ニューヨーク・フィル/イン平壌
2008年2月26日に平壌市内にある東平壌大劇場で行われたニューヨーク・フィル&ロリン・マゼールによる平壌公演を収録した映像がリリースされます。
音楽はときとして政治の世界で大きな関わりを持つことがありますが、今回のこのニューヨーク・フィル平壌公演は久々に話題となりました。このコンサートのスポンサーは日本人女性。ヴェネツィア在住の大富豪チェスキーナ・永江洋子氏だったということも大きな注目を集めました。残念ながら金正日総書記は姿を見せませんでしたが、この公演が歴史的にも大きな意味を持つ公演だったことは言うまでもないでしょう。また、ニューヨーク・フィル・メンバーの平壌滞在中の映像がふんだんに収録されたボーナス・トラックも付いています(日本語字幕付き)。(輸入元情報)
【収録情報】
・北朝鮮国歌『愛国歌』
・アメリカ国歌
・ワーグナー:『ローエングリン』第3幕前奏曲
・ドヴォルザーク:交響曲9番『新世界より』
・ガーシュウィン:パリのアメリカ人
・ビゼー:『アルルの女』組曲第2番
・バーンスタイン:『キャンディード』序曲
・朝鮮民謡:アリラン(アンコール)
ニューヨーク・フィルハーモニック
ロリン・マゼール(指揮)
収録時期:2008年2月26日
収録場所:東平壌大劇場(平壌)
ボーナス・トラック
・ピョンヤンのアメリカ人(字幕:英、独、仏、西、日本語)
収録時間:本編107分、ボーナス53分
画面:カラー、16:9
連載
鈴木淳史のクラシック妄聴記 第6回
「ピョンヤンのアメリカ人」
マゼール指揮ニューヨーク・フィルによる演奏映像――ファンには申し訳ないが、個人的には少しもそそらない組み合わせだ。もちろん、マゼールは抜群のコントロール力で、テクニック的に申し分ないこの優秀なオーケストラをグイグイと強引なまでに引っ張り抜き、圧倒的なサウンドによる、めくるめく音楽がそこに約束されている、と知った上でのことで。間違いなくナマで聴けばそれなりに楽しめるはずだが、それを録音媒体で鑑賞するほどには、わたしの興味は引かない。
彼らの音楽はすでに完成しており、そこには何の迷いも葛藤もない。ある意味、あまりにも優秀すぎる彼らの音楽。そのような充実ぶりが、わたしにはひたすら退屈にさえ思えてしまうのである。
ただ、この映像に収録されたコンサートは、ちょいと事情が違う。2008年2月26日、東平壌大劇場におけるライヴ映像。つまり、報道で話題になった、あのニューヨーク・フィルによる北朝鮮でのコンサートなのだ。
付属のドキュメンタリーに、「北朝鮮にこんなにアメリカ人が上陸するのは朝鮮戦争以来だ」という奏者の一人のコメントが出てくる。朝鮮戦争で交戦し、その後は国交もないまま、現在は核やテロ指定国家問題で「アフガニスタン、イラクの次は北朝鮮か?」とピリピリしているアメリカと北朝鮮。
北朝鮮の政治的意図にオーケストラが利用された、という見方が支配的だけど、オーケストラの団員たちは、こう信じて北朝鮮へ向かったのだ。「我々の音楽の力によって閉ざされた心を開かせることができるのではないか」と。そこには、アメリカンなグローバリズムが見え隠れする。多くのアメリカ人兵士もきっと同じような使命感を持って、イラクへと旅立ったに違いない。
ニューヨーク・フィルは、言うまでもなく、アメリカだけではなく世界を代表するエリート楽団だ。本拠地のニューヨークで相当数のコンサートをこなし、全米から世界各地に演奏旅行を行う。そんな彼らが「閉ざされた心を開かせるために」、ほとんど敵国といっていい北朝鮮で演奏を行うのだ。気合いが入らないわけがない。多くの楽団員にとっては、地球の平和のために、宇宙人の前で演奏する、といったものに近い状況だったかもしれない。
オーケストラという集団は、このような非日常的な環境におかれると、楽団員それぞれの気持ちが一つになり、いつもより集中力の高い演奏をしてくれるものだ。伝説の巨匠指揮者が客演したとき、あるいは、戦時下のベルリン・フィルの演奏を思い出してもいい。とくに、彼らのようなエリートの場合は顕著だ。エリートは、いつでもどこでも全力投球、なんてアマチュアみたいな無駄なことは決してしないものなのだ。
