Roxy Music
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Roxy Music (ロキシー・ミュージック) プロフィール

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初期ロキシー・ミュージックのキッチュで世紀末的なイメージ/音楽性から、後期のより洗練されたスタイルまで――これらは後のヒューマン・リーグなどのシンセ・ポップ勢や、その他ニュー・ウェイヴ勢、またはデュラン・デュランなどのニュー・ロマンティック派に受け継がれた。実際にはデヴィッド・ボウイロキシー・ミュージックといった方が当たっているのかもしれないが、ブライアン・フェリーボウイが編み出した不思議に叙情的なヴォーカル・スタイルや近未来的イメージは、この辺りのグループに大きな影響を及ぼしている。また職人的な演奏力よりも、シニカルな視線を持ったネジれたコンセプトやアイデアを重視する、というようなノリが強かった初期ロキシー・ミュージックのアートっぽいモダンな佇まいは、同時代の多くのバンドに刺激を与えたといわれているほか、大雑把に言ってしまえば後の尖った感覚を聴かせるポスト・パンク勢や、アートスクール系の系譜に属するブラーなど、主に英国的と言われるバンド達に脈々と受け継がれているともいえる。

活動を通してロキシー・ミュージックの看板であったブライアン・フェリーが、ニューキャッスル大学からの友人、グラハム・シンプソンと、前身であるRoxyの結成を決めたのは1970年秋のこと。二人は新聞にメンバー募集の広告をうち、その結果集まったのがアンディ・マッケイとその友人であるブライアン・イーノ、更にロジャー・バン、クラシックあがりのデクスター・ロイドという面子だった。1971年に入ると、このRoxyはイーノ家の一室でリハーサルを開始。またこの時期にデモ・テープも制作し、これをメロディ・メイカーに送ったところ、高い評価を受けたという。

しかしその後、Roxyという同名バンド名がアメリカにいることが判明。またこの前後にデクスターとロジャーが脱退するというハプニングにも見舞われた彼らは、これを機に「ロキシー・ミュージック」と改名。バンドは新たな道を進むようになる。再び新聞広告でメンバー募集をしたロキシー・ミュージックは、オーディションの末にポール・トンプソンとデヴィッド・オリストを獲得し、レディング大学やロンドンのクラブ、スピークイージーなどで演奏活動を開始。またこの時期1972年初頭にはラジオ出演もした。軌道に乗りかけたバンドだったが、どうしても馴染めなかったデヴィッドのみ3ヶ月でクビに。その代わりに、フィル・マンザネラがバンドに加入。彼はデヴィッドと同じオーディションを受けていて不合格となっていたが、フェリーに才能を認められサウンド・ミキサーとして採用されていて、その後バンドに同行していたところ、白羽の矢が立ったのだった。そのマンザネラ加入日の夜、EGマネージメントと契約を果たしたバンドは、すぐにアイランド・レーベルとレコード契約。更に驚くことにマンザネラ加入から二週間しか経っていない時期にもう、キング・クリムゾンの作詞担当、ピート・シンフィールドのプロデュースにより、デビュー・アルバムの録音まで終えてしまったという。しかしその直後、グラハム・シンプソンが脱退、代役としてリック・ケントンが加入してバンド・メンバーを務めることになった。

1972年の中頃にバンドは、アルバム ロキシー・ミュージック でデビュー。これがいきなりの全英トップ10ヒットとなり、またシングル“ヴァージニア・プレイン”も4位となるヒット。「フィフティーズと未来の融合」などと言われた特異なヴィジュアル・センスとサウンドによって、ロキシー・ミュージックの名は瞬く間に広まっていった。また当時一世を風靡していたグラム・ロック・ムーヴメントとも共通する魅力を備えた彼らは、アリス・クーパーデヴィッド・ボウイの前座を務めるなどして、人気を一気に高めていく。それを裏付けるのが同年10月から始まった単独ツアー。デビュー数ヶ月で彼らは全英単独ツアーを行うまでの人気となっていたのだ。しかし一方で彼らの音楽は、アメリカでは全く支持されなかった。12月のジェスロ・タルとの全米ツアーは失敗に終わったのだ。また同ツアー後、リック・ケントンが脱退。以後、グループはベーシスト不在のまま活動を進めていくことになる。

1973年3月にセカンド・アルバム フォー・ユア・プレジャー を発表。これは全英5位を獲得するヒットとなった。しかしバンドにとって大きな転機がここで訪れる。同年6月にフェリーとともにバンドの看板を担っていたブライアン・イーノが突如脱退。フェリーの当時の発言からすると、結果的にはフェリーイーノを追い出した格好ともいえそうだった。ともあれ、この頃にレコーディングが進められていたフェリーのソロ作に参加していたエディ・ジョブソンを加えたバンドは、サード・アルバム ストランデッド を同1973年10月に発表。これが全英ナンバーワンとなり、ロキシー・ミュージックイーノ脱退後も人気を定着させていくことになった。以降、1974年11月にサード・アルバム カントリー・ライフ (全英3位)、1975年10月には通算4作目となる サイレン (全英4位)を発表。特にサイレン からのシングル“恋はドラッグ”は全米でもトップ30に入るセールスを記録し、ようやくアメリカでの人気も得るようになっていった。またこの頃の出来事としてはバンドとしてライヴ作 ヴィヴァ!〜 を1976年に発表する一方で、フェリーマッケイマンザネラなどメンバー個々がソロ・アルバムを発表するなど個人活動が激しくなっていった、ことが挙げられる。結果的にロキシー・ミュージックは1976年6月に「活動休止」。ここではあくまで「休止」という発表ではあったが、その後フェリーがワールド・ツアーに出て、マンザネラが801というプロジェクトで活動するといったソロ活動の活発化から、解散説まで流れるようになっていったのだった。

しかしロキシー・ミュージックはフェリーの呼びかけにより、1978年夏に再集合。ただエディ・ジョブソンのみ復帰せず、バンドはフェリーマッケイマンザネラ、ポール・トンプソンの四人に、ポール・キャラックを加える形で活動を再開。翌1979年に復活作 マニフェスト (全英7位)でシーンにカムバックを果たした。尚この作品からはシングル“ダンス・アウェイ”が初の全英ナンバーワン・ヒットに輝いている。

以前にも増して人気を高めていったロキシー・ミュージックだったが、しかし同時期にドラム担当のトンプソンが交通事故で指の骨折をしてしまい、ドラマーとしては再起不能となるアクシデントに襲われるなどの不幸にも見舞われた。結局そのことが原因でトンプソンが脱退。フェリーら三人となったバンドはこの時点からよりユニット色の強いグループとして活動していくようになる。1980年5月にアルバム フレッシュ&ブラッド (全英1位)を発表。多数のセッション・ミュージシャンを招き入れて制作した作品だった。そしてこのよりプロフェッショナルな感触を持ったサウンドは全米でも受け入れられたのだった。1981年2月、前年12月にNYで射殺されたジョン・レノンを追悼するシングル“ジェラス・ガイ”を発表。そして翌1982年5月には傑作とのちに評されることになった アヴァロン(全英1位)を発表。また“モア・ザン・ディス”、“アヴァロン”というシングルがヒットする中、同年8月からワールド・ツアーを開始(翌1983年2月に来日公演も実現)。しかしこのツアーが終了すると同時にグループは活動を停止。各方面で解散が噂される中、フェリーは、自身のソロ・アルバム ボーイズ&ガールズ のレコーディング中にロキシー・ミュージック解散を正式に声明した。1984年半ばのことだった。

追記:その後2001年にロキシー・ミュージックは再結成ツアーを廻り、来日公演も行った。

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