Serge Gainsbourg
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Serge Gainsbourg (セルジュ・ゲンズブール) プロフィール

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こんな凄いおっさん、そうはいない!(失礼かもしれませんが、尊敬と愛を込めて“おっさん”と呼ばせていただきます。お許しを)

作詞・曲家、映画監督、シンガー、カメラマン、小説家、と実に多彩な肩書きとはうらはらにヘヴィー・スモーカー、女ったらし、エロおやじ、と呼ばれもするが、この男にはこちらの肩書き(?)すらも全部カッコイイひびきに変わってしまうズルい奴。セルジュ・ゲンズールとはそんな男。

1928年4月2日、パリ20区の小さなアパルトマンにてルシアン・ギンズブルグは生まれる。彼は双子として妹のリリアンヌと共にユダヤ系の家庭に生を受け、兄弟には2歳年上である姉のジャクリ−ヌがいる。ピアノ教師をしていた父ヨーゼフの奏でるバッハやショパンのメロディーを聴いて育ったという環境の元にゲンズブール自身も6歳の頃よりピアノ弾きはじめ、当時ゲンズブールにとってもそのレッスンはかなり辛かった模様。性格もかなり内気な少年だったらしい....(信じられませんが)。

第二次大戦が始まりナチス・ドイツがパリを占領、、激しくなってゆくヨーロッパでのユダヤ人狩り、こ頃の不幸な出来事、胸に黄色い星(ダヴィデの星)の識別章を貼り付けられた重く辛い経験は後のゲンズブールの“ナチ・ロック”や“イエロー・スター”が物語っている。

ゲンズブールが18歳の頃、一家はパリ、16区へと移り住む。その後’51年にエリザベットと結婚。’54年頃から歌手としてのデビューを果たす。歌手デビュー間もない頃にはキャバレーやクラブで弾き語りなどをしてルシアンからセルジュ・ゲンズブールという名に変えたのもこの頃からであった。ミュージシャン業に多忙な日々を送るゲンズブールは遂に’57年離婚。

その頃、パリのサン・ジェルマン・デ・プレではBoris Vian(ヴォリス・ヴィアン)が“僕はスノッブ”等の歌でまさしくスノッブな若者達の人気を集めていた。少なからずゲンズブールもヴォリス・ヴィアンに影響を受けていた、後歌手セルジュ・ゲンズブールが誕生するのである。’58年の事パリ、セーヌ右岸に開店したキャバレー、ミロール・ラルスイユに出演していた彼を観たフィリップスのプロデューサー、ドゥニ・ブルジョワはゲンズブールにレコーディングを申し込み、“リラ駅の切符売り”等が収録されたLPをリリースする。ボリス・ヴィアンはセルジュの作品を絶賛する、そしてコラボレーション等の予定も上がっていたりもしたのだが、実現する事も無くボリスは39歳という若さでこの世を去った。

その後にはかの大スター、ジュリエット・グレコがゲンズブールの楽曲を歌い、’59年には彼の2ndアルバム“No2"がリリースされる。ゲンズブールの顔が売れ出した頃もこのあたりで、雑誌の表紙を飾ったりル・モンドに記事も出た、そして映画監督ミシェル・ポワロンから映画の出演依頼がやったきた、主役はBrigitte Bardot(ブリジット・バルド−)の“気分を出してもう一度”であった。そして8年後に二人は恋仲となる....。

ゲンズブールの曲を歌ったアーティストの中には、’60年以降のイエイエ・ブームに乗っかりSylvie Vartan(シルヴィー・ヴァルタン)France Gall(フランス・ギャル)Francoise Hardy(フランソワ−ズ・アルディー)等の活躍、そしてその傍らジャズ・クラブで観たBud Powell(バド・パウエル)に感銘を受けジャズに傾倒するようになる。

'64年、ゲンズブール2度目の結婚。この頃のゲンズブールはそのイエイエ・ブーム真っ盛りの中フランス・ギャルの「夢見るシャンソン人形」が大ヒット。売れに売れまくったゲンズブール、人生の絶頂期である。だが私生活では゜67年にベアトリスと離婚。