オープニングは、われわれが抱く北朝鮮のイメージを裏切らない司会の女性が出てきて挨拶。舞台には左右にアメリカと北朝鮮の国旗。マゼールや楽団員、そして客席の人々の表情もコチコチに硬い。ここまで緊迫した雰囲気の演奏会というのは珍しいものだ。妙なことに、見ているこちらまで緊張してしまう。
初めに、両国国歌が荘厳に演奏される。アメリカ国歌が流れているなか、客席の表情を執拗に映し出すのは、なかなか邪悪である。とまどいの表情を浮かべている人さえいるのだから。ちなみに、この映像は、演奏中にやたらに客席の様子(北朝鮮のエリート層ばかり)を映し出す。西側でこれをやったら、肖像権の問題で発売しにくかったはず。
一曲目の《ローエングリン》第三幕への前奏曲は、その雰囲気に飲まれたまま、音楽の表情も硬い。次のドヴォルザークの交響曲第9番《新世界より》になると、オーケストラの表現も柔軟になる。主題の味付け具合、マゼールの「やってこましたれ」なアゴーギグもバシバシ決まる。ただ、第2楽章ラルゴは、マゼールの弱点が出てしまっている。それぞれの動機に表情を付けすぎで、末端肥大に陥って流れが悪いのだ。全体的にカクカクした印象で、まあ、これも現在の米朝関係を表現しているかと思えばいいのか……。
コンサートの後半はガーシュインの《パリのアメリカ人》。演奏に先立ってのマゼールのアナウンス、「将来、どこかの作曲家が《平壌のアメリカ人》という作品を作曲するかもしれません」で、会場は妙に朗らかムードになる。そして、その演奏は、さすがといっていいほどに見事なものだった。オーケストラの「ほれほれ、これがアメリカなんざますよ」というメッセージが伝わってくるような、ユルやかな美。さきほどまでガチガチに緊迫していた会場が、この作品の演奏によって解きほぐされていく様子がよくわかるのだ。
続けて演奏された《アルルの女》からのファランドールにしても、いつもなら「マゼールらしい仰々しい、大袈裟な」などと言いたくなる演奏なのだけど、こういう機会だと、それが嫌味っぽく聴こえないのだ。それは、オーケストラがいつもよりも気合いが入っているからにほかならない。一見してバカなことでも、真剣にやれば、それは心を打つものなのである。
プログラム最後は、バーンスタインの《キャンディード》を指揮者無しで演奏。強力な指導者がいなくても、ここまでやれちゃうのだ、という政治的メッセージ?
アンコールは、オーケストラ編曲《アリラン》だ。待ってました、ご当地もの。これが、いかにもソフィスティケートされた編曲なのだけれど、とにかくひたすら美しい。オーケストラの力というものを改めて知らされた演奏なのであった。もちろん、客席も涙を浮かべる人あり、放心して聴入る人あり。
コンサートが終わり、団員たちが舞台を引き上げていくところも映像は捉えているが、このシーンはまさに感動的ですらある。この演奏会の名目として掲げられていた「音楽の力で」という言葉が成就したように、わたしには見えたからだ。それは、一瞬だったかもしれないが、一瞬で何かを伝えるのは音楽の役目だ。
おまけのドキュメンタリー映像「ピョンヤンのアメリカ人」も滅法面白い。空港に降り立ち、ホテルまで移動する際の、楽団員たちのピョンヤンの風景や街角への違和感。マスタークラスを行って現地の若者に指導するが、その若者の不思議な反応とインタビュー。マゼールが北朝鮮のトップ・オケ、朝鮮国立交響楽団を振ってチャイコフスキーの《ロメオとジュリエット》を演奏するシーン(凝縮度が高い代わりに、開放感がまるでない演奏だ。北朝鮮オケ・フリークなわたしとしては、ここは一曲まるごと収録して欲しかった)。異文化に放り込まれた指揮者やオーケストラが何を考え、そして何を得たのかがよくわかる映像に仕上がっている。
(すずき あつふみ 売文業)