Peter Green

Peter Green (ピーターグリーン) プロフィール

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60年代英国ブルース・シーンから生まれ人気バンドとなった初期フリートウッド・マックピーター・グリーンは、そのフリートウッド・マックに在籍したブリティッシュ・ブルース界最高峰のギタリストだ。「アングロB・B」、「マイナー弾きの名人」とも形容された彼特有の硬質なピッキングの感触。彼のギター・プレイは英国ブルース・ロックを愛するファンにとって決して忘れられないものとなっている。

ピーター・グリーンは1949年10月29日、ロンドンに生まれ、エルモア・ジェイムスB・B・キングといったブルースマンの影響を受け、ギターを弾き始めている。ピーターがプロのミュージシャンになるのは1965年のことで、ザ・マスクラッツを経て、後にキャメルのリーダーとなるピーター・バーデンズが率いるピーター・B‘s・ルーナーズに参加。ここではベースを担当していた。またこの時点でピーター・グリーンは、後にフリートウッド・マックでともに活動することになるミック・フリートウッドと出会っている。ピーターはまもなくミックとともにスティームパケットに参加。この時点からピーターはギタリストとなる。ロッド・スチュワートも在籍した同バンドは何度かのメンバー交替を行った後、ショットガン・エクスプレスと改名するが、ピーターは1966年9月に脱退している。

ショットガン・エクスプレス脱退後、ピーター・グリーンがシーンの表舞台に立つ出来事が起きる。言わずと知れたジョン・メイオールのブルース・ブレイカーズへの参加である。ブリティッシュ・ブルースの立役者、ジョン・メイオールが率いるブルース・ブレイカーズには当時、花形ギタリストとしてエリック・クラプトンが在籍していたが、クラプトンが脱退したため、ピーターがその後釜として加入することになったのだった。

ピーターブルース・ブレイカーズのアルバム A Hard Roadに参加。しかし僅か一年足らずでこのグループを脱退している。このブルース・ブレイカーズで再会したミック・フリートウッドとともに新バンドを結成するためだった。果たして1967年、ピーター・グリーン(g,vo)、ミック・フリートウッド(ds)はフリートウッド・マックを結成した。他のメンバーは、元レヴィ・セット・ブルース・バンドのジェレミー・スペンサー(g,vo)と元音楽教師という経歴を持つボブ・ブランニング(b)だった。

彼らは結成と同年の1967年8月に、クリームチキン・シャックらとともにナシュナル・ジャズ&ブルース・フェスティヴァルに参加。彼らのプレイは好評を得るが、翌9月には早くもボブが脱退し、ブルース・ブレイカーズ時代の同僚、ジョン・マクヴィー(b)が加入するというメンバーチェンジが行われている。フリートウッド・マックは11月にシングル“アイ・ビリーヴ・マイ・タイム・エイント・ロング”でデビュー。また翌1968年2月にはファーストの Peter Green’s Fleetwood Mac でアルバム・デビューを果たした。同作は全英4位を獲得し、また同時期にシングルの“ブラック・マジック・ウーマン”(後のサンタナのカヴァーが有名)もヒットさせている。

チキン・シャックサヴォイ・ブラウンと並ぶ英ホワイト・ブルース・シーンの注目株として注目を集めるようになった彼らは、1968年にはセカンド・アルバム ミスター・ワンダフル(Mr. Wonderful) を発表。また同時期に元ボイラーハウスのダニー・カーワンが三人目のギタリストとして加入している。そして、この後フリートウッド・マックは全英1位を獲得したシングル“アルバトロス”で大出世を果たし、米国編集盤 英吉利の薔薇(English Rose) 聖なる鳥(The Pious Bird Of Good Fortune) の二枚を1969年中にリリース。またこの前後にアメリカ・ツアーを廻った彼らは、マディ・ウォーターズバディ・ガイなど本場シカゴのブルースメンと共演を果たしたが、そのツアー中のセッションで録られた音はセッション・アルバム Blues Jam At Chess (Fleetwood Mac In Chicago) としてリリースされたりもした。

1969年にそれまで在籍していたブルー・ホライゾン・レーベルからリプリーズに移籍。と同時にそれまでの音楽スタイルをより幅広いものにしていく。移籍後1969年に発表されたアルバム ゼン・プレイ・オン(Then Play On) 。同作で彼らは新しいサウンドに挑戦。結果は吉と出てこの中からのシングル“オウ・ウェル”が全英ナンバーワンになり、彼らは人気を持続したが、根っからのブルース好きであるピーター・グリーンはグループの方向性と反りがあわず結局1970年5月に脱退してしまうという重大な出来事も起こってしまった。

ピーター・グリーンの脱退はフリートウッド・マックの音楽性を根底的に変える要因となったのはよく知られたところで、彼らは後にアメリカのミュージシャンを加えるなどして、徐々にコンテンポラリーなポップ・サウンドを奏でる大メジャー・グループとなっていくのだった。

話をピーター・グリーンに戻すと、彼はフリートウッド・マック脱退直後に初のソロ・アルバム The End Of The Games を発表。しかしこの当時の彼は、バンド在籍当時から続けていたドラッグに深刻に蝕まれており、精神不安定の状態に陥っていた。事実、ピーターはその後の長期間を沈黙。前述のソロ作と1971年前半にジェレミー・スペンサーが突如脱退したためツアーを中断せざるを得なかったフリートウッド・マックに助っ人として駆り出された以外、ピーター・グリーンの70年代はほとんど世捨て人のような生活だったと言われている。一説によると、彼は華々しいショウビズの世界とは無縁の仕事に就き、虚ろな表情でロンドンの街を彷徨っているところを目撃されていたそうだ。そしてそんなピーターは、とうとう1977年には精神病院に入院せざるを得なくなったのだった。

入院から一年後に無事退院したピーターは、弟のバックアップなどもあり、再び現役復帰を果たす。1978年に In The Skies を発表。また以降は地味ではあるものの着実なソロ活動を続けた。1980年 Little Dreamer、1981年 Whatcha Gonna Do? 、1981年 Blue Guitar、1982年 White Sky 、1983年 Kolors、といったアルバムを発表。その後やはり健康を損なったこともあって、90年代前半にかけて作品の発表は滞るものの、1997年頃から再びアルバムを発表し始めるなど、現在はマイ・ペースを貫きながら音楽に取り組んでいるようだ。

ピーター・グリーンの凄まじいほどの音色の輝き。これはヴォリューム、トーンをフルにセットし、右手の指先のタッチだけを頼りに音量、トーンを絶妙にコントロールしていくという、ある意味無鉄砲ともいえる感性重視の方法論から生まれる離れ業だ。また彼のプレイが単にブルースのコピーだけに終わらない部分としては、少年時代に影響を受けたというシャドウズなどブリティッシュ・インストゥルメンタルの流れを汲んでいる部分が挙げられるかもしれない。

近年は好きなロバート・ジョンソンに捧げるアルバムを発表したり、と一時期の悲惨な過去から脱して充実した時期を送っているように見えるピーター・グリーンフリートウッド・マック時代にあった狂気すら滲むプレイは、今の彼からはどう考えても出てこないし、またそれを望むなどということはあり得ない話だ。60年代ブリティッシュ・ブルース・シーンという中で光り輝くギター・プレイを聴かせてくれたピーター・グリーンにリスペクトを表しつつ、今後はいぶし銀のような光を感じさせてくれるプレイを期待することにしよう。

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