Paul Weller
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Paul Weller (ポール・ウェラー) プロフィール

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Paul Weller

吹き荒れるロンドン・パンク・ムーヴメントの嵐の中、やや異質なスタンスで登場したパンク・バンド、ザ・ジャム のヴォーカリストがポール・ウェラーだった。60年代の英ビート・バンドのスタイルも感じさせるジャムで、その頃からザ・フーや、モッズが好んだR&B〜ソウル・ミュージックへの愛情を露にしていた、その早熟な十代の青年は、後に後期ジャムスタイル・カウンシルというユニット、ソロ活動でその自らの嗜好を追及していくことになり、現在ではダウン・トゥ・アースなロックの要素なども交えながら、正にポール・ウェラー・ミュージックとしか呼びようのないサウンドを作っている。90年代に入ってからの彼のソロ・キャリアでの音楽に対してよくレトロ・ロック、という形容がされることがあるが、実際にサウンドを聴いてみると、ある時代の音を再現するかのような佇まいとは異なり、またその曲の中にさまざまな要素が溶かし込まれていることがすぐにわかる。またそこにポール・ウェラーのあの何とも特徴的な低く野太いエモーショナルな声が重なるとき、それはさらに独自のサウンドとなるのだ。そして彼の熱心なリスナーはそこに、紆余曲折を経ながら自分なりのペースで年を重ねてきたウェラーの、不器用なまでに「白人ならではのソウル」というものに拘ってきた彼のキャリアを垣間見る。パンク以降のミュージシャンで、そんなほろ苦くロマンティックな気分を与えてくれるミュージシャンというのは、ポール・ウェラーを除いてそれほどいるわけではない。

ポール・ウェラーは1958年5月25日、イギリスのサリー州ウォーキングに生まれた。後にポール・ウェラーのマネージャーとなる父親・ジョンは肉体労働者で、また母親も勤めに出るなど、典型的な労働者階級の家庭だった。とはいえ、その頃すでにビートルズやモータウン、スタックス・レーベルのアーティストなど、後のポール・ウェラーの音楽に影響を与える重要な音楽をウェラーは幼少の頃から親しんでいたという。ウェラーがギターを手にしたのは10代の前半のことで、ビートルズに影響を受け比較的早い時期から作曲にもチャレンジしていた。その後、ウェラーを有名にしたザ・ジャムが始まるのだが、これは学生バンドの延長のような形で始まったものだとう言われている。ウォーキングにあるシアーウォーター・カントリー・セカンダリー・スクールに通う学生達、ポール・ウェラーのほか、ブルース・フォクストン、リック・バックラー、スティーヴ・ブルックスらからなる4人で、ジャムは結成された。地元のパーティなどを活動の場としていた彼らは、チャック・ベリーなど初期ロックンロールを主にレパートリーにしていたが、1975年にウェラーが初めてザ・フーの“マイ・ジェネレーション”を聴き、多大なショックを受けたことから、バンドとして進むべき道が定まった。スティーヴが脱退し、ポールとブルースが楽器を持ち替え、スリー・ピースのバンドとなったザ・ジャムはロンドンで本格的にライヴ活動を開始する。

折りしもロンドン近辺はパンク・ロックの嵐が吹き荒れていた。ザ・ジャムはアグレッシヴなパンクの要素に加えて、彼ら自身が影響を受けていたザ・フーやモータウンの要素、モッズ的イメージなどを融合し、ひと味違うパンク・バンドとしての風評を得ていった。1977年4月、シングル”イン・ザ・シティ”でデビュー。1stアルバムイン・ザ・シティ、2ndモダン・ワールド、3rdオール・モッド・コンズ、4thセッティング・サンズ、5thサウンド・アフェクツ、ラストのギフトといったオリジナル・アルバムを80年代の最初期にかけて発表していった。しかしパンクに留まらない音楽性を追求していくようになったザ・ジャムは結局、人気絶頂の中、1982年に突然解散してしまう。

ウェラーはより自らの音楽を掘り下げるべく、スタイル・カウンシルを、マートン・パーカスデキシーズ・ミッドナイト・ランナーズ〜ビューローに居たオルガン奏者、ミック・タルボットと結成する。幾つかのヒットを放ったスタイル・カウンシルだったが、活動に行き詰まった面も見え、1990年に解散。その解散直後からウェラーは自身のバンド、ムーヴメントを率いるという活動を手始めにソロ活動に向かった。90年代に入ってウェラーの名が若い音楽ファンに広まったのは、彼をリスペクトすると公言したオアシスオーシャン・カラー・シーンなどによるところも大きいが、そうした事とは関係なく、ソロ以降のウェラーはマイ・ペースで自らの音楽を磨き続けてきたし、今後もその個性を熟成させていくのだろうと思う。