’68年ブリジッド・バルド−とのデュエット“ジュ・テーム”が生まれるが、その余りにもエロティックであるバルドーのあえぎ声に当時のバルドーの夫であったギュンター・ザックスが激怒、バルド−はゲンズブールにリリースを見合わせる様に手紙を書いた。そしてその幻の名曲が解禁されたのは゜86年の事である。

ゲンズブール、運命の年゜68年。この年にピエール・グランブラ監督より“スローガン”のシナリオを手渡される。そのヒロインには当初決定していたトップ・モデルのマリサ・ベレンスンだが監督によって急遽新人にチェンジされた。その人物こそがJane Birkin(ジェーン・バーキン)なのであった。

改めて録音されたジェーン&セルジュ・ヴァージョンの“ジュ・テーム”、記念すべきジェ−ンの初めてのアルバムである”J・バーキン&S・ゲンズブール”、様々なゴシップの嵐の中、BBC等ではあまりにも卑猥であるとして“ジュ・テーム”は放送禁止処分に、またイタリアにおいてもヴァチカンが激しく非難、にもかかわらずにアルバムは空前の大ヒットを飛ばす。

噂のカップル、セルジュとジェーンはその後も二人揃って映画にも出演した。゜71年にはアルバムメロディー・ネルソンをリリースする。兆度その年の4月に父ヨーゼフが死去、そして7月にはCharlotte Gainsbourg (シャルロット)が誕生。

’74年、ゲンズブールの初監督作品となるジュ・テーム(同名タイトルでJ.Birkin名義のCDも有)を発表。当時は最悪の評価を食らっていたが、この作品こそ時代を超えての大傑作といえよう。

'75年にはアルバム“Rock Around The Bunker 、’77年にはL'homme A Tete De Chou キャベツ頭の男をリリース。そして’79年には次作Aux Armes Et Caetera 祖国の子供たちへを発表。すべてレゲエ・ナンバーとなる本盤はゲンズブール自らジャマイカ、キングストンへと向かい、スライ・ダンバー、ロビー・シェイクスピアとのコラボレイトにて5日間という短期間での録音が行われたという。ゲンズブールは飛行機の中で作曲し、トラック・ダウンまで5日間で済ませたというから驚きである。勿論こちらは大ヒット、だがこのアルバムに収録されているタイトル曲だがレゲエ・アレンジされたサウンドにフランス国歌である“マルセイエーズ”の詩は少々マズかった、愛国精神溢れる方々の怒りを買う事になるのであるが、本人は音楽としてのシャレであったそうである。

'79年、ジェーン・バーキンが二人の娘を連れセルジュの元を離れてしまう、酒に溺れたセルジュの暴力も原因であるといわれているが、ジェーン・バーキンは映画監督のジャック・ドワイヨンと共に暮らすようになる。そして失意のどん底にあったセルジュはカトリ−ヌ・ドヌーヴやモデルのバンブー等によって傷ついた心を癒されたのか、その美しいバンブーの魅力の虜になり彼女をプロデュース、写真集を発表し、彼自身も次のレゲエ・アルバム“星からの悪い知らせ”の製作に取りかかる。このアルバムはバハマ録音、’81年のリリース作である。

'82年には長編映画“赤道”を撮影。アルバムの方も’83年のジェーン・バーキン、イザベル・アジャーニと意欲的に活動をしている。

’84年、500フラン札に火を付けるといういかにもセルジュらしいパフォーマンスを披露し、そして映画『ミスター・フリーダム』で知り合ったウィリアム・クラインによるアートワークも秀逸なラヴ・オン・ザ・ビートを制作。もはや誰も彼を止める事など出来はしない、名声とステイタスをも身に付け'85年には文化大臣より芸術文化勲章を授与される。

’87年、最後のスタジオ録音となったYou're Under Arrest囚われ者を発表する。゜90年2月にはジェーンの最後の作品Amours Des Feintes いつわりの愛”を録音。(ジャケットのイラストはセルジュによるもの)

'91年3月2日、心臓発作によりこの世を去った。モンパルナスの墓地に眠る.....。粋を地で生き、美女まみれとなり、その存在そのものが芸術であった。時代は移ろうともゲンズブールの生き方は時代を経て我々のお手本となり憧れであり続ける。

※参考文献 「STUDIO VOICE」’93.Oct

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