、続くセカンド・シングル“アイヴ・ゴット・マイン”をリリースするも、一般的な反響はチャート的にも無に等しかった。だがこのサウンドに飛びついた一群が居た。いわゆるモッズと呼ばれる若者層がそれで、彼らは当時アトランティックやスタックス、モータウンなどのソウル/R&Bを好むロンドンのヒップなリスナーの一群だった。彼らが好んだ代表的なバンドといえばスモール・フェイセズより一足先にデビューしていたザ・フーだったが、そこにスモール・フェイセズの名も連なったわけだ。いわばロンドンのウェスト・エンド代表がザ・フー、イースト・エンド代表がこのスモール・フェイセズという図式。ただザ・フーのモッズ的イメージ、意匠は後にマネージャーのピーター・ミーデンがかなり「作った」ものだということが判っており、ザ・フーのメンバーもそのことを認めているのは有名な話。一方のスモール・フェイセズは実際にモッズ的文化の中から出てきた連中で、当初こそザ・フーに人気の面で水をあけられたものの、じきにそのR&B感覚溢れるパフォーマンスなどが評価され、スモール・フェイセズローリング・ストーンズザ・フープリティ・シングスヤードバーズらとともに英R&Bシーンを代表するバンドとなっていったのだった。

人気を早くも高めていったスモール・フェイセズだったが、1965年11月に初代キーボーディスト、ジミー・ウィンスンが脱退。代わりにイアン・マクレガン(1946年ハウンスロー生)が加入するというメンバー交替が早くも起こっている。イアン・マクレガンはもともとギタリストとしてキャリアをスタートした人物だったが、スモール・フェイセズに加入する頃には既に仲間内からも高い評価を受けるオルガン奏者となっていた。更に言えば結果的にこの交替により、スモール・フェイセズの黄金のメンバーが揃ったのだった。

翌1966年に入ると、スモール・フェイセズはいきなりヒットを量産し快進撃を始めた。“シャ・ラ・ラ・ラ・リー”(全英3位)、“ヘイ・ガール”(全英10位)、“オール・オア・ナッシング”(全英1位)、“マイ・マインズ・アイ”(全英4位)といった4曲の全英トップ10ヒットを連発。また同年にはデッカからファースト・アルバム スモール・フェイセズ(Small Faces)を発表。その後北欧ツアーやロイ・オービソンとのジョイント・ツアーを敢行した彼らは、翌1967年3月に“アイ・キャント・メイク・イット”を発表。、また同時期にセカンド・アルバム フロム・ザ・ビギニング(From The Beginning) を発表し、これを最後にデッカを離れ、イミディエイト・レーベルに移籍した。

イミディエイト・レーベルに移籍した彼らは“ヒア・カム・ザ・ナイス”を発表。これは小ヒットとなったが、この後彼らはサイケデリックな作風へと傾いていく。その兆しとなったシングルが“イチクー・パーク”。1967年8月に発表された同シングルは全英チャートで3位を記録し、更にアメリカでも最高位16位まで上昇するヒットとなった。因みに同曲は彼らが唯一全米トップ40入りした曲になった。また続く“ティン・ソルジャー”も全英トップ10入りを果たし、その後リリースされた“レイジー・サンデイ”は全英チャート2位と、彼らはモッズ達からの支持のみならず、それらの曲で聴かれるサイケ感を好むアンダーグラウンド層にもアピールする音楽性をものにしたのだった。“レイジー・サンデイ”などを含むアルバム オグデンズ・ナット・ゴーン・フレイク(Ogdens Nut Gone Flake)は同年発表。タバコ型の丸い変形ジャケットが話題となった同作は、前年の1967年にビートルズが発表した サージェント・ペッパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド の時代感に呼応するサイケやトータル・アルバム的感触、英国的なイメージやドラッグによるイマジナリーな世界といったものを渾然一体にした意欲作だった。しかしこのオグデンズ〜、英国ではチャートの上位にランクされるも、アメリカでははっきりいって失敗。そしてこれがきっかけとなり、バンドに重要な節目が訪れてしまった。サイケ・ポップよりも、ロック、あるいはR&B的な熱量こそが自分達の持ち味、と常々考えていたスティーヴ・マリオットスモール・フェイセズを脱退してしまったのだった。

1969年、スティーヴ・マリオットスモール・フェイセズ脱退後、自身と同様にロンドンっ子からのアイドル人気を集めていたザ・ハードのギタリスト、ピーター・フランプトンをはじめ、元スプーキー・トゥースのベーシスト、グレッグ・ギドリー、そしてドラマーのジェリー・シャーリーとともにハンブル・パイを結成。一方、看板ヴォーカリストを失ったスモール・フェイセズは残り三人に、新たにジェフ・ベック・グループで活躍していたロッド・スチュアートロン・ウッドを加え、バンドを再編。バンド名を「フェイセズ」と改め活動を再開した。その後の、このふたつのバンドの活躍はご存知の通り。ハンブル・パイはストレートなロック感覚や屈強なライヴを売りにしたタフなバンドへ、またフェイセズは「マリオット抜きスモール・フェイセズ」というマイナスな見方を覆し、よりラフでルーズなロックンロールの醍醐味溢れる活動を見せ付け、「ストーンズの二番煎じ」などとも陰口を叩かれながらも、フェイセズ独自の爽快な切れ味で人気を博していくのだった。

冒頭で触れたようにスモール・フェイセズのストイックで粋な魅力というものは、後のアーティストにも大きな影響を与えている。リスペクトを包み隠さず表明しているポール・ウェラーオーシャン・カラー・シーン辺りが代表的なアーティスト達だろうか。かなり大雑把な言い方になるが、モッド兄貴、ポール・ウェラーの行き方を見ると、ある地点からピート・タウンゼントザ・フー)になるよりも、スティーヴ・マリオットスモール・フェイセズ)になることを選んだかのように映ることがある(あくまで私見ですが)。

スモール・フェイセズの唯一無二の粋な佇まいとその音楽は、これからも若いリスナー達によって再評価されていくことだろうと思う。

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