ポール・ウェラーが自分の音楽の糧としてきたものは多岐に渡るが、その一貫した趣向とそれを見つめる眼差し、自分が惹かれるものを徹底的に極めようとする部分には感嘆するほかない。まず基本となったのはザ・フースモール・フェイセズを通して知ったと言われるダンサブルなノーザン・ソウル、そうした60年代のソウルを延長していく先に見えてくる70年代のニュー・ソウル系の音とその政治的姿勢、世界観といったもの。更にはスタイル・カウンシルでのジャジーなソウル・フレイヴァーやボサノヴァ、シャンソン風の味付け、曲によってはそこにフィラデルフィア・ソウル直系の流麗なストリングス・アレンジまでが加わり、また同時に80年代のクラブ・サウンド、ブラコン的要素までもがそこに加わる。そうした音楽スタイルの雑多なミクスチャーから生み出されたスタイル・カウンシルの音は画期的なものではあったが、ある意味でそれは無邪気過ぎるとも言えるアプローチだった。人気がどん底となっていたポール・ウェラーはソロ・キャリアを始めるに当たって、そうした音楽スタイルに対する無邪気さをかなりな部分で意識的に捨てたに違いない。ソロ以降の音から一貫して聞こえてくるのは、彼自身が黒人音楽コンプレックスを捨て、自分なりの白人ソウルを探求していく意気である。その探求の過程でトラフィックスティーヴ・ウィンウッドの初期ソロ作品などでの行き方を英国独自のソウルとして参考にしたりもしながら、また肌の色に関係なく自分が「ソウル」を感じるもの、あるいはそうした「ソウル」を感じる瞬間の心の動きなどを大事にしながら、自分の信じる音楽を作っていったのだった。

先にも触れたが90年代半ばから後期にかけて、オアシスオーシャン・カラー・シーンなど英国の後輩バンド達からのリスペクトを経て、充実した作品をモノにしたポール・ウェラーは、1999年にソロ・キャリアを総括するベスト盤を発表した。今となっては思い過ごしだったのだが、一時期から比べればある種安定的なポジションを手に入れたウェラーは少し休むのではないか、あるいは音楽的に冒険をしなくなっていくのではないか、とその頃には不覚にも思ってしまった。それが覆されたのは今年2000年になって発表された新作ヒーリオセントリックの素晴らしさを聴いたときだった。ソロ・キャリアにおいて過去最高作というリスナーもかなりいるほどに、その作品でのポール・ウェラーはまだまだ何かやってくれる、というようなオーラを発していた。今後もポール・ウェラーの音楽とその歌声を見守っていきたい、そんな気にさせてくれる作品だった。2001年には移籍後初となるライヴ・アルバム、デイズ・オブ・スピードを発表。全編アコースティックのアルバムで新たなスタートを飾った。明くる2002年には顔面どアップのジャケも眩しいイルミネイションを発表。ヴェテランらしい味も覗かせつつ、若手にも負けないフレッシュさに溢れた佳作で、2002年の年間ベスト・アルバムのひとつにも挙げられた。

2003年、01年に移籍したばかりのIndipedient Recordsから突然V2 Recordsへ移籍したニュースはまだ記憶に新しいことだろう。 そしてし2004年に入ってからすぐに囁かれ始めた新作リリースの噂。この噂は本当のものとなり、9月に自身初のカヴァー・アルバム『Studio 150』を発表することとなった。また8月には「Rock Odyssey」なるかなり珍しいタイプのフェスティヴァルに参加のため久々の来日も決定している。

本稿でのポール・ウェラーについてはその音楽そのものやアティチュードといったものに話が偏ってしまったが、最後に彼が誰にも真似できないソウルフルな歌手でもあることを付け加えたい。80年代当時のスタイル・カウンシルはそれこそオシャレな感覚や、いわば軟派な気分で聴かれていたところもあったのだが、ポール・ウェラーのヴォーカルに集中しながら今聴き直すとそんな印象はとたんに吹き飛んでしまう。ファルセットなど洗練された技を使いながらも、基本的にはいかにも英国の労働者階級然とした無骨な声は、左翼的メッセージやインディペンデント・レーベルの運営など実際の行動と結びつき、スタイル・カウンシルの音をコマーシャリズムとは一線を画すものにしていた。そしてその声とギターはジャムスタカン〜ソロと一貫して同種のトーンを貫いている。ポール・ウェラーの声とギターは、独特の貫かれた美学を持つ彼自身の変わらない姿勢と重なるようにも思えてくるのだ。

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